『怪異の政治社会学』

「怪異」の政治社会学 室町人の思考をさぐる (講談社選書メチエ)


一条真也です。
いやはや、ブログ「貴乃花親方の引退」で紹介した内容は、わたしにとって摩訶不思議な出来事、まったくもって怪異そのものであります。
『「怪異」の政治社会学』高谷知佳著(講談社選書メチエ)を読みました。「室町人の思考をさぐる」というサブタイトルがついています。著者は1980年、奈良県生まれ。京都大学法学部卒業。現在、京都大学大学院法学研究科准教授。専攻は法制史。著書に『中世の法秩序と都市社会』(塙書房)、『法の流通』(編著、慈学社)があります。

 

アマゾンの「内容紹介」には、以下のように書かれています。「神像の破裂、山野の鳴動、奇怪な発光・・・。室町時代、京や奈良は不思議な現象に満ち満ちていた。戦乱下の都市に生きる人びとは、怨霊や天狗などをどう見なし、跳梁跋扈する異形がどこからあらわれると考えていたのか。都市民のまなざしと権力が交錯する場に注目し、妖しきものをとおして中世固有の心性をあぶりだす」



本書の「目次」は、以下のようになっています。
「はじめに――怪異とは権力の問題である」
第一章 飛び交う怪異
1. 発信し収拾される怪異
2. 破裂する木像をめぐって
3. 風聞としての怪異
第二章 求心性と都市性
1. 怪異がもっともあふれた時代
2. 要としての室町殿
3. まなざしとささやきの交錯
第三章 応仁・文明の乱の果てに
1. いまだ戦乱ありうべし
2. 権力の真空への不安
3. 天狗の管領
第四章 都市社会の矛盾
1. 貴賤群衆
2. 勧進のプラスとマイナス
3. 怪異と経済の乖離
第五章 システムの破綻
1. 注進六度におよびながら
2. もはや神も仏もなし
3. 最後の花火のように
第六章 中世から近世へ
1. 魔法か、奇行か
2. 変化の五十年
3. 天下泰平により

「むすびに――怪異のゆくえ」
「註」
「あとがき」
「寺社索引」
「文献索引」
「人名索引」

 

はじめに「怪異とは権力の問題である」の冒頭を、著者は「説明しきれないものにたいする恐れ」として、以下のように書きだしています。「いつの時代、どの地域においても、人びとに恐れや畏れを抱かせるできごとは存在する。それをあらわす語彙のひとつが『怪異』である。しかし、具体的にどのようなできごとを人びとが恐れるかは、刻々と変化する。ある時代に恐れられてきたことは、次の時代には、学問や技術の発達によって説明できるようになり、ほとんど恐れる必要がなくなる」

 

たとえば、古代から中世においては、ある海域で水難事故が多発すれば、人々はその原因を、河海の神の怒りであると考えました。そして、港町に神社や寺院を建立して、無事を祈ったのです。伝染病が猛威をふるえば、人々は外部から疫鬼がやってきたとか非業の死を遂げた権力者が怨霊となって祟っていると考えました。そして、疫鬼を追い出したり怨霊を鎮撫したりするためのさまざまな儀礼を行いました。著者は「そうして危機感が高まっているときに、神社や寺院で、神体や本尊が倒れたり地鳴りがしたりすれば、人びとはさらに恐れを抱いた。不安にかられた人びとの信仰のよりどころとなった神社や寺院は、みずからの由緒や霊験を、大規模な祭礼や美しい絵巻物などで表現することで、いっそう信仰を集めた」と述べています。

 

また、「知識や情報をどう活用するか」として、著者は以下のように述べています。「同じ時代を生きる人びとであっても、ある者は先端的な技術や蓄積された知識・情報を掌握することによって、あるいはなにかの権威をかさに着ることによって、あるできごとを、自分自身では恐れることなく、ほかの人びとに恐れさせるように『しかけ』ていた。それにたいし、ある者は、知識や情報に限定的にしかアクセスすることができず、しかけられたとおりに受けとって恐れるほかなかった。またある者は、みずからさまざまな情報のデータベースにアクセスすることはできたが、恐れを払拭するのではなく、『過去にも同じような事態があった』など、恐れをさらに補強するような情報を探し、危機感を増幅させていた」知識や情報をめぐるこのようなギャップは、利用しようとすれば、きわめて戦略的に利用することができました。著者は「怪異とは権力の問題である」と喝破します。人を動かす力を、広い意味で「権力」と呼ぶのならば、まぎれもなく、歴史上に起きた怪異、つまり「人びとがなにを恐れるか」という問題は、権力の問題であるというのです。

