オバマ大統領の広島訪問に思う

一条真也です。
いま、新幹線で小倉駅に帰り着きました。ブログ「羽田空港を脱出!」に書いたように、大韓航空機の事故によって羽田空港が大混乱となり、急遽、飛行機から新幹線に変更したのです。いやもう、大変疲れました。


本日夕刻、バラク・オバマ大統領は現職の米国大統領として初めて被爆地・広島を訪問。安倍晋三首相と共に平和記念資料館を見学後、原爆死没者慰霊碑に献花し、第2次世界大戦のすべての犠牲者を追悼しました。


慰霊碑前で安倍首相と握手するオバマ大統領



オバマ大統領は献花後に所感を読み上げて、広島への原爆投下について「空から死が落下し、世界が変わった。原爆投下は人類が自らを滅ぼす手段を手に入れたことを意味した」と述べて核兵器なき世界への決意を強調し、さらに「広島と長崎が核戦争の夜明けとして知られる未来ではなく、わたしたち自身の道義的な目覚めとなる未来」の実現を呼びかけました。


原爆犠牲者に献花するオバマ大統領



オバマ大統領は今回の広島訪問について、キューバとの国交回復やイランとの核合意などと並ぶ在任中の「レガシー(政治的な遺産)」と位置づけているそうです。読み上げられた声明では核廃絶への決意を強調し、第2次世界大戦末期に原爆を投下した広島や長崎をはじめ全ての犠牲者を追悼するとともに、戦火を交えた日米両国の和解の軌跡と揺るぎない同盟関係も力説した内容でした。


「核のない世界」を訴えたオバマ大統領



オバマ大統領は、2009年4月にチェコの首都プラハで「核兵器なき世界」を実現する決意を表明し、ノーベル平和賞を受賞しています。核兵器を使用した唯一の国として核軍縮へ行動する道義的責任について言及しており、今回の声明もこのプラハ演説の骨格を踏襲したものでした。


今回のオバマ大統領の行動は意義のあるものであり、わたしは深い敬意を表します。しかし、あえて言わせていただきます。
オバマ大統領には、ぜひ長崎も訪問していただきたかった。
核兵器を使用した唯一の国」として世界中で日本に2か所しかない被爆地である広島と長崎への慰霊を行う「歴史的な機会」を逃してしまったのは遺憾ですし、本当に残念でなりません。
日本としても強く長崎への訪問を要請していたのでしょうか。


オバマ大統領の来日スケジュール



広島の原爆は長崎の原爆より重いとでも言うのでしょうか? 
人類最初と2番目、14万人の犠牲者と7万4000人の犠牲者という差はありますが、「最初だからとか、死者の数が多いからといって偉いわけではないだろう!」といつも憤慨していました。そこには占領国のアメリカ側による「記憶の選択と集中」という政策があったことをずいぶん後になって知り、やっと長年の疑問が解けました(もっとも、納得はしていませんが)。


オバマ大統領の広島での予定



広島に原爆が投下された「8月6日」の記憶について、終戦まで広島の被害の詳細は日本政府によって隠蔽され、その後の占領期にはアメリカ軍による厳しい情報統制の対象となりました。8月6日の「朝日新聞」社説で原爆について言及されたのは、占領末期の1949年になってからです。つまり、戦後日本で原爆の記憶はローカルなものにとどまっていました。その意味では、「8月6日」は占領終了後に、国民的記憶として新たにつくられたと言えます。わたしたちは、「8月6日」同様に「8月9日」を絶対に忘れてはなりません。オバマさん、できれば長崎にも来てほしかった!


