面倒くさいこと

一条真也です。
ブログ「感動CM」ブログ「タイ感動CM」に書いたように、ここのところ、わたしの涙腺はハートフル・コマーシャルの数々に緩みっぱなしです。(苦笑)
心温まるCMといえば、「あしなが育英会」のCMが忘れられません。


ブログ「江ノ島」に書いたように、2010年9月5日、神奈川県の藤沢に所用のあったわたしは、帰りの電車の中で、AC(公共広告機構)の中吊り広告を見つけました。「あしなが育英会」の広告で、かわいい女子高生が微笑んでいます。
「名前も知らない親たちが、彼女を高校生にしてくれた。」というキャッチコピーに続いて、次のように書かれていました。
「彼女は幼い頃、親を亡くしました。
きっと自分は高校になんて行けない。
そんな思いで進学をあきらめていた彼女を、
全国にいる『あしながさん』が支援してくれたのです。
名前も知らない親たちへ、ありがとう。
そんな思いを胸に、彼女は大学進学という
新たな夢へと歩き始めました。」
これを読んだとたん、わたしの涙腺は緩みに緩み、不覚にも電車の中で号泣してしまいました。それ以来、「あしなが育英会」の名前は、わたしの脳裏に深く焼きつき、わたしは、「あしながおじさん」になりたいと強く思いました。


その「あしなが育英会」の新しいCMを見つけましたが、これがまた素晴らしい!
「面倒くさいこと」がテーマで、「抜き打ちテストとか、山積みの宿題とか、掃除当番とか・・・」と続いた後で、セーラー服を着た女の子が「したい!」と叫びます。
その後、「みんなが面倒くさいと言ってしまうことでさえ幸せ・・・進学をあきらめていた子どもたちのたくさんの“したい”という願いを全国の親心がかなえてくれました」というナレーションが流れます。
このCMを初めてみたときも、わたしは泣きました。
そして、とても重要なことに気づきました。この「面倒くさいこと」というのは、現代の日本社会が直面している問題のキーワードであることに・・・・・。



ブログ「最期の絆シンポジウムのお知らせ」で紹介した西日本新聞社主催のシンポが、いよいよ明日開催されます。
日曜日の今日、明日わたしが話すであろう内容について、ずっと考えていました。(気分転換に映画を1本だけ観ましたが)
明日のシンポでは、「終活」が重要なテーマの1つになっています。
自分で葬儀の内容を決め、自分で墓の準備をする・・・・・いま、「終活」がブームになっているようです。これまでの日本では「死」について考えることはタブーでした。でも、よく言われるように「死」を直視することによって「生」も輝きます。その意味では、自らの死を積極的にプランニングし、デザインしていく「終活」が盛んになるのは良いことだと思います。



一方で、気になることもあります。「終活」という言葉には何か明るく前向きなイメージがありますが、わたしは「終活」ブームの背景には「迷惑」というキーワードがあるように、ずっと思っていました。「無縁社会」などと呼ばれる現在、みんな、家族や隣人に迷惑をかけたくないというのです。
「残された子どもに迷惑をかけたくないから、葬式は直葬でいい」「子孫に迷惑をかけたくないから、墓はつくらなくていい」「失業した。まったく収入がなく、生活費も尽きた。でも、親に迷惑をかけたくないから、たとえ孤独死しても親元には帰れない」「招待した人に迷惑をかけたくないから、結婚披露宴はやりません」「好意を抱いている人に迷惑をかけたくないから、交際を申し込むのはやめよう」。すべては、「迷惑」をかけたくないがために、人間関係がどんどん希薄化し、社会の無縁化が進んでいるように思えてなりません。



結果的に夫婦間、親子間に「ほんとうの意味での話し合い」がなく、かえって多大な迷惑を残された家族にかけてしまうことになります。
亡くなった親が葬儀の生前契約、墓地の生前購入などをしたことをわが子に知らせなかったために、本人の死後、さまざまなトラブルも発生しているようです。みんな、家族間で話し合ったり、相手を説得することが面倒くさいのでしょう。
その意味で、「迷惑」という建前の背景には「面倒」という本音が潜んでいるのではないでしょうか。わたしには、そう思えてなりません。



そもそも、家族とはお互いに迷惑をかけ合うものではないでしょうか。
子どもが親の葬式をあげ、子孫が先祖の墓を守る。当たり前ではないですか。そもそも“つながり”や“縁”というものは、互いに迷惑をかけ合い、それを許し合うものだったはずです。家族だって隣人だって、みんなそうでした。
「迷惑をかけたくない」という言葉に象徴される希薄な“つながり”。
日本社会では“ひとりぼっち”で生きる人間が増え続けていることも事実です。
しかし、いま「面倒くさいことは、なるべく避けたい」という安易な考えを容認する風潮があることも事実です。こうした社会情勢に影響を受けた「終活」には「無縁化」が背中合わせとなる危険性があることを十分に認識すべきです。この点に関しては、わたしたち一人ひとりが日々の生活の中で自省する必要もあります。



さらには、「面倒くさいこと」の中にこそ、幸せがあるのではないでしょうか。
考えてみれば、赤ちゃんのオムツを替えることだって、早起きして子どもの弁当を作ることだって、寝たきりになった親の介護をすることだって、みんな「面倒くさいこと」です。でも、それらは親として、子として、やらなければならないこと。
そして、子どもが成長した後、また親が亡くなった後、どうなるか。
わたしたちは「あのときは大変だったけど、精一杯やってあげて良かった。あのとき、自分は幸せだった」としみじみと思うのです。
それが「面倒くさいこと」のままであれば、どうなるか。行き着く果ては、赤ん坊を何人も捨ててしまう鬼畜のような親が出現するのではないでしょうか。



そして、自分の親が亡くなったとき、ご縁のあった方々に知らせること。
通夜および葬儀の場で、その方々に感謝の気持ちを故人に成り代わってお伝えすること。これは、人間として必ずやらなければならない「人の道」です。
ブログ「遺体 明日への十日間」で紹介した映画には、中学生の娘を東日本大震災津波で亡くした母親が登場します。深い悲しみの淵にある彼女は、何があっても、わが子の亡骸の傍らを離れようとしません。
この母娘は、わが妻と次女の姿に重なって、わたしは涙が止まりませんでした。
そして、ようやく火葬場に空きができて、娘の遺体が火葬されることになったとき、彼女は安置所の人々に深々と一礼するのでした。
火葬にされた遺体は、まだ幸いだったと言えるでしょう。また、棺に入れた遺体も幸いでした。大震災から時間が経過するにつれ、あまりに傷みすぎて棺には入れられず、納体袋に入れられた遺体も多かったのです。
さらには、いくら傷んでいても遺体があるだけで幸いでした。
遺体の見つからないまま葬儀を行った遺族も多かったのです。あのとき、普通に葬儀があげられることがどれほど幸せなことかを、日本人は思い知りました。



もう一度、声を大にして言います。
自分の親が亡くなったとき、ご縁のあった方々に知らせること。
通夜および葬儀の場で、その方々に感謝の気持ちを故人に成り代わってお伝えすること。これは、人間として必ずやらなければならない「人の道」です。
たしかに面倒くさいことかもしれません。でも、面倒くさいからいいのです。
なぜなら、本当に大事なことは、いつだって面倒くさいことだからです。
そして、面倒くさいことの中にこそ、真の幸せがあるからです。
そのことを、わたしは「あしなが育英会」のCMに教えられました。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2013年11月24日 一条真也