 

さらに、「生々しい戦力をもって」として、日本史上に記録されている怪異の多くは、政権中枢と密接に結びついていると指摘し、著者は以下のように具体例を挙げます。「たとえば、飢饉や伝染病の蔓延が起きると、つい最近失脚した誰彼の怨霊のしわざだという噂、政権関係者の周辺に火の玉や化鳥といった恐ろしげなものが飛んだという噂が立った。また、戦乱への緊張感が高まると、神々が評定をして政権を見捨てることにしたらしいという噂が立った。こうした噂は、すでに動揺している社会に、いっそうの不安をあおった。そして、明治維新より以前の社会において、怪異とは、単に説明しきれない恐ろしいできごとであるのみならず、さらにそれ以上の凶事が起きる前触れであると考えられてきた」

 

そして怪異は、神仏の怒りや怨霊の祟りが原因で起きるとされていました。著者は、怪異と寺社との関係について以下のように述べています。「怪異を前触れとするさらなる凶事が起きないように、寺社は、神仏や怨霊への直接的な窓口として、その怒りや祟りを鎮める儀式をおこなうのだが、政権はそれを、タテマエとしては『必ず』バックアップしなければならなかった。というのは、明治維新以前の社会においては、『神仏が国家を守る』という前提があったからである。つまり、神仏の怒りや怨霊の祟りを鎮める最終的な責任は、政権にあった」

 

寺社の来歴には、歴史上の有名人との結びつきや霊験あらたかな出来事が、華やかに織りこまれていると指摘し、著者は「聖徳太子菅原道真空海などの著名人が建立にかかわったとされる寺社が各地にあるが、その建立譚をくわしく検討すると、どう考えてもその人物はその地域に行ってはいないとか、建立された時代にそもそも生きていなかったとか、あるいは当の人物の死後のお告げと称した物語であるなどと、縦横無尽にふくらまされていることが多い」と述べます。

 

そして、怪異もまた、寺社にとって非常に重要な戦略の道具でした。著者は、以下のように述べています。「寺社の修繕や祭礼ができないとき、または寺社が当事者となる裁判で勝てそうもないとき、寺社は『このような不当な扱いを受けることにたいして神仏が怒っており、社会にさらなる凶事をもたらす前触れとして、このような怪異を起こしているのだ』という主張をおこなって、政権から、修繕や祭礼のための費用や、勝訴判決を引き出そうとしたのである。いわば寺社は、みずからの存在をアピールするために、怪異の原因として、そしてそれを解決する役として、積極的に立候補したのである」

 

怪異とは何か。著者は以下のように述べています。「怪異とは、前近代の知識の水準ではままならぬことや理解できないことを、人びとがやみくもに恐れたというだけのものではなかった。それは、さまざまな生々しい政治的・経済的な目的をもって利用され、政権や社会を動かすものだったのである」「怪異は、その社会の人びとが、非合理的なものをそのまま呑みこんだ無策のあらわれではなく、生き抜くためのツールとしての、知識と情報と思考の撚りあわせである。そしてそれは、彼らの生きる社会の変化に応じて、刻々と変化する」

 

第一章「飛び交う怪異」の1「発信し収拾される怪異」では、「神仏や怨霊から」として、著者は以下のように述べています。「日本の古代・中世において『怪異』とは、基本的に、神仏や怨霊が示す『これからさらなる凶事をもたらす前兆』を意味していた。怪異を発信したのは、主として寺社である。具体的な『怪異』として挙げられる事態とは、神仏から託宣が下されたり、寺社の奥まった神体が落下したり鳴動したり、そこまで動物が侵入したり変死したり、または寺社の所在地の一帯そのものが鳴動したり、風もないのに鳥居や建物が倒壊したり、というものであった。それにたいして、朝廷では卜占をおこない、怪異がなにを意味するかを特定し、もし凶事の前兆であれば、祈禱や奉幣(天皇が神社や山陵に捧げものをすること)をはじめとして、その神仏にたいしてなんらかのレスポンスをおこなった」

 

