「日王の湯」で湯縁社会を!

一条真也です。
このたび、福岡県田川郡福智町にある「ふるさと交流館 日王の湯」をわが社が運営することになりました。リニューアル工事をした上で、9月8日にプレオープン特別内覧会を開催しました。早速、わたしも朝一番で訪れました。正式なオープンは、9月10日からです。この施設をベースに、無縁社会を乗り越えて、共に入浴する「湯縁」によって有縁社会を再生したいと考えています!

f:id:shins2m:20210902154015j:plain日王の湯」の外観

f:id:shins2m:20210908095836j:plain日王の湯

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日王の湯」の入口で

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今日は、プレオープン特別内覧会!

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荘厳なエントランス

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福智町の黒土町長と名刺交換

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受付のようす

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ブック&ブックレット・コーナー

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物産品コーナー

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前川清さんの看板と

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おもてなしは茶の湯

 

日王の湯」は、平成14年(2002年)5月に福智町の拠点開発施設条例に基づき設置された施設で、正式名称は「福智町拠点開発施設(ふるさと交流館日王の湯)」といいます。「日王」は「ひのう」と読みます。設立の目的は、地域資源を活用した健康、保健及びレクリエーションの場を提供するとともに、地域と周辺市町村との交流を図り、併せて地域産業の再活性化と雇用促進の場を創設することとなっており、ゆとりある空間づくりをテーマに、「ゆったりくつろげる憩いの場」として地域に定着しています。施設は、約8,000坪の敷地に、温泉棟(約310坪)、ロビー・物産販売棟(約174坪)、レストラン・宴会場棟(約264坪)、トレーニング・セミナールーム棟(約186坪)、宿泊棟(約154坪)の全5棟(1,088坪)の建物から構成されている健康増進のための総合施設といえます。

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大浴場の前で

f:id:shins2m:20210908100612j:plain大浴場にて

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大浴場(モデルさんです。覗きではありません)

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露天風呂(モデルさんです。覗きではありません)

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家族風呂(モデルさんです。覗きではありません)

 

お風呂の種類には、大浴場、岩風呂(露天)、水風呂、ジェット風呂、家族風呂があります。 また、サウナは、高温と低温の2種類があり気分や体調により選ぶことができます。休憩室やマッサージ室もあり心身共にリラックスいただけます。泉質は、アルカリ性単純温泉アルカリ性低張性温泉)。温度は、34.2℃。効能は、神経痛、筋肉痛、関節炎、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消火器病、痔疾、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進など。料金ですが、●一般:600円●小学生:350円●3歳以上:250円●家族風呂:1時間1,600円となっています。営業時間は、10:00〜22:00(最終受付21:00)。休館日は、毎月第3水曜日(祝日の場合は翌日)です。

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レーニングルームも完備

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リフレッシュルームにて

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大広間

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コロナ後は大宴会やりたい!

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休憩スペース

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宿泊施設も完備

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レストランもあります

 

「日王の湯」の運営については、事業開始よりこれまで福智町が設立した「一般財団法人健康交流体験協会」が指定管理者として運営を行ってきましたが、令和3年度の施政方針に掲げた民間力の導入・企業連携による持続可能な行政規模への効率化を推進する福智町と、会員サービスの拡充と互助会の新規会員の募集などを目的とした策として温浴施設の活用を模索していたわがサンレーのニーズが合致し、指定管理協定を締結。令和3年9月よりわが社が「日王の湯」の新たな指定管理者として運営を担うことになりました。検討段階での想定では、この9月にはある程度の影響は残るものの、大方コロナは落ち着いて入館者も戻り、レストランや宴会のご利用もある程度まで回復することを見込んでいましたが、東京五輪の強行開催後は状況が悪化の一途をたどり、大変な状況が続いています。

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新聞の取材を受けました

 

この日は、「西日本新聞」さんの取材も受けました。本来であれば、当社の得意とするイベントを行い、スタートダッシュで華やかな船出といきたかったところですが、それも叶わず、残念ながらコロナ禍での静かな船出となりましたが、まずは感染防止に努め、お客様の安全を最優先にしつつも、アフターコロナを見据え準備を進めてまいりたいと考えております。わが社は、本年11月18日に創立55周年を迎えます。本事業を55周年の記念事業としての位置付けにて進めています。「天下布礼」を掲げるわが社が55年にわたって冠婚葬祭事業やホテル事業により培ってきましたサービス、運営、営業などのノウハウ全てをを注入し運営を行ってまいります。

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「湯縁」の大切さを訴えました

 

運営の方向性として、まず最も重視するのは福智町民の皆様に認められる存在となれるかということだと考えています。多くの福地町民の方にご利用いただき、福智町民の皆様に愛され、そして親しまれる施設を目指します。福智町町民の方に、常々入浴をはじめ、会食や宴会、買い物、さらにはトレーニングなどさまざまな形でご利用いただき、そしてファンになっていただき、そのお客様が別の福智町民の方をお誘い連れてきていただく、さらにその次は町自慢の施設に町外のお客様を連れて来ていただく、そんな流れを作ることができればと思っています。加えて、そんなに多くの人数ではありませんが雇用にもつなげることができればと考えています。

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記事用の写真を大浴場で撮影

もう1つの方向性は、会員制組織であるわが社の互助会を支えていただいております。周辺約30万世帯の当社会員の皆様にご利用いただきたいと考えています。温泉で心と体を癒していただき健康な生活を送っていただける一助となればと考えています。具体的には、会員様へのご案内はもちろんのこと、周辺約50の施設を発着とする温泉と食事を合わせたパックプランなどの実施も準備中です。

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西日本新聞」2021年9月9日朝刊

 

まずは、これまで以上の施設を目指し「サンレーさんに任せてよかった」と言われるようにしてまいりたいと考えています。そして、何よりもこの「日王の湯」が無縁社会を乗り越えて有縁社会を再生する、いわば「湯縁社会」を呼び込みたいと新聞記者の方にお答えました。


日王の湯」の名称は、当館の南側にある「日王山」より命名されています。『金田町史』や『嘉穂郡誌』に記された神話によると、この日王山には「日王」と呼ばれる方丈の瑞石(仏像を刻んだ長さ2メートル、幅40センチほどの自然石)があると書かれています。日王山の頂上から尾根伝いに北へ200メートルほど行ったところに、常楽寺跡の平地があります。この平地の西側に、仏像を刻んだ脊柱があるのです。大きさは幅40センチ、長さ2メートルほどの自然石です。この石が「日王」と呼ばれる方丈の瑞石です。


『養生訓』で有名な貝原益軒は、『筑前国風土記』の中で、方丈の瑞石のことを「豊前筑前の国境に日王殿(ひおうでん)という、長さ7尺ばかりの石仏がある。その側にお寺があったと見えて礎石が残っている。近くには池があったという。何というお寺か』と書き記しています。また、金田町史や頴田町史にも、『日王と呼ばれる方丈の瑞石』があるから、この山を『日王山』と称するようになった。『方丈の瑞石』は宗像三女神の時代から、この山にあった」と書いています。



「日王」と呼ばれる石は、宗像三女神の時代から存在していたと書かれています。宗像三女神が、天照大神の命を受けて宇佐から筑前国、宗像の移り住む途中、日王山に立ち寄って休憩していました。その側にあった方丈の瑞石を見て、母神の天照大神のことを想い物思いにふけっていたことから、この山を「日思山」とも言うと書いています。「日王」といえば太陽の神様、天照大神のことだと推察できます。景行天皇の御代になって、山頂に日王殿をご神体とし、天照大神と三女神を祭神とする「日王神社」が創建されました。

 

このように「日王」とは、太陽の神様である天照大神ともゆかりが深く、「太陽光」を意味するわが「サンレー」との縁も感じます。福智町は、平成18年3月6日に福岡県田川郡の旧赤池町・旧金田町・旧方城町の三町が合併して誕生しました。福岡県のほぼ中央に位置し、直方市北九州市香春町田川市糸田町飯塚市と隣接しています。北九州・福岡の両都市の中心からそれぞれ約45キロメートル、約35キロメートルの距離にあります。つまり、福岡県の当社事業展開エリアのほぼ中央に立地することになります。この点も本事業を計画してく上での大きなポイントでした。


