『般若心経の科学』  

般若心経の科学 改訂版?276文字に秘められた宇宙と人間の本質 (祥伝社黄金文庫)


一条真也です。
『般若心経の科学[改訂版]』天外伺朗著(祥伝社黄金文庫)を読みました。
「276文字に秘められた宇宙と人間の本質」というサブタイトルがついています。1997年7月に刊行されたノン・ブック新書判『般若心経の科学〜「276文字」の中に、「21世紀の科学」を見た』(祥伝社)を著者が全面的に加筆修正して、文庫化したものです。



著者の本名は土井利忠で、工学博士。1964年、東京工業大学電子工学科卒業後、ソニーに42年間勤務。CD、ワークステーション「NEWS」、犬型ロボット「AIBO」などの開発を主導、上席常務を経てソニー・インテリジェンス・ダイナミクス研究所(株)所長兼社長などを歴任しました。97年、マハーサマディ研究会(現ホロトロピック・ネットワーク)を主宰、医療改革や教育改革に携わり、瞑想や断食を指導しています。
2012年11月初旬に開催された「ダライ・ラマ法王と科学者の対話」のレセプション・パーティーで、わたしは著者と初めてお会いしました。その場には、「サムシング・グレート」で知られる村上和雄先生、「勇気の人」こと矢作直樹先生もおられました。


本書の帯



本書の帯には以下のように書かれています。
「『空』とは何か? 『苦』から逃れる術はあるのか?最先端科学で読み解いた『仏教』『悟り』の奥義。」
また、表紙前そでには「『般若心経』を最新科学で分析すると・・・」として、以下のような内容紹介があります。
●――「二元論」を見直す時が来た
●――「無我」の境地を日常生活で保てるか?
●―― 「色即是空」を明確に説明する「ホログラフィー宇宙モデル」
●―― 「量子力学」科学者たちは、「東洋哲学」にのめり込んだ
●―― 宗教も量子力学も深層心理学も、同じ結論にたどり着く
●―― 複雑で膨大な「カルマの法則」
●―― 「死の恐怖」からの解放
●―― 「悟りを開く」とはどういうことか?
●―― 緊急時の瞑想法


本書のカバー裏



カバー裏には、「般若心経とは・・・」として、以下のように書かれています。
「●―― 全文276文字、もっとも短い仏教の経典。大乗仏典の『空』『般若思想』を説いている。原典は、西暦2〜3世紀にインドで成立、作者不詳。漢訳は7種あるが、日本では主に玄奘三蔵法師)訳が用いられている。宗派を問わず、広く愛読され、写経もさかん」



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「まえがき」
『般若心経』全文
『般若心経』天外伺朗による意訳
1章 「呪」――「呪文」は効くのか?
2章 「観自在菩薩」――あなたの心の中にも観音様は眠っている
3章 「度一切苦厄」――すべての「苦」が消え去る時
4章 「色即是空」――「空」の概念と「あの世」の科学
5章 「不生不滅」――あなたは、今、「あの世」でも生きている
6章 「無眼耳鼻舌身意」――ないないづくしをどう読むか?
7章 「究竟涅槃」――人生は、胎内から出て宇宙に帰る旅路
8章  般若心経瞑想法
「むすび」
「参考文献」



「まえがき」の冒頭を、著者は以下のように書き出しています。
「高名な物理学者であるボームが提唱した『ホログラフィー宇宙モデル』と、深層心理学を切り開いたユングが提唱した『集合的無意識』の仮説が奇妙に一致し、それが仏教の説く『空』の概念そのものを表わしているのではないか、という骨子はそのまま踏襲しています」



1章「呪」では、「般若心経」の最後の言葉である「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶(ぎゃてい・ぎゃてい・はらぎゃてい・はらそうぎゃてい・ぼうじそわか)」について、著者は以下のように述べています。
「『般若心経』の、『ぎゃてい・ぎゃてい・・・・・・』というのは、『マントラ』です。ということは、『意味』にではなく、『音』じたいに力があると信じられているということなのです。これが、『呪文の効用』です。
日本には、古来より『言霊』という思想があります。『音』には、ある種の生命が宿っており、発声することによってその生命が生み出され、その生命固有の作用を周囲に及ぼす、という考え方です」



「さまざまな宗教で共有するマントラ」として、著者は述べます。
キリスト教の『アーメン』というのは、とても不思議な『マントラ』です。
じつは、世界中のありとあらゆる宗教で使われています。
オウム真理教』のせいで、ずいぶんイメージが悪くなってしまいましたが、仏教やヒンドゥー教では、『オーム』を聖音と呼んでいます。無から有を生じる時の宇宙の原初音とされており、瞑想に熟達すると、聞こえてくるのだと言います」
また、著者は以下のようにも書いています。
古神道では『天』と書いて『アメ』と読ませます。天神の御座所を意味します。はるか昔のエジプトでは、『アーメン』というのは神の名ですし、イスラム教でマホメットのことを『アーミン』と呼ぶこともあるそうです」



