『人生の鍛錬』

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)


一条真也です。
東京に来ています。雪は降っていません。
『人生の鍛錬 小林秀雄の言葉』(新潮社編)を読みました。
ブログ『本居宣長』にも書いたように、小林秀雄は「近代日本最高の知性」と呼ばれた評論家です。わたしは、かつて新潮社から刊行された彼の全集を読破しました。また、同じく新潮社から出ている彼の講演CDはすべて購入して、iPodやiPhoneに入れています。目が疲れて読書が辛い夜などに、それらの講演を聴くのも一興です。小林秀雄は、わが魂の大好物といってもよいでしょう。


小林秀雄の写真が掲載された本書の帯



本書は、そんなわたしが敬愛してやまない小林秀雄の言葉を編年体で416個集めたものです。引用は新漢字、現代仮名遣いによった『小林秀雄全作品』から行われています。小林秀雄の生涯を24歳から80歳まで14のブロックに分けて構成しているのが特徴的ですが、各章の最初には「小林秀雄の歳月」というタイトルで、その文学的足跡を簡潔に記しています。巻末には出典年譜も付けられており、資料的にも充実しています。



本書のカバーの前そでには、以下のような内容紹介があります。
「日本の近代批評の創始者であり、確立者でもある小林秀雄――。厳しい自己鍛錬を経て記されたその言葉は、没後二十余年の今日なお輝きを増し続け、人生の教師として読む者を導いている。人間が人間らしく、日本人が日本人らしく生きるためには、人それぞれ何を心がけ、どういう道を歩んでいくべきか。八十年の生涯の膨大な作品の中から選り抜いた、魂の言葉四百十六。」



本書の目次構成は、以下のようになっています。
「はじめに」
1.批評とは 
竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか(24〜28歳)
2.君は解るか 
余計者もこの世に断じて生きねばならぬ(29〜31歳)
3.確かなものは覚え込んだものにはない 
強いられたものにある(32〜33歳)
4.深く浅く読書して得られないものが 
深く狭い読書から得られる(34歳)
5.不安なら不安で 
不安から得をする算段をしたらいいではないか(35〜36歳)
6.誤解されない人間など毒にも薬にもならない(37歳)
7.美しい「花」がある 
「花」の美しさという様なものはない(38〜43歳)
8.モオツァルトのかなしさは疾走する 
涙は追いつけない(44〜46歳)
9.人間は
憎み合う事によっても協力する(47〜48歳)
10.美は信用であるか 
そうである(49〜51歳)
11.見ることは喋ることではない 
言葉は眼の邪魔になるものです(52〜56歳)
12.考えるとは 
物と親身に交わる事だ(57〜61歳)
13.プライヴァシーなんぞ侵されたって 
人間の個性は侵されはしない(62〜74歳)
14.宣長が求めたものは 
如何に生くべきかという「道」であった(75〜80歳)



本書は名言集の類ですので、余計な感想を記すのは野暮でしょう。
わたしの心に強い印象を与えた言葉のみを備忘録として残します。ただし、本書に掲載されている全文ではなく、その一部を抜粋したものもあります。( )には、それぞれの言葉の出典も一緒に付けておきます。



勇ましいものはいつでも滑稽だ。人間の真実な運動が勇ましかったためしはないのである。(「新興芸術派運動」1−206)



困難は現実の同義語であり、現実は努力の同義語である。
(「マルクスの悟達」3−20)



感傷というものは感情の豊富を言うのではなく感情の衰弱をいうのである。感情の豊富は野性的であって感傷的ではない。感情が生理的に弱る事を人は見逃さないが、感情が固型化によって衰弱する事は廔々見逃す。心が傷つくという事はなかなか大した事であって、傷つき易い心を最後まで失わぬ人は決してざらにいるものではない。(「文芸時評」3−26)



女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。(「Xへの手紙」4−71)



あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。大作家が現実の私生活に於いて死に、仮構された作家の顔に於いて更生するのはその時だ。(「作家の顔」7−15)



僕の接する学生諸君に、愛読書は何かと聞いて、はっきりした答えを得た事がありません。愛読書を持つという事が大変困難になって来ています。様々な傾向の本が周囲にあんまり多すぎる。愛読書を持っていて、これを溺読するという事は、なかなか馬鹿にならない事で、広く浅く読書して得られないものが、深く狭い読書から得られるというのが、通則なのであります。
(「現代の学生層」7−144)



僕が歌舞伎で発見した真理は、たった1つであって、それは人間は形の美しさで充分に感動する事が出来るという事であった。形が何を現しているか、何を意味しているかは問題ではない。最も問題ではない際に一番自分は見事に感動する事を確めたのである。(「演劇について」7−233)



非常時の政策というものはあるが、非常時の思想というものは実はないのである。強い思想は、いつも尋常時に尋常に考え上げられた思想なのであって、それが非常時に当っても一番有効に働くのだ。いやそれを働かせねばならぬのだ。常識というものは、人が尋常時に永い事かかって慎重に築き上げた思想である。(「支那より還りて」10−170)



