カズレーザーに共感!

一条真也です。
東京五輪開会式で楽曲を担当するチームの一員に任命されたミュージシャン小山田圭吾氏の過去の「いじめ自慢」発言が多方面から問題視されています。ブログ「『高い倫理観』について」でわたしの見解は示しましたが、芸能人などがこの問題にコメントしてネットは祭り状態になっています。その中で、タレントのカズレーザーメイプル超合金)のコメントには唸りました。

f:id:shins2m:20210718172925j:plainヤフーニュースより

 

18日放送のTBS系「サンデー・ジャポン」(日曜・午前9時54分)で、小山田問題について報じましたが、カズレーザーは、組織委が小山田の続投を明言したことに「再挑戦が出来るという社会が望ましいというのは前提であるんですけど」と前置きした上で、「この方のことを結構調べたら、いじめのことは多く出てくるんですけど、それ以外の例えばいじめを悔いているので今は反省、償いのためにこういう活動をしていますという情報はあまり見つからなかった」とその後に反省の言葉や行動が見られなかったと指摘しました。非常に的確な指摘ですね。

 

続けて、カズレーザーは「再チャレンジというのは過去のマイナスを埋め合わせ、プラスマイナスをゼロにすることを認めるということなので。批判と擁護の声で批判の声が大きというのは、プラスマイナスのマイナスの埋め合わせをしていなかったことなので、これは再チャレンジとかじゃなくて批判されて当たり前の自業自得の話だと思う」と話し、「もっとちゃんと過去のことを悔いて。そのために、こんなことをしていますというのはやっていると思うんですけど、それをアピールして。それを納得すれば丸川さんもフォローすることも出来るし。それをしないで批判されるのは当たり前のことですよ。過去が叩かれているわけじゃないです」と反省の行動が見られないのは残念と述べましたが、わたしは思わず膝を叩きました。


そして、カズレーザーは「(償いを)やっているのだとすれば、もっとこういうことをしていましたとアピールすべきだと思う。だから辞任せずに責任ある職務を全うしますと言うべきだと思う。それが言えないんだとしたら、それが疑われても仕方がないんじゃないかと思います」と語りました。わたしは、彼のコメントに「うーん」と唸りました。深くて、重いです。「過去が叩かれているわけじゃないです」というのは、まったくその通り! わたしは、カズレーザーのコメントに強く共感しました。

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ヤフーニュースより

 

これに比べれば、小山田氏への批判記事に対して、「じゃあ、清廉潔白な人っていますか?って思っちゃう」と発言したEXIT・りんたろーのコメントは浅くて、軽いですね。彼は「そこから歩んできた27年とか40年の、この人の歩んできた道とか、後悔とか、成長とか、変化とかを全部なしにして、この行為だけをクローズアップして・・・。今を見ずに、過去の彼に対して石を投げるっていうのが正しいのかっていう疑問はありますね」と、「ABEMA Prime」で持論を述べましたが、その「今」が問題なのだということがわかっていない!


そして、りんたろーは「清廉潔白な人っていますか?」と言うけれども、それは程度の問題ではないですか! そりゃあ誰だって、意識する・意識しないに関わらず、いじめに加担した経験ぐらいあるとは思います。しかし、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」をも連想させるような犯罪レベルのいじめを経験した人は少ないですよ。EXITといえば、りんたろーの相方である兼近は森会長のセクハラ発言のときに森会長を擁護していましたが、つねに五輪開催を支持するのは所属の吉本興行の意向でしょうか?

f:id:shins2m:20210718173854j:plainヤフーニュースより 

 

小山田問題は、海外でも有力紙が報じています。小山田氏のいじめの内容があまりにも酷くて、日本のテレビなどでは詳しい紹介を自粛していますが、海外メディアはストレートに記載しています。英有力紙ガーディアン(電子版)は、「東京2020作曲家が、障害のあるクラスメートへのいじめについて謝罪」と題して、詳細に報道しました。また五輪組織委員会では、「Pig」問題など、差別的な問題で幹部が立て続けに辞任したとも伝えています。英デイリー・テレグラフ(電子版)も、「東京オリンピックの主催者は、小山田圭吾精神障害の同級生を虐待していると述べたインタビューが再浮上したにもかかわらず、開会式の作曲家として継続することを喜んでいると主張している」と、「Happy」のワードを使って、五輪組織委の姿勢を伝えています。小山田氏の起用が五輪組織委員会の意向となれば、国際社会での日本のイメージダウンは避けられないでしょう。

f:id:shins2m:20210718173744j:plainヤフーニュースより 

 

そんな中、18日、音楽雑誌「ロッキング・オン・ジャパン」を刊行するロッキング・オン社が公式サイトで、編集長名義で声明を発表しました。当該インタビューで編集長自身がインタビュアーを務めていたことを明かし、「そこでのインタビュアーとしての姿勢、それを掲載した編集長としての判断、その全ては、いじめという問題に対しての倫理観や真摯さに欠ける間違った行為であると思います。27年前の記事ですが、それはいつまでも読まれ続けるものであり、掲載責任者としての責任は、これからも問われ続け、それを引き受け続けなければならないものと考えています」と綴っています。続けて、「傷つけてしまった被害者の方およびご家族の皆様、記事を目にされて不快な思いをされた方々に深くお詫び申し上げます」と謝罪し、「犯した過ちを今一度深く反省し、二度とこうした間違った判断を繰り返すことなく、健全なメディア活動を目指し努力して参ります」と記し、「ロッキング・オン・ジャパン編集長 山崎洋一郎」と締めくくっています。さあ、「クイック・ジャパン」の太田出版はどうする? 


東京五輪の開会式まで、あと5日。この問題が、ただでさえ祝祭ムード・ゼロの東京五輪の開会式に大きなケチをつけたことは事実ですね。東京五輪を強行開催しようとしている人々も愚かな人選を恨んでいることでしょう。開会式の演出を担当した大手広告代理店の責任はあまりにも大きいと言えますね。最後に、わたしは、障がい者に対して犯罪まがいのいじめを行った人物が作曲した音楽を、東京五輪の開会式で天皇陛下に聴いていただきたくないです。

 

2021年7月18日 一条真也

『『論語』と孔子の生涯』

『論語』と孔子の生涯 (中公叢書)

 

一条真也です。
『『論語』と孔子の生涯』影山輝國著(中央公論社)を読みました。2016年3月に刊行された本です。著者は1949年東京生まれ。東京外国語大学国語学部中国語学科、東京大学文学部中国哲学専修課程卒業。東京大学大学院人文科学研究科中国哲学専門課程修士課程・同博士課程、東京大学助手を経て、実践女子大学文学部教授。専門は中国古代思想。

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本書の帯

 

本書の帯には、「論語の解釈は一通りではない! 様々な読み方を通して知る、人間の英知の奥深さ」と書かれています。帯の裏には、「『論語義疏』にはこうした興味深い解釈や説話が書かれている。そして、『論語義疏』は室町時代朱子の新注が入ってくるまで、日本における古注『論語』の最も標準的な解釈を提供していたのである。本書では、貴重な注釈書でありながら、一般にはあまり知られてない『論語義疏』の解釈を交えながら、『論語』と孔子の生涯について述べていこう」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

さらにカバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
六朝時代、梁の皇侃が著した『論語義疏』は、中国では十二世紀の終わりごろに散逸してしまったが、日本に伝来し大切に保存されてきた。江戸時代に出版され、中国に逆輸入されると、彼の地の学者を驚かせたという数奇な運命をもっている。『論語義疏』は皇侃の時代までに蓄積された『論語』解釈をめぐる様々な説や、興味深い説話の宝庫である。本書では『論語義疏』を手がかりに『古典の中の古典』の豊かな内実を解き明かし、あわせて孔子の生涯を丁寧にたどってゆく。孔子とその弟子たちの生き生きとした言行録を味読するための画期的な入門書」

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
第Ⅰ部 『論語』の世界
第一章 『論語』はどのような書物か
  1 『論語』という名称
  2 編纂者は誰か
  3 三つの『論語』とその注釈書
第二章 『論語義疏』の話
  1 皇侃と皇侃
  2 日本に残った皇侃
  3 根本武夷と『論語義疏』の出版
  4 『四庫全書』に入れられた『論語義疏』
第Ⅱ部 孔子の生涯
第三章 遊歴以前
  1 生い立ち
  2 青年時代から壮年時代へ
  3 政治外交の表舞台に立つ
第四章 孔子の三大弟子
  1 顔淵
  2 子貢
  3 子路
第五章 諸国遊歴と魯への帰国
  1 遊歴の十三年間
  2 李康子の問い
第六章 古典の整理と孔子の死
  1 『詩』
  2 『書』
  3 『礼』
  4 『楽』
  5 『易』
  6 『春秋』
  7 孔子の死
「あとがき」
「読書案内」

 

 

「はじめに」の「中国に逆輸入された『論語義疏』」では、国宝級の『論語』注釈書として『論語義疏(ろんごぎそ)』が紹介され、「『論語義疏』は六朝梁(502~557)時代、皇侃(488~545)という学者が書いた『論語』の注釈書で、『義疏』とは経典(『論語』でいえば、その本文)や、その注(『論語』でいえば、何晏らの『論語集解』)の意味を分かりやすく解説した書のことである。六朝時代は、仏典や儒教経典で多くの義疏が作られた。『論語義疏』は何晏らの古注の基礎の上に、さらに解釈を発展させたものなのである。この本は中国でもずいぶん読まれたのであるが、12世紀終わりごろ南宋の時代に、中国では亡逸してしまい、以後、誰も読むことができなくなってしまった。ところが、この書物は日本に伝わり、大切に保存されてきたのである。これが江戸時代に出版されて中国に逆輸入され、彼の地の学者をアッと驚かせたという数奇な運命をもっている。儒教の経典で、六朝時代の注釈が完全な形で残っているのは『論語義疏』だけであり、この書は皇侃の時代までに蓄積された『論語』解釈の宝庫なのである」と書かれています。

 

 

本書は、この『論語義疏』について書かれた内容がほとんどですが、『論語』への理解を深める平易なコラムも20本収録されています。コラム3「『いわく』か『のたまわく』か?」では、「曰」の読み方について詳しく説明されています。現在の高等学校の漢文の教科書を見ると、どの出版社の名のも「曰」はすべて「いわく」と読んでいますが、著者は「四民平等でまことに結構なことだと思うが、江戸時代以前には誰の発言かによって『曰』を読み分けていた。明治時代以降、現在にいたるまで、その伝統に従った読み方をしている本も刊行されている。どのように読み分けるかというと、聖人の発言は敬意を表して『いわく』ではなく、『のたまわく』と読むのです。聖人とは堯、舜、夏の禹王、殷の湯王、周の文王と武王と周公旦、それにもちろん孔子である」と述べています。

 

このうち発言があるのは、孔子の他には、堯(堯曰篇・第一章)、湯王(堯曰篇・第一章)、武王(泰伯篇・第二十章)、周公旦(微子篇・第十章)であり、彼らが発言するときは、「子日」を「しのたまわく」と読むように、みな「のたまわく」と読んだといいます。著者は、「さらに遡ると、『子曰』は『しののたまわく』と、格助詞『の』をつけて読まれていた。『堯曰』は『ぎょうののたまわく』、『武王曰』は『ぶおうののたまわく』であった。そして、そのほかの人の発言には、『顏淵曰』を『がんえんがいわく』、『子貢曰』を『しこうがいわく』のように、格助詞『が』を付けて読んだのである。『の』方が『が』よりも敬意が強かったのだ」と述べます。この説明は非常にわかりやすく、わたし自身も勉強になりました。

 

コラム5「『己に如かざる者を友とすること無かれ』――これで友達ができる?」では、著者の高校時代に数学のよくできるクラスメイトがいたことが紹介されます。漢文の授業で『論語』のこの章を学んだとき、彼は手を挙げて教師に質問しました。その問いは、「自分より劣った者を友人とするなという原則なら、交友関係は成り立たない。なぜなら自分が友人になってもらいたいと思う優れた人は、劣っている自分などを友人にはしてくれないからである」というものでした。答えに窮した教師をしり目に、彼は得意の論理的思考で、「もしこの条件で、交友関係が成り立つとすれば、たった1つの場合が考えられる。それは同等の人間同士においてのみ可能なはずである。同等ならば、相手は確かに自分より劣ってはいないからである」と述べました。著者は、「彼の明晰な論理に、われわれ生徒一同は『さすが!』と拍手喝采を送った」と書いています。

 

著者は、教師がそこで何と説明したのか全く記憶にないし、こんなことがあったことすら、とうに忘れてしまっていたそうですが、『論語義疏』を読んだ際、このクラスメイトの意見と全く同じことが書かれていたので、驚くと同時に、高校時代の友の顔がまざまざと脳裡によみがえったとして、著者は「いまから1500年も前に書かれた『論語義疏』でも、すでに孔子の言葉の矛盾をどう解釈すべきか問題になっていたのである。1つの解釈は、私のクラスメイトと全く同じものであった。すなわち同等な人間同士だけが友人になるというものだ。しかし、孔子の言葉を素直に読めば、自分を向上させるために優れた友を択べというほどの意味にとるのが普通であろう」と述べます。

 

それでは、『論語義疏』に書かれている古代人の説とはどのようなものか。1つの説は、この言葉の前に「忠信を主として」とあることに着目するものです。孔子のこの言葉は忠(まごころ)や信(信義)の徳が大切であって、それが自分に及ばないものは友とするな、という意味であり、ほかの才能のことは論じていないととるのです。著者は、「なるほど、こう解釈すれば、『忠信』さえ優れていれば、ほかの才能では自分に劣っている者でも友とすることができる」と述べています。

 

論語義疏』にはもう1つ、別解が書かれています。それは晋の蔡謨(281~356)という人の説で、彼は「友」の字義に着目します。「友」とはもともと「志を同じくする者」という意味です。古来「朋友」なる語には、「師を同じくするものを朋といい、志を同じくするものを友という」という区別がありましたが、『論語』ではこれが使い分けられています。例えば、学而篇の「朋遠方より来る有り、亦楽しからずや」という場合の「朋」は、同じ先生についた「とも」なのです。著者は、「問題の箇所は『友』だから、『同志のとも』のことを指す。『己に如かざる者を友とすること無かれ』というのは、正しい道を行おうとする志が自分と同等、あるいはそれ以上ならば、相手が仮にさまざまな面で劣っていようと友とすることができると解するのである」と述べるのでした。

 

コラム8「『中人』とは?――9ランクに分かれる人間」では、『論語』雍也篇にある「中人以上には、以て上を語るべし。中人以下には以て上を語るべからず」という言葉を取り上げ、「中人」について考察します。著者は、「人間は大きく分けると、上、中、下の3ランクに分けられる。『中人』とは中のランクにあたる人のことだ。ランクという言葉を、古代中国語では『品』という。すなわち人間は上品、中品、下品の3つに分けられるのだ。これが日本に伝わり、今でも『上品な女性だ』とか『下品な奴だ』とかというのである」と説明します。

