一条真也です。
たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。今回の「こころの一字」は、「表」です。


リーダーには表現力が求められます。かのユリウス・カエサルは豊かな表現力の持ち主でした。「ローマは一日にしてならず」や「すべての道はローマに通ず」など、ローマ関連の名言は少なくありませんが、カエサル自身も多くの名言を残しています。いわく、ルビコン河をわたる時の「賽は投げられた」とか、元老院に戦闘を報告する最初の言葉である「来た、見た、勝った」とか、暗殺時の「ブルータス、お前もか」などです。カエサルにはコピーライターの才能があったとしか思ええません。経営学者のピーター・ドラッカーが「政治家、経営者を問わず、リーダーとは、言葉によって人々を操る者である」と語っていますが、その代表格こそカエサルです。


当世随一のスピーチの名手として知られる日本電産永守重信氏は、相手に合わせて表現することが重要だと言います。話の内容、表現方法、話す時の態度も変えていく必要があります。内容については、相手のキャリアに応じて次のようにアレンジするそうです。まず、一般社員には危機意識30%、夢やロマン70%。主任クラスには危機意識50%、夢やロマン50%。部課長クラスには危機意識70%、夢やロマン30%。そして役員クラスには危機意識90%、夢やロマン10%という具合です。

 

 

一般社員向けには危機感をあおるような内容はできるだけ避けて、夢の持てるテーマを中心に話を進めていきます。表現もわかりやすい言葉を選んで、笑顔も絶やしません。表現とともに表情が重要です。『孫子』に「軍に将たるの事は、静にして以って幽なり」とあります。軍を率いる時の心構え、つまりリーダーの心構えは静であり幽であれ、と言っているのです。幽とは、計り知れないほど奥が深いという意味です。わかりやすく言うと、味方がピンチに陥った時に動揺を顔に表わすようでは、リーダーの資格はありません。組織がピンチになれば、部下は真っ先にリーダーの顔色をうかがいます。そんなとき、リーダーがあたふたと動き回ったり、緊張しすぎたりすれば、部下はいっそう動揺します。常に冷静沈着であってこそ、部下の信頼は得られるのです。 


リーダーに最もふさわしい表情とは、笑顔を置いて他にありません。笑顔のもとに人は集まります。笑顔など見せる気にならない時は、無理にでも笑ってみることです。アメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズが言うように、動作は感情に従って起こるように見えますが、実際は、動作と感情は平行するもの。彼は、「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」という有名な言葉を遺しています。ですから、快活さを失った場合は、いかにも快活そうにふるまうことが、それを取り戻す最高の方法なのです。なお、「表」については、『龍馬とカエサル』(三五館)に詳しく書きました。

 

 

2022年9月20日 一条真也

エリザベス女王の国葬

一条真也です。
19日、史上最強クラスの台風14号が日本列島を襲っていますが、イギリスではエリザベス女王国葬がロンドンのウェストミンスター寺院で行われました。女王は8日、滞在先のスコットランドのバルモラル城で死去。96歳でした。在位期間は英国史上最長の70年でした。

 

エリザベス女王国葬には、天皇・皇后両陛下も参列されました。両陛下は日本時間の17日午前に政府専用機羽田空港から出発。羽田空港では白色のマスク姿でしたが、ロンドンに到着した際、マスクは黒色に変わっていました。黒色マスクについて宮内庁関係者は「英女王の夫フィリップ殿下の葬儀を参考にしたのでは」と推測しました。


毎日新聞」より

 

フィリップ殿下が亡くなられたのは2021年4月でしたが、そのときの葬儀では参列者は黒色マスクをしていました。一方、白色マスクは海外では「病人」のイメージが強いことに配慮したとの声もありました。エリザベス女王国葬には、両陛下はマスクをせずに参列されました。新型コロナウイルス対策を徹底するため、国内での行事などには必ずマスクをつけて参加するのがこれまでの陛下のスタイルでしたが、英国ではすでに「ノーマスク」が定着し、他の参列者もマスクを着用しないことが想定されたため、今回の判断となったようですね。



国葬」といえば、27日に日本武道館で行われる安倍晋三元首相の国葬について多方面から意見を求められています。わたしを儀式や葬儀の専門家だと思ってのことでしょうが、安倍元首相の国葬に関しては政治的側面が強すぎるため、コメントを差し控えています。「毎日新聞」が19日に配信した「エリザベス女王と安倍元首相の国葬 受け止め方の違い、どこから?」という記事では、毎日新聞社記者の大野友嘉子氏が、反対が多い安倍元首相の国葬と、大きな反発は見えないエリザベス女王国葬の受け止められ方の違いなどについて識者に聞いています。


大野氏は、「英国の国葬は法律ではなく慣習に基づいている。英下院図書館の資料によると、基本的に国王に限られるが、国王の命令やその資金を提供する議会の投票によって「例外的に著名な人物に(対象を)広げられる」としている。国王以外に国葬で送られた人には、チャーチル元英首相や科学者のニュートンなどがいる。過去には、国葬になりうる人物に生前、国葬を受けたいかどうか尋ねることがあったという。例えば、チャーチル元首相には1965年に亡くなる5年ほど前に、女王と当時の首相から亡くなった際には国葬を受けてほしいとの打診があったという」と書いています。


イギリスでは、国葬を望まなかった政治家もいました。19世紀のディズレーリ元首相は打診を断り、サッチャー元首相は自身の国葬について「適切ではない」と話していたそうです。国葬の費用は国が負担し、議会によって承認される。チャーチル元首相の国葬には4万8000ポンド(当時の約4838万円)かかったと報じられました。大野氏は、「ちなみにサッチャー元首相は、国葬に準じる『儀礼葬』で送られた。国王以外の王室メンバーや首相経験者らは、この儀礼葬が行われることが多い。ダイアナ元皇太子妃や、エリザベス女王の夫のフィリップ殿下も同様だ。儀礼葬は、議会の承認の必要はない」と述べます。


サッチャー元首相の葬儀が「国葬」ではなく「儀礼葬」であったとは改めて知りましたが、これには膝を打ちました。というのも、わたしは「国葬」とは天皇や国王のためのものであり、首相経験者といえども民間人の場合は「国葬」というのはどうもピンとこないからです。ブログ「不敬といふ事」にも書きましたが、自民党から誕生した総理大臣は戦後も皇室への敬意を忘れていませんでしたが、どうも安倍元首相のときからそれが薄れたように思えてなりません。わたしは、「東日本大震災追悼祈念式典」や例の「桜を見る会」にも参加しましたが、安倍首相のふるまいはまるで天皇のようでした。そもそも、「桜を見る会」などは、完全に天皇陛下園遊会を模した「園遊会ごっこ」だと感じました。そこにあるのは「天皇より自分の方が上だ」という不遜にして傲慢な意識であり、それは後任の菅首相にも受け継がれ、2021年の東京五輪開会式での失態につながったように思います。

 

 

エリザベス女王の荘厳な国葬をNHKの生中継で観ながら、わたしは『死の儀礼』ピーター・メトカーフ&リチャード・ハンティントン著、池上良正&池上冨美子訳(未来社)という本の内容を思い出しました。同書には、「葬送習俗の人類学的研究」というサブタイトルがついています。1991年に刊行されていますが、過去の人類学者の古典的研究から古代エジプト、中世末期以降のヨーロッパ、現代アメリカなどの事例を通して、人類学の立場から葬送儀礼に関する一般理論の構築を図った意欲作です。第六章「死せる王」の冒頭には「死には、ある逆説がつきまとう。一方で、死は偉大なる平等主義者であり、だれもが有限な存在であることの印である」として、イギリスが生んだ偉大な劇作家であるシェイクスピアの『ハムレット』の一節が紹介されます。



アレキサンダーが死ぬ、

アレキサンダーが埋葬される、   

アレキサンダーが塵にかえる。

塵は土だ。土から粘土を作る。   

そこだよ、アレキサンダーの身体でできた粘土で、   

酒樽の栓を作るかもしれぬ。   

皇帝シーザー死して土にかえり   

孔をふさぎて風をさえぎる。   

あわれ、世界を震撼せし土は   

壁と化して冬の烈風を防ぐ!

