桂離宮

一条真也です。
3月12日の朝、桂離宮を見学しました。ここは完全予約制ですので、宮内庁のHPから予約しました。わたしは初めての見学となります。


「参観入口」の看板

ここから入場します

完全予約制です

待合室にて

桂離宮の見取り図

売店で買い物しました



桂離宮は、17世紀の初めから中頃までに、八条宮初代智仁親王と二代智忠親王によって造られたもので、日本庭園として最高の名園といわれています。団体見学で、予約をしてある30名ほどのグル―プで庭園を一回り見学します。時間は約1時間です。
受付で予約の確認、身分の証明を済ませると、待合室へ通されました。ここにはモニターがあり、桂離宮の案内ビデオを見せられました。また、売店があったので、絵葉書やパンフレットや書籍などを求めました。特に『月と桂離宮』というDVD付きの写真集を買ったので、読むのが楽しみです。それから時間が来て、わたしたちは出発しました。


いよいよ見学スタートです

桂離宮にて

桂離宮にて

皇族のみ入れる門



Wikipedia「桂離宮」には以下のように書かれています。
桂離宮京都市西京区桂にある皇室関連施設。江戸時代の17世紀に皇族の八条宮の別邸として創設された建築群と庭園からなる。面積は約7万平方メートルで、うち庭園部分は約5万8千平方メートルである。離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意であるが、『桂離宮』と称するのは明治16年(1883年)からで、それ以前は『桂別業』などと呼ばれていた。江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を遺しており、当時の(王朝)文化の粋を今に伝えている。回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされる。また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れている。庭園には茶屋が配されている。現在は宮内庁京都事務所により管理されている」


桂離宮にて

桂離宮のようす

桂離宮のようす(天の橋立)

桂離宮にて



Wikipedia「桂離宮」の「概要」には以下のように書かれています。
桂離宮京都市の西郊、桂川西岸の旧・下桂村に位置する。ここは桂川とかつての山陰道丹波街道9が交わる、交通の要衝であった。川と道の交点にはかつては『桂の渡し』があり、現在は桂大橋が架かる。桂の地は、古くから貴族の別荘地として知られ、平安時代には藤原道長の別荘(当時は『別業』といった)である桂殿が営まれていたという。また、『源氏物語』「松風」帖に登場する光源氏の「桂殿」はこの地にあったという設定である。物語に登場する冷泉帝は『月のすむ川のをちなる里なれば桂の影はのどけかるらむ』という歌を詠んでいる。この地は風流な観月の名所としても知られていた。桂離宮の近くの西京区松室には月読神社があり、桂の地名も中国語の『月桂』の故事から来ているという。こうした地にある桂離宮には、観月のための装置という意味合いがある。それとともに、池での舟遊び、庭に点在する茶屋を用いての茶会、酒宴など、さまざまな遊興や行事の場としての機能があり、単なる鑑賞のための庭ではなかった)


桂離宮のようす

桂離宮にて

桂離宮にて

桂離宮にて



また、Wikipedia「桂離宮」の「概要」には以下のようにも書かれています。
桂離宮は最古の回遊式庭園として知られ、庭園と建物が一体となって、日本的な美を形成している。ブルーノ・タウトヴァルター・グロピウスといった、外国の建築家も桂離宮を、簡素さの中に美と深い精神性を表した建築及び庭園として高く評価した。作庭者については、古くから小堀遠州とする伝承があるが、遠州自身が作庭を直接差配したとは考えがたい。実際に作庭に携わった可能性のある人物としては、遠州の義弟である中沼左京、遠州の門下である玉淵坊などの名前が挙げられている。昭和8年(1933年)に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウト桂離宮の簡素な美を絶賛し、その知名度を国際的に高めたことで知られる。タウトは昭和8年5月と翌昭和9年(1934年)5月に桂離宮を拝観し、その折の所感を著作に記している。古書院の広縁から張り出した竹縁(月見台)から庭園を鑑賞したタウトは、その時の感興を『ここに繰りひろげられている美は理解を絶する美、すなわち偉大な芸術のもつ美である。すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる』(篠田英雄訳)と表現した」


桂離宮にて

桂離宮にて

桂離宮にて

桂離宮にて



さらにWikipedia「桂離宮」の「概要」には以下のように書かれています。
桂離宮は八条宮家初代の智仁親王(1579年―1629年)によって基礎が築かれた。智仁親王正親町天皇の皇孫、後陽成天皇の弟に当たる。智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀吉に実子が生まれたため、八条宮家(桂宮家)を創設したものである。本邸は京都御所の北側、今出川通りに面して建設され、現存する(ただし築地塀と表門・勅使門だけを残し、建物群は二条城に移築されている)」


桂離宮にて

桂離宮にて

桂離宮のようす

桂離宮にて



さらにWikipedia「桂離宮」の「概要」には以下のように書かれています。
桂離宮の書院は『古書院』『中書院』『新御殿』の3つの部分に分かれ、このうち古書院の建設は1615年頃と推定される。書院、茶屋、庭園などの造営は、八条宮家2代の智忠親王(1619年―1662年)に引き継がれ、数十年間をかけて整備された。八条宮家は常磐井宮、京極宮、桂宮と名前を変えた後、1881年に断絶し、桂離宮は1883年から宮内省の管轄になった。第二次世界大戦後は、宮内庁が管理している。1976年から実施された大修理で、文化庁が調査のため、中書院の地下の発掘作業をしていた時、人工的な池の跡が発見された。そこには桂離宮が造られる以前の遺物が多数見つかっており、智仁親王が発見した桂殿の跡地に造られたとされる証拠となった」


桂離宮のようす(灯籠)

桂離宮のようす

桂離宮のようす(書院)

桂離宮のようす(月見台)



そしてWikipedia「桂離宮」の「概要」には以下のように書かれています。
桂離宮の敷地総面積は約7万平方メートルであるが、これには北側の緑地と南側の農地を含んでおり、庭園部分の面積は約5万8千平方メートルである。庭園は多くの入江と複雑な汀線をもつ池を中心とし、池には大小5つの島がある。池の西岸の平坦地には古書院、中書院、新御殿が北東から南西へ雁行形に並ぶ。中書院と新御殿の間には小規模な『楽器の間』がある。これらの建物は一時に建てられたものではなく、元和初年から寛文初年(1615年頃―1662年頃)にかけて順次建立されたものである。古書院の西には『御末所』と『臣下控所』、中書院の西には『旧役所』があるが、これらは明治時代に書院群の修理が行われた際に建てられたものである。他の建物としては茶屋として松琴亭、賞花亭、笑意軒、月波楼の4棟、持仏堂の園林堂がある。古記録によれば茶屋は5棟あったが、残り1棟の竹林亭は現存しない」


桂離宮のようす

桂離宮のようす

桂離宮のようす

桂離宮にて



約1時間、わたしは桂離宮の「日本美」をたっぷりと堪能しました。それは想像していた以上に素晴らしいものでした。観月建築としてのさまざまな仕掛けもしっかり確認することができ、満足です。見学を終えたわたしは待たせておいたタクシーに乗って京都駅へ。そして、そこから新幹線のぞみ21号に乗って小倉へと戻りました。今回の今日の旅は、非常に有意義なものでした。わたしは今年、『和を求めて』という本を出す予定ですが、同書の内容にも今回の視察を反映させたいと思います。


*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年3月13日 一条真也