「アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台」

一条真也です。東京に来ています。
4日、打合せの後にヒューマントラストシネマ有楽町でフランス映画「アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台」を観ました。ラストに予想を超えるどんでん返しが待っていて、感動しました。これが実話とは驚きです。連日のゲリラ豪雨に銀座で遭遇しましたが、天気よりもずっと人生の方が不条理ですね! まさに、「人生は不条理」ということを見事に描いたヒューマンドラマでした。


ヤフー映画の「解説」には、「スウェーデンの俳優ヤン・ジョンソンの実体験を基に描くヒューマンドラマ。刑務所で演技指導をする役者と囚人たちによる芝居が評判になり、やがてパリのオデオン座からのオファーが届く。監督と脚本を手掛けるのは『アルゴンヌ戦の落としもの』などのエマニュエル・クールコル。『クイーンズ・オブ・フィールド』などのカド・メラッド、『レディ・チャタレー』などのマリナ・ハンズをはじめ、ピエール・ロタン、ソフィアン・カメスらが出演する」と書かれています。

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、「役者のエチエンヌ(カド・メラッド)は、囚人たちの演技のワークショップの講師として招かれる。彼は演目をサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』に決め、さまざまな背景を持つ囚人たちと向き合いながら芝居に打ち込んでいく。やがてエチエンヌの芝居への情熱は囚人たちをはじめ、刑務官らの心も動かし、塀の外での公演が実現する」です。


鑑賞前は、刑務所で演技指導をする俳優が囚人たちを信じた結果、舞台は大成功して感動のフィナーレを迎える・・・・・・そんな展開を予想していましたが、ところがどっこい。現実は、そんなに甘くありませんでした。甘くないがゆえに、役者として崖っぷちに立っていたエチエンヌが一世一代の晴れ舞台に立ち、予想外の拍手と歓声を受けるというサプライズが待っています。「事実は 小説よりも奇なり」と言いますが、この演劇界の奇跡ともいえる事実に目をつけて映画化したエマニュエル・クールコル監督はさすがですね。クールコル監督は、「単純にいい物語だったから、映画化したかった」と語っています。


この映画は日本の演劇人たちにも強いインパクトを与えたようで、串田和美(俳優・演出家・舞台美術家)氏は「この映画の題材は、かつて世界中の演劇界で話題になった実際の事件だ。僕もそのことに刺激を受け、かつて緒形拳さんらと全国ツアーをした『ゴドーを待ちながら』は網走の刑務所でも上演した。この映画はさらに刺激的だ!」と述べ、鴻上尚史(作家・演出家)氏は「『ゴドーを待ちながら』という戯曲は、本当にやっかいで、それを六カ月で服役囚が劇場で上演するというだけで大冒険なのに、次々とすさまじいことが起こり、これが実話だって言うんですから、まったくもう、言葉を失います。ガツーンとやられました」と述べます。


串田氏が実際に演出し、鴻上氏が「本当にやっかい」と表現した「ゴドーを待ちながら」は、アイルランドの劇作家サミュエル・ベケットによる戯曲です。1940年代の終わりにベケットの第2言語であるフランス語で書かれました。初出版は1952年で、その翌年パリで初演。不条理演劇の代表作として演劇史にその名を残し、多くの劇作家たちに強い影響を与えています。Wikipedia「ゴドーを待ちながら」の「評価」には、「ストーリーは特に展開せず、自己の存在意義を失いつつある現代人の姿とその孤独感を斬新なスタイルで描いている。当初は悪評によって迎え入れられたが、少しずつ話題を呼び人気を集めるようになった。同作品は不条理劇の傑作と目されるようになり、初演の約5年後には、20言語以上に翻訳され、現在も世界各地で公演され続けている」と書かれています。

 

ゴドーを待ちながら」は2幕劇で、木が1本立つ田舎の一本道が舞台です。Wikipedia「ゴドーを待ちながら」の「あらすじ」には、「第1幕ではウラディミールとエストラゴンという2人の浮浪者が、ゴドーという人物を待ち続けている。2人はゴドーに会ったことはなく、たわいもないゲームをしたり、滑稽で実りのない会話を交わし続ける。そこにポッツォと従者・ラッキーがやってくる。ラッキーは首にロープを付けられており、市場に売りに行く途中だとポッツォは言う。ラッキーはポッツォの命ずるまま踊ったりするが、『考えろ!』と命令されて突然、哲学的な演説を始める。ポッツォとラッキーが去った後、使者の少年がやってきて、今日は来ないが明日は来る、というゴドーの伝言を告げる。第2幕においてもウラディミールとエストラゴンがゴドーを待っている。1幕と同様に、ポッツォとラッキーが来るが、ポッツォは盲目になっており、ラッキーは何もしゃべらない。2人が去った後に使者の少年がやってくる。ウラディミールとエストラゴンは自殺を試みるが失敗し、幕になる」とあります。



ゴドーを待ちながら」の舞台では、木一本だけの背景は空虚感を表現しているとされます。似たような展開が2度繰り返されることで、永遠の繰り返しが暗示されます。ウラディミールとエストラゴンが待ち続けるゴドー(Godot)の名は英語の神(God)を意味するという説もありますが、ゴドーが実際に何者であるかは劇中で明言されません。解釈はそれぞれの観客に委ねられています。しかし、その「ゴドーを待ちながら」の見事な解釈がパリのオデオン座で実現されました。その映画化がまさに「アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台」なのです。


原作者のベケット自身が述べたように、演劇史に残る不条理劇は現実の世界に再現されたのです。わたしは、「人生は不条理であるがゆえに、面白い!」と思いました。また、最後まで過酷な状況から逃げずに運命に立ち向かったエチエンヌの雄姿を見て、泣けて仕方がありませんでした。多くの観客と同じく、エチエンヌが演出した「ゴドーを待ちながら」に出演した囚人たちの“その後”が気になります。彼らは、果たして自由になれたのでしょうか?

 

2022年8月5日 一条真也

「セルビアン・フィルム」

一条真也です。
3日、静岡から東京へ入りました。
もう、身体から湯気が立つほど暑かった!
日比谷のホテルで出版関係や映画関係の打ち合わせをした後、新宿へ。夜はシネマート新宿で映画「セルビアン・フィルム」を観ました。これまでの人生で観た映画の中で、最も不愉快で胸糞の悪い最低の映画でした!

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「生活のために高額ギャラの仕事を引き受けた元ポルノ男優が、悪夢のような出来事を体験する戦慄のハードコア・スリラー。そのあまりにも過激でグロテスクな内容から、世界各国のホラー・ファンタジー系映画祭を騒然とさせた。そんな問題作のメガホンを取ったのは、セルビアの新鋭、スルディアン・スパソイェヴィッチ。主演は、『アンダーグラウンド』『黒猫・白猫』のスルジャン・トドロヴィッチ。容赦のないバイオレンスにポルノ・シーン、さらには常軌を逸したストーリーにぼう然となる」

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「元ポルノスターのミロシュ(スルジャン・トドロヴィッチ)は、高額ギャラをもらえる映画への出演を持ちかけられる。妻子との平凡な日々を送っていたものの、生活に困っていたこともあり、ミロシュは怪しみながらも迎えの高級車で依頼人の元へ。そこでミロシュは、富豪のクライアントの要求に応える芸術的なポルノ映画に出演してほしいと頼まれ・・・・・・」


この映画のポスターには、「人でなしの映画。」というキャッチコピーとともに「これが噂の鬼畜残酷ホラー史上、一番ヤバいやつ。一生分のトラウマがここにある」と書かれています。一応、「ホラー」とあるので、ちょっと苦手な新宿まで嬉々として観に行きました。じつは、この夏はブログ「ブラック・フォン」ブログ「Xエックス」ブログ「哭悲/THE  SADNESS」ブログ「女神の継承」などなど、ホラー映画が豊作なのですが、わたしはすべてを観ています。「最後に『セルビアン・フィルム』も押さえて、パーフェクト!」と意気込みましたが、上映開始後すぐに違和感を覚えました。すなわち、「これって、ポルノ?」と思ったのです。ただのポルノは次第にハードコア・ポルノになっていきましたが、ある地点から一気に狂気の鬼畜映画に! なんと言いますか、ポルノ映画が1周回ってホラー映画になった感じですね。はい。


その中でも、「Xエックス」がちょっと「セルビアン・フィルム」に近い印象があります。というのも、ポルノ×映画撮影×ホラーという三重構造が同じだからです。もっとも、「セルビアン・フィルム」の方が圧倒的に下劣ですが。「Xエックス」は、ある老夫婦が暮らす家に足を踏み入れた若者たちの運命を描いています。1979年のアメリカ・テキサス州を舞台に、3組のカップルが映画撮影のために訪れた農場で悪夢のような出来事に遭遇します。女優のマキシーン(ミア・ゴス)、マネージャーのウェインをはじめ6人の男女は、映画「農場の娘たち」を撮影するために借りた農場を訪れます。そこで彼らを迎え入れた老人ハワードは、宿泊場所となる納屋へ一同を案内します。一方マキシーンは、母屋の窓から自分たちを凝視する女性に気付くのでした。



映像のグロさ、衝撃度から言えば、「哭悲/THE  SADNESS」で紹介した台湾ホラーも「セルビアン・フィルム」に通じるところがあります。というか、負傷して眼球が取れた人物の眼窩にイカれた野郎がペニスを突っ込むショッキング・シーンは両作品に共通しています。「セルビアン・フィルム」は2012年公開で、「哭悲/THE SADNESS」は10年後の2022年公開なので、おそらく後者が前者の影響を受けたのでしょう。「哭悲/THE  SADNESS」は、人が感染すると凶暴化する未知のウイルス「アルヴィン」がまん延した台湾で、決死のサバイバルに挑む人々の姿を描いています。感染しても風邪に似た軽い症状しか現れないことからアルヴィンに対する警戒心が緩んでいましたが、突如ウイルスが変異します。感染者たちは凶暴性を増大させ、罪悪感を抱きながらも殺人や拷問といった残虐な行為を始めるのでした。


「Xエックス」も、「哭悲/THE  SADNESS」も、ホラー映画というよりは鬼畜映画と呼んだ方がいい内容です。しかし、そんな両作品も「セルビアン・フィルム」の鬼畜度には到底かないません。とにかく、「セルビアン・フィルム」は度外れてヤバい映画なのです。ネタバレになるのであまり書きたくはありませんが、レイプや拷問や同性姦などは当然のこと、一般にはタブーとされる獣姦や屍姦や近親相姦も当然で、なんと新生児姦などという神をも恐れぬトンデモFUCKの数々が登場するのです。もう、この映画そのものがFUCKINな存在で、観ていて呆然としました。「よくぞ、まあ、ここまでやったもんだ!」と変な意味で感心してしまいましたね。この映画のレビューの中に「R-30くらいでいい。」というものがありましたが、わたしも同感です。


それにしても、こんな観るに堪えない残酷映画をわざわざ4Kリマスターで映像をクリアにする必要があるのか? わたしには疑問です。そもそも、こんな下劣な映画を企画して製作すること自体も疑問です。疑問といえば、1人で鑑賞している年配のご婦人が何人かいましたが、「あのお婆さん、こんな鬼畜映画だと知っていて観に来たの?」と思いました。また、若いカップルも何組かいたのにビックリ! 「デートでこんな気持ちの悪い映画観て、どうするの?」と彼らにインタビューしてみたくなりました。わたしの娘が彼氏からこの映画に誘われたとしたら、即刻、「そんな変態男とは別れなさい!」と言うと思います。わたし自身、「これを観たことをブログで発信すれば、自分の品性が疑われないか」と、そんな心配をしてしまうぐらい、とにかくトンデモなく、ヤバい映画なのです!!


上映されたシネマート新宿の真向かいには新宿伊勢丹がありますが、わたしは「伊勢丹で高級ブランド品とか買い物しているお客さんたちは、すぐ近くで最低の狂った鬼畜映画が上映されているのを知っているのだろうか?」と余計な心配をしてしまうほどのクレージー・ムービーでした。でも、「そんなに不愉快だったのなら、観ない方が良かったか」といえば、そうは思いません。「映画というのは、ここまで醜悪な世界も描くことができる」ということがわかり、映画表現における可能性のようなことまで考えることができました。ちなみに、本作は「トラウマ映画」の代表作とのことですが、わたしにはトラウマは残りませんでした。鑑賞直後は「うへー、嫌なものを観てしまった!」とは思いましたが、その後に旨い鮨をつまみながら好きな冷酒を飲んだら、すべてを忘れてゴキゲンになりました。半世紀以上をかけてホラー免疫のできているわたしのメンタルは、そんなにヤワではないのです!

