『神話と意味』

神話と意味 (みすずライブラリー)


一条真也です。
『神話と意味』レヴィ=ストロース著、大橋保夫訳(みすず書房)を読みました。1978年に刊行され、96年に邦訳が出ています。わずか80ページほどの薄い本ですが、内容は非常に充実していました。「人類は神話と儀礼を必要とする」というのはわが持論ですが、構造人類学の権威であるレヴィ=ストロースが神話の意味についてわかりやすく語っています。



カバー裏には、以下のような内容紹介があります。
「〈神話と科学〉〈未開と文明〉〈神話と歴史〉〈神話と音楽〉などをテーマに、CBCラジオ(カナダ)で放送された5回の講話を編集したもの。すでに出版されていた『野生の思考』『神話論』4部作などに対する読者の反応や疑問を集約した、短い質問に答えるかたちをとっている。フランス語でなく英語で、書くのでなく話した――この二つの理由から、神話的思考の本性と役割、神話研究の意義と方法についてのレヴィ=ストロースの基本的な考え方を、きわめて率直かつ明快なことばで読みとることができる」



本書の「目次」は以下のようになっています。
序(ウェンディ・ドニジャー)
まえおき
1 神話と科学の出会い
2 “未開”思考と“文明”心性
3 兎唇と双生児――ある神話の裂け目
4 神話が歴史になるとき
5 神話と音楽
訳者あとがき
参考文献



本書の「序」で、シカゴ大学のウェンディ・ドニジャーは述べています。
「神話は言語の一形態である。言語自体が、実際には一体のものであるかもしれない与件の上に弁証法や二分法や二元グリッドを重ねることで、われわれに、自分自身とわれわれの世界を理解しようと試みるようにしむける。そして言語の下には、脳の二分法的性質がある。右と左、善と悪、生と死――これらは、右脳と左脳に分かれ、2つの目、2つの手をコントロールするわれわれの脳からくる不可避的二項対立なのである。われわれは、文字どおり本性から、被造物を分割し、データを単なるデジタル・マシンのように組織する。われわれの共通感覚は二分的である。経験を処理するもっとも簡単でもっとも有効な方法は、それを半分に分割し、それぞれをさらに半分ずつに割り、イエスかノーかの2つの答えしかないようにしてあらゆる問題を組み直すことである。
このような分析の結果として出る要素をレヴィ=ストロースは『神話素』と呼ぶ。これは、同僚だった言語学者ロマーン・ヤコブソンが、単語を構成する有意の音声の最終不可分構成要素を『音素』と呼ぶのに対応している。神話は、しじゅう使われるすべてのものと同様に、壊れてまたくっつけられたり、失われてまた見つけ出されたりする。それを見つけ出し、くっつけて再使用するなんでも屋レヴィ=ストロースはbricoleur『器用人』と呼ぶ」



第一講「神話と科学の出会い」で、著者のレヴィ=ストロース構造主義について次のように述べます。
構造主義ないし構造主義という名で通っているものは、完全に新しくかつ革命的なものであるかのように考えられてきました。しかし、それは二重に誤っていると私は考えます。第一に人文科学の分野においてさえ、それはちっとも新しいものではありません。ルネサンスから19世紀、そして現代までこの思想傾向をたどることができるのですから。しかしさらに、もう1つの理由があります。言語学や人類学やその他の領域で構造主義と呼んでいるものは、英語で言う『ハード・サイエンス』がつねに行なってきたことの、冴えない模倣にほかならないのです」



また著者は、以下のようにも述べています。
「人類の知的業績を見わたすと、世界中どこでも、記録に残る限り、その共通点は決まってなんらかの秩序を導入することです。もしこれが人間の心には秩序への基本的欲求があることを表わしているとすれば、結局のところ人間の心は宇宙の一部にすぎないのですから、その欲求が存在するのは、多分、宇宙に何か秩序があり、宇宙が混沌ではないからでありましょう」



第二講「“未開”思考と“文明”心性」では、著者は以下のように述べます。
「いろいろの地域に住む人類が異なる文化をもつにもかかわらず、人間精神はどこでも1つで同じであり、同じ能力をもつ、というのが、人類学研究の数多くの結論の1つでありましょう。それは現在どこでも受け入れられている結論だと思います。
それぞれの文化が体系的組織的に他と異なるように努めたとは思いません。事実はこうです。何十万年のあいだ地球上の人類はあまり多くなくて、小さな集団がばらばらに住んでいました。したがって、各集団がそれぞれの特徴を発展させ、他と異なるようになったのはごく当然のことです。なにも意図してそうなったのではありません。単に、非常に長い期間支配的だった諸条件の結果にすぎません」



第三講「兎唇と双生児――ある神話の裂け目」は、逆児を双生児と同一視する神話について述べられますが、著者はその理由を推測しています。
「母親の子宮に2人かそれ以上の子どもがいると、神話では一般に非常に重大な結果を生じます。2人いるだけでも、子どもたちは争いはじめ、先に生まれるという名誉を得るために競います。そうして悪い子どもは、早く生まれるために、ためらうことなくいわば近道をします。自然の道をたどるかわりに、母の体に裂け目を作り、そこから逃れ出るのです。
これが逆児を双生児と同一視することの1つの説明だと思います。双生児の場合に、子どもの1人が先に生まれようと競って急ぐあまりに母親を傷つけることになるからです。双生児や逆児として生まれることは、ともに危険な脱出、あるいは英雄的と言ってもよい脱出の前ぶれです。その子どもがのちに、脱出を主導して一種の英雄になるからです。英雄はときには残忍な殺害者になることもあります。しかしともかく一大事業をなしとげるのです。これで、双生児や逆児を殺していた部族があるのもわかります」



第四講「神話が歴史になるとき」では、神話と歴史について、著者は以下のように語っています。
「私たちの社会では、神話に代わって歴史がそれと同じ機能をはたしているのだと言ってしまっても、それは私の信ずるところをあまりはずれておりません。文字や古文書をもたない社会においては、神話の目的とは、未来が現在と過去に対してできる限り忠実であること――完全に同じであることは明らかに不可能ですが――の保証なのです。ところが私たちは、未来はつねに現在とは異なるものであるべきだ、またますます異なったものになってゆくべきだ、と考えます。そして、どのような相違を考えるかは、ある範囲までは、もちろん私たちの政治的傾向によって左右されます。私たちの心のなかで、神話と歴史のあいだにはある断絶が存在します。しかしながらこの断絶は、歴史の研究によっておそらく打ち破られるでしょう。ただしそれは、歴史を神話から切り離されたものとは見なさず、神話の延長として研究することによって可能になるのです」



第五講「神話と音楽」では、音楽について以下のように語られています。
「音楽を聞く人の心にも、神話の物語を聞く人の心にも、たえず一種の再構成が行なわれます。しかもそれは、全体的に似ているだけではありません。音楽にはいろいろな特定の形式がありますが、それについても、音楽がそれらの形式を作り出したとき、神話のレヴェルですでに存在していた構造を再発見しただけだと言ってもよいくらい似ているのです」



そして、レヴィ=ストロースは、音楽と神話について語るのでした。
「音楽と神話とは、いわば、言語から生まれた2人姉妹のようなものですが、別々に引き離され、それぞれ異なる方向に進んでいます。ちょうど神話の人物のように、一方は北へ、他方は南へと進んで行って、2度と会うことはありません。そういう事実に気がついてみますと、音を用いて作曲することは私にはできなかったけれども、もしかしたら、意味を用いてそれをすることはできるかもしれないと思ったのです」



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年4月11日 一条真也