(『ハムレット』第5幕、第1場、小津次郎訳)

 

NHKニュースより

 

また『死の儀礼』には、「王の死の儀礼」について、「多くの場合、王が死ぬと、まず儀礼的活動の微動があり、やがてそれは最高潮に達して、後継者の戴冠式さえ見劣りするほどの国家的な威厳が誇示される。 王の死の儀礼は、多くの人が関心を寄せる政治劇の一部であるがゆえに、特別なものである。特に、国家が君主によって体現されている王国では、王の葬式は遠大な政治的、宇宙論的意味合いをもって語りつがれる催しであった。王の死は、しばしば諸価値を統合する強力な儀礼的表象を始動させるが、それはエルツの言葉を借りれば、『まさしくその生命原理に突然介入してきた』社会への打撃を相殺するために考案されたのである。さらに国民にとっては、英雄としての王が出会う死は、万民の終焉の元型である」と書かれています。これを読んで、やはり日本の元首相の場合は「国葬」ではなく、サッチャー元英国首相のように「儀礼葬」がふさわしいのではないかと思えてきました。

NHKニュースより

 

それにしても、エリザベス女王国葬は非常に荘厳です。儀式空間としてのウェストミンスター寺院も神聖な雰囲気に満ちています。エリザベス女王は、自身の結婚式も戴冠式もこの寺院で行いました。一般的な日本人は、結婚式は教会や神社や結婚式場で、葬儀は寺院やセレモニーホールで行いますが、人生の節目となるセレモニーをすべて同じ場所で行うというのは本当に素晴らしい! エリザベス女王国葬を見ていると、女王の偉大な人生を彩った儀式である結婚式も戴冠式国葬も、すべては新しいステージへと進む通過儀礼であることがよくわかります。

NHKニュースより

 

エリザベス女王は、イギリス国民の3分の1の人々に会われていたそうです。多くの国民が女王の死を悼んでいる様子がよく伝わってきます。21世紀になって20年以上が過ぎても、このような盛大な葬儀が行われることに、感動すら覚えます。わたしは、人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。約7万年前に、ネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルからヒトへと進化しました。


エリザベス女王の葬列(EPA時事より)

 

その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行いました。つまり「死」ではなく「葬」こそ、われわれの営為のおおもとなのです。葬儀は人類の存在基盤です。葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。この国葬は、女王の死を悼む英王室の方々や英国民の魂にも大きなエネルギーを与えてくれることでしょう。最後に、エリザベス女王陛下のご逝去に際し、謹んで哀悼の誠を捧げさせていただきます。



2021年9月19日 一条真也

『ハートフル・ブックス PartⅣ』

一条真也です。
わたしは、これまで多くのブックレットを刊行してきましたが、一条真也ではなく、本名の佐久間庸和として出しています。いつの間にか44冊になっていました。それらの一覧は現在、一条真也オフィシャル・サイト「ハートフルムーン」の中にある「佐久間庸和著書」で見ることができます。整理の意味をかねて、これまでのブックレットを振り返っていきたいと思います。 


『ハートフル・ブックス PartⅣ』
(2016年4月刊行)

 

今回ご紹介する『ハートフル・ブックス PartⅣ』は、2016年4月1日に刊行したブックレットです。「サンデー新聞」2013年3月2日号〜2014年12月6日号に連載した書評エッセイをまとめたものです。全部で20冊を取り上げ、目次は以下のようになっています。

 

パイの物語』上・下巻
 ヤン・マーテル唐沢則幸訳(竹書房文庫)
背負い続ける力山下泰裕著(新潮新書
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
 村上春樹著(文藝春秋
楽園のカンヴァス原田マハ著(新潮社)
ぼくがいま、死について思うこと椎名誠著(新潮社)
ミャンマーで尼になりました
 天野和公著(イースト・プレス
「助けて」と言える国へ―人と社会をつなぐ
 奥田知志・茂木健一郎著(集英社新書
七帝柔道記増田俊也著(角川書店
負けかたの極意野村克也著(講談社
トラウマ恋愛映画入門町山智浩著(集英社
小さいおうち中島京子著(文春文庫)
老人漂流社会
 NHKスペシャル取材班(主婦と生活社
ウォルト・ディズニー 夢を叶える言葉
  ウォルト・ディズニー・ジャパン監修(主婦の友社
トム・クルーズ キャリア、人生、学ぶ力
南波克行編著(フィルムアート社)
心との戦い方ヒクソン・グレイシー著(新潮社)
花のベッドでひるねして
 よしもとばなな著(毎日新聞社
かもめのジョナサン完成版
リチャード・バック五木寛之創訳(新潮社)
人間尊重の「かたち」』佐久間進著 (PHP研究所)
希望の格闘技中井祐樹著(イースト・プレス
生涯現役の知的生活術渡部昇一ほか著(育鵬社


心を太らせる「ごちそう」メニュー

 

読書の最大の目的とは、心をゆたかにすることにあります。
このブックレットでは、心をゆたかにしてくれる素敵な本たちを紹介しました。
よい本は心のごちそうです。体はスリムな方が健康によいですが、心には栄養をたっぷり与えたいものです。この春、どんどん本を読んで心を太らせてみませんか?


基本的に、見開き2ページで1冊を紹介

 

2022年9月18日 一条真也

台風の中の「敬老の日」

一条真也です。
19日は「敬老の日」ですね。本当は、娘夫婦と一緒に実家の両親を訪ねようかと思っていましたが、史上最強クラスの台風14号が九州に上陸するというので止めました。
昭和10年生まれの父は、来年で「米寿」を迎えます。昭和38年生まれのわたしは、来年で「還暦」を迎えます。父子で長寿の祝いとは、まことに有難いことです。

 

人は長寿祝いで自らの「老い」を祝われるとき、祝ってくれる人々への感謝の心とともに、いずれ一個の生物として自分は必ず死ぬのだという運命を受け入れる覚悟を持つ。
また、翁となった自分は、死後、ついに神となって愛する子孫たちを守っていくのだという覚悟を持つ。祝宴のなごやかな空気のなかで、高齢者にそういった覚悟を自然に与える力が、長寿祝いにはあるのです。そういった意味で、長寿祝いとは生前葬でもあります。冠婚葬祭業界の中にあっても、特にわが社は、これまで長寿祝いに力を入れてきました。わたしは、この長寿祝いという、「老い」から「死」へ向かう人間を励まし続ける心ゆたかな文化を、ぜひ世界中に発信したいと思っています。

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「読売新聞オンライン」より

「人は老いるほど豊かになる」といえば、拙著『老福論〜人は老いるほど豊かになる』(成甲書房)が旅行誌の名門「旅行読売」2021年10月号で紹介されました。同誌に掲載された「【コラム/旅へ。】日本地図を作った伊能忠敬」という三沢明彦氏の文章の中に、「帰りの車中、老いの指南書をめくると、歴史に名を遺した賢人たちも揺れていた。哲学者プラトンは『経験知を生かせ』と温かいが、アリストテレスは『自己中心的になり、早く引退せよ』と厳しい。迷いが深まる中で、こんな言葉に目が留まった。『老人は孤独なのではなく、毅然としている。無力なのではなく、穏やか。頭の回転が鈍いのではなく、思慮深いのだ』(一条真也老福論』より)。そう置き換えてもらえば、少しは前向きになれる。老いと向き合い、つまらないプライドから自由になれば、険しい山は無理でも、なだらかな丘ぐらいは、とも思えてくる」とあります。