福智町の中央部で彦山川中元寺川が合流し、貫流しています。標高901メートルの秀麗な福智山がそびえ、その山頂一帯は北九州国定公園に指定されています。高さ25メートルの滝が小渓谷をなす上野峡の近くには400年以上の伝統を誇る国指定伝統的工芸品上野焼(あがのやき)」の窯元が点在し、陶芸の里となっています。また、「かもめの水兵さん」「うれしいなひなまつり」などでお馴染みの、数多くの童謡を作曲した河村光陽氏の生誕地でもあります。町内には樹齢520年以上の天然記念物「迎接の藤」(県指定文化財)や樹齢600年の「虎尾桜」(町指定文化財)があり、開花シーズンになると大勢の花見客でにぎわいます。豊かな自然と文化に彩られながら、福智町は観光・教育をはじめとする人の活力を生かしたまちづくりを展開しています。みなさんも、どうぞ、福智町の「日王の湯」にお越し下さい。ということで、必勝を期して、帰りに「資さんうどん」で昼食のカツ丼を食べました。「日王の湯」で、無縁社会とコロナ禍に勝つ!

f:id:shins2m:20210908113601j:plainカツ丼を食って勝つ!!

 

2021年9月8日 一条真也

『わが心のプロレス』

わが心のプロレス

 

一条真也です。
7日の朝、会社の健康診断を受けました。最後に受けた胃の検査の技師の方が当ブログを愛読されているそうで、「プロレスの記事、良かったです!」と言われました。やはり嬉しいものですね。ということで、今回はとっておきのプロレス本を紹介したいと思います。その本は、『わが心のプロレス』高木恭三著(東京図書出版)。いわゆる昭和プロレスへの愛について語った本ですが、素晴らしい内容でした。昭和プロレスの本を読み尽くしたと自負しているわたしも気づかなかった視点が多く書かれており、勉強になりました。著者は、愛媛県津島町(現宇和島市)生まれ。宇和島東高校、京都府立大学文学部卒業。愛媛県の公立中学校の社会科教員として35年間勤務。2019年定年退職。現在は塾の講師や中学校の教育活動支援員として活動。趣味はプロレスの他に釣り、畑仕事、書道、酒場放浪だとか。これまで、その存在をまったく知らなかった「プロレスの語り部」の出現に、わが胸は高鳴りました。 

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には、「三菱洗濯機」や「三菱冷蔵庫」とサイドに書かれたリングに向かう長身のプロレスラー(明らかにジャイアント馬場!)の後ろ姿のイラストが描かれています。帯には、「プロレスはどこに消えたのか!」「昭和プロレスへの深い郷愁とその復活を切に望む渾身の書」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「ゴールデンタイムで放映されていたプロレス。多くの人が見て、それについて語り、その技をまねすることもあったプロレス。野球や大相撲と同じレベルで日本人の中に浸透していたプロレスがなぜこうも衰退し、人々の脳裏から消えてしまったのか。・・・・・・昔見たプロレスの風景とその時代に起こった出来事を思い起こしながら、主に昭和のプロレスとその変貌を語ってみたい」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。
「はじめに」
第1章 日本プロレス
第2章 国際プロレス
第3章 新日本プロレス
第4章 全日本プロレス
第5章 UWF系
第6章 PRIDE(プライド)
「おわりに」



第1章「日本プロレス」では、プロレスラーの年齢について、著者は「種目によっても違うが、スポーツ選手の年齢は30代までだと思う。正式な意味でスポーツとは呼べないプロレスもまた、そのピークは30代まででそれを過ぎれば引退し、後進に道を譲るというのが正しい形ではないか。実際の年齢はもう少し上だったという説もあるが、力道山は30代後半で亡くなったことで選手生命を絶たれた。力道山亡き後、日本のプロレスはなくなっていくのではないかと言われたこともあったが、豊登を経て、馬場、猪木と継承され、昭和40年代前半は人気を継続した。ほぼ馬場と同じ時代に全盛期を誇った大相撲の大鵬プロ野球長嶋茂雄は、僕が中学生から高校生にかけての頃、30代で引退している」と述べています。



しかし、馬場は60歳まで、猪木は50代を過ぎてまで現役を続けたとして、著者は「肉体的にはとうにピークを過ぎた後も、老いた姿を僕らに見せ、悲しい気持ちにさせていった。潔く、30代末か40代初めに引退していたならば、プロレスはその後衰退の道を歩まなかったかもしれない」と述べます。また、著者は今も前田日明のファンだそうですが、それは彼が衰えたとはいえ、まだ前田日明の姿をかろうじて保っていた時にスパッとやめたことにあり、そしてその後復帰のオファーを断り今に至っていることにあるとして、レスラーの正常な新陳代謝をしていかなかったことが、結果的にプロレスというジャンルの凋落を招いたと分析しています。わたしも、まったく同感です。


プロレスは、お互いの了解があるゆえに、繰り出す技が決定的なダメージを与えないようにしています。中には、寸止めで本当には当たっていないという人もいますが、そうは思わないという著者は、「映画やドラマのようにもし寸止めであるならば、プロレスが日本に輸入された初期の段階で人々は見限っていただろうと思う。ある程度の力で、急所ではない鍛えた場所を打つ、受け身がとれるように投げるということが基本ルールとしてある。演出効果を高めるため、流血することも多々あるが、前田対藤波戦のような偶然にキックが当たり大量の出血をした場合を除いて、出血してもそれほど問題ではないところ(額など)を傷つけることも基本ルールだ」と述べます。


第2章「国際プロレス」では、国際プロレスの新旧エース対決としてのストロング小林ラッシャー木村戦に言及した著者は、「プロレスは相手の技を受けることを前提としてはいるが、いつもそうではなくて、時には相手の技をすかしたり、受けることを拒んだり、うまく技がかからなかったりする場面が必要だ。僕はそれを両者間の『摩擦』と呼んでいる。きれいに技が決まる爽快感がプロレスの魅力だが、格闘技のようにそう簡単には技が決まらない困難さを時には見せてくれる場面があることで、プロレスの魅力はさらに強くなると僕は思っている。僕が現在のプロレスに興味がないのは、『摩擦』がないからだ。その意味で、小林対木村戦は、エースの座を争う闘いにしては『摩擦』が少なかったように思う」と述べています。


第3章「新日本プロレス」では、アントニオ猪木について、著者は「その言動は大変興味深く、時に哲学的であるとさえ思う。彼がこれまで語ってきた言葉は実践や経験に裏付けられたもので、他の著名な文化人たちの言葉と同レベルの輝きや重さをもって、僕の心に響いていた。馬場と比べて、自分を強くアピールしようとする点や大風呂敷を広げるような面は鼻につくところもあるが、世俗的でないことは強く感じる。金とか物とかにこだわるところなく、凡人の理解の範疇を超えている面がある。一時、政治家であったが、委員会での答弁等を見ても、他の政治家と比べて経験値が格段に上だという印象をもっていた。バラエティ番組での対応を見ても、人を惹きつける何かを持っている稀有な人物である。最近、元気がなくなっているので長生きしてほしいと心から思っている」


新日本プロレスを代表するセメントマッチとして、“新格闘王”前田日明と“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントノーコンテストになった一戦があります。この試合について、著者は「後に行われる総合格闘技の試合において、身長が高かったり、体重があったりする選手が必ずしも強いとはいえないという事実を僕らに教えてくれた。2メートル以上あったり、体重が150キロ以上あったりする選手はスタミナがなかったり、動きがどうしても緩慢になったりして、結果を残せないいくつかの例を見てきた」と述べています。

 

