『アミターバ 無量光明』

アミターバ―無量光明 (新潮文庫)


一条真也です。
アミターバ 無量光明』玄侑宗久著(新潮文庫)を再読しました。
2003年の単行本刊行の際に読み、大きな感動をおぼえた小説です。
著者は芥川賞作家にして、福島県三春町福聚寺の住職です。



本書のカバー裏には、以下のような内容紹介があります。
「東北の寺に嫁いだ娘のもとに身を寄せた『私』は、難治のガンを患って入院。懸命に支える娘や婿たちに感謝しながら、徐々に自分の死を受け容れる。病の進行とともに時間が溶けだし、亡き夫が若い姿で現れたりするが、終にその時を迎えた「私」が見たものは・・・・・。現役僧侶の芥川賞作家が、臨死体験記録や自身の宗教体験をもとに『死という出来事』を圧倒的な迫力で描き出す、究極の救いの物語」



また、巻末には以下のような言葉が記されています。
「この作品は、今は亡き『お母さん』の『死の体験』が核となり、京都大学の宗教学・カール・ベッカー氏および東京大学の物理工学・古澤明氏の研究成果に大いに示唆されて形を得たものです。両先生に衷心より感謝申し上げ、また、『お母さん』の冥福を祈ります     著者」
本書には慈雲さんという僧侶と、彼の義母、つまり母親が登場します。
どうやら、慈雲さんのモデルは著者自身であり、義母である「お母さん」は実際に亡くなられたようですね。



慈雲さんが「お母さん」と呼ぶ女性は、この物語の主人公です。
80歳を前にして、彼女は肝臓ガンで病院に入院します。その闘病、死、そして死後の様子を、本人の語りで綴るという物語です。
死後の様子を綴るということは、すなわち死者が語っているわけです。
ブログ『スウィート・ヒアアフター』で紹介した小説には臨死体験が描かれていましたが、本書ではもはや臨死を超えた「死後体験」が生き生きと描写されているのです。自身の葬儀の場面なども故人が詳しく観察し、報告しており、これはもう前代未聞ではないでしょうか。



それも、「闘病」「死ぬ瞬間」「死後の世界」といったように区切って書かれているわけではありません。主人公の意識は変化を遂げつつも、あくまで1人の人間としての思いや考えや体験がそのまま連続して語られているのです。病と治療の痛みに耐えて過ごす時間があるかと思えば、亡くなった夫が病室にやってきたり、娘婿の僧侶と来世について語り合ったりします。また、天使のような少女が現れたり、死を迎えて光となって残された者たちの間を舞ったり・・・・・すべてが連続しているのです。



これは、意識が次第に変容していくという「変性意識(アルタード・ステーツ)」を扱った小説としても第一級の作品であると思います。特に、主人公の病が進行するにつれて、時間の感覚が揺らいでいく場面が見事です。過去と現在、夢と現実が交錯する様子をこれほどさらりと書いてしまう著者の筆力にも脱帽ですが、主人公が「意識がない」状態でありながら痛みの表情を顔ににじませる場面などをはじめ、実際に死に逝く人を目前にしたことのある人なら、思い当たるところが多いのではないかと思います。



作品の中で、慈雲さんが主人公にエネルギーの話をするのですが、ここが興味深かったです。主人公は、仏教のみならず物理学にも詳しい慈雲さんの「原子」や「クオーク」や「ひも」とかの話をまったく理解できませんが、「宇宙の総エネルギーは一定」という話だけは納得でき、しかも安らかな気分にさえなります。慈雲さんは以下のように語ります。
人が死ぬ瞬間に何かがエネルギーに変わるとすれば、膨大なエネルギーが放出される。「10の14乗ジュール」という熱エネルギーである。それが、死後の世界の謎を解く鍵ではないだろうか。極楽浄土というのは、なにか人間には計り知れない存在の意志や思いが実現している場所らしい。たとえば、1グラムの物体が消えて熱エネルギーに変わったとすると、23万8000トン以上の水が瞬時に沸騰する熱量になる。それは、ふつうの25メートルプールの529杯分が瞬時に沸騰する熱量である。それを電気エネルギーに換算すると、3858世帯が1年間に使うだけの電気が発生する。運動エネルギーに換算すると、富士山を17ミリ持ち上げる。9・11に崩壊したNYのツイン・タワーなら両方いっぺんに80キロ上空まで飛ばせられる。また光エネルギーになった場合、18日間も東京ドームを太陽光を受けたのと同じ明るさにしておくことができる。これは、ちょうど広島に落ちた原爆とほぼ同じエネルギーである。さらに毎日の食事で摂るエネルギーに換算すると、日本人の2万9000人余りを1年間賄うことができる。1日の食費が700円で済むとすれば、じつに74億円分のエネルギーを供給することになる。このような驚くべき話を慈雲さんは主人公の前で展開します。



