小倉昭和館で「グリーフケアの時代に」上映

一条真也です。
グリーフケア映画の決定版が小倉で上映されます。ブログ「グリーフケアの時代に」で紹介したドキュメンタリー映画がその作品で、ブログ「小倉昭和館復活!」で紹介した映画館での2月17日10時開始の限定上映です。当日は、わたしも出演者を代表して舞台挨拶いたします。

 

「グリーフ」とは、深い悲しみ、悲嘆を意味する言葉で、大切な人を失ったときに起こる身体上、精神上の変化や苦悩を指します。作品は、そうした家族やパートナーを失い、旅立ちを見送らなくてはならない人が、心の痛みを手放し、再生へと向かう一助となるような心温まる内容です。この映画には日本を代表するグリーフケアの達人たちが一堂に集結。語りは俳優、音無美紀子さんです。僭越ながらわたしも出演し、グリーフを抱える方同士が結ぶ「悲縁」について紹介しています。東京での舞台あいさつでは、わたしも紀子さまに直接ごあいさつを申し上げ、著書をお渡しすることができました。


■上映作品
グリーフケアの時代に」
監督:中村裕
語り:音無美紀子
出演:佐久間庸和島薗進ほか
■開催日
2月17日(土)
■時間
10:00 上映開始
11:20 舞台挨拶
11:40 終 了
■会場
小倉昭和館
北九州市小倉北区魚町4-2-9)
お問合せ先:(株)サンレー企画課 
担当/山下・松下 
電話:093-551-9950

西日本新聞」2023年12月7日朝刊

 

2024年2月9日 一条真也

『折れない自分をつくる 闘う心』

折れない自分をつくる 闘う心

 

一条真也です。
『折れない自分をつくる闘う心』村田諒太著(KADOKAWA)を読みました。著者は、日本の元プロボクサー。奈良県奈良市出身。ロンドンオリンピックミドル級金メダリスト。元WBA世界ミドル級スーパー王者。帝拳ボクシングジム所属。オリンピック金メダルとプロ世界チャンピオンの両方達成した初の日本人ボクサーです。ブログ「村田諒太はいい!」ブログ「村田戦は無効試合にすべし!」ブログ「やったぜ、村田諒太!」ブログ「よくやった、村田!」にも書いたように、わたしはプロボクサー・村田諒太の大ファンでした。本書には、現役時代の著者の葛藤と自問自答が非常に分かりやすく表現されています。特に、最強王者ゴロフキン戦の前後の心情は驚かされるばかりでした。


本書の帯

 

本書のカバー表紙には黒いシャツを着た著者の上半身の写真が使われ、帯には「不器用な自分にできることは限られている。その事実を認めて、心技体で要らないものをそぎ落とした僕は落ち着いていた」「世紀の一戦の舞台裏と心の記録」「プロボクサー引退後、初の著書」とあります。


本書の帯の裏

 

帯の裏には、「コロナ禍、101日遅れてゴングが鳴った」「日本ボクシング史上最大の一戦」「最強王者ゴロフキンとの対戦に至るまでの心の葛藤、半年間にわたるメンタルトレーニングの記録、虚栄や装飾のないありのままの村田諒太を綴る――――――。」「勝利という結果、他者の反応や評価だけを求めてボクシングをやってきた。でも、自分をちゃんと認めてあげることができれば、他者との比較はさして気にならなくなることをゴロフキンとの試合を通して知ることができた」と書かれています。

 

アマゾンより

アマゾン「内容紹介」には、「『強さとは何か』を追い求めてきたボクサー村田諒太の『世紀の一戦』までの半年間を綴ったドキュメンタリー。コロナ禍で7度の中止・延期という紆余曲折を経て、最強王者ゴロフキンとの対戦に至るまでの心の葛藤、スポーツ心理学者の田中ウルヴェ京さんと半年間にわたって続けてきたメンタルトレーニングの記録、虚栄や装飾のないありのままの村田諒太を綴った一冊」「この試合で一番譲れないもの、それは自分を認めることができる試合をすることだった。ゴロフキンに勝つことも大事だが、自分に負けないことはもっと大事だった。それは逃走せずに闘争すること。壮絶な心の戦いの果てに辿り着いた境地とは」「僕がやってきたのは自己肯定感を得るための旅であり、ボクシングはそのための一番のツールだった」とあります。

アマゾンより

アマゾンより

本書の「目次」は、以下のようになっています。
第1章 激闘
2022年4月9日
101日遅れのゴング
ゴロフキンの本領
第2章 挑戦
日本ボクシング史上最大の一戦
田中ウルヴェ京さん
王者の中の王者
ジョハリの窓
第3章 試練
7度目の中止・延期
ミドル級の壁
帝拳ジム・本田会長
消えない雑念/殴りたくない
ポジティブな感情
第4章 恐怖
36歳の誕生日
開き直り
ダメ出しがほしい
自己肯定感
第5章 覚悟
闘争か逃走か
折れない自分をつくる闘う心
恩師の涙
第6章 余韻
不思議な声
証言
スポーツ心理学者・田中ウルヴェ京が語る村田諒太
対談 村田諒太×田中ウルヴェ京

 

「まえがき」の冒頭を、著者は「37年の人生のうち、20年以上もボクシングとともに生きてきた。もし、ボクシングに出会えていなかったら今ごろどんな人生を送っていたのかと考えると、少し怖くもなる。人生を懸けて打ち込めるものを見つけられた自分は幸せだった。オリンピックの金メダルも世界チャンピオンのベルトも誇れる勲章だが、ボクシングを通じて人生を学んだことが最大の財産だ。強い相手、厳しい練習、つらい減量。ボクシングは常に恐怖や苦しみと隣り合わせのスポーツである。己の弱さと甘さを突きつけられ、現実を受け入れたうえで、折れない自分と闘う心をつくり上げる。そんな人間的成長のツールが、僕にとってのボクシングだった」と書きだします。


2022年4月9日、著者は2年4か月ぶりの試合をさいたまスーパーアリーナでIBF世界ミドル級王者ゲンナジー・ゴロフキンと2団体王座統一戦を行いました。序盤はボディを当て相手を下がらせる場面はあったものの、その後はゴロフキンのガードの間を縫う多彩な角度のパンチを受けて徐々に劣勢となり、9回著者の左フックに右のカウンターを合わせられてダウンするとセコンドからタオルが投入され、9回2分11秒TKO負けを喫し、WBAスーパー王座から陥落しました。


