『教養としての神道』

教養としての神道―生きのびる神々

 

一条真也です。
『教養としての神道島薗進著(東洋経済新報社)を読みました。「生きのびる神々」というサブタイトルがついています。著者から献本していただいた本です。著者は、宗教学者東京大学名誉教授。日本宗教学会元会長。1948年、東京都生まれ。東京大学文学部宗教学・宗教史学科卒業。同大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。主な研究領域は、近代日本宗教史、宗教理論、死生学。著書に『宗教学の名著30』『新宗教を問う』(以上、ちくま新書)、『国家神道と日本人』(岩波新書)、『神聖天皇のゆくえ』(筑摩書房)、『戦後日本と国家神道』(岩波書店)などがあります。

本書の帯

 

本書の帯には、「神道1300年の歴史は日本人の必須教養」「『神道』研究の第一人者がその起源から解き明かす」「ビジネスエリート必読書!」と書かれています。また、帯の裏には、「明治以降の『国家神道』は異形だった」「今を生きる日本人の精神文化形成に『神道』がいかに関わったか」と書かれています。

本書の帯の裏

 

アマゾンの「内容紹介には、こう書かれています。
「明治以降の近代化で、『国家総動員』の精神的装置となった『神道』。近年、『右傾化』とも言われる流れの中で、『日本会議』に象徴されるような『国家』の装置として『神道』を取り戻そうとする勢力も生まれている。では、そもそも神道とは何か。神道は古来より天皇とともにあった。神道は古代におけるその成り立ちより『宗教性』と『国家』を伴い、中心に『天皇』の存在を考えずには語れない。しかし『神道』および日本の宗教は、その誕生以降『神仏習合』の長い歴史も持っている。いわば土着的なもの、アニミズム的なものに拡張していった。そのうえで神祇信仰が有力だった中世から、近世になると神道が自立していく傾向が目立ち、明治維新期、ついに神道はそのあり方を大きく変えていく。『国家神道』が古代律令制以来、社会にふたたび登場する。神聖天皇崇敬のシステムを社会に埋め込み、戦争へ向かっていく。近代日本社会の精神文化形成に『神道』がいかに関わったか、現代に連なるテーマをその源流から仔細に論じる。同時に、『国家』と直接結びついた明治以降の『神道』は『異形の形態』であったことを、宗教学の権威で、神道研究の第一人者が明らかにする」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第1部 神道の源流
第1章 神道の起源を考える

第2章 神仏分離の前と後
第3章 伊勢神宮八幡神
第2部 神道はどのように
    生きのびてきたか
第4章 天津神国津神
第5章 神仏習合の広まり
第6章 中世から近世への転換
第3部 近世から近代の
    神道の興隆

第7章 江戸時代の神道興隆
第8章 国家神道の時代の神道
第9章 近現代の神道集団
「おわりに」
「参考文献」

 

「おわりに」に書かれていますが、本書は、NPO法人東京自由大学で2017年から19年にかけて、3年間にわたって行ってきたセミナーがもとです。東京自由大学は1998年に鎌田東二氏(京都大学名誉教授)とその仲間たちが設立した市民の学びの場です。わたしも顧問に名を連ねています。神道をテーマとした「島薗ゼミ」は、1年目は「神道とは何か」、2年目は「神道はどのように生きのびてきたか?」、3年目は「近世・近代の神道の軌跡」という題で行われました。若い参加者が多く、質問も多かったようで、この講義録をもとに書物をまとめることになりました。著者は、「神道はどのように生きのびてきたのか」という問いを導きの糸として大幅に書き換え、書き足しをしつつ原稿をまとめていったそうです。


「はじめに」の冒頭を、著者は「神道というと、まずは産土神氏神を思い浮かべる人もいるだろう。地縁や血縁の人々がお祀りする神があって、それこそが神道のもとだというイメージだ。それぞれの共同体の範囲で祀られる神があり、それが多数並存しているので多神教になる。中心的な神が高位につくとしても、他の神々もそれなりの地位を与えられ、村や集落の神々こそが基盤となっている。神々は自然の中に宿るものと信じられ、また死者の霊を尊ぶ文化とも関わっている。これをアニミズムとよぶこともあるが、これこそが神道の基礎だ」と書きだしています。


続けて、こうした多神教的な、あるいはアニミズム的な祭祀は世界各地にあったはずだとして、著者は「日本だけでなく、東アジアでも東南アジアでも、インド亜大陸でも、ユーラシア中央部でも、ヨーロッパや中近東でも、アフリカや中南米でもかつてはそのような神々の祭祀があったはずである。ところが、現代世界ではそれらの神々の祭祀の多くはすでに消え去っている。キリスト教イスラームの影響が強い地域ではそうなっている。南北アメリカやアフリカの多くの地域、またオセアニア各地などでは、数百年前まではそのような神々の祭祀があったと思われるが、今はほぼ消え去っている」と述べます。

 

ところが、日本ではそのようなアニミズムや古代の神々の祭祀が、神道というかたちをとることによって生きのび、現在もかなりのバイタリティーを保っています。いくらか似ているのはインド亜大陸ヒンドゥー教と中国文化の影響が残る地域の道教でしょう。では、なぜ日本では長い歴史を経て、古代の神々への信仰やアニミズムが生きのびてきたのか。著者は、「『神道とは何か』を考えることと、この問いは切り離せないものだと私は考えている。そこで、本書では『古代の日本の神々の祭祀はどのように現代まで生きのびてきたのか』というこの問いに導かれながら、神道とは何かを考えていくこととした」と述べます。


第1部「神道の源流」の第1章「神道の起源を考える」の「東アジアの神聖王権の中で」では、キリスト教はローマの皇帝が神聖な祭祀を行っていた時代に民の間に広まり、のちに国家祭祀に代わって国教となったことが紹介されます。著者は、「政治体制とは独立した宗教が西洋社会の精神的バックボーンになった。したがって、国家がキリスト教を採用しても、キリスト教は国家から独立して存在する状況が本来の姿ととらえられ続ける。イスラームは少し違っている。ユダヤ教ヒンドゥー教も異なるし、日本の神道も同じではない。仏教も同様だ。ただ、仏教も、キリスト教と同じように、宗教として政権とは独立しているのが本来のものとされてきた」と述べています。

 

 

中国では皇帝が神聖とされます。儒教は漢の時代から皇帝を理想の統治をすべき存在とみなしており、「王道」理念は儒教の体系の中心に位置するようになったとして、著者は「そこに、天命を受けて統治する皇帝が天の祭祀を行うという理念も伴う。『礼』、すなわち儀礼を尊ぶのも儒教の中核であるから、その意義の大きさは理解できるだろう。これが江戸時代の日本で影響を強め、江戸時代に日本は中国的な国家観の影響を大きく受け、それが明治維新につながるというとらえ方もなされている。皇帝中心の体制をつくっていく方向性は東アジアの近世に強化され、日本ではそれが近代化と重なった側面があるというわけである。このあたりは、ブログ『天皇と儒教思想』で紹介した小島毅氏の著書に詳しく書かれています。

 

第2章「神仏分離の前と後」の「教派神道の成立と国歌神道」では、明治以後の神道の流れとしては、政府が強引に神仏分離を行い、また全国の神社を国家祭祀を分けもつ施設としようとした結果、神道の施設や集団が二つに分かれたことを指摘し、著者は「一方は神社で、祭祀を行い、『宗教活動』はしない。他方は宗教を行う神道で、教派神道となる。つまり、祭祀と宗教、神社神道教派神道に分かれた。教派神道の代表は天理教金光教などで、富士講系の扶桑教實行教、御嶽講を引き継ぐ御嶽教などもこの流れに入る」と述べています。


第3章「伊勢神宮八幡神」の「神道という用語をめぐる異なる見解」では、神道とは何か、いつからあるのかという通説がない問題について、さらに考察を進める著者は、「古代に神祇官が設けられ、天皇天照大神を祀ることによって近代の国家神道の元となるものができた、それは古代律令神道、あるいは古代国家神道などとよんでよいものではないかとするのが私のとらえ方だ。井上順孝、岡田莊司ら國學院大學の宗教学や神道史学の研究者も同様の立場だ。ただ、私は国家神道的な神道だけが神道だとみなしているわけではなく、成立をそれ以前にさかのぼることができる要素が多々あると考える」と述べます。

 

「古代律令体制の時期の神道」として、神道が古代に存在したと考える場合、律令国神道の存在が1つの指標となると指摘し、著者は「中国にならって日本が律令制度をつくった際に、国家が祀る神の制度化が必要となった。中国では国家の存立には、天(天の神)を祀る祭祀が重要で、天の神(天帝、上帝)を祀るという大切な仕事によって皇帝の支配の正統性が得られる体制だ。日本の古代国家は、その神を日本の土地に根ざした神として独自に祀るかたちにしようとした。日本の場合は中国のような遠い天にある神ではなく、地上に各豪族が祀っている神々、アニミズム的な要素が色濃い神々を拝む体制を設けた。その中心に天皇の先祖とされる神を置くこととする。それが天照大神だ。しかし、律令体制によって確固たる神道の国家的体制がつくられたとすれば、その基盤となるものは神話にしろ、皇室祭祀にしろ、神祇祭祀の相互関係にしろ、それ以前から形成途上にあったと考えられる」と述べます。


「古代の神々と祭祀の姿」として、「古代に神道とよべるものがあったのかなかったのか」という問いに答えていくために、古代の祭祀の実態を探り、著者は「古代の神の祀りや信仰の姿を想像させるものとして宗像大社沖ノ島がある。ふだん人が立ち入ることができない神秘的な沖ノ島には、神が降りてきたとされる所や古代から祭祀が行われてきた場所がある。そうした岩や巨石に昔の供物が残されているが、もとは社殿がなかった。宗像大社は九州本土側にあるが、沖ノ島には滅多に近づけず、行くときには必ず禊をする必要がある」と述べます。


日本の古代、さらにさかのぼって縄文時代の祭祀はそのような神秘的な自然の中で行われるかたちであったと考えられ、社殿の小空間に常に神(御神体)がいるという祭祀形態は新しいものであると指摘し、著者は「各地で社殿が整備されていくのは律令国家祭祀が整えられていく段階とみられる。沖縄の御嶽も沖ノ島などと似た古い時代のおもかげをもち、神祇祭祀の初源の姿をうかがわせる。神道の古いかたち、古神道といえるものが縄文時代神道であったのではないかという推察とつながっている。こういう場所は全国的にみられ、今でも人々は神秘な場所という感覚をもつことが多い」と述べています。



八幡神の登場」として、伊勢神宮とほぼ同時期に八幡神が史料の上に現れることが紹介され、著者は「同じ頃に宗像や大神や稲荷など、古い豪族や国造の大きな神祇祭祀から、大和朝廷と連携した神道祭祀へと信仰の姿に変化がみられる。八幡信仰は稲荷信仰と並んで、日本の最も広く知られた神の一つである。稲荷信仰は秦氏をはじめ外来の人たち、朝鮮や中国と関わりがあるが、八幡神も同様だ。登場する場所は九州、今の大分県の宇佐で、福岡県北東部を挟んで宗像大社、そして玄界灘があり、朝鮮半島に通じる」と述べます。


英彦山の修験」として、宇佐から西へ向かうと英彦山(彦山)があり、九州の修験の大きな中心地の1つであったと紹介し、著者は「1214年の奥書をもつ『彦山流記』の修験道の話の中に八幡との関わりが出てくる。彦山権現は衆生を救うためにマガダ国から如意宝珠をもって日本国に渡って彦山に入ったと伝える。それから160年後、その彦山の般若窟で修行していた法蓮が、奉仕してくれる白髪の翁と親しくなり、『自分が宝珠を得たならば汝に与えよう』といったという」と述べます。


伊勢神宮が民衆に広まった要因」では、著者は「一方に、古代に律令国家の祭祀制度の基盤となり、明治以降、国家神道の核となっていく、国家的な神道祭祀の中心としての伊勢神宮がある。他方に、八幡信仰的なもの、また稲荷信仰的なものから発展していく神仏習合の中での神祇信仰がある。両者の組み合わせという図柄の中で神道の歴史を理解していくことで神道史の理解が深まる。伊勢神宮自身も神仏習合的な神祇信仰の影響を大きく受けたのだ」と述べています。


そして、こうした民衆の神祇信仰があってこそ、江戸時代の富士講は神祇信仰色を強め、国学神道信仰を掲げる方向に発展し、明治維新以降は天理教や大本が出てくると指摘し、著者は「20世紀の末頃になっても、幸福の科学オウム真理教のような霊能教祖が大きな影響力をもつような宗教文化のポテンシャルが潜み続けてきた。古代の宇佐八幡に法蓮という人物がいて、不思議なことを行って民衆を動かして国家にも影響を与えている。そうしたことが起こるような宗教運動の背景が神道の中にあったことも神道史の重要な一面である」と述べるのでした。


