終活から修活へ

一条真也です。
21日の10時半から、ブログ「終活フェア基調講演のお知らせ」で紹介した講演を行いました。福岡県遠賀郡岡垣町で開催された「終活フェア」での基調講演で、タイトルは「終活から修活へ」です。


終活フェア」の会場前で

終活フェア」の冠婚葬祭コーナー

書籍販売コーナー

講演会場に入りました

講師紹介を受けました

壇上に立ちました


定員100名の会場でしたが、おかげさまで参加者は150名を優に超え、超満員になりました。わたしは、まず最初に「終活」という言葉についての考えを述べました。これまでの日本では「死」について考えることはタブーでした。でも、よく言われるように「死」を直視することによって「生」も輝きます。その意味では、自らの死を積極的にプランニングし、デザインしていく「終活」が盛んになるのは良いことだと思います。


超満員になりました!

手話通訳もつきました

「終活」とは何か?

「終活ブーム」の背景



ところが、その一方で、わたしには気になることもあります。
「終活」という言葉には何か明るく前向きなイメージがありますが、わたしは「終活」ブームの背景には「迷惑」というキーワードがあるように思えてなりません。みんな、家族や隣人に迷惑をかけたくないというのです。「残された子どもに迷惑をかけたくないから、葬式は直葬でいい」「子孫に迷惑をかけたくないから、墓はつくらなくていい」「失業した。まったく収入がなく、生活費も尽きた。でも、親に迷惑をかけたくないから、たとえ孤独死しても親元には帰れない」「招待した人に迷惑をかけたくないから、結婚披露宴はやりません」「好意を抱いている人に迷惑をかけたくないから、交際を申し込むのはやめよう」・・・・・・。


「終活フェア」の基調講演でした

「迷惑」は建前で、「面倒」が本音!



すべては、「迷惑」をかけたくないがために、人間関係がどんどん希薄化し、社会の無縁化が進んでいるように思えてなりません。結果的に夫婦間、親子間に「ほんとうの意味での話し合い」がなく、ご本人がお亡くなりになってから、さまざまなトラブルが発生して、かえって多大な迷惑を残された家族にかけてしまうことになります。その意味で「迷惑」の背景には「面倒」という本音も潜んでいるように思います。みんな、家族や夫婦や親子で話し合ったり、相手を説得することが面倒なのかもしれません。


「家族とは迷惑をかけ合うもの」と言いました

当たり前のことをやりましょう!



そして、わたしは大きめの声で、次のように訴えました。
「そもそも、家族とはお互いに迷惑をかけ合うものではないでしょうか。
子どもが親の葬式をあげ、子孫が先祖の墓を守る。
当たり前ではないですか。そもそも“つながり”や“縁”というものは、互いに迷惑をかけ合い、それを許し合うものだったはずです。


パワーポイントを使って「終活」を語る

「終活の流れ」について説明



「迷惑をかけたくない」という言葉に象徴される希薄な“つながり”。
日本社会では“ひとりぼっち”で生きる人間が増え続けていることも事実。
しかし、いま「面倒なことは、なるべく避けたい」という安易な考えを容認する風潮があることも事実です。こうした社会情勢に影響を受けた「終活」には「無縁化」が背中合わせとなる危険性があることを十分に認識すべきです。この点に関しては、わたしたち一人ひとりが日々の生活の中で自省する必要もあります」


「礼」を修め、「生」を修める

「終活」から「修活」へ



いま、世の中は大変な「終活ブーム」です。多数の犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず、「生が永遠ではないこと」そして必ず訪れる「人生の終焉」というものを考える機会が増えたことが原因とされます。多くの高齢者の方々が、生前から葬儀や墓の準備をされています。
また、「終活」をテーマにしたセミナーやシンポジウムも花ざかりで、わたしも何度も出演させていただきました。さらに、さまざまな雑誌が「終活」を特集しています。ついには日本初の終活専門誌「ソナエ」(産経新聞出版社)まで発刊され、多くの読者を得ています。わたしも同誌で「一条真也の老福論」というエッセイを連載しています。


「修める」という心構え

これからは「修活」の時代だ!


このようなブームの中で、気になることもあります。それは、「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人も会いました。もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいます。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しました。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。
よく考えれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないでしょうか。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活です。そして、人生の集大成としての「修生活動」があります。


「死」は人間にとっての最重要テーマ

「死」はけっして「不幸」ではありません!



有史以来、「死」は、わたしたち人間にとって最重要テーマでしたし、それは現在も同じです。わたしたちは、どこから来て、どこに行くのか。そして、この世で、わたしたちは何をなし、どう生きるべきなのか。これ以上に重要な問題など存在しません。 なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そして、この自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け容れがたい話はありませんね。これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきました。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようとして努力してきました。「死」こそは人類最大のミステリーです。


美しく人生を修めましょう!

