一条真也です。
25日の13時半から、西日本新聞社主催の「最期の絆シンポジム」がステーションホテル小倉で開催され、わたしも出演しました。
最初に、西日本新聞社北九州本社の玉井行人代表より挨拶がありました。
今月6日から「西日本新聞」北九州版で画期的な試みがスタートしました。亡くなられた方の記事(訃報記事)を掲載する「おくやみのページ」の開始です。
これは、「無縁社会」を乗り越えるために、きわめて意義のある試みです。このシンポジウムは「おくやみ欄」の開始を契機として、「人と人とのつながり」「縁」というものを考えていくために開かれました。
パネリストの奥田知志牧師
パネリストの末広石光住職
パネリストの波平恵美子先生
わたしも出演しました
パネリストは、奥田知志氏(北九州ホームレス支援機構理事長)、末広石光氏(瑞松寺住職)、波平恵美子氏(お茶の水大学名誉教授・文化人類学者)、それから、わたし一条真也(作家)の4人でした。諸隈光俊氏(西日本新聞北九州本社編集長)がコーディネーターを務められました。
パネリストのみなさんは、いずれもよく知った方々ばかりです。奥田氏とは「無縁社会シンポジウム」、「就労支援シンポジウム」、「包摂社会シンポジウム」でご一緒しましたし、末広氏は小倉ロータリークラブのお仲間です。さらに波平先生とは「儀式文化創造シンポジウム」でご一緒させていただきました。
パネルディスカッションの冒頭、コーディネーターの諸隈氏が言いました。
「こんにちは。西日本新聞北九州本社の諸隈です。本日はコーディネーターを務めさせていただきます。よろしくお願い致します。突然の、そして多数の犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず、当たり前のことですが『生が永遠ではないこと』、そして必ず訪れる『人生の終焉』というものを考える機会が増え、『終活』がブームにもなっています。一方で『絆』という言葉が流行語になったように、人と人のつながり、関係を見直そうという動きがあります。この二つの現象は、『別れ』と『つながり』でまったく別物のようですが、実は根っこにあるものには、人が突き動かされている背景には、共通点したものがあるのではないか、そういう疑問からこのシンポジウムを企画しました。『人生の最期』というのはとても大きなテーマですが、今日は『人と人のつながり』『縁』という視点から、このテーマを考えていきたいと思います」
続いて、諸隈氏よりパネリストの紹介がありました。わたしは、「60冊以上の著書があり、最近は『無縁社会』の問題に警鐘を鳴らしている。一方で、冠婚葬祭会社社長という二つの顔を持っておられますが、作家として貫いていることなど、自己紹介をお願いします」との言葉を受けて、次のように言いました。
「ご紹介いただきました一条です。わたしはサンレーという冠婚葬祭会社の経営者ではありますが、作家活動、大学客員教授、本日のようなシンポジウムや講演活動などにも積極的に取り組んでおります。
ここにご出席の奥田さん同様に、わたしも『本業』について色々言われる人間の1人です。特に、わたしは本名とペンネームの両方で行動・発言しているものですから、周囲の人たちから見たら混乱することが多いようです。
『2つの名前を使いこなしているのだから器用な人ですね』などと思われることもありますが、これはまったく違います。
わたしほど不器用で愚直な人間はいないと自分では思っています。わたしは、ただ『人間尊重』という考え方を広めることだけをやっているつもりです。
社会に広く人間尊重思想を広めることがサンレーの使命です。わたしたちは、この世で最も大切な仕事をさせていただいていると思っています。それを世の中に広めるために社長業も執筆業もあると思っています。けっして副業とか二束の草鞋などではなく、結局は同じことをしているのだと思っています。これからも冠婚葬祭を通じて、良い人間関係づくりのお手伝いをしていきたいものです。また、わたしが大学で教壇に立つのも、講演活動を行うのも、本を書くのも、すべては人間尊重思想を広める『天下布礼』の一環であると考えています」
また、以下のように「死」に対するわたしの考えを述べました。
わたしは、物心ついたときから、人間の「幸福」というものに強い関心がありました。学生のときには、いわゆる幸福論のたぐいを読みあさりました。そして、こう考えました。政治、経済、法律、道徳、哲学、芸術、宗教、教育、医学、自然科学...人類が生み、育んできた営みはたくさんある。では、そういった偉大な営みが何のために生まれ、発展してきたのかというと、その目的は「人間を幸福にするため」という一点に集約される。さらには、その人間の幸福について考えて、考えて、考え抜いた結果、その根底には「死」というものが厳然として在ることを知りました。そこで、どうしても気になったことがありました。それは日本では、人が亡くなったときに「不幸」と人々が言うことでした。
