國學院大學オープンカレッジ特別講座

一条真也です。東京に来ています。
ブログ「國學院大學オープンカレッジのお知らせ」に書いたように、日本民俗学など“儀式文化研究”のメッカである國學院大學は、市民向けに「國學院大學オープンカレッジ」を開催しています。今年から、一般社団法人全日本冠婚葬祭互助協会・互助会保証株式会社の共催で、オープンカレッジ特別講座「豊かに生きる ――人生儀礼の世界――」が開催されています。


会場の入口で

開始前の事前打ち合わせのようす

第5回オープンカレッジのようす



これまで、ブログ「人生儀礼の世界」ブログ「誕生と生育」ブログ「成人式と結婚式」ブログ「還暦と年祝い」で紹介した4回の特別講座を経て、いよいよ最終回となる第5回「終活を考える」が11日に開催されました。
コーディネーターは、國學院大學の石井研士教授(宗教学)で、互助会保証の藤島社長とわたしが登壇しました。


国際儀礼について語る藤島社長

ミャンマー仏教が紹介されました

バガン遺跡への協力を提案

わたしも興味深く拝聴しました



まずは藤島社長とわたしの紹介があり、最初に藤島社長が話されました。
藤島社長は、大使時代に経験された国際儀礼プロトコール)の話題から、現代日本の冠婚葬祭の諸問題、およびその歴史を俯瞰されました。さらには、先日の「アジア冠婚葬祭業国際交流研究会」のミャンマー視察を取り上げられ、上座仏教の可能性、バガン仏教遺跡への協力についての想いなどを述べられました。わたしも、メモを取りながら興味深く拝聴しました。


わたしが登壇しました

國學院大學との縁を話しました



登壇したわたしは、冒頭、「今日は國學院大學の教壇に立て、感無量です」と述べ、國學院との御縁を話しました。わたしの父であるサンレーグループ佐久間進会長が國學院の出身であり、日本民俗学が誕生した昭和10年にこの世に生を受けています。また、佐久間会長は亥年ですが、ともに國學院の教授を務めた日本民俗学の二大巨人・柳田國男折口信夫の2人も一回り違う亥年であると、前回の新谷尚紀先生の特別講座で初めて知りました。佐久間会長が國學院で学び、日本民俗学のまさに中心テーマである「冠婚葬祭」を生業としたことに何か運命的なものを感じます。わたし自身は、佐久間会長から思想と事業を受け継いでおり、幼少の頃から日本民俗学の香りに触れてきました。昔から國學院には親しみを感じており、「今日ここに教壇に立てたことを心より嬉しく思います」と述べました。


國學院大學と私」

國學院大學で話せて感無量でした



國學院」の「国学」とは、「日本人とは何か」を追求した学問で、契沖、賀茂真淵本居宣長平田篤胤らが活躍しました。わたしの実家の書庫には彼らの全集がすべて揃っており、わたしは高校時代から読み耽っていました。
そして、「日本人とは何か」という国学の問題意識を継承したのが、「新国学」としての日本民俗学です。実科の書庫には、柳田國男折口信夫の全集も当然にように並んでいました。わたしは、「無縁社会」とか「葬式は、要らない」などの言葉が流行するような現在、日本人の原点を見直す意味でも日本民俗学の再評価が必要であると思います。わたしは「冠婚葬祭互助会の使命とは、日本人の原点を見つめ、日本人を原点に戻すこと、そして日本人を幸せにすることだと思います」と述べました。


第5回オープンカレッジのようす

「終活ブームの背景」について



それから、今回のテーマである「終活」について考えを述べました。
これまでの日本では「死」について考えることはタブーでした。
でも、よく言われるように「死」を直視することによって「生」も輝きます。その意味では、自らの死を積極的にプランニングし、デザインしていく「終活」が盛んになるのは良いことだと思います。
ところが、その一方で、わたしには気になることもあります。
「終活」という言葉には何か明るく前向きなイメージがありますが、わたしは「終活」ブームの背景には「迷惑」というキーワードがあるように思えてなりません。みんな、家族や隣人に迷惑をかけたくないというのです。「残された子どもに迷惑をかけたくないから、葬式は直葬でいい」「子孫に迷惑をかけたくないから、墓はつくらなくていい」「失業した。まったく収入がなく、生活費も尽きた。でも、親に迷惑をかけたくないから、たとえ孤独死しても親元には帰れない」「招待した人に迷惑をかけたくないから、結婚披露宴はやりません」「好意を抱いている人に迷惑をかけたくないから、交際を申し込むのはやめよう」・・・・・・。なんか変ではありませんか?


熱心に聴く人々

あ、寅さんもいる!!