第1章「激闘」の「101日遅れのゴング」では、試合後に3ラウンドまで映像を見終えたとき、著者の頭には「勝てる試合だったなあ」という思いが湧いてきたことが紹介されています。著者は、「戦っているときはとにかく必死で、これほどの攻勢は実感できていなかった。もったいない、全然勝てる試合だった・・・・・・。序盤3つのラウンドが勝負、そこは何が何でも取りに行く。そう戦前に決めた作戦は映像を見る限り、十分に実行できていた。いや、想定以上だったかもしれない。試合中、僕はお客さんの声援がほとんど耳に入らないのだが、映像からも会場が熱気を帯びているのが分かった。戦っている当人以上に、観客の皆さんは勝機を感じてくれていたのかもしれない」と述べています。


「ゴロフキンの本領」では、当日のリング上で著者はタオル投入に気づいていなかったことが明かされます。試合終了を告げるゴングがカン、カン、カンと鳴り、青コーナーから駆け込んできた田中繊大トレーナーに抱えられて初めて負けたことを知ったそうです。著者は、「僕は笑っていた。『やっちまった』という苦笑いの感情と、試合が終わった安堵感がかすかにあったように思う。ただ、画面に映し出されたゴロフキン陣営の心底喜んでいるシーンを見て、あの日とは違った感情も湧き上がってくる。向こうもきつかったんだな。自分がこのラウンドを耐えきっていたら、試合の行方は分からなかった。逆転の可能性はあったんじゃないか。試合映像を見終えて、真っ先に湧き起こってきた感情は『悔しい』だった。敗因は一言でいえば、キャリアの差だ。ゴロフキンは休めるときに休んで、試合全体をマネジメントしていた。これまで世界戦を30戦近く戦ってきた中で培われた実戦力といってもいい。あれだけKOを量産してきたのに、12ラウンド戦うことを見越したようにラウンドごとの戦い方にメリハリをつけていた」と述べています。


悔しいと思うのは、著者のボクシングがゴロフキンに通用していたからでした。著者は、「間違いなく通用していた。恥じることのない試合ができたと思う。この経験を生かせば、次はもっといいボクシングができる、もっと強くなれると思った」として、試合前、著者が一番思っていたことは「ビビッて力を出せないことだけは嫌だ」ということだったと明かします。しかし、26分余りに及んだ激闘の最中、著者の心が折れることはありませんでした。最後まで闘う気持ちを失うこともなかったといいます。試合前に感じていた自分の中に潜む弱さは、間違いなく乗り越えられたと思うとして、著者は「21年秋に試合が決まってからの半年間を振り返ったとき、この時間を肯定的にとらえることができる。色々細かい点まで目を向ければ100点ではないかもしれないが、点数に関係なく肯定できる。この自己肯定感は4月9日の試合がくれたものというより、あの一戦に向かっていった過程がくれたものだ。『勝負の世界は結果が全て』というのは事実。だからアスリートは悩み、苦しむ。僕もとても悔しい。映像を見て、また悔しい気持ちがふつふつと湧き上がってきた。その事実に照らせば、敗れた僕は何も自分を認めることができないことになるが、そんなことはない。これまでのどんな試合よりも自己肯定感や充実感を得ることができた。半年間の時間が、この試合の意味を勝ち負けだけで語れないものにしてくれたのだ」と述べるのでした。


第2章「挑戦」の「日本ボクシング史上最大の一戦」では、2021年11月12日、著者は東京・虎ノ門ヒルズの大きなホールにしつらえられた記者会見場にいたことが紹介されます。WBA・IBF世界ミドル級王座統一戦の発表会見が行われることになっていたのです。会見場のひな壇に上がったとき、詰めかけた報道陣やテレビカメラの数を見て、この試合に対する注目や期待の高さを改めて実感したという著者は、「僕の久々の戦線復帰ということもあっただろうが、それよりも対戦相手がゲンナジー・ゴロフキンカザフスタン)ということが大きかったはずだ。強豪が集うミドル級で世界タイトルマッチに通算22度勝利し、この時点で戦績は41勝(36KO)1敗1分け。勝利を逃した2試合はいずれも宿敵サウル・“カネロ”・アルバレス(メキシコ)との対戦による結果だが、『ゴロフキンが勝っていた』と言う評論家やファンも多い接戦だった」と述べています。


ゴロフキンというボクシング界の世界的ビッグネームの来日という意味では、1988年と90年の2度、東京ドームでタイトル防衛戦を行った当時の統一世界ヘビー級王者、マイク・タイソンアメリカ)以来とされました。記者会見で、著者は「これは歴史の一部だと思います。こんな大きな試合、ミドル級の試合が日本で行われることは、手前味噌だけど今後なかなか難しいと思います。この一大イベントが大成功して、今後のボクシング界、スポーツ界に寄与できれば、我々が戦う意味もより大きくなると思っています」と語りました。全世界にはゴロフキンと複数試合の大型契約を結んでいるDAZN(ダゾーン)が配信。白井義男が日本で初めてのボクシング世界王者になってから約70年、戦後のボクシングの大衆人気を支えてきたテレビ地上波ではなく、インターネットで配信される興行形態もスポーツビジネスの新たな潮流として大きな話題を集めました。ゴロフキンには15億円以上、著者に6億円のファイトマネーが保証されるとメディアは報じ、まさに日本ボクシング史上最大の一戦でした。


「田中ウルヴェ京さん」では、著者のメンタルトレーニングを担当したスポーツ心理学者の田中ウルヴェ京について、著者は「京さんはシンクロナイズドスイミング(現アーティスティックスイミング)の名選手だ。1988年ソウル五輪では、小谷実可子さんと組んだデュエットで銅メダルを獲得されている」「僕と京さんは少し前からLINEでもやり取りするようになった。話題は互いの近況報告や東京オリンピック、そのときどきの時事問題のほか、哲学やキリスト教、読書など多岐にわたった」と書きます。



また、著者は「京さんが現役時代にデュエットを組んだ小谷さんはとても華のある人気選手で、マスコミが話を聞きたがるのはいつも小谷さんだったそうだ。その横で京さんは小谷さんに対し、最も信頼するパートナーでありながらも、どこか複雑な感情も抱えていたという。そんな京さんなら僕の思考の癖や感情の揺れを分かってもらえるのではないかと思ったし、メンタルの記録を取ってもらうとしたら京さんしかいないと考えたのである」とも書きます。


