鎌倉大仏

一条真也です。
記念艦「三笠」、そして「YOKOSUKA軍港めぐり」を終えた後、わたしたちは横須賀の街を離れて、鎌倉に向かいました。鎌倉といえば、大仏です。もちろん、訪れました。


高徳院

高徳院境内図

鎌倉の大仏

パンチパーマですが、阿弥陀如来です!



「鎌倉の大仏」として名高い高徳院の本尊が国宝に指定されている阿弥陀如来坐像です。外見はパンチパーマですが、じつは阿弥陀如来なのです。造立が開始されたのは建長4年(1252年)ですが、この大仏を覆う大仏殿は台風や大津波のため倒壊してしまい、室町末期には、現在のような「露坐の大仏」になっていたようです。


鎌倉の大仏と



高さは約11.3メートル、重量約121トンもあるそうです。作者は不詳ですが、運慶の作風と中国宋代の仏像の影響の双方を併せ持っているといわれています。規模は奈良東大寺の大仏に及ばないとはいえ、ほぼ造立当初のまま現存しており、日本仏教美術史上、重要な仏像といえるでしょう。


国宝であります!

蓮の花と大仏



高徳院の公式HPは、大仏建立の由来を次のように紹介します。
「北条得宗家の正史『吾妻鏡』によれば、その造立が開始されたのは1252( 建長四))年。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられています。もっとも、創建当時の事情には不明な部分が多く、未だ尊像の原型作者すら特定されるに至っていません。当初尊像を収めていた堂宇については、『太平記』と『鎌倉大日記』に、1334(建武元)年および1369(応安二)年の大風と1498(明応七)年の大地震によって損壊に至ったとの記録を見いだすことができます」


すごい迫力です!



続けて、高徳院の公式HPには、以下のように書かれています。
「以後、露坐となり荒廃が進んだ尊像は、江戸中期、浅草の商人野島新左衛門(泰祐)の喜捨を得た祐天・養国の手で復興をみました。尊像の鋳掛修復に着手し、『清浄泉寺高徳院』と称する念仏専修の寺院を再興、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の『奥之院』に位置づけたのも、祐天の事績にほかなりません。今日、創建750年余を経た尊像は、仏教東伝の象徴として、国内外、宗派の別を問わず数多の仏教徒の信仰を集めています」


胎内拝観できます

胎内拝観の注意



大仏内は空洞になっていて、一般拝観者も大仏内部を見学することができますが、約30名が限界で、入場制限を前提とした拝観となります。
ちなみに日本三大大仏として富山の「高岡大仏」が挙げられますが、これは最近のこと。江戸期の三大大仏といえば、豊臣秀吉が建立した京・方広寺にあった大仏でした。この大仏も地震で倒壊するなど、幾度か再造営されていますが、天保年間になって造営された4代目の大仏は、なんと昭和の後期まで存続していたそうです。


いざ大仏の胎内へ!



昭和48年(1973年)に火災により焼失してから造営されていませんが、戦後に全国各地には巨大仏像が建立されています。信仰にもとづくにしろ、観光の目玉とした営利目的にしろ、「巨大仏」も建てるのは勝手ですが、銅像と異なり大きいだけに「歴史の風雪に耐えられるか」という志と美意識がないとトンデモ廃墟となってしまいます。


大仏の胎内のようす

大仏の胎内のようす



冠婚葬祭の施設も然り、です。海外の有名教会を模倣した醜悪な外観やセンスのない看板などは企業イメージのダウンにしかなりませんね。
わが社では、美術館のように景観と調和した「こころが安らぐ」「こころが潤う」冠婚葬祭施設となるように腐心していますが、鎌倉の大仏を拝観しながら改めて「本物」を観ることの大切さを痛感しました。



2017年6月8日 一条真也