『考える生き方』

考える生き方


一条真也です。
『考える生き方』finalvent著(ダイヤモンド社)を読みました。
ペンネームは「ファイナルベント」と読みます。不思議な名前だと思っていたら、本書の裏表紙の袖に以下のようなプロフィールが書かれていました。
アルファブロガー(2004年アルファブロガー・アワード)。随筆家。ペンネームの由来は子どもと見ていた仮面ライダーの必殺ワザから。1日1冊のペースで読む読書を30年以上続けている。関心分野は、哲学・思想・文学・歴史など文系領域から生物学・物理学など理系領域まで。1957年生まれ。国際基督教大学卒業。同大学院進学。専攻・言語学。情報技術や最新医療の解説なども得意とする。デジタルコンテンツのための配信プラットフォーム「cakes(ケイクス)」で、文学書などの書評も連載中」


著者のことは本書を読むまで知りませんでした。
でも、アルファブロガーとはすごいですね。
「空しさを希望に変えるために」というサブタイトルがついていますが、まず驚いたのは本書の装丁です。なんと、表紙から「はじめに」が始まっているのです。カバーを外しても、同じように「はじめに」が始まります。これには、驚きました。最初は不良品かと思ったぐらいです。表紙を読んでいたら、すでに第1章を読んでいて読書が開始されているわけで、これは初体験でした。わたしの感想は「面白い」です。こんな本が1冊ぐらいあってもいいと思います。



本書の構成は、以下のようになっています。
第1章:社会に出て考えたこと
第2章:家族をもって考えたこと
第3章:沖縄で考えたこと
第4章:病気になって考えたこと
第5章:勉強して考えたこと
第6章:年を取って考えたこと



第1章「社会に出て考えたこと」の冒頭で、著者は次のように書いています。
「気がつくとブログを10年近く書いていた。それで何か得られたかというと、ないと思う。大した意味はなかったが、総じて楽しかった。からっぽな人生なりに生きてきたんだなという感慨はあった。その部分、つまり、ブログの裏側の思いはなんとなくブログには書いてこなかった」
著者がもし本を書くことがあれば、逆にそのあたりを書こうかと思ったそうですが、この10年近く書いているブログがすごいのです。
極東ブログ」と「finalventの日記」という2つのブログを書いているそうですが、1か月にのべ30万人くらいの人が閲覧しているとか。
著者は、「ブログの世界ではそれほど有名なものではない。書いている私も、著名人ではないし、ブログによって著名になったという人でもない。名前も、特に隠したいという意図もなかったが本名ではなく、finalvent(ファイナルベント)というペンネームにしていた」と述べています。
わたしは基本的に匿名ブロガーという存在があまり好きではないのですが、この人は文体から謙虚な人柄が感じられて、好感が持てました。



そして、本書を一読して驚きました。
この著者は文章も上手ですが、何よりもものすごく教養が豊かなのです。
第5章「勉強して考えたこと」には、次のように書かれています。
「高校時代、若いせいもあって文学が好きだった。ドストエフスキーの小説などは中学生から読んでいた。トルストイの『戦争と平和』も既読。百人一首はもとより万葉集も百首以上暗唱できた。詩や短歌、俳句を学習雑誌に投稿してはほぼ毎月入賞していた。論語もほとんどそらんじることができた。なんでも暗記できそうな気がして、ついでに般若心経まで暗記してみた。これはその後、寺社参りで意外と役立ったりもした。小林秀雄とか亀井勝一郎梅原猛などの日本の評論は暇つぶしで読んでいた。文学的な論説にはまったく抵抗がなかった」
そんな高校生が50代半ばを過ぎたら、どうなるか。本書の中でリベラル・アーツの重要性を説いていますが、著者自身が真の教養人としてのリベラル・アーティストなのだと思います。ダテに1日1冊の読書を30年以上も続けていませんね。



そして、本書の内容にこれまた驚きました。「生老病死」についての独自の見解を語る、見事な人生論となっているのです。たとえば「生」ですが、最初のお子さんが生まれたときのことを次のように書いています。
「出産に至るまでは妻もつらかっただろうが、私もけっこうつらかった。人類というのは、これを延々とやってきたのか。人間というのはすごいものだ。命というのはすごいものだとあらためて思った。
人が生まれてくるということは不思議でもない。当たり前だといってもいいはずだ。でも、実際に生きてみて経験したら、それがとてつもなくすごいことだと思った。そうやって命をつないでここまで人というのは続いてきたのだと思ったら、身体が震えるような感動があった。普通の人にとって、人生の意味は、そうして命をつないでいくだけでいいのではないか」



世の中には、子どものいない人、欲しくてもどうしてもできない夫婦もいます。
著者はそういった人たちへの配慮も忘れず、「もちろん、それだけが人生の意味だということではないし、子どものない人生でも、人とのつながりで、命をつないでいくこともあるだろう」と書き加えています。
著者は、結局、4人の子どもさんに恵まれたそうです。
第2章「家族をもって考えたこと」の最後には、次のように書いています。
「結婚して家族がもてて幸せだったかと問われるなら、自分については、これ以上の幸せはないと思う。この点は、本当に幸運だったと思う。もっというと、これが自分の人生の意味だったとして十分に満足のいくことだった」