著者は、ポジティブ・シンキングやプラス思考のようなものに違和感を覚えたといいます。たしかにトレーニングを受けた日は気分が上がって帰路に着くのですが、気分は文字通りに気分でしかなく、一時的なものに過ぎないとして、著者は「時間がたって冷静になると、僕という人間が根本的に抱えている感情や弱い自分というものは、何ら変わっていないことに気づく。そんな本当の自分にある意味フタをして競技に臨むというのがポジティブ・シンキングだと思う」「むしろ、僕は自己の内面と向き合うリアルシンキングをやりたいと思っていた。テクニカルな方法論に走るよりも、もっと本質を考える哲学のようなイメージだ。自分の強さと弱さ、長所と短所を理解し、課題を整理した上で、よりよいパフォーマンスを発揮できるようになるにはどうしたらいいかを徹底して考える」と述べます。


世界のミドル級の頂点に立つゴロフキンと著者が邂逅したのは、著者がプロデビューした1年後の2014年7月でした。ゴロフキンが拠点とする米国カリフォルニア州ビッグベアレイクのキャンプに参加したのです。その破壊的なパンチ力と並んで、著者がキャンプの印象に残っているのはゴロフキンの紳士的な人柄でした。著者は、「このとき、僕を追いかけてテレビの取材班が日本から現地まで来ていた。当時の僕は五輪金メダリストとはいえ、まだプロで4戦しかしていない駆け出しの新人ボクサーである。世界中で場所と相手を選ばずに戦い、拳ひとつで人生を切り開いてきたゴロフキンにしたら、メディアを引き連れてきた若造に不快な感情を抱いてもおかしくないだろう。だが、ゴロフキンは客人の僕らを快く受け入れてくれた。練習後にインタビュー撮影を受けていると、カメラの近くを通るときに「エクスキューズミー」と頭を下げて通ったりするのだ。お邪魔をさせてもらっているのは僕らの方なのに。リング内の強さだけでなく、リングを下りても素晴らしい人間性の持ち主だった」と述べています。


ビッグベアレイクでのキャンプ参加から3年後、キャリアを重ねた著者は2017年10月22日、プロ14戦目でアッサン・エンダム(フランス)との再選を7回終了TKOで制してWBA世界ミドル級新王者になりました。それから4年の月日が流れて、著者とゴロフキンの対戦はついに実現に至りました。著者は36歳、ゴロフキンは40歳になっていました。18年当時のことを知る人たちからは「あのとき対戦できていたらと思うことはないか」と聞かれたこともあるそうです。著者の答えは100%ノーでした。著者は2018年10月20日にラスベガスでロブ・ブラントに負けていますが、「もし、あのときの僕のボクシングで首尾良く勝ってしまって、そのままゴロフキンとの対戦が決まっていたら、はっきり言って相手にならなかっただろう」と述べています。


ジョハリの窓」では、著者がゴロフキンと対戦したいと思った理由を、彼がリアルなチャンピオンだからだと明かします。ボクシング界にはWBA世界ボクシング協会)、WBC(世界ボクシング評議会)、IBF(国際ボクシング連盟)、WBO(世界ボクシング機構)と4つの世界タイトルが存在します。それゆえに、誰が本当に一番強いのか、分かりにくいと言われています。王座乱立はボクシングの人気が落ちた理由だと批判の対象となることも少なくありません。著者は、「そんな中で、かつてWBOを除く3団体の統一王者でもあったゴロフキンは紛れもなく、ミドル級ナンバーワンの選手だ。彼に勝てば自分が本当のチャンピオンだと胸を張って言える」と述べます。


第3章「試練」の「7度目の中止・延期」では、コロナ禍で1年8ヵ月近く生殺し状態が続き、7度目の延期・中止となったとき、著者の中ではもう、勝つ、負けるは二の次になっていたことが明かされます。著者は、「もちろん一時的な感情だが、このときは1日も早くこの状況から解放されたい気持ちの方が上回っていたのは事実だ。最終的に僕のブランクは約2年4ヵ月に及ぶことになるが、これは歴代の日本の世界チャンピオンの中でも断トツの最長である。世界を見渡しても、これだけ長くリングに上がらなかった(上がれなかった)王者はいないのではないか。ブランクの理由は、ひとえに僕が日本で稀有なミドル級のチャンピオンだというところにあった」と述べます。


「ミドル級の壁」では、著者はこう述べています。
「ミドル級。その名の通り、上限体重160ポンド(72.5キロ)のこの階級はヘビー(重い)級とライト(軽い)級の間にできた階級である。130年を超える歴史があり、これまでも数々の名選手を輩出している。プロボクシングが最も華やいでいた時代の1つ、1980年代はマービン・ハグラ―、シュガー・レイ・レナードトーマス・ハーンズ(いずれもアメリカ)、ロベルト・デュランパナマ)が3つどもえならぬ“4つどもえ”の戦いを演じ、ヘビー級をはるかにしのぐ人気を集めた」


ミドル(中間)という言葉の通り、欧米では平均的な体格で、2階級下のウェルター級などとともに「中量級」と称されます。選手層も厚く、世界の壁は高いです。著者は、「日本からミドル級王者になったのは竹原慎二さん(1995年、WBA)と自分の2人だけだ。日本ではミドル級は中量級ではない。長らく日本ランキングでは一番上の階級だった(今はヘビー級が復活している)。完全な『重量級』である。ボクサーの数もバンタム級以下の『軽量級』、フェザー級からライト級を中心とする『中量級』に比べて圧倒的に少ない。日本ランキングが10位まで埋まることもまずない」と述べます。


「殴りたくない」では、延期発表の直後は、こんなことに負けてたまるかという反骨心や、なぜ俺だけが試合できないんだという怒りの感情がパワーとなって、意外に練習を頑張ることができていたそうです。しかし、1週間から10日ほどたち、試合がなくなったという現実が動かしようのない事実としてのしかかってくると、気持ちも沈みがちになります。練習をしていても、全然楽しくなかったとして、著者は「京さんからアドバイスされた『淡々』が思いのほか難しかった。人を殴るボクシングというスポーツの特性もあるかもしれない。そもそも淡々と人を殴るということは、普通はあり得ないことだ。自分の身を守るため、相手を打ち負かすために人は人を殴る。だから、スパーリングという実戦練習も、ボクサーは1年中のべつまくなしにやっているわけではない」と述べています。


ボクサーというものは、普段はロードワークでスタミナと体重を維持し、ジムではシャドーボクシング、サンドバッグやパンチングボール、ミット打ちなどで攻防の技術を磨きます。スパーリングは試合と相手が決まってから、週2~4回とペースを決めてやっていくものです。著者は、「なのに、僕にはその試合がなかった。いや、正確には『ある』のだが、僕はその試合があることを信じきれていなかった。延期が決まってから約2週間、僕はスパーリングをやるのがつらくなっていた。殴られて痛い思いをすることや、疲れるのが嫌だったのではない。スパーリングパートナーを殴ることに抵抗を感じ始めていたのである。およそ世界タイトルマッチを控えたボクサーが抱く類いの感情ではない」と述べます。