僕は非常に音楽が好きである。だから、演奏会では、よくうとうと眠る。笑う人もあるが、河上徹太郎の様な音楽の造詣の深いのになると、そんな風になると一人前だと言って褒めてくれる。実際、演奏会で音楽を聞いている状態は、床の中で寝ようとする時の状態に酷似しているのであって、言ってみれば絶対の屈従によって、心の自由を獲得しようとする状態なのである。
(「山本有三の『真実一路』を廻って」10−214)



子供が死んだという歴史上の一事件の掛替えの無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい。どの様な場合でも、人間の理智は、物事の掛替えの無さというものに就いては、為す処を知らないからである。悲しみが深まれば深まるほど、子供の顔は明らかに見えて来る、恐らく生きていた時よりも明らかに。愛児のささやかな遺品を前にして、母親の心に、この時何事が起るかを仔細に考えれば、そういう日常の経験の裡に、歴史に関する僕等の根本の智慧を読み取るだろう。(「ドストエフスキイの生活」11−115)



文化活動とは、1軒でもいい、確かに家が建つという事だ。木造建築でもいい、思想建築でもいいが、ともかく精神の刻印を打たれたある現実の形が創り出されるという事だ。そういう特殊な物を作り出す勤労である。手仕事である。
(「私の人生観」17−166)



絵を見るとは一種の練習である。練習するかしないかが問題だ。私も現代人であるから敢えて言うが、絵を見るとは、解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習である。練習して勝負に勝つのでもなければ、快楽を得るのでもない。理解する事とは全く別種な認識を得る練習だ。
(「偶像崇拝」18−203)



ある5月の朝、僕は友人の家で、独りでレコードをかけ、D調クインテット(K.593)を聞いていた。夜来の豪雨は上っていたが、空には黒い雲が走り、灰色の海は一面に三角波を作って泡立っていた。新緑に覆われた半島は、昨夜の雨滴を満載し、大きく呼吸している様に見え、海の方から間断なくやって来る白い雲の断片に肌を撫でられ、海に向って徐々に動く様に見えた。僕は、その時、モオツァルトの音楽の精巧明翛な形式で一杯になった精神で、この殆ど無定形な自然を見詰めていたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た。
(「ゴッホの手紙」20−13)


一体、一般教養などという空漠たるものを目指して、どうして教養というものが得られましょうか。教養とは、生活秩序に関する精錬された生きた智慧を言うのでしょう。これは、生活体験に基いて得られるもので、書物もこの場合多少は参考になる、という次第のものだと思う。教養とは、身について、その人の口のきき方だとか挙動だとかに、自ら現れる言い難い性質が、その特徴であって、教養のあるところを見せようという様な筋のものではあるまい。
(「読書週間」21−23)



絵や音楽を、解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。絵は、眼で見て楽しむものだ。音楽は、耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい。先ず、何を措いても、見ることです。聴くことです。(「美を求める心」21−243)



風景の魅力は、人間の魅力に準じて発明されたものだと言える。名勝だとか名山だとか名木だとかいうものの起源には、そういう応用問題の解決があった筈だ。それは、顔も表情もない自然のうちに、特定の場所や特別の物を選び、これに顔や表情を附与したという事だったであろう。そういう自然の独立した部分に、名を与え、人間の様に呼びかけた時、相手は人間の様に答えた。私達は、古い昔から、自然の美しさを、ただ見て来たのではない、その心を読んでも来たのだ。(「近代絵画」22−58)



善とは何かと考えるより、善を得ることが大事なのである。善を求める心は、名人にあり、自ら省みて、この心の傾向をかすかにでも感じたなら、それは心のうちに厳存することを率直に容認すべきであり、この傾向を積極的に育てるべきである。(「『論語』」22−312)



宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。
彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。
(「本居宣長」27−125)



繰返して言おう。本当に、死が到来すれば、万事は休する。従って、われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。しかし、これは、どうあっても到来するのである。己れの死を見る者はいないが、日常、他人の死を、己れの眼で確めていない人はないのであり、死の予感は、其処に、しっかりと根を下しているからである。(「本居宣長」28−198)



愛する者を亡くした人は、死んだのは、己れ自身だとはっきり言えるほど、直かな鋭い感じに襲われるだろう。この場合、この人を領している死の観念は、明らかに、他人の死を確める事によって完成したと言えよう。そして、彼は、どう知りようもない物、宣長の言う「可畏き物」に、面と向って立つ事になる。
(「本居宣長」28−199)



以上、416の言葉のうち、20の名言を選びました。
いずれも、わたしの心の奥底に響いた言葉ばかりです。
この中で最も気に入ったのは、最後の「愛する人を亡くした人」についての言葉です。言葉が最もその力を発揮するのは、グリーフケアの場面においてではないでしょうか。わたしには、そう思えてなりません。


愛する人を亡くした人へ ―悲しみを癒す15通の手紙

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*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2014年2月20日 一条真也