2章「観自在菩薩」では、「仏教は、一種の“無神教”」として述べています。
如来は、サンスクリット語ではタターガタと言い、『最高の完全』という意味です。菩薩は、『悟り』にいたるさまざまな修行の内容を表わす、と言われています。もともとは、サンスクリット語のボディサットヴァ、が漢語で『菩提薩埵』になり、それが略されたものです。ボディというのは『悟り』、サットヴァというのは『勇者』といったような意味であり、『悟り』に向かって勇気を持って精進している人、という意味です。そこから、精進の中身とか、修行者とか、衆生の救済者とか、いろいろな解釈に分かれました。
大乗仏教というのは一般大衆に深遠な仏教哲学をいかに説くか、ということに、たいへん心を砕いていろいろな工夫をしています。したがって、如来や菩薩を擬人化して、誰にでもわかりやすくしたのだと思われます」



「『自分と他人の区別』からの脱却」として、著者は以下のように述べます。
「どこかでピッと線を引いて、物事をふたつに分けることを『二元性』と言います。デカルトの説いた『物質と精神』だけでなく、『男と女』『身体と精神』『自分と他人』『生物と無生物』『善と悪』『正と誤』『生と死』など、いくらでもあります」
著者は、これらの考え方を「分別智」であるとします。
一方、著者は以下のように「無分別智」についても述べます。
「自他の区別を抜け出し、すべてが融合しているという世界観にもとづく知恵を、仏教では『無分別智』と呼んでいます。それを、サンスクリット語では『プラジーナ』、西インドで古代に使われていたパーリ語では『パーニャ(panna)』と言います。このパーニャに中国で『般若』という漢字が当てられました。つまり『般若心経』は、無分別智を説いたお経です。この無分別智のことを、本書では、すこしくだけて『あの世の智慧』と呼ぶことにします」



3章「度一切苦厄」では、「生まれることが『最大の苦』!?」として、著者は以下のように述べています。
「じつは、人間は誰しもが、生まれ落ちることで耐えがたいトラウマ(精神的外傷)を負ってしまうのですが、それを心理学では『バース(誕生の)トラウマ(精神的外傷)』と呼んでいます。
母親の心身が健康なら、胎児は子宮の中で羊水に浮かび、ぬくぬくと育っています。ところが、ある日突然陣痛がはじまり、子宮に締めつけられるという恐怖の体験をします。
その後、細い産道を降下するという、長時間の苦痛に耐えなくてはいけません。生まれ落ちると、ようやく苦痛からは解放されますが、それは同時に母親との悲しい別離につながっています」



「『生苦』=バーストラウマ」として、著者は以下のように述べます。
「仏教で、人間の基本的な苦しみのひとつに「生苦」を挙げたのは、このバーストラウマのことでしょう。
旧約聖書に出てくる『エデンの園』という楽園は、子宮を象徴しており、アダムとイヴがそこから追放されたというエピソードは出産を意味する、と心理学は説いています」
また著者は、バーストラウマについて以下のように説明します。
「バーストラウマを最初に発見したのは、フロイトの直弟子のひとり、オットー・ランク(1884〜1939年)です。バーストラウマは、フロイトの『性欲一元説』では説明することができない、人間の無意識の新たな側面を指摘したことになります。そのためランクは、フロイト主流派から集中攻撃を受け、孤軍奮闘、激しい論争になりました。結論的には、ランクがこの論争に勝ち、深層心理学の世界ではバーストラウマがほぼ定説になっています」



4章「色即是空」では、「テレビ放送の電波=『あの世』、テレビ画像=『この世』」として、著者は「『この世』をテレビの画面、『あの世』は空中を飛んでくる電波と考えてみてください」と述べ、さらに以下のように説きます。
「『テレビ画面』と『電磁界』から類推していただきたいことは、『あの世』と『この世』が1対1に対応している、ということです。別の言いかたをすれば、『あの世』がなければ『この世』もない、と言えます。放送局からの電波がなければ、つまり『電磁界』が存在しなければ、画面には何も映りません。『電磁界』と『テレビ画面』は1対1に対応しているのです。これとまったく同じ関係が、『あの世』と『この世』の関係でも成立しているに違いないと私は考えています」



「『あの世』では、すべてのものが一体になっている」として、著者は以下のように述べています。
「仏教では、人間の根本的な性質を『仏性(仏としての本能・仏になる種子)』と呼んでいます。これは、人間の表面的な自我(エゴ)とは正反対の性質であり、むしろ、すべてが溶け合った『あの世』の特質ではないかと、私は考えています。つまり、『あの世』というのは、仏の慈悲に満ち溢れているのではないでしょうか。『すべてが一体で、慈悲に満ちている』、これは観音様そのものですね。だからこそ、修行が進んで、『あの世の見かた』ができるようになり、『妙観察智』に達すると、慈悲が発露されるというわけです」