大事な試合を控えながらスパーリングパートナーに同情の念が湧いてしまうほど気持ちはダウンしていたという著者は、「もちろん、それでいいはずがない。しかし、頭では頑張らなければいけないと思っても、心がなかなかついてこない。そういう『頑張れない自分』に、僕は自己嫌悪の感情を抱きつつあった。どこか恋愛感情に似ているなと思った。別れた直後、男は『明日から自由だー』と一瞬ハイになるが、すぐに現実を知って落ち込む。今回も延期が決まった直後は気張ってスパーリングも頑張ってきたが、2週間ほどたって現実に打ちのめされている自分がいた。スパーリングパートナーに無用の情を持ってしまうほど、僕は落ち込んでいた」と述べるのでした。

 

 

当時の著者の感情は、「受容のプロセス」とか「受容の5段階」といわれるものに近かったとか。アメリカの精神科医エリザベス・キューブラー・ロスが1969年に著した世界的ベストセラー『死ぬ瞬間』で発表したものです。死=深い悲しみを経験した人がたどる心の過程について解説しています。人は何らかの厳しい事実を突きつけられたとき、感情が以下の5つの段階をたどるのだという説です。
第1段階(否認)
現実を否定し、周囲と距離を置こうとする
第2段階(怒り)
現実が否定できないと自覚し、「どうして自分が」と怒りを覚える
第3段階(取引)
現実から逃れるため、何かにすがろうと取引を模索する
第4段階(抑うつ
現実は変えられないと悟り、落ち込む
第5段階(受容)
現実を受け入れ、心に平穏取り戻す

 

 

「ポジティブな感情」では、田中ウルヴェ京から「楽しい」に意識を向けるように言われていたという著者は、「簡単ではなかったが、毎日のささいな出来事にも意識を向けようとすると、少しずつ『楽しい』感情に気づくようになってきた。例えば、僕が好きな読書。この頃はマザー・テレサの本を読んでいた。英隆一朗さんの『黙示録から現代を読み解く』も読了した。知的好奇心や探究心が刺激されるような活動をしているとき、僕は楽しさや充実感を得ていることに気づいた。英語の勉強もその1つだ。そんなふうに考えると、楽しくなかったはずの練習も楽しんでいる自分に少しずつ気づくようになった」と述べています。これを読むと、著者はかなりの読書家のようですね。


読書について、著者は「僕は元来、物欲には乏しい人間なのだが、知識欲はかなり旺盛な方だと思っている。『楽しい』を探しているうちに、自己を発見することができた」と述べています。次にゴロフキンが最後だと心のどこかで思っているのに、まだまだボクシングを楽しむ余地が残されているな、という気持ちにもなっていたそうです。著者は、「体力の部分では年を重ねて低下も感じ始めるころだから、それを埋める意味での探求という欲求がでてくるのかもしれない。僕が尊敬するアスリートの1人である元陸上ハンマー投げ室伏広治さんの求道者のような姿を思い浮かべた。『探究心を情熱と置き換えるなら、今の方が情熱的なのかもしれないです』という僕の言葉に、京さんもうなずいていた」と述べます。


第4章「恐怖」の「自己肯定感」では、ゴロフキン戦の記者会見で、記者から「改めて、ゴロフキンは村田選手にとってどういう存在か。なぜゴロフキンとの対戦を熱望し続けてきたのか」と聞かれ、著者は「ボクシングもエンターテインメントの1つですから、やれ俺はこれだけ強いんだ、これだけ稼いできたんだと外に向けてアピールすることが多いですが、僕の関心は今内に向いています。僕はボクシングを通じて得たかったものは自己肯定感だと思っています。ゴロフキン選手はリング内の強さとともに、(ドーピング違反など)ひきょうなことをしないクリーンな強さがある。単に勝つ、負けるだけではなく、試合に向かうという過程においても、自分にとっての大事なことを再確認させてくれる最高の相手です。この試合で何が得られるのか、どういう景色が見えるのかは終わってみないと分からないですが、今こうした時間を過ごせていることすら僕にとっては大きなこと。そういう状態を作ってくれているゴロフキン選手に感謝します」と述べたと紹介されます。


第6章「余韻」の「不思議な声」では、あれだけ研究したつもりだったゴロフキンは、著者の知らないゴロフキンだったと明かされます。1発いいパンチを当てても、2度目は同じ角度で当てさせてもらえなかったそうです。戦前に映像をたくさん見て印象に残っているのは派手なパンチでしたが、実際にやってみて目を見張らされたのは細かい技術でした。ガードの上から1発でなぎ倒すのかと思っていたら、ガードのわずかな間を通してパンチをクリーンヒットさせてきたといいます。著者は、「パンチ力や単純なスタミナ、スピードという分かりやすいところで勝負すれば勝てるチャンスはあると思っていた。でも、目に見えにくいところの技術で大きな差があった。人間と同じで、ボクシングも見た目だけで判断しちゃダメということだ。全盛期には全階級を通じて最強『パウンド・フォー・パウンド』と称された実力はすごいものがあった」と述べます。


証言「スポーツ心理学者・田中ウルヴェ京が語る村田諒太」では、著者が引退を決意したゴロフキン戦について、田中ウルヴェ京は「最後に告白しますと・・・・・・、今までも諒太さんの試合は観戦したことがありましたが、今回は観戦中とても怖かったです。登場してきたお顔があれだけ『素』だったので、『これは本当にすごい覚悟だ』と思ったから。『mind over matter』(肉体的な困難を気力で乗り越えること)という言葉が頭に浮かんできてしまって。どうしよう、逃げないで闘いすぎちゃったらどうしようって。セッションで逃げるな!なんて言ったことに罪悪感を感じたり。でも、それくらい勇敢で魂のこもったファイトでした」と述べます。


そして、田中ウルヴェ京は「諒太さんからは多くを学びました。人間の『素』の迫力です。自分の弱さを認め、その弱さの奥底にまで自分を問いただし、本当の自分が何を求めているのか。自分の人生は自分に何を求めているのか。ちゃんと悩み、ちゃんと葛藤した先の『素』の力を見せていただいたと思っています」と述べるのでした。本書は、単なる元プロボクサーの半生記でも、人生訓でもありません。アマとプロの両方で世界の頂点を極めた最高のアスリートの心の中の葛藤や不安を克明に描いた「こころ」の書です。ボクシングはおろか、スポーツをも超えて、あらゆる分野で活動する人々の「こころ」の糧になる名著です。

