デビュー34周年の日に『論語と冠婚葬祭』発売!

一条真也です。
今日は、5月20日です。
5月10日、わたしは誕生日を迎えました。
でも、一条真也にとっての誕生日は今日です。
おかげさまで、本日、デビュー34周年を迎えました。

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処女作を持って(マスクは小倉織)

ハートフルに遊ぶ』(1988年5月20日刊行)

ハートフルに遊ぶ』の奥付

 

1988年5月20日に処女作『ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー)が発売されて、わたし一条真也はデビューしました。その前の4月1日、わたしは版元である東急エージェンシーに入社しています。同社の前野徹社長(当時、2007年逝去)の鶴の一声で、前代未聞の新入社員の出版が実現したのでした。故前野社長こそは「一条真也の生みの親」なのです。詳しくは、ブログ「恩師から学んだこと」をお読み下さい。

論語と冠婚葬祭』(現代書林)

 

それから、ちょうど34年後の今日。2022年5月20日、108冊目の「一条本」となる『論語と冠婚葬祭』(現代書林)が発売されました。同書は、わが国における儒教研究の第一人者である大阪大学名誉教授の加地伸行先生との対談本です。「天下布礼」の書であります。わたしは長い間、「礼とは何か?」「なぜ、冠婚葬祭は必要か?」について考え続けてきましたが、加地先生との対談でついにその答えを得ることができました。本書は、冠婚葬祭互助会業界の同志たちをはじめ、冠婚葬祭に関わるすべての人々にとっての理論武装の書となるように思います。また、渋沢栄一の『論語と算盤』の副読本として読んでいただくのも良いかもしれません。『論語と冠婚葬祭』というタイトルはわたしが考えたのですが、加地先生から「素晴らしい!」と褒めていただきました。どうか、1人でも多くの方々にお読みいただけますように。どうぞ、よろしくお願いいたします!

昨年、上梓した一条本

f:id:shins2m:20201224102716j:plain2020年に出版された「一条本f:id:shins2m:20191222005447j:plain2019年に出版された「一条本」+α

f:id:shins2m:20191231111638j:plain2018年に出版された「一条本
2017年に出版された「一条本
2016年に出版された「一条本
2015年に出版された「一条本



2022年5月20日 一条真也

「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」

一条真也です。東京に来ています。
19日、いくつかの打ち合わせを終えた後、ヒューマントラストシネマ有楽町で映画「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」を観ました。グリーフケアの要素もありましたが、全体的に静かな物語でした。「エイリアン」シリーズの強いヒロインの面影をまったく感じさせないシガニー・ウィーバーの渋い演技も良かったですが、ドラマよりも舞台となったニューヨークの魅力に目を奪われましたね。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
ジョアンナ・ラコフの回想録『サリンジャーと過ごした日々』を原作に描くヒューマンドラマ。J・D・サリンジャー担当の出版エージェントのもとで働く新人アシスタントが、ファンレターへの返信をきっかけに自分自身を見つめ直す。監督と脚本を手掛けるのは『グッド・ライ~いちばん優しい嘘~』などのフィリップ・ファラルドー。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』などのマーガレット・クアリー、『エイリアン』シリーズなどのシガーニー・ウィーヴァーらが出演する」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、「1990年代のニューヨーク。作家志望のジョアンナ(マーガレット・クアリー)は、出版エージェンシーで編集アシスタントとして働き始める。上司マーガレット(シガーニー・ウィーヴァー)のもと、彼女は人気作家であるJ・D・サリンジャー宛てのファンレターの処理に追われる。手紙を読むうちに、ジョアンナは定型文を送り返すことに気が引けるようになり、個人的に手紙を返信し始める」です。

 

 

原作は、ジョアンナ・ラコフの『サリンジャーと過ごした日々』で、アマゾンの内容紹介には「『ジェリーだ。きみのボスに話があってかけたんだけどね』・・・わたしがとった電話の相手は、J.Ⅾ.サリンジャー。90年代、ニューヨーク。古き時代の名残をとどめる老舗出版エージェンシー。老作家の言葉に背中をおされながら、新米アシスタントが夢を追う。本が生まれる現場での日々を、印象的に綴った回想録」と書かれています。ジョアンナ・ラコフは1972年生まれ。オーバリン大学、ユニバーシティカレッジ・ロンドン、コロンビア大学を卒業。小説『A Fortunate Age』でデビューし、さまざまな賞を受賞。現在、マサチューセッツ州ケンブリッジ在住。


この映画、ネットでの評価はかなり低いです。最近は「ネット評価はやはり正しいかも?」と思うことが多いので、ちょっとだけ嫌な予感もしましたが、夢と現実とのギャップに悩みながらも、若い女性が自らの才能を信じて未来を拓いてゆくというポジティブな佳作でした。確かにドラマ的に盛り上がりには欠けますが、けっして失敗作ではないと思います。原題は「マイ・サリンジャーズ・イヤー」なので、「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」という日本版タイトルにつられて観ると期待外れの人もいるでしょうが、大好きなニューヨーク市立図書館やウォルドーフ・アストリア・ホテルやザ・アルゴンキン・ホテルなども登場して、わたしは楽しかったです。久々にニューヨークに行ってみたくなりました。


作家志望のジョアンナは、アメリカを代表する作家であるサリンジャーからアドバイスを励ましを受けます。昨今、ハリウッドではMETooが話題になりましたし、日本でも映画界での性加害が問題視されています。そんな中、映画と小説の違いはありますが、何の下心もなく若い女性にアドバイスするサリンジャーを素敵だなと思いました。自分も、彼のように無償で若い人を応援できる人間になりたいと思いました。91歳まで長生きしたわりには、サリンジャーは代表作の『ライ麦でつかまえて』をはじめ、『ナイン・ストーリーズ』『フラニーとゾーイ―』『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章』しか世に残していません。驚くほど寡作の小説家です。

 

 

サリンジャーの少ない著作の中でも、処女作『ライ麦畑でつかまえて』は、世界中で累計6500万部を突破し、現在でもその瑞々しさは失われることなく世界で毎年25万部ずつ売れ続けているという奇跡のベストセラー&ロングセラーです。20世紀を代表する「青春のバイブル」とさえ呼ばれています。時代を越え多くの若者に愛されてきた『ライ麦畑でつかまえて』ですが、数々のアーティストにインスピレーションをもたらしながら、80年代にアメリカで起きたいくつかの暗殺事件の犯人が愛読していたというセンセーショナルな出来事も起きています。いずれにしろ、各方面に影響を与え続けている一冊です。


2017年には、サリンジャーの伝記映画である「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」が作られました。ケネス・スラウェンスキーが2012年に上梓した評伝『サリンジャー 生涯91年の真実』が原作で、監督はダニー・ストロング、主演はニコラス・ホルトが務めました。サリンジャーのこれまで語られてこなかった謎に満ちた半生、そして小説の誕生秘話を描き出しています。20世紀半ばの華やかなニューヨークを舞台に若きサリンジャーが自分の作風を見つけ出そうと試行錯誤を重ねる姿、社交界のセレブとの恋の顛末、恩師との運命的な出会い、第二次世界大戦の最前線での経験によるトラウマにもがき苦しむ姿などを描き、「圧倒的な名声と富を手に入れながら、なぜその絶頂期に文壇から姿を消したのか?」の謎に迫った作品です。


