仏教連合会パネルディスカッション

一条真也です。
ブログ「仏教連合会基調講演」で紹介したシンポジウムの第一部で、わたしは「葬式は必要〜有縁社会をめざして」と題した基調講演を行いました。
それから10分間の休憩を挟み、そのまま第二部のパネルディスカッションに参加しました。テーマは、「終活〜人生終焉への心構え〜」です。


パネルディスカッションがスタートしました



パネリストは、野口善敬師(臨済宗妙心寺派 長性寺住職)、渡邊和弘師(日蓮宗 浄泉寺住職)、外松太恵子さん(福岡県仏教連合婦人会 会長)、そしてわたしの4人です。コーディネーターは、安永宏史師(浄土宗 生住寺住職)でした。「終活」というテーマは、これまでにも何度も講演やパネルディスカッションのテーマで取り上げてきました。ちょうど今、『決定版 終活入門』(仮題、実業之日本社)という本を書いているところでもあり、わたしとしては普段から考えていることをお話ししました。


パネルディスカッションのようす

コーディネーターの安永宏史師

パネリストの野口善敬師

パネリストの渡邊和弘師

パネリストの外松太恵子さん

わたしも参加させていただきました



わたしは、これまでにも多くのパネルディスカッションに参加してきました。
ふつう、こういうものはガチンコでは行いません。必ず、シナリオというものがあります。シナリオといっても、セリフもすべて決められた芝居の脚本ではありません。こういう流れで進めていき、こういう質問を出演者全員に投げかけ、一人当たりの発言時間は何分以内といった類のシナリオです。そうでないと話が分散して収集がつきませんし、絶対に時間内には終わらないからです。しかし、今回は初めてシナリオなしのパネルディスカッションとなりました。つまり、正真正銘のガチンコです。


仏教者の意見を聴く

仏教者の意見を聴く



わたしも、これまで相当な回数の修羅場を潜ってきていますので、「喧嘩上等」もとい「ガチンコ上等」です。でも、やはり定められた時間内に有意義な討論を行うにはシナリオは必要であると思っています。
今日は、シナリオなしに「葬式は必要か、不要か」という議論からスタートしました。しかも、わたしの前に発言された方が「葬儀屋と坊主が集まって『葬式は必要』と言っても始まらないでしょう」とか、「葬式をするも良し、しないのも良し」などと言われる方がいたので、わたしも久々にキレました。


わたしも発言しました



公開の場でキレたのは初めてですが、そもそもわたしは「葬儀屋」とか「坊主」といった言葉が大嫌いなのです。そこには、自分の職業に対する誇り、他人の職業に対する敬意というものがありません。そして、その根底には葬儀という営みに対する軽視が明らかにあります。わたしは、葬儀ほど崇高な営みはないと本気で思っているので、そのような言葉は看過できません。また、お布施に関するジョークが出たのも気に喰わなかったです。それをそのままブログに書くと反響がものすごいと思うので、やめておきます。


思ったことをガンガン言いました



それで、わたしは「今日は、お寺様の前で話すということで、『釈迦に説法』だと申し訳なく思ってきました。わたしは、お坊様という聖職者を『えらい存在』として尊敬しているからです。それだけに、布施についてのジョークは不愉快です」と述べたところ、会場から笑みが消え、凍りついたようになりました。さらに、わたしは「『葬式は必要か、不要か』という議論からパネルディスカッションが始まったことに非常に驚いています。必要に決まっているじゃないですか。そんな弱腰だから、『葬式は、要らない』とか『無縁社会』とか言われるんです」とも述べました。「わたしは葬儀屋だから『葬式は必要!』を書いたのではありません。会社のためとか業界のためとか関係ありません。『葬式は、要らない』などと考えたら日本人が困るから書いたのです」とも言いました。もっと、いろいろ言ったのですが、個人批判が目的ではないので、このへんにしておきます。


会場が凍りついたようになりました



わたしは情けないというか、心の底から悲しくなりました。しかしながら、もう一人の僧侶の方がわたしの発言に共感を示して下さいましたので、救われた気がいたしました。でも、わたしのことを「一条さんは儒者なんですよ」という発言がありましたが、それは正しいとも思いました。本音を言えば、この場に、鎌田東二さんや井上ウィマラさんや奥田知志さんにいて欲しかったです。鎌田さんや井上さんや奥田さんに「日本の仏教はどうしちゃったんですかね?」と問いたい気分でした。ただ、断っておけば、そのような宗教者らしからぬ僧侶はあくまでも一部であり、多くの僧侶の方々は日夜、葬儀をはじめとした一連の死者儀礼によって遺族の方々の心を癒してしていると思います。「葬式仏教」などと揶揄されることもある日本仏教は、世界に誇りうるグリーフケア仏教であると信じています。


ちょっと言い過ぎて、すみません!



