『弔辞 劇的な人生を送る言葉』  

弔辞―劇的な人生を送る言葉 (文春新書)


一条真也です。
『弔辞 劇的な人生を送る言葉』文藝春秋編(文春新書)を読みました。
月刊「文藝春秋」2001年2月号、2011年1月号に掲載の「弔辞」より50人分を収録した内容となっています。


本書の帯



帯には8人の人物の遺影とともに、「友へ 最愛の人へ 親から子へ 50人に捧げられた鎮魂歌」「タモリから赤塚不二夫へ」「小泉純一郎から橋本龍太郎へ」「勝新太郎から石原裕次郎へ」「原辰徳から木村拓也へ」「賠償千恵子から渥美清へ」と書かれています。



またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。
「わずか数分に凝縮された万感の思い。故人との濃密な関係があったからこそ語られる、かけがえのない思い出、知られざるエピソード、感謝の気持ち。作家、政治家、俳優、歌手、漫画家、芸人、スポーツ選手まで、二十世紀を彩った50人への名弔辞を収録」


本書の帯の裏



本書の「目次」は、以下のようになっています。
目次
第一章 また逢う日まで
「兄弟、おまえ好きに言えよ」石原裕次郎へ 勝新太郎
「よごれた服にボロカバン」浅沼稲次郎へ 池田勇人
「私の愚かであつたために」太宰治へ 井伏鱒二
「ひとこと愚痴を零す」小津安二郎へ 里見紝
「278万票という種」市川房枝へ 藤田たき
終戦直後の希望の燈」湯川秀樹へ 湯淺佑一
「本当に直己ちゃんですか」植村直己へ 正木徹
「並みはずれた愛――枢の前で――」近藤紘一へ 司馬遼太郎
「本当にあの世というものがあるなら」寺山修司へ 山田太一
第二章 仏からの電話
「二月九日は『治虫忌』」手塚治虫へ 加藤芳郎
「あなたは天からの使者」美空ひばりへ 中村メイコ
「故郷・新宮への愛と憎しみ」中上健次へ 柄谷行人
「感性と理性と行動力を併せ持った人」福田恆存へ 林健太郎
「仏から何度も電話がかかりまして」水の江瀧子へ 三橋達也
「私を三振させた東大生」吉田治雄へ 長嶋茂雄
「君はとっくに僕を追い越えていたよ」横山やすしへ 横山ノック
第三章 寂しいよ、お兄ちゃん
「少年の心と詩人の魂」司馬遼太郎へ 田辺聖子
「寂しいよ、お兄ちゃん」渥美清へ 倍賞千恵子
「60歳の教え子より」藤沢周平へ 萬年慶一
「骨の髄まで小説家」宇野千代へ 瀬戸内寂聴
「図解入りの病状報告」丸山眞男へ 木下順二
「骨を拾ってくれるのは、君だと思っていた」黛敏郎へ 千葉馨
「君は本当によく演った」三船敏郎へ 黒澤明
第四章 宇宙以前への旅立ち
「本当の意味での国際人」盛田昭夫へ 大賀典雄
「宇宙以前へと旅立った」村山聖へ 村山伸一
「多情仏心は政治家の常」佐々木良作へ 中曽根康弘
「そなたこなたのおかげです」成田きんへ 久野信彦
「カツオ! 親より先に行く奴があるか!」高橋和枝へ 永井一郎
「牛は随分強情だ」小渕恵三へ 村山富市
「国家をもしのぐ夫人への愛」江藤淳へ 石原慎太郎
第五章 頑張れって言って、ごめんね
「君はあくまで、東大全共闘の今井澄である」今井澄へ 山本義隆
「頑張れ、頑張れって言ってごめんね」本田美奈子へ 岸谷五朗
「大きく不規則バウンドした楕円球」宿澤広朗へ 奥正之
「硬骨の人」城山三郎へ 渡辺淳一
「先生が、こんなに早く逝ってしまわれるとは」橋本龍太郎へ 小泉純一郎
「無言の、しかし確かに存在する学問の威厳」白川静へ 長田豊
第六章 みごとなお骨
「百福さんの枕元には」安藤百福へ 丹羽宇一郎
「みごとなお骨でございました」柳家小さんへ 柳家小三治
「必要なときに常に上から介入してくれた」米原万里へ 佐藤優
「弟子の弔辞を読む痛恨」戸塚洋二へ 小柴昌俊
「おやじさん。みんなが笑っている葬式です」植木等へ 小松政夫
宮本顕治同志」宮本顕治へ 不破哲三
「先生は魔法使いでした」市川崑へ 岸惠子
第七章 約束の詩
「今、どんな花が咲いてるの?」筑紫哲也へ 古謝美佐子
「四角いマットに刻んだ『自由と信念』」三沢光晴へ 徳光和夫
吉田直哉だけがリアリズムである」吉田直哉へ 今野勉
「一緒に戦うぞ、タクヤ木村拓也へ 原辰徳
「先生との約束の詩」星野哲郎へ 水前寺清子
「君の走る姿すべてが思い出であります」オグリキャップへ 小栗孝一
「私もあなたの作品の1つです」赤塚不二夫へ タモリ