「マイ・ニューヨーク・ガーデン」の主人公であるジョアンナは、マーガレット・クアリーが演じました。彼女の母親は、90年代の映画に数多く出演した女優のアンディ・マクダウェル。セレーナ・ゴメス、レイトン・ミースター、ケイティ・キャシディが主演を務めた2011年の映画「恋するモンテカルロ」で、セレーナが演じたグレースの母親役を務めています。父親はモデルのポール・クアリーで、アンディとポールは、マーガレットが5歳の時に離婚しています。モデルとして経験積んだ後、女優になった彼女は、ジャスティン・セロー主演のドラ「ザ・レフトオーヴァーズ」で、ジャスティン演じるケヴィンの娘役に抜擢。同作での演技が業界人の目に止まり、その後、ラッセル・クロウライアン・ゴズリングが主演した映画「ナイスガイズ!」で物語のカギを握る美少女を熱演し、有名に。そして、ブログ「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」で紹介したクエンティン・タランティーノ監督の大作に出演するのでした。

「ワン・ハリ」でワキ毛少女を演じたマーガレット

 

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」では、マーガレット・クアリーはカルト集団であるマンソン・ファミリーのメンバーを演じました。ブラッド・ピット演じるクリフ・ブースに接近した少女プシーキャットの役です。運転中のブラッドの太ももに寝ころんだシーンでワキ毛を披露し、強烈な印象を残しています。今ではワキ毛用のウィッグが存在するため、演技のために体毛を伸ばす必要はないそうですが、60年代のヒッピーを演じるにあたり、マーガレットは自分のワキ毛を伸ばしたといいます。そのワキ毛シーンの印象が強いこともあり、「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」のジョアンナのような知的で思索的な役には違和感がありました。別にワキ毛が悪いわけではないのですが、あくまでイメージですね。彼女は現在27歳ですが、「ワン・ハリ」の出演女優なら、ダコタ・ファニング(28歳)の方がふさわしいのではと思いました。あくまでも主観なので、あまり突っ込まないで!

 

2022年5月20日 一条真也

 

『悼む力』

悼(いた)む力 逝ったあの人へ、生きる自分へ

 

一条真也です。東京に来ています。
『悼む力』阿刀田高著(PHP)を読みました。2013年6月に初版刊行された本で、「逝ったあの人へ、生きる自分へ」というサブタイトルがついています。著者は1935年(昭和10年)、東京生まれ。早稲田大学文学部卒。国立国会図書館に司書として勤務しながら執筆活動を続け、78年『冷蔵庫より愛をこめて』でデビュー。79年「来訪者」で日本推理作家協会賞、短編集『ナポレオン狂』で直木賞、95年『新トロイア物語』で吉川英治文学賞を受賞。「奇妙な味」の短編で知られ、93年から97年まで日本推理作家協会会長、2007年から2011年まで日本ペンクラブ会長を務めました。文化功労者

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本書の帯

 

帯には著者の顔写真とともに「人は死なない。」「心臓が止まっても、思い出を残した人はまだ死んでいない。親しかった人の死を悼むとき、その人を思い出し、そして語ろう」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には「人類が持つストーリーの文化は元来、死を悼むところから始まっている。」として、「親しい人が没し、それをどう受けとめるか、生前の栄誉を称え、思い出し、甦らせようという営みなのだ。これも当然、闇彦(死の国の支配者*編集部注)の担当となる。――闇彦は文学の神様かもしれない――私にはこの思いがあり、それを作品のタイトルとして一編を創りあげた。人間には死すべきもの、これは絶対の命題である。ならば、それとどう向き合うのか。とりわけ3・11の大惨事のあとは、このテーマは私たちの周辺にあって看過できない。――『座右の銘〈闇彦〉』より一部抜粋」と書かれています。

 

アマゾン「内容紹介」には、こう書かれています。
「『悼む』という行為は人間だけが持っている。人間は必ず死ぬ。人間は死に向かって生きているのであり、人間にとって死ほど重大なテーマはない。歳を重ねるほどに悼む機会が増えてきた著者がたどり着いた哲学は、『死んだ人は、だれかがその人を思い出している限り生きている』ということであった。親しかった人の死に遭遇しても、いつまでもその人を思い出すことで、その人は生きていたときと同じようにイメージできる。多くの文学は死んだ後もその人を生きていることにできる唯一の方法なのだ。『いつのまにかずいぶん長生きをしてしまった。八十歳も近い』とつぶやく作家が、ここ十年にわたって執筆した追悼文を一章に、二章『よく生きて、よく死ぬ』では『悼む心』が自身の文学に影響している心情をまとめ、三章『読書が培う悼む力』では日本語と悼むつながりを考えたエッセイをまとめ、悼むことの重要性を再認識する一冊」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに――
 マン・イズ・モータル」

一章 悼む心を明日の糧に
二章 よく生きて、よく死ぬ
三章 読書が培う悼む力
「初出一覧」

 

「はじめに――マン・イズ・モータル」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「マン・イズ・モータル。人間はかならず死ぬ。人間にとって、死ほど重大なテーマはほかに見当たらないのではあるまいか。なのに“太陽と死は直視するのがむつかしい”なんて・・・・・・まことしやかな言葉があったりする。太陽のほうは直視できないが、おおよそどんなものか見当がつく。その点、死のぼうは、見当のつくところも少しあるけれど、やっぱりよくわからない。まったくの話、死については古来いろいろなことが語られ、思案されているけれど、決定的に不足しているのは、死者の側からの視点を欠いていることだ」

 

著者は、「死んだ人は、だれかがその人を思い出している限り生きているんだ」という考え方をとても気に入っているそうです。死という、まったく測り知れない重大事に対して現実に対処できるせめてもの理屈はこれしかないとして、「同じ考えを持つ人はけっして少なくない。少し吟味してみると、この考えに基づく風俗や生活習慣は、私たち生きている側の社会でよく見られることでもある。まったくもって一方的な視点なのだが、生きている側は慰められる。自分の死についても、これを思うとなにかホッとするものを感じたりする」と述べています。

 

親しかった人の死・・・・・・。いつまでも、いつまでもその人を思い出す。すると生きていたときと同じように身近にその人のイメージを抱くことができるとして、著者は「それは、多かれ少なかれその人が生きていたときと似ているではないか。その人が生きているときも、長く会えなければあれこれ想像して存在を確認しているのだ。だから、死んだあともこれこそがその人を“生きていること”とする唯一の方法なのだ。自分が死んだあと、親しい人たちが、こぞって、あるいは一人でも二人でも、――私を思い出してくれればいいな――命のはかなさに立ち向かえるかもしれない。死の恐怖に少しは抵抗できるかもしれない」と述べます。

 

また、著者は作家についても言及し、「この仕事はもともと読者に多彩なイメージを与え、それによってみずからの存在を示す立場である。当人がいなくなってもイメージを与え続けることができれば、生きていたときと・・・・・・似ている。しかも、作品が残るからそれをやりやすい。有利な立場と言えなくもない。さらに言えば、作家はその生き方自体が小説の気配を帯びている。追憶はその作品を解く鍵ともなる。私はだから訃報に接しては、しばしばその人柄を偲び、生涯に思いを馳せ、その作品を考えた。たったいま作家について“有利な立場”と記したが、それは作家の仕事が一つの典型として“イメージを見せやすい”からであり、作家以外の人の死についても、それを広げて考えればきっと同じことが言えるだろう。同じことを考えて、それぞれ意味がありうるだろう」とも述べています。

 

