六月博多座大歌舞伎

一条真也です。
24日の夕方、わたしは「博多座」を訪れました。中村芝雀改め五代目中村雀右衛門襲名披露「六月博多座大歌舞伎」を鑑賞するためです。
ブログ「松竹大歌舞伎」で紹介した昨年9月23日以来の歌舞伎鑑賞でした。あのときは、中村翫雀改め四代目中村雁治郎襲名披露公演でした。
小倉駅から新幹線に乗ったら、なんと話題の「エヴァンゲリオン号」でした。
わたしは、パープルの車体のエヴァに乗って博多に向かいました。


新幹線「エヴァンゲリオン号」で博多へ・・・

駅構内のポスターの前で

博多座にやってきました

博多座の前で



わたしが訪れた「夜の部」の演目は、「双蝶々曲輪日記『引窓』」、「五代目中村雀右衛門襲名『口上』」、「本朝廿四孝」、「女伊達」です。
今回は、次回作である『儀式論』の「芸能と儀式」という章を書く際に歌舞伎に大いに言及したこともあり、たまらなく歌舞伎が見たくなって博多座にやってきました。わたしが広告代理店の新入社員だった頃、歌舞伎座100周年記念イベントの仕事をしたことがあります。連日、歌舞伎について勉強し、また鑑賞するうちに、その魅力にすっかり取りつかれたのですが、最近は忙しさにかまけて歌舞伎から遠ざかっていました。



今年の「六月博多座大歌舞伎」は、中村芝雀改め五代目中村雀右衛門襲名興行です。公演に先駆けて行われる「船乗り込み」もすっかり博多の風物詩としておなじみとなりましたが、今年は雨天中止で式典のみでした。今回この襲名興行に華を添えるべく 坂田藤十郎尾上菊五郎片岡仁左衛門といった豪華俳優が出演しています。


公演プログラム

五代目中村雀右衛門(プログラムより)



中村芝雀改め五代目中村雀右衛門のプロフィールは以下のとおりです。
昭和30年11月20日、四代目 中村雀右衛門の二男として東京に生まれました。兄は八代目大谷友右衛門。昭和36(1961)年二月歌舞伎座「一口剣」村の子明石で大谷広松を名乗り初舞台。屋号京屋。昭和39(1964)年、九月歌舞伎座三笠山御殿」御半下おひろで七代目中村芝雀を襲名。女方として、時代物、世話物、新歌舞伎、舞踊などで数々の役を演じる。近年では父雀右衛門の当たり役にしていた、「金閣寺」雪姫、「本朝廿四孝」八重垣姫、「仮名手本忠臣蔵」おかる、「義経千本桜」静御前、「傾城反魂香」おとく、「引窓」お早、「葛の葉」葛の葉、「毛利村」お園、「番町皿屋敷」お菊、「井伊大老」お静、「一本刀土俵入」お蔦、「藤娘」藤の精、「勧進帳源義経など、着実に芸域を広げ、定評を得ており、京屋の芸の継承に努めています。平成20(2008)年日本芸術院賞受賞。
平成22(2010)年紫綬褒章


久々に博多座に入りました

花道のすぐ隣の席でした

この幕の向こうに別世界が・・・



さて、博多座の中に入り、会場を見渡すと、高齢者の方がほとんどでした。
中には杖をついて来られた方も見られました。一般に高齢者の方は時代劇が好きだと言われます。歌舞伎も江戸時代を舞台とした演劇です。「引窓」を鑑賞しながら思ったのですが、お年寄りになればなるほど昔の話を好まれる理由がわかったような気がしました。というのも、江戸時代に生きていた人々というのは、現在はもう生きていません。いわば、死者です。高齢の観客は、舞台の上で生き生きと動いている江戸時代の人々が間もなく死ぬことを知っています。すると、「どんな元気な人間でも、いつかは死ぬ」、ひいては「人間が死ぬことは自然の摂理である」ということを悟り、自身が死ぬことの恐怖が薄らぐのではないでしょうか。歌舞伎を見てこんなことを思うなんて、わたしはやはり唯葬論者なのかもしれません。


「引窓」(プログラムより)

総勢12名の豪華な口上でした(プログラムより)



続いて、四代目中村雁治郎襲名披露「口上」が行われました。
舞台上には総勢12名の役者、左から仁左衛門時蔵錦之助松緑、友右衛門、芝雀改め雀右衛門藤十郎左團次、孝太郎、菊之助歌六菊五郎が並ぶという豪華な「口上」でした。
わたしは、歌舞伎の襲名というのは儒教における「孝」そのものであると考えています。現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒に共に生きていることになります。わたしたちは個体としての生物ではなく一つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけです。これが儒教のいう「孝」であり、それは「生命の連続」を自覚するということです。