 

さらに細かく分類すると、上品、中品、下品を、それぞれ3つに分けて、上上、上中、上下、中上、中中、中下、下上、下中、下下の「九品」とします。上上にあたるのは「聖人」であり、聖人は生まれつき聖人で、決してそれ以下に落ちることはありません。またそれ以下の人間は、どんなに教育を施しても、本人がどんなに努力しても、上上の聖人にはなれません。下下は「愚人」であり、この人たちは、いかなる教育を受けても、本人のいかなる努力によっても、それ以上のランクに行けないのです。著者は、「陽貨篇・第三章の『唯だ上知と下愚とは移らず』とは、このことをいったもので、『上知』は『上智』とも書いて聖人を指し、『下愚』は愚人のことを指すのである。ちなみに、人間が努力次第で聖人になれるという思想は、朱子学の成立を待たねばならない」と述べています。

 

第Ⅱ部「孔子の生涯」の第四章「孔子の三大弟子」の1「顔淵」では、「仁とは何かをめぐる問答」として、孔子の弟子であった顏淵が仁について尋ねたくだりが紹介されます。孔子は、「身勝手な行動を抑え、礼の規範に立ち戻るのが仁である。一日でも身勝手な行動を抑え、礼の規範に立ち戻れば、天下の人々はみな、仁徳に帰服するであろう。仁を行うのは自分次第であり、人任せにはできないのだ」と述べました。顔淵が「どうかその細目をお聞かせください」と言うと、孔子は「礼からはずれたことに目を向けてはいけない。礼からはずれたことに耳を傾けてはならない。礼からはずれたことを口にしてはいけない。礼からはずれたことを行ってはならない」と述べました。これを聞いた顔淵は、「私は至らぬ者でございますが、その言葉を実践したく存じます」と言うのでした。著者は、「仁の説明として、実に堂々たるものである。最上級の定義といってもよいであろう」と述べています。

 

顔淵は孔子の最愛の弟子であったとされています。その顔淵が死んだとき、孔子の嘆きは尋常ではありませんでした。『論語』先進篇には、「顔淵死。子哭之慟。従者曰、子慟矣。曰、有慟乎。非夫人之爲慟、而誰爲」と書かれています。「哭」とは喪葬(葬祭)の際の泣き方です。著者は、以下のように説明しています。
「およそ人の泣き方には三通りある。涙を流し、声を上げて泣くのが『哭』。涙は流すが、声を上げずに泣くのが『泣』。涙は流さず、声を上げて泣くのが『号』である。ずっと後世の小説であるが、『水滸伝』(第二十五回)に『婦人の泣き方に3通りある。涙があり、声があるのを哭という。涙があり、声がないのを泣という。涙がなく、声があるのを号という』と書かれている」

 

第六章「古典の整理と孔子の死」の6『春秋』では、「『獲麒』事件」として、興味深い事件が紹介されています。哀公の治世は27年(前468)までです。では、『春秋』はなぜ14年(前481)までしか書いていないのかというと、孔子にとって大事件が起きたからだとして、著者は「この年の春、大野という場所で狩りが行われ、叔孫氏の御者である鉏商という者が獣を仕留めた。見たこともない獣であったので、不吉だと思われた。孔子はこの獣を『麟』だとし、『吾が道、窮まれり(私の道も終りだ)』と述べたと『孔子世家』はいう。麟は『麒麟』ともいう。東京日本橋の欄干の上に鋸えられている像であり、また、あるビール会社の標章にもなっているので日本人にも馴染み深い想像上の動物だ。一説に麒は雄、鱗は雌であるとか、角があるのが麟、角がないのが麒などと区別する場合もある。麟は天下太平のときに現れるのに、そうでないときに出現し、狩られて死んだのは、自分が近い将来に死ぬ兆しであることを孔子は悟ったのである」と述べています。

 

「獲麟」事件が起きたのが哀公14年(前481)春でした。翌哀公15年(前480)には、孔子の弟子である子路が衛の国の内乱に巻き込まれて命を落とします。さらにその翌年の哀公16年(前479)、孔子は重い病にかかりました。弟子の子貢が面会に行くと、ちょうど杖をついて門前を散策していました。子貢を見ると孔子は、「賜(子貢の名)よ、どうしてもっと早く来なかったのか」と言い、歎いて「太山壊れんか。梁柱摧けんか。哲人萎まんか」と歌いました。孔子の目には涙が浮かんでいました。子貢に向かい、「天下に道がなくなって久しい。私の道に遵ってくれる者もいない。かりもがり(埋葬する前の一時期、亡骸を棺に納めてとむらうこと)をするとき、夏の人は東階に棺を置き、周の人は西階に柩を置き、殷の人は堂上の2本の柱の間に棺を置く。昨晩、私は堂上の2本の柱の間に座って供え物を受ける夢を見た。私の始祖は殷の人だったのだ」と言いました。著者は、「孔子の先祖の孔防叔は、もと宋の人であった。宋は周に滅ぼされた殷の遺民が建てた国であったことを思い出してほしい。孔子は死を前にして自らの出自を明らかにしたのであろう」と述べています。

 

本書『『論語』と孔子の生涯』は、『論語義疏』という日本に伝わった貴重な写本を紹介しつつ、『論語』の多様な読み方の楽しみを説き、孔子の生涯をたどった本です。『論語』の解釈は一通りではないことがよくわかりますが、本書の白眉は洒脱なコラムの数々と、著者流の『論語』解釈でした。目から鱗の発見も多く、わたしは「やはり『論語』は面白い!」と改めて思いました。

 

 

2021年7月18日 一条真也

「高い倫理観」について

一条真也です。
17日の東京の感染者は1410人。4日連続の1000人超え、前の週の同じ曜日に比べて増えたのは28日連続。そんな中で、東京五輪の強行開催まで1週間を切りました。14日に書いたブログ「今からでも中止だ中止!!」で、わたしは「これからは毎日のようにバッド・ニュースが続く」と書きましたが、ウガンダ選手が脱走したり、選手村で韓国選手団が反日の横断幕を掲げるなど、その通りになっています。もはやカオス状態!

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ヤフーニュースより

 

信じられないほどケチがつきまくっている東京五輪ですが、新たな騒動が起こっています。23日に行われる開会式に作曲担当として参加しているミュージシャンの小山田圭吾氏の過去の「いじめ自慢」発言が大炎上しています。小山田氏は、過去に同級生や障害者をいじめていたと雑誌や書籍のインタビューで発言していましたが、16日にツイッターに「謝罪文」を掲載しました。


彼のいじめ発言はけっこう有名な話で、わたしも知っていました。彼と小沢健二氏が組んだフリッパーズ・ギターの名曲「恋とマシンガン」が大好きだった(カラオケでもよく歌った)だけに、その事実を知ったときはショックを受けた記憶があります。フリッパーズ・ギターのファンの中には、小山田氏の発言を知って、「もう小山田圭吾の曲は聴きたくない」と思った人も多かったようです。