さらに、小説の誕生について、著者は「いつとは言えない遠い日のこと、だれかが死ぬ。悲しい。辛い。生き返ってはしい。そのためにその人を思い出す。その人を考える。エピソードが語られ、ストーリーとなる。これが小説の原点となった。原点の一つとなった。物語の発生において亡びたものへの哀悼が関わっていたことは疑いない」と、きわめて興味深い仮説を立てます。

 

そして、「よく生きるためには読書が役立つ」と強く、強く考えているという著者は、「読書はまずおもしろい。おもしろい本に出合えば、本当に楽しい。知識が広くなり、世界が広くなり、考えが多彩になり、深くなる。たった一人で楽しめる。いつでも、どこでも、楽しめる。加えて読書は廉価な趣味だ。図書館もあるし、古本屋もある。人から借りて読む方便もある。孤独がちの老後には向いている」と述べるのでした。

 

 

一章「悼む心を明日の糧に」は、亡くなった作家たちへの追悼文集です。「ショートショート星新一とともに」は1997年12月30日に満71歳で没した星新一への追悼文ですが、著者は「まず初めに星新一が在った。しかる後にスオートショートが存在した。この逆ではない」と書きだしています。ショートショートは、ショート・ショート・ストーリーの略語であり、ショート・ストーリー、つまり短編小説の中で、特にシュートなものを指します。自身がショートショートの名手であった著者は、「定義は必ずしも明確ではないけれど、日本の小説界では“原稿用紙20枚以下で、小説のような気配を帯びているもの”と言って、当たらずとも遠からず。“小説のような”という表現は曖昧だが、これ以上細かく限定するのはむつかしい」と述べています。

 

 

また、小ばなし、コント、短いエッセイ風の小説、あるいは川端康成には『掌の小説』という作品集もあるとして、著者は「川端康成は少し措くとして、日本人にも馴染みの深い小ばなしやコントと比べてショートショートは、どこがちがうのか。ここに星新一のオリジナリティが大きく関わっている。まず文体の明晰さ、鮮やかなどんでん返し、人物像の明確さ、そして全体に漂う現代的で垢抜けた雰囲気、これが大切だ」と述べます。川端康成の『掌の小説』は、現在の目で眺めれば、まちがいなくショートショートに属するものですが、その作品集は100編を超える超短編を並べておきながらジャンルの確立にはたどりついていないと指摘し、著者は「作品の形成、品質、印象などにばらつきがあり、それよりもなによりも、作者自身が明確な意識をもって並べ揃えた作品群ではなかったために、そうならなかったのだろう」と推測します。

 

 

時間的には、『掌の小説』より2、30年遅れて星新一が登場し、ショートショートをジャンルとして確立し、――だったら川端康成の『掌の小説』もショートショートじゃないか――と、逆に分類されるようになった。そんな文学史を著者は頭に描いているといいます。また、「こうなると夏目漱石の『夢十夜』も見事なショートショートの連作集であり、ほかにも多くの作家が星新一以前からさまざまなショートショートを書いていることに気がつく」「星新一が存在しなければ『掌の小説』も『夢十夜』も、名人の余儀であり、ことさらにジャンルに分けて注目されることもなかっただろう。こういう意味を籠めて私は冒頭のテーゼを述べてみたわけである」と書くのでした。

 

 

二章「よく生きて、よく死ぬ」では、「死者を悼むこころ」が秀逸です。著者は、「死者に対してはひたすらの哀悼を捧げること、くやしいけれど、それよりほかになにもない。どう悼んでみても畢竟、生きとし生けるものの悲しさにたどりつくばかりだ」と述べます。帯の裏にも登場する「座右の銘〈闇彦〉」では、著者の『闇彦』という小説のタイトルが『古事記』に由来し、海彦と山彦の兄弟として闇彦という「死の国の支配者」であり、「物語の支配者」でもある神を考えたと告白します。そして、「人類が持つストーリーの文化は元来、死者を悼むところから始まっている。親しい人が没し、それをどう受けとめるか、生前の栄誉を称え、思い出し、甦らせようという営みなのだ。これも当然、闇彦の担当となる」と述べるのでした。

 

 

三章「読書が培う悼む力」の「おもしろい本が一番」では、日本人は生真面目だから、なにかと理屈をつけたがるとして、著者は「ただ“楽しいから”“おいしいから”では、もの足りない。ゴルフだって“健康にいい”“人間関係に役立つ”と、いろいろ理屈をつける。もちろん、そういう効能もあるだろうけれど“ひたすら楽しい”それだけでもいいじゃないですか。もう、おわかりですね。読書も同様です。知識を広くする、思案を深くする、人格を高める、そういうメリットも充分あるけれど、とにかく、『おもしろいんだよなあ』一生この喜びを享受するだけでも、すばらしいじゃありませんか」と述べています。

 

また、読書の素晴らしさについて、著者は「本は安い。図書館で読めるし、人から借りることもできる。古本ある。たいていの分野が初級・中級・上級、なんでもそろっている。そして、たった一人でできる。いつでも、どこでも、自由気ままに楽しめる読書という喜びを持っているかどうか、それだけで一生の損得にはずいぶんと差があるような気がするけれど、ちがうだろうか」とも述べます。

 

「日本語の底力を探して」では、経済大国と呼ばれ、経済はわたしたちの生活にとってとても大切なものであるけれど、この国はもともと物質的に豊かな国ではなかったと指摘し、著者は「だからこそ先人たちは、言葉の豊かさ、楽しさを訴えて文化としてきた。まったくの話、これはお金がかからない。識字率を高め、読書を尊び、和歌や俳句などの詩歌を創り、漢文を日本的に変え、しゃれ、数え歌、回文など、いろいろな言葉遊びを享受してきた。言葉の豊かさで生きる力を育んできたのである。とりわけ、学校教育の現場では、国語科だけではなく、この視点が肝要、と私は思う」と述べています。

 

 

最後に、著者は「私見を述べれば、――死者を語ることは文学の原点ではあるまいか――過去のくさぐさを甦らせるのは、まちがいなく文学の属性の一つと言ってよいだろう。童話から民話、シリアスな小説に到るまで、このパターンは多い」と述べるのですが、この意見には100%賛同します。拙著『唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館、サンガ文庫)で、わたしは人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったという仮説を提示しました。そして、葬儀とは人類の存在基盤であり、発展基盤であるという考え方を示しました。本書『悼む力』には、人間がもともと死者について想いを馳せるホモ・フューネラルであるという考え方があります。本書を読んで、わたしは自説が間違っていないことを確信した次第です。

 

 

2022年5月19日 一条真也

「オードリー・ヘプバーン」

一条真也です。
東京に来ています。17日の夕方、日比谷のホテルで出版関係の打ち合わせをした後、TOHOシネマズシャンテで映画「オードリー・ヘプバーン」のレイトショーを観ました。映画界およびファッション界のアイコンとして知られたベルギー生まれのイギリス人女優オードリー・ヘプバーンの伝記映画ですが、わたしはもともと彼女の大ファンであり、非常に興味深い作品でした。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『ローマの休日』『暗くなるまで待って』などで知られるオードリー・ヘプバーンのドキュメンタリー。永遠の妖精と呼ばれた彼女の素顔を、アーカイブ映像と近親者のインタビューなどによって映し出す。監督を担当するのはヘレナ・コーン。ヘプバーンの息子のショーン・ヘプバーン・ファーラー、孫であるエマ・キャスリーン・ヘプバーン・ファーラーをはじめ、『ラスト・ショー』シリーズなどのピーター・ボクダノヴィッチ監督や、『グッバイガール』などの俳優リチャード・ドレイファスらが出演する」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「1929年、ベルギーで生まれたオードリー・ヘプバーンは、第2次世界大戦中にはナチスドイツ占領下のオランダで過ごす。当初はバレエダンサーを目指すものの女優に転身し、『ローマの休日』の王女役に抜てきされてスターダムを駆け上る。その後も『麗しのサブリナ』『ティファニーで朝食を』などの作品に出演する一方、1989年にはユニセフ国際親善大使に就任する」