ところで、著者の奥さんは沖縄出身だそうです。
著者自身も、沖縄でしばらく生活したとか。
第3章「沖縄で考えたこと」は、ユニークな沖縄論となっています。
結婚式を挙げなかった著者夫妻ですが、披露宴だけは沖縄で開きました。
披露宴の熱狂ぶりについて詳細に説明した後、著者は次のように書きます。
「かくして、全員『かちゃーしぃ』で手を挙げているような、もうとんでもないカオスのようになって披露宴が終わる。
この熱狂こそ、沖縄というものだった。
自分の結婚披露宴ということも忘れ、熱狂を呆然と見ながら思った。
すごいところに来てしまったな。
フランスを拠点に活動したシャガールというロシア生まれのユダヤ人画家の、若いころの作品に、ユダヤ人の熱狂的な結婚式・披露宴を描いた作品がある。最後は招かれた人たちみんなが踊り出す。あんな感じだ。
これが文化というものだ。
これが民族というものなのだ」



うーん、わが社も結婚式場「マリエール・オークパイン」をはじめ、沖縄で広く冠婚葬祭業を営んでいますが、この結婚披露宴から文化・民族を語る著者独自の視点には感銘を受けました。
もっと感銘を受けたのは、沖縄の生活についての次の文章でした。
「沖縄の生活では、夏期は日没後の夜の活動が盛んになる。春や秋も温暖なので、夜間を戸外で過ごすことが多い。そこには当然月がある。沖縄の生活は、月とともに生きることになる。宇宙の時間を月が支配している。
いつも月を見て暮らしている。
月のサイクルのなかに潮の満ち引きがあり、人の祭りがある。
妻となった女性の体のなかにもその月のサイクルがあり、自然につながっているのだとも感じられるようになった。
自分も月のリズムに変わっていくのがわかった」
これはもう、大の月狂いであるわたしには、たまらない文章です。
そうか、沖縄の生活は、月とともに生きるのか。いいですねぇ!



さらに著者は、沖縄について次のように述べます。
「よく『日本人のDNA』ということを言う人がいるが、実際に遺伝子を構成するDNAで見るなら日本人は多様であり、近隣のアジアの民族と際だって変わることはない。DNAを持ち出すなら、むしろ日本人特有のDNAなどなく、日本人は近隣アジアの民族となめらかにつながっていると考えるほうが正確だ。民族の文化という点でも、日本の固有性に焦点を当てるより、近隣アジアの民族がもつ文化との類似点やつながりに目を向けていくほうがよいだろう。そうした点で、沖縄は、日本がアジアや他国につながる一番近いところにある異文化でもある」
でも、そのような考えを安直に「沖縄が日本でないのなら、中国だと言うのか」といった意見に結びつけてはなりません。
尖閣諸島を含む沖縄は中国ではなく、日本の領土です。
でも、わたしも沖縄と日本(内地)の文化は明らかに違っていると思います。
そして、何度も繰り返し発言しているように「沖縄が日本を救う」と信じています。



話を「生老病死」に戻しましょう。
「病」ですが、著者は沖縄で突然、難病に襲われます。
そして、その治療の関係で東京に戻ることになるのですが、その病気の描写は読んでいるこちらまで恐ろしくなるような内容でした。
病気のために酒も断った著者は、第4章「病気になって考えたこと」で、今も続く闘病生活を次のように振り返ります。
「難病になって、しみじみ伴侶がいてよかったと思った結婚してよかった。そう思うのは甘えすぎではないかとも思うが、自分一人ではどうにもならなかった。私たちは、結婚式は挙げなかったし、ましてキリスト教の結婚式でもなかったが、『その健やかなるときも、病めるときも』伴侶がいることが、生きる支えだった」
非婚時代のいま、日本中で声高に婚活が叫ばれ、結婚の素晴らしさが謳われていますが、この著者の言葉は独身者に「ああ、結婚したいなあ・・・」としみじみと思わせるものを持っています。



それから、「生老病死」の「老」です。
第6章「年を取って考えたこと」で、著者は頭髪が薄くなったり、容貌が衰えていくさまをユーモラスに書いています。
でも最後は、次のように「老い」と正面から向き合います。
「人生の円熟に向かう思索は、50歳を過ぎ、また55歳を過ぎてみて、実感としてようやくわかってくる。思索の円熟は、人によって違うだろう。70歳くらいまで継続するものかもしれない。自分にも、彼らのような偉大な思索はできないにせよ、それなりに熟成していくものはあるだろう。
それを55歳以降の自分の人生の楽しみとして考えたいと思うようになった。
そう考えると、年を取るのも惨めなことばかりじゃないよな、きっと」
うーん、もうすぐ50歳となるわたしには、心に沁みる言葉ですね。



そして、「生老病死」の「死」です。
それは本書の最後に書かれていますが、素晴らしい名文です。
書名の『考える生き方』にかけて、著者は次のように述べます。
「考えながら、生きる。
誰に理解してもらえるわけでもないが、最後に自分の死の意味を自分なりに受け入れ、次世代の命が祝福できたら、まあ、自分の人生はそれで終わりでいいんじゃないか。私が死んでも、この世界は続くし、この世界に新しい人が生まれて、その人たちがきっと希望の火を灯す。自分がこの世界に絶望の呪いを投げかけて自己満足するのと、若い人たちの希望を信じてみるのとどっちがいいか。
自分に希望がなくても、誰かの希望を信じたほうがいい気がする。
じゃあ、自分はそっち。人類の希望を信じよう。
生きる命というのを信じよう」



この一文には、著者が高校生のときに暗記していたという『論語』や『般若心経』の香りさえ漂ってくるように思います。どこまでも率直に飾らず、かつ遠慮がちに自分の思いを綴っていく。そして、仕事・家族・恋愛・難病・学問、そして「人生の終わり」についての考え方を読者に鮮やかに示してくれる。こんなすごい文筆家がこれまで本を書かなかったなんて、信じられない思いです。
著者はネット界で尊敬を集めるブロガーだそうですが、このような賢人の思索を求める人が多いのならば、日本のネット界の住人も捨てたものではありません。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2013年3月22日 一条真也