 

 

2024年2月9日  一条真也

「罪と悪」 

一条真也です。石川県に来ています。
震災から5週間が経過した能登半島を回った7日の夜、ユナイテッドシネマ金沢で日本映画「罪と悪」のレイトショーを観ました。殺人事件が起こるサスペンスですが、そこにはグリーフを抱える人々の姿が描かれていました。


ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「『アンダー・ユア・ベッド』などの高良健吾が主演を務めるサスペンス。22年ぶりに再会した3人の幼なじみが、ある殺人事件をきっかけに陰惨な過去と向き合う。メガホンを取るのはドラマシリーズ『ワカコ酒』などの齊藤勇起。『草の響き』などの大東駿介、『狼 ラストスタントマン』などの石田卓也らが共演する」

 

ヤフーの「あらすじ」は、「ある町で、13歳の正樹が何者かに殺される。正樹の同級生の春(高良健吾)、晃(大東駿介)、朔(石田卓也)、朔の双子の弟・直哉は、正樹と交流のあった老人『おんさん』が犯人に違いないと家に押しかけ、4人のうちの1人がもみ合いの末におんさんを殺して家に火を放つ。22年後、刑事になった晃は、父の死をきっかけに町に戻った際、朔と再会し、彼が家業の農家を継いで引きこもりの直哉の面倒を見ていることを知る。ほどなくして、町で少年の遺体が発見され、晃は事件を捜査する中で春とも再会する」となっています。


なかなか見応えのある映画でした。往復8時間以上かかった能登半島からの帰りなので疲れており、「上映中に寝てしまうかな」と思っていたのですが、それは杞憂でした。115分間、まったく眠気など襲ってきませんでした。主人公たちの中学生時代が描かれる冒頭シーンが流れて、じつに30分後に「罪と悪」のタイトルバックとなります。齋藤監督自ら手掛けた脚本も良かったですが、何よりも春を演じた高良健吾と晃を演じた大東駿介の演技が素晴らしかったです。大人になった春と晃の対決シーンは緊迫感に溢れていました。特に高良健吾の目力がハンパではなく、「こんなに凄い役者だったのか!」と彼を見直しました。


この映画、詳しくストーリーに触れるとネタバレになるので控えますが、最後のどんでん返しで真の悪人が判明するところが秀逸で、わたしも完全に騙されました。故ジャニー喜多川を彷彿とさせる人物が登場し、少年たちに性加害をするシーンは「今風だなあ」と思いました。すごく気になったのは、登場人物の多くが故郷を憎んでいて、「こんな腐った町、ぶっ壊れてしまえばいい」などと言い放つところでした。この日の午後、珠洲市の正院町で見渡す限りの家屋が瓦礫の山になったのを見た直後だったので、わたしは「じゃあ、おまえら、故郷があんなふうに瓦礫の山になれば嬉しいのか!」と言いたくなりました。

法則の法則』(三五館)

 

この映画の登場人物の多くは不幸です。誰ひとり幸福感を抱きながら生きている人間はいません。それは、自分の故郷を否定していることが大きな原因ではないかと思います。拙著法則の法則(三五館)で、わたしは「幸福になる法則」というものを紹介しています。それは、ずばり、自分を産んでくれた親に感謝するというものです。親を感謝する心さえ持てれば、自分を肯定することができ、根源的な存在の不安が消えてなくなるのです。そして、心からの幸福感を感じることができます。それと同じく、自分の故郷を否定することも自分を否定することに通じ、けっして幸福にはなれません。親とは「血縁」のシンボルであり、故郷とは「地縁」の背景になるものです。血縁と地縁なくして、人は絶対に幸福にはなれないのです。

© 一条真也

 

現代人は、さまざまなストレスで不安な心を抱えて生きています。空中に漂う凧のようなものです。わたしは、凧が最も安定して空に浮かぶためには縦糸と横糸が必要ではないかと思います。縦糸とは時間軸で自分を支えてくれるもの、すなわち「先祖」です。この縦糸を「血縁」と呼びます。また、横糸とは空間軸から支えてくれる「隣人」です。この横糸を「地縁」と呼ぶのです。この縦横の2つの糸があれば、安定して宙に漂っていられる、すなわち心安らかに生きていられる。これこそ、人間にとっての「幸福」の正体だと思います。ですから、自分が生まれて育った故郷を否定してはなりません。もちろん、故郷には不満や問題点も多いでしょう。ならば、自分の力で故郷を良い方向に変えていくべきです。だいたい、悪人や俗物というものは田舎だけでなく都会にもいることを忘れてはなりません。「今」「ここ」「自分」から変えるしかない。


「罪と悪」では高良健吾の演技が特に素晴らしかったですが、彼はブログ「悼む人」で紹介した2015年の名作にも主演しています。亡くなった人が生前に「誰に愛され、愛したか、どんなことをして人に感謝されていたか」を記憶するという行為を、巡礼のように続ける主人公“悼む人”こと坂築静人を高良健吾が見事に演じました。原作者の天童荒太『悼む人』を書くに至った発端は、2001年、9・11アメリカ同時多発テロ事件、およびそれに対する報復攻撃で多くの死者が出たことでした。これらの悲劇だけではなく、世界は不条理な死に満ちあふれていることに改めて無力感をおぼえた天童に、天啓のように死者を悼んで旅する人の着想が生まれたのです。彼は実際に各地で亡くなった人を悼んで歩き、悼みの日記を三年にわたって記し、その体験を元に2008年、『悼む人』を刊行。そして2011年、日本は再び大震災に見舞われ、我々は改めて不条理な死と向き合う事を余儀なくされました。今また、2024年1月1日に発生した能登半島地震によって、わたしたちは理不尽な死と向き合っています。


映画「悼む人」では、「人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか。ふいに目の前から消えてしまった者に対して誰もが抱いてしまう行き場のない思いをどうしたらいいのか」という問題が観客に突き付けられます。病や事故のような逃れようのないことであれ、殺人という加害者によることであれ、かけがえのない「生」を損なわれた時、人は深く傷つき、苦しみます。主人公の静人は旅をしながら、「生」を奪い奪われる人たちと出会っていきます。母を見殺しにした父を憎む男。愛という執着に囚われて夫を殺した女。末期癌療養に病院ではなく自宅を選ぶ母親・・・・・・静人自身も、大好きだった者の死を忘れるという行為に自らを責め続けていました。「誰に愛され、愛したか、どんなことをして人に感謝されていたか」という3点を死者に対して見つめ、記憶することで、逃れることのできない「死」を、「愛」によって永遠の「生」に変えること。それこそが、「死すべき存在」である人としてできる最善なのではないか。静人の「悼む」行為はそう語りかけてきます。最後に、映画「罪と悪」を観た日、わたしも能登半島で多くの震災犠牲者の在りし日を想う「悼む人」となりました。