死なない人間はいません。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。その未来が「不幸」であるということは、人間は必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものです。
わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのでしょうか。どんな素晴らしい生き方をしても、どんなに幸福感を感じながら生きても、最後には不幸になるのでしょうか。亡くなった人は「負け組」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのか。
そんな馬鹿な話はありません。わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくありません。なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来かならず不幸になるからです。ですから、人が亡くなって「不幸があった」と言っている間は、日本人は絶対に幸福になれません。ですから、わが社では「不幸」ではなく、「人生の卒業式」としての葬儀のお手伝いをしたいと思っています。そして、いつの日か、日本人が人が亡くなっても「不幸」と呼ばない時代が来ることを願っています。
それから本題に入り、諸隈氏から「今の終活ブームというものを、どうとらえていますか」という問いが発せられました。
わたしは、それに対して以下のようにお答えしました。
「これまでの日本では『死』について考えることはタブーでした。でも、よく言われるように『死』を直視することによって『生』も輝きます。
その意味では、自らの死を積極的にプランニングし、デザインしていく『終活』が盛んになるのは良いことだと思います。
一方で、気になることもあります。『終活』という言葉には何か明るく前向きなイメージがありますが、わたしは『終活』ブームの背景には『迷惑』というキーワードがあるように思えてなりません。
みんな、家族や隣人に迷惑をかけたくないというのです。
『残された子どもに迷惑をかけたくないから、葬式は直葬でいい』『子孫に迷惑をかけたくないから、墓はつくらなくていい』『失業した。まったく収入がなく、生活費も尽きた。でも、親に迷惑をかけたくないから、たとえ孤独死しても親元には帰れない』『招待した人に迷惑をかけたくないから、結婚披露宴はやりません』『好意を抱いている人に迷惑をかけたくないから、交際を申し込むのはやめよう』。すべては、『迷惑』をかけたくないがために、人間関係がどんどん希薄化し、社会の無縁化が進んでいるように思えてなりません。
結果的に夫婦間、親子間に『ほんとうの意味での話し合い』がなく、ご本人がお亡くなりになってから、さまざまなトラブルが発生して、かえって多大な迷惑を残された家族にかけてしまうことになります。その意味で『迷惑』の背景には『面倒』という本音も潜んでいるように思います。みんな、家族や夫婦や親子で話し合ったり、相手を説得することが面倒なのでしょう」
そして、わたしは大きめの声で、次のように訴えました。
「そもそも、家族とはお互いに迷惑をかけ合うものではないでしょうか。
子どもが親の葬式をあげ、子孫が先祖の墓を守る。
当たり前ではないですか。そもそも“つながり”や“縁”というものは、互いに迷惑をかけ合い、それを許し合うものだったはずです。
『迷惑をかけたくない』という言葉に象徴される希薄な“つながり”。
日本社会では“ひとりぼっち”で生きる人間が増え続けていることも事実です。
しかし、いま『面倒なことは、なるべく避けたい』という安易な考えを容認する風潮があることも事実です。こうした社会情勢に影響を受けた『終活』には『無縁化』が背中合わせとなる危険性があることを十分に認識すべきです。この点に関しては、わたしたち一人ひとりが日々の生活の中で自省する必要もあります」
それから、「人生の最期のセレモニーである『葬儀』というものの意義についてどう考えておられますか」という質問がわたしに来ました。
わたしは、次のようにお答えしました。
「葬儀という儀式は、何のためにあるのでしょうか。遺体の処理、霊魂の処理、悲しみの処理、そして社会的な処理のために行われます。