ブログ「北九州市原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に書いたように、昨年の8月9日、70回目の「長崎原爆の日」、わたしは小倉の勝山公園で行われた式典に、ただ1人の民間企業の代表として参列しました。
わたしにとって、8月9日は1年のうちでも最も重要な日です。
わたしは53年前に小倉に生まれ、今も小倉に住んでいます。
小倉とは、世界史上最も強運な街です。なぜなら、広島に続いて長崎に落とされた原爆は、本当は小倉に落とされるはずだったからです。


70回目の「長崎原爆の日」に犠牲者に献花

原爆犠牲者慰霊平和祈念碑に水をかける



長崎型原爆・ファットマンは65年前の8月6日にテニアン島で組み立てられました。8日には小倉を第1目標に、長崎を第2目標にして、9日に原爆を投下する指令がなされました。9日に不可侵条約を結んでいたソ連が一方的に破棄して日本に宣戦布告しました。
この日の小倉上空は視界不良だったため投下を断念。
第2目標の長崎に、同日の午前11時2分、原爆が投下されました。この原爆によって7万4000人もの生命が奪われ、7万5000人にも及ぶ人々が傷つき、現在でも多くの被爆者の方々が苦しんでおられます。
もし、この原爆が予定通りに小倉に投下されていたら、どうなっていたか。
広島の原爆では約14万人の方々が亡くなられていますが、当時の小倉・八幡の北九州都市圏(人口約80万人)は広島・呉都市圏よりも人口が密集していたために、想像を絶する数の大虐殺が行われたであろうとも言われています。そして当時、わたしの母は小倉の中心部に住んでいました。よって原爆が投下された場合は確実に母の生命はなく、当然ながらわたしはこの世に生を受けていなかったのです。


犠牲者の方々の御冥福をお祈りしました

心を込めて礼拝しました



死んだはずの人間が生きているように行動することを「幽霊現象」といいます。考えてみれば、小倉の住人はみな幽霊のようなものです。
それにしても都市レベルの大虐殺に遭う運命を実行日当日に免れたなどという話は古今東西聞いたことがありません。普通なら、少々モヤがかかっていようが命令通りに投下するはずです。当日になっての目標変更は大きな謎ですが、いずれにせよ小倉がアウシュビッツと並ぶ人類愚行のシンボルにならずに済んだのは奇跡と言えるでしょう。
その意味で、小倉ほど強運な街は世界中どこをさがしても見当たりません。
その地に本社を構えるサンレー のミッションとは、死者の存在を生者に決して忘れさせないことだと、わたしは確信しています。


「毎日」「朝日」「読売」「西日本」新聞 昨年8月9日の朝刊広告



小倉の人々は、原爆で亡くなられた長崎の方々を絶対に忘れてはなりません。いつも長崎の犠牲者の「死者のまなざし」を感じて生きる義務があります。なぜなら、長崎の方々は命の恩人だからです。しかし、悲しいことにその事実を知らない小倉の人々も多く存在しました。そこで、10年以上前から長崎原爆記念日にあわせて、サンレーでは毎年、「昭和20年8月9日 小倉に落ちるはずだった原爆。」というキャッチコピーで「毎日新聞」「読売新聞」「朝日新聞」「西日本新聞」に意見広告を掲載しています。


万感の想いで長崎の鐘を鳴らしました



そもそも、7万4000人の犠牲者よりも14万人の犠牲者のほうが上などという馬鹿な話はありません。そもそも、1人の人間の死は大事件です。東日本大震災の直後に、ビートたけし氏が「2万人の人間が死んだんじゃない。1人の人間が死ぬという大事件が2万回起こったんだ」という名言を残されていますが、まさにその通りだと思います。それなのに、現代日本では通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させて焼却する「直葬」が流行し、さらには遺体を焼却後、遺灰を持ち帰らずに捨ててしまう「0葬」も登場。あいかわらず葬儀不要論も語られています。


永遠葬

永遠葬

唯葬論

唯葬論

そういった風潮に対して、わたしは、『永遠葬』(現代書林)および『唯葬論』(三五館)を書きました。わたしたちは、死者を決して忘れてはなりません!


オバマ大統領の広島訪問を伝える各紙



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年5月27日 一条真也