続けて、著者は「プロレスラーのルー・テーズにしてもダニー・ホッジにしても、総合格闘家ヒョードルにしてもアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラにしても身長は180センチから190センチくらいで体重は100キロ前後のサイズである。レスラーの中でも並外れて大きなアンドレが強いというのは、ある意味プロレス的発想で、それは馬場にもいえる。寝かせてしまえば大きさは関係ないというのが本当のところではないか」と述べるのでした。


新日本プロレスの最後の黄金期を支えたレスラーに「闘魂三銃士」の武藤敬司がいますが、著者は「猪木だったか、誰かも言っていたが、武藤によって、それまでの日本のプロレスの形は変えられ、今のプロレス、WWE的な完全にショー化したプロレスに変わっていった。狭い範囲のファンには受け入れられるが、日本人の多くの大衆を引きつけて、ある影響力を持っていたプロレスはすたれていった。今のプロレスを見ると、武藤が披露していたプロレスのスタイルをさらに進化させて、より軽く、格闘技色を薄く、さらりとさせて、人間の持つ情念みたいなものをなくし、マンガチックにしているように見える」と述べています。


続けて、著者は「そうした中で、無骨ながら、昔のように道場での強さを追求しながら、まっすぐにプロレスに向き合っていたのが橋本のような気がするのだ。順応性に乏しく、人間関係作りが下手で、長州などと対立しながら、自分らしさを追求していった新日本最後のリアルプロレスラーが橋本だと僕は思う。猪木の持っている魂を継承し、猪木の匂いを持っていた最後のレスラー、橋本。その点で前田に少し似ているところがある」と述べます。わたしも、まったく同感です。“破壊王橋本真也が“暴走王”小川直也に連敗したときが、ストロングンスタイルを標榜した新日本プロレスの「終わりの始まり」だったと思います。



橋本を完膚なきまでに叩きのめした小川はそんなに強かったでしょうか? 著者は、「その後の小川のプライドの試合、たとえばヒョードル吉田秀彦との試合を見ると、小川はそれ程ハートの強い選手ではないということがわかる。だから、あの時に橋本がもう少し覚悟を決めて、プロレスの範疇を超えた反撃をしていたら、案外、小川はあっさりと萎えていった可能性もあった。それを考えるとあの結末は残念だった」と述べます。伝説の「1・4橋本vs小川」が著者が本気で見た最後の試合だそうですが、「その後まもなくして、小川との再戦にも敗れた橋本は新日本を去り、自分の団体を作るが、40歳という若さで亡くなってしまう。もうあれから15年以上経つと思うと不思議だ。橋本が亡くなった後、猪木の魂を継ぐレスラーはいなくなった」と述べるのでした。


第5章「UWF系」では、第二次UWFでの前田対船木戦が取り上げられます。1990年(平成2年)、船木は前田と初めて対戦。2回試合を行い、2回とも前田の勝利に終わりました。著者は、「新生UWF時代の前田のベストバウトはこの船木戦だと僕は思う。その試合は久々におもしろい前田の試合だった。船木は掌底などすばやい攻撃で前田を窮地に追い込んだ。後のパンクラス時代の攻撃に比べれば、またまだ甘さのあるものだが、その動きはとても新しく見えた。その攻撃に対して前田はフラフラになりながらも、ここ一番の踏ん張りを見せて、最後は首締めで逆転して勝利を収めた。地力の面ではまだまだ、前田と船木には差があると思わせた試合だった」と述べます。


しかし、その映像を見た時に、著者は「前田が今まで一番いい姿形をしていたと思っていたが、船木と同じ画面に映った時に、船木の方がかっこいいなと思ったのだ。ある時期、猪木と前田と比較した時に前田の方がかっこいいと思ったように、この時の船木に、後のパンクラス時代ほどの身体や動きのシャープさはまだなかったが、見た目のかっこよさは前田や高田を上回っていたように思う」と述べます。この著者が指摘した「見た目のかっこよさ」がプロレスラーの重要な要素であるというのは盲点でした。確かに、そうだと思います。

 

ちなみに新生UWFの頃は肥満気味だった髙田延彦はUWFインターナショナルを旗揚げしてエースとなってからはシェイプアップしました。著者は、「高田というレスラーが最も輝いていた時期はこの頃だった。身体つきも以前より締まり、紫色のトランクスをはいたその姿は、パンクラスの船木に負けない美しさがあり、貫禄・風格を感じさせた。完全に同時期に前田を上回っていた。その姿形のよさは、コンディションの良さを示していた。やがて武藤と試合をして敗れるまでの期間は、日本の格闘技界で最も輝いていたのは高田だ」と述べるのでした。


新日本プロレスでは、前田は猪木より輝けませんでした。また、新生UWFでは、船木は前田より輝けませんでした。このことについて、著者は、「プロレスの衰退した原因の1つに新陳代謝が正常に行われないということがあげられる。真の実力によって序列を決めないシステム、つまり本当は強いのにその実力に見合ったポジションや報酬を得ることができない体制が、選手間のトラブルの原因となり、離合集散を繰り返してきた。新生UWFはそうしたプロレスの矛盾を改善して、やや衰えの見える前田から高田や船木にエースの座をかえるなど、実力に見合った地位の確保、マッチメイクをする団体となる可能性があった。新日本、全日本に並ぶ、格闘色の強いプロレス団体として、共存共栄を図れば、プロレス人気がこうも下降することはなかったかもしれない」と指摘しています。


新生UWFは、3派に分裂しました。その根本原因は前田の人間関係作りに問題があると想像しつつ、著者は「僕は、前田のストレートな物言い、信じたらトコトン進んでいく姿勢や時には激怒して人に当たったりする熱いところが大好きなのだが、周囲にいる者にとってはそれを嫌悪し、憎悪する者も出てくるのは想像できる。安生や宮戸、あるいは後の長井満也や田村などもその中に入るかもしれない。調和的な人間では全くなく、好き嫌いが激しく、人を攻撃したり排したりすることもある前田の一面が、組織の長としての資質に欠けるところがあった結果の出来事だったのかもしれない。振り幅が大きく、激烈な感情の持ち主で、他にない新しい考え方を持つ前田の生き方が前田たる魅力なのだが、人によってはそれを絶対に受け入れられないと捉える人もいて、多くの敵を作ってしまうのも前田の1つの側面であった」と述べていますが、前田への深い愛情を感じます。


新生UWFから藤原組を経て、リアルファイト団体であるパンクラスを立ち上げた船木は、2000年5月26日に東京ドームでヒクソン・グレイシーと戦い、敗れます。著者は、「船木は死ぬ覚悟でリングに上がったと言う。負ければそれは死と同じだとも。僕はそれを、まだ31歳に過ぎない船木の驕り、視野の狭さから来るものだと思っている。短絡的に物事を決めようとする若年層にありがちな判断だと。船木は、あのヒクソン戦の敗北から、本格的な総合格闘技の選手へと変貌していくべきだった。年齢的にもそれが可能だった。ああいう大舞台で試合をしたプロレスの選手は、高田と桜庭、藤田しかいない(永田裕志もいるが、彼の場合は試合があっけなさすぎて数に入れるのは抵抗がある)」と述べています。非常に的確な意見であり、感服しました。


あの試合から後、プライド等のリングにあがり、ヒクソン以上の実力のある選手、たとえばヴァンダレイ・シウバミルコ・クロコップアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、あるいは吉田秀彦などとの試合を僕は見たかった。船木は2007年(平成19)年に復帰するまでの7年間をそういう時間に使っていたならば、おそらく桜庭以上の人気を博したのではないか。船木の持つスター性があれば、日本人選手のエースとして、UWF系レスラーを支持する僕たちの思いをプライドのリングで実現してくれたのではないか。船木の2000(平成12)年の引退は残念としかいいようがない。船木は今もプロレスを続けているが、一番輝いていた時はこのパンクラス時代だった」と述べます。これまた著者の卓見に感服です。