「それは、あの・・・・・もし私が死んだ場合に、1グラム減ったとしての計算ですなあ」
「ええ、済みません。・・・・・だけどお母さん、アメリカには、5グラム減ったとか、30グラム減ったなんていう報告もあるんです。そうなると今申し上げたエネルギーの、5倍、30倍っていうことになりますから・・・・・」
「なんでもできますわなあ」
「そうなんです」
「・・・・・死んでから、誰かに会いに来るなんてことも・・・・・」
「おそらくできるでしょうねえ。そういう現象を、物理学では幽霊じゃなくて出現物って呼ぶんですが、イギリスで未亡人が旦那さんの出現物を見た、というケースは14%もあります。100人中14人が、旦那さんに死後会っているんですよ」
「そしたら、こないだの父さんも」
「私もそれを聞いてからいろいろ調べてみたんです」
「じつはあのとき、私、光も見たんですけどな」
「それもあり得ると、今は思います」
「けど慈雲さん、お寺でお葬式ぎょうさんやらはりますやろ。そんなにしょっちゅう不思議なことってありますのん?」
「だから、大部分のエネルギーは使われずに残るだろうと思うんですよ。その分が、阿弥陀さんと呼ばれる力に集約されるんじゃないですかねえ。それこそ膨大なエネルギーが、いわゆるアミターバと呼ばれる浄土を現出しているのかもしれないですよね」
(『アミターバ 無量光明』新潮文庫版p.73〜74)
*文中の漢数字は、一条が算用数字に直しました。


原典訳 チベットの死者の書 (ちくま学芸文庫)


そして、主人公にも膨大なエネルギーを発生させる瞬間、すなわち死の瞬間が訪れます。このとき、光の体験ともいうべき描写が続くのですが、これは『チベット死者の書』に書かれてある内容とそっくりです。本書の文庫版の解説である「日本人の死者の書を紡ぎだす」を書いた宗教学者中沢新一氏も、その冒頭に「玄侑宗久さんや私の世代はだいたい二十代の頃に、『チベット死者の書』という本と出会っている」と述べています。
同書は、死後の意識が体験する状態についてリアルに説明した本です。



チベット人に限らず、古代人たちは死後の光の体験をベースにして、死の現実を理解しようとしました。このような古代的な叡智をバックにして生まれたものこそ中国の浄土教であり、それは日本に伝来して、平安時代に一大ブームを巻き起こしました。この浄土教から派生したのが法然の浄土宗であり、親鸞浄土真宗です。
中沢氏は、浄土教の「浄土」について次のように述べます。
浄土教の教義の中心をなしている浄土とは、死を境におこる神経組織の変容と関係を持つ、心の内部からの光明のあらわれの現象と、もともとは直接の関わりを持っていた。ところが時がたつにつれて、浄土はもともと持っていたはずのこの『実体性』を失いだした。親鸞の思想でも、もうすでに浄土の実体性などには、関心が持たれなくなっている。この傾向は江戸の後期から明治にかけての日本の近代になると、さらに拍車がかかって、浄土宗でも浄土真宗でも浄土のリアリティということは、あまり話題にならなくなっていく」



しかし、脳科学や生理学の発達によって、現代人はますます人の心の働きの精妙さに驚き、量子論は物質と心の現象の境界を曖昧にしていきます。さらには、臨死体験をめぐる実験的データも膨大な数になってきて、人々は再び「浄土」に強い関心を抱くようになってきました。それは、そのまま「生きることの意味」と「死ぬことの意味」を知りたいという欲求につながっているのです。