第2部「神道はどのように生きのびてきたか」の第4章「天津神国津神」の「『天孫降臨』と土着の神々」では、宗像大社が取り上げられます。宗像大社には、日本の神道が成立する以前の原神道古神道、すなわち縄文時代にまでさかのぼるような信仰をうかがわせる祭祀が残されていると指摘し、著者は「大神神社宇佐八幡宮伏見稲荷大社などは、形成されてきた時期はよくわからないが、大和朝廷が全国支配を固めていく時期には、それぞれ独自の信仰世界を形成していたとみられる」と述べています。

 

古神道を継承しながら、伊勢神宮が形成される7世紀頃には、それぞれの地域で豪族の祀っていた神々を信仰する勢力が存在していたと考えられるとして、著者は「伊勢神宮が成立して、朝廷が神祇官を設置し、各地の神祇信仰をつなぎ、神祇信仰連合体の意識を形づくろうとする。同時期に『古事記』『日本書紀』の記紀神話が、公的な教義文書として成立する。そこでは、朝廷に直接連なる神祇と朝廷の外にあった神祇が、国譲りを通して天津神国津神という神々として統合されたと語られている。国家の各地に位置する神々がアマテラス(天照大神)と朝廷のもとで一つの細い体系として全体を構成するという形がつくられた」と述べています。


「限定的だった古代のアマテラスの影響力」では、伊勢神宮天照大神=アマテラスがなじみ深い神として広く信仰されるようになったのは、江戸時代のおかげ参り以降のことであると指摘し、著者は「記紀神話をみても、アマテラスは天岩戸に隠れて出てきたという場面でその表情を表しはするが、物語上は劇的存在感の濃いキャラクターではない。神仏習合の神として観音菩薩大日如来などの化身として知られた時期もあり、男神とみなされたこともあった」と述べています。


ところが、オオクニヌシスサノオ記紀神話でもキャラクターとして印象的であり、また神秘的な力をもつ存在でもあるとして、著者は「霊威神とよべるような存在で、救いの神として働くこともあり、人々がその威力に期待し祈る対象ともなっていく。これは八幡神や稲荷神ともあい通じるものだ。しばしば、神がかるシャーマン的存在が関わってその信仰を広める。アマテラス系にも鹿島神宮タケミカヅチのように、雷の神で、霊威をもつものもある。アマテラス系、天津神系にもそういうタイプはあるが、国津神系の方が霊威神は多い」と述べています。


「仏教の流入国津神=霊威神の変容」では、神祇信仰が一定の独立性をもちつつも仏教と組み、人々の生活に大きな働きを及ばすものへと展開していくのは日本の神仏関係の特徴といえるとして、著者は「中国の『神仏融合』とは異なる日本の『神仏習合』の特徴だ。神仏習合が進んでも神祇信仰の側が根強くその力を維持し、のちの時代にその力を伸長させていく基盤を保ったのだ。八幡神、稲荷神はそのよい例だが、山岳信仰も同様だ。古来、地域で勢力を維持していた神祇信仰が、そうした神仏習合の神々として多くの信徒を惹きつけるようになる。だが、その前の段階では地域の豪族などの共同体を基盤とした国津神としての地域神がいた。それが神仏習合の神になり、次第に国家から独立した信仰世界を展開し、国家とは独立した『神道』とよべるものへと展開していく」と述べます。

 

神道を名乗る教説と流派の形成」では、神仏習合を考えた場合、太陽神であるアマテラスを祭祀する内宮を、日天子とされる観音菩薩垂迹としたり、大日如来垂迹とするのは本地垂迹説の展開としてわかりやすいとしながらも、著者は「だが、あわせて外宮の祭神である豊受大神月神にあてるのは、外宮の地位向上と関わる。皇祖神であるアマテラスに捧げる食物の神であった豊受大神だが、外宮の神官、度会行忠(1236-11305)、度会家行(1256-1351)らによって根源神へと地位を高めていく。こうして『神道五部書』などの伊勢神道度会神道)の書物が編纂されていく」と述べます。

 

「反抗する国津神タケミナカタ」では、日本の祭礼では人が死ぬことがあると紹介されます。18世紀の牛頭天王の祭りが起源とも伏見稲荷の祭りが起源ともいわれる岸和田のだんじり祭りも同様だとして、著者は「人が死ぬようなことを避けるべきだという考えもあり、そういう時代も来るかもしれないものの、今のところそうはなっていない。地元民にとっては、それこそが祭りだといえるのだろう。私が見学したある都市の祭りでは、荒れる山車に破壊されるのを防ぐために商店がショーウィンドウに板を貼っていたりする。そうすると神輿や山車はあえてそこへ行ってそれを壊す。人々はそれは神が行うことだと感じている。人々は祭りというのは神意が表現されるときと感じており、そこに暴力的なことが生じることを神の来臨のしるしと信じようとした(柳田國男『日本の祭』)。そういう雰囲気が日本の祭りにあり、タケミナカタは古来の荒ぶる神の性格を継いでいる」と述べます。


オオクニヌシスサノオ」では、著者はこう述べます。
「地下の世界、他界、死後の世界と関係がある国津神の系統で、この世の政治的秩序を守るのが天津神系のアマテラスだ。アマテラスは太陽の神だから、もっと多くの機能があってもよさそうだが、この世の政治的な支配に関わっているものの、その面でも印象的な逸話はない。江戸時代のおかげ参りの頃はそうでもないかもしれないが、ある時期までは多様な表象が生み出されはしたものの(中世神話)、人々の生活に近いところで崇敬されるようになったのは比較的新しい。それに対して、スサノオオオクニヌシは、『あの世』系だ。江戸時代に平田篤胤らが一種の幽界・霊界通信を試み、死者の世界、死後の救いという信仰に結びつけようとした。死後の審判があり、死後にこそ永遠の命が存在するという考えは、もともとゾロアスター教から始まって、その後、キリスト教イスラームにも広まったとされ、仏教の中にもある。日本ではスサノオオオクニヌシと幽冥界が結びつけられた」


国津神と出雲の重要性」では、日本のように神の信仰が現代まで続いてきている例は世界でもそう多くはなく、古代的な神が生き残ってきたという歴史が神道の背景にあると指摘し、著者は「つまり、文明以前の社会の神々の荒々しさ、ありがたさ、不思議さ、そういうものが仏教や儒教が広まってきて舌潰れないで残ってきたのだ。こうした土着神の系譜は隣国の韓国には巫俗(ムーソク)として残っているが、神社のようなものはあまりみられない。中国華人社会では道教の廟を拠点とする信仰として残っているが、日本の神道とは違い、神々が体系をなしているという意識は薄い。日本の神道の根強さは特別で、古代に国家神が堅固に基礎を据えられるとともに、国家神に敗北したはずの国津神が高い地位をもって位置づけられていたことと関わりがある」と述べます。


天孫降臨と国譲りの実態」では、天津神大和朝廷系、国津神が全国の諸王、豪族の系統になぞらえられる筋書きであるとして、著者は「全国の王と豪族が大和朝廷にしだいに服属していく過程が国譲りとして記紀神話に描かれていると受け取れる。国をつくったのは地方の神々とその元締めの出雲だが、その出雲の勢力がアマテラスを掲げる大和朝廷にあっさり国を譲った。オオクニヌシタケミカヅチ(鹿島)とフツヌシ(香取)に国を譲るという意思を示したということになり、あれほどの騒ぎが静かになったとすれば不思議な印象を受ける」と述べています。

 

第5章「神仏習合の広まり」の「神道存続の背景にある構造」では、神道が長い年月を越えて今日まで存在してきた理由について、著者は「世界的にみてみると、古代の多神教的な神々はほとんど滅びている。とくに一神教が入った所では滅んでいる。古代ローマにも国家の神々の祭りがあったが、キリスト教の浸透でほぼ廃棄された。イスラームの広がった地域ではもちろん廃れている。ただ、インドでは古代以来の神々がヒンドゥー教として主流派の地位を保ち、イスラームの王朝の下でもそれはゆるがず、信仰者の数からみても世界でも有力な伝統宗教となっている。日本とインドは古代以来の多神教的な神信仰が持続していたという意味で似ている。ヒンドゥー教神道は共通点が多いが、前者が長く主流派だったのに対して、後者は仏教が優勢な時期は従属的な地位にとどまっていた」と述べます。



「神祇信仰の根強い存続」では、戦後はいったん大きく地位を落としましたが、現在は神社参拝者も多く、皇室神道は堅固に存続し、神道が政治的にも一定の影響力を及ばす存在になっていると指摘し、著者は「たとえば、初詣や結婚式、地鎮祭、初宮参り、七五三など相当数の神道行事に国民が参与している。そうした行事の中には結婚式のように明らかに近代になってつくられたものがある。しかし、神道行事の正統性は、すでに古代に基礎ができている。古代の律令制下で神祇官を設け、多様な行事を行っていた。開催ができなくなった時期もかなりあるが、それでも皇室、あるいは宮廷周辺の公家(貴族)の社会としては行っていた。祈年祭月次祭新嘗祭など、いずれも稲の祭りに関係がある」と述べます。

 

こうした祭祀を中心に神祇祭祀が固められたわけですが、天武天皇持統天皇の時期が転期になっていると指摘し、著者は「この時期には白村江の戦いがあり、新羅が強大になり、百済と日本が敗れて日本は朝鮮半島の勢力基盤を失った。中国や朝鮮からの攻撃を恐れて必死に防衛体制をとる。そこで、統一国家体制を固めようとする中で壬申の乱が起こり、天武天皇による国家体制ができた。天武・持統天皇藤原不比等らが構築した体制のもとで『古事記』や『日本書紀』が編纂され、伊勢神宮が設けられ、国家祭祀の体系がつくられていった」と述べています。


「国家の祭祀を全国におし及ぼす」では、明治維新のときにも、当初、指導部は国民を宗教的に統一しようとして無理な計画を立てましたが、神道国家の基盤となるものがないことに気づかざるをえなかったとして、著者は「キリスト教は、支配者や上層民とともに民衆を味方にしようとして、上下両面から国家に信仰を浸透させていく。近現代の韓国もそのようにしてキリスト教が浸透していった。戦後の韓国の政権は李承晩や金大中をはじめ、キリスト教徒の政治家が多かったが、他方で民衆にもキリスト教が広まっていった。日本の場合、これを恐れて国家が民心を掌握すべく、天皇崇敬と神祇信仰が動員されることになった。明治維新に先立ってそのための戦略をまとめたのが会沢正志斎の『新論』である。だが、明治初期の段階では、伊勢神宮や宮廷の祭祀は民衆にとってそれほど意味のあるものではなかった。それを民衆に広めて従わせようとしても、たいして広まらないのが実情だった」と述べます。

 

二十二社一宮制と第二の『神道』の成立」では、神道がいつから存在してきたかという点について諸説ある中で、全国の神社の組織化という点からは、平安時代の段階では二十二社一宮制というかたちで明らかに存在していたし、その前の奈良時代の幣帛運給制はすでに神社を組織化した神道組織の原型だととらえることもできるとして、著者は「古代以来の文献では、『神道』という言葉の意味も、特定宗教教説や宗教集団を指す意味では使われていないと論じられてきた。しかし、『日本書紀』の記述にすでにそうした意味が含まれているとみることもできる。平安時代に成立したという考え方は、神社の組織化が進んだという点を重視しているわけだが、これは神祇官の次代の理念にそった幣帛を送るシステムの再編成である。したがって、天武・持統朝から神道は存在するという考えは、こうした歴史経過によっても支持できると思われる」と述べます。


「多様な八幡像」では、本地垂迹に関して、神に対する考え方を再確認しておきたいとして、著者は「神から仏へという神身離脱の段階は『もう神ではいたくない』ということで、神の地位はとても弱く、嘆いている状態だ。それが菩薩になると救いの神になることができ、仏教の崇敬対象の中でもかなり高い位になる。やがて本地垂迹の考えが入り、もともと仏であったものが神になって姿を現すこととされるようになる。『本』と『迹』でいえば、『本』が本物で『迹』が仮の物だという形だ。なぜ垂迹すると考えるのか。その背景には、衆生に近い所で衆生の苦しみに同ずるということがある。『和光同塵』といい、『和光』は光を和らげる、『同塵』は塵に同ずることをいう。仏では偉すぎて遠いので、神になってこの世の弱い衆生に身近な存在として現れるのだとする。衆生救済を尊ぶ大乗仏教の思想からすれば、これはその考え方に十分かなったものといえる」と述べます。


「怨霊の祟りを恐れる」では、日本の古代、奈良時代から平安時代にかけては怨霊を恐れる信仰が大きな力をもったことが紹介されます。怨霊の祟りがたびたび宮廷社会で大きな問題となりましたが、早くは長屋王聖武天皇の時代にさかのぼります。「熊野三山と遠隔参拝の興隆」では、神道は、一方では国家・地域祭祀があり、一方では地域を超えて参拝者を集める霊威神信仰があるとして、著者は「この両方が支え合って、全国の神々も存続してきたという関係にある。神仏習合によって、仏教がそこにうまく組み合わせられた。とくに霊威神信仰と結合することによって、神道と仏教が排除し合う関係にならなかった」と述べています。

 

