上智大フューネラル講義

一条真也です。東京に来ています。
20日は朝から冠婚葬祭文化振興財団の評議員会、全互協の中長期ビジョン・新セーフティネット研究会報告書説明会および理事会に参加しました。その後、いったんホテルに帰ってから、わたしは四谷の上智大学に向かいました。夜は、上智大学グリーフケア研究所の人材育成講座科目「グリーフケアと人間学」で連続講義を行うのです。


上智大学の正門前で

講義を行った12号館前で



上智大学グリーフケア研究所といえば、以前は郄木慶子先生が所長を務めておられました。かつて、わたしはブログ『悲しんでいい』で郄木先生の著書を紹介しました。そして現在の所長は、宗教学者島薗進先生です。島薗先生の所長就任は2013年4月1日のことで、ブログ「島薗進先生からのメール」に書かせていただきました。さらには、ブログ「鎌田東二先生からのメール」に書いたように、この4月から「バク転神道ソングライター」こと鎌田東二先生が上智大学グリーフケア研究所の特任教授に就任されました。わたしは、島薗・鎌田両先生との御縁で講義を担当することになったのです。


冒頭、島薗所長から紹介を受けました



最初は18時から「なぜ葬儀は必要か」と題する講義を行いました。
会場は、上智大学四谷キャンパスの12号館201教室です、
島薗所長の御挨拶の後、わたしを紹介していただきました。


みなさん、はじめまして!

わが「葬儀四部作」を紹介しました



登壇したわたしは、まず一礼しました。そして、「いつもはもっと深々とお辞儀をする人間なのですが、最近ぎっくり腰になりまして、失礼しました。今日は7月20日。小学校なら夏休みのスタートですよね。子ども頃は年間でも最高にハッピーな日でした。今日も、ここ上智でみなさまとお会いすることができてハッピーです」


すべては1991年に始まった(1)



それから、「すべては1991年から始まった」という話をしました。現代日本の葬儀に関係する諸問題や日本人の死生観の源流をたどると、1991年という年が大きな節目であったと思います。最近、往復書簡を交わした宗教学者島田裕巳氏も1991年が日本人の葬儀を考える上でのエポックメーキングな年であると述べていましたが、わたしもまったく同意見です。まさにその年に島田氏の『戒名』(法蔵館)と拙著『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(国書刊行会)が刊行されました。ともに既存の葬式仏教に対して大きな問題を提起したことで話題となりました。その他にも「死」と「葬」と「宗教」をめぐって、さまざまな問題が起こりました。


1991年を語る



「死」においては、脳死問題をはじめ、安楽死尊厳死臨死体験と、人の死をめぐる議論がヒートアップしました。91年3月には作家立花隆氏のレポートによってNHKテレビで「臨死体験――人死ぬとき何をみるか」が連続放映され、すさまじい臨死体験ブームが巻き起こりました。また92年1月には、脳死臨調が「脳死は人の死」として臓器移植を認める最終答申を宮沢首相に提出し、さまざまな論議を呼んでいます。


すべては1991年に始まった(2)



「葬」においては、海や山などへの散灰を社会的に認知させる「自然葬」運動によって、法務省が条件つきで「散灰」を認めました。91年2月に「葬送の自由をすすめる会」が発足しています。また、レーザー光線にスモークマシン、シンセサイザーなどを駆使した「ハイテク葬儀」も登場しました。散灰というローテク葬儀とショーアップされたハイテク葬儀は、まったく正反対のべクトル上にあり、この二つが同時期に話題となったことは非常に興味深いと思いました。


宗教界の動きについても説明しました



「宗教」においては、91年1月にはオウム真理教が「救済元年」を宣言して、暴走し始めました。2月には創価学会が「学会葬」を開始し、11月には日蓮正宗創価学会およびSGIを波紋しています。そして、12月には幸福の科学が東京ドームにおいて第1回「エル・カンターレ祭」を開催しました。
その他、宜保愛子というスーパースターの出現による霊能ブーム、チャネリングやヒーリングなどの精神世界ブームも忘れることはできません。これらの「死」と「葬」と「宗教」にまつわる話題は連日マスコミでも取り上げられ、いずれも社会的に大きな関心を集めました。それにしても、これだけの現象がわずか1年の間に集中したのです。改めて、人々の死生観を中心とした価値観が大きな地殻変動を起こし始めたということがわかります。


葬式は、要らない?

