孔子の木

一条真也です。
ブログ「霊山歴史館」で紹介したように、昨年10月、サンレー北陸の社員旅行で京都にある幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」に行きました。


霊山歴史館にて


霊山歴史館は昭和45年(1970年 )に、全国ではじめて幕末・明治維新期の歴史を総合的にとらえて研究する専門博物館として開館されました。坂本龍馬ら維新の志士たちの墓も隣接しています。わたしは、ここを訪れたのは3回目なのですが、見学を終えて霊山歴史館を出ると、なんと「孔子の木」という看板を発見しました。


孔子の木」の看板が・・・・・



孔子の木」の看板には次のように書かれていました。
「中国山東省にある孔子廟孔子のお墓)には、弟子が植えた孔子の木(楷の木)が大きく繁っています。この孔子の木は孔子廟に植わっている木の種子から育てられた子孫です。
幕末志士は、孔子が始めた儒教などを学び、明治維新につなげました。
孔子の木は、志士たちゆかりの木だとも言えるでしょう」


これが「孔子の木」です!



もともと、山東省曲阜にある孔子墓所「孔林」に弟子の子貢が植えた櫂の木が代々植え継がれていることに由来します。
また各地の孔子廟にも、楷の木が植えられています。時代を経るにしたがって中国では学問の聖木とされ、儒教の試験である科挙の進士に合格したものに楷の笏を送ったそうです。



これを見たわたしは、最初は自宅の庭にでも孔子の木を植えたいと思いました。しかしながら、サンレーという「礼の社」にこそ「孔子の木」を植樹すべきではないかと考えるようになりました。そして、ここから「孔子の木」探訪の旅が始まったのです。


素晴らしい環境の閑谷学校



ブログ「閑谷学校」で紹介したように、今年1月、わたしは岡山市で開催される「日経懇話会」で講演したこともあって、隣接する備前市にある特別史跡旧閑谷学校」を訪れました。閑谷学校は江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校です。所在地は岡山県備前市閑谷で校地は特別史跡、講堂は国宝です。


閑谷学校の聖廟(孔子廟)にて



閑谷学校は日本最古の庶民学校ですが、地方の指導者を育成するために武士のみならず庶民の子弟も教育した。また、広く門戸を開き他藩の子弟も学ぶことができました。就学年齢は8歳頃から20歳頃までで、カリキュラムは1と6の付く日には講堂で儒教の講義があり、5と10の付く日は休日となっていたそうです。頼山陽などの著名人も来訪し、幕末には少年時代の大鳥圭介もここで学びました。敷地内には重要文化財に指定された聖廟(孔子廟)もありました。


閑谷学校の楷の木(孔子の木)の前で



そう、閑谷学校を訪れた理由は、2本の巨大な楷の木を実際に見てみたかったからでもあります。この楷の木こそ「孔子の木」です。「孔子の木」と聞いては、黙っていられません。しかも、この閑谷学校には2本の巨大な楷の木があるのです。


閑谷学校には2本の巨大な楷の木があります



なんでも、今から100年前、湯島聖堂足利学校閑谷学校、それから佐賀県多久市にある多久聖廟の4カ所に楷の木すなわち「孔子の木」が植えられたそうです。湯島聖堂は何度も訪れているのですが、これまでは「孔子の木」を意識していませんでした。また、足利学校多久聖廟への興味も俄然強まってきました。


史跡湯島聖堂の前で



しかし、なかなか時間が取れずに「孔子の木」探訪は思うようには進みません。なんとか東京での仕事の合間に、ブログ「湯島聖堂」およびブログ「足利学校」で紹介したように「孔子の木」を見てきました。


湯島聖堂の「孔子の木」の前で



徳川五代将軍綱吉が儒学の振興のために、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建したのが、現在の湯島聖堂の始まりです。その後、寛政9年(1797)に幕府直轄学校の昌平坂学問所が開設されました。


湯島聖堂の「孔子の木」こと楷樹の由来



久しぶりに訪れた湯島聖堂には、確かに大きな「孔子の木」がそびえ立っていました。湯島聖堂湯島聖堂の案内板には、次のように記されています。
「楷は曲阜にある孔子墓所に植えられている名木で、初め子貢が(孔子墓所に)植えたと伝えられ、今日まで植えつがれてきている。枝や葉が整然としているので、書道でいう楷書の語源ともなったといわれている。
わが国に渡来したのは、大正4年、林学博士白澤保美氏が曲阜から種子を持ち帰り、東京目黒の農商務省林業試験場で苗に仕立てたのが最初である。これらの苗は当聖廟をはじめ儒学に関係深い所に頒ち植えられた。その後も数氏が持ち帰って苗を作ったが、性来雌雄異株であるうえ、花が咲くまでに30年位もかかるため、わが国で種子を得ることはできなかったが、幸いにして数年前から23個所で結実を見るに至ったので、今後は次第に孫苗がふえてゆくと思われる」


これが湯島聖堂の「孔子の木」だ!!