奈良・平安時代には国家祭祀がなお威力をもっており、神社祭祀の威信が高かったことで霊威神信仰の活性化をもたらした面もあるとして、著者は「仏教の影響力の増大にかかわらず、神祇信仰は一定の自立性を保って神仏習合システムの中で生きのびてきた。しかも、その中で地位を高めていく。仏教の勢いが強い時代にも神道はその基盤を維持し、それなりの地位を存続してきた。だからこそ近代になって、国家神道が成立する基盤になり、また一方で天理教や大本(教)が大きな勢力をもつ基盤になった。その背景には伊勢神道両部神道垂加神道の存在もある。神道の歴史の重要な要素だ」と述べます。


第6章「中世から近世への転換」の「古代以来の神道システムの変遷」では、民衆の信仰が引き継がれていった一方で、日本では国家が長く神道祭祀を実行し、社会秩序の基盤として掲げてきたこと、そして、天皇神道の奉じる神と関わり続けてきていることが指摘され、「2019年に天皇が代替わりしたが、天皇と神々が関係し、大嘗祭という儀礼、神と天皇が一緒に神聖な食事をするのを焦点とする真夜中の祭事が、中断はあっても、古くから現代まで生き続けている国はほかにないのではないか。それはなぜか」と書かれています。


一方で田舎へ行くと、昔ながらの多様な信仰が生きのびており、それらはたいへん素朴な祭りであったりするとして、著者は「愛知県・静岡県の北、信州の南、奥三河とひとくくりにされる地域で、天竜川の上流の小集落ごとに行われ、『花』とよばれる霜月祭りは、夜を徹して男性が少年から大人まで踊っている。そこに鬼が出てきて男たちは鬼と一緒に踊る。女子供はずっとそれをみていて飽きない。鬼を先祖のように感じているのではないか。そうした祭りが今日に伝えられているのは稀有なことだ。それらが地域の神社・神職と関わってなされることも多い」と述べています。

 

「国家祭祀の神と在野の神」では、天理教金光教、大本(教)の信仰の中には天皇は出てこず、天皇とは異なる力ある神、根源的な神が登場すると指摘し、著者は「しかし、これは近代になってにわかにそうなったということではなく、そうした存在がもともと『古事記』『日本書紀』の中にも組み込まれているとみるべきだろう。国津神や出雲系の神々だ。なぜ『古事記』『日本書紀』がそういう神々を組み込んでいるのか。アマテラス系統で古代の国を治める体制を形づくったが、国津神や出雲系に対して『これらの神々も力ある神々だ』と存在を認めているということだ。日本の場合、宗教的には中央集権的に強く治める体制に、なかなかなれないところが中国と異なる。中国のように国家の中心に天(神)と王権を結ぶ儀礼があるシステムにしたものの、国家の儀礼に圧倒的に高い権威があり、官僚体制で帝国全体を治めるような体制にはなっていかない。封建制が長く続いた統治のあり方と、多くの神々が割拠し国家儀礼の権威が限定的なあり方が対応している」と述べています。


「近代神道への儒教の影響という視点」では、14世紀から15世紀にかけて、日本では南北朝時代から応仁の乱にあたる時期に中世的な仏教の影響力が後退するとして、著者は「東アジアを俯瞰すると、中国では明朝から清朝へと儒教の影響が拡大し、官僚層の優位が高まっていく。宋学朱子学、新儒教=neo-confucianismともよばれる)を身につけた儒教官僚が力をもつようになるが、やがてそれは儒教を基盤とする両班の支配する李氏朝鮮に及び、日本でも江戸時代に武士が官僚化し、儒教化していった。これが17世紀に徳川光圀が基盤をつくった水戸学につながり、19世紀に入ると後期水戸学が展開して、国家神道の元となる国体思想の一大拠点となる。明治維新とともに形成されていく近代の国家神道とは、東アジアで支配力を強める儒教の影響を受け、古代国家神道律令神道)を再組織化しつつ、西洋キリスト教諸国に対抗しようとして形成されたものだ」と述べます。

 

 

「近代神道への儒教の影響という視点」では、ブログ『儒教が支えた明治維新』で紹介した本をはじめ、中国宋学の日本の近代政治への影響に関わる考察を何冊かの書物にまとめている小島毅氏によると、近代の国家神道や国体論に対する中国の近世儒教の影響は、思想面、儀礼面など、さまざまにみられるといいます。著者は、「現在の皇室による田植えや蚕を飼う行事は由緒正しい厳粛なものとして報道されている。だが、昭和になってから始まったものもあるが、あたかも古代からあるかのように扱われている。実際に古代から行われていたのは中国で、儒教の書物の中に書かれている。彼岸の行事も現在の日本人の感覚ではまったく仏教的なものだが、韓国では儒教的で、史料にも残されている」と述べています。

 

 

春分の日秋分の日は第二次世界大戦以前、春季皇霊祭、秋季皇霊祭の日とされていましたが、これも儒教の影響とみることができます。宮中三殿の1つ、皇霊殿明治維新のときにつくられました。著者は、「儒教の影響によるもので、中国では先祖を祀る宗廟をつくることが多い。日本では古くはこうした祭祀はみられず、天皇の先祖に対しても行われなかった。祖先への祭祀としては、遷宮の際に寺院で仏事を行っていた。平安時代から祖先の霊を仏式で祀っていた黒戸が明治維新に際して廃され、皇霊殿がつくられた。このように近代日本の国家神道は相当程度近世中国の影響を受けているが、それはどのような思想史的・宗教史的な経緯によるのだろうか」と述べています。儒教が日本の儀式に与えた影響については、儒教研究の第一人者である加地伸行氏とわたしの対談本である『論語と冠婚葬祭』(現代書林)で詳しく述べられています。

 

 

神道史上の『神皇正統記』」では、神道史上の重要な転換点の1つとして北畠親房が取り上げられます。それは、そもそも神道は神聖な国家と社会秩序のあり方に関わる側面が多い宗教だということと関わっているとして、著者は「『神皇正統記』は歴史書である。日本の国家秩序の根源に記紀神話による神聖な由来があることを示し、歴代の天皇がそれを守り受け継いだことを示す書物である。そもそもこの枠組みは『古事記』や『日本書紀』が持っている枠組みを引き継いでいる。『古事記』や『日本書紀』が聖典的な意義を持つ書物であるとすれば、『神皇正統記』はその枠組みを新たな歴史状況の下で再構成したものといえる」と述べています。

 

天皇親政の「復興」を目指し、南朝の正統性を理論的にも打ち立てる必要があった14世紀の日本において、天皇による神聖国家の統治という宗教理念が新たに再構成される必要がありました。それは、東アジアにおける宋学、すなわち新儒教の興隆の影響を受けつつ、古代の神話的統治理念を刷新することだったとして、著者は「14世紀の『神皇正統記』のこの試みは江戸期の水戸学などに引き継がれ、19世紀中葉には天皇親政による国家統合の理念が急速に広まり、神聖天皇国家神道による近代国家の形成という大変革へと人々を動かす原動力となる」と述べます。


南北朝の対立と北畠親房」では、鎌倉幕府執権北条氏の支配が終わり、後醍醐天皇建武の新政を行い、それを足利尊氏が破って室町幕府が成立しました。そして、南北朝の対立となり、尊氏が味方をする北朝の朝廷が本流となりました。著者は、「吉野に逃げた後醍醐天皇の支持者たちが独自の朝廷を開くことになり、南北朝並立の時代が続いた。これによって、のちに南北朝のどちらが正統の皇統だったかという歴史解釈上の大問題が起きることになる。『神皇正統記』は明らかにその問題と関わる著作で、北畠親房は後醍醐側の重臣であり、『南朝こそが正しい』と主張した」と述べます。



神皇正統記』では「神皇」という言葉が用いられていますが、これは神道や皇道という言葉とも関わりが深いと指摘して、著者は「昭和前期の仏教では『皇道』という言葉が盛んに用いられたが、この言葉はすでに幕末維新期にも多用され、『尊皇』という明治維新の指導的理念と結びついて用いられた。この皇道という言葉につながるのが『神皇』だ。明治前期に設立された伊勢にある皇學館の名称も、國學院に先立って設立された皇典講究所の名称も、北畠親房の『神皇』に源流があるととらえることもできる」と述べます。


祭政一致は強調されない」では、親房は政治が天皇、祭事が中臣氏に分かれたことを批判的にとらえてはおらず、「祭政一致」は古代にはあったものの、今後そうあるべきものとはとらえていないと指摘し、著者は「これが近代では天皇親祭とされ、天皇自身が祭祀を行うことになり、宮中三殿が設けられる。神祇官にあったものを、神祇官を廃して皇居の中に神殿ができた。北畠はそれほど強く祭政一致を述べているわけではない。また、江戸時代の国学思想のように、仏教や儒教を排除しようとしているわけでもない」と述べています。

 

そして、北畠親房の思想について、著者は「日本には神の道があるが、儒教や仏教も必要だという。日本の道をしっかり守らなければならないが、儒教や仏教はそれを助けているという見方だ。水戸学は儒教を土台とした国体論的な尊皇思想だが、親房の場合は仏教も含めて神儒仏のすべてを包括しようという思想になっている。実際、出家した親房を描いた絵もある。墓も室生寺の墓、賀名生にある神道風の墓の双方がある」と述べるのでした。



明治維新吉田神道の廃止」では、明治維新においては、当初から王政復古・神武創業・祭政一致が唱えられ、神祇官が設けられました。律令制度のもとでは太政官神祇官があり、政治を担う太政官と祭祀を行う神祇官が並置されていた。それほどに神道祭祀が重視されていたのだが、明治政府は神祇官を復興したものの、それはまもなく神祇省になり、のちに廃止されまし。代わりに宮中三殿ができ、天皇親祭が行われるようになりました。著者は、「明治国家は神聖天皇崇敬の儀礼と国体の教えを全国に広めようとした。これは教部省の体制にもとづくもので、数年間しか続かない。当時、増上寺に置かれた大教院では、仏像を動かしてそこに神を祀り、僧侶も神を拝むことになるという仏教界にとっては屈辱的な体制ができた。これは数年で瓦解するが、他方、『八神殿』はやがて『神殿』になり、天神地祇に関連する祭祀対象として宮中三殿に統合される」と述べています。

 

神祇官以来の八神は、国民生活にあまり関係のないクニトコタチノミコトからイザナギイザナミに至るまでの多くは人々にはなじみの薄い神々でした。新たに設けられた宮中三殿では、全国の神々がまとめられ、それを天神地祇という日本古来の八百万の神々に結びつけたとして、著者は「現在は、宮中に賢所皇霊殿、神殿があり、天皇親祭のかたちをとっている。明治維新のときにそれらが整備され、同時に吉田家は完全に排除された。1872年、宮中に祭殿が建立され、現在の大きな建物のあとになる宮中三殿は1889年にできた。皇霊殿も同様に明治維新後に新たに宮中に設けられたもので、小島毅が示しているように、中国にならって宗廟を造営し、日本でも皇室が先祖を統合的に祀るようになる。今も天皇家は四代前まではしっかり祀る。四代というのも、中国にならったもので、『礼記』などの規定にもとづいている」と述べています。


神道史の転換点に位置する人物」では、北畠親房吉田兼倶は、神道の歴史の大きな流れの中で、それぞれ独自の仕方で重要な転換点を担った人物であるとして、著者は「神道が生きのびて現代の教派神道になったり、国家神道になったりする展開の重要な結節点に位置する人物たちといえる。『神皇正統記』の思想は、古代国家神道律令神道)に新たな活力を与えることになり、その神国論や国体論は、天皇神道による国家統治という理念に力を与え、江戸時代の垂加神道へ、あるいは水戸学、国学へと続いていく。そして近代の神権的国体論に展開する。その流れの中では、後期水戸学の果たした役割が大きく、宋学=新儒教の影響が大きい。国家秩序の根本に神祇祭祀を置くという古代律令国家のシステムの根拠となる記紀神話の神権的統治の理念を、宋学的な理論と制度を付与した帝国統治の理念へと展開させたものだった」と述べます。


他方、吉田神道は仏教の影響が大きく、神仏習合の中から神道が力を強めていく傾向を後押ししたものであり、教派神道にも通じるとして、著者は「密教系の霊威神の系譜に位置づけることもできるものだが、古代の国家祭祀の中核にあった神祇官の制度を利用してもいる。神仏習合の宗教領域に接しているがゆえに、民間の宗教実践とも近いとともに、朝廷の権威を帯びた支配体系の中にも居場所をみいだすことができるものだった。北畠親房吉田神道も、中世の仏教中心の宗教世界から脱皮して、近世から近代へと、国家レベルと民間レベルの双方において、神道が自立していく過程を媒介する働きをしたとみることができる」と述べるのでした。



第3部「近世から近代の神道の興隆」の第7章「江戸時代の神道興隆」の「江戸時代の神社と天皇」の冒頭を、著者は「神道とは独立した神社や神道思想を中心としたものをいうだけではない。神仏習合の時代に、どのように神道が人々の生活に入っていったのかを考えることが重要だ。神仏習合の時代は組織的には仏教勢力が力をもっていたが、その中で神祇信仰にも力があった。これは密教の影響を受けた両部神道伊勢神道などの教説にみられるとともに、八幡、稲荷、熊野、山岳信仰など、全国の神祇信仰についていえることだ。多くの人々にとっては、神仏習合の中での神祇信仰が身近なものであった。他方、国家や朝廷が神祇祭祀とどのような関わりをもっていたかについてもみていく必要がある。そもそも朝廷がアマテラスの祭祀をその権威の源泉としているとともに、全国の神祇信仰をそれに連なるものとして関与を続ける体制が古代につくられた。その後の時代、朝廷の祭祀も朝廷と全国の神祇祭祀の関係も盛衰があるが、まったくとだえるということはなかった」と書きだしています。

