森鷗外と小倉

一条真也です。
22日の夜、松柏園ホテルで、「新北九州を考える会」が開催されました。
この会は、「マイ・ローヤーこと辰巳和正先生や「ダンディ・ミドル」こと大迫益男会長がお世話をされている、北九州を代表する異業種交流会です。


「新北九州を考える会」のようす

講演する養父克彦氏



今日の講師は、北九州森鷗外記念会理事で元読売新聞記者の養父克彦氏で、講演のテーマは「森鷗外・小倉時代の業績」。養父氏は、以下の5つの視点からお話をされました。
1.はじめに〜森鷗外生誕150年記念事業のご報告
2.森鷗外(本名・森林太郎)60年の生涯
3.森鷗外・小倉時代の業績
4.『即興詩人』と『戦争論
5.おわりに〜北九州の教育文化の礎を築く


森鷗外と北九州・小倉」の資料

鷗外と小倉にまつわる資料



わたしが、ことさらに興味を抱いたのは「ろくな仕事をしていない」などとも言われる小倉時代において、鷗外はアンデルセンの『即興詩人』とクラウゼヴィッツの『戦争論』を翻訳していることです。よく考ええたら、『即興詩人』と『戦争論』というのは対極に位置するような本です。片やロマンティシズムの極致のような本であり、片やリアリズムの極致のような本です。そんな本を小倉時代に翻訳したというのは、わたしは鷗外が「こころのバランス」を取っていたように思えてなりません。もともと、軍医総監と作家の両立というのも精神のバランスが必要とされる人生であったと言えますが、小倉時代とはそれがより明確になった時期であったのかもしれません。いずれにせよ、小倉における鷗外の中にはアンデルセンクラウゼヴィッツが共生していたのでしょう。


松柏園ホテルの「森鷗外句碑について」

満潮に踊の足をあらひけり

松柏園ホテルの「夏目漱石句碑について」

うつくしき蚕の頭や春の鯛



鷗外といえば、わが松柏園ホテルの庭園には鷗外の句碑があります。それのみならず、鷗外と並ぶ明治の文豪である漱石の句碑もあります。
じつは、松柏園の近くにある長浜には、明治時代に「おたたさん」という頭に魚を乗せて売り歩く女性がいました。一説によれば、彼女たちは「春」も売っていたそうですが、その中に全国に知れ渡った絶世の美女がいたといいます。そして、漱石も鷗外もその美女に会いに小倉を訪れた記録が残っているのです。
「おたたさん」についての句を両文豪は残しています。
すなわち、漱石は「うつくしき蚕の頭や春の鯛」。
鷗外は「満潮に踊の足をあらいけり」。
鷗外の句は『小倉日記』にもしっかり記されています。あまり接点がないと言われた両文豪は小倉において接点を持っていたのです!


夏目漱石森鷗外〜その小倉における足跡〜」



わたしは、松柏園ホテルの総支配人時代に、「明治の二大文豪 夏目漱石森鷗外〜その小倉における足跡〜」というブックレットを作成しました。
1999年(平成11年)6月21日、森鷗外の小倉着任100周年記念イベントとして「食は文学にあり〜漱石と鷗外の宴会料理」を開催し、約250名の両文豪ファンが松柏園に集まって下さいました。漱石が「木曜会」で、鷗外が「観潮楼歌会」で振る舞った料理の数々を松柏園ホテル総料理長・宮脇利夫の手で忠実に再現しました。メニューの一例をあげれば、独逸麦酒(鷗外)、鯉魚なます(鷗外)、米のポタージュスープ(漱石)、キャベツ巻(鷗外)、牛鍋(漱石)などです。


乾杯の音頭を取る八坂和子さん

進化した松柏園のローストビーフ



講演会の終了後に開かれた懇親会では、宗教法人世界平和パゴダ」の役員である八坂和子さんが乾杯の音頭を取られて、ブログ「パターン祭」で紹介した祭典をはじめ、さまざまなお話をされてパゴダ支援のお願いをされました。


高瀬舟 (集英社文庫)

高瀬舟 (集英社文庫)

渋江抽斎 (岩波文庫)

渋江抽斎 (岩波文庫)

わたしは講師の養父克彦氏の真向かいに座らせていただき、たっぷりと鷗外の話をさせていただきました。わたしの一番好きな鷗外作品は「高瀬舟」ですが、養父氏は「渋江抽斎」だそうです。これまで9回半も読まれたとか・・・・・。
松柏園の料理といえば、ブログ「メニュー開発」で紹介したローストビーフが有名ですが、今回はさらに進化を遂げて多くの方々から絶賛の声を頂きました。



それから、非常に驚いたことがありました。
養父氏は元・読売新聞記者なのですが、なんと拙著『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(国書刊行会)の書評を新聞に書かれたことがあることが判明しました。わたしも、その書評はよく記憶しています。しかも、養父氏はわたしの自宅のある赤坂に住んでおられるそうで、これもまた奇遇です。小倉に赤坂といえば、明治の頃には多くの料亭があったそうで、鷗外も鍛冶町にあった自宅から赤坂の料亭に寄る途中で松柏園の前をいつも通っていたそうです。


北橋市長から鷗外に例えていただきました



鷗外がいた明治33年の小倉は人口3万人余で、戸数4300戸でした。北九州市の北橋市長は、今年の市役所の仕事始めに「北九州はこのような先人がいた歴史を持っている。どうかこのことを誇りに持ってほしい」と言われたそうです。
ブログ「孔子文化賞受賞祝賀会」で紹介したように、北橋市長はわたしを鷗外になぞらえて下さいました。作家と軍医総監の二足の草鞋を履いた鷗外の姿にわたしが重なるというのです。思いもよらぬ過分なお言葉に、わたしは大変恐縮したものです。なんだか、鷗外の本を読み直してみたくなりました。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2013年5月23日 一条真也