 

2022年8月4日 一条真也

『テクノロジーが予測する未来』

テクノロジーが予測する未来 web3、メタバース、NFTで世界はこうなる (SB新書)

 

一条真也です。
『テクノロジーが予測する未来』伊藤穣一著(SB新書)を読みました。「web3、メタバース、NFTで世界はこうなる」というサブタイトルがついています。著者は、デジタルガレージ取締役・共同創業者・チーフアーキテクト。千葉工業大学・変革センター長。デジタルアーキテクト、ベンチャーキャピタリスト、起業家、作家、学者として主に社会とテクノロジーの変革に取り組む。民主主義とガバナンス、気候変動、学問と科学のシステムの再設計など様々な課題解決に向けて活動中。2011年から2019年までは、米マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボの所長を務め、2015年のデジタル通貨イニシアチブ(DCI)の設立を主導。また、非営利団体クリエイティブ・コモンズの取締役会長兼最高経営責任者も務めました。ニューヨーク・タイムズ社、ソニー株式会社、Mozilla財団、電子プライバシー情報センター(EPIC)などの取締役を歴任。2016年から2019年までは、金融庁参与を務めました。


本書の帯

 

本書の帯には、著者の写真とともに「全人類不可避。」「働き方、アイデンティティ、文化、教育、民主主義・・・」「破壊的ゲームチェンジに備える63のヒント」と書かれています。


本書の帯の裏

 

帯の裏には、「すべてが大転換する時代をサバイブせよ。」として、「働き方――仕事は、『組織型』から『プロジェクト型』に変わる」「文化――人々の『情熱』が資産になる」「アイデンティティ――僕たちは、複数の『自己』を使いこなし、生きていく」「教育――社会は、学歴至上主義から脱却する」「民主主義――新たな直接民主制が実現する」と書かれています。


アマゾンより

 

また、カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「web3、メタバース、そしてNFT――最先端テクノロジーは、私たちの社会、経済、個人の在り方にどのような変革をもたらすのか? 米国MITにてメディアラボ所長を務め、デジタルアーキテクト、ベンチャーキャピタリスト、起業家として活動する伊藤穰一が見通す、最先端テクノロジーがもたらす驚きの未来」



本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
 序章 web3、メタバース、NFTで世界はこうなる
第1章  働き方――仕事は、「組織型」から
    「プロジェクト型」に変わる

第2章  文化――人々の「情熱」が資産になる
第3章  アイデンティティ――僕たちは、
     複数の「自己」を使いこなし、生きていく

第4章  教育――社会は、学歴至上主義から脱却する
第5章  民主主義――新たな直接民主制が実現する
第6章  すべてが激変する未来に、
     日本はどう備えるべきか
「おわりに」



「はじめに」の「世界は、新しいルールで動きはじめた」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「世界は、新しいルールで動きはじめたいま僕は、これまでにないほど、ワクワクしています。というのも、これまで、インターネットの登場やそのほかの刺激的なムーブメントなどさまざまな事柄に出合ってきましたが、新たなテクノロジーによって歴史的な大転換が起ころうとしているからです。最近、『web3』『メタバース』『NFT』という言葉を耳にする機会が増えました。一部のテクノロジー好きの人たちの間で盛り上がっているだけで、自分には関係のない話・・・・・・そんなふうに思っている人も多いかもしれません。インターネットも最初はそうでした」


インターネットが誕生して、約半世紀。世の中に普及して20年余り。ほとんどの人にとって、「インターネットなしの生活」はもはや、考えられないだろうという著者は、「web3、メタバース、NFTも、そうなっていく可能性が高い。『これがない時代があったなんて信じられない』『これを使いこなせない人はすごく困る』というほどの劇的な変化が、いま、新たに起ころうとしているのです。『働き方』『文化』『アイデンティティ』『教育』『民主主義』・・・・・・大変化の波は、あらゆる領域に及びます。誰も、逃れることはできません。その大変化とは、いったいどのようなものか? ――それをわかりやすく解明するのが本書です」と述べています。


序章「web3、メタバース、NFTで世界はこうなる」の「Web1・0は『読む』、Web2・0は『書く』、web3は『参加する』」では、端的にいえば、Web1・0ではグローバルに「read=読む」ことが可能になり、Web2・0ではグローバルに「write=書く」ことが可能になり、そしてweb3ではグローバルに「join=参加する」ことが可能になったとして、著者は「一般にはweb3は『own=所有する』という言葉がよく使われていますが、僕はあえて『join=参加する』と表現したいと思います。つまりWeb1・0、Web2・0、web3という流れのなかで、できることが『変化した』のではなく、『増えた』ということです」と述べています。


「『メタバース』はどこにあるのか」では、メタバースというと、「バーチャルリアリティ」の意味で語られているのをよく見かけますが、本来的にはもっと広義なものであるとして、著者は「この言葉の発祥は、アメリカの小説家で僕の友人でもあるニール・スティーブンスンさんが、1992年に発表した『スノウ・クラッシュ』という小説です。連邦政府が弱体化しきった近未来のアメリカを舞台に、オンライン上に築かれた仮想空間『Metaverse(メタバース)』で生きる人々が描かれています」と述べます。

 

 

スノウ・クラッシュ』で描かれているメタバースは、ある人は自宅のパソコンからアクセスし、ある人は街中の公衆端末からアクセスする、という具合に、それぞれ違うアクセスモードで入ることができる仮想空間であると紹介し、著者は「描写自体はバーチャルリアリティっぽいのですが、あらゆる人々が何の障壁もなくメタバースに参加し、コミュニケーションをとったり物品や金銭をやりとりしたりしています。つまり仮想空間がバーチャライズされていることよりも、オンライン上の仮想空間に誰もが一人前に参加しているということのほうが、本来のメタバースの定義においては重要です」と説明しています。


「世界はこれから、こうなる」では、来たるweb3時代に、結局のところ、世界はどうなっていくのかについて、著者は「ガバナンスはトップダウン型からボトムアップ型へ、消費は、大企業主導の大量生産・大量消費型から、より細分化されたリレーション型へ、という具合に、社会のあらゆるところで「Decentralized=分散化(非中央集権化)」が起こっていく可能性は高いでしょう。そのなかで、web3で生まれたさまざまな仕組みが、環境問題をはじめとする社会問題の是正に役立てられていくことも、大いに考えられます」と述べています。


著者は、web3はある意味で1960~70年代、アメリカでヒッピー文化が盛り上がった頃の雰囲気に似ていると指摘し、「ベトナム戦争中のアメリカで、ヒッピーたちが旧来社会から離反して新しい文化を生み出したように、web3世代は、経済一辺倒の資本主義的な価値観から離反して、新しい文化を生み出そうとしている。組織に属さずDAOで自分の能力やスキルを発揮したり、NFTでお金に換算できない価値を大切にしたり、といったことです。ヒッピー文化は、長引くベトナム戦争に対する厭戦ムードから生まれたムーブメントでした」と述べます。


web3がヒッピー文化と文化的にどこか似た雰囲気を漂わせているのは、いまなお悪化し続ける環境問題や経済格差、それに加えてコロナ禍と、改めてさまざまな問題が噴出している世の中で、特に若者を覆うムードが似ているからなのかもしれないと考える著者は、「Web1・0やWeb2・0は『インターネット、おもしろいよね』『SNS、イケてるよね』というような気軽なノリでしたが、web3には、社会変革につながるような強い文化的なエネルギーを感じます」と述べます。この著者の見方は非常に面白いと思います。


さらに、著者は「僕個人の所感をいわせてもらえば、Z世代と呼ばれる若い人たちは、それほど物欲も強くなく、環境問題などの社会問題に敏感に見えます。その点で高度経済成長期やバブル期の空気を吸ってきた世代とはかなり感覚が違います。そう考えると、世代交代が進むにつれて、テクノロジーを活用してフェアで平等で持続可能な社会へと向かうべく、大きなパラダイムシフトが起こっていく可能性が高いというのが僕の予測です」と述べるのでした。


第1章「働き方――仕事は、『組織型』から『プロジェクト型』に変わる」の「ビジネスは『映画制作』のようになる」では、web3では、個人の働き方は「組織ベース」ではなく「プロジェクトベース」になっていくと指摘し、著者は「その主体は『DAO』です。DAOは会社組織ではなく、プロジェクトごとに立ち上げられるので、個人は、自分が興味を持ち、貢献できそうなDAOを見つけるごとに『参加する』というかたちで働いていくことになります。作品ごとに制作チームが立ち上げられて、スタッフや俳優を集めて進められる映画制作のような感じです」と述べています。映画製作ビジネスではなく、ビジネスそのものが映画製作のようになるというのはワクワクしますね。


「DAOは万能なのか」では、ビットコインブロックチェーンを用いた仮想通貨というアイデアに多くの賛同者が集まったことで、世界最大の仮想通貨へと成長したことを紹介し、著者は「ビットコインというプロジェクトは、世界中に散らばるエンジニアたちの手によって発展してきましたが、その責任者は誰でしょうか。ビットコインの考案者は『サトシ・ナカモト』なる人物ですが、この名前が本名であるかですら定かではなく、どこの誰であるのかを知る人はいません。しかし、そのアイデアには賛同する人がたくさん集まりました。どこの会社が開発しているかわかれば、国家がそれを潰すこともできるかもしれません。しかし、ビットコインのように誰が開発しているのかがわからない、人でも組織でもないコンピュータープログラムを規制することはできません。つまり、ビットコインのエコシステムは現行の法律の範疇に収めるのが非常に難しいのです」と述べています。


「仕事の『内容・場所・時間』からの解放は、格差是正につながるか」では、著者は「仕事の内容も場所も時間も、誰かに指示されるのではなく、自分主導で決められるというのが、web3的な働き方です。そういう働き方を僕たちが当たり前にしていけば、仕事にまつわる格差を小さくしていくこともできるとして、著者は「たとえば男女の格差。日本のジェンダーギャップ指数は156カ国中120位前後と、惨憺たる状況が続いています」と述べています。


男性優位の価値観はもちろん正していかねばなりませんが、仕組み面でボトルネックとなっているのは、やはり妊娠・出産という大きなライフイベントに対する無理解や不寛容であるとして、著者は「男性の育休など、以前に比べれば改善している部分もあるかもしれませんが、まだまだ、子どもを持つ女性が働きづらいという現状があります」と述べるのでした。こうした男女格差以外にも、介護などさまざまな事情によりフルタイムで働けない人、あるいは自身の心身が不自由で、会社に出勤することが難しい人もいるでしょう。既存の社会では、どうしても、そういう人たちが置き去りにされがちでした」と述べるのでした。


第2章「文化――人々の『情熱』が資産になる」の「たとえば『宗教的行為』『学位』をNFT化する」では、宗教的行為や学位をNFT化するという試みが提案されていますが、特に宗教的行為のNFT化が非常に興味深かったです。たとえば無形の宗教的行為は、まず非金銭的である、そして長期的な価値である(教徒にとって信仰は永遠)という2点でNFTと相性がいいとして、著者は「神職にある人や宗教学者の間で真剣に議論を進めたら、宗教的価値に連結させたNFTという、新しい信仰のかたちが誕生するかもしれません。たとえば『参詣NFT』。これは、あるお寺の僧侶と話をしていたときに思いついたアイデアなのですが、年に1回、参詣してお布施をすると付与されるNFTです。そのNFTは転売不可ですが、相続としての譲渡は可とし、なおかつ参詣とお布施が途切れると無効になるようにプログラムします。そうなると、信徒は必ず年1回は参詣し、お布施をするようになる」と述べています。


信仰としての行為が、半ば義務的になり「形骸化しないだろうか」という危惧もあることを認めた上で、著者は「技術的には可能だ、ということ自体がおもしろいことではないでしょうか。この習慣が親から子へ、子から孫へと受け継がれていけば、参詣NFTが、50年、100年・・・・・・にもわたるお寺と家族の系譜になります。いままでは古文書に記されていたようことを、ブロックチェーンに記していこうというわけです。テクノロジーによって認証された『デジタルな古文書』が、家宝として代々受け継がれていく。そんなことまで想像できてしまいます」と述べます。たしかに、この想像はおもしろいです。わたしは、「冠婚葬祭のNFT化」という大きなヒントを得ました。


第3章「アイデンティティ――僕たちは、複数の『自己』を使いこなし、生きていく」の「人類は、『身体性』から解放される」では、メタバースには重要なキーワードとして、「多様性」を挙げます。「ここはFacebook」「ここはTwitter」といったプラットフォームごとの分断がなく、オンライン上のさまざまなコミュニケーション空間が一緒になって「超=メタ」な「1つの世界=バース」を形成しているというのがメタバースの概念であると説明し、著者は「したがって空間と空間の行き来は自由で、なおかつ誰もが等しく参加できなくてはいけません」と述べています。


第6章「すべてが激変する未来に、日本はどう備えるべきか」の「デジタル人材の海外流出を防げ」では、日本は先進国のなかで唯一、賃金が上がっていない国であると指摘し、著者は「停滞に次ぐ停滞で、国の経済力はどんどん下がっている。『こんなに働いているのに、どうしてぜんぜんお金がないんだろう』とモヤモヤしている人は、特に若年層に多いに違いありません。この状況を打破するには何か大きなインパクトが必要で、web3は、そのインパクトになりうる、と僕は思います」と述べています。



過去にもきっかけはありました。2000年代初頭には「IT革命」の気運が高まり、著者も政府の要請で、何をどうしたらいいのかとずいぶん提言をしたと告白し、「その頃は『IT革命に乗り遅れたら、もう日本はおしましだ!』という空気がかなり強かったのですが、インターネットが一般に普及したあたりから、あっという間に盛り下がってしまいました。その後、東日本大震災が起こり、直近では新型コロナウイルスパンデミック。しかし日本は、そのつど危機に対応・対処してきただけで、社会や政治、産業が構造から変わったようには見えません。結局のところ、保守的なのです」と述べます。


「『ネクスト・ディズニー』が日本を席巻する日」では、いま、世界的に大きな関心事になっているのは「誰がweb3時代の覇者になるか」であり、著者は「マイクロソフト、Meta、Twitter、ソニー VS Bored Ape」の戦いになっていくと見ているとして、「単なる『猿の姿のPFP』からはじまったweb3の寵児が、ものすごいレベルの技術力と資金力で既存大企業をなぎ倒し、日本を席巻する日も近いかもしれない。それが、すでにリアルな未来として思い浮かぶくらいの話になっているのです」と述べます。


「ドメスティックをデジタルへ、デジタルをグローバルへ」では、日本は技術力には定評がありますが、それを武器として世界を相手に競争するのは、あまり得意ではないといいます。日本企業発でグローバルスタンダードになったものが少ないことがその証しであるとして、著者は「これから日本が行っていくべき変革とは、ドメスティックなものを、ただデジタル化するだけでなく、デジタル化を通じてグローバルな存在へと変えていくことだと思います。これを大きな目標とし。世界に照準を定めたゴール設定をすることが、日本再生の道を開く唯一の鍵だと考えます」と述べるのでした。


「おわりに」では、ゴールはビジョンから生まれ、ビジョンはパラダイムから生まれるとして、著者は「700年前、中世のイタリアで複式簿記が発明されたことによって、その後、経済を中心とした近代的な資本主義社会の仕組みが生まれました。お金をとにかく集めた人が勝ち、というパラダイムが生まれたのです。現代社会もこのパラダイムのなかにあります。経済の成長により、より多くの人たちが社会に参加できるようになり、生活は便利になり、豊かにもなりました。ただ、やはり、資本主義社会では、資本家にお金や権力が集中し、中央集権的になっていきます。その結果、貧富の差が生まれ、環境破壊なども進むことになってしまったのです。成長を前提としている以上、こうしたことはどうしても起こってしまう。このまま突き進んでいけば、きっと、破壊的な未来が僕たちを待ち受けているでしょう。要するに、既存のパラダイムが、そろそろ限界を迎えているのではないか、ということです」と述べています。



著者によれば、web3の最大の特徴は「Decentralized」=「分散」です。すべてを非中央集権化するテクノロジーをきっかけとして、わたしたちの社会は非中央集権的なパラダイムへと移行しようとしているとして、著者は「ここで何としても避けたいのは、『旧パラダイム VS 新パラダイム』という対立構造が生まれ、激化することです。多少の淘汰が生じるのは仕方ないと思いますが、社会的に許容できる範囲を超えて旧パラダイムの側で大きな犠牲や反発が生じれば、それこそスクラップからのビルドという破壊的な社会変革になってしまうでしょう。そんな事態を避けるためにも、やはり、テクノロジーに対するリテラシーを社会的に高め、そのテクノロジーによってどんなことが起こりうるのか、というビジョンを共有することが欠かせません」と述べるのでした。

 

 

2022年8月3日 一条真也

小倉から静岡へ

一条真也です。
8月に入って、さらに暑くなりましたね。
2日、わたしはJR小倉駅に向かいました。
互助会業界の会合で静岡に出張するためです。
今日は本当に暑いので、帽子を被っていきました。

JR小倉駅の前で

新幹線のぞみ28号に乗りました

 

現地では、全互協の新旧の正副会長が集合します。昨日、業界の大先輩にあたる大物経営者の方の訃報に接し、みんな悲しみに包まれています。現地では、その話も出ることと思います。小倉駅からは12時31分発の新幹線のぞみ28号に乗って、まずは神戸を目指しました。夏休みというのに、車内はガラガラで、貸し切り状態でした。やはり、全国的な感染拡大の影響でしょうか?