すべては、「迷惑」をかけたくないがために、人間関係がどんどん希薄化し、社会の無縁化が進んでいるように思えてなりません。結果的に夫婦間、親子間に「ほんとうの意味での話し合い」がなく、ご本人がお亡くなりになってから、さまざまなトラブルが発生して、かえって多大な迷惑を残された家族にかけてしまうことになります。その意味で「迷惑」の背景には「面倒」という本音も潜んでいるように思います。みんな、家族や夫婦や親子で話し合ったり、相手を説得することが面倒なのかもしれません。


「終活の流れ」について説明



「迷惑をかけたくない」という言葉に象徴される希薄な“つながり”。
日本社会では“ひとりぼっち”で生きる人間が増え続けていることも事実です。しかし、いま「面倒なことは、なるべく避けたい」という安易な考えを容認する風潮があることも事実です。こうした社会情勢に影響を受けた「終活」には「無縁化」が背中合わせとなる危険性があることを十分に認識すべきです。この点に関しては、わたしたち一人ひとりが日々の生活の中で自省する必要もあります。


「葬儀の発生」について説明

葬式は必要!



さらに、わたしは以下のことをお話しました。
葬儀は人類が長い時間をかけて大切に守ってきた精神文化である。いや、葬式は人類の存在基盤だと言ってもよい。昔、「覚醒剤やめますか、人間やめますか」というポスターの標語があったが、わたしは、「葬式やめますか、そして人類やめますか」と言いたい。日本人が本当に葬式をやらなくなったら、人類社会からドロップアウトしてしまう。あらゆる生命体は必ず死ぬ。もちろん人間も必ず死ぬ。親しい人や愛する人が亡くなることは悲しいことだ。でも決して不幸なことではない。残された者は、死を現実として受け止め、残された者同士で、新しい人間関係をつくっていかなければならない。葬式は故人の人となりを確認すると同時に、そのことに気がつく場になりえるのである。葬式は旅立つ側から考えれば、最高の自己実現であり、最大の自己表現の場ではないか。「葬式をしない」という選択は、その意味で自分を表現していないことになる。まったく、もったいない話だ。つまるところ、葬儀とは人生の卒業式であり、送別会だと思う。そう述べました。


すべての儀式は卒業式



卒業式というものは、本当に深い感動を与えてくれます。 それは、人間の「たましい」に関わっている営みだからだと思います。 わたしは、この世のあらゆるセレモニーとはすべて卒業式ではないかと思っています。 七五三は乳児や幼児からの卒業式であり、成人式は子どもからの卒業式。 そう、通過儀礼の「通過」とは「卒業」のことなのですね。
結婚式というものも、やはり卒業式だと思います。なぜ、昔から新婦の父親は結婚式で涙を流すのか。それは、結婚式とは卒業式であり、校長である父が家庭という学校から卒業する娘を愛しく思うからです。
そして、葬儀こそは「人生の卒業式」ではないでしょうか。
最期のセレモニーを卒業式ととらえる考え方が広まり、いつか「死」が不幸でなくなる日が来ることを心から願っています。


「終活」は人生の卒業準備



わたしは、続いて誰でもが実行できる究極の「終活」についてもお話しました。それは、自分自身の理想の葬儀を具体的にイメージすることです。
親戚や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。参列してほしい人とは日ごろから連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝することです。生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算。葬儀の想像とは、死を直視して覚悟することです。覚悟してしまえば、生きている実感がわき、心も豊かになります。


自分の葬儀を想像する



自分の葬儀を具体的にイメージするとは、どういうことか?それは、その本人がこれからの人生を幸せに生きていくための魔法です。わたしは講演会などで「ぜひ、自分の葬義をイメージしてみて下さい」といつも言います。友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像することを提案するのです。そして、「その弔辞の内容を具体的に想像して下さい。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです」と言いました。葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像するといいでしょう。そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれる。自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。そのイメージを現実のものにするには、あなたは残りの人生を、そのイメージ通りに生きざるをえないのです。これは、まさに「死」から「生」へのフィードバックではないでしょうか。よく言われる「死を見つめてこそ生が輝く」とは、そういうことだと思います。人生最期のセレモニーである「お葬式」を考えることは、その人の人生のフィナーレの幕引きをどうするのか、という本当に大切な問題です。
自分の葬儀を考えることで、人は死を考え、生の大切さを思うのです。


「さまざまな送られ方」を紹介



さらに、「さまざまな送られ方」として、新時代の葬儀についても話しました。
日本の葬儀は、実にその8割以上を仏式葬儀によって占められています。
ところが最近になって、仏式葬儀を旧態依然の形式ととらえ、もっと自由な発想で故人を送りたいという人々が増えています。
今のところは従来の告別式が改革の対象になって、「お別れ会」などが定着しつつあります。やがて、通夜や葬儀式にも目が向けられ、故人の「自己表現」や「自己実現」が図られていくに違いありません。
それから、今後の葬儀イノベーションを紹介しました。
日本人の他界観を大きく分類すると、「山」「海」「月」「星」となりますが、それぞれが「樹木葬」、「海洋葬」、「月面葬」、「宇宙葬」に対応しています。新しい葬儀イノベーションはそれらの他界観を見事にフォローしているわけです。わたしは、この4つは「四大葬儀イノベーション」だと思います。


「修める」という心構えを!



