桜を見ながら、人生の修め方を想う

一条真也です。
わたしは、「NIKKEI STYLE」「一条真也の人生の修め方」を連載しています。第28回目となるコラムが本日アップされました。


「桜を見ながら、人生の修め方を想う」



今回のタイトルは、「桜を見て人生の修め方を想う」。トップ画面にイラスト入りで紹介されています。日本各地で桜の開花宣言が相次ぎ、花見のシーズンとなりました。わたしは桜を見るたびに、わが人生の終わりをイメージし、その修め方について想いを馳せます。日本人は「限りある生命」のシンボルである桜を愛してきました。 日本人がいかに桜好きかは、毎年のように桜に関する歌が発表されて、それがヒットすることからもわかります。



日本人は、月と花に大きな関心を寄せてきました。
月も花も、その変化がはっきりと眼に見えるかたちであらわれることから、自然の中でも、時間の流れを強く感じさせるものです。このような時間性ゆえに人間の「生」のシンボルとなったわけですが、特に日本においては桜が「生」のシンボルとなりました。桜ほど見事に咲いて、見事に散る花はないからです。そこから、日本独自の美意識も生まれました。もちろん、日本においては満開の桜だけが賛美されてきたわけではありません。『徒然草』第137段には、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」という一文が出てきます。最高潮のときではなく、むしろ散りゆく花にはかなさの美としての「あはれ」を見出したのです。



そして、月と桜を誰よりも愛した日本人こそ、「歌聖」とまで呼ばれた西行でした。彼が詠んだ歌の中でも、次の歌はとくに有名です。
「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」
西行は、この歌に詠んだとおりの状況で、入寂したという伝説が残っています。結局、月も桜も、その美しさ、はかなさは限りなく「死」を連想させるのです。月は欠けるから美しく、桜は散るから美しく、そして人は死ぬから美しいのかもしれません。散りゆく桜の花びらを眺めていると、死が怖くなくなっている自分の存在に気づきます。あなたも、桜を見て人生の修め方を想われてはいかがでしょうか。


次回も、どうぞお楽しみに!



なお、第29回目のアップは4月12日(火)です。
タイトルは「なぜ、いま、墓じたくなのか?」です。
「日経おとなのOFF」がお墓の特集を組み、わたしも登場しました。わたしのページは「『家』の墓から『個人』の墓へ 親と自分の墓じたく」というタイトルでした。お墓を継ぐ人が減り、お墓の在り方が大きく変化しています。これからの「お墓」の問題と正面から向き合う内容で、なかなか好評でした。
次回は、そんな話を書きます。どうぞ、お楽しみに!


本日、わが家の桜の老木も咲き始めました



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年3月29日 一条真也