わたしは王ではない、カエサルである(カエサル)


一条真也です。
大著『ローマ人の物語』を書きあげた塩野七生氏によれば、ユリウス・カエサルは古代の英雄の中でもきわめて特異な存在であったといいます。それは彼が帝王ではなく、大衆に人気のある政治家だったからです。
それを象徴する言葉こそ、「わたしは王ではない。カエサルである」でした。


ローマ人の物語 (4) ユリウス・カエサル-ルビコン以前

ローマ人の物語 (4) ユリウス・カエサル-ルビコン以前

ローマ人の物語 (5) ユリウス・カエサル-ルビコン以後

ローマ人の物語 (5) ユリウス・カエサル-ルビコン以後

カエサルは、まず何よりも有能な軍人でした。ローマ軍を率いて常に連戦連勝、大衆はいつも勝つ者に拍手します。チンギス・ハーンしかり、ナポレオンしかり、です。
しかしカエサルはただ戦争に強いだけでなく、政治家としても有能でした。
戦勝の功績で執政官に抜擢されると、一般市民の利益を擁護する姿勢を常に取り続けました。塩野氏の言葉を借りれば、「源義経」(戦争の天才)プラス「遠山の金さん」(庶民の味方)がカエサルという稀有のリーダーだったのです。



塩野氏は、カエサルは良い意味での欲張りだったと分析します。1つのことを1つの目的でやる男ではなかったのです。つまり、私益は他益、ひいては公益、と密接に結びつくかたちでやるのが彼の特色です。なぜなら、私益の追求もその実現も、他益ないし公益を利してこそ十全なる実現も可能になる、とする考えに立つからです。この考えは、別にカエサルが天才であったから考えつき、また実行できたことではありません。塩野氏によれば、わたしたち凡人の多くも、意識せずとも日々実行していることであるといいます。
自分自身のやるべきことを十全にやることで、私益は他益となり、さらには公益となる。なぜなら、人間の本性にとって、このほうがよほど自然な道筋であるからです。



ルネッサンス時代の政治思想家マキャヴェッリも、この考え方の妥当性を強く主張した1人だそうです。つまり、公人であろうと、その人の利益の追求は認められるべきであるというのです。私益の追及を公認することこそが、公益の実現にも、より健全でより恒久的な基盤を提供することになるというのが、その理由です。
もっとも、カエサルは自分の公然の愛人がクレオパトラになった後、元愛人であるセルヴィーリアの生活に支障がないよう、国有地を安く払い下げるという、現代の感覚からすればとんでもないことまでやっています。明らかに公人としてあるまじき行為です。しかし、それもセルヴィーリアの幸福という他益を考えての、彼なりの思いやりだったのでしょう。



カエサルという男、自分のやりたいように行動して、それがそのまま自分の利益ともなり、他人を幸福にし、ひいては公益にもつながるのですから、やはりタダ者ではありません。
言わば、「欲」と「夢」と「志」を矛盾なくリンクさせるという、とんでもないことを実現し続けたわけです。天性のリーダーであると言えるでしょう。
なお、今回のカエサルのエピソードは『龍馬とカエサル』(三五館)にも登場します。


龍馬とカエサル―ハートフル・リーダーシップの研究

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*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2017年6月3日 一条真也