小山田氏本人が1994年1月発行の「ロッキング・オン・ジャパン」(ロッキング・オン)と95年8月発行の「クイック・ジャパン」(太田出版)などの音楽雑誌で語ったインタビューによると、イジメは小学校から高校までずっと行っていたそうです。小山田が通っていたのは自由な校風で知られる私立の小中高一貫校ですが、「全裸にしてグルグルにひもを巻いてオナニーさしてさ。ウンコ喰わしたりさ。ウンコ喰わした上にバックドロップしたりさ」(「ロッキング・オン・ジャパン」)と語っています。また、「クイック・ジャパン」のインタビューによると、小学校の時には障がいのある同級生の体をガムテープで巻き、身動きが取れないようにして、段ボールに入れたといいます。同じ同級生を高校生時代にもいじめ、みんなでジャージを脱がせて下半身を露出させたと告白しています。


小山田氏は「女の子とか反応するじゃないですか。だから、みんなわざと脱がしてさ、廊下とか歩かせたりして」(「クイック・ジャパン」)と語っています。中学の時の修学旅行では、留年した先輩と一緒になって違う障がいのある同級生に自慰行為をさせています。さらに、「クイック・ジャパン」では、「掃除ロッカーの中に入れて、ふたを下にして倒すと出られないんですよ。すぐ泣いてうるさいから、みんなでロッカーをガンガン蹴飛ばした」「マットの上からジャンピング・ニーパットやったりとかさー。あれはヤバいよね、きっとね」などとも語っています。



読むだけで気分が悪くなる内容です。昔の話であっても怒りが湧いてきます。これはもう「いじめ」というより「犯罪」であり、自死事件にも発展しかねないケースだと思います。障がい者への凄惨な肉体的・精神的・暴力的・性的ないじめの加害者が「オリンピック・パラリンピックの開会式音楽担当者」としては不適当だと問題になるのは当然でしょう。この小山田氏の過去発言が問題視され、ネットで大炎上となりました。小山田氏は自身のツイッターに公表した文章で「多くの方々を大変不快なお気持ちにさせることとなり、誠に申し訳ございません」と謝罪。「過去の言動に対して、自分自身でも長らく罪悪感を抱えていたにも関わらず、これまで自らの言葉で経緯の説明や謝罪をしてこなかったことにつきましても、とても愚かな自己保身であったと思います」などと述べています。



しかし、ネットでは「絶対に許せない」「もはやサイコパス」「被害者のトラウマは一生消えない」「オリパラの音楽をいじめ加害者が担当するのはあり得ない」「完全に五輪憲章に違反している」「炎上したから謝罪しただけ」「こんな問題人物を選ぶ組織委員会が信じられない」などと大炎上しています。彼を選んだ組織委員会の武藤事務総長も小山田発言は知らなかったようですが、最大の謎は大手広告代理店が炎上必至の人選をしたことです。それだけ大物音楽家や有名音楽家の起用が難しかったことが予想されます(コロナでLIVEができなかった音楽業界では反五輪の気運が高まっています)が、まあ代理店も「昔の話だからいいか」と甘く見たのでしょう。わたしなら、小山田氏ではなく、フリッパーズ・ギターで彼のパートナーだったオザケンを選びますけど。オザケンといえば、最近、彼の不倫疑惑がニュースになっていましたね。

f:id:shins2m:20210718092548j:plainヤフーニュースより

 

しかし、「メディアゴン」が配信した「〈いじめ五輪は国辱〉りんたろー氏の小山田圭吾擁護に疑問」という記事で、メディア学者で東洋大学教授の藤本貴之氏は「事実が明らかになり、問題化している以上、五輪開会式音楽という東京大会を象徴するような場面の担当者としては不適当であることは明白だ。そもそも、五輪憲章にも反するという人事ということも理解しなければならない。そこは組織委員会も真摯に受け止めなければ、東京大会は『凄惨ないじめ加害者が開会式音楽を担当した』という負のレガシーが語り継がれることになるだろう。これはもはや国辱だ」と述べています。まったく同感ですね。


藤本氏は、「小山田はツイッター謝罪という中途半端ことで誤魔化すのではなく、記者会見等の公の場面で謝罪と説明をした上で、五輪担当を辞任し、いじめ問撲滅運動への寄付をするなど、目に見える『反省』を示してみてはどうだろうか」とも述べています。たしかに、小山田氏に払われる報酬は税金なわけですから、当然だと思います。小山田氏の起用が大問題となり、組織委員会は16日夜にコメントを出しました。それによれば、「小山田氏の過去の発言は不適切だ。一方、本人は発言について反省しており、現在は高い倫理観をもって創作活動に献身するクリエーターの1人であると考えている。1週間後の開会式に向けて、引き続き最後まで準備に尽力していただきたいと考えている」となっています。女性蔑視発言の森会長、容姿侮蔑のオリンピッ演出を企画した佐々木氏も辞任しましたが、開会式まで残り1週間しかないということもあって小山田氏の辞任は現実的ではないのでしょう。開会式では、彼が作曲した音楽を天皇陛下も聴かれるのでしょうか?


ここで気になるのは、組織委員会が小山田氏のことを「現在は高い倫理観をもって創作活動に献身するクリエーターの1人である」と表現したことです。「高い倫理観」とはまた大きく出たものですが、わたしなりに「高い倫理観」について考えてみました。そして、ある中学生のエピソードを思い出しました。ブログ『祖父が語る「こころざしの物語」』で紹介した加地伸行先生の著書に出てくる実際に起きた出来事です。昔、ある中学校の教師が突然、「これから小テストをやるぞ」と言いました。予告なしの抜き打ちのテストで、教室内にはざわめきが起こりました。すると、1人の男子生徒が急に教室を飛び出して行きました。水が入ったバケツを持って戻った彼は、水を教室に撒き、床を水浸しにしました。当然ながら、教室中が大騒ぎです。教師は水を撒いた生徒を「なぜ、やった?」と怒りながら問い詰めましたが、彼は何も答えませんでした。

 

 

しかし、それから数十年後、ある女性の告白から真相が判明したのです。最前列に座っていた彼女は、精神的にナイーブな女の子でした。それで、抜き打ちテストが行われると知ったショックにより、思わず失禁したといいます。彼女のすぐ後の席だった例の男子生徒はすべてを悟り、とっさに水を撒いて彼女の秘密を隠したのです。彼は、そのことを絶対に人には話しませんでした。その事実が判明したのは、数十年後の女性生徒の告白でした。わたしは、この話を読んだとき、泣けて仕方がありませんでした。これほど勇気のある中学生が、かつての日本には実在したのです。いじめに関わっているすべての子どもたちに教えてあげたい話です。そして、このような生徒こそ「高い倫理観」を持っていると思わずにはいられません。なお、この感動的なエピソードが書かれた『祖父が語る「こころざしの物語」』は、8月3日発売のハートフル・ブックガイド『心ゆたかな読書』(現代書林)でも紹介しています。

 

 

2021年7月18日 一条真也

『論語――心の鏡』

論語―心の鏡 (書物誕生-あたらしい古典入門)

 

一条真也です。
論語――心の鏡』橋本秀美著(岩波書店)を紹介します。岩波の「書物誕生 あたらしい古典入門」の1冊で、高い評価を得ているにもかかわらず長らく絶版となっており、古書価が高騰している本です。著者は、1966年福島県生まれ。1999年、北京大学大学院中文系博士課程修了。東京大学東洋文化研究所助教授、中国北京大学歴史学系教授などを経て、現在は青山学院大学  国際政治経済学部国際コミュニケーション学科教授。

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本書の帯

 

本書の帯には「『論語』とは、あなた自身である。」と大書され、「切実な問題意識のもとに重ねられてきた『解釈』という営み。中国伝統学術(経学)の大きな流れをつかみながら、時代・社会・人間を映し出す〈鏡〉としての古典の意義をさぐる」とあります。

