貴乃花と白鵬

一条真也です。
国技である大相撲が激震しています。日馬富士の暴行事件に始まった一連の騒動は、「貴乃花親方vs.白鵬」の構図に集約されてきました。その構図は、ずばり、「ガチンコ」と「八百長」というキーワードで表現されています。
今週発売の「週刊文春」や「週刊新潮」では白鵬をはじめとしたモンゴル勢の「八百長」問題を大きく扱っています。


週刊文春」12月14日号(上)と「週刊新潮」12月14日号(下)



その流れの中で、両者の「相撲観」の違いを指摘する声も多いです。
スポーツライターの赤坂英一氏は、「白鵬と貴乃花に見る『相撲観』の違い」というネット記事で、立ち合いでの張り手やエルボー、かち上げに代表される白鵬の相撲には「卑怯で汚い勝ち方」という意見が少なくないことを紹介し、さらに以下のように述べています。
白鵬にとっては恐らく、張り差しも微妙な立ち合いも勝つために必要な手段であり、横綱の技のひとつなのだ。自分の相撲観は絶対で、自分の相撲こそが『横綱相撲』という信念がある。審判への抗議、優勝インタビューでの発言、さらに万歳三唱のパフォーマンスと、すべては『白鵬だけの相撲観』が源になっているように思う。横審や理事長からいくら注意されても、何が悪いんだ、というのが白鵬の本音に違いない」


続けて、赤坂氏は以下のようにも述べています。
「一方、貴乃花親方の腹の底には、そうした白鵬をはじめとするモンゴル人力士の『汚い取り口』が横行している現状への反発があると思う。対する白鵬も『貴乃花親方の下では巡業に参加できない』と猛反発。かつて『尊敬している』と話していた元大横綱との亀裂は深まる一方だ」
わたしは、白鵬はおそらく、大相撲をモンゴル相撲のように勝てばいい「格闘技」だと考えているように思います。そこでは礼儀や礼節などは二の次で、勝ちを重ねて「最強」であることが一番の価値なのでしょう。


一方の貴乃花親方は、大相撲を格闘技であるとは考えていません。
貴乃花親方の現役時代は、K−1の全盛期でもありました。あるテレビ番組で横綱貴乃花K−1王者のピーター・アーツが共演したことがありました。司会者は2人に対して「最強の格闘技は何か?」と禁断の質問を投げかけました。2人ともフリップにマジックペンで答えを書きました。そのとき、アーツは当然のように「K−1」と書いたのですが、なんと貴乃花親方も「K−1」と書いたのです。慌てた司会者が「ちょっと、ヨコヅナ〜!」と取り乱した場面をよく記憶しています。そのとき、貴乃花はニコニコして、「だって、キックとか強そうじゃないですか」と言い放ったのでした。それを見て、わたしは「ああ、貴乃花は大相撲を単なる格闘技とはとらえていないんだな」と思いました。貴乃花は大相撲に「強さ」を超えた価値を求めていたのです。


わたしは、白鵬ほど横綱にふさわしくない力士はいないと思います。日馬富士暴行事件の現場に居合わせたこと、九州場所で90秒にわたって行司の判定に抗議をしたこと、優勝インタビューで暴行事件の当事者であるにもかかわらず「日馬富士関、貴ノ岩関を再び土俵に上げてあげたい」と発言したこと、その後あろうことか観客を巻き込んで万歳三唱をしたこと、そして全力士の前で「貴乃花親方を巡業部長から外してほしい」などと八角理事長に直訴したこと・・・すべてが礼儀と礼節を欠く行為です。日馬富士が引退会見で述べた「礼儀と礼節を大切にして生きてほしい」という貴ノ岩へのメッセージは、むしろ白鵬にこそ送られるべきです。


特に問題なのが、九州場所11日目、結びの一番で初黒星を喫した後、土俵下で右手を挙げて勝負審判に立ち合い不成立をアピールし続け、勝負後の礼をしないという前代未聞の振る舞いをしたことです。長い大相撲の歴史でも、横綱の品格が最も損なわれた瞬間でした。相撲の原則は「礼に始まり礼に終わる」であり、礼をしないで横綱が土俵を下りるなど言語道断!
さらに両者の「相撲観」の違いを見ていく上で、わたしは決定的な違いを発見しました。それは「相撲観」というよりも「横綱観」の問題です。


相撲よ!

相撲よ!

ブログ『相撲よ!』で紹介した白鵬の著書には、「横綱が土俵入りをすることが、なぜ神事となるのか」という問いが示されています。その問いに対して、著者である白鵬は「横綱が力士としての最上位であるからだ」と即答し、さらに以下のように述べています。
「そもそも『横綱』とは、横綱だけが腰に締めることを許される綱の名称である。その綱は、神棚などに飾る『注連縄』のことである。さらにその綱には、御幣が下がっている。これはつまり、横綱は『現人神』であることを意味しているのである。横綱というのはそれだけ神聖な存在なのである」


この「現人神(あらひとがみ)」という言葉は、「この世に人間の姿で現れた神」を意味し、ふつうは「天皇」を指します。この言葉を使うからには、白鵬は「横綱」を「天皇」と同じように神であるととらえているのでしょう。いや、昭和天皇は戦後の「人間宣言」によって神であることを自ら否定したわけですから、横綱こそは唯一の「この世に人間の姿で現れた神」だと考えているのかもしれません。誰かが白鵬に間違った横綱観を伝授した可能性もありますが、白鵬は「大相撲」や「横綱」というものを根本的に誤解しているようですね。わたしは、ここに「礼をしない横綱」の秘密があると思いました。なぜなら、神であれば人間である対戦相手に礼をする必要などないからです。


一方で、貴乃花親方はつねづね「土俵には神様がおられる」と述べています。貴乃花は「平成の名横綱」でした。すなわち、彼は横綱という存在を神であるとはとらえていないわけです。「横綱≠神」と考える貴乃花、「横綱=神」と考える白鵬・・・・・・この両者の横綱観にこそ、両者の考え方の違いが最も明確に表われていると言えるでしょう。自身を「神」と考えているとすれば、白鵬の一連の傍若無人な行為も理解できます。


ところで、「週刊文春」取材班は、白鵬と“愛人”の2ショットを入手しました。白鵬は愛妻家をアピールする一方で、モンゴル人の愛人に入れ上げていたというのです。まさに激震の角界をさらに揺るがすスキャンダルですね。どうやら「最強」なのは、K−1でもモンゴル相撲でもなく、文春砲のようです。



2017年12月9日 一条真也