のぞみ28号の車内で


夏休みなのに、車内はガラガラ

読書をしました

 

すでに昼食は済ませていましたので、車内では読書をしました。『映画評論家への逆襲』荒井晴彦森達也白石和彌井上淳一共著(小学館新書)を読みました。コロナ禍で苦戦する全国のミニシアターを応援すべく、4人の映画脚本家・監督が行なったオンライントークショーの記録です。この4人は、単なる作品論、監督論を逸脱して、世評の高いヒット作をこき下ろし、名作の裏事情を暴露し、大監督を疑い、そして意外な作品をほめるという、かつてない映画座談会となりました。その濃厚かつ超辛口な内容をあますところなく伝える1冊で、興味深く読みました。


JR新神戸駅に到着しました


JR新神戸駅で乗り換え

 

JR新神戸駅には14時29分に到着。ホームには機動隊のような人々がたくさんいて、ものものしい雰囲気でした。新神戸駅にはいつも警官がたくさんいる印象ですが、どうやら暴力団対策の関係のようですね。小倉という平和な街に住んでいると、暴力団と言われてもピンと来ませんが。ホームにいた警官たちがわたしの方を見たので、ちょっとドキッとしました。「今日はハットも被って、サングラスもしているのでヤクザに間違えられたら嫌だなあ」と思いましたが、大丈夫でした。わたしは、同じホームから、14時34分発の新幹線ひかり512号に乗り換えました。そして、一路、目的地である静岡を目指しました。


ひかり512号の車内で


こちらもガラガラでした

ここでも読書をしました

 

ひかり車内もガラガラでしたが、その後、姫路駅から117の山下社長(全互協会長)が同じ車両に乗ってこられました。山下さんも静岡に行くのです。ひかり車内では、また読書をしました。『映画評論家への逆襲』は読み終わったので、今度は『見るレッスン 映画史特別講義』蓮實重彥著(光文社新書)を読みました。著者は、1936年東京生れ。映画評論家、フランス文学者。東京大学教養学部教授を経て、東京大学第26代総長。映画雑誌「リュミエール」の創刊編集長も務めました。本書の「はじめに」には、「まず読者の皆様にお伝えしたいのは、世間で評判になっている映画だけを見るのではなく、評判であろうとなかろうと、自分にふさわしいものを自分で見つけてほしいということです。とにかく、ごく普通に映画を見ていただきたい。蓮實個人の視点など学ばれるにはおよびません。もっぱら自分の好きな作品だけを見つけるために、映画を見てほしい」とあります。『映画評論家への逆襲』の帯には「勝手に観るな、この映画はこう観ろ」と書かれていますが、『見るレッスン』の帯には「他人の好みは気にするな、勝手に見やがれ!」と書かれています。メッセージが真逆で面白いですね。


JR静岡駅に到着しました


JR静岡駅のホームで

 

JR静岡駅には16時37分に到着しました。駅の改札口を出たところに、静岡を代表する冠婚葬祭互助会である「あいネット静岡」の杉山社長をはじめ、全互協の正副会長のみなさんが待っていて下さいました。その後、わたしたちは送迎のバスへ。明日の朝は一番で東京に向かい、5日は埼玉県の大宮で行われるお通夜に参列いたします。

 

2022年8月2日 一条真也

『22世紀の民主主義』

22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる (SB新書)

 

一条真也です。
『22世紀の民主主義』成田悠輔著(SB新書)を読みました。「選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる」というサブタイトルがついています。著者は、夜はアメリカでイェール大学助教授、昼は日本で半熟仮想株式会社代表。専門は、データ・アルゴリズム・ポエムを使ったビジネスと公共政策の想像とデザイン。ウェブビジネスから教育・医療政策まで幅広い社会課題解決に取り組み、企業や自治体と共同研究・事業を行うとか。東京大学卒業(最優等卒業論文に与えられる大内兵衛賞受賞)、マサチューセッツ工科大学(MIT)にてPh.D.取得。一橋大学客員准教授、スタンフォード大学客員助教授、東京大学招聘研究員、独立行政法人経済産業研究所客員研究員 などを兼歴任。内閣総理大臣賞・オープンイノベーション大賞という気鋭の経済学者・データ科学者です。


本書の帯

 

本書のカバー表紙には、「民主主義が意識を失っている間に手綱を失った資本主義は加速している――私たちはどこを目指せばいいのか? 人類は世の初めから気づいていた。人の能力や運や資源はおぞましく不平等なこと。」とあります。また、帯には著者の写真とともに、「言っちゃいけないことはたいてい正しい」と書かれています。


本書の帯の裏

 

帯の裏には「断言する。若者が選挙に行って『政治参加』したくらいでは日本は何も変わらない。これは冷笑ではない。もっと大事なことに目を向けようという呼びかけだ。何がもっと大事なのか?  選挙や政治、そして民主主義というゲームのルール自体をどう作り変えるか考えることだ。ルールを変えること、つまりちょっとした革命である」と書かれています。ちなみに、この帯の裏にはグリーンの蛍光ペンでマーカーされている趣向になっていますが、わたしは、こういうマーカーは好きではありません。読者を馬鹿にしていると思うからです。


アマゾンより

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
A.はじめに断言したいこと
B.要約
C.はじめに言い訳しておきたいこと
第1章 故障
第2章 闘争
政治家をいじる
メディアをいじる
選挙をいじる
UI/UXをいじる
第3章 逃走
第4章 構想
選挙なしの民主主義に向けて
民主主義とはデータの変換である
アルゴリズムで民主主義を自動化する
不完全な萌芽
政治家不要論
「おわりに:異常を普通に」
「脚注」


「A.はじめに断言したいこと」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。「分厚いねずみ色の雲が日本を覆っている。停滞と衰退の積乱雲だ。どうすれば打開できるのか? 政治だろう。どうすれば政治を変えられるのか? 選挙だろう。若者が選挙に行って世代交代を促し、政治の目を未来へと差し向けさせよう。選挙のたびにそんな話を聞く。だが、断言する。若者が選挙に行って「政治参加」したくらいでは何も変わらない」


今の日本の政治や社会は、若者の政治参加や選挙に行くといった生ぬるい行動で変わるような甘い状況にないことを指摘する著者は、「数十年びくともしない慢性の停滞と危機に陥っており、それをひっくり返すのは錆びついて沈みゆく昭和の豪華客船を水中から引き揚げるような大事業だ。具体的には、若者しか投票・立候補できない選挙区を作り出すとか、若者が反乱を起こして一定以上の年齢の人から(被)選挙権を奪い取るといった革命である。あるいは、この国を諦めた若者が新しい独立国を建設する。そんな出来損ないの小説のような稲妻が炸裂しないと、日本の政治や社会を覆う雲が晴れることはない。私たちには悪い癖がある。今ある選挙や政治というゲームにどう参加してどうプレイするか?そればかり考えがちだという癖だ。だが、そう考えた時点で負けが決まっている。『若者よ選挙に行こう』といった広告キャンペーンに巻き込まれている時点で、老人たちの手のひらの上でファイティングポーズを取らされているだけだ、ということに気づかなければならない」と述べています。


「何がもっと大事なのか?」と読者に問いかける著者は、「選挙や政治、そして民主主義というゲームのルール自体をどう作り変えるか考えることだ。ルールを変えること、つまりちょっとした革命である。革命を100とすれば、選挙に行くとか国会議員になるというのは、1とか5とかの焼け石に水程度。何も変えないことが約束されている。中途半端なガス抜きで問題をぼやけさせるくらいなら、部屋でカフェラテでも飲みながらゲームでもやっている方が楽しいし、コスパもいいんじゃないかと思う。革命か、ラテか? 究極の選択を助けるマニュアルがこの本である」と述べるのでした。


「B.要約」の「逃走」では、著者はこう述べます。
「たとえば、どの国も支配していない地球最後のフロンティア・公海の特性を逆手に取って、公海を漂う新国家群を作ろうという企てがある。お気に入りの政治制度を実験する海上国家やデジタル国家に、億万長者たちから逃げ出す未来も遠くないかもしれない。21世紀後半、資産家たちは海上・海底・上空・宇宙・メタバースなどに消え、民主主義という失敗装置から解き放たれた『成功者の成功者による成功者のための国家』を作り上げてしまうかもしれない。選挙や民主主義は、情弱な貧者の国のみに残る、懐かしく微笑ましい非効率と非合理のシンボルでしかなくなるかもしれない。私たちが憫笑する田舎町の寄り合いのように。そんな民主主義からの逃走こそ、フランス革命ロシア革命に次ぐ21世紀の政治経済革命の大本命だろう」


また、「構想」の要約として、著者は「無意識データ民主主義」を打ち出し、「インターネットや監視カメラが捉える会議や街中・家の中での言葉、表情やリアクション、心拍数や安眠度合い・・・・・・選挙に限らない無数のデータ源から人々の自然で本音な意見や価値観、民意が染み出している。『あの政策はいい』『うわぁ嫌いだ・・・・・・』といった声や表情からなる民意データだ。個々の民意データ源は歪みを孕んでハックにさらされているが、無数の民意データ源を足し合わせることで歪みを打ち消しあえる。民意が立体的に見えてくる」と述べます。無数の民意のデータ源から意思決定を行うのはアルゴリズムです。アルゴリズムとは、問題を解決するための手順をコンピューターのプログラムとして実行可能な計算手続きにしたものです。検索エンジンからおすすめ表示までウェブ上のあらゆる場所で動いています。

 

このアルゴリズムのデザインは、人々の民意データに加え、GDP・失業率・学力達成度・健康寿命ウェルビーイングといった成果指標データを組み合わせた目的関数を最適化するように作られます。意思決定アルゴリズムのデザインは次の二段階からなるといいます。
(1)  まず民意データに基づいて、各政策領域・論点ごとに人々が何を大事だと思っているのか、どのような成果指標の組み合わせ・目的関数を最適化したいのかを発見する。「エビデンスに基づく目的発見(Evidence-Based Goal Making)」と言ってもいい。
(2)  (1)で発見した目的関数・価値基準にしたがって最適な政策的意思決定を選ぶ。この段階はいわゆる「エビデンスに基づく政策立案」に近く、過去に様々な意思決定がどのような成果指標に繋がったのか、過去データを基に効果検証することで実行される。

 

無意識民主主義=
(1)  エビデンスに基づく目的発見

     +

(2)  エビデンスに基づく政策立案

として、著者は「民主主義は人間が手動で投票所に赴いて意識的に実行するものではなく、自動で無意識的に実行されるものになっていく。人間はふだんはラテでも飲みながらゲームしていればよく、アルゴリズムの価値判断や推薦・選択がマズいときに介入して拒否することが人間の主な役割になる」「無意識民主主義は大衆の民意による意思決定(選挙民主主義)、少数のエリート選民による意思決定(知的専制主義)、そして情報・データによる意思決定(客観的最適化)の融合である。周縁から繁りはじめた無意識民主主義という雑草が、既得権益、中間組織、古い慣習の肥大化で身動きが取れなくなっている今の民主主義を枯らし、22世紀の民主主義に向けた土壌を肥やす」と述べています。

 

この無意識データ民主主義という考え方を知って、わたしはSF的であると思いました。他の多くの読者もそうだとお思います。しかし、著者は「無意識データ民主主義の構想はSF(サイエンス・フィクション)ではない。SFは、想像力の限りを尽くして、ありえる世界とありえない世界の境界に触れ、ありえることを押し広げる営みだ。浮世離れして現実に追いつかれないことが価値になる」と言い切ります。そして、「無意識データ民主主義は構想というより予測である」と訴えるのでした。


「C.はじめに言い訳しておきたいこと」では、著者は「この本の内容が私独自の新しい見解だと主張するつもりはまったくない。独自性や親規性はほとんどどうでもよく、他人の考えも自分の発見も等しく部品として組み合わせ、未来に向けて走る自転車を作ってみたいという気分で書いてみた。私自身が新たに分析したり想像したり思考したりした情報もあれば、どこかの誰かが言ったり書いたりやったりしたことを意識してか無意識にか拝借したものもある。できるだけ参考文献を引用したが、不十分だろう。『それは私の(あるいは誰それの)言ったことだ』と思われたら、たぶんその通りだ。ありがとうございます」と述べます。そして最後に、「逆に、この本の内容を再利用したい場合はジャンジャンやってしまってほしい。私に連絡する必要も名前を記す必要もない。切り抜くなりパクるなりミックスするなり自由にしてほしい。自分のシマや功績が増えることより、世界や政治がちょっとでも変わることの方が楽しいからだ」と述べるのでした。これは、わたしの考え方とも共通するものであり、度量の広い著者に拍手をしたいと思います。


第1章「故障」の「○□主義と□○主義」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「人類を突き動かすのは主義(ism)である。経済と言えば「資本主義」、政治と言えば「民主主義」。嵐の前の静けさかと思うほどかつてない安全と豊かさの泡に包まれた欧米や日本にここ半世紀ほどの間に生まれた者にとって、子どもの頃から何千回と聞かされて、もはや犬も食わない合言葉だろう。2つを抱き合わせて民主資本主義(democratic capitalism)や市場民主主義(market democracy)と呼ぶことも多い。だが、ちょっと考えるとこの提携は奇妙である。ふんわりと言って、資本主義は強者が閉じていく仕組み、民主主義は弱者に開かれていく仕組みだからだ。だが、ちょっと考えるとこの提携は奇妙である。ふんわりと言って、資本主義は強者が閉じていく仕組み、民主主義は弱者に開かれていく仕組みだからだ」