そんな状況の中で、玄侑宗久氏は小説のスタイルを借りて日本人のための新しい「死者の書」を紡ぎだしました。それが本書『アミターバ 無量光明』です。解説の最後に、中沢氏は次のように書いています。
「この本を読むと、仏教への信頼が取り戻されていくのを強く感じる。お経はただの形式などではなく、内容豊かで実際の役に立つ、光の世界へのガイドブックでもあったということを、死者となった主人公はしみじみと実感している。玄侑宗久さんはこの本を書くことで、ずいぶんと功徳を積んだものである」



わたしは、「この本を書くことで、ずいぶんと功徳を積んだ」という中沢氏の指摘に大賛成です。そして、わたしは本書を読み、「ああ、人間はやはり平等だなあ」と思いました。わたしは、よく「死は最大の平等である」という言葉を使います。箴言で知られるラ・ロシュフーコーが「太陽と死は直視することができない」と語ったように、太陽と死には「不可視性」という共通点がある。私はそれに加えて「平等性」という共通点があると思っています。
太陽はあらゆる地上の存在に対して平等です。太陽光線は美人の顔にも降り注げば、犬の糞をも照らすのです。わが社の「サンレー」という社名は、万人に対して平等に冠婚葬祭を提供したいという願いを込めて、太陽光(SUNRAY)という意味を持っています。



「死」も平等です。「生」は平等ではありません。生まれつき健康な人、ハンディキャップを持つ人、裕福な人、貧しい人・・・・・「生」は差別に満ちています。しかし、王様でも富豪でも庶民でも乞食でも、「死」だけは平等に訪れるのです。 また、世界中に数多くいる、死に臨んで奇跡的に命を取り戻した人々、すなわち臨死体験者たちは次のような共通の体験を報告しています。死んだときに自分と自分を取り巻く医師や看護婦の姿が上のほうから見えた。それからトンネルのようなものをくぐって行くと光の生命に出会い、花が咲き乱れている明るい場所が現れたりする。さらに先に死んでしまった親や恋人など、自分を愛してくれた人にめぐりあう。そして重大なことは、人生でおかした過ちを処罰されるような体験は少ないこと、息を吹き返してからは死に対して恐怖心を抱かなくなったということが主な内容です。



そして、いずれの臨死体験者たちも、死んでいるあいだは非常に強い幸福感で包まれていたと報告しています。この強い幸福感は、心理学者マズローの唱える「至高体験」であり、宗教家およびロマン主義文学者たちの「神秘体験」、宇宙飛行士たちの「宇宙体験」にも通じるものです。
いずれの体験においても、おそらく脳の中で幸福感をつくるとされるβエンドルフィンが大量に分泌されているのでしょう。臨死体験については、まぎれもない霊的な真実だという説と、死の苦痛から逃れるために脳が作り出した幻覚だという説があります。しかし、いずれの説が正しいにせよ、人が死ぬときに強烈な幸福感に包まれるということは間違いないわけです。しかも、どんな死に方をするにせよ、です。こんな平等が他にあるでしょうか? まさしく、死は最大の平等ではないでしょうか!
日本人は死ぬと「不幸があった」と馬鹿なことを言いますが、死んだ当人が幸福感に浸されているとしたら、こんなに愉快な話はありません。


ロマンティック・デス―月を見よ、死を想え (幻冬舎文庫)


以上のようなことを、わたしは拙著『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)に書きましたが、その巻末に「月落ちて天を離れず」という素晴らしい解説文を書いて下さった方こそ、玄侑宗久氏その人です。



わたしが同書で多言を尽くして訴えたことを、玄侑氏はエレガントな文章で見事な小説にまとめて下さいました。もう何度も読み返しましたが、そのたびに最後の数ページの詩のように美しい文章には魅了されます。
読むたびに、死ぬことが怖くなくなっていく本だと言えるでしょう。
現在、自分自身が死に直面している人、あるいは愛する人の死を受け入れなければならない人、そういった方々にぜひ読んでいただきたい一冊です。
なお、『死が怖くなくなる読書』(現代書林)でも本書を取り上げています。


死が怖くなくなる読書:「おそれ」も「かなしみ」も消えていくブックガイド

死が怖くなくなる読書:「おそれ」も「かなしみ」も消えていくブックガイド

*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。
     

2013年7月13日 一条真也