新生UWFが崩壊して30年が経ちますが、21世紀になってからの総合格闘技の数々の試合よりも、1980年代から1990年代にかけての前田や高田や船木などの試合の方を鮮烈に記憶しているという著者は、「彼らは、馬場や猪木が作った古いプロレス界を本当の強さを求めて、変革しようと試みた。数々の挫折や分裂、妨害を経験しながらも自分の道を突き進んでいった。総合格闘技の隆盛の時代、プロレスラーの中で参戦に手を挙げたのはほとんどがUWF系であった。彼らの多くは敗れることが多かったものの、彼らの参戦があったからこそ、ヒクソンをはじとした選手が脚光を浴び、プライドが注目され、総合格闘技というものが1つの大きなジャンルとして根付いていたのだ。プロレス界のパイオニアだったUWFは消えてしまったが、我々の心の中には輝いていたあの頃の風景が今もしっかりと残っている。前田を筆頭に高田や船木、安生、田村などのUWF戦士は総合格闘家ではない。総合格闘技もできるプロレスラーであったのだ」と述べます。格調高い名文であり、これを読んだわたしの胸は熱くなりました。


第6章「PRIDE(プライド)」では、プライドで試合をした日本人の中で最も強かった選手といえば、桜庭和志藤田和之の名を挙げる人が多いですが、著者は吉田秀彦だといいます。柔道でオリンピックの金メダリストであったという身体能力と精神的な強さの面で吉田がNo.1だったとし、著者は「ああいう舞台で柔道の強さを見せつけた初めての選手かもしれない。実際は強かった木村政彦やヘーシンクやルスカなどがプロレスの試合の中で、その真価を発揮できぬままで終わった歴史を振り返る時、真剣勝負の総合格闘技の試合の中で世界レベルの柔道家の強さを世に知らしめたのが吉田だ。そう簡単には倒されない、倒して寝技になったら決めてしまう力と、立っての打撃でも堂々と応戦する胆力が吉田には備わっていた」と述べ、さらに「吉田が完敗したのはミルコぐらいなものだ。シウバともいい勝負をして、少なくとも桜庭よりは拮抗した試合内容だった。特に吉田の強さを示した試合は、田村戦と小川戦だ」と指摘しています。


総合格闘技の世界的な中心となったプライドには、一攫千金を夢見て、まだ見ぬ強豪たちが世界中から集結してきました。著者は、「柔術レスリング、柔道、キックボクシング、ボクシングなど腕に覚え有りの名もなき強者たちの試合ぶりが新鮮だった。かつての日本プロレス時代にアメリカから多種多様なレスラーたちが来ていたように」と回想します。しかし、プライドは2007年(平成19年)4月の「プライド34」を最後に、この年の10月に消滅したのでした。著者は、「大リーグやNBAに興味がないのと同様にUFCに魅力を感じなかった。その後、ドリーム、戦極、RIZINなどができたが、かつてのプライドが放った総合格闘技の輝きは取り戻せないで今に至っている」と述べていますが、まったく同感です。わたしも自身も、PRIDEロスからまだ立ち直っていません。


「おわりに」で、著者は「今のプロレスラーは、一概にすべてのプロレスラーとはいい切れないが、とても軽い印象を受ける。みんな同じような動きで、そこにプロの深さを感じることができない。立ち技のオンパレードで地味な見えにくい寝技の攻防がカットされ、安易な表現方法で観客に媚びを売っているように見える。両者に摩擦感や、技を仕掛ける困難さがなく、プロの技術の攻防を見ることが少ない。大相撲や野球は、以前に比べれば様々な面で派手になり、大きく変わった部分もあるにはあるが、教護としてやっていることはほとんど変わっていない。サッカーなど様々なスポーツの台頭で、大相撲も野球も以前に比べれば人気が落ちたとはいえ、プロレスのように凋落はしていない」と述べています。


なぜ、大相撲や野球は凋落はしなかったのか? それは変わらない部分、変わってはいけない部分をしっかりと維持しているからだと指摘し、著者は「プロレスの凋落は、変わってはいけない部分、つまり、『強さ』を求める、格闘技として核心の部分が欠落したことにある。リングやレスラーのコスチューム、入場曲、会場の装飾など時代の流れの中で変わるべき点は大いに変わってもいい。しかし、リングの中で行われているプロレスリングの動きを大きく変えてしまったことにプロレスが凋落した一番の原因があるのではないか」と述べるのでした。これまた大いに共感するとともに、見事にプロレス凋落の理由を喝破した著者には深く敬意を表したいと思います。


このブログ記事の冒頭にも書いたように、昭和プロレスの本は読み尽くしていると自負しているわたしですが、本書に書かれているプロレス愛、プロレスというジャンルの定義、そして個々のプロレスラーへの評価など、いずれも類書にはない味わいと鋭さがありました。ここでは新日本プロレス・UWF・PREIDEを中心に紹介しましたが、ジャイアント馬場大木金太郎吉村道明上田馬之助ラッシャー木村などについての考察にも唸りました。本書を読んで、わたしは、今や古典ともいえる村松友視氏の名著『私、プロレスの味方です』を読んだとき以来の感動をおぼえました。欲を言えば、カバー表紙のイラストは、リングに向かう馬場ではなく、伝説の前田vsアンドレにしてほしかったです。最後に、プロレス界は、なんとか著者が言うように「強さ」を取り戻してほしいと思います。“燃える闘魂アントニオ猪木が健在なうちにプロレス界の再生を心より期待します!

 

わが心のプロレス

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2021年9月8日 一条真也

『プロレスレジェンドスター懺悔録』

プロレスレジェンドスター懺悔録

 

 一条真也です。
『プロレスレジェンドスター懺悔録』イラスト/原田久仁信・構成/大貫真之介(双葉社)を読みました。内容は、「週刊大衆」2019年5月20日号~21年2月8日号で連載していた「This is プロレス最強伝説」を加筆・修正したものです。イラストの原田氏は1951年生まれ。77年、「週刊少年サンデー」でデビュー。80年、梶原一騎原作『プロレススーパースター列伝』をスタートさせ、以後、梶原作品と深く関わります。『男の星座』『格闘技セカイオー』など代表作は多数。「日本一のプロレス絵師」と呼ばれています。構成の大貫氏は1975年生まれ。法政大学法学部を卒業後、編集プロダクション、出版社勤務を経てフリーライターに。お笑い芸人の単行本の構成のほか、複数の雑誌に芸能、カルチャー分野の記事を寄稿中だとか。

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には、原田氏が描いたプロレス史を飾る名場面のイラストが並び、帯には「全日本、新日本、U系まで総勢25名『伝説のレスラー』の咆哮!!」「★力道山、馬場、猪木・・・マット界創造主かく語りき」「★あの血風構想劇の真相」「★外国人レスラーおちゃめな素顔」「★海外武者修行」「★強かったレスラー実名・・・etc」「ファン待望の『プロレス正史』」「藤波辰爾×天龍源一郎 対談収録」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
プロローグ 原田久仁信
第1章◎闘魂のDNA
炎の飛龍 藤波辰爾
稲妻戦士 木村健悟
プロレスリング・マスター 武藤敬司
黒のカリスマ 蝶野正洋
ムービースター AKIRA
闘う愛の伝道師 馳浩
プロレスの教科書 大谷晋二郎
第2章◎王道の継承
極道鬼 グレート小鹿
東洋の神秘 ザ・グレート・カブキ
6時半の男 百田光雄
ド演歌ファイター 越中詩郎
デンジャラスK 川田利明
ダイナミックT 田上明
青春の握りこぶし 小橋建太
スターネス 秋山準
【Wドラゴンスペシャル対談】
藤波辰爾×天龍源一郎
ジャイアント馬場アントニオ猪木――素顔と伝説」
第3章◎Uの魂
関節技の鬼 藤原喜明
伝説の虎 佐山聡
格闘王 前田日明
カミソリシューター 山埼一夫
ハイブリッドレスラー 船木誠勝
プロレス王 鈴木みのる
ミスター200% 安生洋二
ミヤマ☆仮面 垣原賢人
IQレスラー 桜庭和志