この映画を観て、オードリーの原点がバレエにあったということを再確認しました。「ローマの休日」の大ヒットで世界的な人気者になった彼女ですが、バレエの素養があるゆえに姿勢がとても良いです。姿勢が良いから立ち姿が美しいのですね。また、この映画、事前情報でルーニー・マーラがオードリー役で主演と聞いていました。なので、てっきりドラマ仕立ての伝記映画だと思っていました。しかし実際は完全なドキュメンタリーで、かつて日本テレビ系列局で毎週日曜日に放送されていた「知ってるつもり?!」みたいな内容でした。「ルーニー・マーラは一体どこに出ていたの?」と思ったら、どうやらドラマの伝記映画は別作品で、来年以降の公開のようです。ルーニー・マーラ自身のプロデュースおよび主演で、監督は映画「君の名前で僕を呼んで」でアカデミー賞作品賞にノミネートされたことがあるルカ・グァダニーノ、脚本は映画「エジソンズ・ゲーム」や「ギヴァー 記憶を注ぐ者」を手がけたマイケル・ミトニックというから楽しみですね!


オードリーといえば、横顔のエレガントな鼻筋が印象的ですが、本人は鼻にコンプレックスを抱いていたといいます。こんな絶世の美女が自らの容貌に自信が持てなかったとは意外ですが、母親から「あんたはブサイクだね」と言い続けられてきたからだそうです。この母親は父親に捨てられていますので、その腹いせで娘であるオードリーに辛く当たったのかもしれませね。というのも、オードリーの鼻は父親にそっくりだからです。この映画で彼女が父親と再会したツーショット映像を見て、彼女が父親似だということがわかりました。父親は貴族で非常にダンディです。ものすごく女性にモテそうな感じです。もしかすると、母親は娘であるオードリーに自分を捨てた憎い男の面影を見ていたのかもしれません。


この映画、上映時間が100分ですが、前半の50分はオードリーの女優としてのサクセスストーリーになっています。ハリウッド黄金時代に活躍した女優であるオードリーは、イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品「ジジ」で主役を演じ、1953年には「ローマの休日」でアカデミー主演女優賞を獲得。その後も「麗しのサブリナ」(1954年)、「尼僧物語」(1959年)、「ティファニーで朝食を」(1961年)、「シャレード」(1963年)、「マイ・フェア・レディ」(1964年)、「暗くなるまで待って」(1967年)などの人気作、話題作に出演しました。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞ゴールデングローブ賞英国アカデミー賞を受賞。舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品「オンディーヌ」でトニー賞を受賞。さらに死後にグラミー賞エミー賞も受賞しており、アカデミー賞エミー賞グラミー賞トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の1人です。


オードリーの出世作および代表作が、巨匠ウィリアム・ワイラー監督の「ローマの休日」です。ヨーロッパ最古の王室の王位継承者であるアン王女(オードリー)は、欧州各国を親善旅行で訪れていました。ローマでも公務を無難にこなしていくアン。だが実は、彼女はこれまでのハードスケジュールで疲れやストレスが溜まっていたのです。主治医に鎮静剤を投与されるものの、気の高ぶりからか逆に目が冴えてしまった彼女は、こっそり夜のローマの街へ繰り出すことに。やがて、薬が効いてくるとベンチで寝入ってしまうアン。そこへ偶然通りかかったアメリカ人の新聞記者ジョー(グレゴリー・ペック)は、彼女を一国の王女であることも知らずに自分のアパートで休ませるのでした。


わたしが一番好きなオードリーの映画は、「麗しのサブリナ」です。名匠ビリー・ワイルダーがメガホンを取り、大富豪の兄弟と、美しく変身したお抱え運転手の娘との恋を描いたロマンチックコメディーです。シックなドレスやサブリナパンツを着こなすオードリーのファッション、そして彼女のキュートな魅力に夢中になりました。物語は、大富豪ララビー家のお抱え運転手の娘サブリナ(オードリー)が、主の次男デイヴィッド(ウィリアム・ホールデン)に恋心を抱くも、彼女の父は身分違いの恋を忘れさせるため娘をパリへ送り出します。2年後、洗練された淑女に変身した彼女が帰国すると、デイヴィッドはすっかり夢中に。婚約中の弟を案じる長男ライナス(ハンフリー・ボガート)は、やがて自分はサブリナが好きなことに気付きます。サブリナ役のオードリーが最高に輝いていました。


そして、トルーマン・カポーティ原作の小説を映画化し、オードリーが真の意味で大女優となった「ティファニーで朝食を」も忘れられません。大都会ニューヨークでリッチな男性との結婚を夢見るヒロインがさまざまな問題を乗り越え、真実の愛にたどり着くまでをコミカルかつ繊細に描き出したエレガントなラブストーリーです。主人公ホリー(オードリー)はニューヨークのアパートで、名前のない猫と自由に暮らしています。そんな彼女のお気に入りはまだ人気のない早朝、パンとコーヒー片手に5番街にある高級店ティファニーのウインドーを眺めつつ朝食を取ることでした。そんなある日、彼女の住むアパートに自称作家のポール(ジョージ・ペパード)が入居してきます。


ティファニーで朝食を」の音楽は、巨匠ヘンリー・マンシーニが担当。オードリーが歌う名曲「ムーン・リバー」はもとより、小悪魔的彼女の魅力満載の小粋なストーリーがたまりませんでした。オードリーは声域が狭かったそうで、この曲でも1オクターブ+全音の音域しか使っていません。作曲者のマンシーニは彼女の歌声を生かすのに苦心したことだと思います。じつは、映画会社の上層部がオードリーが「ムーン・リバー」を歌うシーンをカットしようとしたそうですが、彼女はそれに抗議して徹底的に戦ったといいます。その結果、映画音楽史に残る美しい名曲が生まれました。この映画のヒロインであるホリーはいわゆる悪女ですが、この「ムーン・リバー」が歌われるシーンには、彼女の本当の優しさや純粋さがよく表現されています。この映画のラストシーンは記憶に残っていませんが、オードリーが自分の声で「ムーン・リバー」を歌うシーンだけは強く心に残っています。映画「オードリー・ヘプバーン」のエンドロールでも「ムーン・リバー」のインストゥルメンタルが流れましたが、この永遠の名曲は彼女の人生そのもののテーマソングとなりました。


前半でサクセス・ストーリーが描かれたオードリーの伝記映画ですが、後半50分は悲しみの色合いが濃くなっていきます。幼い頃に父親に捨てられた彼女は、それがトラウマとなって、男性と恋愛するときも相手に父親の面影を求めるようになります。その結果、3度の結婚をすることになるのですが、最初の夫である俳優・映画監督のメル・ファーラーはまだしも、二人目の夫である医師のアンドレア・ドッティは許せません。なにしろ、オードリーという世界的な美女を妻としながら、なんと200人もの女性と不倫をしたのです。アンジャッシュの渡部健の多目的トイレ不倫の報道が出たとき、「佐々木希という美しい妻がいながら、なぜ?」と思ったものですが、このアンドレア・ドッティに比べれば可愛いもんですね。離婚やパパラッチといったストレスから、オードリーはチェーンスモーカーとなっていきます。