第一章「また逢う日まで」の「終戦直後の希望の燈」では、湯川秀樹の葬儀における弔辞が紹介されます。60年来の親友である湯浅佑一(湯浅電池社長=当時・平成6年4月17日死去)は、湯川記念財団理事長も務めました。「葬式をしない」という湯川の遺志に反して世界中から人々が参列する盛大な葬儀にならざるを得なかったことを故人に詫びていますが、その中で以下のように述べています。
「このたび内外多数の、世界中の人から寄せられた日本の湯川秀樹への御厚情を思うとき 日頃『葬式をしない葬式があるんだ』と逆転の発想をする湯川君の遺志には添い得ないものがあるかもしれませんが、大正8年京都府立一中入学後60年来の友であり、湯川記念財団理事長である私が、葬儀委員長という役目のため、いまこの弔辞を型の如く申し述べさせていただくことを、許してほしいと思います」


サイゴンから来た妻と娘 (1978年)

サイゴンから来た妻と娘 (1978年)

「並みはずれた愛――枢の前で――」では、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『サイゴンから来た妻と娘』などでルポルタージュ・ジャーナリズムを開拓した近藤紘一の葬儀における弔辞が紹介されます。弔辞を読み上げたのは故人と産経新聞の同僚であった作家の司馬遼太郎でした。故人は、司馬の『人間の集団について』のベトナム取材に同行しています。司馬は、故人の霊前で次のように述べました。
「君は、私にとって、尊敬する以外に、どうしてやりようもない存在でした。イエスが十字架にかかるのを、手をこまぬいて見つめていざるをえなかった当時のひとびとを、私はこの祭場で、自分たちとして思い出さざるをえないのです」


第二章「仏からの電話」の「二月九日は『治虫忌』」では、日本漫画界の最高の巨匠であった手塚治虫の葬儀における弔辞が紹介されています。漫画家仲間の加藤芳郎が次のように手塚の霊に語りかけました。
手塚治虫さん 漫画をこころざし、漫画が好きでたまらない人びとが集まると、『手塚くん――彼は偉いなあ』という話に、いつもなりました。漫画を、これほど親しみやすく、漫画を、これほど人間性ゆたかに、漫画を、これほど一所懸命に、漫画を、――あなたほどひたむきに描きつづけた人を、私はほかに知りません」




また、加藤芳郎は以下のような名文を読み上げています。
手塚治虫さん 漫画家として、あなたは世界中の人間の、希望の星でありました。偉大、という言葉がうつろにひびくほど、空前絶後の才能をお持ちでした。私たちは、そのように認めていましたのに、あなたは不安の雲に包まれているかのよう で、雲を突き破ろうとして、雲といっしょに、永遠という旅を始めてしまったのです」



最後には「手塚治虫さん これからの歳月、二月九日を、私は治虫忌(じちゅうき)とひそかに名づけ、香華を手向けて、あなたの人と業績を偲びたいと思います。遥かなあなたに、私の想いを贈ります」と述べ、「治虫忌や 梅一輪の 重きかな」という句を読んで締めくくっています。わたしは、加藤芳郎という人の卓越した文才と感性に感服しました。


「あなたは天からの使者」では、昭和の歌姫・美空ひばりの葬儀における弔辞が紹介されます。故人の大親友であった女優の中村メイコが次のように霊前で語りかけました。
「寂しくないでしょう、そっちの国は。にぎやかでしょう。あなたほど、そちらのお国に行ってから幸せな人はいないわ。おかあさんが、弟さんたちが、そして久しぶりに、歌が上手だったお父さんにも会えますね。それに、あなたの口ぐせだった、けしきのいい男たちもいっぱいよ。鶴田さんも、裕ちゃんも。そちらのパーティは楽しそうですね。
『メイコ、おまえの席はここ』って、いつものようにあの笑顔で待っていてください。あなたと会える、そう思うと、私はもう死ぬことは怖くありません。あなたは、そんなプレゼントまで私に残してくれました。私はもう、友だちは持たないでしょう。あなたが最高だったから。待っててね」


