茶道の古流を知っていますか?  

一条真也です。
28日、「サンデー毎日」2017年12月10日号が発売されます。
表紙の人物は、俳優の大泉洋さんです。いい役者さんですね。
わたしは、同誌にコラム「一条真也の人生の四季」を連載しています。
第107回のタイトルは、「茶道の古流を知っていますか?」です。


サンデー毎日」2017年12月10日号



前回、わたしの父が礼法家であるという話をしましたが、父は茶道家でもあります。流派は小笠原家茶道古流です。茶道の流派といえば、千利休から始まる表千家裏千家武者小路千家三千家として有名ですが、茶湯の開山と称される村田珠光の弟子である古市胤栄、古市澄胤から始まる茶道古市家の流れをくむのが小笠原家茶道古流です。



古市家の後裔が江戸時代、小笠原総領家(小倉藩主)の茶道頭をつとめたため、小笠原家茶道古流の祖として名があげられます。珠光は南北朝から室町の中期にわたり行われた「闘茶」や能阿弥が制定した上流武士を中心とした茶湯を、広く一般のものにしたといわれています。珠光が目指した茶は、のちに千利休で有名になる「わび」「さび」の世界そのものです。



「藁屋に名馬つなぎたるがよし」――“侘びた藁屋と立派な馬”という、まさに対照美をよしとしました。一般の人たちと上流武士の世界の楽しみを結び付けたわけです。当初、珠光の弟子は大名たちでしたが、その中から播磨守・古市澄胤に神髄を託しました。澄胤は、開祖である珠光の教えを庶民に広め続けましたが、1508(永正5)年、56歳で戦死します。当時は戦乱の世だったのです。珠光の教えは、町人の町として栄えていた堺の地で千利休の登場により開花していくことになります。
 


小笠原家茶道古流は、家元四代・古市了和より、小倉城に入城してからの初代小倉藩主である小笠原忠真に仕え、それ以後、「小笠原家古流」と称するようになりました。江戸末期には古流の中興の祖と呼ばれる十一代・古市自得斎が登場するなど、隆盛を極めました。
ただ、明治になると武家のものだった茶湯は下火になり、古流は小倉の地に温存される形となったのです。ちなみに、小倉の松柏園ホテルには、小笠原総領家三十二代当主の小笠原忠統先生が監修された茶室があり、多くの茶人たちから愛されています。


サンデー毎日」2017年12月10日号の表紙



2017年11月28日 一条真也