 

カバー前そでには、以下のように書かれています。
「李康子『若し道に外れた人を殺して道を守る人を育てたらどうですか』。孔先生『あなたが政治をなさるのに、どうして殺す必要があるのです。あなたが善を望まれるなら人民もよくなってゆきますよ。君子の徳は風で、小人の徳は草です。草は風が吹けばきっと靡きます』。――『論語』顔淵篇」
「混迷の時代に自らの理想を追求しつづけた孔子。彼と弟子たちの言行録である『論語』は、二千年以上にわたって最も親しまれてきた古典であると同時に、その成立と解釈をめぐって、最も意見が分かれてきた書物でもある。いつ、だれが編纂したのか。なぜ『論語』と名づけられたのか。少ない言葉数に込められた孔子の真意は何か?――歴代の学者たちは、『論語』の一言一句について、おびただしいまでの解釈を展開した。それらは単なる議論ではなく、たとえば孔子の唱える『礼』をいかに理解して実現させるのかという、読み手自身の切実な問題意識の表出でもあった。漢代から近代にいたる中国伝統学術(経学)の大きな流れをつかみながら、時代・社会・人間を映し出す〈鏡〉としての古典の意義をさぐる」

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
「はじめに――『論語』はどこに在るか?」
第Ⅰ部 書物の旅路
     「解釈」という営み
第一章 『論語』の始め
第二章 『論語』の展開
第三章 経学の時代
第四章 脱経学と経学の並行
第五章 宋学朱熹『集注』
第六章 清代の『論語』研究
第Ⅱ部 作品世界を読む
      私の『論語』、あなたの『論語
第一章 異なる解釈で読む『論語
第二章 『論語』と中国社会
「おわりに」
「参考文献」


「はじめに――『論語』はどこに在るか?」では、著者は「そもそも『学而時習之』(『論語』学而篇)が孔子の言葉だという保証はどこに在るのか? 『子曰く』、孔子が言ったのだ、というのは誰の証言なのか? 空間にして3000キロメートル以上、時間にして2000年以上の距離を想像力だけで埋めてしまってよいものか? 1000年前の京都の『源氏物語』でさえ非常に難解であるのに、2000年前の中国の『論語』がすんなり読めてしまってよいものか?」と、さまざまな疑問を示しています。

 

手にとって見ることのできる『論語』の本というものは、『論語』の長い複雑な歴史の中の一側面を示す写真のようなものと思っていただきたいという著者は、「1枚の写真を繰り返し眺めても、その人を理解したことにはならないのと同様、図書館や本屋に並んだ1冊の『論語』から『論語』の全てを知ることもできない。『論語』には『論語』の過去がある、ということだ。『論語』に対する理解を深めるためには、2000年来の『論語』の各種の本や注釈と、『論語』に関する歴史上の記録を幅広く見ていくことが必要なのである」と述べるのでした。

 

 

第Ⅰ部「書物の旅路――『解釈』という営み」の第一章「『論語』の始め」の冒頭の「『論語』の体裁と編者」を、著者は「『論語』の面倒なところは、孔子一門の言行録として、断片的な記載が寄せ集められている体裁にある。一面では、この簡潔さのために、『論語』は儒学入門の書として非常に広く普及したが、その反面、記載が簡単すぎて意味がはっきり確定できない文句も少なくなく、後世各種の異なる解釈を生む原因の一つとなった」と書きだしています。

 

 

「書名はいつ付けられたか」では、著者は「孟子は、孔子の時代から百余年のち、自分こそは聖人孔子の後を継ぐ賢人である、と自任し、その思想が『孟子』という書として遺されている。『孟子』という書も、孟子が書いた原本が現在に伝わっているというわけではなく、我々の知っている『孟子』が孟子自身が考えていた内容とどこまで一致しているのかは確認しようもないが、現在の『孟子』には、『論語』を参考にしたと思われる内容が沢山ある一方、『論語』という書名は使われておらず、引用された孔子の言行も、現在の『論語』と完全に同一ではない。孟子はおそらく、単に口承の伝聞として孔子一門の言行を聞き知っていただけではなく、文字で記録されたものを見ていただろうと想像されるが、それがどの程度まで編集されたものであったのか、現在の『論語』からどれほど遠いものであったのか、またそれが『論語』と呼ばれていたのかどうか、等はいずれも不明と言わざるを得ない」と述べます。

 

 

続いて、著者は『礼記』を取り上げます。
礼記』は戦国時代に萌芽し、漢代に各種の整理が加えられましたが、著者は「後世に伝えられているのは、後漢末期に鄭玄という学者――この学者はこれから本書でたびたび登場するので、憶えておいていただきたい――が最終的な編訂を加えたものである」と説明します。また、「鄭玄以降も、細部の変化は起こっており、『礼記』は完全に固定してしまったわけではないが、鄭玄版がその成長の最高点であったことは間違いない。したがって、『礼記』に見える孔子一門の言行が現在の『論語』と完全に一致しないのは、それが『論語』がまだ現在のような姿にまとめられる以前に書かれた内容だからだと考えられ、1カ所だけ見える『論語』という書名は、やや遅く、『論語』が『論語』として成立してから書き入れられたもの、ということになる」と述べています。

 

 

つまり、『礼記』を根拠に『論語』という書名の成立時期を推論すれば、結論は「後漢末(鄭玄)以前」となるわけです。著者は、以下のように述べています。
「あまりにも漠然として意味が無いが、『礼記』の中には『論語』の原型が発生してから次第に変化してきた痕跡が残っている、と言うことはできるわけだ。また、『史記』は前漢武帝の時代(前141-87年)に司馬遷がまとめたものだが、その中の仲尼弟子列伝(孔子の弟子たちの伝記)は『論語』を参考にして編纂した、とあるから、前漢の早い段階で『論語』は既に『論語』という書名で広く伝えられていたに違いない」

 

 

では、『論語』という書名は、どういう意味か? 
前漢末に古代文献の大整理を行った劉向・劉歆が作成した目録をもとに書かれた典籍目録『漢書』藝文志によれば、「『論語』は、弟子や他の人々の問いに孔子が答えたり、あるいは弟子たちが互いに会話している際に孔子から聞いたりした『語』である。弟子たちがそれぞれ記録しておいたものを、孔子の没後、門人たちが集めて『論篹』したものなので、『論語』という」そうです。『論語』という書名の由来には諸説がありますが、この『漢書』藝文志の説は説得力がありますね。


第三章「経学の時代」の「六経と孔子」では、「礼楽」に言及しています。著者は、「日本で礼というと、堅苦しく意味の無い行儀作法や、一対一の絶対服従が連想されるが、中国古代の礼は、人間関係のあるべき姿、とでもいったもので、社会制度などを含めて客観的に考えられている。個人にとって外在的基準という意味を持つ礼に対して、個人の感情に働きかけて、礼に適った人間関係を更に安定させるのが、楽の役割と言える」と述べています。

 

 

孔子が理想とした周代の礼を全面的に記述した書物は存在せず、『詩』『書』や、『論語』『礼記』などの記載から推測する以外ないと指摘し、著者は「後の時代には、『周礼』(『周官』ともいう)『儀礼』と呼ばれる2種類の書が経典とされるようになるが、『儀礼』は数種類の個別儀礼の行い方を記したものに、服喪の制度を通して人間関係の遠近を規定した部分が加わったもので、礼の全てを網羅したというには程遠く、また、『周礼』は実際の周代の制度ではないばかりか、孔子が見たはずも無い戦国時代の作品だと言われている。楽については、古くは『楽経』というものがあった、という説もあるが、現在には伝わらず、本当に存在したのか、存在したとしたらどのようなものであったのか、いずれも不明である(したがって、「六経」の代わりに、経典が存在しない『楽』を除いて「五経」という言い方もなされる)」と述べます。

