大阪都構想の終焉

一条真也です。
風邪でノドをやられたようで、声がまったく出ません。
大阪市を廃止して5特別区に分割する「大阪都構想」の賛否を問う住民投票が17日に行われましたが、結果は反対多数でした。政令指定都市の廃止か存続かを市民が判断する初の住民投票でしたが、大阪市の存続が決定しました。また、この結果を受けて、大阪市橋下徹市長は政界引退を表明。世間を騒がせ続けた「橋下劇場」も、ついにエンディングを迎えます。


橋下市長は政界引退を表明



正直言って、わたしは大阪都構想というものに関心がありませんでした。
ブログ「高野山と大阪の旅」に書いたように、最近大阪へは行ったものの、もともとわたしは大阪というところが大の苦手なのです。
大阪人の気質も、昔から肌に合いません。


18日の新聞朝刊各紙



橋下市長についても、強いリーダーシップや実行力があることは認めますが、定例会見などでの反対者に対するエキセントリックな物の言い方には大きな違和感を覚えていました。でも、『永遠葬』執筆のための参考文献として読んだ2冊の本の内容が「大阪都構想」と深く関連していたのです。
その2冊とは、『〈凡庸〉という悪魔 21世紀の全体主義』(晶文社)、および『正統とは何か』(春秋社)という本です。


〈凡庸〉という悪魔 (犀の教室)

〈凡庸〉という悪魔 (犀の教室)

まず『〈凡庸〉という悪魔 21世紀の全体主義』は、京都大学大学院工学研究科教授(都市社会工学専攻)の藤井聡氏の著書で、ハンナ・アーレント全体主義論で現代日本の病理構造を読み解くという趣旨の内容になっています。藤井氏には『大阪都構想が日本を破壊する』(文春新書)という著書もあり、構想に反対している学者として有名です。藤井氏は、構想の設計書である「協定書」を徹底的に読みこみ、「都構想とは大阪市解体案」「賛成多数でも大阪府のまま」「二重行政解消の財政効果はほぼゼロ」「東京23区は実は特別区に反対」など同書で訴えています。



その藤井氏は『〈凡庸〉という悪魔 21世紀の全体主義』において、「思考停止」が「凡庸」な人々を生み出し、巨大な悪魔「全体主義」を生むとして、以下のように述べています。
「日本中のあらゆる場所、領域で『いじめ』が横行する程に無秩序化(アノミー化)してしまった今日の日本社会は、何も考えずに思考を停止し続ける凡庸な大衆人達で溢れかえっています。彼らは、とかく古くさいものを捨て去って新しい近代的なるモノを好む『リセット願望』を持っています。同時に、バブル崩壊に遠因を持つデフレ不況に突入して以降、ショック・ドクトリン(衝撃原理)故に、安易な解決策を願望するようにもなっていました。さらには、その不況の中でもたらされる困窮故に不満を蓄積し『憂さ晴らし』を求めてもいました。そんな中で、今まで甘い汁を吸ってきた官僚達や政治家達に対する怨恨(ルサンチマン)を蓄積し続けていました」



このようなルサンチマンを抱えた凡庸な大衆人達は、アノミーのままに「リセット願望」という俗情を持ち、「とにかく改革すればいい」という改革全体主義に走るというのです。この藤井氏のいう「改革全体主義」から、わたしは「0葬」を連想しました。人が亡くなっても葬儀を行わず、そのまま遺体を火葬場で焼き、遺骨や遺灰も火葬場に捨ててくるという行為です。「アノミー → リセット願望 → 0葬」という構図がわたしの頭に浮かびました。


正統とは何か

正統とは何か

それから、もう1冊の本である『正統とは何か』は、ミステリーの名作『ブラウン神父』シリーズの著者としても有名なイギリスの保守思想家であるG・K・チェスタトンが作者です(安西徹雄訳)。渡部昇一先生も敬愛するチェスタトンは、「正統とは歴史の流れの連続性を確保するものにかかわるものである」と喝破しています。親が亡くなったら、子が葬儀をあげる。故人と血縁、地縁のある者は葬儀に参列する。これ以上の「正統」があるでしょうか! 



そのチェスタトンは、『正統とは何か』で「死者の民主主義」というものを唱え、以下のように述べています。
「伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。
単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。伝統は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する」



このチェスタトンの言葉に触れ、わたしは魂が震えるほど感動しました。
そして、故人の家族以外の葬儀への参列を拒否する「家族葬」、葬儀なしに遺体をそのまま火葬場に直行させる「直葬」、さらには遺灰さえも火葬場に捨ててくる「0葬」のことを連想しました。
葬儀のあり方は、まさに「死者の民主主義」そのものではないでしょうか。
たまたま今生きている生者の都合だけで決めていいはずがないのです。



「0葬」など、確固とした思想もなしに伝統を破壊するだけの愚挙に過ぎません。そして、その背景には「死者の無視」「死者への愚弄」があります。イギリスにおける普通選挙の実現に努力したチェスタトンは、以下のようにも語っています。
「われわれは死者を会議に招かなければならない。古代のギリシャ人は石で投票したというが、死者には墓石で投票して貰わなければならない」
つまり、今生きている者が伝統を死者の墓石のようにして背負う他には、聡明にある途はないというのです。



さて、大阪都構想に戻ります。たまたま、マーチンという人が15日につぶやいている以下のメッセージを知りました。
「昨日のBSの番組を見ていても自民柳本氏は自分の代の事しか言わない。橋下氏は自分達が死んだ後の大阪の事も心配している。その昔の人達は未来の日本の為に戦った。今の大阪があるのも30年前50年前100年前の人達が居てこそ。頑張れ維新!」
これは、チェスタトンのいう「死者の民主主義」にも通じるように思えます。



果たして、大阪都構想を支えていたのは全体主義に通じる「〈凡庸〉な悪魔」だったのか、それとも「死者の民主主義」だったのでしょうか。
わたしには、わかりません。わかるのは、わたしにとっての大問題であり、日本人全体にとっての大問題でもある“0葬”を支えてるのは「〈凡庸〉な悪魔」であるということだけなのです。
ただ、今回の住民投票の高い投票率は評価に値します。
大阪市選管によると、府知事選との「ダブル選」となった平成23年の市長選の投票率は60・92%。今回の期日前・不在者投票者数が有権者約210万人の17%に達していたために、最終の投票率は、ダブル選をはるかに超える66.83%でした。これは、じつに凄いことだと思います。このように、憲法改正を決める国民投票が実施されることを願ってやみません。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年5月18日 一条真也