酉の市

一条真也です。
10日、東京に入りました。ブログ「國學院大學オープンカレッジのお知らせ」で紹介した11日開催の特別講座に出講するためです。昼間は、都内のホテルで「出版寅さん」こと内海準二さんとランチ・ミーティングをしました。渡部昇一先生との対談本『永遠の知的生活』(実業之日本社)はもうすぐ刊行されますが、新たに『決定版おもてなし入門』や『儀式論』といった出版企画が立ち上がり、そのための打ち合わせでした。内海さんはランチの和風スパゲッティを食べながら、「今日はちょうど酉の市(とりのいち)だよ。一緒に行かない?」と言いました。


花園神社を望む

花園神社の前で

花園神社の前の寅さん

寅さんが異界に案内してくれました



酉の市は、例年11月の「酉の日」に行われる祭です。「酉の祭(とりのまち)」、「大酉祭(おおとりまつり)」、「お酉様(おとりさま)」ともいいます。
わたしは、これまで酉の市に行ったことがありません。
それで、夜の9時に内海さんと赤坂見附で待ち合わせて、一緒に酉の市が開かれている新宿の「花園神社」に向かいました。そこは、もう言葉では表現できないほどの「異界」が出現していました。


屋台が立ち並びます

有名な「新宿のタイガーマスク」がいました

祭礼の提灯の数が綺麗でした

ものすごい数の人が参拝していました



Wikipedia「酉の市」の「由来」によれば、酉の市の由来は、神道と仏教の双方から、それぞれ異なる解説がされています。たとえば、神道の場合は、以下の通り。
神道の解説では、大酉祭の日に立った市を、酉の市の起源とする。
大鳥神社(鷲神社)の祭神である日本武尊が、東征の戦勝祈願を鷲宮神社で行い、祝勝を花畑の大鷲神社の地で行った。これにちなみ、日本武尊が亡くなった日とされる11月の酉の日(鷲宮神社では12月の初酉の日)には大酉祭が行われる。また、浅草・鷲神社の社伝では、日本武尊が鷲神社に戦勝のお礼参りをしたのが11月の酉の日であり、その際、社前の松に武具の熊手を立て掛けたことから、大酉祭を行い、熊手を縁起物とするとしている」


ひたすら押し寄せる人、人、人・・・

とにかく活気がありました



それから仏教の場合ですが、以下の通りです。
「仏教(浅草酉の寺・長国寺)の解説では、鷲妙見大菩薩の開帳日に立った市を酉の市の起源とする。1265年(文永2年)11月の酉の日、日蓮宗の宗祖・日蓮上人が、上総国鷲巣(現・千葉県茂原市)の小早川家(現・大本山鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を祈ったところ、明星(金星)が明るく輝きだし、鷲妙見大菩薩が現れ出た。
これにちなみ、浅草の長国寺では、創建以来、11月の酉の日に鷲山寺から鷲妙見大菩薩の出開帳が行われた。その後1771年(明和8年)長国寺に鷲妙見大菩薩が勧請され、11月の酉の日に開帳されるようになった」


昔なつかしい「射的」がありました

妖怪ウォッチ」の屋台もありました



Wikipedia「酉の市」 の「由来」には、次のようにも書かれています。
「実際の祭りは、花又の鷲大明神の近在農民による収穫祭が発端といわれる。鷲大明神は鶏大明神とも呼ばれ当時氏子は鶏肉を食べる事を忌み、社家は鶏卵さえ食べない。近郷農民は生きた鶏を奉納し祭が終わると浅草寺観音堂前に放ったのである。このように鶏を神とも祀った社は、綾瀬川に面しているため水運による人、物の集合に好適であった。そのため酉の日に立つ市には江戸市中からの参詣者も次第に多くなり、そこでは社前で辻賭博が盛大に開帳されたが安永年間に出された禁止令により賑わいは衰微する。かわって、酉の市の盛況ぶりは浅草鷲神社 (台東区)へと移り、最も賑わう酉の市として現在に至るのである。また浅草鷲神社 (台東区)の東隣に新吉原が控えていたことも浅草酉の市が盛況を誇る大きな要因であった。時代が下るにつれ江戸の各地で酉の市が開かれるようになり、今では関東の多くの寺社で開催されるようになった。このように酉の市とは、秋の収穫物や実用の農具が並んだ近郊農村の農業市が江戸市中へと移行するに従い、招福の吉兆を満載した飾り熊手などを市の縁起物とする都市型の祭へと変遷してきたのである」


熊手が売られていました

熊手が売られていました



「酉の市」といえば、やはり熊手です。Wikipedia「酉の市」 の「習俗〜熊手守りと縁起熊手」には、以下のように書かれています。
「『酉の市』の立つ日には、おかめや招福の縁起物を飾った『縁起熊手』を売る露店が立ち並ぶ。また、市を開催する寺社からは小さな竹熊手に稲穂や札をつけた『熊手守り』が授与され、福を『掃き込む、かきこむ』との洒落にことよせ『かっこめ』と呼ばれている。酉の市の縁起物は、江戸時代より熊手の他に『頭の芋(とうのいも)』(唐の芋)や粟でつくった『黄金餅(こがねもち)』があった。頭の芋は頭(かしら)になって出世する、芋は子芋を数多く付ける事から子宝に恵まれるとされ、黄金餅は金持ちになれるといわれた。しかし幕末頃から売られるようになった『切り山椒』が黄金餅に変わって市の縁起物となり現在にいたっている。本格的な寒さを迎えるこの時期、これを食べれば風邪を引かないといわれる」


熊手がこれほど綺麗なものとは!

わたしも熊手を求めました



さらに「習俗〜熊手守りと縁起熊手」は、「縁起物の代表である熊手は、鷲が獲物をわしづかみすることになぞらえ、その爪を模したともいわれ、福徳をかき集める、鷲づかむという意味が込められている。熊手は熊手商と買った(勝った)、まけた(負けた)と気っ風の良いやり取りを楽しんで買うものとされ、商談が成立すると威勢よく手締めが打たれる(商品額をまけさせて、その差し引いた分を店側に『ご祝儀』として渡すことを『粋な買い方』とする人もおり、手締めはこの『ご祝儀』を店側が受け取った場合に行われる場合が多い。つまり、この方法でいくと結局は定額を支払っているわけだが、ご祝儀については明確に決まっているわけではなく、差し引き分以上の場合もあれば、小銭程度であったりと買い手側の意思に依存している)。熊手は大小様々なものが売られており、主に売り手の思惑により年々大きくしてゆくものともされている」と続きます。


わたしが買った熊手と切山椒

あ、見世物小屋だ!!



わたしも、この日、小さな熊手を2つと「切り山椒」を求めました。それにしても、すごい人出です。久々に東京の人口の多さを体感しました。周囲を見ると、今では北九州でもお目にかからないような「一目でわかるヤーさん」たちもたくさんいました。まるで昭和の東映ヤクザ映画を観ているようでした。その他、ヤクザとは違う意味で「アブない」感じの人たちの姿も多く、「花園神社」は巨大な異界と化していました。なんと、ここには「見世物小屋」もあり、入場を待つ多くの人々が並んでいました。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年11月11日 一条真也