グラウンド・ゼロ

一条真也です。
ニューヨークに来ています。18日の午前11時(現地時間)、J・F・ケネディ空港に到着して、そのまま市内観光に出ました。マンハッタンの各所を回りましたが、「グラウンド・ゼロ」が最も強く印象に残りました。


「9/11 MEMORIAL」に向かう

犠牲になった消防士のモニュメント

MAY WE NEVER FORGET

多くの人が訪れていました



Wikipedia「グランウンド・ゼロ」には、以下のように書かれています。
グラウンド・ゼロ(英: ground zero)とは、英語で『爆心地』を意味する語。強大な爆弾、特に核兵器である原子爆弾水素爆弾の爆心地を指す例が多い。従来は広島と長崎への原爆投下爆心地や、ネバダ砂漠での世界初の核兵器実験場跡地、また核保有国で行われた地上核実験での爆心地を『グラウンド・ゼロ』と呼ぶのが一般的であった。しかし、アメリカ同時多発テロ事件の報道の過程で、テロの標的となったニューヨークのワールドトレードセンター(WTC)が倒壊した跡地が、広島の原爆爆心地(原爆ドーム、正確には原爆ドーム近隣の島病院付近)を連想させるとして、WTCの跡地を『グラウンド・ゼロ』とアメリカのマスコミで呼ばれ、これが定着した」


「9/11 MEMORIAL」の入口

ついに、やって来ました

多くの人々が祈っていました

「9/11 MEMORIAL」モニュメント

「9/11 MEMORIAL」モニュメントの前で



WTCは、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社が管理していました。
Wikipedia「ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社」の「同時多発テロ事件とその後」には、以下のように書かれています。
「2001年9月11日の同時多発テロ事件での世界貿易センターの崩壊は、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社にも大きな打撃を与えた。港湾公社の本部もまた世界貿易センターにあり、職員にも多くの犠牲を出した。事件当時、約1400名の職員が世界貿易センターで勤務していたと推定されている。そのうち、ポートオーソリティ警察の警官37名を含む、84名の職員が事件で死亡した。事件で死亡した職員の中には、同年4月からエグゼクティブ・ディレクターを務めていたニール・d・レビンやポート・オーソリティ警察の警視フレッド・モローンもいた。崩壊後の救助作業により、ポート・オーソリティ警察の警官2名が、崩壊から24時間を経過した後で9mもの高さに積み上がった瓦礫の下から救助された。後に、この2名の警官の救出劇はオリバー・ストーン監督、ニコラス・ケイジ主演の映画『ワールド・トレード・センター』で描かれた」


新しい「ワールド・トレード・センター・コンプレックス」

2014年末に完成します



現在、世界貿易センターの跡地には「9・11メモリアル」のモニュメント、そしてフリーダムタワー(Freedom Tower)が建っています。
フリーダムタワーは2009年に「ワールド・トレード・センター・コンプレックス」と名称変更され、2014年の終わり頃に完成予定です。
完成後、フリーダムタワーを訪れて、中に入ってみたいです。


新しい風景が生まれていました



日本人にはあまり知られていませんが、9・11以降じつに半年にわたってニューヨークの人々は悪臭に苦しめられたそうです。雨が降ると、街中にプラスチックの焼ける臭いが立ち込めました。グラウンド・ゼロの地下では、ずっと火が消えておらず、くすぶり続ける大量の瓦礫が山のように積み重なっていました。雨が降ると、それらが自然鎮火されてプラスチックを焼いたような悪臭が漂ったのです。ダウンタウン一帯が悪臭に包まれ、30分もすると頭が痛くなってきたとか。そんな話、わたしは初めて知りました。
そんな歴史を持つ場所に新しい風景が生まれていました。


寄付を募っていました

白いリストバンドを貰いました



わたしはグランウンド・ゼロで犠牲者の冥福を祈って合掌し、心からの祈りを捧げました。帰り道、犠牲者のための寄付を募っていました。わたしが貧者の一灯を募金箱に入れると、「9/11 MEMORIAL」と書かれた白いリストバンドを貰いました。大切にします。


全犠牲者の名前がプレートに刻まれています

日本人の名前もありました



ブログ「9・11に思う」にも書いたように、わたしは、2001年9月11日に起こった米国同時多発テロ事件に強烈なショックを受けました。
わたしは同年の10月1日に株式会社サンレーの社長に就任しました。その直前に、あの大事件が起こったわけです。ニューヨークの世界貿易センタービルでは、じつに2753人が犠牲になりました。そして、9・11同時多発テロには多くの日本人犠牲者もいました。


1999年7の月にノストラダムスが予言した「恐怖の大王」も降ってこず、20世紀末の一時期、20世紀の憎悪は世紀末で断ち切ろうという楽観的な気運が世界中で高まり、多くの人々が人類の未来に希望を抱きました。
20世紀は、とにかく人間がたくさん殺された時代でした。
何よりも戦争によって形づくられたのが20世紀と言えるでしょう。
もちろん、人類の歴史のどの時代もどの世紀も、戦争などの暴力行為の影響を強く受けてきました。20世紀も過去の世紀と本質的には変わらないが、その程度には明らかな違いがあります。本当の意味で世界的規模の紛争が起こり、地球の裏側の国々まで巻きこむようになったのは、この世紀が初めてなのです。なにしろ、世界大戦が1度ならず2度も起こったのです。その20世紀に殺された人間の数は、およそ1億7000万人以上といいます。そんな殺戮の世紀を乗り越え、人類の多くは新しく訪れる21世紀に限りない希望を託していたのです。



しかし、そこに起きたのが2001年9月11日の悲劇でした。テロリストによってハイジャックされた航空機がワールド・トレード・センターに突入する信じられない光景をCNNのニュースで見ながら、わたしは「恐怖の大王」が2年の誤差で降ってきたのかもしれないと思いました。いずれにせよ、新しい世紀においても、憎悪に基づいた計画的で大規模な残虐行為が常に起こりうるという現実を、人類は目の当たりにしたのです。
あの同時多発テロで世界中の人びとが目撃したのは、憎悪に触発された無数の暴力のあらたな一例にすぎません。こうした行為すべてがそうであるように、憎悪に満ちたテロは、人間の脳に新しく進化した外層の奥深くにひそむ原始的な領域から生まれます。また、長い時間をかけて蓄積されてきた文化によっても仕向けられます。それによって人は、生き残りを賭けた「われら対、彼ら」の戦いに駆りたてられるのです。


ハートフル・ソサエティ

ハートフル・ソサエティ

グローバリズムという名のアメリカイズムを世界中で広めつつあった唯一の超大国は、史上初めて本国への攻撃、それも資本主義そのもののシンボルといえるワールド・トレード・センターを破壊されるという、きわめてインパクトの強い攻撃を受けました。その後のアメリカの対テロ戦争などの一連の流れを見ると、わたしたちは、前世紀に劣らない「憎悪の連鎖」が巨大なスケールで繰り広げられていることを思い知らされました。まさに憎悪によって、人間は残虐きわまりない行為をやってのけるのです。そんなことを考えて、わたしは『ハートフル・ソサエティ』(三五館)を書きました。
この日の夜、ホテルに戻ったわたしは、2753人の犠牲者の霊の冥福を祈りつつ、グラウンド・ゼロで次の歌を詠みました。




新世紀開けて間もなき悲しみを
   われら忘れじ ゼロは永遠(庸軒)




*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年9月19日 一条真也