演劇としての歌舞伎には、華があります。「華」は「花」に通じますが、歌舞伎にはもともと「花形」や「花道」といった花にまつわる言葉があります。相撲や芝居で花形に与えるお金も「花」と呼びます。力士や役者への心づけを「花」というのは、まず見物のときに造花を贈って、翌日お金を届ける習慣から来たそうです。歌舞伎の「花道」も、ここを渡って客が役者に花を贈ったことから、この名がついたわけですね。「花形役者」は、客から花を贈られるほどの才能の持ち主というのが本来の意味です。



また、芸者や遊女と遊んだ料金を「花代」といいます。これも、花に代わるものとしての金銭という意味ですね。どの言葉も、遊芸者と客のあいだの花のやりとりに起源があることに気づきます。これは、もともと花が御幣として神々を呼ぶ力を持っていたことにも関係があります。力士にしろ、遊女にしろ、遊芸者とは神々の代理人という役割があったわけですね。彼らは人間界の「花」でした。しかし、何よりも人間界の「花」といえば、役者に尽きるでしょう。現在でも芸能人のことをスターと呼びますが、かつては役者のことを「花」と呼んだのです。


江戸には三つの花がありました。火事と喧嘩は、みなさんもご存知かと思います。もう一つの花とは何か。それは、歌舞伎役者の市川団十郎でした。当時の江戸ッ子たちは、口々に団十郎を「江戸の花」と讃えました。『明和技鑑』という本では、団十郎を役者の氏神と記していますが、とにかく「江戸の飾海老」とも「江戸の花」とも称された大スターでした。十三代目市川団十郎となるであろう市川海老蔵も、まさに天性の「江戸の花」という雰囲気を持っていますね。現在は奥様の病気で大変であると思いますが、一日も早い團十郎襲名の日を楽しみにしています。今年は五代目中村雀右衛門と八代目中村芝翫の襲名で盛り上がっていますが、海老蔵團十郎と、勸玄くんの新之助同時襲名が行われれば、過去最高の盛り上がりを見せるのは間違いありません。そのときは、わたしも歌舞伎座に駆けつけたいです。


幕間にうな重を食べました


襲名披露の口上の後は、30分間の休憩で、わたしは予約していた「うな重」をいただきました。歌舞伎の幕間の料理やお酒は、ことさら美味しい。
休憩後は、「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」です。これは、戦国武将の武田信玄上杉謙信(作中では長尾謙信)の戦いや、中国の二十四孝の故事に取材した近松半二らによる「時代物」の「義太夫狂言」です。


「本朝廿四孝」(プログラムより)



歌舞伎への誘い〜歌舞伎観賞の手引き」の「歌舞伎の演目『本朝廿四孝』」には、以下のように書かれています。
「互いに争っていた信玄と謙信は、将軍足利義輝暗殺の犯人捜査を命じられたことにより、それぞれ息子の武田勝頼と娘八重垣姫を婚約させ、3年間休戦します。八重垣姫が、身分を偽って謙信の館に入り込んだ武田勝頼に恋心を訴える通称『十種香』、謙信からの追手の存在を勝頼に知らせようとする八重垣姫に狐の霊力が乗り移り、奇跡が起こる通称『狐火』を中心に上演されます。この八重垣姫は、女方の大役である『三姫』の1つに数えられる役として有名です」


「本朝廿四孝」(プログラムより)

謙信公の登場に狂喜しました(プログラムより)



わたしは上杉謙信公をこよなく敬愛していますので、謙信公が舞台に登場したときは狂喜しました。歌舞伎の上演時には役者に向かって「○○屋!」と屋号の掛け声が飛び交いますが、わたしは謙信公に向かって「不識庵!」と声を掛けたいぐらいでした。実際には、無粋な行いは避けて、心の中だけで声掛けしました。「引窓」は昨年も小倉で観た演目でしたが、この「本朝廿四孝」は初めての観賞であり、新鮮で素晴らしかったです。


「女伊達」(プログラムより)

「女伊達」(プログラムより)



最後の「女伊達」もとても良かったです!
宝塚の第二部みたいで豪華絢爛でした。(笑)
この日は、久々に大歌舞伎を堪能させてもらいました。
今度は、ぜひ歌舞伎座で大歌舞伎を楽しみたいと思います。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年6月24日 一条真也