資本主義経済では少数の賢い強者が作り出した事業がマスから資源を吸い上げます。事業やそこから生まれた利益を私的所有権で囲い込み、資本市場の福利の力を利かせて貧者を置いてけぼりにします。戦争や疫病、革命がなければ、富める者がますます富むとして、著者は「平時の資本主義のこの経験則を描いたものにはピケティ『21世紀の資本』からシャイデル『暴力と不平等の人類史』まで枚挙にいとまがない。そんな強者や異常値に駆動される仕組みが資本主義だ」と述べます。一方の民主主義はその逆であるとして、著者は「そもそも民主主義とは何か? 民主主義(democracy)の語源はギリシア語のdemokratiaで、『民衆』や『人民』などを意味するdemosと、『権力』や『支配』などを意味するkratosを組み合わせたものだという。『人民権力』『民衆支配』といった意味になる」と説明します。


暴れ馬・資本主義をなだめる民主主義という手綱・・・・・・その躁鬱的拮抗が普通選挙普及以後のここ数十年の民主社会の模式図だったと指摘し、著者は「資本主義はパイの成長を担当し、民主主義は作られたパイの分配を担当しているとナイーブに整理してもいい。単純すぎるが、単純すぎる整理には単純すぎるがゆえのメリットがある」と述べています。また、「感染したのは民主主義:人命も経済も」では、著者は「民主主義的な国ほど命も金も失った。そして、コロナ禍初期における民主国家の失敗もまた、民主主義が原因で引き起こされたものだと示すことができる。このことは、コロナ禍初期によく議論された『人命か経済か』という二者択一(トレードオフ)の議論がおそらく的外れなことも意味する。現実には人命も経済も救えた国と、人命も経済も殺してしまった国があるだけだったのだ」と述べます。


「21世紀の追憶」では、民主主義の失われた20年がはじまった2000年前後は、偶然か必然か、世界経済を牛耳ることになる独占ITプラットフォーム企業が勃興した時期と重なると指摘し、著者は「アマゾンの創業が1994年、グーグルが誕生したのは1998年だ。日本でも、ライブドアオン・ザ・エッヂ)やヤフージャパンの創業が1996年、楽天(エム・ディー・エム)の創業が1997年、NTTドコモのiモードの立ち上げが1999年、LINE(ハンゲームジャパン)の創業が2000年だ。その直後に同じくらい重大な、しかしあまり目立たない出来事が起きている。もう1つのその後のスーパーパワー中国のWTO世界貿易機関)加盟である。一見すると地味なこの出来事は、しかし、世界経済に強烈な衝撃を与えたと考えられている」と述べます。


「失敗の本質」では、ビル・ゲイツが、2015年のTED講演で「次の世界大戦はウイルスとの戦争になる。そしてその戦争に向けた準備を人類はできていない」と語り、驚くほど高い解像度でコロナ禍のような感染症の混乱を予言していたことを紹介します。さらにオバマ政権からトランプ政権への引き継ぎの重要項目が、来るべき感染症危機だったことも公開情報になっているとして、著者は「民主主義を象徴する世界一の大国の住民であり、世界でも最も影響力のある経済人と政治家が具体的な提言をはるか以前からしていた。にもかかわらず、その警告をアメリカや他の民主国家はほぼ見事に無視してきた」と述べています。


「デマゴーナス・ナチス・SNS」では、選挙は、みんなの体と心が同期するお祭りなので、空気に身を任せる同調行動にうってつけであるとして、著者は「数百年前であれば、同調は狭い村落内に閉じた内輪ウケでいてくれた。だが、メディアやメディアハッカーが存在する今では国や地球の規模に同調が伝播するようになった。さらに、生活や価値が分岐するにつれ政策論点も微細化して多様化しているのに、いまだに投票の対象はなぜか政治家・政党でしかない。個々の政策論点に細かな声を発せられない。こうした環境下では、政治家は単純明快で極端なキャラを作るしかなくなっていく。キャラの両極としての偽善的リベラリズムと露悪的ポピュリズムのジェットコースターで世界の政治が気絶状態である」と述べるのでした。


第2章「闘争」の「シルバー民主主義の絶望と妄想の間で」では、かつての英国の宰相ウィンストン・チャーチルか誰かが「君が25歳で進歩派でないなら心に問題がある。35歳で保守派でないなら頭に問題がある」と語ったことを紹介し、著者は「確かに、若者と老人の価値観のズレは人間の常である」として、さらに「世代間の衝突は人類の原動力でもある。歴史を塗り替えるのはいつも『若くて無名で貧乏』(毛沢東)なひよっ子だ。老害への怒りとさげすみを胸に革命を起こした若者は、しかし、やがて自ら老害化し、次の世代に葬り去られる。私たちは『葬式のたびに進歩する』(ドイツの物理学者マックス・プランクの発言からくる英語の格言)というわけだ。しかし、今世紀に入ったあたりから何やら雲行きが怪しい。若者の怒りが絶望に、そして脱力に変わりつつあるように感じる。老害を葬り去ってくれるはずの葬式がどんどんと先に延び延びになり、政治がゾンビ化した高齢者に占拠される。シルバー民主主義への絶望と脱力である」と述べます。マックス・プランクが「葬式のたびに進歩する」と言っていたなんて、初めて知りました!



「選挙をいじる」の「未来の声を聴く選挙」では、自民党支持率を見ると20代でも60代でも大差なく、むしろ20代の方が高いことが多いくらいだということを指摘。日本の世代間政治対立は鈍く、アメリカでは若い世代ほどリベラルで民主党支持率が高い傾向がはっきりあるのと対照的だといいます。さらに、もう1つ根深い問題があるとして、著者は「それは若者が貧乏になっていることだ。今の日本でお金と時間を持つのは高齢者だ。なので、彼らは『文化が』とか『国家が』とかフワフワしたことを考える時間も余裕もある。それに比べ、今の日本の20代は本当に崖っぷちな状況だ。過半数の人が資産ゼロで貯金10万円以下、わずかな給料で自転車操業している状態だと考えられている。体を壊してちょっと働けなくなったら一瞬で破綻する人が今の日本の若者の多数派になっている。この状態で遠い未来に向けた国家としての投資を考えろと言っても、無理がある」


「政治家・政党から争点・イシューへ」では、著者は選挙のアップデート案について、「こんな仕組みが考えられる。政治家や政党ごとに投票するのではなく、不妊治療の保険適用化や年金支給年齢の変更、LGBT法制といった個別の論点ごとに投票する。さらに、有権者それぞれにたとえば100票を割り当てる。一人一票ではなく、『自分にとって大事な政策への投票には多くの票を投じられる』ようにする。信頼できる第三者に票を委任することを許すこともできる」と提案しています。ここは、本書のキモであると言えるでしょう。


「UI/UXをいじる」の「ネット投票の希望と絶望」では、教育の「過剰」について言及。著者は、「米英の有権者を調べた研究によれば、有権者は高学歴になるほど党派的で独善的になり、議論と反省によって意見を修正していく能力を失っていく傾向があるという。学歴や知識が増すごとに自分は正しいと思い込む傾向があることがその理由だ。この頑固さは民主主義の基礎を脅かす」と述べます。また、「前提条件が崩れる中で選挙の微調整を議論しても対処療法にしかならないだろう。選挙という概念一般が病にかかっていることが問題なのに、『相対的にまだマシな選挙はこれ』という処方箋になっていない処方箋を出しているようなものだからだ。真に必要なのは、選挙の再発明ではない。むしろ『選挙で何かを決めなければならない』という固定観念を忘れることだ」と述べるのでした。


第3章「逃走」の冒頭で、著者は「いっそ闘争は諦めて、民主主義から逃走してしまうのはどうだろう? 民主主義を内側から変えようとするのではなく、民主主義を見捨てて外部へと逃げ出してしまうのだ。『反民主主義』や『迂回民主主義』と言ってもいいかもしれない」と述べています。国家からの逃走は、一部ではすでに日常であるとして、著者は「たとえば富裕層の個人資産。ルクセンブルクからケイマン諸島ヴァージン諸島シンガポールまで、低い税率そして緩い資産捕捉を求めるタックス・ヘイブンを浮遊する見えない個人資産は、世界の全資産の8%を超えるとも言われる」と述べます。「タックス・ヘイブンがあるように政治的『デモクラシー・ヘイブン』もありえるのではないか?」というわけです。


「デモクラシー・ヘイブンに向けて?」では、「地球最後のフロンティアは、世界の海の半分を占める公海だとよく言われる。どの国も支配していない公海の特性を逆手に取って、公海を漂う新国家群を作ろうという企てがある。『海上自治都市協会(The Seasteading Institute)』と呼ばれる新国家設立運動だ。他に似た試みを行う団体に『青いフロンティア(Blue Frontiers)』などもある(現在は活動停止中の模様)。こうした構想が行動に移されつつある背景には、クルーズ船のような大型船舶を建造する費用が下がり、技術面・費用面での現実性が増していることがあるという」と書かれています。


「すべてを資本主義にする、または〇□主義の規制緩和」では、21世紀後半、億万長者たちは宇宙か海上・海底・上空・メタバースなどに消え、民主主義という失敗装置から解き放たれた「成功者の成功者による成功者のための国家」を作り上げてしまうかもしれないと推測し、著者は「選挙や民主主義は、情弱な貧者の国のみに残る、懐かしく微笑ましい非効率と非合理のシンボルでしかなくなるかもしれない。私たちが憫笑する田舎町の寄り合いのように。そんな民主主義からの逃走こそ、フランス革命ロシア革命に次ぐ21世紀の政治経済革命の本命だろう。フランス・アメリカ革命が民主主義革命、ロシア革命が共産・社会主義革命だったとすると、次に来るべきは資本主義革命かもしれない」と述べています。


「資本家専制主義?」では、新国家は最終的には一般の人々にも開放される楽観的予感もあるとして、著者は「お金と権力を手に入れた人間は、最終的には偉人としてチヤホヤされたいという承認・達成欲求にたどり着く。承認・達成欲求は弱者への施しを生む。たとえば前澤友作さんは、Twitterでシングルマザーなどにお金を配るキャンペーンをしていることで良くも悪しくも有名だ。小金に群がる一千万人単位のイナゴユーザー情報を効率よく集められて情弱ビジネスし放題という側面もあるだろう。ただ、それと同じかそれ以上に強い動機は『日本人の父になりたい』といった野心のように感じられてならない。お金配りを続ければ、自らのお金で育った子どもたちやその家族が日本中に増殖していく。最終的には巨大な拡張家族や故郷もどきにたどり着く。そこに育まれるのはお金では買えない大きな絆のようなものだろう」と述べるのでした。


第4章「構想」の「民主主義とはデータの変換である」では、著者は「民主主義とはデータの変換である。そんなひどく乱暴な断言からはじめたい。民主主義とはつまるところ、みんなの民意を表す何らかのデータを入力し、何らかの社会的意思決定を出力する何らかのルール・装置であるという視点だ。民主主義のデザインとは、したがって、(1)入力される民意データ、(2)出力される社会的意思決定、(3)データから意思決定を計算するルール・アルゴリズム(計算手続き)をデザインすることに行き着く」と述べています。


「なぜ選挙という雑なデータ処理装置がこれほど偉そうに民主主義の中核に鎮座しているのだろうか?」との疑問に対し、著者は「選挙が使うデータの質や量がいいからではない。立候補した少数の政治家・政党の中から好みの1つを選んだだけの投票データは、投票者の意思のほんの一部しか反映していない貧しいデータなことは誰の目にも明らかだろうとして、著者は「データ処理の方法が洗練されているからでもない。多数決のようなよく使われる集計ルールは欠陥だらけなことがよく知られている」と述べます。


さらに著者は、「そんな貧しさや欠陥にもかかわらず選挙を私たちが受け入れているのは、数百年前の段階でギリギリ全国を対象に設計・実行できた処理装置が選挙だからだろう。そして、法律や歴史を通じて正統性や権威性をまとったからだろう。はじめとおわりがはっきりしていて、勝者と敗者がきっぱり決まるゲームのような透明性ゆえに、暴力や内戦による血みどろの意思決定を避けられたことも大きかったに違いない」と述べます。そして、「歪み・ハック・そして民意データ・アンサンブル」では、著者は「平均化・アンサンブル化されるアルゴリズム群は、無意識民主主義にデータ・アルゴリズムの多元性と競争性をもたらす点にも注目してほしい。多様な民意データ源たちが互いに競い合いながらより良い民意抽出を目指す。無意識データ民主主義が民主主義たる理由がここにある」と述べるのでした。

 

「選挙vs.民意データにズームイン」では、無意識データ民主主義について、著者は「現状と対比した無意識データ民主主義は、民意を読みながら政策パッケージをまとめ上げる前の段階をもっとはっきり可視化し、明示化し、ルール化する試みだとも言える。そして、ソフトウェアやアルゴリズムに体を委ねることで、パッケージ化しすぎずに無数の争点にそのまま対峙する試みとも言える。その副産物として、政党や政治家といった20世紀臭い中間団体を削減できる」と述べています。


 

「無意識民主主義の来るべき開花」では、民主主義はグダグダで後手後手なので有事に弱いと言われてきたし、一方で、独裁や専制は指導者が狂えばすぐに有事を作り出してしまうとして、著者は「民主と専制のいいとこ取りをした幸福な融合はありえないだろうか?」と問いかけます。そして、「無意識民主主義は1つの答えを与えてくれる。民意データを無意識に提供するマスの民意による意思決定(民主主義)、無意識民主主義アルゴリズムを設計する少数の専門家による意思決定(科学専制・貴族専制)、そして情報・データによる意思決定(客観的最適化)の融合が無意識民主主義であるからだ」と述べるのでした。


「政治家不要論」の「政治家はネコとゴキブリになる」では、わたしたちの社会はだんだん「人間を属性で区別するな」という社会になっていると指摘し、著者は「男女で区別するな、年齢で区別するな、人類皆同じと考えようという方向にだんだん向かっている。この流れが今後も続くと、人間とそれ以外の動物や生命も区別するなという方向にいくと予想できる。ある種のベジタリアンやビーガンの友人たちと話すと、解体される鶏や〆られるサバが感じる痛みへの共感を切々と語ってくれることがある。あの感じだ」と述べています。


ネコが政治家になる世界は思ったより早く到来しそうだとして、著者は「2022年春には元おニャン子クラブ生稲晃子氏が参院選への出馬を表明した。それどころではない。実は本物のネコがすでにアメリカ大統領選に出馬済みである。1988年の大統領選挙に出馬したオスネコ『モリス』だ。モリスは当時人気のキャットフードの広告塔だった。テレビや雑誌に出まくっていたモリスの露出度は抜群で、そこらの政治家より高い知名度を誇っていた」と述べます。「おニャン子クラブ」は人間界のアイドルであってネコではありません。また、1988年の大統領選挙に出馬したオスネコ「モリス」というのは、いくらネットで調べたら本当でした。ビックリ!



