「神社新報」に『儀式論』の書評が掲載されました

一条真也です。
神社新報」という新聞があります。神社本庁の機関紙的なメディアで、全国各地の神社で行われた祭礼や行事、これに関連する記事を中心に扱っています。主な読者は、神社本庁に属している神社や神職です。同紙の最新号(第3339号)に拙著『儀式論』(弘文堂)の書評が掲載されました。
評者は大阪・堀川戎神社の寳來正和禰宜です。


神社新報」第3339号



寳來禰宜による書評は「日本人にとっての儀式 改めて問ひかける一冊」のタイトルで、以下のように書かれています。
「昨今、大掛かりな葬儀が敬遠され、家族葬直葬、さらにはゼロ葬といふ形態までが取り沙汰されるやうになってきてゐる。独居老人の増加、自治会加入率の低下等、さまざまな要因が絡んで現在の状況が生まれたと言はれる。また先日、古札等のお焚き上げに霊璽を持参する家族がゐるという話も耳にした。その神社では霊璽の意義を説明してお引き取り願ふさうだが、このやうな現象は珍しくないだらうか。終活や墓じまいといった言葉が流行るやうに、先祖の慰霊を大事にする日本の習慣は加速度的に廃れていってしまふのだらうか、さう思ってゐた矢先に本書に出会った。
著者は冠婚葬祭会社サンレー代表取締役で、全国冠婚葬祭互助会連盟の会長も務め、結婚や葬儀などに関する著書も多い。かねてより、儀式こそが伝統・文化の要であるとし、それを通じた家族や地域の縁、『有縁社会』の再構築を提言されてきた。本書では、『神話と儀式』『宗教と儀式』『社会と儀式』『家族と儀式』など十四の項目に分類した上で、三百にも及ぶ参考文献を引用し論を進めてゐる。著者は『「儀式など本当はなくてもいいのではないか」という疑問を抱きつつ、儀式について改めて考えていこう』とその執筆動機を記しつつも、最終的には『儀式を行うことも人間の本能』と位置付けてゐる。約六百頁の大作であるものの、著者の経験を交へながらの書きぶりは決して難解すぎることはなく読みやすい。
神前式や神葬祭を経験する人は多くはないかもしれないが、夏・秋の祭りや七五三詣りのやうに多くの日本人にとってなじみの深い儀式もある。これを単なる一過性のものとして終はらせてしまふことなく、いかにして教化活動の一環とするのか、その手掛かりが本書にあるやうに感じる。神職は儀式の主役ではないにしても、重要な担ひ手だ。その存在なくしては儀式の成立は覚束ない。本書のやうに祭式とは異なる視点から神社の祭札を見つめ直すことも有意義ではないだろうか」



わたしは、この寳來禰宜の書評を読んで、「うーん」と唸りました。
達意の文章も素晴らしいですが、この仮名遣いの美しさといったら!
じつは、「神社新報」では、現代仮名遣いを「文法的に考えて欠陥が多い」として反対しています。そのため、同紙の記事の本文はすべて歴史的仮名遣で記載されているのです。なお、漢字は新字体を用いています。
「約六百頁の大作であるものの、著者の経験を交へながらの書きぶりは決して難解すぎることはなく読みやすい」という一文は嬉しかったです。また、「神職は儀式の主役ではないにしても、重要な担ひ手だ」という一文にも考えさせられました。「神社新報」は基本的に神道関係の書籍しか取り上げないと聞いていましたが、『儀式論』をお認めいただき、幸甚です。


中外日報」2016年12月9日号



儀式論』といえば、ブログ「『中外日報』に『儀式論』の書評が掲載されました」で紹介したように、仏教界の方々が講読する日本最大の宗教新聞でも取り上げられました。神・仏両方のオピニオン・ペーパーから過分な評価をいただき、まことに光栄です。1人でも多くの神職や僧侶の方々に同書をお読みいただき、儀式の意味や重要性を改めてお考えいただきたいです。


儀式論

儀式論

*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2017年2月3日 一条真也