 

「プロローグ」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「僕にとって、“プロレスの原体験”は力道山さんです。電気屋のテレビを観ながら、やられてもやられても最後には勝つ力道山さんの試合に興奮しました。あの笑顔の奥にある殺気に惹かれたんです。ある日の夜、旅館の支配人をやっている叔父が寝ている僕を揺り起こして、『力道山に会わせてやるぞ』と言うので、寝ぼけまなこでついていったんです。旅館に着くと本当に力道山さんがいて、あの笑顔で僕の頭をなでて、なぜか軍用の10ドル紙幣をもらいました。僕には父親がいないので、『こんな人が親父だったらよかったな』と思ったことを覚えてます」

 

原田氏の代表作はかの『プロレススーパースター列伝』ですが、世界のトップレスラーたちとともに、ジャイアント馬場アントニオ猪木初代タイガーマスクといった日本人レスラーを取り上げました。著者は、「『プロレススーパースター列伝』は打ち切りとなってしまいましたが、もし続いていたら次はジャンボ鶴田編をやる予定でした。梶原先生は『本気になったら鶴田が一番強い』と断言していたんです。『体の大きさ、運動神経、どれをとっても一級品。ただ、鶴田は本気にならないんだ』と嘆いてました」と述べています。


さらに原田氏は、「僕が最強だと思っていたのは猪木さんです。異種格闘技戦も経験してきた猪木さんは、『殺せる』心を持っているじゃないですか。そんなプロレスラーは強いですよ。佐山聡さんも『殺せる』レスラーだったと思うのですが、格闘技方面には行ってほしくなかった。真剣の斬り合いは好きじゃないんです。刀を忍ばせながら戦う、というのが僕にとって理想のプロレスなんです。だから、佐山さんが初代対外マスクとして復帰したときは、うれしかったですね」と述べるのでした。


本書に書かれている内容のほとんどは知っていましたが、それでも「おっ?」と思う箇所はいくつかありました。そして、それはジャイアント馬場アントニオ猪木のBI砲に関するエピソードが多かったです。「極道鬼 グレート小鹿」では、日本プロレスの新弟子時代に、先輩である猪木に練習を見てもらうことが多かったという小鹿は、「猪木さんとスパーリングすると、オーバーに言えば1秒間に3回ギブアップを奪われるんですよ。蛇が動物に絡みついて絞め殺すような強さがありましたね。“参った”しても“起きろ!”と言われて、何度も関節を取られてしまう。思わず涙が出てしまうんだけど、恥ずかしいからそのままシャワーを浴びに行って洗い流していました。そうこうするうちに、2分、3分は耐えられるようになるんですよ。猪木さんはとにかく練習が好き。日本プロレスの選手の中で、一番練習していたんじゃないかな。引退するまで練習が好きだったという話も聞いてます」と語っています。


「東洋の神秘 ザ・グレートカブキ」では、日本プロレスでは高千穂明久という若手選手であったカブキが、「当時日本プロレスの2大エースは、ジャイアント馬場アントニオ猪木だった。BI砲とタッグを組むこともあったカブキから見ると、2人はタイプの違うレスラーだったという。『猪木さんは動きが速い業師。ガチンコが強くて、スパーリングでもネチネチとしたレスリングをしてきましたね。馬場さんは自分の大きさを見せるのがうまい。客を観察しているから“馬場、頑張れ!”と思うタイミングで、強さを出せるんです。アメリカでの経験が大きかったんでしょうね。2人組んだときの僕の役割は、相手の外国人選手を強く見せることでした。最後にBI砲が、その外国人選手を料理すると、お客さんが沸くからね』」と語ります。


「青春の握りこぶし 小橋建太」では、90年代後半、全日本の四天王プロレスの激しい輪の中に馬場が入ることもあったとして、小橋は「“俺もやるときはやるんだ”という馬場さんのプライドを感じましたね。付き人をしている時代、こんなこともありました。僕がバーベルを使って鍛えていると、馬場さんは“そんなことをするな”と言うんです。アメリカ遠征時代、ジムで筋肉隆々の男同士がキスをしているところを見て、バーベル嫌いになったようで。その後も僕は器具を使ったトレーニングを続けていたのですが、ある日、馬場さんが“俺もやるからベンチプレスの重さを上げろ”と言うんです。プライドの高さといいモノは取り入れる柔軟性を感じました」と語っています。


スターネス 秋山準」では、馬場の指導は理論的であったとして、秋山は「力道山さんから教わったこととアメリカマットでの経験をミックスしたものが、馬場さん流のプロレスだったはずです。馬場さんからは関節技を極めるときのポイントも教わりました。足を出して“極めてみろ”と言うんですが、体が大きすぎてポイントが分からない。でも、やっていくうちに大きいレスラーでも小さいレスラーでも、共通する極め方がつかめるようになりました。ロープを背にしたときの位置も教わりました。ロープを持つんじゃなくて、胸を張って手を引っ掛ける。そうすると次の攻撃にスムーズに移れるんです。サードロープの高さがあるので、これも大きい選手じゃないと、できないんですけどね」と語っています。 


【Wドラゴンスペシャル対談】藤波辰爾×天龍源一郎ジャイアント馬場アントニオ猪木――素顔と伝説」では、1989年11月の札幌で天龍が婆からフォール勝ちしたことが紹介されます。それについて、天龍は「重たくてなかなか持ち上がらないんだけど、『これでも喰らえ』と、パワーボムを決めて、『返してくるだろうな』と思ったけど、そのままフォール勝ちしたんです。でも、『馬場さん、返せたんじゃいですか?』と戸惑いました。自分の会社のトップに勝つということは、“何かを押しつけられた気持ち”になるんですよ。『お前、分かっているんだろうな』とすべてを任された感覚になって、重荷に感じましたね」と言います。それを受けて、藤波は「僕が猪木さんからフォール勝ちしたときも、同じ気持ちでしたね。野球や相撲ならトップに立てることはうれしいと思いますが、僕は素直に喜べなかった。また、フォール勝ちしたときに猪木さんがニヤリと笑ったんですよね」と語っています。


1994年1月4日、天龍は猪木にもフォール勝ちしました。それについて、天龍は「猪木さんはもう引退が近いと思っていたんですが、いざリングに上がったらビシッと体を作っていたので、僕も一気に目が覚めました。試合中、ロープをつかんだとき、猪木さんから指を折り曲げられて脱臼したんですよ。指が変な方向に曲がっちゃって(笑)。自分で戻したんですけど、猪木さんの『ナメんなよ』というメッセージだったんだと」と言います。それを受けて、藤波は「猪木さんは、どんな状態でもコンディションを整えてきますよね。横浜文化体育館で、最後のシングルをやったとき(88年8月8日)もそう。44歳になってもスタミナが落ちてない猪木さんの恐ろしさを知りました。そのうち心地よさを感じて、結果的に時間切れ引き分けでしたが、『60分も猪木さんを独り占めできたんだ』と満足感がありましたね」と語ります。


「伝説の虎 佐山聡」では、猪木は根が“アスリート”で、プロレスを“ショー”と捉えていないことが指摘されます。“アスリート”としての強さが根底にあるのがプロレスが“ストロングスタイル”であるとした上で、それに加えて猪木は“すごみ”にこだわっていたとして、佐山は「木戸修さんは高い実力の持ち主ですが、穏やかな性格でしたので、何かが足りなかったと猪木会長は感じていたようで、“お前は街でケンカしてこい!”と怒ったんです。それくらいの“すごみ”を出せということでしょう。猪木会長の異種格闘技戦なんて“すごみ”があって当たり前の世界ですが、僕が驚いたのは、数年前に猪木酒場で観た猪木会長とヒロ・マツダさんの試。最初は“動きがない試合だな”と思っていたけど、気づくと見入ってしまう。猪木さんに“すごみ”があるから、緊張感が高い勝負しているように見えるんですよ」と語っています。