老福論』(成甲書房)

 

「老い」というものを陽にとらえた『老福論』の言葉を紹介していただき嬉しい限りですが、何よりもプラトンアリストテレスの言葉と一緒に紹介されたことに驚きました。なんだか世界三大哲学者の一人になったような気分で、まことに愉快であります。(笑)みなさんも、「敬老の日」には御両親やおじいちゃん、おばあちゃんを訪ねてあげて下さい。新型コロナウイルスの感染が怖い場合は、ぜひ電話を掛けてあげて下さい。メールやLINEもいいですが、やはり子や孫の声を聴くのは嬉しいものですよ。



2022年9月19日 一条真也

『儀式論』

一条真也です。
85冊目の「一条真也による一条本」紹介は、『儀式論』(弘文堂)。発行日は2016年11月18日です。

儀式論』(弘文堂)

 

儀式論』は、合計600ページ、総クロス貼り、金銀箔押し、ケース入りです。『唯葬論』(三五館)がここまでの集大成的作品なら、この『儀式論』はここからの新しい出発の書だと思いました。そして、わが「世直し」の書です。ケースにも、クロス貼りの本体にも、日輪と月輪のシンボル・マークが箔押しされています。これは、大正時代の伝説的出版物である『世界聖典全集』のデザインを参考にしました。おかげで、なんともいえぬ威厳ある装丁となりました。ケースの帯には「人間が人間であるために儀式はある!」と大書され、続けて「儀式とは何か? 有史以来の大いなる謎に挑む、知の大冒険! 儀式が人類存続のための文化装置であることを解明し、儀式軽視の風潮に警鐘を鳴らす、渾身の書き下ろし!」と書かれています。


本書の帯

 

アマゾン「内容紹介」には、「『儀式とはなにか』を突き詰めた渾身の大著! 人間が人間であるために儀式はある!」として、以下のように書かれています。
「結婚式、葬儀といった人生の二大儀礼から、成人式、入学式、卒業式、入社式といった通過儀礼、さらには神話や祭り、オリンピックの開閉会式から相撲まで、あらゆる儀式・儀礼についての文献を渉猟した著者が、『儀式とはなにか』をテーマ別に論究。『人類は生存し続けるために儀式を必要とした』という壮大なスケールの仮説の下、知的でスリリングな儀式有用論が展開します。古今の名著を堪能しながら儀式の本質に迫ると同時に、現代日本を蔽う『儀式不要』の風潮が文化的危機であることを論証する大部の書き下ろしです」


本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。
はじめに「なぜ儀式が必要なのか」
第1章 儀礼と儀式
儀礼と儀式の違い
儀礼とは何か
通過儀礼
儀礼の過程
言語としての儀礼
イニシエーション
儀礼文化とは何か
第2章 神話と儀式
謎への対応と生命のエコロジー
神話と祭儀
神話と儀礼
神話と古代宗教
人類学と神話
神話と夢想と秘儀
イニシエーションの元型
第3章 祭祀と儀式
「まつり」とは何か
日本の祭り
祭りの発生
祭りの構造と儀礼
祭りと儀礼の宗教学
バタイユとカイヨワ
第4章 呪術と儀式
タイラーの『原始文化』
フレイザーの『金枝篇
レヴィ=ブリュルとマリノフスキ
呪術と宗教の違い
トーテムとタブー
アニミズムとは何か
第5章 宗教と儀式
宗教の起源
儀礼的生活
一神教の「神」をめぐって
聖なるもの
ユング心理学と宗教
古代の密儀
宗教の根本としての儀礼
第6章 芸術と儀式
芸術の起源
古代中国における音楽
古代芸術と祭式
演劇と儀式
茶道と中国文化
第7章 芸能と儀式
芸能の発生
「うた」という儀礼文化
能と仮面劇
人を不死にする芸能
神事としての相撲
相撲の宇宙論
第8章 時間と儀式
月と永遠
人間と時間
時間のリセットとしての儀礼
日本人における時間感覚
日本における時間と儀式の関係性
儀式とライフスタイル
第9章 空間と儀式
空間の本質
聖なる空間
祭祀空間・儀礼空間
仁徳天皇陵と古墳のまつり
古代の祭祀空間
祭祀空間の構造
沖縄文化論と聖地感覚
洞窟および洞窟的空間
社殿と儀式空間
第10章 日本と儀式
宗教と日本人
神道儒教
仏教と儒教
日本人と結婚式
日本人と葬儀
冠婚葬祭互助会の誕生と発展
第11章 世界と儀式
儀式としてのオリンピック
儀式・政治・権力
革命祭典から記念式典へ
キリスト教のプレゼンテーション
ナチスに見る儀式力
ディズニーランドと月の宮殿
世界の宗教と月信仰
第12章 社会と儀式
心の社会
古代都市の儀式
儀式こそ宗教である
儀式の社会的機能
儀式の重要性
宇宙の秩序としての「礼」
会社と儀式
第13章 家族と儀式
「家」という宗教集団
古代の家族宗教
古代ギリシャと日本の婚礼
礼記』の家族論
孟子が説いた「人の道」
へーゲルが説いた「埋葬の倫理」
年中行事と冠婚葬祭
家族葬について考える
小津映画と冠婚葬祭
第14章 人間と儀式
儀式的動物あるいはホモ・フューネラル
シンボリック・システム
儀式の心理的機能
魂のコントロール
感情の共同体
「聖なるもの」とのアクセス
孔子ブッダのコラボとしての「慈礼」
おわりに「儀式文化の継承と創新のために」
「儀式讚」
「参考文献一覧」

儀式論』(弘文堂)のチラシ

 

本書では、儀式の存在意義について考えました。儀式と聞いて多くの人は、結婚式と葬儀という人生の二大儀礼を思い浮かべるのではないでしょうか。結婚式ならびに葬儀の形式は、国によって、また民族によって著しい差異があります。これは世界各国のセレモニーには、その国で長年培われた宗教的伝統や民族的慣習などが反映しているからです。儀式の根底には「民族的よりどころ」があるのです。


函入りです!

 

日本には、茶の湯・生け花・能・歌舞伎・相撲といった、さまざまな伝統文化があります。それらの根幹にはいずれも「儀式」というものが厳然として存在します。すなわち、儀式なくして文化はありえないのです。儀式とは「文化の核」と言えるでしょう。そもそも、哲学者のウィトゲンシュタインが述べたように人間とは「儀式的動物」なのです。儀式は、地域や民族や国家や宗教を超えて、あらゆる人類が、あらゆる時代において行ってきた文化です。


本書の函と本体

 

しかし、いま、日本では冠婚葬祭を中心に儀式が軽んじられています。そして、日本という国がドロドロに溶けだしている感があります。日本人の儀式軽視は加速する一方です。「儀式ほど大切なものはない」と確信しているわたしも、この現状を憂うあまりに、「自分の考えがおかしいのか」と悩むこともありました。そして、あえて儀式必要論という立場ではなく、「儀式など本当はなくてもいいのではないか」という疑問を抱きながら、儀式について考えていこうと思い至ったのです。


本体の表紙(総クロス貼り)

 

そのために、儀式に関連した諸学、社会学、宗教学、民俗学文化人類学、心理学などの文献を渉猟して書いたのが『儀式論』です。大上段に「儀式とは何ぞや」と構えるよりも、さまざまな角度から「儀式」という謎の物体に複数の光線を浴びせ、その実体を立体的に浮かび上がらせるように努めました。結果、全部で14の章立てとなりました。