 

「朝廷の神事の後退と復調」では、天皇自身が行う神事は毎朝御拝のような「内の神事」は続けられていましたが、四方拝新嘗祭大嘗祭などの「表の神事」、つまり朝廷の神的権威を示す意義をもって、京都の貴族が中心であるとはいえ外向きに行われる表の神事の多くは、応仁の乱以後、行われなくなっていたことが紹介され、著者は「朝廷の外に存在する伊勢神宮石清水八幡宮賀茂神社などの由緒ある大きな神社に奉幣使(勅使)を派遣するという行事も応仁の乱以後、とだえていた。1081年以来、年に2回、二十二社に向けて行われていた祈年穀奉幣も応仁の乱以後、行われなくなっていた」と述べています。


江戸時代のはじめの時期を考えると、神道的な国家の祭祀が大幅に減退した状態になっていたと指摘し、著者は「戦国時代に神道的な国家儀礼の体制が崩れてしまい、他方で、一向一揆法華一揆のような宗派勢力が力を誇示したり、キリシタン信仰が急速に広まっていった。もちろん主流の仏教勢力もなお大きな力をもっている。しかし、東アジアの伝統では国家の儀礼秩序が不可欠であったし、日本では朝廷が残っていること自身がそのことを証明するものでもある。すでに織田信長の天下統一以来、そして安定した体制へと移行する江戸時代には、国家の神聖儀礼秩序の再建が大きな課題であり、そこでは神道が新たに大きな役割を果たすことにもなった」と述べます。

 

 

「天下統一と将軍権力の神聖化」では、江戸幕府の体制になって、東照宮が建立されるとともに国家儀礼が新たに体制を形成していくことになりますが、徳川家は家康が神格化された東照宮を尊ぶとともに、あわせて朝廷も崇敬したとして、著者は「日光例幣使は二つの神道的な儀礼的中心をつなぐものでもあった。家康の神格化が起こる前に、すでに信長は信長自身を神格化しようとしていた(朝尾直弘『将軍権力の創出』1994年)。1576年に信長が造営した安土城は、『天主』(天守閣)を設けている。『天主』はキリスト教信仰を思わせる言葉で、ゴシック建築と同じように天に向けて突き立っている。江戸時代の各藩の城郭は安土城がモデルになっている」と述べます。


安土城天守閣の最上階の下には、儒仏道などの偉人たちの像が並べられていました。信長自身をその上位にある存在として位置づける意味合いがあったのではないかと論じられているそうですが、著者は「戦闘のための建物というより、寺院・教会にまさる権威を示す建物という性格をもっていた。信長には天皇安土城や二条城に招く計画があったとされる。また、仏教宗派を従わせるというような意味合いを込めて、1579年には安土宗論という宗派論争をさせている。浄土宗と法華宗に宗論をさせ、法華宗の負けを宣言したものだが、これにより諸宗派を自己の権威に従属すべきものとしたとされる。さらに安土城内の総見寺において、自らを神として崇敬させることを意図し、誕生日を聖目とし、参拝を強制したという」と述べています。


「朝廷の祭祀の再興」では、江戸時代を通して、朝廷の祭祀の意義が高まり、祭祀・儀礼の再興・強化が試みられていくとして、著者は「日本の朝廷にとって一番大事な祭礼は新嘗祭だ。新嘗祭飛鳥時代皇極天皇以来、長く続いてきたが、1463年、応仁の乱で京都の混乱に巻き込まれ、後花園天皇が行って以来中絶した。江戸時代に入って、徳川綱吉政権下で霊元上皇によって再興される。霊元上皇が神事復活に強い意志を示したという。新嘗祭の復興よりもまずは大嘗祭の復興が目指され、大嘗祭をしたのだからということで、新嘗祭も行うことになった。大嘗祭が200年ぐらい途切れたが、さらに50~60年経って、ようやく1740年以降に新嘗祭が正式に復活した」と述べています。


徳川幕府儀礼的な秩序による権力の神聖化という点で、まず行ったのは東照宮祭祀であるという指摘がなされます。著者は、「これは徳川家康の神格化であって、将軍の権威の裏付けとなるものだ。明治維新の際、強力に天皇の神聖化が行われるが、それに先立つものといえる。それに続き、だいぶ遅れるが、大嘗祭も復活し、新嘗祭も復活する。徳川吉宗の時代だ。江戸時代に将軍や老中などが国家秩序を立て直すときには、思想や儀礼の面でも改革を行っている。松平定信も「寛政異学の禁」といわれる政策を行い、朱子学以外にも学問を強く奨励した。徳川吉宗の目安箱なども民の声を聞くことに通じ、中国風といえる。中国の中央集権体制にならいながら、こういった儀礼の復活も行われた」と述べています。

 

 

儒家の影響を受けた神道教説」では、東照宮祭祀が興され、朝廷祭祀や外の神事が再興されていくことは徳川支配体制において、神祇信仰の意義が高まっていくことでもあると指摘します。他方、「徳川の平和」の到来とともに、武士の官僚化が進み、武士の教学としての儒学が興隆していきました。著者は、「林羅山吉田神道の伝授を受けたが、儒家の立場にもとづく『理当心地神道』を唱えた。宋学理気説にそって、神は理であり、心霊であるとするもので、神道説としての独自性は乏しい。また、『本朝神社考』や『神道伝授』を著し、排仏的な立場から神社縁起などを整理したり、中世神道から吉田神道に至る流れを紹介、解説した」と述べます。


儒学導入が神道の興隆をもたらす流れ」では、東アジアにおける官僚制帝国の趨勢を受け、また、現世の秩序の政治的統御への関心の増大を受け、統治者である武士層の精神的基盤として急速に儒学が広まったとして、著者は「その結果、江戸時代の初期に神儒習合の思想が広まり、武家や公家の一部に支持者をみいだしていく。徳川幕府の頂点では、家康から家光、さらには綱吉へと儒家登用が進み、林羅山ら林家の系譜が影響力を増していった。また、会津藩の藩主、保科正之吉川惟足に学び、儒家神道の実践を進めていく。保科や吉川と接した京都の山崎闇斎朱子学の本格的導入により、多くの弟子を育て崎門学派とよばれたが、儒学神道教説とを習合した垂加神道を広め、自ら神道祭祀を実践するとともに朝廷の神道祭祀復興にも影響を及ぼすに至る。だが、江戸時代の初期には、もう一つ近代の国家神道の源流となるような思想運動が起こされている。徳川御三家の一つである水戸藩2代藩主の徳川光圀(1628-1700)による『大日本史』の編纂で、北畠親房を受け継ぎ、幕末の尊皇思想と国体論の興隆の大きな源流となった」



国学の興隆と神道」では、江戸時代の初期には儒学が興隆し、儒学思想を受け入れる中で神道や神祇信仰が重んじられるという思想系譜があったことが指摘されます。この系譜は幕末の後期水戸学に受け継がれ、尊王攘夷運動から倒幕運動へと展開し、下級武士が主要な担い手となった変革運動の思想的骨格を形づくるようになります。他方、江戸時代の中期には儒学の興隆に刺激されつつ反発し、日本の古典にこそ依るべき精神伝統の根があるとする「国学」の思想運動が発展してきます。本居宣長(1730-1801)は、三重県の松坂(現松阪市)の木綿商の家に生まれました。京都で古代の言語に通暁して儒教の古典を直接読むべきだとする荻生徂徠(1666-1728)の古文辞学の方法に学び、日本の古典をしっかり読むことによって、儒学や仏教などに歪められる前の日本的な精神文化に帰るべきことを説きました。

 

源氏物語』などの文芸については、宣長は重々しく理論化された教説が示す規範にしばられることなく、人間のさまざまな感情をそのままに表現し、それを通して人間生活の真実を受け止めていくことに価値があると説きました。それを「もののあわれ」を知るという、『土佐日記』以来、古典でしばしば用いられてきた言葉で述べましたが、著者は「芸術の価値を政治や道徳に従属させないという点で、現代人にも納得がいくような議論を先駆的に示したものともいえるが、同時にそれは仏教や儒教のような外来の思想体系の排除の意志と結びつく。宣長は人間の苦難や死など、説明がつかないものを教説や知性で納得できるようにしてしまう態度を否定した。死後の霊魂の赴く所についても、『古事記』のイザナミがそうであったように、『きたなくあやしき所』である黄泉国に行くのであって、それを『悲しきこと』として受け止めるしかないという。このように死後の救いを否定する考え方は儒学の中にもあり、江戸時代の町人の間ではしだいに多くの支持者を得ていくものだが、それを古典に依拠して説くのは独特である」と述べています。


平田篤胤復古神道」では、秋田藩士の四男に生まれた平田篤胤(1776-1843)は、備中の松山藩士の平田家の養子となり、その後、本居宣長の長男である本居春庭の弟子となり、江戸で独自の国学説を展開したことが紹介されます。篤胤は当時、知られるようになっていた西洋の天文学キリスト教の教説などにも触れ、国学的な枠組みを引き継ぎつつも、古典の記述を超えて体系的な宇宙観を構築していくことに力を注ぎました。また、死後の霊魂のゆくえについて知ることで心の安らぎを得ることの重要性を説きました。著者は、「本居宣長の没後の門人を自称する平田篤胤であるが、死後の世界についてまったく異なる展望を示し、仏教の救済の約束とは異なるものの、死後に向けての安心の信仰をも提示することとなった。これによって、学問運動としての国学が宗教運動としての復古神道へと展開することになる。篤胤は気吹舎という門人組織を形成したが、最初は町人中心だった門人組織はやがて神職や上層農民へと基盤を広げていった。とりわけ篤胤没後に多くの門人が加わり、信濃や美濃では多くの武士も加わり、尊皇運動に加わるようになった」と述べています。

 

「神祇信仰の組織化の進展」では、本居宣長の思想の興味深い点は、死後に救われることを期待しないところだが、江戸時代の後期には、平田篤胤復古神道が起こり、死後が大切にされ、心の落ち着きどころを求めて死後への信仰を強調するようになったとして、著者は「こうした思想は、民間信仰的なものを取り込みながら、現実の裏側に隠れた幽冥界という世界があり、二重構造になっているという理論化を行い、この世の近くにあの世があるとする独自の理論ともなった。こうして江戸時代後期には、仏教から独立した神道が個々人の救いに目を向けるようになり、神葬祭も行われるようになった。平田篤胤の弟子たちの気吹舎という組織は、幕末には3000人にも及ぶ人々が支えるようになったとされる。こうした人々は明治維新の変革を支える尊皇思想の担い手ともなった。これも江戸時代の後期の独立した神道の動きとして重要で、復古神道とよばれている」と述べるのでした。


第8章「国家神道の時代の神道」の「律令国神道という原型」では、本書が、神道の歴史において国家の祭祀が大きな役割を果たしてきたことを重視していることを再確認し、著者は「7世紀の終わりから8世紀のはじめにかけて律令国神道、あるいは古代国家神道とよぶべきものが形成された。(1)国家的な祭祀の最高崇敬対象である天照大神を祀る伊勢神宮が成立し、(2)宮廷祭祀が行われる神祇官という組織と施設が形成され、(3)宮廷祭祀の組織化が進み、(4)それを畿内と全国の諸神社とを結びつける班幣の制度が整い、(5)神話的な国家の起源と皇室の歴史、また天津神国津神の神々の系譜を記した記紀神話がまとめられた」と述べています。


「幕末から明治維新への展開」では、幕末から明治維新に至る状況と国家神道との関わりを理解するためには、尊王攘夷論とそれと不可分の国体論に注目する必要があるとして、著者は「『尊王』は、天皇中心の国家体制をつくっていくということである。だが、それが新たな国家体制の形成につながる経緯については、儒学的な素養をもつ下級武士(志士)らの忠誠の意識の変容が基盤となった。藩主や幕府に対する忠誠から天皇への忠誠への転換が進み、その際、国体論が大きな支えとなった。江戸時代を通して、水戸学、垂加神道国学などによって育てられてきた国体論であるが、それを具体的な政治目標と結びつけるについては、19世紀前半の後期水戸学の役割が大きかった」と述べています。


国体論と結びついて形成された理念の1つとして、「祭政一致」あるいは「祭政教一致」というものがあるとして、著者は「これは神道の言葉というより、近世(江戸時代)の儒教が元になっている要素が大きい。しかし『祭』は神道と不可分だ。儒教神道と結びついて『祭政一致』『祭政教一致』という理念も形成されていった。儒教と結びついた中国的な理念に『国家には中心的な儀礼がなければいけない』という考え方がある。これが日本では神道の祭祀になる。同時にそれを行うのは皇帝にあたる存在で、日本では天皇ということになる。さらに儒教的素養をもった官僚が、正しい『教』によって天皇を支え、あるべき国家秩序を形成していくという国家像だ」と述べます。