「『色即是空』を明確に説明する『ホログラフィー宇宙モデル』」として、著者は以下のように述べています。
「『色即是空』ということは、『明在系』=『暗在系』、あるいは『この世』=『あの世』という意味になります。これは、『ホログラフィー宇宙モデル』から考えれば、むしろ当然の結論ですね。『明在系』あるいは『この世』のすべてが、『暗在系』『あの世』に、たたみ込まれているわけですから。
『あの世』を離れて『この世』があるのではなく、『この世』を離れて『あの世』があるわけでもありません。両者は、一体で不可分なのです。このことは、テレビの画面と、電磁波の例でもあきらかです」



著者は、物理学者デヴィッド・ボームの仮説を紹介しながら、以下のように述べます。
「ボームは、『人間の精神も、暗在系にたたみ込まれている』と言っています。つまり、人間の精神活動である『受・想・行・識』も、すべて『空』、つまり『暗在系』=『あの世』にたたみ込まれていることになり、『梵我一如』と同じことになります。われわれの常識では、『自分の精神活動は、自分の脳味噌の中で完結している』ということになっています。自分の想念が『あの世』にたたみ込まれている、などと言うと、わけがわからなくなります。でも、「『あの世』を仮定しないと、“テレパシー”とか“虫の知らせ”とかの問題は説明できません。『ホログラフィー宇宙モデル』というのは、これまでの近代科学では説明ができなかったさまざまな神秘的な現象を、科学的に探求するためのヒントを与えてくれます」



「『あの世』は『空』である」として、著者は以下のように述べます。
「太陽の光は、『白色光』と呼ばれています。つまり、色がないのですね。ところが、虹でおなじみのように、プリズムにこの太陽光を通してやると、あらゆる色が出てきます。
絵の具だと、あらゆる色を混ぜると、黒になり、その黒から元の色を分離することはできません。ところが光の場合には、あらゆる色を混ぜると、色がなくなって白になり、その白からいくらでも元の色を取り出すことができるのです。
『あの世』というのも、この光に似ているのでしょう」



続けて、著者は以下のように述べています。
量子力学は、真空は莫大なエネルギーを秘めていることをあきらかにしており、『ゼロ・ポイント・エネルギー』と呼ばれています。
1立方センチメートルに含まれるゼロ・ポイント・エネルギーを計算すると、現在知られている宇宙の全物質が持つ総エネルギーより大きくなります」



5章「不生不滅」では、「『無意識』はすべての人が共有している」として、著者は「予知夢」について以下のように述べます。
「『予知夢』の存在は、『無意識』には未来の情報がたたみ込まれていることを示しています。つまり、このことは『無意識』には、過去・現在・未来の時間が区別なくたたみ込まれていることを暗示しているのです。ユングは、早くから“人間の魂は皆つながっているのではないか”という仮説を抱いていました。最初にそれを表明したのは、1916年にパリで行なった講演で、彼はこれを『集合的魂』と呼びました。この『集合的魂』の仮説は、40年の歳月にわたって『無意識』に関する研究を進めるにつれて熟成され、やがて『集合的無意識』という形で集大成されました」
「宗教、量子力学、深層心理学の一致」として以下の式が示されます。



空=暗在系=集合的無意識=あの世



「宇宙全体が、ひとつの生命体である」として、著者は「あの世」の本質について以下のように述べています。
「あらゆる角度から眺めた『あの世』のもっとも基本的な性質は、『たたみ込み』にあるのはあきらかです。私とあなたが溶け合い、すべての人や物質が渾然一体となってたたみ込まれ、すべての人の考えや想念もひとつになり、そして空間や時間もたたみ込まれている。
しかも、すべてが一体になると、ちょうど太陽光が無色になるように、何もなくなって『空』になる。これが、私が縷々述べてきた、『あの世』の要約です」



「『あの世』と『霊界』の違い」として、著者は「霊界というのは『あの世』そのものではないということです。むしろ、『あの世』のごく表面に薄くこびりついている『かさぶた』のようなものにすぎないと考えています。
そして、著者は以下のように霊的真実を語るのでした。
「一般に言われる『魂』というのは、『本当の自分自身』が『個』という下着を着けた仮の姿です。その上から、“服としての肉体”をまとうと、今『この世』で観測される自分自身になるわけです。世の中で言う霊というのは、たとえて言えば、下着1枚でウロウロしているような状態で、まことにお行儀が悪いわけです。では、その下着に相当する『個』を表現するものとは何かと言うと、仏教ではこれを簡単に『カルマ』と呼んでいます。
つまり、『本当の自分自身』が、下着としての『カルマ』を着て、その上に肉体をまとって「この世」に生まれてきたものが人間だ、ということになります」
この著者の「魂」の定義は興味深く、また説得力があると思いました。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2017年3月29日 一条真也