礼をしない横綱

一条真也です。昨夜は、松柏園ホテルで開催された「新北九州を考える会」に参加しました。懇親会は新館の「ヴィラルーチェ」で行われましたが、もっぱら大相撲の横綱日馬富士の暴行事件が話題の中心でした。
わたしは、警察署長、弁護士、そして九州場所のタニマチの方々とディープな情報交換および意見交換をしました。しかし、この日、40回目の優勝をかける大横綱白鵬がとんでもない醜態をさらしたのです。


毎日新聞」2017年11月23日朝刊



毎日新聞」11月23日朝刊には「白鵬『物言い』1分半」「九州場所 礼せず待った訴え」の見出しで、以下のように書かれています。
「大相撲の横綱白鵬が福岡国際センターで開かれている九州場所11日目の22日、結びの一番で初黒星を喫した後、土俵下で右手を挙げて勝負審判に立ち合い不成立をアピールし、約1分半、勝負後の礼をしない前代未聞の振る舞いをした。暴行問題で揺れる九州場所で、横綱の品格が問われる所作だった。白鵬は左手で張って立ったが、『あえてフワッと立った』という関脇・嘉風に双差しを許した。白鵬は直後に突然力を抜いて『待った』をアピールしたが、行司の軍配は返っており、そのまま寄り切られた。物言いは審判か控え力士しかつけられない規則だが、白鵬は土俵下で右手を挙げて審判に異議を唱えて動かない。近くで審判を務めた式秀親方(元前頭・北桜)に何度か促されてようやく土俵へ。その後も首をかしげ、嘉風が勝ち名乗りを受けると、再び右手を挙げて不満を訴えた。弓取り式の力士が土俵に上がっても、両手を腰に当てて仁王立ち。弓取り式が始まる直前にやっと土俵を下り、会場が騒然とする中、不服そうに花道を下がった。
支度部屋では風呂で同郷の友綱親方(元関脇・旭天鵬)からなだめられた。白鵬は『(自分の)手をついていたけど呼吸が合わなかった』と説明。『1回(ビデオを)見てもらいたかった』と無念さもにじませた。
一方、八角理事長(元横綱北勝海)は『白鵬の勘違いだよね。自分で判断しては駄目』と苦言を呈した。山科審判長(元小結・大錦)も『待っただった、と言いたいのだろうが、手は(両者とも)ちゃんとついている』と立ち合いは成立していたと説明。式秀親方は『負けても絵になる男なんだから。礼で終わらなきゃ』。角界の第一人者の土俵態度を残念がった。【佐野優】」


まったく、とんでもないことです。相撲の原則は「礼に始まり礼に終わる」であり、礼をしないで横綱が土俵を下りるなど言語道断!
今朝放送された放送のフジテレビ系「とくダネ!」に生出演した漫画家のやくみつる氏は、白鵬について「出場停止です。それぐらい重要なこと」と述べ、暴行事件を起こした日馬富士の処分よりも「白鵬の出場停止の方が先だろうと思う」と断言しました。やく氏は相撲協会に緊急理事会の招集を求めた上で、「昨日の行為は十分、それに値すること」とし、暴行事件で激震の時に「こんな時にそんなことまで起きて」とファン代表として不快感を示しました。わたしは、やく氏の意見に同感です。


そもそも、白鵬日馬富士の暴行事件の現場にいました。いたどころか、暴行の被害者である貴ノ岩が「自分は白鵬に勝った。俺たちの時代だ」と言ったことに激怒し、白鵬の目の前で貴ノ岩をボコボコにしたというのです。でも今日の情報では、貴ノ岩は「そんな発言はしていない」と否定しているそうです。たしかに、プロレスの維新軍団長州力じゃあるまいし、そんなベタな下剋上発言をするでしょうか?


「日刊スポーツ」11月23日号



この事件でわたしが一番驚いたのは、暴れ出した日馬富士白鵬横綱鶴竜と関脇・照ノ富士の3人がかりで止めに入ったところ、3人とも日馬富士から突き飛ばされたという情報でした。これまたプロレスに例えますが、新日本プロレスの若手を蹴散らす全盛期のアンドレ・ザ・ジャイアントやスタン・ハンセンじゃあるまいし、仮にも天下の2横綱・1関脇をまとめて突き飛ばすということがあり得るでしょうか。日馬富士はそんなに強いのでしょうか。それとも、白鵬鶴竜横綱でありながら、本当は弱いのでしょうか。だって、突き飛ばされないようにする競技が相撲でしょう。違いますか?