オードリーは貴族の出でありながら、戦争で食べるものがないという苦労を経験しました。ひもじさのあまり、チューリップの球根まで食べたといいます。ヒトラーを崇拝していた父親に捨てられ、少女時代は愛情に飢えました。2度の結婚生活も破綻しました。世界一人気のある映画女優として多くのファンから愛された彼女は、ずっと愛に飢えていたのです。彼女は、常人には測り知れないような巨大なグリーフを抱えていました。そして、彼女は自分なりのグリーフケアを発見したのです。それは、愛されたい思いが叶わない代わりに、他者をひたすら愛することを選択したことです。70年代以降の彼女はたまに映画に出演するだけで、後半生の多くの時間を国際連合児童基金 ユニセフ)での仕事に捧げました。ユニセフ親善大使として、1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身しています。この映画には、「愛する対象を見つけられるだけで幸いなのだ」という彼女の言葉が出てきますが、彼女は自らのグリーフを人類愛にまで昇華させたのです。ユニセフでの貢献は本当に偉大であり、戦後のユニセフの発展は彼女の存在があってこそのものだったと、この映画を観て知りました。


わたしが若い頃、ユニセフで活動する彼女の姿をテレビで観て、「オードリー・ヘプバーンもシワクチャのお婆さんになったなあ」と思ったことがあります。しかしながら、還暦を目前にして鑑賞したこの映画での晩年のオードリーはとても美しいと思いました。皺も美しいと思いました。マハトマ・ガンディーやマザー・テレサなどと同じく、人類愛に貢献したオードリーは偉人です。彼女は、他人に対して無償の愛を抱き続け、利他の人生を生き抜きました。1992年末にはアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与されましたが、この受勲1カ月後の1993年に、彼女はスイスの自宅で虫垂ガンのために63歳で死去しました。あまりにも早過ぎる死でした。もっと長生きして、ノーベル平和賞を受賞してほしかったと心から思います。「永遠の妖精」と呼ばれたオードリー・ヘプバーン・・・・・・まさに、外見の美と内面の美をパーフェクトに兼ね備えた奇跡のような人生でした。

死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)

 

さて、この「オードリー・ヘプバーン」というドキュメンタリー映画を観て、わたしは今は亡きオードリーと会えたように思いました。『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)において、わたしは、すべての人間の文化の根底には「死者との交流」という目的があり、映画そのものは「死者との再会」という人類普遍の願いを実現するメディアでもあるとも述べました。そう、映画を観れば、今は亡き好きな俳優に再会することができます。まさに、わたしは映画「オードリー・ヘプバーン」で死者とオードリーと再会しました。“永遠の妖精”と呼ばれたオードリーが幼少期に経験した父親による裏切り、ナチス占領下のオランダという過酷な環境で育った過去のトラウマ、奪われたバレエダンサーへの夢、幾度の離婚などが紹介され辛い気持ちになりましたが、劇中に登場した「ローマの休日」「麗しのサブリナ」「ティファニーで朝食を」「マイ・フェア・レディ」などの数々の名作の名場面を観ていると、「ああ、いまでもオードリーは生きている。いや、スクリーンの中で彼女は永遠に生きている」と実感できたのです。


オードリー・ヘプバーンの多くの出演映画の中で、やはり最高の代表作といえるのは彼女のハリウッド・デビュー作である「ローマの休日」(1953年)でしょう。オードリーのアン王女役は、まばゆいように新鮮です。相手役の新聞記者ブラッドリーは、当時のハリウッドを代表する俳優グレゴリー・ペックが演じました。「ローマの休日」と言う名作の素晴らしさ は、相手を思いやる気持ちが随所に出ているところです。中でも特に世界中の観客を感動させたのは、アン王女が記者会見場で各社の記者と接見した後に、階段を上り終えて止まる場面です。無言で見つめ合う二人の表情を見るだけで、今でも涙が出てきます。


ローマの休日」という映画史上に残る名作は、アン王女を演じたオードリーも素晴らしいですが、ブラッドリーを演じたグレゴリー・ペックも素晴らしかったです。グレゴリー・ペックは誠実な性格で知られ、多くの人々から慕われたそうです。また、オードリーとは恋愛関係にはなりませんでしたが、生涯、固い絆で結ばれていた同志的関係だったそうです。なんだか素敵ですね! 


ローマの休日」主演の二人

 

じつは、わたしは最近、ある映画通の方から、「グレゴリー・ペックに似ていますね。ただし、『ローマの休日』のときの」と言われました。わたしは本当に驚き、かつ困惑しました。わたしが「からかわないで下さいよ」と言うと、その方は「いいえ、近くの方に聞いてみてください。きっと、グレゴリー・ペックに似ていると言いますよ」とまで言うのです。ああ、わたしはグレゴリー・ペックに似ているのでしょうか? それとも、「似ていますね」と言った人から、からかわれただけなのでしょうか?


似てるかな?(もちろん、フェイク写真です😂)

 

2022年5月18日 一条真也

五月の東京へ!

一条真也です。
17日、ブログ「沖縄・金沢・冠婚葬祭」で紹介した天道塾での講話を終えた後、わたしは北九州空港に向かいました。久々にスターフライヤーに乗って東京に出張です。

北九州空港の前で

北九州空港のようす

いつも見送り、ありがとう💛

それでは、行ってきます💛

 

今回の東京行きは、全互協の正副会長会議、理事会、冠婚葬祭文化振興財団の理事会、さらには慰労会をはじめ、さまざまな業界関係の会議や会合に参加するためです。今回もハード・スケジュールですが、とにかく感染しないように万全の対策を心掛けます!

スターフライヤーの機内で

 

今日は13時35分のスターフライヤー82便に搭乗。乗客率は6割から7割ぐらいといった感じでしょうか。この日のわたしは、ネクタイ&ポケットチーフ&不織布マスクをモスグリーンのコーディネートでした。五月生まれのわたしは、新緑をイメージさせる色を好むのであります。 ブログ「マスクを楽しむ!」のように、わたしは多彩な色のマスクを着用しますが、常に「悪目立ちしない」ことを意識しています。あと、会社では小倉織マスクでしたが、飛行機に乗るときは必ず不織布マスクを着用します。

機内では読書しました

 

機内では、いつものように読書をしました。この日は、『教養としての神道島薗進著(東洋経済新報社)を読みました。神道1300年の歴史は日本人の必須教養ととらえ、「神道」研究の第一人者がその起源から解き明かした本です。神道は古来より天皇とともにありました。神道は古代におけるその成り立ちより「宗教性」と「国家」を伴い、中心に「天皇」の存在を考えずには語れません。しかし「神道」および日本の宗教は、その誕生以降「神仏習合」の長い歴史も持っています。さらには、近代日本社会の精神文化形成に「神道」がいかに関わったか、現代に連なるテーマをその源流から仔細に論じています。同時に、「国家」と直接結びついた明治以降の「神道」は「異形の形態」であったことを、宗教学の権威が明らかにした一冊で、非常に勉強になりました。

 

 

島薗先生といえば、20日発売の『論語と冠婚葬祭』(現代書林)を献本させていただいたところ、昨日、「儒教の宗教としての評価は、加地先生の旧著で高らかに示されており、学会では一定の評価を受けていますが、あとを継ぐ研究者は見当たりません。そんななか、このご本は加地先生の考え方が広くわかりやすく述べられており、たいへん読み応えがあります。これは佐久間さんのお力があってのことと思います。『あとがき』に加地先生が書いておられるとおり、佐久間さんお相手だからこそ、加地先生が磨き上げてこられたお考えがすらすらと語られたという面があると思います。また、佐久間さんの『礼』についての考え方、『論語』をカナンで来られた経緯など、儒教をどのように身につけてこられたかもよくわかる本で、その点からも読み応えあるものと思いました」とのご感想をメールで送って下さいました。感激です!