本書では、「天人相関思想」というものが紹介されています。それは、7世紀に中国から日本へ律令が導入され、それとともに国家にかかわるもろもろの思想も取り入れられた中の怪異と関連する思想でした。儒教にもとづく徳治主義、すなわち皇帝の正当性を徳の高さに求める思想で、以下のようなサイクルで王朝の支配を描きました。(1)「天」が徳の高い人物に天命を下し、その人物が皇帝として政治をおこなう。(2)皇帝に不徳のふるまいがあれば、天は、天変地異や怪異をあらわして凶兆を示し、政治を改めるよう警告する。(3)それでも政治が改まらなければ、よりふさわしい者に天命が下る。これが易姓革命である。

 

著者によれば、天人相関思想において、怪異は、政権担当者の不徳をあらわすものとされていたといいます。すると、政権が怪異を認めるということは、自身の支配を弱体化させるようにも見えますが、そうではないとして、著者は以下のように述べます。「むしろ、政権は社会にたいして、怪異=凶兆をキャッチし対応したことで、『これから起きる凶事』『これ以上の凶事』を防いでいるのだと示すことができるのである。前近代の社会はつねに、疫病、飢饉、戦乱などの災害と背中あわせであったが、技術水準からして、誰も災害そのものにたいして根本的な防止策は打ちようがない。しかし、災害から生まれる社会不安に対処することはできる。災害のただなかにあっても、政権が『これ以上の凶事を防いだ』と示すことは大きな対処であった」

 

2「破裂する木像をめぐって」では、「王土王民思想と二神約諾神話」として、「日本全国が天皇ひとりのものであり、天皇のみの命令が貫徹する」という王土王民思想が紹介されます。日本全土およびそこに生きる民を天皇が支配するという思想ですが、この「王土」の範囲がどこまでであるかについては、9世紀末あたりに、対外関係対外関係をとおして日本の境界領域についての意識が生まれたことが指摘されていることを紹介し、著者は「この時期に、天皇や京を中心として、疫病などの原因となるケガレを外側へ外側へと排除しようとする志向性が強まってゆくこととあわせて、この境界意識が生まれた9世紀末からを中世とみなすのがよいとする説もある」と述べています。

 

院や天皇の権力を荘厳する儀礼もこの時期に多く作り出されたそうです。とくに天皇は、神祇と仏教の双方の頂点に立つとされ、さまざまな宗教的儀礼で荘厳されたとして、著者は以下のように述べます。「その一環として、院や天皇らの主導で巨大寺院が次々に建立された。白河法皇鳥羽法皇の主導のもとに建立された、法勝寺や最勝寺など『勝』の字を名前に戴くゆえにまとめて『六勝寺』と呼ばれた6つの寺院は、とくに有名である。このような、権力が建築ブームを巻き起こした時期というものは、ミニマムな国家であった日本中世においては特殊な時期であり、『大規模造営の時代』と呼ぶ研究もある。ただし、これらの建築のほとんどは、ほどなく火事で焼失してしまい、のちの時代には名前が残るだけであった」

 

続けて、院が民間の祭礼であった御霊会をバックアップしたのもこの時期であるとして、著者は以下のように述べます。「御霊会はまさに都市民の祭礼であり、田楽などの華やかな、ときには騒擾につながるような娯楽をともなっており、最高権力者がこうした場に好んで姿をあらわすことにたいしては批判もあったほどである。そのほかにも、院みずから京都をはなれて熊野詣をおこなうなど、それまでにはなかったさまざまな神仏への信仰を拡大したことや、そうした神仏をめぐる物語や祭礼を、華美な絵巻物に仕立てさせたことなども挙げられる」

 

3「風聞としての怪異」では、「怪異はひとり歩きはじめる」として、著者は以下のように述べています。「中世という時代、分権的・分業的なミニマムな国家のもとで、国家の歴史書は編纂されず、朝廷、幕府、寺社につらなる人びとは、自分の担うべき専門業務の先例や手引書を作ったり、自分の属する家や寺社をめぐる『大きな物語』を描いたりして、その国家のなかにおける自分の位置取りを模索していた。そのなかで、怪異、すなわち将来凶事が起きるという神仏からの警告は、寺社にとってきわめて有効な武器になった。『神仏が国家を守る』という前提のもと、有力寺社は、みずからの仰ぐ神仏が怪異=凶兆を起こしたと発信することによって、政権からの注目を惹き、奉幣などの一定のレスポンスを得ることができる」

 