「ミヤマ☆仮面 垣原賢人」では、現在はガン闘病中の元U戦士の垣原が全日本に参戦した際の馬場の思い出を語っています。垣原は、「お亡くなりになる数か月前に初めて対戦させていただいたんですけど、馬場さんの強さに驚きました。お客さんの分からないところで痛みを与えてくる。いわゆるシュートテクニックを持っているんです。馬場さんの“シュートを超えたものがプロレス”という発言を、裏づけような動きでした」と語ります。彼はロサンゼルスで猪木とスパーリングしたこともあり、「猪木さんは“本気で首を締めてこい”と言うんですよ。UWFで関節技を習得してきた僕に対して、“俺は落ちないから全力でやってこい”と。僕が締め上げると、猪木さんは顔を真っ赤にしながら“それが全力なのか”と言ってくる。さらに力を入れたけど、猪木さんは落ちなかったんです。異種格闘技戦を含めて数々の選手と戦ってきた猪木さんは、対戦した瞬間に“自分を殺すまでいぇってくるような相手なのか”判断できるんですよ。猪木さんは、僕のことを“コイツは、かわいい子犬だな”と、すぐに見抜いたんでしょう。それが猪木さんのプロレスラーとしてのすごさだと思いました」と語っています。新生UWFでデビューしながら、馬場と猪木のプロレスを肌で味わった稀有なレスラーである垣原の発言は非常に興味深かったです。

 

 

2021年9月7日 一条真也

『グレート・ムタ伝』

グレート・ムタ伝


 一条真也です。
グレート・ムタ伝』武藤敬司著(辰巳出版)を読みました。本体の武藤敬司については ブログ『さよならムーンサルトプレス』で紹介した名著がありますが、別人格のグレート・ムタについて本体の武藤が書いたのが本書です。



著者は1962年12月23日、山梨県富士吉田市出身。身長188cm、体重110kg。1984年に新日本プロレスに入門。同年10月5日、越谷市立体育館での蝶野正洋戦でデビューした。2度目のアメリカ武者修行中、WCWでペイントレスラーの「グレート・ムタ」に変身して大ブレイク。凱旋帰国後、新日本プロレスのトップ選手として数々のタイトルを獲得。2002年に全日本プロレスに移籍し、代表取締役社長に就任。その後、WRESTLE-1を経て、現在はプロレスリング・ノア所属。

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には、顔を赤くメイクしたグレート・ムタの写真が使われ、帯には「代理人武藤敬司が“悪の化身”のすべてを独白」「グレート・ムタほど使い勝手のいいレスラーは他にいないよ」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「グレート・ムタ、35年の毒々しき歴史を読む――。」として、「フロリダでホワイト・忍者が誕生/カリブ海に現れたスーパー・ブラック・ニンジャ/WCWでザ・グレート・カブキの息子が大ブレイク/“悪の化身”が血の海で馳浩を担架葬/WWF世界王者ハルク・ホーガンとのドリームマッチ/引退カウントダウンでアントニオ猪木を蹂躙/卒塔婆に『死』の血文字・・・戦慄の新崎人生戦/一大ムーブメントを巻き起こしたnWoジャパン加入期/“偽者”グレート・ニタとの有刺鉄線電流地雷爆破マッチ/武藤敬司と共に全日本プロレスへ電撃移籍/「ファンタジーファイト」でボブ・サップと激突/ハッスルでインリン様股間に毒霧を噴射/“髙田総統の化身”エスペランサー・ザ・グレートと対峙/DDTのリングで放ったラスト・ムーンサルトプレス/コロナ禍でプロレスリング・ノア無観客試合に降臨」と書かれています。

 

アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「日本マット界を代表するトップレスラー武藤敬司が遂に『“悪の化身"グレート・ムタ』の伝記を代筆! ムタ誕生前夜の海外武者修行時代(フロリダ地区、プエルトリコ、ダラス地区)に始まり、大ブレイクしたWCW時代、そして新日本プロレス全日本プロレス、ハッスル、WRESTLE-1、プロレスリング・ノアに至るまで35年に及ぶ歴史が一冊の書籍になった。国内外のリングで数々の大物レスラーと対峙した時、武藤敬司グレート・ムタは何を考えていたのか? 稀代の天才レスラーがプロレスの本質も説き明かすファン必読の一冊!!」

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
イントロダクション
武藤敬司」と「グレート・ムタ
Chapter1
CWF~WWC~WCCW~WCW ERA
Chapter2
NEW JAPAN PRO-WRESTLING ERA Part-1
Chapter3
NEW JAPAN PRO-WRESTLING ERA Part-2
Chapter4
ALL JAPAN PRO-WRESTLING ERA
Chapter5
WRESTLING-1~PRO-WRESTLING NOAH ERA


Chapter1「CWF~WWC~WCCW~WCW ERA」では、初のアメリカ修行でフロリダにいた頃のことが紹介され、著者は「フロリダにいた時期、やっぱり俺は新日本プロレス育ちだなと実感したのは、サーキットをしながら練習を欠かさなかったところだね。もちろん、他のレスラーもジムでウェイトトレーニングをやったりするんだけど、俺は対人の練習もしておかないと若干ながら不安もあったんだ。だから、タンバにあった柔道場によく通っていたよ。その道場には、あのアントニオ猪木さんと異種格闘技戦を戦った五輪金メダリストのウィリアム・ルスカも来たことがあるらしい。誰かが『ルスカは強かった』なんて言っていたからさ。かといって、レベルが高いわけじゃないんだけどね。道場の中では、俺が一番強かったよ」と述べています。


フロリダでは著者は「ホワイト・ニンジャ」のリングネームでベビーフェイスを務めましたが、ある日、ベビーフェイスのトップだったワフー・マクダニエルを裏切ったことが転機となります。ヒールのトップは「ケンドー・ナガサキ」こと桜田一男でしたが、著者は桜田とワフーの試合に乱入し、最初は桜田を殴るふりをして、いきなりワフーをぶん殴ったのです。著者は、「そうしたら、客が物凄くヒートしたよ。俺を目掛けて、いろんなものをリングに投げ込んできたからね。ジャップがどうのこうのって汚い言葉も飛び交うし、日本では味わえない空気が客席に溢れていたよ。その時に感じたエクスタシーは、凄く新鮮だった。客を手のひらに乗せている優越感というか、高揚感が体の中に押し寄せてきたよ。これはプロレスに限ったことではないかもしれないけど、アメリカは大統領選挙だって、それくらいの熱を持ってのめり込む人たちがいるよな。そんな熱を一身に浴びた感覚があった」と回想します。


また、新日本プロレスについては、著者は「俺が他の世代のレスラーよりも恵まれていたと思うのは、新弟子として新日本に入った途端に、うるさい先輩方がみんないなくなった。たぶん、それまではトレーニングなんかも基礎体力の練習とガチンコのスパーリングばっかりだったと思うよ。試合でも派手な技なんかやろうものなら、すぎに怒られていたよね。でも、先輩たちがごっそりいなくなったから、俺の1年先輩で当時は素顔だった獣神サンダー・ライガーが先頭に立って派手な技をやり出したんだ。ライガーは体が小さかったし、とにかく派手な技で魅せなきゃ生き残れないとでも思ったんだろうね。その後、他の若い連中もいろんなことをやり始めた。しかも、現場を仕切っていた坂口さんも特に口うるさく言わなかったから、やりたい放題だったよ」と述べています。


新日本プロレスの総帥だったアントニオ猪木については、著者は以下のように述べています。
「プロレスって、いつも同じ環境でやれるわけじゃないからね。様々な環境の中で、いかにそこに順応するかがレスラーとしての器量が問われるところなんだ。こういった『TPOを考えるプロレス』で優れていたのが猪木さんだったりするんだろうね。昔、よく異種格闘技戦をやっていたけど、相手の器量がどれだけあるかわからない中での試合も多かったと思うよ。そこにきっちり順応して、客が納得する試合を見せていたんだから、やっぱりさすがとしか言いようがないよな。そういう意味では、ムタも毒霧というものをよく使いこなしてきたよ。プロレスが誕生してから余裕で100年以上経っているだろうけど、この毒霧に勝る凶器はないと思う」