また、著者は「こうしたことを言うと『しかしネコやゴキブリは言葉をしゃべれない』と言ってくる人が多い。だが、数百年前のヨーロッパ人植民者たちは、自分たちの言語が通じない植民地の他民族のホモ・サピエンスをコミュニケーション相手や(被)選挙権の主体だなどと思っていただろうか? ほとんど動物と同じだと見なしていたからこそ、ごく自然に奴隷として酷使できたのではないだろうか? その精神性が時間をかけて変わってきた」とも述べます。うーん?


また、著者は「ネコやゴキブリでなくてもいい。より現実的で短期的には、VTuber(Virtual YouTuber)やバーチャル・インフルエンサーのようなデジタル仮想人がそういう存在になっていくだろう。VTuberが政治家の身代わりになって、生身の人間政治家への誹謗中傷を引き受ける。その仮想人を鬱や自殺にまで追い込むとスッキリする・・・・・・そんなサービスが出てくれば生身の人間も仮想人もWin-Winだ。そして、VTuberや仮想人の人権を大マジメに議論する時代がくる」とも述べます。


さらに、著者は「ネコやアルゴリズムに責任が取れるのか」という疑問だについて、「そもそも人間の政治家は責任を取れているのだろうか? 今の自民党の執行部には80代の後期高齢者がゴロゴロいる。彼らが社会保障や医療や年金や教育といった制度や政策を作っている。数十年先の社会にこそ影響を与える政策に、80代の政治家は一体どんな責任を取れるのだろうか? 結果が出る頃には確実に亡くなっているというのに。ということは、人間政治家が責任を負えていると盲信することは、死者に責任追及できると言っているのに限りなく近くなる。言葉が通じず言葉も発さない死者は、一体どんな反省の弁を聞かせてくれるだろうか? 墓場に眠る人間が生きたネコや不眠不休のアルゴリズムより責任感に満ちていると信じる理由はどこにあるのだろうか?もはや哲学的である」と述べるのでした。民主主義の再生に向けた民主主義の沈没、それが無意識データ民主主義であるという著者の主張には説得力があり、本書は民主主義のアップデートについて考える最高のテキストでした。最後に、著者の人気の秘密は、頭の良さとともに声の良さにあると思います。

 

 

2022年8月2日 一条真也

『さらば、欲望』

 

さらば、欲望 資本主義の隘路をどう脱出するか (幻冬舎新書)


一条真也です。
『さらば、欲望』佐伯啓思著(幻冬舎新書)を読みました。「資本主義の隘路をどう脱出するか」というサブタイトルがついています。日本を代表する社会経済学者で思想家でもある著者は、1949年奈良県生まれ。京都大学名誉教授。東京大学経済学部卒。東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。2007年正論大賞ブログ『反・幸福論』ブログ『死と生』で紹介した本をはじめ、『隠された思考』(サントリー学芸賞)、『日本の宿命』、『正義の偽装』、『西田幾多郎』、『さらば、資本主義』、『反・民主主義論』、『経済成長主義への訣別』などの多くの著書があります。


本書の帯

 

本書の帯には「絶望から始めよ。」と大書され、「富を、領土を欲する、むき出しの『力』が衝突する世界で・・・・・・」「稀代の思想家が再生のための新たな価値を模索する」と書かれています。


本書の帯の裏

 

帯の裏には「すべたの惨状は、グローバリズムの必然の帰結なのだ」として、以下のように書かれています
ソ連解体で問われた「ロシア的なもの」
◆文明が衝突するとき、日本はどうするのか
◆情報・知識は市場競争原理になじまない
◆民主主義こそが独裁者を生み出す
グローバリズムが引き起こしたパンデミック
国民主権は民主主義の根本原理なのか
◆民意が間違い続けた結果の「失われた30年」
◆問題は資本主義ではなく、近代人の果てしない欲望

 

 

本書のカバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
グローバリズムの矛盾が露呈し、新型コロナに襲われ、ついにはプーチンによる戦争が始まった。一体何が、この悪夢のような世界を生み出したのか――自由、人権、民主主義という『普遍的価値』を掲げた近代社会は、人間の無限の欲望を肯定する。欲望を原動力とする資本主義はグローバリズムとなり、国益をめぐる国家間の激しい競争に行き着いた。むき出しの『力』の前で、近代的価値はあまりに無力だ。隘路を脱するには、われわれの欲望のあり方を問い直すべきではないか。稀代の思想家による絶望と再生の現代文明論」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

   序章 「ロシア的価値」と侵略

第1章 なぜ誰もがこんなに生きにくいのか
GAFAのあまりに巨大な市場支配力
成長戦略・親米政策への懐疑
振りかざされる「正義」
民主主義こそが独裁者を生み出す
グローバル・スタンダードとは違う
      「われわれの常識」
「改革狂」がもたらした失敗
なぜ誰もがこんなに生きにくいのか
ただ生きること・よく生きること
第2章 かくも脆弱だった現代文明
壮大な「ごっこ」と化した世界
国語力を失った社会の末路
かくも脆弱だった現代文明
人が死生観を求めるとき
安倍政権とは何だったのか
第3章 さらば、欲望
「不要不急」と「必要」の間
「魂」は今ここにある
「対コロナ戦争」か「コロナ対策」か
かくも危ない国民主義
資本主義の臨界点

第4章 「民意」亡国論
第5章 ポスト・コロナ時代の死生観
1 経済より重要なのは「死生観」
2 人間と環境の循環構造
3 人間だけが「死」を意識する
第6章 日本近代、ふたつのディレンマ
1 日本近代の宿命
2 福澤諭吉の予言
3 革命と復古と独立自尊
4 「言語道断の窮状」
5 偉大なものの敗北
「あとがき」

序章「『ロシア的価値』と侵略」で、著者は、今からちょうど100年前の1922年、ドイツの文明史家であるシュペングラーによって『西洋の没落』第2巻が書かれたことを紹介し、「この書物の中で、彼は、壮大な近代文明を生みだしたヨーロッパはいまや没落のさなかにある、という。ヨーロッパが生みだした近代文明の典型は、アメリカ文明とソ連社会主義であった。科学的合理性と技術に基づく経済発展を目指し、ヨーロッパ啓蒙の精神を受け継いで理想社会の実現を標榜するこのふたつの文明によって、ヨーロッパの『文化』は没落するとシュペングラーはいう。『文化』とは、ある特定の場所に根づき、時間をかけて歴史的に成育する民族の営みである。それは、アメリカ文明とソ連が掲げる普遍的な抽象的理想や歴史の最終的な目的といった観念とは相いれない」と述べています。

 

 

改めて振り返ってみれば、ナチスによってズタズタにされたヨーロッパ文化の崩壊後に出現したのが、ともに近代的な人工的文明であるアメリカとソ連の対立であったと指摘する著者は、「そしてソ連は91年には消滅し、残ったのはアメリカ文明である。アメリカ文明は、ある独特の思考の形をとる。それは、歴史は、個人の諸権利、自由やデモクラシー、法の支配、市場競争などの普遍的価値の実現に向けて動いてゆく。またそうあるべきだ、という。さらに、その普遍的価値の実現こそは米国の使命だとする」と述べます。


グローバリズムの失敗でむき出しになる『力』」では、ロシア革命によって社会主義ソ連が成立した後、ヨーロッパに散らばった旧ロシア帝国の亡命知識人たちは、ヨーロッパにも同化できず、自らのアイデンティティを模索したことを指摘し、著者は「その中から立ち現れてきたのがヨーロッパとアジアに挟まれ、両者と重なりつつもそのいずれでもない、いわゆる『ユーラシア主義』であった。ユーラシアとは、『ユーロ』と『アジア』の合成語であるが、この場合、ユーラシア主義者が特に懐疑心を募らせたのは、アジアよりもヨーロッパに対してであった」と述べています。



西洋とは一線を画するロシア的なものへのアイデンティティを求める心情からすれば、ウクライナのヨーロッパへの接近は一種の背信行為と見えるとして、著者は「言い換えれば、米国中心の西洋的秩序の中にあっては、ロシアは決して一級国家にはなれないという思いがあり、NATO北大西洋条約機構)の拡大は、西洋的秩序の具体的な脅威と映るのであろう」と述べます。ロシアは、一方で西洋近代から圧倒的な影響と脅威にさらされつつも、半ばアジアに属して、独自の「ロシア的なもの」を模索してきました。この歴史について、著者は「実は、日本とも無縁ではない。日本の近代も西洋の脅威にさらされつつも、同時にアジアの一員であるという意識を放棄できなかった」と指摘します。


西洋近代の価値がうまく機能しない今日、日本もまたその「精神的な風土」を問われているのではなかろうかと推測する著者は、「にもかかわらず、戦後の日本は、そのような問いを発することもなく、米国流の歴史観、世界秩序観の信奉者であった。今日、冷戦後のアメリカ流グローバリズムの表皮が剥がれつつあるなかで、われわれはむき出しの『力』が作動する世界へ移行しつつある。ユーラシア大陸の中央部と東西の端はかなり異なった文明を持っている。西洋、アジア、ユーラシアの大国を舞台にした文明の衝突が起きる時、日本は、そのはざまにあって、前線に置かれる」と述べるのでした。


第1章「なぜ誰もがこんなに生きにくいのか」の「GAFAのあまりに巨大な市場支配力」の「特定の企業がビッグデータを独占」では、GAFAと総称される米国のIT大手4社(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)が問題となっていると指摘する著者は、その理由について「あまりに巨大な市場支配力をもちすぎたためである。実際には、課税逃れや顧客情報の管理に関する問題等が指摘され、何らかの規制の必要性が論議されている」と述べています。この問題の根は深く、今日の経済を考える上でも重要な論点をはらんでいるとして、著者は「IT系の情報産業がグローバル市場のなかで巨大な市場支配力をもつのは当然のことで、ひとつの理由は、情報・知識は、通常の工業製品とはまったく違うからだ」と述べます。


自動車やテレビなどは、無限に生産を拡大することはできないとして、著者は「生産の拡張もある段階までくれば、追加的な費用が急増するため、いずれ生産の臨界点に達する。しかし、情報・知識の場合はまったく違っている。設備も工場も人員も比較的少なく済み、生産や販売に関する費用はきわめて小さく、市場が拡大すればするほど、追加的な費用が減少する。経済学でいう限界費用逓減といわれる現象である。この場合には、ほとんど無限に市場を拡大することができる」と説明します。簡単にいえば、最初にうまく市場に乗った企業は、ほとんど世界中の市場を手にすることが可能となるわけです。当然、市場目当ての広告収入は増加しますから、圧倒的な利益を手にすることができます。

かくてグーグルの親会社は今日、約12兆円の売り上げをもち、アマゾンは20兆円近い売り上げを誇るわけです。情報・知識産業においては、通常の市場競争原理は適切な結果をもたらさないのです。第2に、情報・知識は、本質的に公共的なものであると指摘し、著者は「ネット上に公開された情報は誰もが閲覧できる。ツイッターなども公開される。ユーザーが使用したあらゆるデータもその場で消え去るのではなく、蓄積され保存される。つまりこれは本質的に公共性をもっているのだ。にもかかわらず、その顧客データは、特定の企業に独占され、ビッグデータとして私企業によって管理されることになる。ここに、今日の情報資本主義の危うさがある」と述べるのでした。

「情報・知識は市場競争原理になじまない」では、社会学者のダニエル・ベルの世界的に有名な著作である『脱工業社会の到来』が取り上げられます。ベルは、来たるべき情報・知識社会とは、市場競争一辺倒の社会ではなく、公共的な計画によって人々の公共的な生活を向上させる社会であると唱えました。なぜなら、情報・知識は本質的に公共性をもつため、それは市場競争原理にはなじまないからです。私的利益の対象とみなすよりも、それらを人々の公共的な生活の質の向上のために使うべきだと主張したのです。


このベルの考えを受けて、著者は「現実には80年代の新自由主義的な市場競争や90年代のIT革命によって、情報・知識は市場で莫大な利益を生む強力な新産業へと成長した。その結果、GAFAと呼ばれる巨大IT企業が圧倒的な市場支配力をもつだけではなく、今日の社会のもっとも基本的なプラットフォームを形成することで、われわれの生活全般に対して大きな影響力をもつようになった。プラットフォームとはインフラストラクチャーである。それは今日の経済のみならず、われわれの社会生活や文化の共通の基盤となっている。言い換えれば、きわめて重要な公共的役割を担う一種の『社会資本』となっている。かくてGAFAはわれわれの生活や文化の全般において圧倒的な力をもつことになった」と述べています。

そして、「必要なのは公正・公共的なシステム」では、著者は「われわれが今日必要としているのは、新手の消費財というよりも、むしろ、生活の質に関わるシステムではなかろうか。適切な医療体制の構築、人生の最期の迎え方を支えるシステム(介護や終末期医療など)、人間的な力全般に関わる教育システム、高度な専門的学術や基礎研究、家族や地域の健全な人間関係、特に地方における公共交通機関、住環境や職場環境、防災のシステム、伝統的な文化の継承や保護の仕組みといったものではなかろうか。これらはすべて公共的なシステムに関わる。そして、これらの公共的なシステムの構築こそは情報・知識の適切な使用と不可分であろう。まさにかつてベルが述べた通りなのである」と述べるのでした。この意見には全面的に賛成ですが、ここにある「家族や地域の健全な人間関係」や「伝統的な文化の継承や保護の仕組み」などは、わたしの本業である冠婚葬祭互助会と密接な関係があるように思えます。


