普天間宮

一条真也です。沖縄に来ています。
11日の14時40分に那覇空港に到着したわたしは、サンレー沖縄の迎えの車に乗り、そのまま宜野湾市普天間にある「普天間宮」に向かいました。ここは「普天満権現」の別称を持ち、琉球八社の1つです。


普天間宮本殿



琉球八社とは琉球王国より特別な扱いを受けた波上宮・沖宮・識名宮普天満宮末吉宮安里八幡宮天久宮金武宮の8つの神社です。いずれも真言密教の影響が強いとされていますが、安里八幡宮のみ八幡神が祀られ、それ以外は熊野神が祀られています。


普天間宮の新垣義夫宮司


普天間宮は、沖縄県宜野湾市普天間にあり、沖縄県中部最大の聖地として参拝者が多い神社です。沖縄本島において、中部はもとより北部の建築関係諸祈願、結び(諸願成就)の神様として信仰されているのも特徴です。
普天間宮公式HPには、「普天間宮の御由緒」が紹介されています。
「創建については、往昔、普天満の洞窟に琉球古神道神を祀ったことに始まり、尚金福王から尚泰久王(1450−60年)の頃に、熊野権現を合祀したと伝えられています。現存する古い記録には『普天満権現』碑(1590年)があります。『琉球神道記』(1605年)『琉球国由来記』(1713年)『琉球国旧記』(1731年)にも当宮関係が記載されています。
近世沖縄における熊野三山いわゆる権現信仰は、琉球八社はもとより、その分社やビジュル・観音・霊石信仰とも習合しながら、県内広域に伝播し拝所としても数多く存在します。


新垣宮司のお話を伺いました



また、「普天間宮の御由緒」には以下のようにも書かれています。
「旧暦九月には普天満参詣といって、かつては中山王をはじめノロ、一般の人々が各地より参集し礼拝の誠を捧げました。昭和20年、戦時中は当時の社掌が御神体を捧持して糸満へ避難しました。戦後は、社掌の出身地である具志川村(現うるま市)田場に仮宮を造りて祀り、その後、普天間の境内地が米軍より解放されると、昭和24年2月、元の本殿に還座しました」


「仙人図」



普天間宮といえば、ガマ(洞窟)で有名です。
普天間宮の御由緒」には以下のようにも書かれています。
「当宮の縁起伝承には、首里桃原に女神が出現され、のちに普天間宮の洞窟に籠られた伝承があります。また、洞窟より仙人が現れ『我は熊野権現なり』と示された伝承や、また、中城間切安谷屋村の百姓夫婦や美里間切東恩納村の『当ノ屋(屋号)』に黄金(神徳)を授け苦難を救ったという伝承もあります。なお『当ノ屋』ではそのお礼参りが今も続いています」


「仙人図」



最近、「バク転神道ソングライター」こと鎌田東二先生の最新刊『世阿弥――心身変容技法の思想』(青土社)を読んだのですが、その中に宗教や芸術の発生が洞窟と深く関わっていたという記述があり、強い関心を抱きました。洞窟壁画で有名なアルタミラやラスコーをはじめ、古代人は母胎のメタファーである洞窟内において心身の変容を体験したというのです。そして、鎌田先生は沖縄の神社にもガマが備えられており、中でも普天間宮のガマが代表的であると書かれていました。


世阿弥 -身心変容技法の思想-

世阿弥 -身心変容技法の思想-

2011年3月28日、東日本大震災の衝撃も冷めやらぬ中、鎌田先生は映画監督の故大重潤一郎監督とともに普天間宮を訪れ、新垣宮司と面会されました。新垣宮司は、琉球八社の信仰が、沖縄の古層の民間信仰の上に乗っかり、抱き合わせになっていることをわかりやすく説明してくれたそうです。たとえば、沖縄の代表的な民衆の踊りは「カチャーシ」ですが、それは「掻く+合わす」から来ているといいます。つまり、混ぜ合わ、掻き混ぜ合わせることが、「カチャーシ」の語源だというのです。これは、別の言い方をすれば、「チャンプルー」であり、「習合」ということになります。
ガマ(洞窟)信仰とテダ・ガ・アナ(太陽の穴)信仰とニライカナイという他界信仰が結びついたところに、中世に熊野権現信仰が入ってきて、抱き合わせになりました。混合状態、掻き合わせ・チャンプルーとなり、それがたとえば普天間宮熊野権現信仰の世界と作っているというわけです。


ガマについて語る新垣宮司



新垣宮司は「ガマ研究の第一人者」として知られています。
宜野湾市だけで150近くあるガマの1つ1つを新垣宮司が自ら調べて書いた論文「宜野湾市の洞窟」(『宜野湾市史』第9巻資料編自然、125〜188頁、2000年3月31日発行)によれば、150ほどある洞窟の中で、祈りの対象となっているものは10くらいで、墓となっているものは数十あるといいます。また、琉球八社の内、七社が熊野権現であるが、その内、五社がガマを持っているといいます。中でもガマを本殿としてきたのが、普天間宮である。今は洞窟は本殿の裏にあって奥宮となっているが、もともとはここですべての祈りと祭りを行っていたというのです。