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入場する猪木を迎えるムタ 

 

1994年5月1日、福岡ドームで、ムタは引退ロードに入った猪木と試合します。著者は、「猪木さんは、もうキャラクターが完璧に出来上がっている人だからさ。出てくるだけで、会場の雰囲気も出来上がってしまうよ。そういう意味でも福岡ドームでのファイナル・カウントダウンでは入場から、いい絵ができたと思う。猪木さんが入場してくると、先にリングインしていたムタがロープを上げて、長い間にらみ合いになった。入場曲も止まって、緊迫感のある、いいシーンになったよ。この試合は、もう入場の時点で摑みはOKだった。場内がシーンと静まり返って、『静の試合』になってね。この入場時のムタと猪木さんで作った間って、長州さんとは絶対にできないからさ。ムタと猪木さんによる『競技っぽくない間』だよな。長州さんはゴングが鳴ったら、すぐに相手を詰めにかかるからね。これはそんな人には絶対できない間だよ」と述べています。


Chapter3「NEW JAPAN PRO-WRESTLING ERA Part-2」では、ムタの新日本時代の試合運びを振り返って、著者は「よく当時はムタにしても俺にしても、花道でのランニングラリアットというのをやっていたよおな。今考えると、バカなことをしていたなと思うよ。だって、あれは自分が疲れるだけだからね。でも、ドームという広い空間で試合する場合は、こういった動きをすると会場が盛り上がる。だから、バカみたいに花道を走ってたんだよ。こういうことをフィニッシュホールドでやっていたのが、たぶん猪木さんだよ。聞いたところによると、猪木さんは昔、大きな試合のフィニッシュホールドをいつも変えていたらしいからね。試合で印象的な絵を残そうという考えは、やっぱり猪木イズムなんだろうな。それに猪木さんのフィニッシュホールドの延髄切りや卍固め、スリーパーホールドにしたって、俺から言わせればファンタジーな世界だよ。そこはムタの毒霧と変わらないと思う」

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猪木に毒霧を吹きかけるムタ 

 

本書のChapter4以降は、新日本プロレスを離脱してからの出来事が書いてありますが、昭和の新日本プロレスを愛してやまないわたしには興味がありません。新日本は「ストロングスタイル」を標榜し、総帥の猪木をはじめ、藤波、長州、藤原、佐山、前田、髙田、船木、山田、橋本といった弟子たちは「強さ」を追求しました。グレイシー柔術の登場で総合格闘技がブームになったとき、猪木は新日本に格闘技路線を要求しますが、それに反抗して全日本プロレスに移籍したのが本書の著者である武藤敬司でした。しかし、アントニオ猪木という希代のレスラーはストロングスタイルの象徴であるとともに、ショーマンスタイルの達人でもあったのです。武藤は猪木のストロングスタイルの継承者ではありませんでしたが、ムタは猪木のショーマンスタイルの継承者である。本書を読んで、わたしは改めてそのことに気づきました。

 

 

2021年9月6日 一条真也

魂のエコロジー

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一条真也です。
わたしは、これまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は、「魂のエコロジー」という言葉を取り上げることにします。

唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)

 

拙著『唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館・サンガ文庫)にも書きましたが、現代文明は、その存在理由を全体的に問われていると言えるでしょう。近代の産業文明は、科学主義、資本主義、人間中心主義によって、生命すら人為的操作の対象にしてしまいました。そこで切り捨てられてきたのは、人間は自然の一部であるというエコロジカルな感覚であり、人間は宇宙の一部であるというコスモロジカルな感覚です。そこで重要になるのが、死者と生者との関わり合いの問題です。日本には祖霊崇拝のような「死者との共生」という強い文化的伝統がありますが、どんな民族にも「死者との共生」や「死者との共闘」という意識が根底にあると言えます。

 

 

20世紀の文豪アーサー・C・クラークは、『2001年宇宙の旅』の冒頭に、「今この世にいる人間ひとりの背後には、20人の幽霊が立っている。それが生者に対する死者の割合である。時のあけぼの以来、およそ1000億の人間が、地球上に足跡を印した」と書いています。わたしは、この数字が正しいかどうか知りませんし、また知りたいとも思いません。重要なのは、わたしたちのまわりには数多くの死者たちが存在し、わたしたちは死者たちに支えられて生きているという事実です。多くの人々が孤独な死を迎えている今日、動植物などの他の生命はもちろん、死者たちをも含めた大きな深いエコロジー、いわば「魂のエコロジー」のなかで生と死を考えていかなければなりません。なお、この「魂のエコロジー」という言葉は、『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(国書刊行会)で初めて登場しました。

ロマンティック・デス』(国書刊行会

 

2021年9月5日 一条真也

死を乗り越えるゲーテの言葉

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年をとるということが既に、
新しい仕事につくことなのだ。
すべての事情は変わって行く。
我々は活動することを全然やめるか、
進んで自覚をもって、
新しい役割を引き受けるか、
どちらかを選ぶほかない。(ゲーテ

 

 一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。今回の名言は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749年~1832年)の言葉。彼は、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)政治家、法律家です。代表作は『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』『ヘルマンとドロテーア』『ファウスト』など。



いま、日本では人生100年時代を迎えています。65歳で定年を迎えても、まだ30年以上の時間があります。年を取ってからできることが必ずあるはずです。それを自覚して進んでいくのか。そんなことをこのゲーテの言葉は教えてくれます。そして、「老い」の先には「死」があります。人類の歴史の中で、ゲーテほど多くのことについて語り、またそれが後世に遺されている人間はいないとされているそうです。彼は年をとるとともに「死」や「死後の世界」を意識し、霊魂不滅の考えを語るようになりました。

 

 

ゲーテとの対話』では、著者のエッカーマンに対して、「私にとって、霊魂不滅の信念は、活動という概念から生まれてくる。なぜなら、私が人生の終焉まで休みなく活動し、私の現在の精神がもはやこたえられないときは、自然は私に別の存在の形式を与えてくれるはずだから」(木原武一訳)と語っています。このゲーテの言葉を知ったわたしは、読書した本から得た知識や感動は、死後も存続するのではないかと本気で思っています。なお、このゲーテの言葉は『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)に掲載されています。

 

 

2021年9月5日 一条真也

「モンタナの目撃者」 

一条真也です。
テレビ各局のニュース番組が「菅首相、退陣へ」と一斉に報道した3日の夜、その日から公開の映画「モンタナの目撃者」をシネプレックス小倉で観ました。フライデー・ナイトといえば、以前は必ず夜の街に出陣していましたが、最近はもっぱら映画鑑賞です。久々に映画館のスクリーンでアンジェリーナ・ジョリーの姿を見ましたが、「子どもを守る」という彼女の信条を示すような作品でした。

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
アンジェリーナ・ジョリーが主演を務めたサバイバルスリラー。殺人現場を目撃し命を狙われる少年を保護した森林消防隊員が、少年を守るため奮闘する。監督・脚本は『ウインド・リバー』などのテイラー・シェリダン。共演には『トールキン 旅のはじまり』などのニコラス・ホルト、ドラマ『タイドランド』などのフィン・リトル、ドラマシリーズ『プロジェクト・ブルーブック』などのエイダン・ギレンシェリダン監督作『ウインド・リバー』などのジョン・バーンサルらがそろう」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、「過去の体験からトラウマを抱える森林消防隊員ハンナ(アンジェリーナ・ジョリー)は、ある日異様な様子の少年コナー(フィン・リトル)と出会う。彼は父親が殺害される現場に遭遇したため暗殺者たちから追われており、父が命懸けで守り抜いた秘密を知る唯一の生存者だった。ハンナは彼を守ることを決意するも、コナーの命を狙う暗殺者たちの追跡に加えて、大規模な山火事が発生し二人は逃げ場を失う」です。