 

「『三礼』をいかに体系化するか――鄭玄経学の焦点」では、五経のうち、『易』は占いの書に宇宙論などが加えられたもので、その哲学的要素が重視される場合が多く、また『詩』『書』『春秋』は上古以来の政治を反映したものだが、好いことも悪いことも混ぜて書いてあるから、聖人の理想的政治・社会制度が直接的に示されているのは「礼」ということになると指摘し、著者は「このため、鄭玄の政治・社会制度に関する理論体系は、『礼』を中心に構築された。鄭玄は、当時伝えられていた『礼』の経典の中の『周礼』『儀礼』『礼記』を『三礼』と呼び、これらを総合的に研究し、統一的な解釈を可能とする理論体系を創出している」と述べています。

f:id:shins2m:20171019104914j:plainくさみ三礼庵」の外観

 

ちなみに、わが社は紫雲閣とは別ブランドで「三礼庵」という冠婚葬祭施設を展開していますが、この「三礼」とは「慎みの心」「敬いの心」「思いやりの心」という小笠原流礼法における3つの「礼」を意味しています。しかし、本来の「三礼」とは『周礼』『儀礼』『礼記』のこと。著者は、「『周礼』は周王朝の体系的官僚組織を描写したもの、『儀礼』は一般貴族の儀式を説明したものだったから、『周礼』『儀礼』だけで理想の政治・社会制度像を理論として構想しようとするのは材料不足だが、『礼記』には断片的ながらその不足を補う内容が沢山あるので、『三礼』を上手く合わせて解釈すれば、礼の理論を全面的に構築することが可能になる」と説明しています。


第五章「宋学朱熹『集注』」の「『四書』を重視する朱熹の経学」では、「四書」の成立由来が明かされます。『論語』『孟子』は五経にも増して根本的に重要な経典とされるようになりました。朱熹たちは、ここに更に『礼記』の中でも彼らにとって最も重要な理論を含む『大学』『中庸』を取り上げ、これを『四書』としたのです。著者は、「あたかも鄭玄が『周礼』『儀礼』『礼記』を『三礼』として、彼の経学理論体系の核心をなす経典としたのと同様、朱熹も『四書』を彼の経学理論体系の核心と位置づけた。したがって、朱熹は『四書』を極めて重視し、その注を編纂することには最大限の努力を傾注した。その結果、朱熹の『論語集注』は、歴代『論語』注釈の中でも最も丁寧で、しかも論理明晰なものとなっている。200年に亡くなった鄭玄と、1200年に亡くなった朱熹と、ちょうど1000年を隔てるこの2人は、経学の歴史において、その他諸人を遠く引き離して突出して重要な位置を占めている」と述べています。


朱熹の集大成した宋代の思想体系は、元・明・清三朝に亘って朝廷が堅持する中国の正統思想となり、『四書集注』も科挙の必修教科書となったことを紹介し、著者は「明・清から20世紀に至るまで、膨大な数の学者が性理学や朱子学の研究に没頭し、大量の著作を遺しているが、『四書集注』の影響の深さは、単にこれらの専門の研究の範囲に限られるものでは到底無い。何しろ、中国の士大夫は例外なく子供の頃から『四書集注』を勉強したのであり、それによって、朱熹が集大成した宋代の社会思想体系は、人々の心に深く根を張り、無自覚のうちに思考を強く規定することとなり、現在に至るまで、人々の道徳判断に深い影響を与え続けている。この意味で、元・明・清から現代に至る中国の人々の思考を理解しようとする時、『四書集注』はまず必ず読まれなければならない最重要文献なのだと言わなければならない」と述べます。

 

 

第六章「清代の『論語』研究」では、近代以前の経学者は、『論語』から聖人の教えを読み取ろうとし、どのように解釈すれば聖人の本義(本来の意図)を正しく理解したことになるのかを研究したとし、「近代以降の学者は、聖人の教えなど封建道徳に過ぎないと否定し、『論語』は春秋時代の書物であると考え、正しい客観的解釈によって、春秋時代孔子一門の史実を明らかにすることを目指した。魯迅が引用したある詩人の有名な言葉に、『絶望が虚妄であるのは、まさに希望と同じである』という。私はこれを借りて、『歴史の事実が虚妄であるのは、まさに聖人の本義と同じである』と言いたい」と述べるのでした。


第Ⅱ部「作品世界を読む――私の『論語』、あなたの『論語』」の第一章「異なる解釈で読む『論語』」の「孔子の時代」では、厳しい世情に現実的に対応するというだけではなく、人々がどのように考えてどのように行動すればよりよい社会になるかを考えたのが孔子であったとして、著者は「孔子は理想の社会を追求したが、堯・舜・周公といった過去の聖王の時代には理想社会が実現していた、としたので、宗教的空想を説くことは無かった。目先の現実にいかに対応すれば個人にとって有利か、という現実的個人主義は採らなかったが、かといって社会を超越した個人の解脱も追求しなかった。理想社会を考えながら、常に個人の道徳倫理を根本としたので、個人を超越した社会制度の設計を研究することもなかった。このように考えれば、ありきたりのお説教ばかりと見られがちな孔子の考えに、その他の古代の思想家・宗教家とは異なる特徴があることが分かるだろう」と述べています。


「『礼』の本質と変容」では、古代の「礼」とは「人間(社会)関係のあるべき形」とでも言うべきものであったから、それを濫用して、媚び諂いの手段とする人がいたとしても、それは礼そのものが問題なのではないとして、著者は「つまり、『礼』という言葉には、心がこもらない形式という含みは本来全く無いのである。だから、礼は後回しだとか、礼よりも真心が大切だ、というような考え方は、古い時代にあっては、何とも理解しがたいものであったに違いない。南宋ではそのような考え方が可能であった、ということは、『礼』が既に形式的儀礼を意味する概念に成り下がっていたことを意味する」と述べます。

 

続けて、著者は「勿論、このような言い方は精確ではない。何故なら、朱熹も『礼』なるものを非常に重視し、『論語集注』の中でも繰り返し『礼は天理の節文』というような解説を述べているから、朱熹が『礼』を単なる形式的儀礼と理解していたなどとは、間違っても言えない。それでも、社会関係が固定的になるにつれて、人間関係も形式化され、現実的には『礼』が日常生活における固定的形式儀礼に矮小化されていったことは想像に難くなく、だからこそ朱熹の注の解釈が受け入れられたと考えざるを得ない」と述べています。注目すべきは、「礼」という概念に関する異なる理解が、『論語』の解釈を左右する大きな要素の1つであったということです。

 

また、「楽の形」として、「礼」と「楽」は、常に一組として考えられるとして、著者は「例えば、子路篇に『名が正しくなければ言葉も順当でなく、言葉が順当でなければ仕事も出来上がらない。仕事が出来上がらなければ礼楽もおこらない。礼楽がおこらなければ刑罰も的をはずれる(名不正則言不順、言不順則事不成、事不成則礼楽不興、礼楽不興則刑罰不中)』と言い、季氏篇に『天下に道があれば礼楽や征伐は天子から出ますし、天下に道が無ければ礼楽や征伐は諸侯から出ます(天下有道則礼楽征伐自天子出、天下無道則礼楽征伐自諸侯出)』と言うのを見れば、『礼楽』が刑罰や征伐と並ぶ重要なものとして語られていることが理解できよう」と述べています。