表紙の表には日輪の金箔が・・・・・・

 

第1章「儀礼と儀式」では、よく似た言葉である儀礼と儀式の違いについて考察し、民俗学者文化人類学者を中心とする先人たちの儀礼研究の歩みを追いました。第2章「神話と儀式」では、人類は神話と儀式を必要とし、両者は古代の祭儀において一致したことを明らかにしました。第3章「祭祀と儀式」では、日本語の「まつり」の意味について確認し、祭祀は儀式によって神と人、人と人とのつながりを強化することを示しました。第4章「呪術と儀式」では、儀式について考える上で呪術の問題を避けることはできず、呪術を支配している原理は「観念の万能」であることを明らかにしました。


表紙の裏には月輪の銀箔が・・・・・・

 

第5章「宗教と儀式」では、宗教とは「聖なるもの」との交流であり、「聖なるもの」と会話をする言語が儀式であると述べました。第6章「芸術と儀式」では、芸術は古代の祭式という儀式から生まれ、音楽や演劇や茶道の本質について述べました。第7章「芸能と儀式」では、芸能は儀式によって成り立っており、歌謡や歌舞伎や能や相撲の本質について述べました。第8章「時間と儀式」では、儀式とは世界における時間の初期設定であり、時間を区切ること。それは時間を肯定することであり、ひいては人生を肯定することなのです。さまざまな儀式がなければ、人間は時間も人生も認識することはできないであろうと主張。第9章「空間と儀式」では、祭祀空間や儀礼空間や聖地について考察し、洞窟から儀式が生まれたと論じました。


金は太陽、銀は月

 

第10章「日本と儀式」では、日本の宗教の本質が神道、仏教、儒教からなるハイブリッド宗教であることを述べ、結婚式や葬儀の歴史をたどりました。第11章「世界と儀式」では、オリンピックやキリスト教ナチス、ディズニーランドといった地球規模の文化と、その伝播に深い影響を与えた儀式との関連を追いました。第12章「社会と儀式」では、儀式には人々の精神的つながりを強め、秩序を維持する社会的機能があると論じました。第13章「家族と儀式」では、家族とは本来が迷惑をかけ合う関係であり、儀式を行うことは面倒なゆえに意味があると論じました。第14章「人間と儀式」では、儀式の心理的機能を考察し、儀式的動物としての人間の本質を論じました。


函の天にも『儀式論』 

 

わたしは、日本人のみならず、人類の未来のために本書を書きました。人類のさまざまな謎は、儀式という営みの中にすべて隠されています。本書を読んで、儀式という営みが個人にとって、日本人にとって、人類にとって、必要であるか、それとも不要であるか。その結論は、読者の判断に委ねます。14章にわたり、さまざまな角度から儀式について見ましたが、やはり人類にとって儀式は必要不可欠であると思わざるをえません。わたしたちは、いつから人間になったのか。そして、いつまで人間でいられるのか。その答えは、すべて儀式という営みの中にあるのです。


函の底にも『儀式論

 

わたしは、冠婚葬祭互助会を経営し、本書の出版当時は全国団体の会長も務めていました。このとき、日本人に広く儀式を提供する冠婚葬祭互助会の社会的役割と使命が問われていました。互助会というビジネスモデルが大きな過渡期にさしかかっていることは事実でしょう。その上で、わたしは、互助会の役割とは「良い人間関係づくりのお手伝いをすること」、そして使命とは「冠婚葬祭サービスの提供によって、たくさんの見えない縁を可視化すること」に尽きると考えます。そして、「縁って有難いなあ。家族って良いなあ」と思っていただくには、わたしたちのような冠婚葬祭業者が参列者に心からの感動を与えられる素晴らしい結婚式や葬儀を提供していくことが最も重要です。


中外日報」2016年12月9日号

 

互助会が儀式をしっかりと提供し、さらには「隣人祭り」などの新しい社会的価値を創造するイノベーションに取り組めば、無縁社会を克服することもできるはずです。「豊かな人間関係」こそは冠婚葬祭事業のインフラであり、互助会は「有縁社会」を再構築する力を持っているのです。これからの時代、互助会の持つ社会的使命はますます大きくなると確信します。


神社新報」第3339号

「月刊フューネラルビジネス」2017年5月号

 

人間は神話と儀式を必要としています。
社会と人生が合理性のみになれば、人間の心は悲鳴を上げてしまうでしょう。結婚式も葬儀も、人類の普遍的文化です。子孫の繁栄を予祝する結婚という慶事には結婚式という儀式によって、すべての人間に訪れる死亡という弔事には葬儀という儀式によって、喜怒哀楽の感情を周囲の人々と分かち合います。この習慣は、人種・民族・宗教を超えて、太古から現在に至るまで行われています。この二大セレモニーはさらに、未来においても継承されると予想される「不滅の儀式」であり、人類が存続する限り永遠に行われることでしょう。


週刊読書人」2017年1月20日号

 

しかし、結婚式ならびに葬儀のスタイルは、国により、あるいは民族や宗教によって、きわめて著しい差異があります。それは世界各国のセレモニーというものが、人々の心の支えともいうべき「民族的よりどころ」となって反映しているからです。結婚式や葬儀をはじめとした人生儀礼を総合的に提供する冠婚葬祭互助会の最大の使命とは何か。それは、日本の儀式文化を継承し、「日本的よりどころ」を守る、すなわち日本人の精神そのものを守ること、さらには日本人を幸福にする儀式を新たに創造することです。


「月刊 仏事」2017年4月号

 

その意味で、冠婚葬祭互助会の全国団体とは、茶の湯・生け花・能・歌舞伎・相撲などの日本の伝統文化を継承する諸団体と同じ役割、いや、儀式というさらに「文化の核」ともいえる重要なものを継承するという点において、それ以上の役割を担っていると考えます。これからも、日本人を幸福にするために、わたしは儀式文化の継承と創新に努めていきたいです。


巻末の「儀式讃」

 

本書の巻末には、わたしの儀式への想いを「儀式讃」としてまとめました。これは『古今和歌集』で紀貫之が和歌への想いを綴った「仮名序」をイメージして作成しました。本当は「儀式序」として巻頭に置こうかとも考えましたが、それだと14章にわたる論考の意味がなくなると思い、巻末に「儀式讃」として掲載した次第です。


儀式に対する想いをまとめました

 

わたしは本書を何かに取り憑かれたように一気に書き上げました。わたしの心中には「俺が書かねば誰が書く」という大いなる使命感がありました。不遜を承知で言えば、わたしは、ダーウィンの『種の起源』やマルクスの『資本論』のような人類社会に多大な影響を与える本をイメージしながら、『儀式論』を書き上げました。ドン・キホーテのような心境で書きました。

人類社会に多大な影響を与える本をイメージしました

 

本書は合計600ページ、総クロス貼り、金銀箔押し、ケース入りという豪華版です。人文書の冬の時代に夢でも見ているようです。実際、「いつか、こんな本を出版してみたい」という愛書家、蔵書家、読書家としてのわたしの夢は本書の上梓によってすべて叶えられました。出版していただいた弘文堂の鯉渕友南社長、つねに適切なアドバイスと慈愛にあふれる励ましを与え続けて下さった編集の外山千尋氏に心より感謝いたします。本書は、全国の冠婚葬祭関係者、宗教関係者のみなさまをはじめ、多くの方々に御購入いただきました。最後に、このブログ記事を読まれた「京都の美学者」こと秋丸知貴氏からLINEが届きました。秋丸氏は、ブログ「『週刊読書人』に『儀式論』の書評が掲載されました」で紹介したように、日本を代表する書評新聞として知られる「週刊読書人」の1月20日号に素晴らしい達意の文章で書評を書いて下さった方です。そのLINEには、「『儀式論』のパースペクティブは、『種の起源』や『資本論』より遥かに広く深いですよ!」と書かれていました。ありがたい言葉です!

