一条真也です。
全互連総会のオプションで、米沢&山形観光ツアーに同行しました。
ブログ「稽照殿」で紹介した場所を訪れた後は、風雅の国「ふもと屋」で昼食を取りました。食後は、「立石寺」という寺院を訪れました。
いざ、「奥の細道」山寺参拝へ・・・・・・
山寺のふもとで
六十数段の石段を上る
こんなん、全然ヘッチャラさ!
山寺に着きました
山寺立石寺案内図
「山寺」の通称で親しまれている立石寺は山形市にある天台宗寺院です。公式HPには、その概要・歴史が次のように説明されています。
「当山は宝珠山立石寺といい通称『山寺』と呼ばれています。天台宗に属し、創建は貞観二年(860年)天台座主第3世慈覚大師円仁によって建立されました。当時、この地を訪れた慈覚大師は土地の主より砂金千両・麻布三千反をもって周囲十里四方を買い上げ寺領とし、堂塔三百余をもってこの地の布教に勤められました。開山の際には本山延暦寺より伝教大師が灯された不滅の法灯を分けられ、また開祖慈覚大師の霊位に捧げるために香を絶やさず、大師が当山に伝えた四年を一区切りとした不断の写経行を護る寺院となりました」
かなり暑かったです
山寺立石寺にて
お地蔵さんがありました
「聖徳太子」の石碑
貞明皇后記念碑
出羽国山寺総鎮守
出羽国山寺総鎮守の前で
芭蕉と曽良の銅像
芭蕉の銅像とわたし
曽良の銅像と西課長
公式HPには、続いて次のように書かれています。
「その後鎌倉期に至り、僧坊大いに栄えましたが、室町期には戦火に巻き込まれ衰えた時期もありましたが、江戸期に千四百二十石の朱印地を賜り、堂塔が再建整備されました。
元禄二年(1689年)には俳聖松尾芭蕉が奥の細道の紀行の際この地を訪れ、『閑さや 岩にしみ入る 蝉の声』の名句を残しました。現在は約百町歩(33万坪)の境内を持ち、その中に大小30余りの堂塔が残され、三つの不滅(法灯・香・写経行)が今尚護られています」
禮鐘(鰐口)を発見しました
「幸福の鐘」がありました
立石寺の根本中堂
根本中堂を背に
「山寺立石寺と根本中堂」の案内板
立石寺のご本尊である薬師如来坐像が安置されているのが「根本中堂」です。公式HPには次のように紹介されています。
「根本中堂は立石寺という御山全体の寺院の本堂に当たる御堂です。現在の根本中堂は延文元年(1356年)初代山形城主・斯波兼頼が再建した、入母屋造・五間四面の建物で、ブナ材が全体の6割程用いられブナ材の建築物では日本最古といわれます。堂内では、本尊として慈覚大師作と伝えられる木造薬師如来坐像をお祀りし、脇侍として日光・月光両菩薩と十二支天、その左右に文殊菩薩と毘沙門天を拝することができます」
この奥に「不滅の法灯」があります
ああ、ありがたし・・・・・・
招福布袋尊
人類の平和を祈りました
根本中堂といえば、「不滅の法灯」です。
公式HPには次のように紹介されています。
「伝教大師が灯し比叡山より分けられた法灯を建立当時以来一千百数十年の間一度も消えることなく仏法の護持を示す光としてお護りしてきました。過去に織田信長に焼討で本山延暦寺の法灯が消えた際、再建時には逆に立石寺から分けたといわれています」
わたしは、「不滅の法灯」を見学して、「一燈照隅行」という言葉を思い出しました。おのおのが、それぞれ一燈となって、一隅を照らす、すなわち自分が存在する世界の片隅を照らすことです。伝教大師こと最澄は、著書『山家学生式』の中で、この「一隅を照らす」という言葉を使っています。最澄が開いた比叡山は多くの灯をともす者たちを輩出しました。すなわち、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮といった日本仏教史の巨人たちです。彼らはみな、もともと比叡山で修行する天台宗の僧侶であり、開祖である最澄の「一隅を照らす」という志を受け継ぐ者たちでした。灯をともす人間が増えていくと、一燈が万燈になります。それが「万燈遍照」です。わたしたち、すべての人類がめざす道です。
灯をたのしむ ―ハートフルライティングのすすめ (日本人の癒し3)
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まずは、一燈から。すべては、一燈から。
人間は、誰でも一燈を灯すことができます。
それが万燈になり、大いなる文化や文明がつくられてゆきます。そう、「灯」とは人間の営みそのものなのです。なんと偉大なことでしょうか!
なお、「灯」については、『灯をたのしむ』(現代書林)に詳しく書きました。
*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。
2015年6月17日 一条真也拝