私たちはみんな社会の一員であり、1人で生きているわけではありません。その社会から消えていくのですから、そんな意味でも死の通知は必要なのです。
社会の人々も告別を望み、その方法が葬儀なのです。
アカデミー外国語映画賞を受賞した『おくりびと』が話題になりましたね。
映画のヒットによって『おくりびと』という言葉が納棺師や葬儀社のスタッフを意味すると思い込んだ人が多いようです。しかし、『おくりびと』の本当の意味とは、葬儀に参加する参列者のことです。人は誰でも『おくりびと』、そして最後には『おくられびと』になります。1人でも多くの『おくりびと』を得ることが、その人の人間関係の豊かさ、つまり幸せの度合いを示すように思います」
また、続けて、わたしは次のように発言しました。
「わたしは、日々いろんな葬儀に立ち会います。中には参列者が1人もいないという孤独な葬儀も存在します。そんな葬儀を見ると、わたしは本当に故人が気の毒で仕方がありません。亡くなられた方には家族もいたでしょうし、友人や仕事仲間もいたことでしょう。なのに、どうしてこの人は1人で旅立たなければならないのかと思うのです。もちろん死ぬとき、誰だって1人で死んでゆきます。でも、誰にも見送られずに1人で旅立つのは、あまりにも寂しいではありませんか。故人のことを誰も記憶しなかったとしたら、その人は最初からこの世に存在しなかったのと同じではないでしょうか?」
「ヒト」は生物です。「人間」は社会的存在です。「ヒト」は、他者から送られて、そして他者から記憶されて、初めて「人間」になるのではないかと思います。
人間はみな平等です。そして、死は最大の平等です。その人がこの世に存在したということを誰かが憶えておいてあげなくてはなりません。血縁が絶えた人ならば、地縁のある隣人たちが憶えておいてあげればいいと思います。
わたしは、参列者のいない孤独葬などのお世話をさせていただくとき、いつも「もし誰も故人を憶えておく人がいないのなら、われわれが憶えておこうよ」と、わが社の葬祭スタッフに呼びかけます。でも、本当は同じ土地や町内で暮らして生前のあった近所の方々が故人を思い出してあげるのがよいと思います。そうすれば、故人はどんなに喜んでくれることでしょうか。
わたしたちはみんな社会の一員であり、1人で生きているわけではありません。その社会から消えていくのですから、そんな意味でも死の通知は必要なのです。社会の人々も告別を望み、その方法が葬儀なのです。
わたしは、以上のような内容を心をこめて語りました。
コーディネーターからは「人の縁、つながりという視点から『人生の終焉』について論議してきました。最後になりましたが、希薄化しつつある現代社会の縁、人と人のつながりを取り戻すにはどうすればいいのか、お考えをお願いします」と言われました。わたしは、現代社会の最大のキーワードは「人間関係」だと確信していると述べてから、次のように言いました。
社会とは結局、人間の集まりです。そこでは「人間」よりも「人間関係」が重要な問題になってきます。そもそも「人間」という字が、人は1人では生きてゆけない存在だということを示しています。人と人との間にあるから「人間」なのです。だからこそ、人間関係の問題は一生つきまとうのですね。
わたしたちも社会的使命として、微力ながら具体的な活動を続けております。
先にお話しさせていただいたように、地域の絆や交流が少しでも深まればとの思いから、「隣人祭り」を2008年より主催し、現在では年間600回近くの開催をサポートしています。「無縁社会」などと呼ばれていますが、さまざまな取り組みを通じ、ぜひ、地縁や血縁を再生させたいと願っています。
また、「月あかりの会」というグリーフケアを目的との会を運営しています。
これは、わたしどもでお葬式をお手伝いさせていただいたご遺族の会です。昨今お葬式のお手伝いをさせていただいた後、特に配偶者を亡くされた後、お子様や親戚は遠方におり、近所付き合いも少なく、孤立化していくケースが増えています。この「月あかりの会」は、同じ境遇の方にご入会いただき、旅行や学習などのイベントを通じて、交流を深めていただくとともに、新たなご縁をきづいていただければとの思いから発足いたしました。そして、有料老人ホーム「隣人館」。年金の範囲内で暮らせる老人ホームを目指し、現在飯塚市に1号館を建設し、現在北九州市内に2・3号館の準備を進めていますが、これも新たなご縁づくりや孤独死を防ぐためにも大変重要であると考えています。
以上は、わたしの経営する会社として取り組んでいることです。