グローバル・スタンダードとは違う『われわれの常識』」では、日産自動車会長であったカルロス・ゴーン氏が逮捕された事件が取り上げられます。ゴーン氏の日産社長就任によって、日産の多くの工場が閉鎖され、2万人を超す従業員が解雇され、その上で日産は奇跡の業績回復を果たしました。その功績によって彼は「コストカッター」の異名をとって日産の大功績者となったことを指摘し、著者は「『コストカッター』などといえば聞こえはよいが、へたをすればこれは『ヒューマンカッター(人間切り)』である。2万人を超す従業員の犠牲の上に、5年で100億円の報酬を受け取るということは、法的問題はなくとも倫理的な問題ではないだろうか。これが常識的な感覚であろう。もしも、虚偽記載の理由が社員の批判を恐れたというものであるなら、彼が恐れたのはこの常識である」と述べています。

「自己責任や能力主義を受け入れるのか」では、著者は「ゴーン氏の問題を離れてもう少し一般化していえば、今日のグローバル市場は、短期間に企業業績を回復させ、株価を上昇させた経営者には巨額の報酬を与え、他方で、一般従業員の平均的賃金は下落させる。それがグローバルな競争原理であり、自己責任原則であり、成果主義能力主義である、ということになった。法に違反しなければ問題はない。だが、かつて自由な市場競争の重要性をいち早く発見して『経済学の父』などと呼ばれるアダム・スミスはまた『道徳感情論』の著者でもあって、人間社会を構成するものは、人々の相互に対する共感(同感)だと強く主張していた。いくら個人の自由や競争といっても、市場がうまく機能するためには、その背後に人々相互の共感がなければならないことをスミスは知っていた。市場競争といえども、社会のなかにある人々の信頼や相互的共感に支えられなければならないのである」と述べています。


倫理観や道徳観念は国や地域によって少しずつ異なっていると指摘する著者は、「一般論としていえば、米国では、自由競争、自己責任、法の尊重(逆にいえば法に触れなければよい)、能力主義、数値主義などが大きな価値をもって受け入れられる。しかし、日本ではそうではない。協調性やある程度の平等性、相互的な信頼性などが価値になる。だが米国流の価値をグローバル・スタンダードとみなしたとき、グローバル競争は、日本の価値観や道徳観とは必ずしも合致しなくなる、しかしそれでよいではないか。もともとグローバル・スタンダードなどという確かなものはないのだ。あるのは、それぞれの国の社会に堆積された価値観、つまり『常識』であり、そこには明示はされないものの、緩やかな道徳観念がある。企業も市場経済も、この『われわれの常識』に基づいているはずなのである」と述べるのでした。


「なぜ誰もがこんなに生きにくいのか」の「名状しがたい不安感、危機感、窮屈館」では、表面を見れば日本はそれほどにぎやかで活気があるように見えるとしながらも、このにぎやかさの背後にしのびよっている何か得体の知れない不安を感じることも事実であろうとして、著者は「実際、若い人と話をしていると、案外と名状しがたい不安感や危機感をもっている人は多い。その正体を特定するのは容易ではないが、何かがうまくいっていない、という。ありあまるほどの自由を享受しながら、どうしようもなく窮屈で、常に心理的ストレスを感じている。安倍政権の評価とは別に、政治そのものが体をなしていないのではないか、という。かつてない豊かさを享受し、あらゆるめずらしいものが食卓に並ぶが、別にほしいものはない。仕事は見つかるが、はたらいてもやりがいがない、という。ネットで誰とでもつながれるが、本当に信頼の置ける仲間がいない。そして、実際、こころの不安を抱える者は多く、また家族や親子などの近親者間での犯罪が多発し、あおり運転などというものも出現する。表面のにぎやかさの背後で何か大事なものが壊れている、という印象を私もぬぐえない」と述べています。


「ただ生きること・よく生きること」の「積極的安楽死への共感」では、著者は「私は、安楽死にはかねて肯定的であった。消極的安楽死は当然、積極的安楽死も、一定の条件のもとで容認されるべきだと思っていた」としながらも、同時にそれを「尊厳死」と呼ぶことには抵抗があったことを告白します。なぜなら、「死」とは、人間の、いや生物であり生命体であるものの根源的な事実であって、死に方に尊厳も何もないだろうと思っていたからだそうです。「こと切れれば死ぬだけである。イヌやネコに尊厳死も何もないであろう。死という意味では人間も同じだ」と思っていたといいます。

「『死』は経験できないが『死に方』は経験できる」では、積極的安楽死に対して肯定的であった理由について、著者は「この先、死を待つだけの生が耐えがたい苦痛に満ちたものでしかなければ、できるだけ早くその苦痛から逃れたいからである。これは多分に利己的な動機であるが、おそらく多くの人が感じていることでもあろう。今でも、死というものについての私の基本的な了解はそのようなものである。生命体にとって死は当然の事実であって、あまりの苦痛に耐えがたければ自死安楽死もひとつの選択である、と」と述べています。


著者がドイツの哲学者ハイデガーの書いたものを読んでいたら、次のような文章にであったそうです。人間が「死すべき者」と呼ばれるのは、人間が死ぬことができるからである。死ぬのは人間だけである。動物はただ生を終えるだけである。著者は、「なるほど、と思った。動物は死なないのである。ただただ自然に生命が消えるだけだ。『死』とはひとつの意識であり、意図でもある。人間は、死を意識し、死に方を経験することができる。西洋のキリスト教文化のもとでは、人間は『死すべき者』といわれる。これは死なない『神』と対比されたものであるが、人間を死すべき者と定義したところに西洋文化のひとつの人間理解があるといってよいだろう。もしも人間が永遠に生き続ければ、人間は『生』について考えることもないだろう。また動物のように自然にこと切れるだけなら、これもまた生について考える必要もなかろう。ただただ獲物を求めて生きるだけのことである」と述べます。



 また、著者は「人間だけが、『死すべき者』であるがゆえに『生』を考える。どうやって生を充実させればよいか、と考える。そこから、『よき生』という考えもでてくる」と述べます。古代のギリシャでは、ただ生きるのではなくよく生きることが問題だとされました。キリスト教文化のもとでも同じで、どのような生き方がよい生であるかが問われました。そして、もしも「死に方」も「生」に属するのなら、どのような死に方がよい死に方か、という論議も可能となるといいます。「安楽死」はそのもととなったギリシャ語では「エウタナーシア」ですが、これは「よい死」という意味でした。


「生きることは無条件に尊重されるべきなのか」では、近代社会では、「生きるに値するような生き方」つまり「よき生」は問わずに、まずは生きることが至上の価値とされたことが指摘されます。万人の生命の尊重が近代社会の最高の価値となり、そのもとで20世紀には経済成長と福祉が求められ、21世紀になると、さらに医療技術と生命科学の進歩とともに、あらゆる病気を克服して寿命を可能な限りに延ばすことが人類の目標となったとして、著者は「人生100歳の時代かどうかはわからないが、健康寿命をはるかに超えて延命が可能なことは間違いないだろう。だが、それと対比すれば『死に方』の方はほとんど論議の対象にもならない。私は、別に寿命の延長が悪いとは思わないが、それでも、『生』へ向けて巨額の予算をつぎ込んだ国をあげての関心と、『死』への、冷ややかというべき社会の無関心のアンバランスが気になる」と述べます。


「死」は近代だけの問題ではありません。「死」は人間の基本的な条件であって、「死」を前提とするからこそ、われわれは「生」を問いかける。どのような「生」が満足のゆくものであり、意義のあるものかと問うとして、著者は「そのとき、『よき生』の延長線上に『よい死』がでてきても不思議ではない。そして、そこにひとつの社会の死生観があった。死生観は、その国の文化や宗教的精神によってかなり違ってくるにせよ、かつては、それぞれの社会がそれなりの死生観をもっていた。少し前には、『死に方』は多様であった。日本の姥捨のようなやり方は少し極端だとしても、消極的安楽死はかなり存在したであろう。いわばケース・バイ・ケースなのである。人の生も死も多様であり、人によって違っている。それを、漠然と、大きな死生観や霊魂観という広義の宗教意識が支えていた。近代社会は、すべてを合理的に、法的に整理しなければ気が済まない。あいまいさを排除し、一律に管理しようとするが、それでは問題は解決しない。多様な死に方を認めるほかなかろう。われわれは、近代社会の極限で、死というもっとも人間的で根本的な問題に改めて突き当たってしまったのである」と述べるのでした。


第2章「かくも脆弱だった現代文明」の章題と同じ「かくも脆弱だった現代文明」という一文では、「コロナ禍があぶりだしたもの」として、人類は長い間、生存のために4つの課題と闘ってきたことが指摘されます。飢餓、戦争、自然災害、病原体です。飢餓と闘いが経済成長を生み、戦争との闘いが自由民主主義の政治を生み、自然との闘いが科学技術を生み、病原体との闘いが医学や病理学を生んだとして、著者は「すべて、人間の生を盤石なものとするためである。そしてそれが文明を生み出した。だが、この極北にある現代文明は、決してそれらを克服できない。とりわけ、巨大地震や地球環境の異変は自然の脅威を改めて知らしめ、今回のパンデミックは病原体の脅威を明るみにだした。文明の皮膜がいかに薄弱なものかを改めて示したのである。一見、自由や豊かさを見事なまでに実現したかに見える現代文明のなかで、われわれの生がいかに死と隣り合わせであり、いかに脆いものかをわれわれは改めて知った」と述べています。


「人が死生観を求めるとき」の「『ダモクレスの剣』はつねに頭上にある」では、新型コロナウイルスについて、著者は「いかなる対策をどのように打とうと、感染症は必ず人に襲いかかる。そのとき、人はどうしても不条理な死に直面せざるを得ない。生と死について思いをめぐらさざるを得ない。われわれは、この不条理な死を納得できなくとも、それを受け止めるほかない。そのとき、われわれは何らかの死生観を求めているのではなかろうか」と述べます。また、「古代人は不条理を「無常」として受け入れた」では、コロナ禍で京都の祇園祭のハイライトである山鉾巡行が中止となったことを取り上げ、著者は「たいへんに皮肉なことである。なぜなら、もともと祇園祭は863年に神泉苑で行われた御霊会に起源をもち、それは、都で流行した疫病対策だったからである」と述べています。


疫病は思いを残して死んだ人の怨霊が引き起こすものと考えられており、祇園祭の起源となった863年の疫病も牛頭天王須佐之男命の祟りだとされました。しかも、次の年には富士山が噴火し、869年には貞観地震が起きたのです。著者は、「災害続きであった。ここに祇園祭が誕生する。それはもともと悪霊の鎮魂の祭りだったのである。昔の日本人にとっては、疫病にせよ災害にせよ悪霊の祟りであった。そのとき、人は神を祀り、鎮魂の祭りを執り行い、大仏や薬師如来を造り、また弥陀の本願にあずかるべく一心に念仏を唱えた。それでも災害や疫病が無慈悲に人の命を奪うとき、人は、この不条理を『世の定め』として受け入れるほかなかった。人知は限られており人力も限界がある。人は自然や天の前にこうべを垂れ、神や仏にすがるほかなかった。そしてこの世の不条理な定めを、昔の人は『無常』といった」と述べます。

日本にはユダヤキリスト教ほど強い教義をもった宗教はありませんが、神と結びついた死後の魂の観念や、浄土教のような極楽信仰や、あるいは仏教の生死一如といったような死生観は、まだ古人のこころをそれなりに捉えていたのであろうと推測し、著者は「それらは、とうてい受け入れがたい不条理な死をも受け止め、死という必然の方から逆に生を映し出そうとした。いずれ、生死ともに『無常』という仏教的観念が日本人の精神の底を流れていたことは疑いえまい。常に死と隣り合わせの生を送った武士にとって、『諸行無常』が生死の覚悟の種になったことも事実であろう。死を常に想起することによって、生に対して緊張感に満ちた輝きを与えようとしたのである。西洋では、ペストに襲われた中世人は、常に『メメント・モリ(死を想え)』を戒めにしたという」と述べます。地上の現象の説明を非理性的な超自然界に求めることは今日ではタブーになりましたが・・・・・・。

「近代人は生と死を国家に委ねた」では、今日、われわれの生と死に対して責任をもつのは国家なのであるとして、著者は「『まつりごと』が『祭事』から『政事』に代わったのだ。17世紀イギリスの哲学者トマス・ホッブズが、その国家論において、国家とは何よりもまず人々の生命の安全を確保するものだ、と定義して以来、近代国家の第一の役割は、国民の生命の安全保障となった。われわれは自らの生と死を、自らの意思で国家に委ねたことになる。こうしてホッブズは世俗世界から宗教を追放した。超自然的な存在によるこころの安寧や魂の安らぎなどというものは無用の長物となった」と述べます。また、「自立の精神も諦念もない国民」では、著者は「今日、死生観などということは誰もいわない。だが、私には、どこか、古人のあの、人間の死という必然への諦念を含んだ「無常感」が懐かしく感じられる。少なくとも、古人は、その前で人間がこうべを垂れなければならない、人間を超えた何ものかに対する怖れも畏れももっていた。そこに死生観がでてきたのである。われわれも、こころのどこかに、多少はい古人の死生観を受け継ぐ場所をもっておいてもよいのではなかろうか」と述べるのでした。



「安倍政権とは何だったのか」では、7年8ヵ月におよんだ安倍晋三首相の長期政権について「これほど『仕事』をした政権はない」と高く評価しながらも、「価値失墜の『危機の時代』へ」として、著者は「100年ほど前、文明論者のオルテガは、既存の価値観が崩壊し、しかも次の新たな価値観が見えず、人々は信じるにたる価値を見失って、社会が右へ左へと動揺する時代を『歴史の危機』もしくは『危機の時代』と呼んだが、まさしく、2010年代は、小規模な『危機の時代』である。グローバリズム、リベラルな民主主義、市場中心主義、米国流の世界秩序といった『冷戦後』の価値が失墜し、しかもその先はまったく見通せないのである。安倍政権が誕生したのは、まさにこの『危機の時代』であった。この不安定な時代には、次々と問題が発生する。人々の不満は高まる。民主主義は政治家に過度なまでの要求を突きつける。安倍政権は、確かに、次々と生じる問題にその都度、対処しようとした。『仕事』に謀殺される。しかし何をやっても経済はさしてうまくゆかず、いくら外交舞台で地球上を飛び回っても、国際関係は安定しない。外交で、安倍氏個人への信頼は高まっても、今日の複雑に入り組んだ国家間の軋轢や経済競争は容易には改善されないのである」と述べています。


