山口昌男先生の思い出

一条真也です。
日本を代表する文化人類学者である山口昌男先生がお亡くなりになられました。10日の2時24分、肺炎のため東京都三鷹市内の病院で逝去されました。81歳、日本の思想界に大きな影響を与え続けた生涯でした。



日本経済新聞 Web刊」より


山口先生は、1931年に北海道美幌町に生まれました。東京大学国史学科卒業後、東京都立大学大学院で文化人類学を学び、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所長、札幌大学学長などを歴任されました。日本民族学会会長も務められ、欧米の大学でも教えるなど国際的に活躍されたことでもよく知られます。2011年には文化功労者になられています。



しかし、そんな通りいっぺんの経歴ではとても説明できません。
それほど、山口先生は日本の思想界におけるスーパースターでした。
1970年代初頭から哲学者の中村雄二郎氏とともに、創刊間もない青土社の思想誌「現代思想」(青土社)に寄稿し始めます。そこで、構造主義記号論といった世界における最先端の思想を紹介しました。それによって日本における既存の学問の方向性をシフトした上で議論を活性化させたのです。


わが書斎の山口昌男コーナー



山口先生の一連の活動は、1980年代のニューアカニュー・アカデミズム)」ブームの下準備をしたとされています。浅田彰氏や中沢新一氏といった当時の「知のニュースター」たちも、山口先生が切り拓いた道があったからこそ登場できたと思います。1984年から10年間は磯崎新氏、大江健三郎氏、大岡信氏、武満徹氏、中村雄二郎氏らとともに岩波書店総合誌「へるめす」の同人として活躍されました。山口先生の発言は、日本の思想界に多大な影響を与えました。
わたしの書斎の最上段の書棚には、大佛次郎賞を受けた『「敗者」の精神史』(岩波書店)をはじめ、山口先生の代表作がずらりと並んでいます。
それらの著書を、バリ島で求めた女神像が守っています。


いずれも時代を揺さぶった名著でした



山口先生は、アフリカなどのフィールドワークをもとに提起した「中心と周縁」理論や「トリックスター」論など独自の文化理論で知られます。守備範囲も広く、演劇や舞踊など多方面に影響を与えました。わたしは学生時代から山口先生の大ファンで、著書はほとんど全部読んでいます。いずれも時代を揺さぶった名著ばかりで、わたしは貪るようにそれらを読みました。


この本がきっかけで、山口先生にお会いしました



かつて、わたしが『遊びの神話』を東急エージェンシーから出したとき、山口先生の本から何箇所か引用させていただいたので、礼状を書いて本をお送りしたことがあります。すると、なんと山口先生から東急エージェンシーに直接お電話があり、お会いすることになったのです。
電話があった日の夜、新宿の「火の子」というバーでご馳走になりました。
故・吉本隆明氏や栗本慎一郎氏も愛用した店です。



遊びの神話』が刊行された1989年当時、山口先生は「ニューアカの親分」として大変な威光でした。影響を受けた学者や文化人はかなりの数で、その強大な人脈を称して「山口組の組長」などとも呼ばれていました。
山口先生は、『遊びの神話』を手にされて、「これ、読んだよ。面白いじゃないか、よく書けてる」と言って下さいました。まだ20代の若造だったわたしは、涙が出るほど感激しました。「ディズニーランドは現代の伊勢神宮である」という帯のコピーについても、いろいろと意見を交換させていただきました。



当時は博覧会ブームで、「花と緑の博覧会」「横浜博覧会」「アジア太平洋博覧会」など、さまざまなイベントを東急エージェンシーが受注し、新人だったわたしも企画やプロモーションなどの末端の仕事を担当していました。
山口先生の一連の著書は文化の本質に触れており、イベントのコンセプト立案やプランニングなどに役立つこと大だったのです。
そのことを「火の子」で山口先生にお伝えし、「山口先生みたいな博覧強記の方に憧れますよ!」と言ったところ、「博覧強記?キミは博覧会狂気じゃないの、ワッハッハ」と高笑いされたことを憶えています。