 

 

2021年9月18日 一条真也

『奇書の世界史2』

奇書の世界史2 歴史を動かす“もっとヤバい書物”の物語

 

一条真也です。
『奇書の世界史2』三崎律日著(KADOKAWA)を読みました。ブログ『奇書の世界史』で紹介した本の続編で、「歴史を動かす“もっとヤバい書物”の物語」というサブタイトルがついています。人気動画シリーズを大幅に加筆修正し、書き下ろしを加えて書籍化。著者は1990年、千葉県生まれ。会社員として働きながら歴史や古典の解説を中心に、ニコニコ動画、YouTubeで動画投稿を行っています。代表作「世界の奇書をゆっくり解説」は人気コンテンツとして多くのファンを持っています。前作に続いて、本書もリベラルアーツの「名著」でした。


本書の帯

 

本書の装丁は、前作と同じく、三森健太氏が手掛けられています。カバー表紙には2人の女性が書類を読む絵画が使われ、帯の両面には、さまざまな奇書の書名と紹介文とともに、「ベストセラーシリーズ第2弾」「小説よりも奇なり。」「書物に潜む真実を知ったとき、『歴史って面白い』ではすまされない・・・」と書かれています。


本書の帯の裏

 

カバー前そでには、「奇書を奇書たらしめるものは、読み手の価値観である。」として、「人は時代に合わせて『信じたいもの』を選択してきた。時には、嘘にまみれた書物を受け入れて過ちすら犯す。過去は変えられないが、奇書の歴史を学びとし、未来をどう生きるのか」とあります。


本書の「目次」は以下の構成になっていますが、紹介されている各書の解説動画と一緒にご覧下さい。
「はじめに」

01 ノストラダムスの大予言
ミシェル・ド・ノストラダムス
~世界一有名な占い師はどんな未来も
    お見通しだった!・・・・・・のか?

 

02 シオン賢者の議定書
~かの独裁者を大量虐殺へ駆り立てた
    人種差別についての偽書


03 疫病の詫び証文
~伝染病の収束を願って創られた、
    疫病神からのお便り


番外編01 産褥熱の病理
イグナーツ・ゼンメルワイス
~ウイルス学誕生前に突き止めた
  「手洗いの重要性」について


04 Liber Primus
Cicada3301
諜報機関の採用試験か? ただの愉快犯か?
    ネットに突如現れた謎解きゲーム


05 盂蘭盆
竺法護 漢訳
儒教と仏教の仲を取り持った「偽経


06 農業生物学
トロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコ著
~科学的根拠なしの「“画期的な”農業技術」について


番外編02 動物の解放
ピーター・シンガー
~食事の未来を変えるかもしれない、
 動物への道徳的配慮について


「おわりに」
「参考文献」

 

「はじめに」の冒頭を、著者は「歴史は、しばしば『織物』にたとえられます。ある要素を経糸、別の要素を横糸とし、それらが織りなす複合的な関係の豊かさを指して“人の歴史”と呼ぶことは、その魅力をよく表しているといえます。しかし、歴史がタペストリーのような2次元の姿だけで収まりきれるかといえば、いささか簡略化が過ぎるという見方もできます。政治、経済、戦争、文化、芸術というように、実際は経と横どころではなく、多次元的にあちらこちらから張り巡らされた糸たちが、あるところでは重なり、別の場所では結びつき、またあるところでは繭玉を形作るといった、3次元にすら収まらない複雑な構造を成しています」と書きだしています。

 

著者は、昨今多く見られる「○○の世界史」という名の書籍群は、そんな超構造の織物のなかから1つのタペストリーを見出す手がかりとして役立つと指摘します。人の認知では想像することすら難しいほど気が遠くなる「長い歴史」から、「〇〇」という断面だけを見せることで、ようやく豊かな文様として眺めることができるというのです。そして、著者は「奇書が示す歴史の軸とは、一覧的な『面』ではなく一本の細い『糸』です。1章につき1本の歴史を貫く糸でもって、歴史の概形をあやどるのが本書の試みです。紹介する歴史は時に残酷であり、時に滑稽であり、そして時に今の私たちに新たな視点を授けてくれます。そしてそれらを糸のように手繰れば、未来の視座もまた得られるでしょう」と述べるのでした。

 

 

01『ノストラダムスの大予言』の冒頭には、「『ノストラダムスの大予言』とは、正式名を『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』といいます。フランスの医師にして占星術師であった、ミシェル・ノストラダムス、本名、ミシェル・ド・ノートルダムによって書かれた四行詩集です」と説明されています。


「かの教祖も予言集に傾倒する」では、ヒトラーの台頭、第二次世界大戦の勃発、広島への原爆投下、これらをすべて16世紀の時点で「予言」していた者がいるとして、著者は「今思えば、すべて後出しじゃんけん的な解釈に基づくものです。しかし「科学ではわからないことがある」という当時の触れ込みは、「科学万能の」が枕詞のように語られることに違和感を持つ人々をどうしようもなく惹きつけました。折しも、ユリ・ゲラーなどによって巻き起こった「超能力ブーム」も相まって、『超常+滅び』を包括した『ノストラダムス』は、サブカルの枠から巷間の話題のトップへと躍り出たのです」と述べています。

 

 

02『シオンの議定書』の冒頭には、「『シオン賢者の議定書』とは、1897年8月29日~31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた、「第1回シオニスト会議」における議定書、という体で書かれた書籍です。『ユダヤ人の他民族に対する優越性」「ユダヤ人による世界支配の計略」などが全24項目にわたって露悪的かつ挑発的な文体で書かれており、読む者にユダヤ民族の脅威を感じさせる内容です』と説明されています。


「なぜ議定書は世界に普及したか」では、ロシア帝国国内において、レーニンらによる社会主義革命運動が始まると、当局側はこれに対抗すべく様々な世論操作を行ったことを紹介し、著者は「その一環としてポグロムの風潮を反革命運動に利用すべく一計を案じるのです。すなわち『国内の不和を生む革命運動は、すべてユダヤ人によって先導されている』というプロパガンダです。そして、その根拠とすべく作成されたのが本項で紹介する奇書『シオン賢者の議定書』なのです」と述べます。


「フランスで加速する反ユダヤ主義」では、ロシア秘密警察のパリ支部長を務めていたピョートル・ラチコフスキーが勤務していたフランスでは、すでに反ユダヤ主義的な風潮が高まっていたことを指摘し、著者は「フランス革命によって王制が打倒されるという歴史的事件は、その裏に『巨大な意思』の存在を人々に感じさせていました。フリーメイソンのフランス支部には、革命を牽引したメンバーが多く在籍していたことから、その巨大な意思の主体であると噂されていたのです」と述べています。


フリーメイソンとは中世に活躍した石工職人のコミュニティを前身とする組織で、16世紀ごろ主にイギリスを中心に、知識人や貴族らの友愛団体として成立しました。著者は、「フランス支部の者たちは、前身となった石工職人の起源をあろうことかソロモン王の神殿を建設した石工の棟梁にまでさかのぼると主張。ここで『フランス革命』と『ユダヤ人』が『陰謀組織』という糸で結ばれてしまいました。権力から自由を獲得した革命が、実は別の巨大な権力によって仕組まれたものだったという不信感は、そのままユダヤ人への不信感となってくすぶることになります」と述べています。