第3章「さらば、欲望」の『不要不急』と『必要』の間」では、「あらゆる文化が経済に従属」として、著者は以下のように述べています。
「いうまでもなく『不要不急』の反対は、いわば『必要火急』である。『必要火急』は、それがなければ人間の生存が脅かされる絶対的必要だとすれば、『不要不急』は、生命の維持には直接に関わらない。『生命の維持』からすれば、それは無駄なもの、過剰なものであろう。ところが、この無駄を止めた途端に、『必要火急』が切迫し、『生命の維持』も危機に陥ることとなった。となれば、現代社会において、われわれの生命や生存は『不要不急』なもの、無駄なもの、過剰なものによって支えられているということになる。どうしてそうなるのか。さしあたり答えは簡単だ。現代社会では、あらゆる活動が市場化され、人は、日々の食料から刺激的なエンターテインメントに至るまで、ほとんどのモノやサービスが市場によって提供されるからだ。簡単にいえば、もはや市場に依存しなければわれわれは生きてゆけないのである」

 

今日、われわれは、不要不急の拡大にこそ多大なエネルギーを注ぎ、不要不急によって経済を維持しようとしています。この数年、日本の経済を支えているものは、インバウンド政策や観光業、各種のエンターテインメント、グルメなどだったと指摘し、著者は「『不要不急』の代名詞のようになって名をはせたある種の『夜の街関連』への流れが止まっただけで、われわれの生活も命も大打撃を受けることとなった。スロベニアの哲学者であるジジェクは、今回のコロナ騒動でひとつよかったことがあると述べている。それは、あの豪華客船のような猥雑な船とはおさらばでき、ディズニーランドのような退屈なアミューズメントパークが大打撃を受けたことだ、といっている」と述べます。


人はただ生存のためだけに生きるものではありません。古代ローマ人は「パンとサーカス」といったことを紹介し、著者は「この社会には『パン』のみならず『サーカス』も必要なのである。生存に関わる生だけではなく、精神や身体の愉楽や刺激が必要であり、人々が集まって騒ぐことも必要なのだ。時には、禍々しいものも人は求める。謹厳実直・清廉潔白に生きるだけが人の生ではない。古代ローマ人は、巨大な闘技場を造って剣闘士と猛獣の戦いを見物していたのである。『サーカス』は『生存』にとっては無駄なもの、過剰なものである。必要なものではない。だが、この過剰性こそが文化を生み出した」と述べます。


「パン」という必要が「経済」の基礎だとすれば、「サーカス」は「文化」の基礎であったと指摘し、著者は「古代ローマ人は『サーカス』だけではなく、巨大都市を、建築を、美術を、文芸を、それに風呂や道路や水路などの公共建造物も生み出したのである。ここにその国に特有の価値観や文化が形成された。人を動物から区別するのは、ただ生存のための食料の確保ではなく、『文化』という無駄なものを生み出し、そのために過剰なエネルギーを投入する点にこそある。だからこそ、過剰なエネルギーをどう使うかは、その国の文化にとってきわめて重要な事項となる。にもかかわらず、今日、芸術も、科学も、エンターテインメントもすべて同じ経済原理のもとに置かれてしまった。『不要不急』と『必要』は地続きになってしまい、あらゆる種類の『文化』が『経済』に従属することになった」と述べています。



 そして、「適当なサイズの『大事なもの』」では、著者は「信頼できる人間関係、安心できる場所、地域の生活空間、なじみの店、医療や介護の体制、公共交通、大切な書物や音楽、安心できる街路、四季の風景、澄んだ大気、大切な思い出。これらは市場で取引され、利潤原理で評価できるものではない。またいくら『不要不急』を市場で拡張し、経済を成長させても得られるものではない。むしろ過度な市場競争と経済の拡張がその障害になりかねないであろう。『必要』も『不要不急』も、この『大事なもの』によって支えられ、またそれを支えるべきものである」と述べるのでした。


 

 

東日本大震災から10年後に書かれた「『魂』は今ここにある」の「死者に『寄り添いたい』という気持ち」では、「死者の気持ちに寄り添いたい」というのは、むろん、生者の「こころ」の働きであり、死者がそれに応えるわけではないとして、著者は「だから、冷たく言い放てば、『寄り添いたい』といっても、それは生者の身勝手な気分であって、エゴといえばエゴではないか、ということにもなろう。近代人の合理的な眼差しで見れば、それは、生き残ったという事実にまつわる自責を軽減するための生者の方便のように見えなくもない。楽観的な未来志向からすれば、『死者に寄り添う』より『復興に邁進する』方が重要だという事情もありうるだろう。しかし、たとえば我が子を失い、愛する人を失った者の、『死者の気持ちに寄り添いたい』というほとんど理屈を超えた思いは、ただ生き残るための方便などというものでない。そこにはもっと切実な心的なリアリティがあるように思われる」と述べています。

 

唯葬論

唯葬論

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死者と生者はもちろん対等の立場にいるわけではなく、死者は発言できません。死者は姿も見えず、ただ沈黙を守るだけです。ですから、死者と生者の交感は、生者による死者への一方的な問いかけであり、一方通行の心的な同化作用であるほかないとしながらも、著者は「にもかかわらず、自らの気持ちを死者に同化させ、寄り添うことを可能とする『何か』がそこにあるとつい考えたくなるし、現に人々はそう考えてきた。それを人は『魂』と呼んだのだ。姿も形も見えず、声も聞こえず、触れることもできず、普通の意味では存在するとはいえないもの、しかし、その姿も声もまだ生者の目や耳に焼き付いており、その感触も消え去らないものとの同化は『魂』の交感というほかなかったのだろう」と述べます。これは、拙著『唯葬論』(三五館、サンガ文庫)で述べたメッセージと同じです。

「精神の自浄作用を失った戦後社会」では、ブログ『先祖の話』で紹介した日本民俗学創始者である柳田國男終戦直前に書いた著書を取り上げます。柳田は、終戦を想定して『先祖の話』を書き記しました。家の観念が弱体化し、祖先の観念も祖霊の想念も消え去る前にそれを記憶に残そうとしたのです。著者は、「柳田からすれば、祖霊の観念の消滅は、死者と生者との交感の回路を断ち切ることになる。そのとき、生者は死者との対話の道筋を失い、死者の前にあって自らを省みるという精神の自浄作用を見失うであろう。道徳が何らかの権威を必要とするなら、われわれは道徳の基盤を失うであろう。もう少し一般的にいえば、何らかの意味での『霊性』への傾斜を失ったとき、われわれは自らを律する道徳の内面的な根拠を失うのではなかろうか。死者の思いを継ぎその上に道徳観を形成する、といった観念には、思いを残していった死者を前にした生者の責任があった」と述べています。


さて、それでは、戦後の日本では、このような観念はどうなったのでしょうか。著者は、「戦後とは、それこそ強い思いを残して散っていったおびただしい死者の上に成り立った時代である。そして、われわれは戦争の死者の思いを引き継ぐなどとしばしば口にする。だが、そこにはもはや死者の『魂』もなければ『祖霊』もない。つまり、霊性などどこにもないのである。戦後社会は、少なくとも、公式的な言説の上では、霊性などという非合理なものを拒否した。霊性の住処を放逐した社会が『死者の思いを引き継ぐ』といっても、ほとんど宙に浮いた空疎な言葉にしかならないのも当然であろう。死者への畏れと惜別と無念さを見失ったとき、自己を省みるという道徳の内面的契機も喪失する。死者を切り捨てた生者だけの共同体は、利益や快楽にのみ生の充足を見る個人の集合体にしかならないであろう」と述べます。

「死者の前にこうべを垂れる」では、キリスト教世界における「神の前にひざまずく」わけではありませんが、「死者の前にこうべを垂れる」という精神の規律が日本にはあったはずであるとして、著者はこう述べるのでした。
「柳田が『家』を重視したのは、先祖が、死者として感情移入しやすい具体者であったからであろう。それは、あくまで『家』という『私的な世界』の死者なのである。もちろん、先祖をたどれば、とんでもない悪党も犯罪人もいたであろう。だとしても、悪党にも一分の真理は宿り、『魂』が浄化すれば、霊は清浄なものとなる、とされたのであろう。『魂』を媒介にした死者と生者の交感という観念を排除した戦後社会が、『世間に対する恥』だけを道徳の基準にすれば、世間が目前の利益と快楽に耽溺するにつれ、それに合わせればよいということになる。われわれは、戦後70年ほど、そんな道行きをたどってきたのである。そこに東日本大震災が起きた。大拙は、平安末期から鎌倉時代へかけての争乱、疫病、大災害の襲いくる末法の時代に、初めて日本人は『霊性』に目覚めた、という。私には、10年前の大災害の教訓は、改めてわれわれの『霊性』を思い起こす契機になると思われる。死者への配慮を失い、死生観をまったく失った社会など本当はどこにも存在しないだろうからである」



 「『対コロナ戦争』か『コロナ対策』か」の「国家の危機に国民はどう振る舞うか」では、人間はもともと常に生命の危機にさらされてきたとして、著者は「自然災害、感染症、飢え、それに生存をめぐる人間同士の争い。これらはすべて『自然』に属する。したがって、『自然』がもたらす脅威を克服し、生命の安全を確保するために人間は社会を作り、それを政治的組織である国家にまで仕立てあげた。古代ギリシャで、人々が共同して暮らすポリス(都市)とはまた政治共同体としての国家である。ということは、国家とは、何よりもまず、自然や他者からの脅威に対する共同防衛の企てなのであり、社会の秩序を維持するための装置なのである。したがって、都市民は、また国家を支える徳を持った市民として、公共の事柄に関与しなければならない。こういう意識が西洋の政治思想の底を流れている。しばしば『共和主義の精神』と呼ばれるものである」と述べています。


「資本主義の臨界点」の「資本主義と市場経済は違う」では、岸田文雄首相が唱えた「新しい資本主義」に言及し、「資本」つまり「キャピタル」とは「頭金」であると指摘します。それは「キャップ(帽子)」や「キャプテン(首長)」という類似語が暗示するように、「先導するもの」です。著者は、「未知の領域を切り拓き新たな世界を生み出す先導者であり、そのために投下されるのが『頭金』としての『資本』である。資本は、未知の領域の開拓によって利益を生み出し、自らを増殖させる。したがって、さしあたり『資本主義』とは、何らかの経済活動への資本の投下を通じて自らを増殖させる運動ということになろう」と述べています。また、「資本主義」は「市場経済」とは違っていることに注意すべきであるとして、著者は「『市場経済』はいくら競争条件を整備しても、それだけでは経済成長をもたらさない。経済成長を生み出すものは『資本主義』であり、経済活動の新たな『フロンティア』の開拓なのである。そして『市場経済』分析を中心とする通常の経済学は、基本的に『資本主義の無限拡張運動』にはまったく関心を払わない」と述べるのでした。


「フロンティアの拡大なしでは成り立たない」では、資本主義と市場経済の本質を知るためにダイナミックに歴史を振り返ります。資本主義がヨーロッパで急激に活性化した発端には15世紀の地理上の発見がありました。一気に地球的規模で空間のフロンティアが拡張しました。新大陸やアジアを包摂する新たな空間の拡張は、歴史上最初のグローバリズムであり、ヨーロッパに巨大な富をもたらしましたが、著者は「この富によって19世紀に開花するイギリスの産業革命は、驚くべき勢いで技術のフロンティアを開拓し、帝国主義時代をへて20世紀ともなると、アメリカにおいてあらゆる商品の大量生産方式へとゆきついた。そしてこの大量生産を支えたものは、膨大な中間層をになう大衆の旺盛な消費であった」と説明しています。


つまり、外へ向けた空間的フロンティアの開拓(西部開拓のアメリカや帝国主義のヨーロッパ)の次に、20世紀の大衆の欲望フロンティアの時代がやってきたのです。著者は、「戦後の先進国の高い経済成長を可能としたものは、技術革新や広告産業が大衆の欲望を刺激し続けることで、工業製品の大量生産・大量消費を生み出した点にある。ところが、高度な工業化による大量生産・大量消費による経済成長は、先進国では1970年代には頂点に達する。そこでその後に出現した『成長戦略』は何かといえば、80年代以降のグローバル化、金融経済への移行、それに90年代の情報化(IT革命)であった」と述べるのでした。

 

第4章「『民意』亡国論」の「眞子様『ご結婚』に襲いかかった『民意』」では、わたしたちは「民意の危うさ」をナチスや、日露戦争後のポーツマス条約に対して大衆が暴徒化した日比谷焼き打ち事件や、日本の国際連盟脱退や、安保闘争小泉改革などから学んできたはずであるのに、民意がいささか無様なまでに発揮されたのが、最近の「眞子様ご結婚」のケースであると指摘します。著者は、「あることないこと、つまり広義の『フェイク・ニュース(真か偽か不明な情報)』が連日報じられ、多種多様な見解や感想が各種のメディアを通じて表明された。『主催者』である国民には、この結婚の是非に関して意見する権利があるということであろう。『民意』が皇居に押し寄せたのである」と述べています。


皇室は可能な限り国民に接近し寄り添います。一方、たとえば婚姻に関しては、国民は憲法で保障された両性の合意という個人主義の立場にたちます。「家」という観念は崩壊したのですが、こうなるとどうなるか。著者は、「『家』と『先祖』の観念こそが存在根拠であった皇室にとっては、その存在の根底が脅かされていることになる。そこで国民に寄り添う戦後の皇室は、『家』や『先祖』ではなく、個人主義にたつ両者の合意のみに婚姻の正当性を委ねるほかなくなった。眞子様も小室氏も『愛し合っているからいいではないか』という。皇室もそれを認めるほかない。そういわれれば、戦後憲法を奉じる国民もまた、同意するほかない。ところが、多くのメディアは、いかにもこの結婚が『家』のつりあいが悪いかのように論じたのである。ただ『家のつりあい』などとはいえないから、それをせいぜい小室氏の家族的スキャンダルとして論じたのである」と述べます。


「主権者とは国益・歴史・文化に抑制される者」では、神聖性を剥奪された天皇と皇室が、それでも意義ある存在として存続するためには、「家」と「先祖」、そしてもうひとついえば「無私の精神(公共的精神)」こそが日本の社会秩序の、また歴史的精神の基底にあるはずだとしなければならないとして、著者は「皇室は、それらが日本社会の基本的な伝統だとすることで継続したきた。だが戦後社会は、それを封建的、非合理的、家父長的といって総攻撃した。むろん、この攻撃はまったくの見当違いである。もし国民が主権者であるとするならば、その国民は、『家』と『先祖』と『無私の精神』を尊重するものでなければならない。主権者とは、その国の文化的基底、つまり『国柄』を保持するものだからである。そうして初めて天皇は国民統合の象徴となる」と述べるのでした。


