日向仏舎利塔

一条真也です。
28日の午後、ブログ「大御神社」で紹介した龍神信仰の聖地から周囲を見渡すと、山の上に白い尖塔のようなものが見えました。わたしは反射的に「あ、パゴダだ!」と思いました。「上海帰りのリル」ならぬ「ミャンマー帰りの一条」は、パゴダには敏感なのです。サンレー宮崎事業部の尾崎文俊事業部長に聞くと、「あれは日向仏舎利塔です」という答えが返ってきました。


あ、パゴダが見える!



大御神社から近いというので、佐久間会長をはじめ、みんなで行ってみました。佐久間会長は、昨日すでに訪れているそうです。
うちの親父は、なんでも気が早いのです。日向市にある櫛の山の山頂に、日向仏舎利塔はありました。白亜の非常に美しい仏舎利塔でした。


白亜の美しい仏舎利塔です



仏舎利とは、ブッダ、つまりお釈迦様の遺骨のことです。 
日向仏舎利塔は1970年(昭和45年)に完成したそうです。
高さ30m、直径28m、正面に転法輪像、左側面に誕生像、右側面に涅槃像、背面に合掌像の釈迦像があります。


あの中にブッダの遺骨があるのでしょうか?



日向仏舎利塔は日向市の日知屋の日本山妙法寺の尼僧であった石元妙眼住職(俗名はツル子)が平和を祈願して信徒らとともに、鍬、ツルハシなどで山を切り開いたそうです。建設作業においても手作業が多く、ハンマーで鉄骨を曲げ、コンクリートを練って巨大な仏舎利塔を造りました。 
石元住職は美郷町南郷区の出身だそうです。代用教員をしていましたが、出家して日本山妙法寺の開祖である熊本県出身の藤井日達上人の導きで、昭和36年に仏舎利塔の建設を始めました。尼僧である石元住職も作業服を着て先頭に立って働きました。 資金難をはじめ、さまざまな苦難に遭いながらも着工から9年後の昭和45年に日向仏舎利塔は完成しました。石元住職は2011年11月に86歳で亡くなられています。


「日向仏舎利塔」の説明板



「日向仏舎利塔」の説明板には、次のように書かれています。
「この仏舎利塔には、昭和29年熊本に日本最初の仏舎利塔が完成の際に、日本の平和国家建設を祈念して、インドの故 ネール主相より贈られた御仏舎利(お釈迦様の御骨)の一部が祀られてあります。
そしてこの仏舎利塔は、お釈迦様の大慈大悲の法雨を、一切衆生にそそぎ潤し、以って戦争のない人類の平和と調和とを祈願して、積み重ねる石の一つ一つに、大願の成就を念じつつ築き上げて建立したものであります。
なお、この工事は、一人の尼僧の責任において施工、精進努力の3250日、9年間の歳月を要して竣工致しました。ちなみに、塔身は鉄筋コンクリート、石積み、塔の高さ30m、設計は工学博士 大岡実 氏、施工は日本山妙法寺並びに四衆、起工式 昭和36年9月9日、落慶法要 昭和45年8月12日、補強工事 昭和55年10月でありました。
願わくはこの功徳を以って、あまねく一切に及ぼし、我等と衆生とみなともに仏道を成せん 文 合掌   日向仏舎利塔


正面から見た日向仏舎利塔



わたしは、この説明板を読みながら、2011年に亡くなられたという石元住職のことを想いました。尼僧でありながら作業着を着て、これだけ立派な仏舎利塔を完成させたとは、なんという凄まじい人生でしょうか。菊池寛の「恩讐の彼方」に出てくる青の洞門を掘った主人公を連想しました。ミャンマーの人々は、少しでも現世で功徳を行うべく、パゴダ建設の資金を寄進します。これだけの仏舎利塔を作り上げた石元住職の功徳の大きさたるや想像も尽きません。きっと、今は素晴らしい仏の世界におられると思います。


閉鎖されて中に入れませんでした



本当はこの仏舎利塔に入ってみたかったのですが、閉鎖されていました。
わたしは、「もしかして、石元住職が亡くなった後、何かの事情で運営で困っておられるのではないか」という考えが湧きました。
ブログ「大僧正のお別れ会」に書いたように、門司港の「世界平和パゴダ」は、中核的人物であったウ・ケミンダ大僧正が亡くなられて運営上行き詰まり、ついには閉鎖されてしまいました。その「世界平和パゴダ」を再開するお手伝いはわが社がさせていただきました。



もちろん、日向仏舎利塔は順調に運営されており、今日はたまたま休館日だったのかもしれません。わたしの勘違いであれば、それはそれで構いません。しかし、わたしの脳裏でウ・ケミンダ大僧正と石元住職のイメージが重なりました。もし万が一、日向仏舎利塔でお困りのことがあれば、なんとかお力になれないかと思いました。「天下布礼」の旗を掲げ、「礼の社」をめざすわが社なら、何かできることがありそうな気がいたします。


何事も陽にとらえて、前向きに!



そんなことを考えていて、ふと近くを見ると、サンレー紫雲閣推進本部長の東孝則常務の姿が目に入りました。たしか、ブログ「加賀大観音」のときにも東常務がいたはずです。いや、間違いない!(by長井秀和
わたしが頭の中で「日向北紫雲閣のオープンを御縁に、なんとか日向仏舎利塔の力になれないか」と考え、東常務にテレパシーを送りました。すると東常務は何かを感じたのか、眉毛をフニーっと下げて“困ったちゃん”みたいな顔をしました。まるで「勘弁して下さいよ」と言っているみたいでした。
そんな顔をしないで、何事も陽にとらえて、前向きに考えていただきたい!


幸せであれ 平穏であれ 安らかであれ・・・・・・



わたしは日向仏舎利塔を見ながら無意識のうちに合掌し、『慈経 自由訳』(三五館)の中の一節である「幸せであれ 平穏であれ 安らかであれ」という言葉を唱えていました。その後、わたしたちは日向駅に向かって、そこから列車に乗り、小倉へと戻ったのでございます。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年10月29日 一条真也