天皇中心の神道思想の形成」では、西洋近代国家に匹敵する国家統合を行うには、将軍や藩主に代わって天皇が国家の中核として強力に統合力を発揮する必要があり、そのために天皇が関わる国家祭祀を強化すると同時に、天皇が国家の教えの中心にもなるとして、著者は「つまり国家とは、それ自身が神聖な道徳的な秩序の元となるものだという考え方がある。これも中国的な理念の影響を受けていて、日本でも古代以来あるものだが、それが前面に出てきたのは明治時代であった。元号の『一世一元』は明治に始まる。中国では明の時代(1368-1644年)から続いてきた。強力な帝国的体制の下で、皇帝が精神文化の中心になり、儀礼を行い、儒教的な統治理念の中心となるという体制と結びついたものだ」」と述べています。


中国の場合は、加えて科挙によって登用される士大夫が儒教の教えを身につけた官僚層として統治の責めを負うという重い伝統がありました。日本では江戸時代の後半になって、武士がその役割を担おうとします。著者は、「江戸時代の武士は将軍や大名に対する忠誠の下でそうした役割を自覚していくようになるが、幕末に入り西洋列強と対決する段階になって、国家が1つにまとまる必要に迫られた。そこでキリスト教を背景にあった西洋諸国やロシアに対抗できるような、国家的な祭政一致、祭政教一致体制をつくろうとする考え方が浮上していった」

 

「国体」の理念が次第にその地位を固めていきますが、それを国民に伝え具体化するものとしては軍人勅諭教育勅語の役割が大きいとして、著者は「これらは天皇が下した神聖かつ権威ある『教』として定着するようになる。また、神職養成機関として皇典講究所と皇學館が形成され、国体論的な『教』の形成が、神社神道と結びつけて進められていくようになる。学問的な正統性は得られないものの、国家神道の『教』の側面がある程度、整っていくことによって、祭政教一致体制が形を成していくことになる」と述べます。

 

 

大正期以降、祭政教一致体制を「神道」「国家神道」とよぶ傾向が強まっていきました。これが戦後に「国家神道」としてとらえられるようになる概念の原型であると、著者が書いた戦後日本と国家神道: 天皇崇敬をめぐる宗教と政治』(岩波書店)の第I部にあります。著者は、「それは『国体』概念と不可分である。儒教とは異なる日本の独自の体制として万世一系天皇を中心とした体制があり、それが『国体』だという理解が国民の間に広まっていく。『国体』の教学を掲げて、天皇祭政一致の中心となり、国民もそれに参与していく体制を『神道』としてとらえるようになる。国家祭祀と天皇崇敬にもとづく社会秩序の教えを担うのは神聖な天皇で、明治国家はそれを打ち出そうとしたが、軍隊や学校などがそのための重要な場となり、それが明確に『神道』として意識されるには40年余りの経過が必要だった」と述べます。

 

 

宮中三殿と神聖天皇崇敬」では、近代国家神道においては、神聖天皇崇敬が大きな位置を占めるようになるが、それは天皇自身が神道祭祀の重要な担い手とされたこととも関わっているとの指摘がされます。わかりやすい例として宮中三殿があるといいます。原武史著『昭和天皇』によれば、天皇による祭祀は理念としてはあったものの、明治天皇は実は好まなかったとされます。著者は、「その前代の孝明天皇までは天皇自身が皇室祭祀に深く関わるということはあまりなかったから、守るべき伝統とは感じられなかったのかもしれない。伊勢神宮にある天照大神御神体である鏡の写しが賢所にある。ここが江戸時代までの宮中行事で表に出ることはあまりなかった。鎮魂祭には登場するが、賢所は内侍所にある」と述べています。


「祝祭日の制定」では、明治政府は祝祭日を定めましたが、これが神聖天皇に関わるものとなり、皇居で神道行事が行われる日となったことが紹介されます。著者は、「祝祭日は国民生活に国家神道行事が浸透するのに一役買うことになった。1870年(明治3年)の布告では大正月、小正月、上巳の節句端午の節句、七夕の節句、中元・お盆、八朔田実の節句重陽節句天長節が年中行事、国民の祝日とされた。年中行事、国民の祝日がこのままであれば、神道色や天皇崇敬の要素は乏しかっただろう。ところが、明治6年に国民の祝日はすべて、天皇関係の祭祀に結びつけられた」と述べます。


靖国神社と軍隊の役割」では、明治維新以後は戦争中までそこで招魂祭を行い、そこで神になった霊を御羽車に乗せて社殿に運んだことが紹介されます。暗い夜に行われる神秘に包まれた儀式で、昭和前期にはその様子がNHKラジオで全国に放送されました。「神道の祭祀施設としての靖国神社」では、江戸時代の後期に次第に広がっていった神道の葬式、すなわち神葬祭の運動の1つとみることもできる「招魂祭」が取り上げられます。著者は、「靖国神社や招魂社の招魂祭は、天皇のために戦って死んだ軍人・志士たちのためのもので、日本の神道史上、新たな儀礼の様式だ。幕末には招魂祭という死者のための儀式と並んで、楠公祭という楠木正成の命日に行うお祭りも催され、あわせて戦死者も弔うという形もあった。天皇のために死んだ人の代表として、明治天皇の葬儀の日の乃木希典の殉死以前は、楠木正成がたいへん重要だった」と述べるのでした。

 

 

第9章「近現代の神道集団」の「国学者神職の失望」では、「新国学」を掲げるようになった折口信夫(1887-1953)は、1937年に書いた「国学とは何か」で、矢野玄道の「橿原の御代にかへると思ひしは、あらぬ夢にてありけるものを」という歌を引き、「明治初年の神祇官設置も、祭政一致もたゞ名ばかりであった」と述べている(『折口信夫全集』第20巻、1967年、280ページ)ことが紹介されます。著者は、「地域の神社と日本の神々に親しみをもつ国学者神職にとっては、維新政府の宗教政策は神社・神職が望むようなかたちでの神道の復興とはほど遠いものと感じられた」と述べています。

 

「神官と教導職の分離」では、政府は1882年に神官と教導職を兼ねるのを認めないという布告を出し、神官が葬儀に携われないこととしたことを紹介し、著者は「これは葬儀を行い死後の運命についての教えを説くのは宗教者の役割だが、神官は宗教者ではないのでそれを認めない、神官の役割は『祭祀』を行うことなので、それに専念させるというものだ。これは国家が特定の宗教に公的な地位を与えることを避けるという、米国やフランス等の政教分離の考え方をある程度受け入れつつ、伊勢神宮をはじめとする神社に公的な地位を与えて国家神道を支えさせるための苦肉の策ともいえるものだった」と述べています。


さらに、著者は以下のように述べています。
神社神道を『宗教』ではなく『祭祀』の担い手として異なるカテゴリーのものとする。それによって、神社神道を国家的な祭祀体系に連なる組織として公的な地位を付与するというものだ。だが、その代償として葬儀や救済信仰活動に類することは『宗教』活動にあたるので関与できないことになった。明治維新前後はむしろこれからは神道が積極的に葬儀に関与する、つまり神葬祭が拡大していくという方向での動きもあったのだが、『神官と教導職の分離』以後は、官国幣社の神官は葬儀等を行うことができなくなってしまった。これは神社界の多くの人々にとってたいへん不本意なことだった。そのような認識をもつ人々は、戦前を通して神社界には少なくなかった」

 

 

神社神道の活性化」では、明治神宮の創建のプロセスによって、全国的な神社神道の活性化がもたらされた様子もうかがわれることが指摘されます。平山昇著『初詣の社会史』は、大正年代に神社神道のプレゼンスが増していくとし、1914年の昭憲皇太后の大喪や1915年の大正大礼(即位式大嘗祭)における神道式儀式の詳細報道を挙げ、さらに北海道小樽の住吉神社の参拝者の急速な増大を例示しています。平山は続いて、このような神社神道のプレゼンスの増大は、とりわけ「上中流」階層が神社参拝に対して積極的な態度をとるようになったことと関わりがあるとしています。

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神仏習合の信仰の系譜」では、1945年以後の現代においては、神仏習合によって保持されてきた日本の神々の活力は、新宗教によって受け継がれてきた面が大きいと指摘。教派神道の諸教団のほかに、仏教系でも修験道シャーマニズム・霊能者との関連が深い諸教団が存在します。手かざしによる癒やしが主要な信仰実践となる世界救世教系や真光系の教団、生長の家ひとのみち教団系のPL教団のように心理的な癒やしや修養道徳的な実践が強調される団体も多いとしています。

 

著者は「ただ、霊能的な要素が大きくても、霊友会系の諸教団や真如苑のように仏教を表に掲げている団体も多い。オウム真理教も仏教を表に掲げていたが、神道系の霊能信仰の影響も受けていた。天理教のように神道の神々への崇敬を継承している教団でも、戦後は自らを『神道』ではなく神道・仏教・キリスト教以外の『諸教』に位置づけている例もある。幸福の科学のように『エル・カンターレ』を本尊に掲げている場合、神仏習合の宗教伝統の系譜上にあるとはいえても、神道系とはよびにくい。こうした新宗教における『神道離れ』の傾向は、1970年代以降、いっそう顕著になったようにみえる。総じて、神仏習合系で神道に力点を置く新宗教教団の存在感は低下し、みえにくくなっている」と述べます。

 

 

「娯楽文化の中の神道的なもの」では、アカデミックというよりはエンタテインメントに属す領域では、水木しげる(1922-2015)の『ゲゲゲの鬼太郎』(1960年の『墓場鬼太郎』以来)などのコミック作品が注目されるとして、著者は「『ゲゲゲの鬼太郎』には、さまざまな妖怪が登場する。民俗宗教の世界を参照しながら描いた作品でファンも多い。妖怪は日本の神々が姿を変えたもので、地域住民たちが伝承してきた神秘感覚を伝えるものとして親しみ深い存在となっている」と述べています。

 

また、アニメの世界でも、日本の神々の表象が大いに力を発揮しているとして、著者は「2001年に公開された宮崎駿のアニメ『千と千尋の神隠し』は10歳の少女千尋が、八百万の神々が住む異世界に紛れこみ、少年ハクとともにさまざまな体験をし精神的に成長するという物語だ。宮崎駿の初期の作品『風の谷のナウシカ』は1982年から1994年にかけて発表されたコミック作品で、その一部が84年にアニメとして公開されている。ここでも目にみえない神や霊の働きへの感受性が大きな位置を占めている。2016年に大ヒットした新海誠の『君の名は。』でも神社が大きな意義をもつ舞台として用いられており、神道の『産霊』の信仰を示唆する『結び』の儀礼に特別な意味が込められていた」と述べるのでした。

トークショーで著者の島薗進氏と

 

「おわりに」で、著者は「神道祭祀や神道思想についての紹介や解説ではなく、神道史を再構成することによって神道の理解を深めるという観点から書かれた『教養としての神道』であり、神道入門である。私は修士論文折口信夫神道理解の研究を試みてから、長く神道系の新宗教国家神道の研究に取り組んできたが、本書ではそこで得られた知見をもとに『神道とは何か』を考え直している。その意味では50年間にわたる宗教研究、日本宗教研究の1つの帰結ということもできる」と述べています。


上智大学近くのレストランで著者と

 

本書は、前神道の時代から古代・中世を経由して近代の「国家神道」までの流れやそれぞれの特徴が史料をもとにして具体的に述べられており、客観的な視点から行なわれる解説は大変興味深いものでした。特に近年注目されることが多い神道の成立時期についての学説に対して、以前から研究者の間では言及されることが多かった、当該学説における『神道』定義の特殊さを指摘し、古代律令国家において従前の神祇祭祀を継承するかたちで神道が成立したと指摘した点が素晴らしいと思いました。また、本書は神道史を古代から通史的に解説されることに重点が置かれていますが、これにより、例えば皇室儀礼が「なぜ、儒教の影響を受けたのか」などの点に歴史的な側面からアプローチ出来ていることが嬉しく感じました。

皇産霊神社の瀬津神職

 

じつは、皇産霊神社の瀬津隆彦神職に本書をプレゼントしたのですが、瀬津神職は「儒教や仏教などの思想に影響を受けた、あるいは、どこに淵源があるかといった指摘だけに留まらず、影響を受けつつも採用されなかった点――すなわち神道の独自性にも十分な紙幅が割かれて解説が行われており、より神道に関する教養がより身につけられる内容になっていると感じました。島薗先生は第3部の最後に『今後神道の活力がどのように保持され、あるいは発展していくのだろうか』との問いかけを投げかけられておられましたが、機会がございましたら、是非先生の展望について窺ってみたいと思った次第でございます」との感想を寄せてくれました。

 

2022年6月13日 一条真也

「日王の湯」のリニューアルオープン&集マルシェ

一条真也です。
今日は、6月12日の日曜日です。
長女の結婚式および結婚披露宴から、早くも1週間が経過しました。なんだか信じられません。

日王の湯」の入口で


「集マルシェ」が開催されています!