第5章「ポスト・コロナ時代の死生観」の1「経済より重要なのは『死生観』」では、「カネをばらまいて回して、守られる生命」として、著者は「今回のコロナ禍からわれわれは何を学んだのであろうか」と問いかけます。多くの人は、「命の重要さである」とか「生の貴重さである」と言うでしょう。確かにそうですが、まさにその「生が大事」「命が大事」、両方合わせて「生命こそが大事」が、社会を、人々の精神を分裂させたことを忘れてはならないとして、著者は「経済も人の動きもすっかり止まった静止画像のなかにわれわれの生活を閉じ込めるという非常の策も『生命の確保』である。しかし、経済を回し、人を動かし、物流を確保する常態化もまた『生命の確保』であった。『生命が大事』がふたつに分裂したのである」と述べています。


「コロナ禍が暗示した『死も大事』ということ」では、このコロナ禍が、明確にではないにせよ、暗示したのは、人間にとっては「生命が大事」だけではなく「死も大事」ということであったと指摘し、著者は「『死という現実』に目を向けるということである。疫病にせよ感染症にせよ、目に見えない、しかも得体の知れない病原体によって人は常に死に直面している、という事実がそれである。何もわざわざいうまでもない当たり前のことである。人は必ず死ぬ。生は必ず終わる。それだけのことだ。だがそのことをわれわれは忘れたことにしている。視界から排除する。そして『生』と『命』だけで視界を埋め尽くす。なぜなら、われわれは、人の死を、『ただそれだけのこと』と受け止めることなどできないからである。それが必然であればあるほど、われわれはその必然の重みを耐えがたく思う。だからこそ、この耐えがたさをあえて視界から追い出すのだろう」と述べます。

「生命は大事」の前提には「死が大事」があると指摘する著者は、「死はまったく予想を超えた仕方で、突然にやってくる。理不尽に生命を奪う。そのときに、どのように死ぬか、死をどう理解するか、どう受け入れるのか、そしてそれと対比して生をいかに理解するのか。こういう問いが浮かんでは消えてゆく。端的にいえば、死生観といってもよいのだが、私には『経済』よりも『死生観』の方がいっそう重要だと思われるのだ。死生観といっさい関わらない『生』や『命』は、ただただ生の快楽を追求し、命の延長を追求することだけを自己目的とするほかなかろう」と述べるのでした。この「経済」よりも「死生観」が重要という著者の意見には全面的に賛成です。よく「老後にはお金が必要だ」と言います。もちろん、それは正しいことなのですが、お金よりも死生観の方がずっと重要なのです。


2「人間と環境の循環構造」の「ウイルスと人間に違いはあるか」では、近代の「人間中心主義」が取り上げられます。近代の擁護者は、神の超越や魔術の神秘に代えて「人間」を中心に据えた合理的世界観を賞揚します。一方、近代への批判者は、人間中心主義の傲慢をもって近代の錯誤だといいます。しかし、どちらも違っているとして、著者は「われわれは決して『人間中心主義』など確立してはいないし、またできもしない。あるいはこういってもよかろう。本当の『人間中心主義』は、あるとすればもっと別の形においてだ、と。自然環境との循環的平衡を保とうとする試み、人間の生物体的生命に立ち戻り、人間の生命をケアする精神の方が真に『人間中心主義』というべきであろう。人間も他の生物体と同様、まずは自然的存在であることを前提に、その限界において自らの福利を最大にするのが本来の『人間中心主義』というものであろう」と述べています。著者と同じく京都大学名誉教授である宗教哲学者の鎌田東二先生とわたしはWEB上の往復書簡を交わしていますが、そこでは「人間中心主義」についてのちょっとした論争(というか意見交換)が展開されています。鎌田先生はわたしのことを「人間中心主義」者であると思われているようなのですが、けっしてそんなことはないと、本書を読んで気づきました。

3「人間だけが『死』を意識する」の「大地に根を張り世俗を超越する『日本的霊性』」では、あらゆる生物体の根本は自己の維持や増殖にあるとして、著者は「ただ人間の場合、自己の維持は、『生命の維持』というだけではなく、『生命の消失』を想像することができる。つまり『死』への意識をもつのである。自然の生物体として人間はごく当然に死ぬのであり、人間の死は必然である。だが、人間だけが、自らの『死』を強く意識できるのであって、まさにそのことによって人は生物体としての生命を超え出るのだ。しかも死が不可避であるがゆえに人はそれを嫌悪し恐怖する。そこにまた、自然の内なる存在としての生命を超えた独特の新たな生命観を求め、それを作り出すという人間の特異性がある」と述べています。


その人間の特異性について、著者は鈴木大拙の言い方を拝借してさしあたり「霊性」と呼びます。大拙は、霊性を、一方で深く大地に根を張ったものとし、他方では、世俗的な現実を超越するものとみなしたと指摘し、著者は「大地性をもつことで、それは、セム的一神教のごとき絶対的超越、抽象的神聖には至らない。他方で、世俗的現実を超越しようとすることで、それは、世俗を超えた永遠の生命や魂といった聖的な観念へと接近する。とはいえ、この超越は決して抽象的で貴族的なものではなく、大地に生きた人々の生の営みと不可分だという。そこに日本独特の霊性観が成立するという大拙の発見が、日本的死生観や自然観と深い関わりをもつのは当然のことであろう」と述べます。

 

 「日本文化の根底にある、自然と一体化した死生観」では、霊性を「生命」ということもできるとして、著者は「死と生をつなぐものとしての『生命』である。『死』を超えた『生命』という意味では、それは永遠の命である。『霊的生命』といってもよかろう。それをわれわれはしばしば『魂』と呼び、『命の根源』などともいう。死は不可避だとしても『魂』によって、死と生は相関する。生者と死者は共鳴する。次元は違っても両者は連続する。しかもなお、日本文化は、その『魂』あるいは『生命』を自然と結びつけた。この場合、霊性の発見の場は、大地というより自然といった方がよいであろう」と述べます。

 

 ありとあらゆる自然的存在の内に「生命」を見ることで、人間もまた、ありとあらゆるものとつながっている、という万物一体の観念を生み出しました。人は自然に溶け込み、ありとあらゆるものと相即するとみなされて初めて、「霊的生命」にあふれるのであるとして、著者は「この自然と一体化した根源的な生命という観念において、現実の死は霊的な次元に移行して克服される。仏教が繰り返し主張するような生死一如といってもよい。密教即身仏でもよい。平田篤胤がいうように、顕界・幽冥界の重なりを想像してもよい。ともかくも、日本文化の根底には、このような死生観があった。それはまた、『生命論』を内包した自然観でもある。日本人の霊性的観念はおおよそこうしたものであった」と述べます。

 

 「『霊的生命』こそが人間の本質」では、霊性とは、この事実によりつつ、何とか死と生をつなぐ心的な装置であったとして、著者は「ここに再び、自然的存在としての人間が回帰する。霊的なものを『生命』と呼び変えれば、人間は、自然万物と共鳴しあい、相即しあうことで『生命』をもつ、という観念がでてくる。こうなれば、生も死も自然の摂理であり、日本的霊性が向かう先は、絶対神ではなく、すべてを包み込む自然にあるということにもなろう。霊的な生命はもともと自然の根源に宿っており、それが時には人に活力を与え、また、時には活力を取り去り、生と死とを結びつける。こういう観念が日本にはあった。だから、生命とは、何ものかなのではない。『はたらき』という方が適切であろう。日本文化の根底には、このような『はたらき』が作用していた」と述べています。

 

 かつて恐るべき自然災害や疫病や戦乱のなかで、人々はこの種の「はたらき」としての霊的生命を直観したのです。確かに「霊的直観」を今日、この時代に期待することは困難といわざるを得ないでしょう。現代社会は「霊的生命」など一顧だにしません。だが、「霊的生命」とは別に何か神秘的で超自然的なものではない、それどころか、生命体であると同時にその生命体であることを超え出ようとする「人間の本質」に属することであるとして、著者は「『人間中心主義』というなら、それこそが『人間中心主義』であるべきだろう。それは生命体のもつ一般的な生命根源を脱け出し『霊的直観』をもつことである。それはまた真の意味で『人間の限界』を知ることでもある。科学も政治も経済も自然災害や地球環境や疫病に対して限界をもつことがわかった今日、少なくとも『霊性的生命の直観』を保持していた日本文化の基層へ目をやることぐらいはできるのではなかろうか」と述べるのでした。

「あとがき」では、70年代に話題をさらって、その後は記憶の底に忘却していたはずの『スモール イズ ビューティフル』や『不確実性の時代』といった書物が再び世のこころある人々に注目され始めたことを指摘し、著者は「決して懐古趣味ではない。古典的な一般向けの経済書に私たちの資本主義認識が『追いついた』かっこうなのである。一時はまったく不名誉な扱いを受けていたケインズがこの世に戻ったなら、何といったであろうか。『資本主義は大きな成功を収めるがゆえに、行き詰まる』と予言したシュンペーターは墓のなかでどう思うであろうか。おまけにマルクスの亡霊さえ召喚され、結構、大きな顔をして書店のなかを占拠している。こちらの黄泉がえりはほぼ50年ぶりである。つい苦笑したくなるであろう」と述べています。



アメリカが牽引してきた「グローバル経済」の終焉は、世界を精神的荒廃と倫理的堕落の淵にたたせています。トランプのような人物がアメリカ大統領となり、中国には習近平が、ロシアにはプーチンが「皇帝」然として王芴をふるっています。この(2022年)2月にはプーチンウクライナに戦争をしかけるという狂気のごとき暴挙に出ました。著者は、「ひとつひとつの事象はそれぞれの原因をもった現象ではあるものの、今日生じる様々な出来事をひとつの背景のもとにおいて眺めれば、政治と経済がからまりもつれながら現出させている同根の問題が見えてくる。世界史の教科書に記述されていた『ペストの大流行が中世を終わらせた』も『ヒトラーが、独ソ不可侵条約を破り、ポーランド侵攻を行い第二次世界大戦の戦端が開かれた』という記述も、二度と再び見るはずのない悪夢と信じられていた頃がなつかしくなるほどだ。かつては人も神も牧歌的な世界の住人であった」と述べます。


本書は、2018年の秋から2022年の3月にかけて、著者が書き記してきた「社会時評」と「文明論」をまとめたものです。朝日新聞の「異論のススメ スペシャル」と題する連載コラムを中心に、雑誌『文藝春秋』(2022年1月号)に掲載された論考と、思想雑誌『ひらく』所収の論文2本を合わせて収録しています。著者は、「病める時代には戦役も疫病も同居するものである。きれいごとが跋扈する「ポリティカル・コレクトネス」や、作り笑顔で未来の技術に希望を託するような時代精神に見合った、しかしその正義や笑顔とは正反対の歪んだ現身が現れ出てくる。これが、現代文明の実際なのであろう。私にできることは、せいぜい目を逸らさず、ひたすら凝視することでしかない。よき傍観者であるほかない。だがそれこそが、今日、社会や思想に関わる者に課せられた態度なのである」と述べるのでした。ちょうど、このブログ記事を書いているのは7月9日、安倍元首相が暗殺された翌日ですが、本書は混迷する世界を読み解くための交通整理のような論考集であると感じました。最後に「安倍政権ほど『仕事』をした政権はない」という著者の言葉を、安倍晋三氏の霊前に捧げたいと思います。

 

2022年8月1日 一条真也

墓と仏壇を自分で作る

一条真也です。
8月になりました。1日は恒例のサンレー本社の総合朝礼が行われるはずでしたが、新型コロナウイルスの感染者がここのところ急増したため、今回は中止になりました。この日、産経新聞社の WEB「ソナエ」に連載している「一条真也の供養論」の第49回目がアップされます。今回は、「墓と仏壇を自分で作る」です。

「墓と仏壇を自分で作る」

 

少子高齢化核家族化が進み、お墓の悩みを抱える人が増えています。先祖のお墓を引っ越しする「墓じまい」、新たにお墓をつくる「墓じたく」など、お墓のかたちが多様化しています。前回も触れたとおり、『論語と冠婚葬祭』(現代書林)において、わたしは、わが国における儒教研究の第一人者である中国哲学者で大阪大学名誉教授の加地伸行先生と対談させていただきました。

 

加地先生は、「お墓の問題は簡単に解決できます。もし、土地付きの家をもっていたら、その敷地内に、自分の亡き親族のお墓を建ててしまえばいいのです。しかし法律が禁じている、と思われるかもしれません。地目が墓地でなければ埋葬してはいけないことになっているからです。では、敷地の一角を墓地に地目変更しようと思っても、時間が掛かります。しかしその必要はないんです」と語られました。

 

例えば石碑に、「加地家之墓」と書いた瞬間に、墓地関係の法律に全部引っかかってしまいます。ところが、「加地家記念(あるいは祈念)碑」としたら、全然関係ないというのです。誰も文句は言えません。黙っていれば、そこに遺骨を納めてまったく構わないといいます。お骨が家の中にあるか、外の碑の下にあるかの違いだけであるというのです。加地先生は、「地目は宅地のままです。自宅がマンションだったら、マンション入居者で話しあって一角に記念碑を建てればすむことです。いかがでしょうか」と言われました。なるほど、これなら墓問題は解決ですね。

 

墓と並んで、祖先とのコミュニケーション・ツールとして、仏壇があります。仏壇は、聖なる空間にして、かつ家族の絆を強烈に意識できる、素晴らしい日本特有の装置です。仏壇の前で、家族はともに泣き、ともに喜ぶことができます。それこそが家族主義の姿でしょう。しかし、現在では仏壇のない家が増えています。加地先生は、「もし家に仏壇がなければ、作ればいい。菓子箱でも段ボール箱でもかまいません。何も黒色でなくても、千代紙を貼って華やかな色調にしてもいい」と語ります。

 

さらに、加地先生は「内部は三段にし、上段に仏様(お釈迦様でも観音様でも)を安置し、中段にはあなたの家の祖先の位牌を建て、下段には、向かって左から花瓶(花を活ける)・香炉(線香を点てる)・ろうそく立ての三つを置けばりっぱなお仏壇なのである。大切なことは、仏壇という〈物〉ではない。祖先と出会う〈こころ〉なのです」と語られました。わたしは、加地先生の発言を聴いて、目から鱗が落ちる思いでした。なるほど、墓も仏壇も自分で作ることができるのです。自らの人生を修めるために、ハンドメイドの墓や仏壇も悪くないかもしれませんね。

 

 

2022年8月1日 一条真也