 

最近はどんな映画を観てもグリーフケア映画であることに気づくのですが、この「モンタナの目撃者」も例外ではありませんでした。主人公のハンナは深いグリーフを抱えながら生きています。かつて、森林消防隊員であった彼女は山火事のときに風の流れを読み間違えて、少年たちの命を救えませんでした。そのことで彼女は自分を責め続けているのです。そんな彼女のもとに命を狙われている少年コナーが現れ、しかも再び山火事が発生します。「今度こそは、この子の命を助けたい」と願った彼女の行動は、そのまま過去の過ちに向き合うグリーフケアとなるのでした。

 

この映画はモンタナの雄大な自然が舞台ですが、ブログ「すべてが変わった日」で紹介した1週間前に観た映画もモンタナが舞台でした。1963年、元保安官のジョージ(ケヴィン・コスナー)とマーガレット(ダイアン・レイン)夫妻は、モンタナ州の牧場での落馬事故で息子ジェームズを亡くし、深い悲しみを経験します。そう、この「すべてが変わった日」もグリーフケア映画でした。あと、両作品ともに馬が登場します。モンタナ州アメリカ北西部に位置し、コロナ前は毎年多くの観光客がグレイシャー国立公園、リトルビッグホーン戦場跡国定保護区、およびイエローストーン国立公園を訪れていました。

 

そのモンタナの大森林に大規模な山火事が発生します。山火事をリアルに描いた映画といえば、2017年のアメリカ映画「オンリー・ザ・ブレイブ」を思い出しました。「オブリビオン」のジョセフ・コジンスキー監督が、森林消防士たちの実話をもとに映画化した人間ドラマです。学生寮で堕落した日々を送っていた青年ブレンダン(マイルズ・テラー)は、恋人の妊娠をきっかけに生き方を改めることを決意し、地元の森林消防団に入隊します。地獄のような訓練に耐えながら、ブレンダンはチームを率いるマーシュ(ジョシュ・ブローリン)や仲間たちとの絆を深め、彼らに支えられながら少しずつ成長していきます。そんなある日、山を丸ごと飲み込むかのような大規模な山火事が発生するのでした。

 

「モンタナの目撃者」に話を戻します。前に子どもたちの命を救えなかった苦い思い出のあるハンナは、暗殺者たちから追われているコナーと出会い、なんとか彼の命を救うばく全力で挑みます。その子どもを必死で守るハンナの姿は、彼女を演じたアンジェリーナ・ジョリーの生き様と重なりました。彼女は、2000年の映画「トゥームレイダー」の撮影で、ロケ地のカンボジアを訪れたことをきっかけに、人道問題に興味を持ちます。撮影が終わってからは人道支援の現場に赴き、国際的支援を精力的に訴え、本格的に慈善活動を始めました。慈善活動の一環として、2002年3月にカンボジア人の男児、2005年7月にエチオピア人の女児、2007年3月にベトナム人男児をそれぞれ養子として引き取っています。

 

2006年5月、ナミビアで俳優ブラッド・ピットとの間の実娘を出産。2008年7月、フランス南部のニースで男児と女児の双子を出産。その後、実子たちの初公開写真の掲載権を米「ピープル」誌や英「ハロー」誌と高額で契約し、慈善事業へ契約金を寄付ししました。2014年4月、ジョリーとピットが交際7年目にして正式に婚約したことをピットの代理人が明らかにしました。2013年、人道支援活動を通じた映画界への貢献を讃えられ、アカデミー賞ジーン・ハーショルト友愛賞を同賞史上最年少で受賞。2014年、英国政府が「名誉デイム」の授与を決定。同年10月、エリザベス女王に夫ピットや子供たちとともに謁見し、称号を授与されています。しかしながら、「ハリウッドで最もパワフルなカップル」とまで呼ばれたピットと2016年に離婚しました。

 

ブラッド・ピットといえば、ブログ「マリアンヌ」で紹介した2017年の主演映画があります。第2次世界大戦下を舞台に、ある極秘任務を通じて出会った男女が愛し合うものの、過酷な運命に翻弄されるさまを描いたラブストーリーです。ブラピふんする諜報員と惹かれ合うヒロインをオスカー女優マリオン・コティヤールが演じました。この映画には、「たとえ自分の命が失われるとしても、愛する我が子を託することのできる相手を得たことは幸福な人生であった」と思わせる場面があるのですが、わたしはそれを観たとき、『論語』の「託孤寄命章(たっこきめいのしょう)」を連想しました。

 

 

論語』の「託孤寄命章」とは何か?
孔子は、君子とは何よりも他人から信用される人であると述べました。信用とは全人格的なものです。『論語』「泰伯」篇には、以下のような一文があります。「曾子曰く、以て六尺(りくせき)の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべく、大節に臨みて奪うべからざるや、君子人か、君子人なり」 意味は、「曾子が言った。孤児を託すことのできる者、百里四方ぐらいの一国の運命を任せうる人、危急存亡のときに心を動かさず節を失わない人、そういう人が君子人であろうか、君子人である」。これが、有名な「託孤寄命章」と呼ばれる一章です。確かに、幼い子どもを誰かに託して世を去っていかねばならないとき、これを託すことができるのは最も信頼できる人物だというのは事実です。ということは、自分はそのとき誰を選ぶだろうと考えてみれば、真に信頼できる人が誰かがわかります。

 

この人は、自分が一人子を置いてこの世を去っていくとき、その子を託せる人だろうか。常にこれを念頭に置けば、いずれの社会であれ、人に裏切られることはない。これが、孔子のメッセージであると思います。そして、「マリアンヌ」で感じた孔子のメッセージを、わたしは「モンタナの目撃者」でも感じたのです。「託孤寄命章」は、「人間にとって究極の信用とは何か」を説くものですが、最初にハンスに出会ったとき、コナーは「パパは『信用できる相手としか話すな』と言った。あなたは信用できる?」と問います。それに対して、ハンナは真顔で「完全に信用できるわ」と言うのでした。離婚したとはいえ、一時は夫婦だったブラピとアンジーがともに孔子のメッセージに通じるシーンを演じることに、わたしは彼らの深い縁を感じました。

 

「モンタナの目撃者」は、サバイバル・ドラマでもあります。コナーと父親が暗殺者たちに道路で襲撃されたとき、死ぬ直前に父は「逃げろ。小川は川に通じるし、川は町に通じる」と言い残します。その言葉に従って、コナーは逃げたわけですが、この「小川は川に通じるし、川は町に通じる」というファクトを知っているのと、知っていないのとでは大違いです。わたしは、ブログ『サメに襲われたら鼻の頭を叩け』で紹介した本を連想しました。「最悪の状況を乗り切る100の解決策」というサブタイトルがついたサバイバル・ガイドブックで、「こんなに現実の世界で役に立つ本はない」と思える内容です。

 

 

『サメに襲われたら鼻の頭を叩け』には、「スカイダイビングでパラシュートが開かない」「遊泳中、足がつって溺れそうだ」「駅のホームから転落した」「走行中、急に車のブレーキが効かなくなった」「乗った飛行機が今にも墜落しそうだ」などの具体的なシチュエーションとその対処法が書かれています。人間生きていると、さまざまな危機に遭遇します。予期せぬトラブルに襲われたとき、果たしてどう対応するのは切実な問題です。同書は、我々が直面してもおかしくない100のシチュエーションと、そこを乗り切るための術とヒントを解説した1冊です。どんな絶望的な状況でも、決してあきらめてはいけません。わたしは、本書の「駅のホームから線路に転落したら」という項目を読んで、「線路脇の『退避スペース』に転がれ」ということを知りました。今までは「退避スペース」などというものの存在自体を知らなかったのですが、もう、これからは駅のホームから線路に落ちることなど怖くありません。「知識」は必ず「ピンチ」を救うのです!


2021年9月4日 一条真也