私、貴乃花の味方です

一条真也です。
国技を揺るがせた暴行事件の解明もいよいよ大詰めを迎えました。28日に日本相撲協会の臨時理事会が開催されますが、貴乃花親方に業務停止か理事からの降格という厳罰が下される可能性があるそうです。貴乃花親方は巡業部長でありながら事件発生を協会執行部へ報告せず、聴取の要請も合計で10回拒否したということで、20日の臨時理事会前時点で貴乃花親方への処分は、懲罰規定で4番目に重い「業務停止」だったとか。


週刊文春」12月28日号(上)と「週刊新潮」12月28日号(下)



暴行事件の被害者側の親方が厳罰を受けるというのは納得いきませんが、貴乃花親方は相撲をダメにしている連中と刺し違える覚悟で戦っているのでしょうから、これぐらいの処分など屁でもないでしょう。それよりも、愛弟子の貴景勝が初の三役入り(小結)した記者会見に師匠として同席してやれなかったことのほうが悔しかったでしょう。その心中を察します。一連の大相撲問題の本質を鋭く衝いている「週刊文春」や「週刊新潮」の最新号では、貴乃花白鵬の最終決戦を巻頭で特集しています。


ブログ「貴乃花と白鵬」では、両者の横綱観の違いについて述べました。「週刊文春」12月28日号には貴乃花親方ときわめて近い関係者の談話が紹介されていますが、それによれば、「横綱とは、全力士の頂点に立ち、範となるべき孤高の存在。その横綱が3人も居合わせた酒席で、1人の後輩力士が手酷い暴行を受けた。貴乃花にとっては、巡業部長や師匠の立場のみならず、横綱を張った1人として一事が万事、許し難い出来事だったのです。警察に被害届を出したのは、事件の背景を詳らかにし、しかるべき裁きを望んだ結果に過ぎません」とあります。


相撲よ!

相撲よ!

ブログ『相撲よ!』で紹介した白鵬の著書には、「横綱が土俵入りをすることが、なぜ神事となるのか」という問いが示されています。その問いに対して、著者である白鵬は「横綱が力士としての最上位であるからだ」と即答し、さらに以下のように述べています。
「そもそも『横綱』とは、横綱だけが腰に締めることを許される綱の名称である。その綱は、神棚などに飾る『注連縄』のことである。さらにその綱には、御幣が下がっている。これはつまり、横綱は『現人神』であることを意味しているのである。横綱というのはそれだけ神聖な存在なのである」


この「現人神(あらひとがみ)」という言葉は、「この世に人間の姿で現れた神」を意味し、ふつうは「天皇」を指します。この言葉を使うからには、白鵬は「横綱」を「天皇」と同じように神であるととらえているのでしょう。いや、昭和天皇は戦後の「人間宣言」によって神であることを自ら否定したわけですから、横綱こそは唯一の「この世に人間の姿で現れた神」だと考えているのかもしれません。誰かが白鵬に間違った横綱観を伝授した可能性もありますが、白鵬は「大相撲」や「横綱」というものを根本的に誤解しているようですね。わたしは、ここに「礼をしない横綱」の秘密があると思いました。なぜなら、神であれば人間である対戦相手に礼をする必要などないからです。


貴乃花親方自身の考えを知るために



一方、貴乃花親方は横綱についてどのように考えているのか?
わたしは貴乃花親方自身の考えを知るべく、『貴乃花 不惜身命、再び』長山聡著(イースト・プレス)、および『生きざま 私と相撲、激闘四十年のすべて』貴乃花光司著(ポプラ社)を読みました。自著である『生きざま』で、貴乃花親方は横綱について以下のように述べています。
横綱は単なる『チャンピオン』ではないのだ。『品格、力量、抜群に衝き』初めて認められるもの。私が弟子によく言うのが、『体の大きな力士が道の真ん中を風を切って歩くな。他の人が歩きやすいように道路の端を、背筋を伸ばして歩け』という言葉だ。そこに相撲道の精神が表れていると思っている」


生きざま 私と相撲、激闘四十年のすべて

生きざま 私と相撲、激闘四十年のすべて

また貴乃花親方は、『生きざま』の中で次のようにも述べています。
「先人は相撲道において特に礼節を重んじたのだ。勝った負けたの世界ではあるけれど、そこでも『負けた相手がいるから、お前が強くなれたのだ』『相手が負けてくれたから、お前が勝ちという立場を味わえたのだ』と教える。そう思えば、負けた相手に対し、自然に敬意を払える力士になれる。勝ってガッツポーズをうることが御法度といわれるのは、相手に対する敬意が感じられないことへの戒めなのだ」


さらに、ここが重要ですが、貴乃花は以下のように述べています。
「ましてや土俵は神が鎮座する場所だ。場所が始まる前には『土俵祭』という神事が行われ、土俵の中に神への供物として『米、スルメ、昆布、塩、榧の実、勝栗』が埋められる。神様をお招きして、15日間の無事を祈るのだ。そして千秋楽、すべての取り組みを終えた後には、『神送りの儀式』という神様にお帰りいただく神事が行われる。花道を歩いてきた力士はまず土俵に一礼する。相撲を取り終えて帰るときも然り」


ここで、貴乃花親方ははっきりと「土俵は神が鎮座する場所だ」と述べています。貴乃花は「平成の名横綱」でした。すなわち、彼は横綱という存在を神であるとはとらえていないわけです。「横綱≠神」と考える貴乃花、「横綱=神」と考える白鵬・・・・・・この両者の横綱観にこそ、両者の考え方の違いが最も明確に表われていると言えるでしょう。自身を「神」と考えているとすれば、白鵬の一連の傍若無人な行為も理解できます。
わたしは、貴乃花親方の味方です。彼の相撲に対する真摯な姿勢、弟子に対する愛情、そして不器用な生き方を見ていると、あまりにも健気で涙が出そうになります。どんな試練に遭おうとも、貴乃花親方には最後まで信念を貫いていただきたいと心から思っています。負けるな、貴乃花! 
あなたの愛唱歌である石原裕次郎の「勇者たち」の歌詞のように、男なら、最後に勝つ者になろうじゃないか!


2017年12月27日 一条真也