わたしは、続いて誰でもが実行できる方法についてもお話しました。
それは、自分自身の理想の葬儀を具体的にイメージすることです。
親戚や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。参列してほしい人とは日ごろから連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝することです。生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算。葬儀の想像とは、死を直視して覚悟することです。覚悟してしまえば、生きている実感がわき、心も豊かになります。
自分の葬儀を具体的にイメージするとは、どういうことか?それは、その本人がこれからの人生を幸せに生きていくための魔法です。わたしは講演会などで「ぜひ、自分の葬義をイメージしてみて下さい」といつも言います。友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像することを提案するのです。そして、「その弔辞の内容を具体的に想像して下さい。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです」と言います。
葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像するといいでしょう。そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれる。自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。そのイメージを現実のものにするには、あなたは残りの人生を、そのイメージ通りに生きざるをえないのです。これは、まさに「死」から「生」へのフィードバックではないでしょうか。よく言われる「死を見つめてこそ生が輝く」とは、そういうことだと思います。人生最期のセレモニーである「お葬式」を考えることは、その人の人生のフィナーレの幕引きをどうするのか、という本当に大切な問題です。
自分の葬儀を考えることで、人は死を考え、生の大切さを思うのです。
家族葬の本音とは?
最近、訃報を関係者に知らせない方が多くなってきました。
近親者のみで葬儀をあげる方が多くなってきたのです。
「葬儀に来てくれそうな人たちが、みんなあの世に逝ってしまった」「長い間、闘病してきたので、さらに家族に迷惑はかけたくない」、だから「ひっそりとした葬式を行いたい」、こうした話しを聞くたびに、本音の部分はどうなのかと思ってしまいます。お世話になった方々、親しく交際してきた方々に見送られたいというのが、本当の気持ちなのではないでしょうか。その本当の気持ちを押し殺して、生前の故人が気をつかったというケースが多いのではないでしょうか。
本当は、お世話になった方々にお礼を言いたいのではないでしょうか。短い時間ではありますが、自分のことを思い出してもらい、ともに過ごした時間を共有したいのではないでしょうか。このことは、会葬に訪れる方々にとっても同様です。
「縁」や「絆」というものは、本来お互いに迷惑をかけ合うものなのです。
そもそも、縁ある方の葬儀に参列することは迷惑でも何でもありません。
それは、古代からずっと続いてきた人間として当然の行為なのです。
新聞のおくやみ記事は、多くの方々の目に触れます。「あっ、あの方が亡くなったのか」と驚かれることも多くなるでしょう。ぜひ、そのときはお通夜かお葬儀に参列していただきたいと思います。故人と知り合いだった方、ご近所に住んでおられた方には特にお願いしたいと思います。
今回の西日本新聞さんが始められたおくやみ記事が、人と人のつながりを取り戻す「きっかけ」づくりになることに大いに期待しております。
わたしが以上のように述べたところ、盛大な拍手が起こって、感激しました。
最後にコーディネーターの諸隈氏が、次のように挨拶されました。
「『人生の終焉』を考えるということは、『生』を考える、『今をどう生きるか』につながっていると思います。本日のシンポジウムが少しでも、参加していただいたみなさまのこれからのヒントになればと期待しております。パネリストのみなさん、寒い中会場に足を運んでいただいた皆様、本当にありがとうございました」
わたし自身、とても勉強になったシンポジウムでした。
西日本新聞さん、素晴らしい企画をありがとうございました。
*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。
2013年11月25日 一条真也拝