それゆえ、怪異は、寺社がなんらかの紛争を抱えているときに、それを打開するための武器として政権に注進されました。また、由緒や霊験などとともに、寺社にとっての「大きな物語」の枠組みのなかで編纂され、社会にたいして誇示されたりしました。著者は、「こうして寺社から発信された怪異を、まず政権が受信する。そして政権は怪異に一定のレスポンスをおこなうことによって、社会にたいして、『これ以上の凶事』を未然に防いだということを示すことができた」と述べています。

 

第二章「求心性と都市性」の1「怪異がもっともあふれた時代」では、室町時代の京都は、日本史上、群を抜いて、怪異のあふれた場であったと指摘し、著者は以下のように述べます。「疫病や災害が起きれば、過去に非業の死をとげた者が怨霊と化して祟りを起こしているのだと噂され、政変が起きれば、すでに不吉な予兆がここでもかしこでも起きていたと口々に語られた。10世紀以降、有力寺社は、『怪異が起きた』すなわち『神仏がこれから来る凶事を警告した』と政権に発信した。政権はその怪異を受信し、卜占したうえで、寺社に奉幣や祈祷など一定のレスポンスをおこなうことで、社会にたいして『これから来る凶事』を防いだのだと示した。これが、もともとの『収拾される怪異』の構図であった」しかし、室町期の首都・京都においては、従来どおりの「収拾される怪異」もある一方、それらをはるかに上まわる数の「風聞としての怪異」が、さまざまな日記にただ「起きた」とのみ記録されているそうです。

 

2「要としての室町殿」では、「近代国家のイメージからいちばん遠い政権」として、著者は以下のように述べています。「室町幕府というのは、現代に生きるわれわれにとって、およそ日本史上もっとも印象の薄い政権であろう。南北朝内乱や応仁・文明の乱などが起こることから、とにかく不安定な時代であるというイメージがある。かといって、動乱期と捉えようとしても、戦国時代のように目立って活躍する人物がいない。このように、印象の薄い理由は多々挙げられるが、おそらくいちばんの理由は、われわれの生きる近代国家のイメージからもっとも遠い政権だからではないだろうか」著者によれば、室町幕府の大きな特徴は、一言でいえば、京都を基盤とした点にあります。鎌倉幕府江戸幕府とは異なり、朝廷・幕府・寺社というあらゆる権力が、首都・京都に一極集中したのでした。

 

3「まなざしとささやきの交錯」では、「参拝と祭礼」の問題が取り上げられます。著者は、多様な身分の人々祭礼や参詣の場で同席することを指摘し、以下のように述べます。「祭礼や参詣の場は、都市にとっては不可欠なものであった。時代や地域を問わず、人を惹きつける非日常の華やかなエンターテインメントは、都市の大きな魅力である。また、都市にとって避けられない問題である疫病や飢饉の対策としても祭礼は重要であり、御霊会・水陸会・施餓鬼などがおこなわれた。これらは、疫病や飢饉に直面した人びとの信仰のよりどころとなるだけではない。そのための準備として衛生環境を整えたり、また祭礼にかかわる人や経済の動きが活性化したりという効果も見こまれる。権力者たちもその場に姿を見せたり、大規模な施しをおこなったりした。たとえば、室町期の祇園会には、しばしば将軍が桟敷で見物をしている。一方で、祭礼は上下の秩序を乱すもの、危険をはらむものとして見られてきた」

 

第四章「都市社会の矛盾」の1「貴賤群集」でも、祭礼の問題が取り上げられます。祭礼のなかでも、時代や地域を問わず、あらゆる都市において切実に必要とされていたのは、疫病を鎮めるための祭礼であったとし、著者は「京都においても、御霊会は、平安京の時代から、都市民主導の盛りあがりからはじまり、しだいに院や摂関なども出資して、華やかな祭礼となっていった。過剰な贅沢や喧嘩闘乱、さまざまな身分の者が同席するなどといった、非日常的な秩序の乱れが、しばしば問題とされたが、それも祭礼にはつきものである」と述べるのでした。「応仁の乱」のブームなどもあって、何かと日本の中世に注目が集まっていますが、本書は「怪異」という切り口で中世を俯瞰したきわめてユニークな本であると思いました。宗教や怪異を信じることは非合理的なことではないということが、本書を読めばわかります。日本人は「怪異」好きな民族だといわれますが、そのルーツも中世にあるのかもしれません。


「怪異」の政治社会学 室町人の思考をさぐる (講談社選書メチエ)

「怪異」の政治社会学 室町人の思考をさぐる (講談社選書メチエ)



2018年9月26日 一条真也