エントランスのようす


上野焼コーナー

 

さて、わが社は、昨年9月より福岡県田川郡福智町にある「ふるさと交流館 日王の湯」を運営しています。このたび、大規模なリニューアル工事が行われ、リニューアルオープン記念イベント「日王の湯 集マルシェ(あつマルシェ)」が開催され、わたしも行ってきました。


「集マルシェ」にようこそ!

「集マルシェ」のようす


「集マルシェ」のようす


焼き芋を買いました

日王の湯」リニューアルを記念してマルシェを開催。フランス語で「市場」を意味する通り、二日間各日30店舗の魅力溢れるブースが日王の湯に登場しています。野菜やドライフルーツ、ジャムなどの食べ物から、アクセサリーやハンドメイド雑貨など、見るだけでも楽しめるお店がお客様をお待ちしております。また、佐世保バーガーをはじめとしたキッチンカーも出店! 目玉イベントは無料抽選会です。特賞の液晶テレビをはじめ、女性も嬉しいアイマッサージャーなど豊富な景品をご準備しています。


「壺湯」のようす


「壺湯」のようす

 

リニューアルされた男女露天風呂には、「壺湯」がオープン。その新しい癒しの壺湯アートの壁面を飾るのは、国指定伝統的工芸品上野焼」の六窯による名品です。釉薬が多種多様である「上野焼」は他の陶器等と比較して、極めて軽く薄づくりであるという特徴を持っています。五感に心地よい、土の持つ素朴さと力強さの中に「薄づくり」の上品さが香るその特徴は現在にも受け継がれています。日王の湯で壁面を彩る上野焼は「庚申窯・光修窯・昇龍窯・天郷窯・渡窯・守窯」の歴史ある六窯です。温泉とアート空間で焼物の土と水と火を感じ、心と体を癒すことができる新たな温浴スタイルを楽しむことができます。

「SORAキャンプ」がオープン!

「SORAキャンプ」のようす


新しいリラクゼーション空間です!


テントの中で瞑想しました

また、このイベントと同時に館内リラクゼーションスペース「SORAキャンプ」が新規リニューアルオープン! 星空をイメージした空間には10棟の広々としたかまくら風ドームが点在しています。湯上りのご家族やお友達同士でゆったりとくつろぐことができます。現在、大切な家族や友達と一生の思い出作りが叶うグランピングがブームですが、「SORAキャンプ」はまさにグランピング空間です。ぜひ、一度、非日常な体験をお試し下さい!


似顔絵コンテスト


互助会加入で安心!


社員・パート大募集


レストランのようす


天刺定食(1500円)


美味しかったです!

 

日王の湯」の運営については、これまで福智町が設立した「一般財団法人健康交流体験協会」が指定管理者として運営を行ってきましたが、令和3年度の施政方針に掲げた民間力の導入・企業連携による持続可能な行政規模への効率化を推進する福智町と、会員サービスの拡充と互助会の新規会員の募集などを目的とした策として温浴施設の活用を模索していたわがサンレーのニーズが合致し、指定管理協定を締結。令和3年9月よりわが社が「日王の湯」の新たな指定管理者として運営を担うことになりました。


物販コーナーに立ち寄る


メロンパンとアップルパイを買う


野菜も品定め・・・・・・


外にはキッチンカーがたくさん!


たこ焼き&からあげを買いました

 

運営の方向性として、まず最も重視するのは福智町民の皆様に認められる存在となれるかということだと考えています。多くの福地町民の方にご利用いただき、福智町民の皆様に愛され、そして親しまれる施設を目指します。もう1つの方向性は、会員制組織であるわが社の互助会を支えていただいている約30万世帯の当社会員の皆様にご利用いただきたいと考えています。温泉で心と体を癒していただき健康な生活を送っていただける一助となればと考えています。この「日王の湯」で縁社会を乗り越えて有縁社会を再生する、いわば「湯縁社会」を呼び込みたいです!


日王の湯」の名称は、当館の南側にある「日王山」より命名されています。『金田町史』や『嘉穂郡誌』に記された神話によると、この日王山には「日王」と呼ばれる方丈の瑞石(仏像を刻んだ長さ2メートル、幅40センチほどの自然石)があると書かれています。日王山の頂上から尾根伝いに北へ200メートルほど行ったところに、常楽寺跡の平地があります。この平地の西側に、仏像を刻んだ石柱があるのです。大きさは幅40センチ、長さ2メートルほどの自然石です。この石が「日王」と呼ばれる方丈の瑞石です。英語で言えば、KING  OF  SUN!


『養生訓』で有名な貝原益軒は、『筑前国風土記』の中で、方丈の瑞石のことを「豊前筑前の国境に日王殿(ひおうでん)という、長さ7尺ばかりの石仏がある。その側にお寺があったと見えて礎石が残っている。近くには池があったという。何というお寺か』と書き記しています。また、金田町史や頴田町史にも、『日王と呼ばれる方丈の瑞石』があるから、この山を『日王山』と称するようになった。『方丈の瑞石』は宗像三女神の時代から、この山にあった」と書いています。



「日王」と呼ばれる石は、宗像三女神の時代から存在していたと書かれています。宗像三女神が、天照大神の命を受けて宇佐から筑前国、宗像の移り住む途中、日王山に立ち寄って休憩していました。その側にあった方丈の瑞石を見て、母神の天照大神のことを想い物思いにふけっていたことから、この山を「日思山」とも言うと書いています。「日王」といえば太陽の神様、天照大神のことだと推察できます。景行天皇の御代になって、山頂に日王殿をご神体とし、天照大神と三女神を祭神とする「日王神社」が創建されました。

 

このように「日王」とは、太陽の神様である天照大神ともゆかりが深く、「太陽光」を意味するわが「サンレー」との縁も感じます。福智町は、平成18年3月6日に福岡県田川郡の旧赤池町・旧金田町・旧方城町の三町が合併して誕生しました。福岡県のほぼ中央に位置し、直方市北九州市香春町田川市糸田町飯塚市と隣接しています。北九州・福岡の両都市の中心からそれぞれ約45キロメートル、約35キロメートルの距離にあります。つまり、福岡県の当社事業展開エリアのほぼ中央に立地することになります。この点も本事業を計画してく上での大きなポイントでした。


福智町の中央部で彦山川中元寺川が合流し、貫流しています。標高901メートルの秀麗な福智山がそびえ、その山頂一帯は北九州国定公園に指定されています。高さ25メートルの滝が小渓谷をなす上野峡の近くには400年以上の伝統を誇る国指定伝統的工芸品上野焼(あがのやき)」の窯元が点在し、陶芸の里となっています。また、「かもめの水兵さん」「うれしいなひなまつり」などでお馴染みの、数多くの童謡を作曲した河村光陽氏の生誕地でもあります。町内には樹齢520年以上の天然記念物「迎接の藤」(県指定文化財)や樹齢600年の「虎尾桜」(町指定文化財)があり、開花シーズンになると大勢の花見客でにぎわいます。豊かな自然と文化に彩られながら、福智町は観光・教育をはじめとする人の活力を生かしたまちづくりを展開しています。みなさんも、どうぞ、福智町の「日王の湯」にお越し下さい!

 

2022年6月12日 一条真也

 

一条真也です。
たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。今回の「こころの一字」は、「教」です。


「天道塾」で訓話する佐久間進会長

 

わが社は、創業者である佐久間進会長が本来は事業家よりも教育者をめざしていたこともあり、社員教育というものに非常に力を入れています。営業や経理といった各種実務研修はもちろん、挨拶やお辞儀や電話応対のマナー研修、そして冠婚部門のスタッフには神道キリスト教の知識、葬祭部門の社員には仏教や儒教の知識を得るための勉強会を開きます。さらにもう50年以上も、毎月18日の月次祭の後に、会長・社長と課長以上の管理職全員による対話を中心とした「天道塾」という勉強会を開催しています。

 

 

この対話というのは、教育の原点、あるいは基本と言ってよいでしょう。東洋では、孔子の『論語』は、弟子との対話・問答で構成されていますし、孟子の『孟子』もまた、対話の集成です。西洋でも、ギリシャ哲学の父であるソクラテスは、アテナイの街頭に出ては青年と対話し、青年が自ら何かを考えながら向上していくように指導しました。その問答を後に弟子のプラトンが『ソクラテスの対話』としてまとめています。これを読むと、対話や問答というものの教育的効果の大きさがよくわかります。

 

 

しかし、ソクラテスの方法には規律も厳密さもありませんでした。ソクラテスの方法を最初に取り入れ、正式な教育方法のなかで応用したのが、プラトンの弟子であったアリストテレスでした。彼は、話し合う内容によって規律をつくり、ソクラテスのアプローチの仕方と議論の方法を調整し直したのです。マケドニア王フィリッポスにミエザの学問所に招かれ、彼の息子アレクサンダーの教師を務めたアリストテレスは、ここでも対話教育を重んじました。

 

 

アリストテレスはまた、教育プログラムを組み、それぞれの生徒が選択した専門分野を深く学び、かつその他の分野にも満遍なく触れられるように配慮しました。それによって、アレクサンダーら生徒たちが、マケドニアの将来の指導者として、いずれ関わる軍事、政治、公共政策、正義といった問題に一貫した態度で取り組めるようにしたのです。



時代は下り、1870年にアリストテレスの手法が甦りました。法律教育における革命的な動きの中で、クリストファー・コロンバス・ラングデルがハーヴァード・ロースクールに対話をもとにした「反対論証的」指導方法を導入したのです。それ以来、アリストテレスの手法は法学の教授法の基本となりました。実際の判決の概要を使って法律の理論的および実際的な根拠を説明するこの手法では、教室内の誰かが当てられて、判決の事実を読み上げます。そして、その事実を分析し、行動指針を提案するのです。



それから教師と学生のあいだで対話が始まり、学生はそれぞれ発言の時間を競って、主張された事実や行動方針を積み上げ、あるいはそれを崩していきます。つまり、まず問題が提示され、問題を正確に見るために事実が再度述べられるのです。それから自分の立場を主張します。続いて提案された立場への反論と反対の立場の弁護が行なわれます。さらに、教師がこの訴訟から学ぶべき要点に的を絞っていくあいだ、双方の弁論が続けられるのでした。



1924年に、ハーヴァード・ビジネススクールはハーヴァード・ロースクールのやり方を採用し、「CEOのように考える」架空の心理状態による対話主体の事例研究法を導入しました。今日では世界中の法律およびビジネス関係の学校がこの教育方法を実践しています。それだけでなく、ジャーナリズム、教育、医学、さらには神学の学校でもこの方法が取り入れられています。神学生は今や、教義や礼拝の執り行ない方を学ぶだけでなく、自分の教区で遭遇しそうな問題についても訓練を受けるのです。このようにソクラテスからアリストテレスへと受け継がれた対話という教育方法は世界のあらゆる教育現場に大きな影響を与えたわけです。


さて、アリストテレスは生徒との対話のなかで「中庸」ということを最も重視したといいます。彼はどんな問題でもアレクサンダーと学友たちに道徳的な含みが明らかにわかるように提示しました。彼は絶対不変の道徳規範など存在しないと考えていました。実際の意思決定は、数学のように確実で決定的なものには絶対にならない。また、道徳的な美徳を守れるかどうかは、そうした美徳を発揮する状況によります。したがって、どんな場合にも同じ程度に厳守するよう求めるのは現実的ではありません。



そこでアリストテレスは、人々に「中庸」つまり、中間的な立場を求めるよう勧めたのです。中庸とは、勇敢さに関しては極度の恐れや臆病さと怖いもの知らずの自信の中間にあり、勝利に関しては寛大さと無慈悲のあいだにあります。自分にとっての中庸を見出すために、アリストテレスアテナイにあるプラトンアカデメイアで教えたときのように、生徒たちに繰り返し自問することを求めました。それによって、少年たちに自分の本性のどういうところが現われやすいかを自覚させ、それによって将来、統治者や司令官やリーダーとなって決断するときには必要な修正を加え、誰もが同じ結論に達しうるようにしたのです。



興味深いことに、孔子も対話のなかで「中庸」を重んじています。『論語』に「子曰く、中庸の徳たるや、其れ至れるかな」とあります。「永遠の道たる中庸は、至れり尽くせりの徳と言うべきだ」の意味で、中庸を徳の極致とさえ位置付けています。孔子アリストテレス、東西の偉大な対話の師は、ともに中庸の大切さを説いたのです。なお、「教」については、『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)に詳しく書きました。

 

 

2022年6月12日 一条真也

『一条本』

一条真也です。
わたしは、これまで多くのブックレットを刊行してきましたが、一条真也ではなく、本名の佐久間庸和として出しています。いつの間にか44冊になっていました。それらの一覧は現在、一条真也オフィシャル・サイト「ハートフルムーン」の中にある「佐久間庸和著書」で見ることができます。整理の意味をかねて、これまでのブックレットを振り返っていきたいと思います。 


『一条本』(2012年5月刊行)

 

今回は、『一条本』をご紹介します。2012年5月に刊行したブックレットです。当時までの拙著をまとめて紹介する内容となっています。2012年7月に刊行された『無縁社会から有縁社会へ』(水曜社)で、ちょうど著書・監修書・編著をあわせて60冊になったので、ブックガイドをまとめることにしました。