「悼む人」になりました

 

最後に、このブログ記事を読んだ金沢紫雲閣の大谷賢博総支配人からLINEが届きました。彼自身が能登半島地震の被災者ですが、この日、彼の運転で能登半島を回ったのです。大谷総支配人は、「被災してから初めて観た映画だったので、鑑賞中はいろんな感情が入り混じっておりました。小さな集落の閉鎖的な環境が生み出す悪。故郷は愛おしいはずなのに、小さな歪みが大きくなり後戻り出来ない状況になっていく。悪とは人間の弱さなのではないかとも思いました。能登半島地震の余震が1600回を超えた今、最初は無事だった建物が徐々に壊れていく。そして人の心もまた徐々に壊れていく。まるでそんな状況を現しているようでした。少年が殺人を犯して放火する。その炎すら燃えさかる輪島の朝市地域を連想しました。どのように自身の過去と向き合うのか。その感情の動き。まさにグリーフケアこそが闇の中にある一筋の光だと思います」と書いていました。素晴らしい感想であり、さすがは上級グリーフケア士だと思いました。この日、彼と一緒に能登半島の被災地を回り、映画を観ることができて良かったです。

金沢紫雲閣の大谷総支配人と

 

2024年2月8日  一条真也

能登半島の最奥部へ!

一条真也です。
石川県に来ています。金沢駅前のホテルに宿泊しているのですが、今朝、寝ているベッドが揺れて目が覚めました。あわててスマホを開くと、7日午前6時8分頃、石川県の志賀町震源地とする最大震度4のやや強い地震が発生したニュースが出ていました。


ヤフーニュースより


北國新聞」2024年2月7日朝刊

 

1月1日に発生した能登半島地震による死者は240人、負傷者は計1182人となっています。安否不明者は11人で、珠洲市輪島市に集中しています。7日、わたしは金沢市から珠洲市に向かいました。わが社の施設である珠洲紫雲閣を訪問するためです。


車内のようす

いきなり大雨が・・・


能登半島に入る直前の志押SAのトイレ


ここは水が出ました!(以降は断水状態でした)

 

震災後、わたしが能登半島を訪れるのは2回目です。ブログ「能登半島へ」で紹介したように、1月10日にも行きましたが、七尾市まででした。それ以上進むことは災害車両の邪魔になるため、遠慮したのです。ちなみに七尾市能登半島の中央部、珠洲市は最奥部となります。金沢から珠洲までは最短で片道4時間、往復8時間かかります。


ここから能登半島へ!


道路が大破していました


簡易トイレを利用しました


簡易トイレの内部のようす


倒壊した家屋


倒壊した家屋


「全国からの御支援に感謝!!」「負けんぞ能登


能登半島の海


渋滞が続いていました

この日は、 金沢紫雲閣の大谷総支配人が社用車を運転してくれました。サンレー北陸の郡事業部長も一緒です。彼は能登半島志賀町にある実家に元旦に帰省していたところ被災し、実家は全壊。高齢のご両親とともに避難所で1月20日まで生活し、21日から職場に復帰したのでした。石川県の6日午後2時時点の集計によると、県内の住宅被害は5万5660戸となっています。被災地の復興を願うばかりですが、断水は現在も約3万7700戸となっています。能登半島珠洲はもちろん七尾さえもまだ水道が復旧しておらず、断水状態が続いています。トイレに行くのをなるべく控えるため、この日は朝から水分を控えました。簡易トイレは利用しましたけど。


だんだん寒くなってきました


車の上に建物の壁面が!


全壊した家屋


コンビニが1軒だけ営業していました


のと里山海道


道路が大破していました


反対車線はほぼ全滅


雪が深くなってきました


甲子園出場の日本航空高等学校石川が!


のと里山空港に到着


空港のトイレの貼り紙


のと里山空港にて

 

能登半島に入ると、いきなりの大雨でしたが、すぐ止みました。その後は晴れたり雨が降ったりの繰り返しで不安定でした。途中、道路が大破していたり、家屋が倒壊していたりといった光景をたくさん見ました。このたびの震災の甚大さを痛感します。能登半島は一本道なので、渋滞がひどかったです。途中から「のと里山海道」に入り、雪の中を走りました。甲子園出場を決めた日本航空高等学校石川の前を通って、「のと里山空港」に到着。そこで、トイレを借りました。トイレの入口に「自衛隊はトイレットペーパーを携行せよ。」という貼り紙があったのには驚きました。それにしても、こんな能登半島の最奥部の山の中に空港があるとは驚きました。かの自民党の大物政治家が作ったものと推察されます。彼は「石川県のドン」として知られていますが、それなら「大阪・関西万博」など即刻中止させて、その費用をすべて石川県の被災地の復興に充てるべきです。彼の子分である石川県知事は「万博は開催するべき」と発言したそうですが、とんでもないですね!


車内で「ちょい弁当」を食べました


「ちょい弁当」の中身


雪の中を車は行く!


広がる雪景色


目の前に倒壊家屋が・・・


1階が消えた家


倒壊したお墓がありました


ついに珠洲市に入りました!


道の駅のトイレは使えず!


簡易トイレを利用しました


珠洲には赤十字のテントが


他県から多くの応援が・・・

金沢を出発してから4時間以上経過して、13時頃に車中で「ちょい弁当」という可愛いお弁当を食べました。お茶も飲みたかったのですが、トイレに行きたくなるので我慢しました。珠洲市に近づくと、倒壊したお墓がありました。ようやく珠洲市に入ると、東京から来た赤十字社のテントをはじめ、他県からの応援の車両がたくさんありました。


珠洲紫雲閣の前で


下野支配人(右)と中川副支配人(左)と


下野支配人に誕生日プレゼントを渡す


下野支配人、誕生日おめでとう!