1894年にはユダヤ人将校のアルフレド・ドレフュスがスパイの冤罪を着せられ、民衆の「ユダヤ人ドレフュスを殺せ!」という怒号のなかで剣を折られて公職を剥奪されるといった「ドレフュス事件」が起きています。ドレフュス事件に伴い、反ユダヤのための書籍が数多く出版されるなど、19世紀末のフランスは、ユダヤ人迫害のためのタネをかき集めるために最適な場所であったと指摘します。著者は「当時ドレフュス事件の取材を通じて国内の反ユダヤの風潮の高まりに強い危機感を覚えたユダヤ人ジャーナリスト、テオドール・ヘルツルは、西欧におけるシオニズム運動の発起人となりました。ヘルツルはのちにスイスのバーゼルで、『第1回シオニスト会議』を開催します。しかし、この会議の存在が『議定書』の根拠とされてしまうのは皮肉というほかありません。会議内容は後ろ暗いものではなく、一般公開のうえでユダヤ人以外も参加可能でした」と述べるのでした。


実際の「詫び証文」

 

03『疫病の詫び証文』の冒頭では、「『疫神の詫び証文』とは、関東近県に分布する古文書群の1つです。詫び証文はその名のとおり、なにがしかの謝罪の折に書かれる証文のこと。謝罪とともに、同じ過ちを二度としない旨を約束し、本人の署名捺印がなされます。有名なものでは、赤穂浪士の大高源吾が残した証文のほか、天狗や河童が人間に宛てたとする証文まであります。疫神の詫び証文も天狗や河童の類と同様に、いわゆる『戯文』として創作されました」と説明しています。


「伝染病は疫病神のしわざ」では、感染症への対処法が確立する以前の医療において、流行り病、特に感染力、致死率が高い疱瘡(天然痘)や麻疹などの病は治療が困難であったことを指摘し、著者は「否応なしに罹り、多くの命を奪っていく“見えない敵”は、民草にとって抗いがたく畏敬の対象でした。「病気は疫神がもたらすもの」と特別視するしか道はなく、ひたすら快方を願うしかなかったのです。日本には古来より擬人化、ないしは擬神化文化が根強くありますが、厄災から逃れる際にも活用していたことがうかがえます。ところが『疫神の詫び証文』はこうした風潮とは一線を画し、民が疫神に対して“攻め”の姿勢で抗った逸話を持ちます。文書の大筋は、疫病で悪さをした疫神が人間に向けてお詫びの言葉をつづったものです」と述べています。


「疫神を『迎え撃つ風習』と『迎え入れる風習』」では、各地に伝わる疫神への対応は様々であり「詫び状」のように攻めの姿勢でもって災難に立ち向かう勇敢な考え方はむしろ少数派であると指摘し、著者は「日本において、多くは『一度罹った疫病が穏便に平癒することを祈る」ような、受け身の姿勢で疫病とつき合ってきました。日本には鹿児島県のみ伝わる『疱瘡踊り』があります。儀式は、疱瘡が出た際に祭り囃子と踊りに乗せ、『疫神をもてなし、満足して去ってもらう』ことを促す。2020年4月、薩摩川内市入来町では新型コロナウイルスの早期収束を願い、『入来疱瘡踊』が披露されています』と述べます。


予言獣としてこれまで有名だったのは、人と牛が一体になった姿の「件」でした。しかし近年、にわかに注目を集めているのは3本脚で突き出た口を持つ「アマビエ」です。「予言獣『アマビエ』」では、妖怪研究家の湯本豪一氏が、アマビエとは「アマビコ」の誤記である可能性があると指摘していることが紹介されます。天保14年に出現したとされる「あま彦」と名乗るこの異形は、全身が毛で覆われた猿のような姿をしており、3本脚であるのがアマビエと共通しています。アマビエが「描いて人々に見せよ」とするのに対し、あま彦のほうは「私の姿を描いて見た者は、無病長寿となる」とご利益まで言い切っているのが特徴だといいます。

 

 

番外編01『産褥熱の病理』の冒頭には、「『産褥熱の病理』とは、正式名を『産褥熱の病理、概要と予防法』といいます。1861年、オーストリアの医師イグナーツ・ゼンメルワイスによる論文で、産褥熱の感染制御法に関する研究をまとめたものです」という説明がされています。


「出産を病院で行うまでの歴史」では、欧州ではもともと、お産は助産師とともに自宅で行うのが基本でしたが、16、17世紀にかけて吹き荒れた魔女狩りにおいて、女性である助産師は生死や血にかかわることからそのターゲットにされたことを指摘し、著者は「助産師への迫害によって、技術が途絶え、担い手が失われるケースが増加することになり、出産にかかわることがなかった男性の外科医が次第に現場に介入するようになりました。また、同時期のキリスト教では堕胎が禁じられていたこともあり、お金のない未婚の女性が私生児を殺めてしまう事件が社会問題となっていました。そのため、貧乏であっても出産の補助を受けられる仕組みとして、病院内に産科が整備されるようになったのです」と述べています。


「医学とキリスト教の合流」では、イエス・キリストの伝承には数多くの「癒しの奇跡」が伝えられていることが紹介されます。盲人の目を自身の唾液を混ぜた泥を塗ることで視えるようにしたり(「ヨハネによる福音」9章)、ハンセン病患者を触れるだけで完治させたり(「マルコによる福音」1章、「ルカによる福音」17章ほか)と、キリストを神の子として印象づけるエピソードにはこうした「奇跡」がよく挙げられるとして、著者は「教会や修道院は、その奇跡を担う場所として医療の技術が集積していきました。ヒポクラテスの流れを汲む医師たちは、患者の家に往診する形式でした。これに対し、教会や修道院など特定の場所に患者自身が出向く形式は、『病院』という概念を生み出します。また、隣人愛や無私の奉仕といった考え方によって、それまで市場原理の上にあった医療に、『福祉』という文脈も持ち込まれるのです」と述べます。


「顕微鏡の登場」では、観察可能な範囲を大きく(正確には、小さく)前進させたのはガリレオだと紹介し、著者は「ガリレオは、遠くにある物体を大きく見せる器具『望遠鏡』を一般に広めたことで知られますが、実は、その逆も行っていたのです。つまり目の前にある小さな物質を大きく観測する器具『顕微鏡』の開発です。発明自体はガリレオが最初というわけではありませんが、ガリレオが優れていたのは、自身の知名度と影響力です」と述べます。


ガリレオが「望遠鏡」で星の世界を覗いたとき、教会側から大きな反発を招いたことは有名です。ではその逆ともいえる「顕微鏡」はどうか。著者は、「精巧に形作られた極微の造形は、むしろ『神の御業の完璧さに触れることができる具体的手段』として教会側から称揚されるのです。愛好家も、神の御業の徴の顕れを見ただけで満足し、せいぜい身内で回し見る程度で、依然として学問と結びつくことはありませんでした」と述べます。しかし、その後、レーウェンフックという名の顕微鏡マニアが近代医学の扉を開いたのでした。


「医学×社会学で、公衆をもっと健康に」では、現在、「病理学の祖」と呼ばれるカール・ルドルフ・ウィルヒョウもまた、既存の医学体系に対して疑問を持っていた者の1人であることが紹介されます。彼は、幼い頃より「神様から石ころに至るまで自然に関する知識全般」を修めることを目指しており、広範な知識と興味は医学のあり方をも塗り変えます。ウィルヒョウは「すべては細胞より始まる」と主張し、それまで体液のバランスの乱れによって生まれるとされた病気を「細胞の異常」と看破しました。