8つのカテゴリーで本を分類しています

 

表紙には、「『孔子文化賞』受賞記念」と謳っており、「天下布礼への道」というサブタイトルがついています。基本的には、オフィシャルブックサイト「一条本」の内容をブックレット化したものです。「一条本」は、以下の8つのカテゴリーで成り立っています。
01「幸福を求めて
02「死は不幸ではない
03「宗教とは何か
04「ファンタジーへの招待
05「日本文化を見直す
06「こころの経営
07「読書を活かす
08「知の冒険へ・・・
このカテゴリー分けは、ブックレットでも踏襲して行われています。


処女作『ハートフルに遊ぶ』からスタートします

なつかしい著書が並びます

「日本人の癒し」シリーズ

ずっと「人間尊重」を訴えてきました

 

わたしは、 一条真也ペンネームで多くの本を書いてきました。経営から宗教まで、書くテーマは多岐にわたりますが、すべては サンレーのミッションである「人間尊重」という考え方を世に広める「天下布礼」の書をめざしています。本を書くのも、大学の教壇に立つのも、隣人祭りを開くのも、本業の冠婚葬祭のお世話をさせていただくのも、すべては「天下布礼」の営みなのです。そのように「礼」を求める日々を送っていたところ、孔子文化賞受賞の栄誉に浴しました。これを機に、読者の方々のご要望にお応えし、これまでの著作のガイドを作ってみたのです。刊行当時はちょうど60冊の本を紹介しましたが、その後も次々に著書は増えてきました。


その後、この追加分をブックレットに挟みました

 

2022年6月12日 一条真也

死を乗り越える伊藤佐千夫の言葉

 

三十で死ぬも六十で死ぬも、
死んだ跡から見れば同じだ。
(伊藤佐千夫)

 

一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。今回の名言は、日本の歌人・小説家である伊藤佐千夫(1864年~1913年)の言葉です。上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家出身。明治法律学校(現・明治大学)中退。代表作に『野菊の墓』『隣の嫁』『春の潮』などがあります。

伊藤佐千夫(1864年~1913年)

 

 

「三十で死ぬも六十で死ぬも、死んだ跡から見れば同じだ」とは、伊藤佐千夫の小説「廃める」に出てくる言葉です。一読すると、退廃的な言葉に聞こえますが、わたしはこれは「死を意識しながら、日々を生きなさい」という前向きな言葉として受け取りました。そう思うと、これは彼の「メメント・モリ(死を想え)」なのかもしれません。寿命は不平等に感じるかもしれませんが、「死」は平等であり、その瞬間までいかに生きるかを考えなさいというメッセージではないでしょうか。

 

 

伊藤佐千夫といえば、やはり不朽の名作『野菊の墓』を思い出します。ヒロインが死んでしまう純愛の物語に十代の多感なわたしは涙したことを思い出します。少年・政夫と年上の女の子・民子との切ない恋を描いた小説です。身分の差から一緒になれない二人の切ない恋は、民子の死で終わります。ドラマでは山口百恵、映画では松田聖子という昭和を代表する二大アイドルがヒロインの民子を可憐に演じたことも忘れられません。

 

 

ちなみに野菊の花言葉は「無常の美」です。ヒロインが死ぬラブストーリーというコンセプトは、今日でも『世界の中心で愛を叫ぶ』『君の膵臓をたべたい』などのベストセラー小説に受け継がれています。なお、この伊藤佐千夫の言葉は『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)に掲載されています。

 

 

2022年6月11日 一条真也

こころのジパング  

 

一条真也です。
6月10日から、外国人観光客の日本への受け入れが再開されました。長いコロナ禍を経て、「ようやく」といった感じですね。わたしはこれまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は、「こころのジパング」という言葉を取り上げることにします。



ジパング」という言葉を知らない方は、少ないと思います。わたしの監修書である『よくわかる伝説の「聖地・幻想世界」事典〜アトランティス、ラピュータから、桃源郷、ナルニア国まで〜』(廣済堂文庫)では、「東の海のはてにある黄金の国」として、「ジパング」を紹介しました。15〜16世紀にかけて、コロンブスの新大陸発見や、ヴァスコ・ダ・ガマによる東インド航路の開拓で、ヨーロッパは大航海時代を迎えていました。先を争うように航海に乗りだした冒険者たちがめざすのは、伝説の黄金の国でした。ひとつは南米大陸の黄金都市「エル・ドラド」。そしてもうひとつが、東の海のはてにあるといわれる黄金の国「ジパング」、つまり日本でした。ちなみに、英語の「ジャパン」は、この「ジパング」が語源といわれています。


よくわかる伝説の「聖地・幻想世界」事典

 

ジパング」の名を広めたのは、11〜12世紀にかけて東方を旅したベニスの商人マルコ・ポーロです。マルコは、中東、中央アジアを歴訪し、シルクロードをわたり、当時ユーラシア大陸の半分以上を領土としていたモンゴル帝国(元)を訪れました。元の皇帝・ブビライに謁見したマルコは、皇帝に気に入られ、以後17年もの長いあいだ、フビライのいる中国・上都に滞在することになります。そして、ベニスに帰国したのちにアジアでの体験談を周囲に語り、それをまとめたのが『東方見聞録』です。同書で「ジパング」は黄金の国として紹介されています。


よくわかる伝説の「聖地・幻想世界」事典』より

 

『東方見聞録』には、ジパングは「大陸より1500マイル(約2400キロ)の海上に浮かぶ島国」とあります。同書によれば、ジパングの民は色白で礼儀正しく、偶像を崇拝している。敵国の捕虜を処刑し、その肉を食べて自分の力にするという習慣がある。王が治める独立国だが、王の宮殿はすべて屋根も窓も純金でおおわれており、宮殿内の床にも指2本分の厚さをもつ純金が敷きつめられている。この国では無尽蔵に黄金が産出され、王の宮殿だけでなく民家にも金があふれている。遠方で大陸の商人が訪れないため、国外に持ちだされたことがないからだ。さらに、金だけでなく真珠などの宝石も多数産出していると描写されています。

 

 

『東方見聞録』の内容は、日本人の感覚からするとおかしな表現も多いとされています。マルコ・ポーロ自身は、ジパングを訪れたわけではなく、中国の商人などからの伝聞だとしています。あくまで、モンゴルや中国の商人から伝えられたイメージであり、日本と貿易関係にあった中国の歴史書にも、日本にはサイやゾウがいると書かれていたりするのです。その話を聞いたマルコ・ポーロが、話をふくらませたり、別の国と混同していたりする可能性は高いでしょう。ただ、まったくのウソとも言い切れないのは、当時の日本は世界でも有数の金の産地だったという記録も残っているからです。マルコ・ポーロは、帰国後に「ペテン師」や「大ボラ吹き」などと呼ばれました。が、虚実ないまぜのこの記録が、300年後にヨーロッパ人の冒険心をおおいに刺激したのです。「ジパング」とは、「史実と空想が交錯するロマンの国」だったのです。



ジパング」とは、理想化された日本にほかなりません。21世紀になって、日本が「理想の国」として世界中から注目を浴びました。そう、2020年のオリンピック開催地が東京に決定したときです。あのとき、日本中が大きな喜びに包まれました。さまざまな人が行った東京招致のプレゼンテーションの中で、人々の心に一番印象に残ったのが、滝川クリステルさんのプレゼンでした。アルゼンチン・ブエノスアイレスのIOC(国際オリンピック委員会)総会で東京がプレゼンテーションを行った際、滝川さんがIOC委員に東京招致を訴えました。流暢なフランス語と、ナチュラルな笑顔・・・・・・これ以上ない適役でした。彼女は、次のように述べました。



「皆様を私どもでしかできないお迎え方をいたします。それは日本語ではたった一言で表現できます。『お・も・て・な・し』。それは訪れる人を心から慈しみ、お迎えするという深い意味があります。先祖代々受け継がれてまいりました。以来、現代日本の先端文化にもしっかりと根付いているのです。その『おもてなし』の心があるからこそ、日本人がこれほどまでに互いを思いやり、客人に心配りをするのです」



この滝川さんのスピーチを聞きながら、「おもてなし」という言葉を再認識した方が多かったのではないでしょうか。いわゆる「サービス」とも「ホスピタリティ」とも違った、日本独特の世界が「おもてなし」です。彼女が「お・も・て・な・し」と一字ずつ韻を切るように発声してから、最後に合掌しながら「おもてなし」と言い直した場面には感動しました。彼女が合掌している姿に、IOC委員たちは「理想の日本人」を見たのではないでしょうか。東京の治安が良いこととか、公共交通機関が充実しているとか、街が清潔であるとか、そういった現実的な問題ももちろん大事です。でも、「おもてなし」という言葉、そして合掌する姿が日本をこれ以上ないほど輝かせてくれました。

決定版 おもてなし入門』(実業之日本社

 

サンレーグループでは、「人間尊重」をミッションにしています。本業がホスピタリティ・サービスの提供ですので、わが社では、お客様を大切にする“こころ”はもちろん、それを“かたち”にすることを何よりも重んじています。こうした接客サービス業としては当たり前のことが、一般の方々の「おもてなし」においても、きっと何かのヒントになるのではないかと思います。日本人の“こころ”は、神道儒教・仏教の3つの宗教によって支えられており、「おもてなし」にもそれらの教えが入り込んでいます。「おもてなし」は、日本文化そのものです。かつての日本は、黄金の国として「ジパング」と称されました。これからは、おもてなしの心で「こころのジパング」を目指したいものですね。なお「こころのジパング」は、『決定版 おもてなし入門』(実業之日本社)で初めて使われた言葉です。

 

2022年6月10日 一条真也

『唯葬論』 

一条真也です。
76冊目の「一条真也による一条本」紹介は、いよいよ『唯葬論』(三五館)の登場です。2015年7月23日の刊行で、戦後70年を記念しての出版でした。

唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)

 

本書は「なぜ人間は死者を想うのか」というサブタイトルで、銀色の帯に「問われるべきは『死』ではなく『葬』である!」と大書され、「――途方もない思想がここに誕生―――」「戦後70年記念出版」と続きます。

唯葬論』の帯
帯の裏では章立てを紹介

 

帯の裏には「すべては『葬』から始まった」として、以下のような本書の章立てが紹介されています。アマゾンの「内容紹介」には以下のように書かれています。
「人類の文明も文化も、その発展の根底には『死者への想い』があったと考えている。本書で『唯葬論』というものを提唱したい――。7万年前に、ネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルからヒトへと進化した。その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行なった。つまり『死』ではなく『葬』こそ、われわれの営為のおおもとなのである。終戦から70年を経た現代に横行する『直葬』や『0葬』に異議を唱え、すべての生者・死者のこころにエネルギーを与える、途方もない思想の誕生。日本の思想史上の系譜、『唯幻論』『唯脳論』は、この『唯葬論』によって極まる! 宇宙論/人間論/文明論/文化論/神話論/哲学論/芸術論/宗教論/他界論/臨死論/怪談論/幽霊論/死者論/先祖論/供養論/交霊論/悲嘆論/葬儀論・・・・・・18のキーワードから明らかになる、死と葬儀の真実!」
自分で読んでいて思わず注文したくなるような血わき肉おどる「内容紹介」ですが、これは三五館の編集部によって書かれた文章です。なお、もし、将来的に本書の増補改訂版を出す機会があれば、「政治論」と「経済論」を追加して全20章としたいです。