「永遠の0」対決



それから、わたしは「0葬」について話しました。通夜も告別式も行わずに、遺体を火葬場に直行させ焼却する「直葬」をさらに進め、遺体を焼いた後、遺灰を持ち帰らず捨てるのが「0葬」です。わたしは宗教学者島田裕巳氏が書いた『0葬――あっさり死ぬ』(集英社)に対して、『永遠葬――想いは続く』(現代書林)を書きました。「永遠」こそが葬儀の最大のコンセプトであり、「0葬」に対抗する意味で「永遠葬」と名づけたのです。かつて、島田氏のベストセラー『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)に対抗して、わたしは『葬式は必要!』(双葉新書)を書きました。今回は、戦いの第2ラウンドということになります。そして、今月27日に島田氏とは「葬儀」をテーマに直接対談を行って、共著を出すことになっています。


「薄葬」の流行



ナチスやオウムは、かつて葬送儀礼を行わずに遺体を焼却しました。ナチスガス室で殺したユダヤ人を、オウムは逃亡を図った元信者を焼いたのです。今年になって、「イスラム国」と日本で呼ばれる過激派集団が人質にしていたヨルダン人パイロットのモアズ・カサスベ中尉を焼き殺しました。わたしは、葬儀を抜きにして遺体を焼く行為を絶対に認めません。しかし、イスラム国はなんと生きた人間をそのまま焼き殺したのです。



現在の日本では、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」が増えつつあります。あるいは遺灰を火葬場に捨ててくる「0葬」といったものまで注目されています。 しかしながら、「直葬」や「0葬」がいかに危険な思想を孕んでいるかを知らなければなりません。葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は「礼」すなわち「人間尊重」に最も反するものであり、ナチス・オウム・イスラム国の巨大な心の闇に通じているのです。



一連のオウム真理教事件の後、日本人は一気に「宗教」を恐れるようになり、「葬儀」への関心も弱くなっていきました。もともと「団塊の世代」の特色の一つとして宗教嫌いがありましたが、それが日本人全体に波及したように思います。それにしても、なぜ日本人は、ここまで「死者を軽んじる」民族に落ちぶれてしまったのでしょうか?


葬儀は「不死」のセレモニーである!



葬儀によって、有限の存在である“人”は、無限の存在である“仏”となり、永遠の命を得ます。これが「成仏」です。葬儀とは、じつは「死」のセレモニーではなく、「不死」のセレモニーなのです。そう、人は永遠に生きるために葬儀を行うのです。「永遠」こそが葬儀の最大のコンセプトであり、わたしはそれを「0葬」に対抗する意味で「永遠葬」と名づけたのです。


葬儀は人類の存在基盤である!



さらに、わたしは『唯葬論』(三五館)を上梓しました。
同書のサブタイトルは「なぜ人間は死者を想うのか」です。わたしのこれまでの思索や活動の集大成となる本です。
わたしは、人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。約7万年前に、ネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルからヒトへと進化しました。その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行いました。
つまり「死」ではなく「葬」こそ、われわれの営為のおおもとなのです。
そして、いま、超高齢社会を迎えた日本人には「人生を修める」という心構え、すなわち「修活」が必要とされています。


儀式なくして人生なし!

最古にして現在進行形の営為



わたしは『儀式論』を書くにあたり、「なぜ儀式は必要なのか」について考えに考え抜きました。そして、儀式とは人類の行為の中で最古のものであることに注目しました。ネアンデルタール人だけでなく、わたしたちの直接の祖先であるホモ・サピエンスも埋葬をはじめとした葬送儀礼を行いました。人類最古の営みは他にもあります。石器を作るとか、洞窟に壁画を描くとか、雨乞いの祈りをするとかです。しかし、現在において、そんなことをしている民族はいません。儀式だけが現在も続けられているわけです。最古にして現在進行形ということは、普遍性があるのではないか。ならば、人類は未来永劫にわたって儀式を続けるはずです。


「礼欲」の発見

人間と儀式

人間は儀式的動物である!



じつは、人類にとって最古にして現在進行形の営みは、他にもあります。
食べること、子どもを作ること、そして寝ることです。これらは食欲・性欲・睡眠欲として、人間の「三大欲求」とされています。つまり、人間にとっての本能です。わたしは、儀式を行うことも本能ではないかと考えます。ネアンデルタール人の骨からは、葬儀の風習とともに身体障害者をサポートした形跡が見られます。儀式を行うことと相互扶助は、人間の本能なのです。この本能がなければ、人類はとうの昔に滅亡していたのではないでしょうか。


講義後の島薗所長とのトークタイム

質問にお答えしました



葬儀は人類の存在基盤です。葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。
もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。
葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。
葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのではないでしょうか。
講義後は島薗先生とのトークタイム、それから質疑応答などを受けました。


質問する稲葉先生

稲葉先生の質問を聴く

真摯にお答えしました

鎌田先生も聴いて下さいました

葬儀とは「あの世」への送信クリック?

稲葉先生と・・・・・・

鎌田先生と・・・・・・



この日は「未来医師イナバ」こと東大病院の稲葉俊郎先生も駆け付けて下さり、「霊的な視点からみて葬儀とはどういう行為か」といった質問を受け、わたしは「葬儀は彼岸への送信クリックのようなものだと思う。こちらの世界から1人そちらに向かったというサインを送る意味があるのではないか。この送信クリックをしっかり行わないと、魂のエコロジーが崩れてしまうように思う」と答えました。最後は、盛大な拍手を頂戴して感激しました。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年7月20日 一条真也