 

そして、ついに、わが社の珠洲紫雲閣に到着! 想像していたよりも建物の被害が少なく、看板なども無事だったので安心しました。下野支配人と中川副支配人が迎えてくれました。この日は下野支配人の54回目の誕生日だというので、「お誕生日、おめでとうございます!」の言葉を添えて、ブログ「松柏園オリジナルワインが完成!」で紹介したワインをプレゼントしました。お酒が大好きという下野支配人はとても嬉しそうでした。そのとき、「マスクを外して一緒に記念撮影しよう!」と言ったところ、彼がモジモジするので、「どうしたの?」と訊くと、「じつは髭を剃っていないんです。ずっと風呂に入れなくて・・・」と答えるではありませんか。わたしは、その言葉を聞いたとき、彼をはじめとした被災者の方々の苦労を想って涙が出てきました。見ると、彼の目も赤くなっていました。


正院町の傾いた電柱

正院町にて

正院町の倒壊した家屋

正院町の倒壊した家屋

正院町の倒壊した家屋

正院町の倒壊した家屋

正院町にて

正院町の倒壊した家屋

正院町の倒壊した家屋


1階が消えた家


目の前に屋根が!

正院町の避難所


正院町に向かって合掌しました


犠牲者の方々の御冥福を祈りました

それから、珠洲紫雲閣を出発したわたしたちは、下野支配人と中川副支配人の先導で珠洲市内でも最も震災の被害が大きかった正院町に向かいました。そこには信じられないような光景が広がっていました。見渡す限りの家々が倒壊しています。まるでゴジラに蹂躙されたような、まさに「カタストロフィー」といった光景でした。見ると、新しく建てたような家が飛び飛びにまったく損傷なく残っています。つまり、耐震基準の厳格化(1980年)以降に立てられた家は無事なのです。それ以前に建てられた家はすべて破壊された印象でした。そして、倒壊した家々の瓦礫の山の上には美しい青空が広がっていました。そう、悲しいほどお天気なのです。その後、わたしは正院町の瓦礫の山を見渡せる竹林に移動して、数珠を持って犠牲者の方々の御冥福をお祈りしました。亡くなられた方々の多くは、わが紫雲閣でお葬儀のお世話をさせていただきました。



6日、石川・珠洲市の安否不明者の捜索現場で、遺体が発見されました。珠洲市仁江町では、妻と3人の子供を亡くされた大間圭介さんの義理の両親が土砂崩れに巻き込まれたとみられていました。6日も、警察と消防およそ130人体制で捜索が続いています。現場の捜索隊によると6日午前、土砂の中から男性1人が見つかり、その場で死亡が確認されました。他にも安否不明者はいますが、1日も早くすべての方が発見されることを心より願っています。また、このたびの震災でのすべての犠牲者の方々の御冥福をお祈りいたします。そのためにも、今年、わが社は、能登半島において「月への送魂」を行いたいと思います。


この3人で行きました!

 

2024年2月7日  一条真也

ハートフル・エッセンシャルワーク

 

一条真也です。
わたしは、これまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は、「ハートフル・エッセンシャルワーク」という言葉を取り上げます。

 

 

「ブルシット・ジョブ(BSJ)」という言葉があります。「クソどうでもいい仕事」という意味です。当人もそう感じているぐらい、まったく意味がなく、有害ですらある仕事です。しかし、そうでないふりをすることが必要で、しかもそれが雇用継続の条件なのです。アメリカの文化人類学者デヴィッド・グレーバーが、著書『ブルシット・ジョブ』で提唱しましたが、そのポイントを一言でいうと、「生産する経済からケアする経済へ」です。 



グレーバーは、「なぜ、やりがいを感じずに働くひとが多いのか。なぜ、ムダで無意味な仕事が増えているのか。なぜ、社会のためになる職業ほど給与が低いのか」と読者に問いかけ、「労働とは『生産』というより『ケア』だ。そして『経済』とは私たちが互いにケアし、生存を支えあうための方法だ。グレーバーが遺した願いを胸に、仕事で傷つき傷つけることのない経済につくり直そう」と訴えます。BSJは、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態です。その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと気づいていることも多いです。グレーバーは、「わたしたちの社会では、はっきりと他者に寄与する仕事であればあるほど、対価はより少なくなるという原則が存在するようである」と述べます。 



さらには、読者に「ある職種の人間すべてがすっかり消えてしまったらいったいどうなるだろうか、と問うてみること」を薦めています。もし仮に看護師やゴミ収集人、あるいは整備工の方々が消えてしまったら社会は壊滅的になりますし、教師や港湾労働者の方々のいない世の中はただちにトラブルだらけになるでしょう。一方、企業の株の売り買いで収益を得るCEOやロビイスト、広報調査員、保険数理士、テレマーケター、裁判所の廷吏、リーガル・コンサルタントが消えた場合はどうなるか? グレーバーによれば、人々は何ら困らないといいます。

© 一条真也

 

看護師、バス運転手、歯科医、道路清掃員、農家、音楽教師、修理工、庭師、消防士、舞台美術、配管工、ジャーナリスト、保安検査員、ミュージシャン、仕立屋、子どもの登下校の交通指導員といった人々のうち、「あなたの仕事は世の中に意味のある影響を与えていますか」という質問に対し、「いいえ」と答える者は、およそゼロです。


© 一条真也

 

グレーバーは、「労働とは、槌で叩いたり、掘削したり、滑車を巻き上げたり、刈り取ったりする以上に、ひとの世話をする、ひとの欲求や必要に配慮する、上司の望むことや考えていることを説明する、確認する、予想することである」と述べます。これらの仕事を「ケアリング労働」といいます。ケアリング労働は、一般的に他者にむけられた労働とみなされており、そこにはつねにある種の解釈労働や共感、理解がふくまれています。それは仕事などではなく、たんなる生活、まっとうな生活にすぎないということも、ある程度は可能です。


© 一条真也

 

トイレの清掃を例に挙げると、トイレというものは清掃を必要としています。だとすれば、その仕事にあたる人は、その仕事が他者に利する行為だと自覚することによってもたらされる自尊心をもっています。他方で、他人から尊敬と敬意の払われる仕事をする人たちがいます。その仕事に就いた人間は、高い収入を得て、大きな利益を受け取っています。しかし内心では、みずからの職業や仕事がまったく無益なものだと自覚しながら労働しているのかもしれません。まことに悲しいことです。

© 一条真也

 

「ブルシット・ジョブ」の反対が「エッセンシャルワーク」という言葉です。これには、医療・介護などをはじめ、社会に必要な仕事のことですが、トイレの清掃も含まれます。わたしは、エッセンシャルワークに冠婚葬祭業も含まれると考えています。しかも、冠婚葬祭業は他者に与える精神的満足も、自らが得る精神的満足も大きいものであり、いわば「心のエッセンシャルワーク」、すなわち「ハートフル・エッセンシャルワーク」と呼ばれます。そして、それは「ケアワーク」そのものでもあるのです。