尊敬する山口先生と対談させていただきました



その御縁で、山口先生とは『魂をデザインする〜葬儀とは何か』(国書刊行会)本で対談させていただきました。同書には、山折哲雄氏や井上章一氏、横尾忠則氏などとの対談も収められています。何よりも、義兄弟の鎌田東二氏に初めてお会いしたきっかけとなった本であり、忘れられない人生の宝物です。
先日、アマゾンのベスト100レビュアーである「不識庵」さん(ベスト50レビュアー目前!)に東京でお会いしたところ、「一条本」をすべて読まれており、いずれコンプリート・レビューを目指していると言われていました。そこで、わたしが「わたしの本の中で、何が一番好きですか?」と尋ねたのですが、不識庵さんは「それは『魂をデザインする』ですね」と即答され、驚きつつも嬉しかったです。



魂をデザインする』では10人の先生方がわたしに胸を貸して下さいましたが、そのトップバッターこそ山口昌男先生でした。山口先生という「知の巨人」をいきなり対談相手に迎えたことは、その後のわたしの人生に大きな影響を与えたと思います。もちろん、山口先生が未熟なわたしに合わせて下さった部分が大きいのですが、それでも何とか対談が成立したことで、わたしは自信のようなものを持つことができたのです。「自分は天下の山口昌男と対談したのだから、少々の論客が相手でも大丈夫だ」と思えたのです。20年後、『葬式は、要らない』の著者である島田裕巳氏とNHKの討論番組で対決したときに、そのときの自信が自分を支えてくれたように思えます。



いま、『魂をデザインする』の山口先生の発言部分を読み返してみると、葬儀についての以下の発言が印象的でした。
「わたしが出合った葬儀の中で一番美しいと思ったのは、エチオピア南部で目にした光景なんです。喪の期間にはいろんな通過儀礼があった。身体損傷儀礼というようなものもあって、女の子が踊りながら自分の服をかきむしる。そうでもしなければ表せない悲しみをパフォーマンス化した儀礼ですね。
わたしが見たのは連れあいを亡くした親父さんの葬儀だったんですが、彼の泣き声がやがて歌になっていくんです。一種の叙事詩なんですよ、これが。昨日まで自分の飯をつくってくれた妻がいない、明日からは自分1人で市場へ行かなければならない、市場に行ったって物をどうやって選べばいいんだ・・・・・。こういう泣き声がいつまでもいつまでも続くんです。ギリシャとも通じるんですが、この泣き声は非常に芸術性が高い。だから逆に、葬儀の場所が芸術性の発露の場でもある、真の舞台空間だといえるのではないでしょうか」



また、山口先生とわたしは次のような対話を行いました。
(山口)だいたい、人間というのはどこかで無駄なことをやらなくちゃいけないんじゃあないですか。葬儀というのも、いってみれば全部が無駄なわけでしょう。なんの生産にもつながらない。あるいは、むしろ葬儀のために考えておいて金を使う、それが人間のまっとうなやり方かもしれない。そのためにも普段はもっと切り詰めてよけいな遺物を買い漁るのはやめたほうがいいと思うぐらいだ。
(一条)つまり、葬儀のためにパーッと使ってしまって、後に何も残さない死に方ですね。それもたしかに人間の精神性の現れ方かもしれませんね。
(山口)いずれにしろ、葬儀という無駄がなくなることはないでしょう。
(『魂をデザインする』P.22〜23)



わたしは、当時の山口先生の言葉を噛みしめています。
葬儀の場所は「芸術性の発露の場」であり、「真の舞台空間」である。
そして、「葬儀という無駄」がなくなることはない!
20代の頃に、日本の思想界を代表する「知の巨人」と葬儀についての対話を交わせたわたしは本当に幸せ者でした。
山口先生、ありがとうございました。
これからも、わたしは「葬儀とは何か」について考え続けます。
山口昌男先生の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2013年3月10日 一条真也