「西日本新聞」取材

一条真也です。
14日の10時半から、「西日本新聞」の取材を受けました。
拙著『決定版 終活入門』(実業之日本社)がちょうど70冊目の一条本となったことと、同書のテーマである「終活」についての取材でした。
西日本新聞社の野村創記者が来て下さいました。


本日の取材のようす



ブログ「最期の絆シンポジウム」で紹介したように、2013年11月25日に西日本新聞社主催の「最期の絆シンポジム」が開催され、わたしも出演しました。「西日本新聞」北九州版で亡くなられた方の記事(訃報記事)を掲載する「おくやみのページ」の開始を契機として、「人と人とのつながり」「縁」というものを考えていくために開かれました。この「おくやみのページ」は、「無縁社会」を乗り越えるために、きわめて意義のある試みです。


野村記者から質問を受けました



冒頭、野村記者から「会社の経営をされながら、70冊も本を書かれるなんて多才ですね」と言われました。そこで、わたしは以下のように述べました。「自分ほど不器用で愚直な人間はいません。わたしは、ただ『人間尊重』という考え方を広めることだけをやっているつもりです。社会に広く人間尊重思想を広めることがミッションだと思っています。そのために社長業も執筆業もあると思っています。けっして副業とか二束の草鞋などではなく、結局は同じことをしているのです。これからも冠婚葬祭を通じて、良い人間関係づくりのお手伝いをしていきたいものです。また、わたしが大学で教壇に立つのも、講演活動を行うのも、本を書くのも、すべては人間尊重思想を広める『天下布礼』の一環であると考えています」


自分の考えを述べました



また、以下のように「死」に対するわたしの考えを述べました。
わたしは、物心ついたときから、人間の「幸福」というものに強い関心がありました。学生のときには、いわゆる幸福論のたぐいを読みあさりました。そして、こう考えました。政治、経済、法律、道徳、哲学、芸術、宗教、教育、医学、自然科学...人類が生み、育んできた営みはたくさんある。では、そういった偉大な営みが何のために生まれ、発展してきたのかというと、その目的は「人間を幸福にするため」という一点に集約される。さらには、その人間の幸福について考えて、考えて、考え抜いた結果、その根底には「死」というものが厳然として在ることを知りました。
そこで、どうしても気になったことがありました。それは日本では、人が亡くなったときに「不幸」と人々が言うことでした。
死なない人間はいません。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。その未来が「不幸」であるということは、人間は必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものです。



わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのでしょうか。
どんな素晴らしい生き方をしても、どんなに幸福感を感じながら生きても、最後には不幸になるのでしょうか。亡くなった人は「負け組」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのか。そんな馬鹿な話はありません!
わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくありません。なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来かならず不幸になるからです。ですから、人が亡くなって「不幸があった」と言っている間は、日本人は絶対に幸福になれません。ですから、わが社では「不幸」ではなく、「人生の卒業式」としての葬儀のお手伝いをしたいと思っています。そして、いつの日か、日本人が人が亡くなっても「不幸」と呼ばない時代が来ることを願っています。


質問する「西日本新聞」の野村記者



それから本題に入り、野村記者から「今の終活ブームというものを、どうとらえていますか」という問いが発せられました。
わたしは、それに対して以下のようにお答えしました。
「これまでの日本では『死』について考えることはタブーでした。でも、よく言われるように『死』を直視することによって『生』も輝きます。
その意味では、自らの死を積極的にプランニングし、デザインしていく『終活』が盛んになるのは良いことだと思います。
一方で、気になることもあります。『終活』という言葉には何か明るく前向きなイメージがありますが、わたしは『終活』ブームの背景には『迷惑』というキーワードがあるように思えてなりません」


面倒なことの中にこそ幸せがある!



そして、わたしは大きめの声で、次のように訴えました。
「そもそも、家族とはお互いに迷惑をかけ合うものではないでしょうか。
子どもが親の葬式をあげ、子孫が先祖の墓を守る。
当たり前ではないですか。そもそも“つながり”や“縁”というものは、互いに迷惑をかけ合い、それを許し合うものだったはずです。
『迷惑をかけたくない』という言葉に象徴される希薄な“つながり”。
日本社会では“ひとりぼっち”で生きる人が増え続けていることも事実です。しかし、いま『面倒なことは、なるべく避けたい』という安易な考えを容認する風潮があることも事実です。こうした社会情勢に影響を受けた『終活』には『無縁化』が付随する危険性があることを十分に認識すべきです」
そして、わたしは「面倒なことの中にこそ幸せがある!」と訴えました。


「訃報」についての考えも述べました



最近、訃報を関係者に知らせない方が多くなってきました。
近親者のみで葬儀をあげる方が多くなってきたのです。
「葬儀に来てくれそうな人たちが、みんなあの世に逝ってしまった」「長い間、闘病してきたので、さらに家族に迷惑はかけたくない」、だから「ひっそりとした葬式を行いたい」、こうした話しを聞くたびに、本音の部分はどうなのかと思ってしまいます。お世話になった方々、親しく交際してきた方々に見送られたいというのが、本当の気持ちなのではないでしょうか。その本当の気持ちを押し殺して、生前の故人が気をつかったというケースが多いのではないでしょうか。本当は、お世話になった方々にお礼を言いたいのではないでしょうか。短い時間ではありますが、自分のことを思い出してもらい、ともに過ごした時間を共有したいのではないでしょうか。
このことは、会葬に訪れる方々にとっても同様です。


決定版 終活入門』を持って写真撮影



「縁」や「絆」というものは、本来お互いに迷惑をかけ合うものなのです。
そもそも、縁ある方の葬儀に参列することは迷惑でも何でもありません。
それは、古代からずっと続いてきた人間として当然の行為なのです。
新聞のおくやみ記事は、多くの方々の目に触れます。「あっ、あの方が亡くなったのか」と驚かれることも多くなるでしょう。ぜひ、そのときはお通夜かお葬儀に参列していただきたいと思います。故人と知り合いだった方、ご近所に住んでおられた方には特にお願いしたいと思います。
西日本新聞さんの「おくやみのページ」は人と人のつながりを取り戻す「きっかけ」づくりとなることを信じています。


決定版 終活入門

決定版 終活入門

*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年11月14日 一条真也