カバー前そで

本書の「目次」は以下のようになっています。
「はじめに――唯葬論とは何か」
第一章 宇宙論
人間は「宇宙の子」である
宇宙と人間
人間原理宇宙論
宇宙から地球を見る
人類最初の宇宙人
死後の世界のシンボル
「月面聖塔」と「月への送魂」
第二章 人間論
ホモ・サピエンス
人類の起源について
ネアンデルタール人と現生人類
ホモ・フューネラル
唯心論と唯物論
共同幻想論
唯幻論
唯脳論
第三章 文明論
文明のシンボルとしての墓
さまざまな葬法
死者を弔うということ
故人再生ロボット
第四章 文化論
精神文化とシンボル
なぜシンボルが発生したか
迷宮に死者は住む
巨大な死者の存在
ピラミッドと迷宮
古代ギリシャの「死」の文化
葬儀が文化を生んだ
死の拒絶
第五章 神話論
死の起源の神話
古事記』における死の起源
神話の力
第六章 哲学論
哲学・芸術・宗教
哲学とは何か
プラトンイデア
ネオ・プラトニズムへ
ハイデガーの「死の哲学」
田辺元の「死の哲学」
死者との豊かな関係性の哲学
第七章 芸術論
芸術とは何か
「死の芸術」こそ芸術の起源
人類最古の音楽
音楽とは人間にとって何か
葬儀と音楽
ARTの本質とは
演劇としての葬儀
劇場国家のスペクタクル
第八章 宗教論
宗教とは何か
宗教の起源をめぐって
儒教という宗教
最高の死の説明者
人は死なない
神道と仏教と儒教
宗教にとって葬儀が一番大事
「宗教」から「宗遊」へ
第九章 他界論
死後の世界
地獄とは何か
天国とは何か
霊の住む処
天国の発見
常世
日本人の「あの世」観
再会の約束
第一〇章 臨死論
臨死体験〜死ぬとき心はどうなるのか
再注目される臨死体験
プルーフ・オブ・ヘヴン
天国は、ほんとうにある
死は最大の平等である
第一一章 怪談論
怪談とは何か
怪談百年周期説
慰霊と鎮魂の文学
遠野物語』と怪談の時代
泉鏡花、金沢、柳田國男
村上春樹作品の怪談性
東日本大震災と怪談
第一二章 幽霊論
被災地で語られる幽霊談
戦後の沖縄でも幽霊は出た
「妖怪」と「幽霊」
幽霊の出現
葬儀と幽霊
幽霊づくりの方法
幽霊とホログラフィー
第一三章 死者論
おみおくりの作法」
神秘学の考え方
死者をイメージする
死者の人生プロセス
物語から学ぶ死の真実
死者のゆくえ
埋葬から豊かな精神文化へ
第一四章 先祖論
祖先崇拝の論理
祖先崇拝と葬儀
祖先崇拝のシンボリズム
先祖供養と日本人
柳田國男と固有信仰
第一五章 供養論
供養の本質
盆は最大の供養行事
グリーフケアの文化装置
正月とクリスマス
供養装置としての仏壇
死者の救済史
死者への最高の供養
第一六章 交霊論
スピリチュアリズムの誕生
心霊研究の歴史
心霊主義モダニズム
ショーと演劇
アンチ・スペクタクル
心霊写真とは何だったのか
交霊術としての読書
第一七章 悲嘆論
グリーフケアとは何か
人間の一番の苦悩とは
西田幾多郎の人生の悲哀
死者を思い出すという「誠」
仏式葬儀はグリーフケアの文化装置
「シャボン玉」と「ホタル」
東北の被災地へ
また会えるから
第一八章 葬儀論
儀式とは何か
葬儀をあげる意味
儒教と「人の道」
ヘーゲルが説いた「埋葬の倫理」
葬式仏教正当論
誤訳が生んだ葬儀無用論
インド仏教が衰退した理由
葬儀は人類の存在基盤
「おわりに――終戦七〇年に思う」
「参考文献一覧」



わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であると思っています。約7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされます。世界各地の埋葬が行われた遺跡からは、さまざまな事実が明らかになっています。「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉がありますが、たしかに埋葬という行為には人類の本質が隠されていると言えるでしょう。それは、古代のピラミッドや古墳を見てもよく理解できます。


人類の営為の根底には「死者への想い」がある!

 

わたしは人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えます。世の中には「唯物論」「唯心論」をはじめ、岸田秀氏が唱えた「唯幻論」、養老孟司氏が唱えた「唯脳論」などがありますが、わたしは本書で「唯葬論」というものを提唱しました。結局、「唯○論」というのは、すべて「世界をどう見るか」という世界観、「人間とは何か」という人間観に関わります。わたしは、「ホモ・フューネラル」という言葉に表現されるように人間とは「葬儀をするヒト」であり、人間のすべての営みは「葬」というコンセプトに集約されると考えます。



カタチにはチカラがあります。カタチとは儀式のことです。わたしは冠婚葬祭会社を経営していますが、冠婚葬祭ほど凄いものはないと痛感することが多いです。というのも、冠婚葬祭というものがなかったら、人類はとうの昔に滅亡していたのではないかと思うのです。わが社の社名である「サンレー」には「産霊(むすび)」という意味があります。神道と関わりの深い言葉ですが、新郎新婦という2つの「いのち」の結びつきによって、子どもという新しい「いのち」を産むということです。「むすび」によって生まれるものこそ、「むすこ」であり、「むすめ」です。結婚式の存在によって、人類は綿々と続いてきたと言ってよいでしょう。最期のセレモニーである葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。



オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。死の事実を露骨に突きつけることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。言うまでもありませんが、人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、ことさら言う必要などありません。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということなのです。問われるべきは「死」でなく「葬」です。よって、本書のタイトルは『唯死論』ではなく『唯葬論』としました。



本書では、さまざまな角度から「葬儀こそ人類の最重要問題」であることを訴えました。本書を読めば、読者は「葬儀ほど知的好奇心を刺激するテーマはない」ことを思い知るでしょう。いつもは「なるべく平易な言葉で書こう」「難解な哲学書などを引用するのはやめよう」などの配慮をするのですが、今回はガチンコで行きました。文体も「です」調ではなく「である」調ですし、ヘーゲルの『精神現象学』やハイデガーの『存在と時間』などの哲学書もガンガン引用しました。その結果、前代未聞の本が完成したように思います。まさに、一条真也の集大成です。わたしは、この本を書くために生まれてきたと思っています。


「哲学」ベストセラーの1位になりました!

アマゾン「哲学の売れ筋ランキング」

 

本書は、なんとアマゾン「哲学」ベストセラーの1位になりました。おそらくは「朝日新聞」の全国版に出稿した書籍広告の効果だと思いますが、嬉しいです。やはり、全国紙の広告の力は大きいと痛感しました。出稿して下さった三五館さんに感謝です!


朝日新聞」8月19日朝刊(全国版)より

 

朝日の広告には、冒頭に「芸術も文化も全て葬儀から始まった。」というキャッチコピーがついています。わたしは芸術は文化に含まれると考えていますので、本当は「文明も文化も全て葬儀から始まった。」あるいは「芸術も宗教も全て葬儀から始まった。」としたいところですが、おそらくは稀代の名コピーライターであった三五館の星山佳須也社長が考えて下さった文章でしょうから、わたしごときに口は挟めません。また、「葬送論の第一人者が人間学を集大成!」「なぜ人間は死者を想うのか? 『葬儀』という視点から読み解く文明論の金字塔。読まずに『生と死』は語れない、渾身の18章。」「戦後70年記念出版」と書かれています。身に余るお言葉であり、改めて深く感謝しております。


毎日新聞」8月11日夕刊(全国版)

 

哲学書ランキングで1位になったのは、「毎日新聞」全国版の書評記事の効果もあったと思います。やはり、「朝日新聞」や「毎日新聞」の講読者には読書家が多いということなのでしょう。いずれにしても、ありがたいことです。記事は「ピックアップ」として、こう書かれています。
宇宙論、哲学論、供養論など、全18章。人類発展の根底には死者への想いがあり、全ては『葬』から始まると説く。葬儀は故人の魂を送るとともに、残された人々の魂にもエネルギーを与えるという。通夜・告別式なしで火葬場に直行する『直葬』や、遺骨・遺灰を火葬場に捨てる『0葬』など礼に反する行為に警鐘を鳴らす」


中外日報」2015年10月9日号

 

また、京都に本社を置く日本最大の宗教新聞「中外日報」にも「葬儀軽視は精神文化の否定」の見出しで、以下の書評記事が掲載されました。
「『重要なのは人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかである』――問われるべきは『死』ではなく『葬』である、というのがタイトルに込めた著者の思いである。葬儀の歴史や人類史における葬送儀礼の変遷について論じたものはこれまでもある。しかし葬儀が人類にとって未来永劫に必要不可欠の営みであることを、ここまで強く訴えた人はいない。葬式不要論の流行に対し、著者は立て続けに葬儀の必要を訴える本を世に問い、葬儀を軽んじることは精神文化の否定につながると警鐘を鳴らしている。本書は、もとより『葬儀の意味論』の範疇にとどまるものではない。人類は永遠に繰り返す生と死の営みの中で、豊かな精神文化を築いてきたことを18章にわたり、さまざまな角度から論じていく。筆者は自らの知識を総動員し、人類が生と死にどう向き合ってきたかを考え、『生者は死者に支えられて生きている』こと、葬儀は残された人を死の悲しみから生に引き戻す力となるグリーフケアの文化装置であることを繰り返し説いている」
達意の文章で本書の要諦を書いてくれていますが、特に「葬儀の歴史や人類史における葬送儀礼の変遷について論じたものはこれまでもある。しかし葬儀が人類にとって未来永劫に必要不可欠の営みであることを、ここまで強く訴えた人はいない」という一文に胸が熱くなりました。


「フューネラルビジネス」2015年12月号

 

さらに、冠婚葬祭業界のオピニオン・マガジンである「月刊フューネラルビジネス」にも紹介され、「Book Review」のコーナーの記事に「大手互助会の社長を務める著者が、社会や民族、生者と死者にとって『葬儀』はいかに必要不可欠かを説く。書名の『唯葬論』には、問われるべきは『死』(人が死ぬこと)ではなく、『葬』(死者をどのように弔うか)であるという著者の思いが込められている。全18章で、葬儀の本質は宇宙で生まれた人間が、故郷である宇宙に還ることにあると説く『宇宙論』にはじまり、人間の本質を述べた『人間論』、文明のシンボルは墓にあるとした『文明論』などと続き、最終章『葬儀論』で“葬儀の意味”についての見解を述べる。『葬儀こそ人類の最重要問題』と位置づけ、さまざまな角度から葬儀を論じる本書は、葬儀が亡くなった者のためだけにあるのではなく、今後生きていく者にとっても重要な意味をもつことを気づかせてくれる」と紹介されました。


東京自由大学で鎌田先生とトーク

 

バク転神道ソングライター」こと宗教哲学者で京都大学こころの未来研究センター教授(当時)の鎌田東二先生は、「この本は、佐久間〜一条さんの仕事の集大成で、これまでの著作の中で最も体系的・全体的・網羅的で、葬儀哲学・葬送哲学・儀礼哲学概論とも百科全書ともいえるもので、ヘーゲル的な体系性を想起します」とメールに書いて下さいました。また、「勇気の人」こと東京大学医学部大学院教授(当時)で東大病院救急部・集中治療部長(当時)の矢作直樹先生から丁重なメールが届きました。メールには「『唯葬論』は、文字通り、一条さんの葬送に対する集大成ということがひしひしと伝わってくる内容ですね。さまざまな領域ごとに章立てをするというたいへん全うかつ意外と”一冊の本”の中にまとめてあるのをみることのなかったユニークなスタイルがいいです。一条さんの博識となにより尊い現場感覚が裏打ちしているという圧倒的な強みが説得力を生んでいると思います。本当によいご本ですね」と書かれていました。


東大病院師弟コンビと(かみさまシンポ懇親会にて

 

矢作先生の教え子であり同志でもある東大病院(当時)の稲葉俊郎先生は、ご自身のブログ「」に「一条真也『唯葬論』(前編)」という記事を書いて下さいました。一部で「日本一の長文ブロガー」などと言われている(苦笑)わたしでさえ、「うっ、長い!」と思ったほどの力作でした。しかも、この長い長い書評ブログが『唯葬論』全体の半分の内容にしか言及していない事実には、わたしもぶっ飛びました(笑)さらに、稲葉先生は「一条真也『唯葬論』(後編)」を書いて下さいました。(後編)も(前編)に劣らず長いです。そして、深いです! (前編)では<他界論>まででしたので、今回は<臨死論><怪談論><幽霊論><死者論><先祖論><供養論><交霊論><悲嘆論><葬儀論>についての感想が丁寧に綴られています。まず稲葉先生は、「後半からは、かなり本格的に『唯葬論』の内容に踏み込んでいくと感じました。 一条さんは、本書の中で、問われるべきは『死』そのものではなく『葬』である、と書かれています。『死』という現象そのものより、その現象に対して我々がどう考え、どういう行動をとるのか、そのことにこそ本質があるのだ、ということでしょう。自分も同感です」と書かれています。現役の臨床医師の言葉だけに説得力があると思いました。

稲葉俊郎氏のブログ「吾」より

 

続けて、稲葉先生は以下のように書かれています。
「一条さんが『死を、<不幸なことが起きました>などと表現するのはおかしい。そうなると、誰もが最終的には<不幸になるではないか>』とよくおっしゃられます。自分たちが、『死』という『生』のひとつのピリオドをどのように捉えるのか。そのことは、まさに『生』そのものの事でもあります。何のためにいきるのか、なぜ生まれてきたのか・・・遥か遠くを見据えた目指すべき目標が、その人にとって確かなものでありさえすれば、生きる過程で起きる様々なことも、なんとか乗り越えて行けるはずです。『生』を考えることは『死』を考える事。同時に『死』を考えることは『生』を考える事。一人称の死、二人称の死、三人称の死・・・それぞれが自分にとって大きく違う意味を持ちます。抽象的になりやすい『死』を、具体的な行為に落とし込んだものこそが『葬』なのでしょう」

唯葬論』(サンガ文庫)

 

唯葬論』の単行本は、終戦70年の年である2015年の7月に三五館から出版されました。ここに紹介したように、かなりの反響がありました。しかし、2017年10月に版元が倒産するという想定外の事態が発生したのです。わたしの執筆活動の集大成と考えていた『唯葬論』ですが、同じく三五館から刊行された17冊の拙著とともに絶版になることが決まりました。当然ながら、わたしは大きなショックを受け、意気消沈していました。それを知った鎌田先生が仏教書出版のニューウェーブとして知られるサンガの編集部に掛けあって下さり、サンガ文庫入りが実現しました。鎌田先生には感謝の念でいっぱいです!

 

唯葬論

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2022年6月10日 一条真也