コーディネーターの方から「『終活』は自分の死を見つめるので悲観的だ!という意見もあるようですが、何かお考えはありますか?」という質問を受けました。これに対して、わたしは以下のようにお答えしました。これまでの日本では長い間、「死」について考えることはタブーでした。しかし、よく言われるように「死」を直視することによって「生」も輝きます。その意味では、自らの死を積極的にプランニングし、デザインしていく「終活」が盛んになるのは良いことだと思います。


「終活」について語りました



一方で、わたしには気になることもあります。
「終活」という言葉には何か明るく前向きなイメージがありますが、わたしは「終活」ブームの背景には「迷惑」というキーワードがあるように思えてなりません。みんな、家族や隣人に迷惑をかけたくないというのです。「残された子どもに迷惑をかけたくないから、葬式は直葬でいい」「子孫に迷惑をかけたくないから、墓は要らない」「失業した。まったく収入がなく、生活費も尽きた。でも、親に迷惑をかけたくないから、たとえ孤独死しても親元には帰れない」「招待した人に迷惑をかけたくないから、結婚披露宴はやりません」「好意を抱いている人に迷惑をかけたくないから、交際を申し込むのはやめよう」。すべては、「迷惑」をかけたくないがために、人間関係がどんどん希薄化し、社会の無縁化が進んでいるように思えます。



結果的に夫婦間、親子間に「ほんとうの意味での話し合い」がなく、ご本人がお亡くなりになってから、さまざまなトラブルが発生して、かえって多大な迷惑を残された家族にかけてしまうことになります。その意味で「迷惑」の背景には「面倒」という本音も潜んでいるように思います。みんな、家族や夫婦や親子で話し合ったり、相手を説得することが面倒なのでしょう。


「迷惑」についての考えを述べました



そもそも、家族とはお互いに迷惑をかけ合うものではないでしょうか。子どもが親の葬式をあげ、子孫が先祖の墓を守る。当たり前ではないですか。そもそも“つながり”や“縁”というものは、互いに迷惑をかけ合い、それを許し合うものだったはずです。『迷惑をかけたくない』という言葉に象徴される希薄な“つながり”。日本社会では“ひとりぼっち”で生きる人間が増え続けていることも事実です。しかし、いま『面倒なことは、なるべく避けたい』という安易な考えを容認する風潮があることも事実です。こうした社会情勢に影響を受けた『終活』には『無縁化』が背中合わせとなる危険性があることを十分に認識すべきです。この点に関しては、わたしたち一人ひとりが日々の生活の中で自省する必要もあります。


迫真のディカッションとなりました



そして「今後について」で、「今後、葬送のありかたは、どう変化すると思われますか?」という質問でした。わたしは以下のようにお答えしました。
日本の葬儀は、実にその約8割が仏式葬儀によって占められています。
ところが最近になって、仏式葬儀を旧態依然の形式ととらえ、もっと自由な発想で故人を送りたいという人々が増えています。今のところは従来の告別式が改革の対象になって、「お別れ会」などが定着しつつあります。やがて、通夜や葬儀式にも目が向けられ、故人の「自己表現」や「自己実現」が図られていく流れにあるように思います。


有意義なディスカッションとなりました



いま、サンレー では、さまざまな新時代の葬儀イノベーションを提案しています。最近では、一般的な仏式葬儀の後の出棺において、霊柩車のクラクションを止めて鐘で故人をお送りする「禮鐘の儀」が注目されています。3回鐘を鳴らすのですが、これは「感謝」「祈り」「癒し」の意味を込めています。また、日本人の他界観を大きく分類すると、「山」「海」「月」「星」となりますが、それぞれに対応した「樹木葬」「海洋葬」「月面葬」「宇宙葬」というセレモニーにも取り組んでいます。これも従来の葬儀の代用というよりは、一周忌などに行うメモリアル・セレモニーの要素が強いですね。


僧侶の方々は、どう思われたでしょうか?



いま、家族葬、さらには直葬が増えてきています。
その背景はいろいろあるのですが、一番のキーワードは、葬祭業界に限らず日本社会全体が「無縁社会」になってきているということだと思います。「無縁社会」という言葉の発案者はわたしのよく知っている人なのですが、この言葉はもともと「無縁仏」から来ています。これから身寄りのない方々が大量に亡くなります。そういった流れへの対応も必要になります。「死んだら木になって森をつくろう」という「樹木葬」も最近よく耳にします。現在、 サンレーグループでは「鎮魂の森」というプロジェクトを推進しています。
パネルディスカッションで、わたしは以上のようなことを発言しました。
会場にいた多くの僧侶の方々は、果たしてどう思われたでしょうか?


会場の外では「一条本」が売られました

けっこう売れたようです



なお、今日は会場外で著書の販売をさせていただきました。
講演のテーマである『葬式は必要!』(双葉新書)をはじめ、その他にもわたしの著書の販売を行ったのですが、よく売れたようです。
特に、『慈経 自由訳』(三五館)が売れたと聞きました。
ありがたいことです。仏教者の方々の前でお話しさせていただいたことは良い思い出となりました。このような得難い機会を与えて下さいました福岡県仏教連合会のみなさまに心より感謝いたします。合掌。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年6月7日 一条真也