さあ、行動開始です!

 

羽田空港に到着すると、気温は20度。今日はいつもランチを取るラーメン店を横目で見ながら、そのまま赤坂見附の定宿に向かいました。チェックイン後は日比谷に向かい、出版関係の打ち合わせをします。何があっても、感染だけはしないように気をつけて、頑張ります!

 

2022年5月17日 一条真也

沖縄・金沢・冠婚葬祭

一条真也です。
16日の夜は満月で、「フラワームーン」。17日の朝、松柏園ホテルの神殿で恒例の月次祭が行われました。

神事の最初は一同礼!


月次祭のようす


ソーシャルディスタンス!


拝礼をする佐久間会長

玉串を受け取りました


わたしも拝礼しました

 

皇産霊神社の瀬津神職によって神事が執り行われましたが、祭主であるサンレーグループ佐久間進会長に続いて、わたしが玉串奉奠を行いました。一同、会社の発展と社員の健康・幸福、それに新型コロナウイルスの感染拡大が終息することを祈念しました。わたしと一緒に参加者たちも二礼二拍手一礼しました。儀式によって「かたち」を合わせると、「こころ」が1つになる気がします。

最初は、もちろん一同礼!

最初は佐久間会長の訓話です

 

神事の後は、恒例の「天道塾」です。最初に佐久間会長が登壇し、訓話をしました。まずは昨日の沖縄返還50年の話題に触れ、1972年に沖縄が日本に返還された翌月には那覇市サンレー沖縄の発会式を行った思い出を振り返りました。沖縄という独特の文化が根づく土地で受け入れられるか不安もあったそうですが、「守礼之邦」と「小笠原流礼法」の「礼」つながりでサンレーの企業文化とマッチしたそうです。今では、小笠原流礼法は沖縄が最も盛んな土地であるとか。


佐久間会長訓話のようす

 

それから、佐久間会長は小倉の旦過市場の火災の話をしました。じつは、あの土地の多くはわが社の所有地でしたが、北九州市に頼まれて売却した経緯などを説明し、知らなかった参加者たちは驚いていました。また、6月11日に新装オープンする「日王の湯」の話題に移り、オープンイベントとしてマルシェ(市場)を開き、32店舗が集結するので、ぜひ家族で足を運んでほしいとお願いしました。日王の湯がある田川郡福智町は自然の豊かな場所ですが、佐久間会長は「自然の恵みをどう活かすかが今後の観光のカギになる」と力説しました。

グリーンの小倉織マスク姿で登壇

 

続いて、わたしが、グリーンの小倉織マスク姿で登壇しました。まず、「昨夜は、フラワームーンでした。たくさんの花が咲き乱れる5月の満月にふさわしい美しいネーミングです。5月はわたしの誕生日月でもあり、10日に59歳になりました。来年は還暦を迎えます」と述べてから、以下の話をしました。昨日5月15日、沖縄が日本に復帰して50年を迎えました。その日に開催された記念式典では、天皇陛下がオンライン参加され、お言葉を寄せられました。天皇陛下は初めて沖縄の課題に言及されましたが、「ぬちどぅたから」(命の宝)という方言を使われたことも併せて、わたしは感銘を受けました。

小倉織マスクを外しました

 

岸田総理大臣は沖縄の記念式典出席などのために14日から沖縄県を訪問。14日は糸満市国立沖縄戦没者墓苑に献花しました。その他、復元中の首里城などを視察しました。同じ14日、「基地のない沖縄」を目指す平和行進が行われました。平和行進は2021年、2020年は新型コロナウイルスの影響で中止となりましたが、今年は日程を半日に短縮し、事前登録した人だけで開催され、全国各地からおよそ1000人が参加しました。復帰50年を迎えても、今なお基地問題の深刻さはそのままです。



13日、ブログ「シン・ウルトラマン」で紹介した話題の空想特撮映画が公開されました。わたしは公開初日に金沢のシネコンで鑑賞しましたが、同作に登場するザラブ星人メフィラス星人、そしてゼットンの物語を書いたのは、名脚本家として知られる金城哲夫です。1938年に沖縄県島尻郡南風原町に生まれた彼は、「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」など第1期ウルトラシリーズを企画し、文芸部長としてシリーズの基礎を作り上げた1人です。彼が手掛けた物語には、壮絶な戦争体験をはじめ沖縄人の想いが溢れています。


「シン・ウルトラマン」について話しました

 

沖縄には今でも米軍基地が存在しますが、ウルトラマン自体が米軍のような存在であったと考えられています。そもそも、ウルトラマンはなぜ、自分の星でもない地球のために戦ってくれたのか? その謎を突き詰めると、どうしても地球=日本、ウルトラマンアメリカという構図が見えてきます。もっとも地球にも怪獣(映画では禍威獣)を退治するための科学特捜隊すなわち科特隊(映画では禍特対)が存在しますが、これはまさに自衛隊のような組織であると言えるでしょう。TVドラマ「ウルトラマン」最終回の脚本はメインライターの金城哲夫でした。



ウルトラマン」の最終話が放映されたのは1967年4月7日。折しも小笠原諸島の日本復帰に向けての交渉がなされているときであり、当時の日本政府は沖縄返還も持ち掛けていた」と書かれています。ちなみに、「ウルトラマン」の後継番組は「ウルトラセブン」でした。日本の特撮ドラマシリーズの最高傑作とされている番組です。俗説では、ウルトラセブンとは「アメリカ第七艦隊」の意味だと言われました。本当はウルトラ警備隊の「七番目の隊員」という意味ですが、脚本家の市川森一が「ウルトラセブンは第七艦隊」と広めてしまったようです。のちに、市川はNHKのテレビ番組「私が愛したウルトラセブン」のシナリオを書きましたが、劇中で金城哲夫に「ウルトラセブンは第七艦隊に見える」と言わせています。



映画「シン・ウルトラマン」の主題歌は、米津玄師の「M八七」です。このタイトルに違和感をおぼえた人は多いはず。なぜなら、ウルトラマンといえば、M78星雲にある「光の国」から地球に来た宇宙人という設定だからです。当初はウルトラマンの故郷は「M87星雲」という設定であったものの、台本の誤植により「M78星雲」と表記されてしまい、現在までそのままになっているという経緯があるようです。その意味では、米津は初期設定に戻したことになりますが、じつは、沖縄の人々の間で「M78」は「南の那覇」の意味だという説があるとか。確かに、「光の国」のモデルが陽光降り注ぐ那覇だというのはイメージに合います。そこには、沖縄の人々の平和への祈りも込めれていたのかもしれません。


沖縄のグリーフについて

 

第二次世界大戦を通して、沖縄の人々は日本で最も激しい地上戦を戦い抜きました。激戦であった沖縄戦において、日米両国、無数の人々が敵味方として殺し合い、そして集団自決するという悲しい事実もあったことを忘れてはなりません。森山良子の名曲「さとうきび畑」の中では「ざわわ、ざわわ」という風の音が66回も繰り返されますが、まさに慰霊と鎮魂の歌です。石垣島をはじめ、沖縄の人々は亡くなると海のかなたの理想郷である「ニライカナイ」へ旅立つという信仰があります。2019年の6月、石垣紫雲閣の竣工式で主催者あいさつをしたわたしは、最後に「さとうきび ざわわざわわと風に揺れ 青い空には紫の雲」という短歌を披露しました。