さらに、湯島聖堂の案内板には次のように記されています。
「中国では殆んど全土に生育し、黄連木・黄連茶その他(黄棟樹、黄連、蓮連木など)の別名も多く、秋の黄葉が美しいという。台湾では爛心木と呼ばれている。牧野富太郎博士は、これに孔子木と命名された。孔子と楷とは離すことができないものとなっているが、特に当廟にあるものは曲阜の樹の正子に当る聖木であることをここに記して世に伝える」


春夏秋冬の「孔子の木」



湯島聖堂では、「孔子の木」のポストカードが販売されていました。
全部で4枚あり、それぞれ春夏秋冬の景色が写されています。
四季によって、「孔子の木」の印象も変わるものですね。
それにしても、「孔子の木」はどの季節にも合う美しい木です。


「史跡足利学校」の前で



湯島聖堂を訪れた翌日、わたしは栃木県足利市にある「史跡足利学校」を初めて訪れました。足利学校の住所は「昌平町」となっており、これは孔子の生まれ故郷の地名に由来します。そういえば、湯島聖堂はかつて「昌平坂学問所」と呼ばれていました。足利駅からは、足利学校まで歩きました。


これが足利学校の「孔子の木」だ!



足利学校は、日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は大正10年に国の史跡に指定されています。創建については諸説ありますが、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより『日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学』と世界に紹介されているほどです。


足利学校では「ナンバンハゼ」と書かれています

孔子の木の前で孔佩群(孔子の子孫)さんと



足利学校には本堂の他に「孔子廟」があったとされています。寛文8年(1668年)、徳川幕府四代将軍家綱の時に造営されたもので、中国明時代の聖廟を模したものと伝えられています。現在の足利学校の「孔子廟」には、珍しい孔子坐像が祭られています。この足利学校では、孔子の子孫である孔佩群さんにお会いしました。



わたしが経営するサンレーは、創業以来、「人間尊重」という企業理念のもと、「互譲互助」の精神で冠婚葬祭事業を営んできました。
社名の由来でもある「礼」は孔子の教えであり、「人間尊重」そのものでもあります。事業の継承とは、創業理念の継承にほかなりません。その過程の中で取り組んできた活動が、図らずも孔子および「論語」思想の普及に繋がっているとして、一般社団法人・世界孔子協会からご評価いただき、平成24年2月には第2回「孔子文化賞」を受賞いたしました。
詳しくは、ブログ「孔子文化賞授賞式」をお読み下さい。


「平成の寺子屋」こと天道館の外観

天道館に植えられた5本の「孔子の木」

仁〜思いやりこそ、すべての基本である

義〜大義名分を持たない者はほろびる

礼〜人としてふみおこなうべき道を守る

智〜善悪の区別と自己を知る

信〜信がなければ人は動かない



昨年9月には、サンレーの「創業守礼」のシンボルとして「天道館」が竣工しています。わたしは、ここに「孔子の木」を植樹すべきではと考えたのです。学問の木としても貴ばれるこの木は、孔子の教えに鑑みれば「人間尊重の木」、「慈礼の木」と称するべきでしょう。6月18日、孔子の教えを広める一環として、天道館の前庭に「孔子の木」を植樹します。天道館の「孔子の木」は5本あり、それぞれ「仁」「義」「礼」「智」「信」の木となっています。そう、儒教の「五倫」にちなんでいるのです。


孔子の木植樹にあたってのメッセージ・ボード



これら5本の「孔子の木」によって、天道館孔子の教えを学ぶ「平成の寺子屋」として、また「人の道(礼道)」を学び実践していく場として、些少なりとも地域に貢献できる施設となれば、これほど嬉しいことはありません。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年6月18日 一条真也