第三章「寂しいよ、お兄ちゃん」の「君は本当によく演った」では、俳優の三船敏郎の弔辞を日本映画界最高の巨匠・黒澤明が読みました。黒澤・三船のコンビは日本映画の黄金時代を築き上げましたが、一時期、二人の仲は疎遠になっていました。しかし、名優=盟友との別れに際して、黒澤は次のように述べました。
「僕が三船君のことを思う時、君は『酔いどれ天使』の松永だったり、『七人の侍』の菊千代だったり、『用心棒』の三十郎だったりするのだ。彼らはいつまでも僕の中に生きているのです。だから、三船君が、この世からいなくなったとはどうしても思えない」


また、黒澤は以下のようにも述べています。
「とにかく、僕は、三船という役者に惚れこみました。『酔いどれ天使』という作品は、三船というすばらしい個性と格闘することで、僕はやっと、これが俺だ、というものが出来たような気がしています。もし、三船君に出合わなかったら、僕のその後の作品は、全く違ったものになっていたでしょう」


最後に、黒澤は次のように述べています。
「僕たちは、共に日本映画の、黄金時代を作って来たのです。今、その作品の、ひとつ、ひとつを振り返って見ると、どれも三船君がいなかったら出来なかったものばかりです。君は本当によく演ったと思う。三船君、どうもありがとう。僕はもう一度、君と酒でも飲みながら、そんな話がしたかった。さようなら、三船君。また会おう」


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第五章「頑張れって言って、ごめんね」の「無言の、しかし確かに存在する学問の威厳」では、漢字研究の第一人者であり、中国古代哲学から東洋文化史にわたる広範な影響力をもった白川静の弔辞が紹介されます。学生時代から白川を師と仰いだ当時の立命館大学総長の長田豊臣が以下のように述べました。
「このような先生のお姿は、我々だけでなく全ての学生・院生に、心からの畏敬の念を抱かせていました。一時、立命館の教員であった今は亡き高橋和巳が、学園紛争の団交の席などで白川先生が登場すると一瞬にしてその場の空気が変わり、『無言の、しかし確かに存在する学問の威厳を学生が感じる』と述べていましたが、確かにそうでした。先生の視線の先には、常に『本物』の学問研究の営為があったのです」



続けて、長田は故人の思い出について、以下のように語りました。
「学園紛争時代に先生の研究室だけ、真夜中でも煌煌と明かりが灯っていたのは有名な話です。当時先生は昼と夜の2食の弁当を持参され、夜遅くまで研究に没頭されておられました。時々、先生の研究室にお邪魔する我々後輩達の愚痴や、研究上の悩みなどを優しい笑顔で丁寧に聞いてくださり、さりげなく励ましてくださいました。その時、必ずご馳走してくださったお薄と羊羹の味が、昨日のことのように思い出されます。そして激突する両派の学生たちが、そのイデオロギーセクトを超えて、先生の研究室の明かりの中に時代を超えて継承される大学の研究活動の確かさと凄さを感じ取っていたと思います」


第六章「みごとなお骨」の「先生は魔法使いでした」では、映画監督の市川崑の弔辞が紹介されます。女優の岸惠子が詩情ゆたかに語りました。
「先生との思い出はもう胸の奥にたくさん詰まっております。そして私が思うには、先生はちょっと魔法使いのような方だと思います。ずっと前に私がパリで初舞台を踏んだとき に、ジャン・コクトーさんを見ていて、あの方、魔法使いなんじゃないかしらと思ったんですが、先生にもそんなところがおありになって、例えば私が囲炉裏ばたに座っている。綿のはみ出したとっても古い半纏を着て。そこから茶簞笥のあるところまで、先生は『惠子ちゃん、スーッと茶簞笥まで行ってくれ。でも立ちあがっちゃダメだよ。ふわーっと斜めに泳ぐように行ってくれ』っておっしゃって、そんなことできるわけないと思ったんですが、本番になったら、なんとなく体が風になったようで、茶簞笥のところまでスーッと斜めに、立たずに行くことができました。あのとき先生はほんとに不思議な方だと思いました」


第七章「約束の詩」の「私もあなたの作品の1つです」では、漫画家の赤塚不二夫の弔辞が紹介されます。若い頃に故人に非常に世話になったタレントのタモリが次のように述べました。
「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは、見事に一言で言い表しています。すなわち、『これでいいのだ』と」


そして最後に、タモリは以下のように弔辞を締めくくりました。
「私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えたということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうごいました。私も、あなたの数多くの作品の1つです。合掌」



葬儀の後で、タモリが持っていた紙はじつは白紙で、彼は原稿なしで弔辞を述べたことが明らかとなり、日本中が驚きました。
そして、彼の言葉は「最も有名な弔辞」の1つとなりました。
こうして、さまざまな弔辞を読むと、弔辞もまた文学、いや弔辞こそ文学であると思います。わたしの弔辞は誰が読んでくれるのでしょうか?



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年12月26日 一条真也