© 一条真也

 

2024年2月6日  一条真也

死を乗り越えるエディット・ピアフの言葉

 

愛が私の朝を満たすなら
私の体が
あなたの手の下で震えるなら、

苦労なんてなんでもないの、
私の愛する人よ だってあなたが
私を愛してくれるんだもの
エディット・ピアフ

 

一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言はフランスのシャンソン歌手エディット・ピアフ(1915年~1963年)の言葉です。彼女はフランスで現在でも最も愛されている歌手の1人であり、国民的象徴でした。



冒頭の言葉は、エディット・ピアフの代表作「愛の賛歌」の歌詞の一部です。彼女自身が作詞したこの歌は、彼女の言葉といって問題ないでしょう。わたしは歌にはグリーフケア(悲嘆の癒し)の力があると思います。歌うこと、歌を聴くこと、そして歌を詠むこと。人間にとってこれはごく自然な行為であり、それによって人は悲しみを乗り越えられるのではないでしょうか。



ピアフの代表作である「愛の賛歌」は、プロ・ボクシングの世界チャンピオンだったマルセル・セルダンとの恋が生みだしました。1949年、ニューヨークで公演中だったピアフに会うために乗ったマルセルの飛行機が、大西洋上に墜落しました。わずか1年の短い恋は、マルセルの突然の死により、悲劇の結末を迎えたのです。悲嘆にくれた彼女はこの歌を歌うことで、深い悲しみから立ち直ったといいます。



ピアフは48歳という若さでこの世を去ります。彼女の葬式には4万人もの人が集まりました。パリ中の商店が彼女に弔意を表して店を閉めたといわれています。葬儀の最中には、パリ市内の交通が全面ストップしたそうです。愛に生き、愛をうたった彼女の言葉から、わたしたちにも勇気を与えてくれます。なお、このココ・シャネルの名言は、死を乗り越える名言ガイド(現代書林)に掲載されています。

 

 

2024年2月6日  一条真也

義援金贈呈式

一条真也です。
金沢に来ています。ブログ「如月の北陸へ」で紹介したように、小松空港到着後に昼食を済ませた後、サンレー北陸の本部会議に参加するため、金沢紫雲閣へ向かいました。

金沢紫雲閣の入口で


大谷総支配人と再会しました

 

金沢紫雲閣に到着すると、入口のところに大谷総支配人が立っていました。彼は能登半島志賀町にある実家に元旦に帰省していたところ被災し、実家は全壊。高齢のご両親とともに避難所で1月20日まで生活し、21日から職場に復帰したのでした。震災後、わたしは初めて彼に会いました。わたしたちは再会を喜び、お互いに命あることを感謝しました。彼と話したいことはたくさんあるので、ゆっくり語り合いたいと思います。このブログを読んだ北九州本部の執行役員、青木部長、市原部長をはじめとした多くの社員から「大谷総支配人の元気な顔が見れて嬉しいです」とのLINEメッセージが届きました。

義援金の贈呈式を行いました

どうぞ、大切にお使い下さい!

 

その後、サンレー北陸の本部会議が開かれました。冒頭、サンレーグループの社員のみなさんから預かった震災の義援金郡事業部長に渡しました。わたしは、「みなさんからの心が込められた義援金です。ここには、多くの方々のコンパッションが詰まっています。どうぞ、被災者の方々のために大切にお使い下さい」と言いました。郡事業部長は「ありがとうございます。謹んで頂戴いたします」と述べました。このブログ記事を読んだ北九州本部の山下取締役は「サンレーグループの結束の強さを感じる事ができました。共に励んだ仲間達の言葉にも感動しました。宝物のような仲間達と今後も共に働けることを、改めて尊い事だと感じています。ありがとうございます!」、執行役員は「社員の義援金ですが、営業所の所員さんからの数多くの義援金にわたくし自身も感銘しました。これからも可能な限り北陸本部を応援して行きたいと改めて感じます」とLINEに書いてくれました。


贈る方も贈られる方も互いに礼!

 

また、北陸本部の営業責任者の小谷部長からは「本日はサンレーグループ社員からのコンパッションが詰まった義援金まことにありがとうございました。被災された社員やその関係者はサンレーで働いていてよかったと感謝されることと思います。まだ復興には時間がかかりますが地震に負けず募集活動を頑張ります」、SM(メンバーズ・サービス)責任者の中山所長からは「この度は義援金、誠にありがとうございます。厚くお礼申し上げます。義援金からも互助共生社会のスローガンである『喜びも悲しみも、ともに分かち合う社会へ』の世界観を感じることができます」、冠婚責任者の山岸支配人からは「義援金、誠にありがとうございました。グループの仲間からの心が込もった想いに胸が熱くなり、目頭も熱くなりました。感謝の気持ちで一杯です。仕事に誇りを持って、縁を絶やすことのないような施行を行い続けます」、経理責任者の三輪部長からは「本日は佐久間社長をはじめグループの方々から義援金を頂き、誠にありがとうございます。900名超の方々のコンパッションに震災で落ち込んだ気持ちが癒されます。サンレーグループはコンパッション企業だと強く感じました。被災された方に早くお渡しして、お役に立てて頂きたいと思います。本当にありがとうございました」とのLINEメッセージが届きました。


郡事業部長と

 

さらに、不動産責任者の橋谷室長からは「今回は佐久間社長をはじめグループの方々からの多くの義援金には、北陸本部社員として大変ありがたく、感動いたしました。震災後の今こそサンレー社員として月あかりの会、冠婚葬祭の意義を広めるべく注力して参ります。ありがとうございます」とのLINEメッセージが届きました。そして、総務責任者の伊藤課長からは「社長、能登半島地震の発生後、今回で三回目の石川県入りですね! お忙しいのに、本当にありがとうございます。正直、社長は毎日のようにブログに、能登半島地震の被災者の悲しい思いを綴って頂いております。また社長は、直接石川に何回も足を運んで頂いていることが、私に取りまして、いや北陸の全従業員にとりまして、何より、一番の『活力』となっております。本当にありがとうございます。そして、本日の義援金の贈呈式、本当に有り難く、サンレーグループの皆様のあたたかい気持ちに触れさせて頂きました。わたしは、感謝の思いでいっぱいであり、そして本当に感動しております」とのLINEメッセージが届きました。これからも、可能な限り、サンレーグループは被災者の方々に寄り添っていきたいと思っております。


被災者代表の大谷総支配人、郡事業部長と

 

2024年2月6日 一条真也