 

「古典とその意味」では、『論語』に代表される古典は、単に古い時代に書かれた文献というだけでなく、1000年2000年と多くの人々に読み継がれ、多くの人々の思考に深い影響を与えてきたとことに重大な価値があるとして、著者は「100年前の人も、500年前の人も、1000年前の人も、2000年前の人も、皆『論語』を読んだ。そういう人たちによって、この社会、この文化が作られてきた。2000年前の人も500年前の人も、我々が理解・共感することのできる同じ人間であり、我々の社会・文化は500年・2000年の歴史の沈澱の上に成り立っている、と考えるならば、我々は『論語』に非常に大きな興味を持たずにはいられない。このような興味から考えるならば、2000年以上も地中に埋もれていて、近年突然発見された竹簡・帛書などは、2000年前の現実を現在に伝える珍しい資料である一方で、正にその2000年の歴史の重みを欠く点で、古典としての意義は無いと言える」と述べます。


湯島聖堂の「孔子の木」の前で

 

また、著者は『論語』を巨木に例えます。それは、正に2000年以上の時間を経ることによって、始めて現在の巨大な姿となって我々の目の前にあるとして、著者は、「栴檀は双葉より芳し、2000年前の若木の時にも、既に他の雑木とは違っていただろう。しかし、若しある人が、様々な手段を用いてその若木の姿を復原し、それこそが『論語』の本来の姿であり、2000年後の現在、『論語』は随分老化し歪曲して本来の美しさを失っている、と主張するならば、私はその人は歴史を知らない、と言うだろう。私の前にあるのは蒼然たる巨木であり、その巨木が形成してきた周辺の風景である。我々は、そのような風景の中に生きている。巨木の2000年前の姿は、あくまでも可能な幻想に過ぎない。それを真実として追求するのは、迷信的狂気だ。私は、現在の巨木の姿をありのままに観察し、その肌膚の間に2000年の滄桑を感じ取ることを喜びとする」と述べます。木といえば、ブログ「孔子の木」に書いたように、今から約100年前、湯島聖堂足利学校閑谷学校多久聖廟の4カ所に楷の木すなわち「孔子の木」が植えられました。わたしは、そのすべてを訪れ、わが社の 小倉紫雲閣天道館の庭にも「孔子の木」を植樹しました。とても巨木には育っていませんが。

f:id:shins2m:20210531170533j:plain小倉紫雲閣の「孔子の木」の前で

 

古典は、とりわけ『論語』のように表現が簡単な古典は、色々な意味で理解される可能性を持っています。しかし、わたしたちは、その全てを聞き取ることはできず、自分の心の琴線と共鳴する部分だけを聞くことになると指摘し、著者は「同じ『論語』を聞いている筈でも、私に聞こえている音と、あなたに聞こえている音は、同じではない。それは、どちらが正しい音なのかという問題ではなく、私の琴線とあなたの琴線が違っているという問題なのである。ということは、『論語』の音を聞くということは、実際には聞く人それぞれに異なる心の琴線の音を聞くことに他ならない。本書を書くに当たって、まず『心の鏡』という、何とでも解釈できそうな漠然とした副題を付けた。『論語』が小さな本であることも、『鏡』という言葉を選んだ理由の1つだが、もっと直接的な理由は、色々な人が『論語』を読み、『論語』を解釈することが、あたかも人が鏡を覗き込むようなものだと思われるからだ」と述べます。

 

第二章「『論語』と中国社会」の「同心円型社会関係」では、著者は以下のように述べています。
「思うに、西洋の法秩序や、日本の道徳秩序は、社会共通の信仰ともいうべき抽象観念に頼る部分が大きい。西洋の社会秩序は、神あるいは国家の公正を信仰する所に成り立っていた。西洋が団体中心固定関係社会ならば、日本は個人抹消全体主義社会である。搾取もするが保護もする、というのが日本の上下関係であり、下位者は不公正な処遇を受けても、上位者がいつかは事情を理解し、自分を救ってくれるはずだ、と信じて我慢した」

 

しかし、西洋においても日本においても、そのような信仰は、既に揺らぎつつあると言うべきであろうとして、著者は「既成秩序の崩壊は、誰の目にも明らかである。信仰の箍が完全に外れてしまえば、西洋や日本の社会は全くの混乱に陥らざるを得ないのであるが、この時、孔子の教えは、我々に最低限の道徳と社会秩序を確保する道を示してくれるであろう。何故なら、孔子の説く道徳は、そのような信仰が完全に否定された状況に立脚して考えられているからだ。人間みなそれぞれ自分を中心に考えて生きている、それを認めて、そこを出発点として、何とか社会をより善いものにしていこう、というのが孔子の考えである。正に、これからの西洋・日本が参考にすべき思想であると言えよう」と述べます。

 

また、「近代国家と『論語』の思想」では、大勢の人間が、お互いそれぞれ個人の生活を全うできることが、社会に求められる条件であると指摘し、「個人に生命・財産を差し出させ、資本家や政治家の生活を保障するだけの国家などは、あってはならない。国家や集団を個人の上に置こうとする許術を否定するには、孔子に習って、地に足をつけて、個人の生活を根拠に、そこから各種国家・集団の存在価値を評価しなおす必要がある」と訴えるのでした。

 

さらに「正常な生活を全うすること」では、著者は「孔子の信念を示す最も切実な言葉は、これだ」として、以下の言葉を紹介します。

子畏於匡。曰、「文王既没、文不在茲乎? 天之将喪斯文也、後死者不得與於斯文也。天之未喪斯文也、匡人其如予何?」(子罕篇)

この口語訳は、「先生が匡という所で難儀をされた時の言葉に、『文王はもう亡くなられたが、文はここに残っているぞ。天がこの文を滅ぼそうとするなら、後まで生き残ったものはこの文に携わることができないはずだ。天がまだこの文を滅ぼさないとすれば、匡の連中ごときに我等が参るものか』」となります。

 

そして、著者は「孔子は、伝統文化の体現者を以て自任した。そして、その文化理念の価値を疑わなかった。これは信念であり、そこには私欲は無い。ここで私が死ぬとすれば、この伝統文化はそれで滅んでしまう。そんなことは起こりえないであろう、というのである。このような確信があれば、どこへ行っても生きていけるであろう」と述べるのでした。



「おわりに」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「100年ばかり前から、近代化への動きに伴って、中国では儒教的封建道徳が激しく批判されるようになった。それは、儒教的封建道徳が、確かに人間の自由を著しく抑圧していたからで、魯迅が『人を食う礼教』と言ったとおりである。それでは、『論語』を代表とする儒教の経典が本質的に『人を食う』、つまり非人間的なものであったのか、といえばそうではなく、そのような非人間性朱熹の注を直接の起源としている」


本書では敢えて詳しく紹介しなかったそうですが、著者は「朱熹の解釈は、官僚・士大夫に対して、忠君愛国・滅私奉公の禁欲的自己規律を呼びかけるものであった。実際にはそんな真面目な考えの人が少なかったからこそ、朱熹は一生懸命訴えたのである。それが高潔な理想である間はよかったのだが、後世には朱熹の教えが朝廷を支える基本思想となったから、必然的に教条化への道を歩み、科挙の必修内容となったために、社会下層にまで浸透することとなった。ここにおいて、儒教は中国社会全体を覆う『人を食う』猛獣となったのである」と述べます。

 