「死」ではなく「葬」が重要です



かつての日本は、たしかに美しい国でした。
しかし、いまの日本人は「礼節」という美徳を置き去りし、人間の尊厳や栄辱の何たるかも忘れているように思えてなりません。
それは、戦後の日本人が「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったからではないでしょうか。老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。冠婚葬祭互助会の会員様の多くは高齢者の方々です。ならば、互助会とは巨大な「修活クラブ」であると言えるかもしれません。
ぜひ、多くの会員様が人生を修められるお手伝いをしたいものです。


「葬儀」の意義について説明しました

広い会場が熱気ムンムンに!



それから、人生の最期のセレモニーである「葬儀」というものの意義について話しました。葬儀という儀式は、何のためにあるのでしょうか。遺体の処理、霊魂の処理、悲しみの処理、そして社会的な処理のために行われます。私たちはみんな社会の一員であり、1人で生きているわけではありません。その社会から消えていくのですから、そんな意味でも死の通知は必要なのです。社会の人々も告別を望み、その方法が葬儀なのです。


「となりびと」は「おくりびと」である



アカデミー外国語映画賞を受賞した「おくりびと」が話題になりましたね。
映画のヒットによって「おくりびと」という言葉が納棺師や葬儀社のスタッフを意味すると思い込んだ人が多いようです。しかし、「おくりびと」の本当の意味とは、葬儀に参加する参列者のことです。
人は誰でも「おくりびと」、そして最後には「おくられびと」になります。1人でも多くの「おくりびと」を得ることが、その人の人間関係の豊かさ、つまり幸せの度合いを示すのではないでしょうか。


「隣」の意味について語る



また、続けて、わたしは次のように発言しました。
「わたしは、日々いろんな葬儀に立ち会います。中には参列者が1人もいないという孤独な葬儀も存在します。そんな葬儀を見ると、わたしは本当に故人が気の毒で仕方がありません。亡くなられた方には家族もいたでしょうし、友人や仕事仲間もいたことでしょう。なのに、どうしてこの人は1人で旅立たなければならないのかと思うのです。もちろん死ぬとき、誰だって1人で死んでゆきます。でも、誰にも見送られずに1人で旅立つのは、あまりにも寂しいではありませんか。故人のことを誰も記憶しなかったとしたら、その人は最初からこの世に存在しなかったのと同じではないでしょうか?」


葬儀で「ヒト」は「人間」になる



「ヒト」は生物です。「人間」は社会的存在です。
「ヒト」は、他者から送られて、そして他者から記憶されて、初めて「人間」になるのではないかと思います。
人間はみな平等です。そして、死は最大の平等です。
その人がこの世に存在したということを誰かが憶えておいてあげなくてはなりません。血縁が絶えた人ならば、地縁のある隣人たちが憶えておいてあげればいいと思います。


孤独葬のさびしさについて語りました



わたしは、参列者のいない孤独葬などのお世話をさせていただくとき、いつも「もし誰も故人を憶えておく人がいないのなら、われわれが憶えておこうよ」と、わが社の葬祭スタッフに呼びかけます。でも、本当は同じ土地や町内で暮らして生前のあった近所の方々が故人を思い出してあげるのがよいと思います。そうすれば、故人はどんなに喜んでくれることでしょうか。わたしたちはみんな社会の一員であり、1人で生きているわけではありません。その社会から消えていくのですから、そんな意味でも死の通知は必要なのです。社会の人々も告別を望み、その方法が葬儀なのです。わたしは、以上のような内容を心をこめて語りました。


人間にとっての葬儀の意味を問う



さらに、わたしは以下のことをお話しました。
葬儀は人類が長い時間をかけて大切に守ってきた精神文化である。いや、葬式は人類の存在基盤だと言ってもよい。昔、「覚醒剤やめますか、人間やめますか」というポスターの標語があったが、わたしは、「葬式やめますか、そして人類やめますか」と言いたい。日本人が本当に葬式をやらなくなったら、人類社会からドロップアウトしてしまう。あらゆる生命体は必ず死ぬ。もちろん人間も必ず死ぬ。親しい人や愛する人が亡くなることは悲しいことだ。でも決して不幸なことではない。残された者は、死を現実として受け止め、残された者同士で、新しい人間関係をつくっていかなければならない。葬式は故人の人となりを確認すると同時に、そのことに気がつく場になりえるのである。葬式は旅立つ側から考えれば、最高の自己実現であり、最大の自己表現の場ではないか。「葬式をしない」という選択は、その意味で自分を表現していないことになる。まったく、もったいない話だ。
つまるところ、葬儀とは人生の卒業式であり、送別会であると述べました。


