ヤンゴン

一条真也です。
13日、ミャンマーの旧首都であるヤンゴンに来ました。
昨年4月以来の訪問です。今回は、副座長を務めている「アジア冠婚葬祭国際交流研究会」のミッションで来ました。


ヤンゴンのシンボルは、シュエダゴン・パゴダ



1983年の統計によると人口は245万8712人を数え、国内では最大の都市です。89年にラングーンから改称されました。名前は「戦いの終わり」を意味するそうです。エーヤワディー川のデルタ地帯に位置しますが、重要な交易地であり、米、チーク材、石油、綿、鉱石の輸出拠点です。主な産業は精米、木材加工、石油精製、鉄鋼業などです。


ヤンゴン市内のようす



ヤンゴンは、6世紀に当時低地ビルマを支配していたモン族によって創設されました。当時の都市名は「ダゴン」でした。ダゴンはシュエダゴン・パゴダをほぼ中心とした小さな漁村でした。1755年、アラウンパヤー王がダゴンを征服し、「ヤンゴン」と改名しました。英国は、第一次英緬戦争中にヤンゴンを占領しましたが、戦後にビルマに返還しました。1841年、街は火災で壊滅しました。



英国は、1852年の第二次英緬戦争によって、ヤンゴンおよび低地ビルマ地区を占領し、その後ヤンゴンを「ラングーン」に変更しました。英国領ビルマの商業的かつ政治的な中心地に変えていったのです。1885年の第三次英緬戦争で英国が高地ビルマ支配下に入れた後、ラングーンは英国領ビルマの首都となりました。



1890年代までに、ヤンゴンの人口および商業活動の増加により、カンドーヂー湖およびインヤー湖の北側に裕福な郊外住宅地が出現しました。英国人はラングーン総合病院などの病院、ラングーン大学などの大学を創設しました。植民地時代のヤンゴンは、広大な公園や湖、近代的な建物と伝統的な木造建築の融合が見られ、「東の庭園都市」と呼ばれました。20世紀の初期、ヤンゴンは公共サービスおよび社会的インフラで、ロンドンと肩を並べるほどとなったそうです。



第一次世界大戦後、ヤンゴンは、極左のラングーン大学生達が率いたビルマ独立運動の中心地となりました。彼らは大英帝国に対して3度にわたる全国的なストライキヤンゴンで行いました。1942年から45年にかけて、ヤンゴンは日本軍による占領を受け、第二次世界大戦中に甚大な被害を受けました。48年1月4日、ビルマ連合は英国から独立を勝ち取り、ヤンゴンはその首都となりました。


ヤンゴン市内のようす



独立後、ヤンゴンは郊外に向かって拡大し、50年代に政府は多くの衛星都市を建設しました。ヤンゴン都市圏の人口は410万7000人にも及んでいます。かし、孤立主義者のネ・ウィンによって、ヤンゴンのインフラは不十分な管理によって悪化し、増加する人口に対応できませんでした。90年代、現軍事政権の市場開放政策は、国内および海外の投資を引き寄せました。その結果、街のインフラの近代化が若干起きました。主要な建設計画により、6本の新しい橋と、市と内地の工業地帯を結ぶ5本の新しい高速道路が完成しました。それでもヤンゴンの多くの地区では、24時間の電気使用や定期的なゴミの収集などの基本的な行政サービスが行われていません。


ヤンゴン市内を走る車



つい最近も、「感電死年間100人超 ヤンゴン、電線老朽化で事故多発」という記事を目にしました。ヤンゴンとその近郊では、切れた電線に触れるなどして年間100人超が感電死しているというのです。11日、2011年の民政移管後に初めて開いた定例会見で、ヤンゴン管区警察がそんなデータを明らかにしました。頻発する感電死の原因は、電線など配電設備の更新が軍政下で十分になされず、40〜50年前の設備も残っていることや、電線が絶縁体を巻いていない「裸電線」であることだそうです。


コンセントがショートして怖かったです!



この記事を読んで怖くなりました。裸電線を見つけたら、絶対に触れないようにしようと誓ったのですが、ヤンゴン最初の夜、コンセントにソケットを差し込んだ瞬間、「ボンッ!」と凄い音がして火花が散り、ソケットもコンセントも黒くなってしまいました。ああ、怖かった!




*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年 10月14日 一条真也