普天間宮洞穴の「奥の宮」


鎌田先生は本殿で正式参拝をした後、奥宮の鎮座する洞窟に入りました。
そのときの感想および感動を、鎌田先生は「東山修験道その98 沖縄本島最終日」で以下のように書かれています。
「やはりすばらしい! 美しい! 清らかで、崇高で、ダイナミックだ。
まるで、バロック! バッハのオルガン曲とか、『マタイ受難曲』とかも似合いそう。カトリックの荘厳な教会のような感じもある。新垣宮司さんによれば、満月の日に電気を消して、月光の光だけで洞内にいると、それはそれは神秘的だとか。聞いただけでファンタスティックでミスティックだ。満月の夜に文通『ムーンサルトレター』を交換している時代錯誤のわたしとしてはぜひそんな時間と空間を体験したいと思うのだった。
ここで、石笛、横笛、法螺貝を奉奏。洞内に響き渡るわが三種の神器。大重監督曰く、『カマッさん、ほんま、じつに、しみわたったよ。太古からの時間の流れをパノラマで見るようだった』」


サンレー沖縄の黒木部長も一緒でした



今は亡き大重監督の言葉にはシンミリとしてしまいます。
ブログ「『久高オデッセイ』上映会&シンポジウム」で紹介したイベントで、大重監督の遺作を東京・両国にある「シアターX(カイ)」で観賞したのは、昨年の7月5日でした。そして、その月の22日に大重監督は逝去されたのです。まさに上映会は大重監督の生前葬となりました。映画はサンレー沖縄の黒木昭一部長と一緒に観賞しましたが、この日の普天間宮訪問でも彼が一緒でした。ブログ「大重監督を偲ぶ会」ブログ「大重監督のお別れ会」で紹介した一連の葬送セレモニーはサンレー沖縄の「豊崎紫雲閣」において行われ、黒木部長が担当しています。


ガマの入口

これが普天間洞穴だ!!

まさにバロック!!

この上なく幻想的です

洞窟からすべては生まれた!



それにしても、「満月の夜に文通『ムーンサルトレター』を交換している時代錯誤のわたし」という鎌田先生のお言葉にはガクッとなりました。それでは、文通相手のわたしも時代錯誤ということになりますね。
まあ、その通りですから構いませんけど。(苦笑)
ということで、わたしもガマの中に入ってみました。
いやもう、言葉にできないほどの感動をおぼえました。
「儀式も神話も哲学も芸術も宗教も、すべては洞窟の中から始まった!」という直観を得ました。次回作の『儀式論』(弘文堂)では「空間と儀式」という一章を設け、洞窟における儀式の発生について述べたいと思います。


普天間宮洞穴にて

普天間宮洞穴の「奥の宮」

龍頭岩

この陽石(男根形)が自然に出来たとは!

上には陽石(男根形)、下には陰石(女陰形)



普天間宮公式HPの「境内のご案内」には、普天満宮洞穴(市指定文化財「名勝」)が以下のように紹介されています。
「洞穴は、全長280m、洞口が2カ所、大きな広場が三カ所あり、過去の水流の痕跡を示す洞穴ノッチも見られます。
洞穴の形成規模等からして地域の地形地史を知るうえでも貴重なものです。洞窟内及び東洞口付近は遺跡となっており、沖縄貝塚時代前期後半以後(約3000年前)の遺物が多数発掘されています。また、約2万年前の琉球鹿、琉球キョン、イノシシなどの化石も発見され『普天満宮洞穴』は平成3年8月1日付で、宜野湾市文化財『名勝』に指定されました。」


約2万年前の琉球鹿の化石

普天間洞穴で新垣宮司



ブログ「秋芳洞」にも書きましたが、もともと、わたしは鍾乳洞などの洞窟が大好きです。北九州市小倉南区にある平尾台の鍾乳洞にも子どもの頃からよく行きました。また、学生時代にドイツのバイエルン州フュッセンの南方に位置するノイシュヴァンシュタイン城を訪れたときには、ルートヴィヒ2世がオペラ用に造らせたという城内洞窟を見て、狂喜しました。
わたしはバリバリのロマン主義者であると自認していますが、洞窟はロマン主義者にとって大好物なのです。暗い洞窟の中で気の遠くなるような時間をかけて形を成した多様な鍾乳石を見ていると、まるで冥界に下りたような気がしてきて、イマジネーションが豊かになります。そして、「永遠」のイメージが強く心に浮かんできます。