熱心に聴く人びと

 

わが社は沖縄県でも多くのセレモニーホールを運営していますが、わたしは、「セレモニーホール」とは「基地」の反対としての究極の平和施設ではないかと思っています。なぜなら、「死は最大の平等」であり、亡くなった方々は平和な魂の世界へと旅立たれるからです。沖縄の方々は、誰よりも先祖を大切にし、熱心に故人の供養をされます。日本でも最高の「礼」を実現していると思います。今年は、終戦70周年の年。先の戦争では、沖縄の方々は筆舌に尽くせぬ大変なご苦労をされました。わたしたちは、心を込めて、沖縄の方々の御霊をお送りするお手伝いをさせていただきたいと願っています。戦後70年となる2015年4月4日、豊崎紫雲閣の竣工式を開催。そこで、わたしは主催者挨拶の最後に「紫の雲ぞ来たれり豊見城(とみぐすく)守礼之邦の礼を守らん」という歌を心をこめて詠みました。


「本土復帰」ではなく「沖縄復帰」を!

 

そう、沖縄は「守礼之邦」と呼ばれます。もともとは琉球宗主国であった明への忠誠を表す言葉だったようですが、わたしは「礼」を「人間尊重」という意味でとらえています。沖縄の方々は、高齢者を大切にし、先祖を大切にし、熱心に故人の供養をされます。その上、隣人も大切にします。それだけではありません。沖縄には、「いちゃりばちょーでい」という言葉がありますが、「一度会ったら兄弟」という意味です。沖縄では、あらゆる縁が生かされるのです。まさに「袖すり合うも多生の縁」は沖縄にあり! 「守礼之邦」は大いなる「有縁社会」です。すべての日本人が幸せに暮らすためのヒントが沖縄にはたくさんあります。今こそ、沖縄の「本土復帰」ではなく、日本の「沖縄復帰」を願っています。


「M78」の意味とは?

 

さて、沖縄復帰50年の前日となる5月14日、わたしは金沢にいました。この日、石川県金沢市大額1丁目421番地にわが社の新施設である「大額紫雲閣」が完成し、10時から竣工清祓神事が行われたのです。サンレーとしては、金沢市内で9番目、石川県内で16番目、全国で91番目(いずれも完成分)のセレモニーホール(コミュニティホール)となります。大額紫雲閣の竣工神事は、地元を代表する神社である林郷八幡神社の加藤正俊宮司にお願いしました。

大額紫雲閣について

 

主催者挨拶では、わたしは、「現在わが社には、90のセレモニーホール=コミュニティホールがありますが、新たにこの金沢市大額の地に大額紫雲閣が加わります。歴史的に石川県は信仰心が篤い人が多く、現在でも東本願寺の金沢別院をこころの拠り所にされている人々が多い地域でもあります。大額周辺の『金沢市南部丘陵歴史夢街道』に、四十万(しじま)という地名がありますが、この地名の由来は、百済からの距離が四十万里だったからという説があります。かつて、百済から阿弥陀如来像がこの地に迎えられたという伝承によるものだそうです。この土地の豊かな歴史と文化を感じます」と述べました。

紫の雲いとあはれなり

 

それから、「大額の『額』はぬかずくこと、すなわち『礼拝』するという意味です。清少納言の『枕草子』には『あはれなるもの』として『うちおこなひたる 暁の額(ぬか)など いみじう あはれなり』という一文があります。『勤行をしている夜明け前の礼拝などは、たいそう しみじみとして 心打たれるものよ』という意味ですが、サンレーが紫雲閣を展開する地名として『大額(おおぬか)』はまことに相応しいものと感じられます。新施設で最高の心のサービスを提供させていただき、この地の方々が心ゆたかな人生を送り、人生を卒業されるお手伝いをさせていただきたいと願っています」と述べ、最後に「大いなる ぬかづきの地に のぼりたる紫の雲 いとあはれなり」という道歌を披露しました。

 

 

最後に、わが国における儒教研究の第一人者である大阪大学名誉教授の加地伸行先生との対談本『論語と冠婚葬祭』(現代書林)が5月20日に発売されます。わたしは長い間、「礼とは何か?」「なぜ、冠婚葬祭は必要か?」について考え続けてきましたが、加地先生との対談でついにその答えを得ることができました。本書は、冠婚葬祭互助会業界の同志たちをはじめ、冠婚葬祭に関わるすべての人々にとっての理論武装の書となるように思います。また、渋沢栄一の『論語と算盤』の副読本として読んでいただくのも良いかもしれません。『論語と冠婚葬祭』というタイトルはわたしが考えたのですが、加地先生から「素晴らしい!」と褒めていただきました。

 

 

加地先生は『論語』とともに儒教の重要教典である『孝経』を訳されたことで有名です。日本人の葬儀には儒教の影響が大きいことは明らかですが、その根底には「孝」の思想があります。あらゆる人には祖先および子孫というものがありますが、祖先とは過去であり、子孫とは未来です。その過去と未来をつなぐ中間に現在があり、現在は現実の親子によって表わされます。すなわち、親は将来の祖先であり、子は将来の子孫の出発点です。だから子の親に対する関係は、子孫の祖先に対する関係でもあります。

「孝」があれば、人は死なない!

 

死の観念と結びついた「孝」は、死を逆転して「生命の連続」という観念を生み出しました。亡くなった先祖の供養をすること、つまり祖先祭祀とは、祖先の存在を確認することです。また、祖先があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたということになります。さらには、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は生き残っていくことになります。だとすると、現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、皆と一緒に共に生きていることになります。

 

 

加地先生との対談では、『論語』と並んで儒教の最重要聖典とされている『礼記』の話題も出ました。『礼記』の「昏義篇」には、「婚礼は敬しく慎んで重々しくまちがいなく進められていってそして夫婦が相親しむのである。それは婚礼がすべての礼の根本になる要素を持っているからである。そしてまたこのようにていねいに行うことによって、男女が互にけじめを守って接するべきものであること、またこれが夫婦の間の義をたてることになることを教えている」(下見隆雄訳)と書かれていますが、これは非常に重要な記述です。


婚礼はすべての礼の根本!

 

続けて、『礼記』には、そもそも男女の間にけじめがあってこそ夫婦の正しい結びつきは生じ、「夫婦の義があってはじめて父子の間にも肉親の愛がめばえるのであり、父子が正しい愛で結ばれていればこそ君臣の関係もこの感情をおし及ぼして正しく成りたつのである。こういうわけで、婚礼こそはすべての礼の本になるものといえるわけである。礼というものは冠礼から始まり、婚礼を本として、喪祭を重んじてその終りを慎むのである。朝聘の礼を尊んで君臣の義を正しく保ち、射郷の礼をほどよく行なうことによって人々の気持をとけあわせなごませるのである。こういうわけで、婚礼こそはすべての礼の最も重要なる根本と云えるわけである」と述べられています。


熱心に聴く人びと

 

わたしは、これを読んで不思議に思いました。というのも、一般に、儒教では「葬礼」を重視することが知られています。しかしながら、『礼記』では「葬礼」ではなく「婚礼」が礼の最も重要なる根本であると述べています。これは、一体どういうことかと不思議に思ったのです。この問題について、わたしは以下のように考えました。葬儀を行うためには家族の存在が必要です。葬儀の当事者は死んでいるわけですから、自分では葬儀を行うことはできません。その家族をつくるためには夫婦が子どもを授からなければならず、そのためにはまず結婚しなければならないわけです。「卵が先か鶏が先か」ではありませんが、家族を形成するにはまず結婚しなければ始まりません。

「最高の平和」を実現しよう!