すべての儀式は卒業式

「死」が「不幸」でなくなる日を夢見て



卒業式というものは、本当に深い感動を与えてくれます。それは、人間の「たましい」に関わっている営みだからだと思います。
わたしは、この世のあらゆるセレモニーとはすべて卒業式ではないかと思っています。 七五三は乳児や幼児からの卒業式であり、成人式は子どもからの卒業式。 そう、通過儀礼の「通過」とは「卒業」のことなのですね。結婚式というものも、やはり卒業式だと思います。なぜ、昔から新婦の父親は結婚式で涙を流すのか。それは、結婚式とは卒業式であり、校長である父が家庭という学校から卒業する娘を愛しく思うからです。
そして、葬儀こそは「人生の卒業式」ではないでしょうか。
最期のセレモニーを卒業式ととらえる考え方が広まり、いつか「死」が不幸でなくなる日が来ることを心から願っています。


自分の葬儀を想像する



続いて、誰でもが実行できる究極の「修活」についてもお話しました。
それは、自分自身の理想の葬儀を具体的にイメージすることです。
親戚や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。参列してほしい人とは日ごろから連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝することです。生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算。葬儀の想像とは、死を直視して覚悟することです。覚悟してしまえば、生きている実感がわき、心も豊かになります。


自分の葬儀をイメージして下さい!



自分の葬儀を具体的にイメージするとは、どういうことか?
それは、その本人がこれからの人生を幸せに生きていくための魔法です。わたしは講演会などで「ぜひ、自分の葬義をイメージしてみて下さい」といつも言います。友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像することを提案するのです。そして、「その弔辞の内容を具体的に想像して下さい。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです」と言いました。葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像するといいでしょう。そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれる。自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。


自分史&エンディングノート



いかがですか? その理想のイメージを現実のものにするには、あなたは残りの人生を、そのイメージ通りに生きざるをえないことがおわかりかと思います。これは、まさに「死」から「生」へのフィードバックではないでしょうか。よく言われる「死を見つめてこそ生が輝く」とは、そういうことだと思います。人生最期のセレモニーである「お葬式」を考えることは、その人の人生のフィナーレの幕引きをどうするのか、という本当に大切な問題です。
自分の葬儀を考えることで、人は死を考え、生の大切さを思うのです。
そんなことを『思い出ノート』(現代書林)を示しながら語りました。


さまざまな送られ方



さらに、新時代の葬儀についても話しました。
日本の葬儀は、実にその9割以上を仏式葬儀によって占められています。
ところが最近になって、仏式葬儀を旧態依然の形式ととらえ、もっと自由な発想で故人を送りたいという人々が増えています。今のところは従来の告別式が改革の対象になって、「お別れ会」などが定着しつつあります。やがて、通夜や葬儀式にも目が向けられ、故人の「自己表現」や「自己実現」が図られていくに違いありません。


日本人の死生観と永遠葬

四大「永遠葬」について説明しました



そして、わたしたちは、どうすれば現代日本の「葬儀」をもっと良くできるかを考え、そのアップデートの方法について議論することが大切です。わたしは、現在取り組んでいる葬イノベーション――四大「永遠葬」を紹介しました。日本人の他界観を大きく分類すると、「山」「海」「月」「星」となりますが、それぞれが対応したスタイルで、「樹木葬」「海洋葬」「月面葬」「天空葬」となります。この四大「永遠葬」は、個性豊かな旅立ちを求める「団塊の世代」の方々にも大いに気に入ってもらえるのではないかと思います。


ご清聴ありがとうございました!



みなさん、たいへん興味深い様子で聴いて下さいました。
最後に、わたしは「みなさんも、ご自分の『送られ方』を考えて下さい。そして、ご自分なりの方法で人生を修めていただきたいと思います」と締めくくりました。すると、盛大な拍手を頂戴し、感激しました。


盛大な拍手を受けました

書籍販売コーナーも人気でした



講演終了後、わたしは車で福岡空港に向かい、ANA256便で東京に飛びました。明日22日(日)は、ブログ「東京自由大学講演のお知らせ」で紹介したように、東京で講演&トーク・セッションを行います。NPO法人東京自由大学の特別企画イベントで、会場も同大学です。第一部はわたしが『唯葬論〜なぜ人間は死者を想うのか』について語り、第二部は『満月交遊 ムーンサルトレター』刊行記念として「バク転神道ソングライター」こと鎌田東二先生と大いに語り合います。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年11月21日 一条真也