洞窟のなかの心

洞窟のなかの心

ブログ『洞窟のなかの心』で紹介した本で、著者のデヴィッド・ルイス=ウィリアムズは同書の最終章である第十章「洞窟をめぐる論争」の最後を次のように締めくくっています。
クロード・レヴィ=ストロースによれば、神話は『それを作り出した知的な衝動が尽きるまで』『螺旋状に』展開していくという。後期旧石器時代の心的状態、固定化されたイメージ群、社会関係、そして洞窟からなる相互関連の総体もまたそうだったのではなかろうか。そして、およそ1万年前、ネアンデルタール人の滅亡のはるかのちに、社会的、環境的そして経済的な変化が霊的世界の場所を地上に設置することを余儀なくさせ、こうして洞窟芸術は終焉を迎えるのである。後期旧石器時代の宗教的指導者や政治的指導者たちは、自らの手で地下の奥深くに絵を描き記した、だがそれはまた別の話である」


わたしは、もともと洞窟絵画には並々ならぬ関心を抱いておりましたので、ブログ「世界最古の洞窟壁画」で紹介した映画も夢中で鑑賞し、DVDも購入しました。この作品は、ショーヴェ洞窟と、そこに残されていた世界最古の壁画をめぐるドキュメンタリー映画で、3D上映となっています。
ショーヴェ洞窟とは、1994年12月、ジャン=マリー・ショーヴェが率いる洞窟学者のチームが発見した洞窟です。そこには、なんと3万2000年前に描かれた壁画が奇跡的に保存されていました。3万2000年前といえば、1万5000年前のものとされるラスコー壁画よりも1万7000年も古いわけです。そういえば、鎌田先生にこの「世界最古の洞窟壁画」をムーンサルトレターの第81信で紹介したことがあります。その後、鎌田先生はこの映画を観られたようで、『世阿弥』の中にも登場していました。


普天間基地の前で

普天間基地前には警告が・・・



ところで、普天間といえば米軍基地です。鎌田先生は「東山修験道その94 普天間宮の洞窟(ガマ)の聖驚愕」で以下のように書かれています。
普天間宮のすぐ隣が米軍の普天間基地だった。なぬ〜! という、呻き声が腹の底からせり上がってくる。『聖地は性地であり、政地である』という主張をここ30年来してきたが、まさにその主張が現実になっている。
聖なる場所とは生命にとって豊穣をもたらすエロス的な産出力の充満するムスビの地である。それゆえに、豊穣を国是とする国家権力にとってそこは政治的な要所ともなり、支配の拠点となる地である。琉球王府にとっても、薩摩藩にとっても、日本国にとっても、米軍にとっても、そこは重要で、それを支配に組み込むか、威力を殺ごうとするか、違いはあっても、そのような聖なる場所が恐るべき威力を秘め持っているという認識を持っていることでは共通しているということだ」


琉球八社の「波の上宮」にて(2010年)



「聖地は性地」ということを、わたしは2010年5月28日に訪れた那覇の波の上ビーチで実感しました。ブログ「波の上ビーチ」に書きましたが、波の上ビーチの隣には神社があります。琉球八社の1つで、イザナミノミコトを御祭神とする波上宮です。その隣は寺院。真言宗高野山派の波上山護国寺です。さらにその隣は孔子廟至聖廟孔子道教の神々がともに祀られています。ここでは、わずか数百メートルの圏内に道教も含め、神道、仏教、儒教の宗教施設が隣接しているのです。いわば、異なる宗教が共生しているのです。


波の上ビーチの横はラブホ街!



まさに、「沖縄のチャンプル文化ここにあり!」を見せつけられる思いがします。さらには、天理教などの新興宗教の神殿やチャペルまで集まってきています。その上、それらの宗教施設の周囲にはなんと、ラブホテルとソープランドまでがずらりと並んでいるのです。まさに、聖地とは性地なり!


辺野古基地の近くにオープンした「北部紫雲閣」(2012年)



それから、「聖地は政地」ということについてつねづね思うのは、セレモニーホールの存在意義です。2012年12月25日、沖縄県名護市に「北部紫雲閣」がオープンしました。このすぐ近くには、辺野古基地があります。その竣工式の主催者挨拶において、わたしは、「セレモニーホール」とは「基地」の反対としての究極の平和施設ではないかと述べました。なぜなら、「死は最大の平等」であり、亡くなった方々は平和な魂の世界へと旅立たれるからです。セレモニーホールとは平和な世界への駅であり港であり空港なのだと思います。


普天間宮本殿前で新垣宮司



沖縄は「守礼之邦」と呼ばれます。もともとは琉球宗主国であった明への忠誠を表す言葉だったようですが、わたしは「礼」を「人間尊重」という意味でとらえています。沖縄の方々は、誰よりも先祖を大切にし、熱心に故人の供養をされます。日本でも最高の「礼」を実現していると思います。先の戦争では、沖縄の方々は筆舌に尽くせぬ大変なご苦労をされました。わたしたちは、心を込めて、沖縄の方々の御霊をお送りするお手伝いをさせていただきたいと願っています。普天間基地の近くにも平和施設としてのセレモニーホールを作る日が来るかもしれません。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年4月11日 一条真也