 

欧米の影響でいくら個人主義が叫ばれようとも、東アジアの人々の基本は家族主義なのです。そして、冠婚葬祭という文化を支えているものこそ家族主義です。考えてみれば、結婚式や葬儀といった冠婚葬祭を行わなければ家族や親族といった「一族」が一同に会しません。そうなれば、ただでさえ進んでいる個人主義がさらに加速し、血縁というものは完全に崩壊するでしょう。現代日本において、「葬儀を行うためには、まずは結婚する」という認識が広まることを願ってやみません。それは日本人の生存戦略にほかならないのです。そして、結婚は最高の平和です。最後に、わたしは「ロシアがウクライナに侵攻し、中国が台湾を狙い、世界大戦の危機が囁かれている今こそ、一組でも多くの夫婦が誕生するお手伝いをし、『最高の平和』を実現しようではありませんか!」と述べました。


上級グリーフケア士によるスピーチ

 

その後、上級グリーフケア士である北九州の市原課長、金沢の大谷総支配人、上級グリーフケア士を目指す沖縄の島袋支配人からコメントが述べられました。市原課長は、「120時間以上の研修を受けて、上級グリーフケア士の資格をいただきました。この資格に恥じないように精進し、お客様のケアに努めていきたいです」と述べました。大谷総支配人は、「深い悲嘆の前では言葉など無力ではないかと考えていたところ、『のこされた あなたへ』という本を読んで大変なショックを受けました。グリーフケアについて、社長が『人間愛の発露であり、幸福へのサポートであり、平和への祈りである』と言われましたが、自分もそうだと思います。グリーフケアの考えが普及すれば、世界から戦争がなくなると思います」と述べました。


3人のスピーチの後、総括しました

 

島袋支配人は、「沖縄は復帰50周年を迎えましたが、沖縄の人々は深いグリーフを抱えながら生きてきました。先日、海洋散骨に立ち合わせていただきましたが、涙を流す方、笑顔で別れの言葉を言う方・・・・・・まさにグリーフケアだと思いました」と述べました。3人とも素晴らしいコメントでした。最後にわたしが総括し、「最もグリーフケアを学んでほしいのは、ウラジミール・プーチン習近平です。グリーフケアは世界を平和にし、人の心を平安にします。ぜひ、グリーフケアの普及に努めましょう!」と言って降壇しました。

最後は、もちろん一同礼!

 

2022年5月17日 一条真也

上島竜兵さんの葬儀

一条真也です。
ダチョウ倶楽部上島竜兵さん(享年61)の密葬が14日に行われました。上島さんと親しかったタレントの有吉弘行さんは、「竜兵会」メンバーとともに参列。「家族」として通夜・葬儀に参列し火葬場にも同席したそうです。


ヤフーニュースより

 

翌15日、JFN系ラジオ「有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER」に出演した有吉さんは、上島さんの葬儀では「笑っちゃうようなこと」もあったとし、「なんか上島さんの・・・葬式らしいな」と声を震わせながら語りました。上島さんの妻・広川ひかるさんは気丈に喪主挨拶をしたそうですが、「竜さんが寅さん好きで」っていう話をしようとしたところ、「寅さん死んじゃって」「あ、間違えた寅さんじゃないわ竜さんだって」と言われたそうです。有吉さんは、「みんな最後の最後に爆笑して、『竜さんだか寅さんだか分かんないような感じですね』って話しをして。ひかるさんも最後まで笑ってて、いい葬式だなとか言ってたけど」と笑顔もまじえて上島さんを見送ったと語りました。悲しいときほどユーモアが必要であり、本当に良い葬儀だったのですね。

 

有吉さんは不遇時代に、経済的にも精神的にも上島さんから支えらました。それ以来、2人は家族のような関係になり、それは有吉さんが再ブレークしてからも変わらりませんでした。有吉さんは「涙をこぼすのは上島さんの葬式だけ」と語っていたそうですが、2014年7月21日に投稿したツイートには、「上島さんは『俺の葬式の時には、俺の顔に熱湯をブッかけてくれよ!』と言う・・・中々ハードな注文だ。かける方の世間体もあるし・・・でも、まあ世話になったし、やってみるか・・・(もちろん上島さんは存命中です・・・)」と綴りました。上島さんと有吉さんの絆がよくわかるエピソードですね。


実際の上島さんの葬儀では、周囲の配慮で、有吉さんは上島さんと2人っきりにしてもらったそうです。そのときの様子について、「お礼の言葉しか出なかったね」としんみり。「ツッコんでやろうかなとか、ちゃかしたりとか『ばかだな』とか言おうと思ったけど、お礼しか出なかったね。本当にありがとうございますということしかなかった」と心からの感謝を伝えました。


ヤフーニュースより

 

ひかる未亡人は、16日、所属事務所の公式サイトにコメントを発表しました。所属事務所として「故・上島竜兵の葬儀も無事終えることが出来、皆様には心より深く感謝申し上げます。本日、夫人より追悼文が届きましたので掲載させていただきます」と掲載。「応援してくださっているファンの皆様、関係各位の皆様にはご心配おかけしましたこと深くお詫び申し上げます。生前は仲間とお酒を飲むのが好きで 先輩や後輩、仕事でお世話になりました皆様にはご厚情を賜りたくさんの思い出を作らせていただいたと思います。また、最近ではドラマやCMに出演させていただく機会も増えて本当に喜んでおりました故人に代わって厚く御礼申し上げます。私達家族も、皆様からの温かい言葉に励まされ葬儀もとどこおりなく相営むことが出来ました。これからもずっと竜ちゃんを忘れないでください。『芸人上島竜兵』は皆様に愛され大変幸せな人生でした。皆様の中に思い出がありましたら、どうぞたくさん笑って、たくさん思い出話をしてほしいです」と綴りました。


上島さんといえば、いま、ダチョウ倶楽部が出演したケツメイシの「友よ ~ この先もずっと・・・」のMV動画が再生を重ねています。ダチョウ倶楽部の寺門ジモンさんは「僕は竜ちゃんと出会って40数年、苦しい時も楽しい時もいつもそばにいてくれました!!本当にありがとう!竜ちゃんがいたから僕はあります!大好きなお酒を今も飲んでいるんじゃないかな?これからもダチョウ2人のそばで見守ってくださいずっと忘れないよずっと一緒だよ」と言いました。そして、肥後克広さんは「何をやっても笑いを取る天才芸人上島が最後に誰も1ミリも笑えない、しくじりをしました。でも、それが上島の芸風です。皆で突っ込んで下さい。『それ違うだろ!』『ヘタクソ!』『笑えないんだよっ!』と地面も蹴ってください。上島は天国でジャンプします。皆様もジャンプして下さい。そして、上島の分、3倍笑って下さい。皆にツッコまれる、それが上島の芸風です。ダチョウ倶楽部は解散しません。二人で、純烈のオーディションを受けます。ヤーッ!どんな悲しいことがあっても、みんなでクルリンッパ!」とコメントしています。愛に溢れ過ぎていて、泣けますね。故上島竜兵さんの御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。

 

2022年5月17日 一条真也