最後に、「終活」という言葉についての違和感を話しました。
終活の「終」の字が気に入らないという人は多いです。
もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいます。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しました。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。
よく考えれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないか。
学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活なのです。そして、人生の集大成としての「修生活動」があります。
以上のようなことをお話しして、わたしは降壇しました。


座談会のようす

「儀式」の意味について語る藤島社長



続いて、石井先生、藤島社長とともに座談会形式で語りました。石井先生が進行役を務められ、2つの質問をわたしたちに投げかけられました。
1つは、「あえて儀式不要論の立場に立ってお訊ねしますが、『なぜ、葬儀を上げたほうがいいか』を説得して下さい」ということでした。
わたしは、血縁と地縁の両面からお話しました。葬儀には亡くなった方の「人脈の継承」という側面があります。もし親の葬儀をしなかったら、親の知り合いに会うチャンスを完全に逃してしまうと述べました。
また地縁の面からいうと、葬儀以前に良い人間関係を構築する必要があります。もし、お隣さんが孤独死して代わり果てた姿で発見された場合、不動産的にも精神的にも大きなダメージを負います。


「なぜ、葬儀が必要なのか?」を説明しました



葬儀という儀式は、何のためにあるのでしょうか。遺体の処理、霊魂の処理、悲しみの処理、そして社会的な処理のために行われます。私たちはみんな社会の一員であり、1人で生きているわけではありません。その社会から消えていくのですから、そんな意味でも死の通知は必要なのです。社会の人々も告別を望み、その方法が葬儀なのです。アカデミー外国語映画賞を受賞した「おくりびと」が話題になりましたね。
映画のヒットによって「おくりびと」という言葉が納棺師や葬儀社のスタッフを意味すると思い込んだ人が多いようです。しかし、「おくりびと」の本当の意味とは、葬儀に参加する参列者のことです。人は誰でも「おくりびと」、そして最後には「おくられびと」になります。1人でも多くの「おくりびと」を得ることが、その人の人間関係の豊かさ、つまり幸せの度合いを示すのではないでしょうか。そのように、わたしは答えました。


「儀式は何のためにあるのか」について語りました



さて、石井先生からのもう1つの質問は何か。
それは、「儀式は何のためにあると思いますか」でした。
わたしは、サン=テグジュペリの『星の王子さま』を持ち出しました。この童話には、「本当に大切なものは目に見えない」という有名な言葉が出てきます。わたしが心の支えにしている言葉です。わたしは、本当に大切なものとは「こころ」であり、「縁」であると思います。現在の日本社会は「無縁社会」などと呼ばれています。しかし、この世に無縁の人などいません。どんな人だって、必ず血縁や地縁があります。そして、多くの人は学校や職場や趣味などでその他にもさまざまな縁を得ていきます。この世には、最初から多くの「縁」で満ちているのです。ただ、それに多くの人々は気づかないだけなのです。わたしは、「縁」という目に見えないものを実体化して見えるようにするものこそ冠婚葬祭ではないかと思います。
結婚式や葬儀、七五三や成人式や法事・法要のときほど、縁というものが強く意識されることはありません。冠婚葬祭が行われるとき、「縁」という抽象的概念が実体化され、可視化されるのではないでしょうか。ですから、儀式というのは本当に大切なものを可視化するためにあるのではないかと思います。そのように申し上げました。


座談会終了後のスリーショット



対談終了後は、会場中から盛大な拍手を頂戴し、感激しました。
石井先生、藤島社長、わたしはステージ上で記念撮影をしました。
この日は、業界の仲間に一般の方々、多くの聴衆の方々が熱心に話を聴いて下さいました。本当に素敵な経験をさせていただいて、関係者の皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。父の母校である國學院大學で話せたことも、良い思い出になりました。願わくば、國學院儀礼学科というものが創設され、国学および日本民俗学の志を受け継いでほしいと思います。
機会があれば、わたしもまた國學院で「儀礼」について語りたいです。


「互助会通信」第418信



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年 11月12日 一条真也