「日刊スポーツ」11月23日号



22日、元東京都知事石原慎太郎氏は自身のツイッターを更新し、今回の暴行事件について見解を示しました。石原氏は「これだけモンゴル人の力士が増えると相撲協会も彼等に気兼ねせざるを得まい。横綱の目下の者への暴力は相撲道の恥だ」とツイッタ―で断じています。その上で「それを正式に告発した貴乃花親方の勇気は素晴らしい」と貴乃花親方の行動を絶賛していました。例の「緑のたぬき」おばさんから嫌がらせを受けて以来、その後を心配していた石原氏ですが、その見識はさすがですね。


儀式論

儀式論

暴行事件も由々しき事態ですが、もっと問題なのが横綱が礼をしないで土俵を下りたという事実です。拙著『儀式論』(弘文堂)の「芸能と儀式」にも書きましたが、相撲は各種の儀式によって構成された神事です。すでに『古事記』『日本書紀』に相撲の起源伝承が見られますが、史実としては「皇極天皇紀」のものが最古とされます。後に相撲は「相撲節会」として、承安4年(1174年)まで宮中の年中行事にとりこまれ、7月7日を式日として行事が営まれました。宮中での行事はのちに途絶しますが、相撲は武家や民間で流行します。近世になって盛んになった社寺への寄進を求める勧進相撲が、現在の大相撲の基礎となりました。民俗学者折口信夫は「草相撲の話」で、体に草をつけて相撲をとっていたことを指摘し、この姿が異人のものであるとして、相撲を「遠くから威力のある神がやってきて、土地の精霊を征服するかたちだったのである」としています。


相撲よ!

相撲よ!

ブログ『相撲よ!』で紹介した本は、白鵬の著書です。
同書で、白鵬は「相撲は格闘技の1つではないということだ。競技であることは間違いないが、神事であることを見落としてはいけない」として、相撲の本質について以下のように述べています。
「モンゴルにも国を挙げて行うナーダムという祭りがあるが、その祭事の1つとしてモンゴル相撲の競技が行われる。これは神様に捧げる儀式である。そういう意味では少し共通点がある。さて、大相撲が『神事』であるという点だが、大相撲における『神』とは、八百万の神である。土俵のしつらえや力士が行う所作の1つ1つが、神と関わっている」



また同書で、白鵬は土俵の神聖さについて以下のように述べます。
「とにかく土俵は神が降りる場所であるから、穢れを入れないのが大原則。だから、四股は土の中にいる魔物を踏みつぶす所作であるし、取組の前に塩をまくのは、土俵に穢れを入れないためと、己の穢れをはらい、安全を祈るためである。立ち合いで手をつくように厳しく言われるようになったが、それにはちゃんと意味があり、悪霊を追い祓う所作なのである」
さらに、「横綱が土俵入りをすることが、なぜ神事となりうるのか?」という問いに対して、白鵬は「横綱が力士としての最上位であるからだ」と即答し、「そもそも『横綱』とは、横綱だけが腰に締めることを許される綱の名称である。その綱は、神棚などに飾る『注連縄』のことである。さらにその綱には、御幣が下がっている。これはつまり、横綱は『現人神』であることを意味しているのである。横綱というのはそれだけ神聖な存在なのである」と述べています。



そして、白鵬は以下のように述べるのでした。
「相撲は『礼に始まり礼に終わる』というのが原則であるから、蹲踞から柏手、仕切りはもちろんのこと、正々堂々と戦う姿勢、そして花道を戻るところまで、すべて礼を尽くしたものでなくてはならない」
伝説の名横綱双葉山が「双葉山相撲道場」を開設した時、陽明学者の安岡正篤が「力士規七則」というものを作りました。これは吉田松陰の「士規七則」にあやかったものだそうですが、その五条には「人にして礼節なきは禽獣にひとし。力士は古来礼節をもって聞ゆ。謹んでその道の美徳を失ふことなかれ」と記されています。その意味で、今回の白鵬の行為は「禽獣」そのものでした。


ハワイからやってきた高見山角界入りしたのは、わたしが小学生のときでしたが、その当時から子ども心に「国技なのに、外国人を入れていいのか?」という強い疑問を抱いていました。その疑問はモンゴル勢が勢力を拡大するにつれて、大きくなる一方です。暴行問題はもちろんですが、外国人力士問題や注射&ガチンコ問題も含めて、このへんで大相撲は初期設定すべきではないでしょうか。そう、今の大相撲に必要なのはアップデートではなく、初期設定です。たとえば、天皇陛下生前退位に伴う「改元」に合わせて国技の初期化を実行してはどうでしょうか。いずれにせよ、何回優勝を重ねようが、礼をしない横綱など土俵から去るべきです。


礼を求めて

礼を求めて

2017年11月23日 一条真也