ウィルヒョウの目には、人体が「細胞を市民とした民主国家」と映り、その医学的な知見を社会学にまで応用しようとしました。後に彼は政治家として、医学を基盤とした社会構築に取り組みました。特にドイツ国内でチフスが流行した際には、下水道の整備による衛生環境の改善を行い、患者を激減させることに成功しています。著者は、「今では当たり前のように捉えられている、『病気にはその要因となっている箇所がある』という考え方や、社会と医療を接続した『公衆衛生』という概念を実践した功績はまさに革命といえます」と述べています。


そして、『産褥熱の病理』の著者であるイグナーツ・ゼンメルワイスが登場します。本書には「ゼンメルワイス、手洗いの重要性を説く」と書かれていますが、これだけを見て、彼の壮絶な人生をうかがい知ることはできません。著者は、「歴史に名を残す人物とは、多かれ少なかれ歴史を『以前』と『以後』で区切った人といえます。しかしその功績も、『以後』の世界に生きる人々の目にはアタリマエとして映ってしまうのもまた事実です。ゼンメルワイスは晩年、自身と医師の罪を訴えるために街頭演説を行っていますが、そこに居合わせた聴衆はこう返します。『本当にそんな簡単なことで病気が防げるのなら、えらいお医者さんたちがやってないわけがないじゃないか!』銀の弾丸とは、案外鉛色を装って転がっているものなのかもしれません」と述べるのでした。

 

盂蘭盆経疏 一巻

盂蘭盆経疏 一巻

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05『盂蘭盆教』の冒頭には、「『盂蘭盆経』は、日本の盂蘭盆会、つまり『お盆』という行事の由来となったことでも有名な経典です。竺法護によって漢訳されたとされます。経典とは、主にブッダこと釈迦の教えを弟子が書き写した書物です。多くは『仏説』『如是我聞』、つまり『私は(釈迦から)こう聞いた』という言葉で始められています。釈迦の教えを直接ないしは、近い伝聞で伝えられた教えであるという体裁です」と説明されています。


「『お盆』の由来」では、仏教の基本となる死生観は「輪廻転生」であるとして、著者は「人は死んだあと別のものや人に生まれ変わり続ける定めです。迷いを断って『悟り』の境地へ至ることで、この輪廻を抜け出し『解脱』することができます(宗派によって解脱への道は様々)」とし、「死後、別のものへと生まれ変わっているはずの霊がなぜ、お盆に限り戻ってくるのか――。これは、仏教が日本へ伝来した際に神道の祖霊信仰と混ざり合った結果、現在のようなお盆の形となったといわれています。しかし仏教には『盂蘭盆会』という、お盆の素地となった催事がすでにありました」と述べています。

 

 

儒教と仏教のつじつま合わせとして誕生」では、盂蘭盆経が創作されたのは、中国に仏教が伝播してから400年ほどのち、おおよそ5世紀頃であったと紹介されます。当時中国で主流だったのは「儒教」の思想であったことを指摘し、著者は「儒教が重視している徳の1つに、『孝』という教えがあります。孝とは『親孝行』の孝で、父母や年上の人間、ひいては目上の人を敬うことを重要視します。なかでも孝の要綱を説いた『孝経』には、『身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀損せざるは孝の始めなり』と記述があります。出家剃髪をその道の第一歩とする仏教からすれば、伝播に向けての初手から詰んでいる状況といえるでしょう」と述べています。


東晋の孫綽は、同じく孝経の先に挙げた言葉に続く「身を立てて道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕かにするは孝の終わりなり」を根拠に、出家して身を立てることは親の名をあげることにつながり、これこそが孝の極致であると反論しています。しかし、それでも仏教と儒教はどうしても相容れない部分があり、両者の「緩衝材」となる思想が必要だったとして、著者は「『在家』の道徳を説く儒教が根づいていた中国の人々に対して、『出家』の思想である仏教であっても『孝』の教えがある――。こうしたエクスキューズのための裏づけとして『盂蘭盆経』は創作されたのです。

 

 

「嘘も方便」というように、釈迦自身、相手の立場に合わせて言葉を変えつつ説法を行っていたという来歴があるとして、著者は「実際に大乗仏教の経典は、釈迦の教えの本質を取り違えないのであれば、『仏説』という前提で、新たな経典が創作されることがあります。日本で最もポピュラーなお経の1つ『般若心経』も結集ののち、大乗仏教の成立によって生まれました。見方によっては盂蘭盆経と同様、偽経ともいえるでしょう。ただしそれは、般若心経が『仏説』ではないことを意味しません」と述べています。わたしも『般若心経』こそは日本人にとっての最重要の教典であるととらえ、『般若心経 自由訳』(現代書林)を上梓しました。

 

 

「現代のお葬式も、儒教と仏教の折衷」では、著者は「私たちは『仏教式の』儀礼として死者を弔う際、ご遺体を荼毘に付し、お骨を墓に納め、法事の際には焼香をあげ、日ごと位牌に手を合わせます。しかし、仏教において本来重視されるべきは「魂」であり、それが抜けた肉体に大きな意味はありません。加えて、その魂はどこか別の場所へ転生します。仏教的に、ただの「物」となったお骨を守るというのも奇妙な話です。いわんや、ただの木の板に手を合わせることに対して、「仏教的な」意味づけを見出すことは困難です」と述べています。

 

 

ではなぜ、「仏教式の」祭礼にこのような儀式が取り入れられているのかというと、儒教の成立以前の古代中国に伝わる死者への祭礼を見てみると、死生観において、現世は輪廻するものでなく、そのまま「帰ってくる場所」だったからです。ちなみに、このあたりのくだりは、わが国における儒教研究の第一人者で大阪大学名誉教授の加地伸行先生と小生の共著である『論語と冠婚葬祭』(現代書林)の中で詳しく説明されています。

 

 

古代中国の死生観自体は、古代エジプトのミイラなどにも代表される「招魂思想」と似ています。しかし、この祭礼で依り代となるのはミイラではなく「死者の頭蓋骨」でした。子孫たちは先祖の頭蓋を祀り、命日にはその頭蓋を生者にかぶせて形代とし、そこに魂魄を招こうとしました。著者は、「重要なのは、『魂魄を呼び戻す子や孫』が必要であるという点です。儒教における『孝』の思想や、家を守るという教えは、この『自身の招魂を行ってくれる子孫』の存在を保証するということが発端の1つです。仏教はその伝来の過程で中国を通過し、儒家的思想を多く取り込みました。結果として私たちは死者の『骨』に敬意を払い、お墓に手を合わせ、さらには先祖の『招魂』のために篝火を焚くことになったのです」と述べています。このあたりは、加地伸行先生の名著『儒教とは何か』(中公新書)に詳しく書かれています。以上、『奇書の世界史2』を存分に堪能しました。さらなる続編に期待します!

 

 

2022年9月17日 一条真也

稲盛和夫翁の遺言

一条真也です。
15日、松山から岡山経由で小倉に戻りました。
16日、早朝から松柏園ホテルの顕斎殿で恒例の月次祭を行いました。わが社は「礼の社」ですので、コロナ禍にあっても儀式を重んじるのです。もちろん、全員マスクを着けた上でソーシャルディスタンスを十分に配慮しましたが、心が洗われるようでした。

最初は、もちろん一同礼!

月次祭のようす

ソーシャルディスタンスを取って

拍手を打つ佐久間会長


玉串奉奠し、拝礼しました

最後は、もちろん一同礼!

 

皇産霊神社の瀬津神職によって神事が執り行われましたが、祭主であるサンレーグループ佐久間進会長に続いて、わたしが玉串奉奠を行いました。一同、会社の発展と社員の健康・幸福、それに新型コロナウイルスの感染拡大が終息することを祈念しました。わたしと一緒に参加者たちも二礼二拍手一礼しました。儀式によって「かたち」を合わせると、「こころ」が1つになる気がします。

天道塾でも一同礼!

佐久間会長が訓話をしました

その後、天道塾が開かれました。最初に佐久間会長が登壇して、訓話をしました。会長は、尊敬する稲盛和夫氏が90歳で逝去されたことに触れ、自身は88歳で米寿を迎えることを明かしました。それから、「実践菩薩八美道」というものを披露し、説明しました。わたしが見るところ、聖徳太子の「憲法十七条」のように神道儒教・仏教のバランスが取れています。日本人の「こころ」の三本柱に根差した幸福になるための法則のように思えました。


「実践菩薩八美道」について語る佐久間会長

 

「実践菩薩八美道」とは、一「以和為貴の心(太子の求道の精神を完全に身につける)」、二「六波羅蜜の心(六波羅密を心にきざむ。 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・知恵)、三「知足利他の心(足るを知り他に尽す)」、四「不撓不屈の心(誰にも負けない不屈の精神)」、五「相互敬愛の心(信頼関係を保つ・互いに尊敬し合う)」、六「礼節謙譲の心(自分は一歩引いて相手を立てる・礼儀正しく節度ある行い)」、七「因果応報の心 (良いことをすれば良い事が起こる・ 逆も真なり)」、八「感謝報恩の心(何事もありがとうございます)」です。こんなことを考える佐久間会長は、わが父ながら凄いと思いました。


すみれ色のマスクで登壇しました


マスクを外しました

 

それから、わたしが登壇して、社長訓話を行いました。9月に合わせて、すみれ色の不織布マスクを着けたわたしは、尊敬する経営者であった稲盛和夫氏が逝去されたことに言及し、氏の御冥福をお祈りしました。稲盛氏は、企業経営者として「全従業員の物心両面の幸福」を追求し、「人類社会の進歩発展」に貢献するという思想の根源は、「人として何が正しいかという判断基準」に拠っている極めてシンプルにしてプリミティブなものだと述べています。稲盛氏は「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」という公式を打ち出しました。

稲盛和夫の方程式とは?


熱心に聴く人びと

 

ご本人の経験則に裏打ちされたものだけに強い説得力があります。著書『心を高める、経営を伸ばす』(PHP研究所)で、稲盛氏は「能力とは、頭脳のみならず健康や運動神経も含みますが、多分に先天的なものです。しかし、熱意は、自分の意志で決められます。この能力と熱意はそれぞれ0点から100点まであり、それが積でかかると考えると、自分の能力を鼻にかけ、努力を怠った人よりも、自分には頭抜けた能力がないと思って誰よりも情熱を燃やして努力した人の方が、はるかに素晴らしい成果を残すことができるのです」と述べています。

一番重要なのは「考え方」である!

 

そして、稲盛氏は一番重要なのは「考え方」であるとして、「考え方とは、人間としての生きる姿勢であり、マイナス100点からプラス100点まであります。つまり、世をすね、世を恨み、まともな生き様を否定するような生き方をすれば、マイナスがかかり、人生や仕事の成果は、能力があればあるだけ、熱意が強ければ強いだけ、大きなマイナスとなります。素晴らしい考え方、つまり人生哲学を持つか持たないかで、人生とは大きく変わってくるのです」と述べています。

 

 

稲盛氏は、第2回「孔子文化賞」を受賞しておられます。
経営コンサルタントで歴史研究家の皆木和義氏は、著書『稲盛和夫論語』(あさ出版)において、稲盛氏の教えには『論語』との共通点が多く、読書家として知られる稲盛氏が孔子の教えを血肉化しているという事実を論証しました。同書には、稲盛氏の公式は『論語』の「子曰く、位なきことを患えず、立つ所以を患う。己を知ること莫きを患えず、知らるべきことを為すことを求るなり」という言葉の影響を受けていると指摘しています。


稲盛哲学のベースには『論語』あり!

熱心に聴く人びと

 

この言葉の意味ですが、「孔子は言った。地位がないことを心配せず、その地位に立つべき理由を気にせよ。自分を認める人がいないのを気にかけず、人に認められるような行動ができるように努力せよ」となります。組織のリーダーには何が必要か。それは、なによりも「人間性」であり、世に認められるには「人間尊重」という確固たる信念に基づいた日々の実践が大事であると孔子は説きました。その孔子の教えと稲盛氏の公式は同一であると皆木氏は指摘しているのです。わが社は、創業時より「人間尊重」を大ミッションとして掲げています。社長を務めるわたし自身、稲盛氏の公式が正しいことを強く実感しています。

「PASSION」について説明

 

さらに、稲盛氏は「PROFIT (利益)」「AMBITION(願望)」「SINCERIRTY(誠実さ)」「STRENGTH(真の強さ)」「INNOVATION(創意工夫)」「OPTIMISM(積極思考)」「NEVER GIVE UP (決してあきらめない)」という経営七か条を唱え、7つの文字の頭文字を並べて「PASSION」を訴えました。わが社も、この考えによって経営されていると自負しています。

「利他」から「互助」へ

 

そして、稲盛氏から学んだ「利他」について話しました。コロナ危機によって「利他」への関心が高まっています。マスクをすること、行動を自粛すること、ステイホームすることなどは自分がコロナウィルスにかからないための防御策である以上に、自分が無症状のまま感染している可能性を踏まえて、他者に感染を広めないための行為でもあります。ブログ『思いがけず利他』で紹介した本を書いた政治学者の中島岳志氏は、いまの自分の体力に自信があり、感染しても大丈夫と思っても、街角ですれ違う人の中には、疾患を抱えている人が大勢いるだろうとして、「恐怖心を抱きながらも、電車に乗って病院に検診に通う妊婦もいる。通院が不可欠な高齢者もいます。一人暮らしの高齢者は、自分で買い物にも行かなければなりません。感染すると命にかかわる人たちとの協同で成り立っている社会の一員として、自分は利己的な振る舞いをしていていいのか」ということが各人に問われるといいます。

「他力本願」の意味について 

 

人間が自身の限界や悪に気づいたとき、「他力」がやって来ます。「他力本願」というと、「他人まかせ」という意味で使われますが、浄土教における「他力」とは、「他人の力」ではなく、「阿弥陀仏の力」です。「他力本願」とは、すべてを仏に委ねて、ゴロゴロしていればいいということではなく、大切なのは、自力の限りを尽くすことです。自力で頑張れるだけ頑張ってみると、わたしたちは必ず自己の能力の限界にぶつかります。そして、自己の絶対的な無力に出会うとして、中島氏は「重要なのはその瞬間です。有限なる人間には、どうすることもできない次元が存在する。そのことを深く認識したとき、『他力』が働くのです」と述べています。 それが大切なものを入手する偶然の瞬間です。重要なのは、わたしたちが偶然を呼び込む器になることです。

互助社会を実現しよう!

 

偶然そのものをコントロールすることはできませんが、偶然が宿る器になることは可能です。そして、この器にやって来るものが「利他」であるというのです。器に盛られた不定形の「利他」は、いずれ誰かの手に取られます。その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、「利他」は姿を現し、起動し始めるのではないでしょうか。そして、「利他」の起動とは「互助」の発動でもあります。コロナ後の社会が目指す姿は、まさに互助社会です。そして、互助社会の中核をなすものこそ互助会です。最後に、「わが社は、互助社会を実現するための最先端企業であり続けましょう!」と言って、わたしは社長訓話を終えました。

最後は、もちろん一同礼!

 

2022年9月16日 一条真也