1990年代から、日本政府の政策は明らかな変化を見せ、現在かなりの程度で弱肉強食・無法無天の荒廃した社会となっていますが、混乱は今後も更に長く続くように思われるとして、著者は「この荒廃の感覚は、どうも孔子の時代に近いように感じられてならない。孔子が繰り返し強調する『仁』は、明確な定義を与えるのは不可能だが、人と人の間の望ましい結び付きを言っている。人は一人では生きられない。荒廃した社会であればあるほど、他人との結び付きは切実に重要なのである。生きていくためには、よりよく生きるにはなおさら、他人との結び付きを確かなものにしておく必要がある」と述べています。

 

著者は、本当に困った時に「役所が助けてくれる」などと思ってはいけないと訴えます。そして、「もちろん、政府には弱者を助け、市民の安全を保障する義務があり、我々はその誠実な履行を要求し続けるだろうが、それを当てにしてはいけない。そんなものを当てにしようとすれば、言われるまま次々と自由を奪われて、知らない間に身動きも取れなくなってしまう。本当に頼りになる可能性があるのは、身近な人間である。だから、身近な人間との関係を大事にしなければならない。もちろん、近くにいれば誰でもよい、ということではなく、互いに信頼しあえる人間が大事なのである。そう考えた時、一般的に言って、一番身近で信頼しあえるのは親子の関係であり、兄弟の関係である」と述べています。

 

そして最後に、著者は「孔子は、子供は親の奴隷になれ、と言ったのではなく、周りの大事な人間との結び付きを固めよ、その第一歩として親子の絆を固めよ、と言っているのだ。そして、同様に兄弟や義兄弟や友人との絆を固めていく。そのような固い絆こそが、個人の自由と独立を守る砦となるのである。これこそが、乱世を生きる道である」と述べるのでした。本書は、わたしがこれまで読んできた『論語』の研究書とはまったく違った一風変わった内容でしたが、北京大学の教授まで務められただけあって、著者は本当に深く『論語』を研究されているという印象を持ちました。『論語』が「人を食う礼経」と呼ばれる責は孔子には一切なく、朱熹にあるというのはまったく同感です。

 

 

2021年7月17日 一条真也

志のある会社として

一条真也です。
16日、早朝から松柏園ホテルの神殿で恒例の月次祭が行われました。ニューノーマルということで、マスク着用でクールビズでの神事となりました。

f:id:shins2m:20210716081212j:plain月次祭のようす

f:id:shins2m:20210716081759j:plain玉串奉奠する佐久間会長

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わたしも玉串奉奠しました

f:id:shins2m:20210716082141j:plain神殿での一同礼!

 

月次祭では、皇産霊神社の瀬津神職が神事を執り行って下さり、祭主であるサンレーグループ佐久間進会長に続き、わたしが社長として玉串奉奠を行いました。わたしは、会社の発展と社員の健康・幸福を祈念しました。

f:id:shins2m:20210716082731j:plain天道塾のようす

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最初は、もちろん一同礼!

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JUDOマスク姿で登壇した佐久間会長

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東京五輪について語る佐久間会長

 

神事の後は、恒例の「天道塾」を開催しました。最初に佐久間会長の訓示がありました。会長は交遊のあるJOCの山下泰裕会長から贈られたという「JUDO」という文字の入ったマスク姿で登壇しました。ちなみに、わたしの最新刊『心ゆたかな読書』(現代書林)には、山下会長の著書『背負い続ける力』が取り上げられています。佐久間会長は、「山下会長さんは、いま、東京五輪の開催直前ということで大変なことと思います。コロナも完全に終息して盛大に五輪が開催されることを楽しみにしていましたが、昨日の東京の感染者も1308人と、まことに心配な状況になっています。どうか、無事に東京五輪が終わることを願っています」と述べました。

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「令和3年度 半期を振り返ってみて」

f:id:shins2m:20210716093928j:plain「令和3年度 半期を振り返ってみて」

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北九州本部の報告のようす

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「グループまとめ」のようす

 

続いて、「令和3年度 半期を振り返ってみて」として、サンレーグループの北陸本部(東専務)、沖縄本部(小久保取締役)、大分事業部(祐徳取締役)、宮崎事業部(尾崎取締役)、北九州本部(松田常務)から、この半年の実績および反省点、これからの半年の課題と目標などについての報告がありました。その後、沖縄の佐久間康弘社長から「グループまとめ」として話がありました。

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最後は、わたしが登壇しました

 

最後はわたしが登壇、「総括」をしました。わたしは夏用のブルーの不織布のマスクをしたまま、「まず最初に、このたびの九州豪雨で犠牲となられた方のご冥福を心よりお祈りしますとともに、被災された方々にはお見舞いを申し上げたいと思います」と述べ、続いて「昨日の東京の感染者は1308人でした。恐ろしいスピードで感染者が急増しており近々の2000人超えも予想されるうえ、若年層で重症化する例も増えており、東京はまさに非常事態。東京五輪は開幕を強行しようとしていますが、『途中打ち切り』の可能性も高くなってきました」と述べました。

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天下布礼」が大いに進みました

 

半期の振り返りについての感想を述べた後、ここ1ヵ月の慌ただしい流れを簡単に説明しました。なかなかハードスケジュールでしたが、確実に「天下布礼」が進んだという実感を持つことができた1ヵ月でした。何といっても大きいのは、グリーフケアの資格認定制度の開始です。全互協のグリーフケアPTの座長として取り組んできましたが、ようやく実現して感無量です。なんとか、わが社がグリーフケアにおけるリーディング・カンパニーになるためにも頑張りたいと思います。

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マスクを外しました

 

ブログ「グリーフケア講演in横浜」で紹介したように、6月25日にはパシフィコ横浜で「重要性高まるグリーフケアの意義と役割」という演題で講演し、コロナ禍にもかかわらず全講座中で最高の動員を記録し、会場が超満員になりました。そこで、「グリーフケア士」という新時代の資格を中心にさまざまな話をしました。

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「サービス」から「ケア」へ!

 

特に、「『サービス』から『ケア』へ」として、縦の関係(上下関係)であるサービスと横の関係(対等な関係)であるケアの本質を説いて、その違いを説明したところ大きな反響がありました。「さまざまなケア」として、ヘルスケア、メンタルヘルスケア、コミュニティーケア、インフォーマルケア、ターミナルケア、緩和ケア、スピリチュアルケア、そしてグリーフケアについて説明しました。

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熱心に聴く人びと 

 

さらに、無縁社会に加えてコロナ禍の中にある日本において、あらゆる人々の間に悲嘆が広まりつつあり、それに対応するグリーフケアの普及は喫緊の課題であると訴えました。さらには、「ケアすることは、自分の種々の欲求を満たすために、他人を単に利用するのとは正反対のことであり、相手が成長し、自己実現することを助けること」などのケアについての自分の考えを明らかにしました。

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加地先生との対談を報告しました

 

それから、ブログ「加地伸行先生と対談しました」で紹介したように、7月7日には日本における儒教研究の第一人者と大阪で対談しました。加地先生とは、孔子、『論語』、『孝経』、儒教三礼、拱手礼、祖先祭祀、葬送儀礼天皇儀礼孟子吉田松陰西郷隆盛北一輝三島由紀夫などのテーマを語り合い、「日本人で最も論語を理解した人物は誰か?」というテーマで聖徳太子徳川家康渋沢栄一安岡正篤といった人々についても意見を交換させていただきました。 

f:id:shins2m:20210716100507j:plain熱心に聴く人びと 

 

そして、わたしたちは現代日本家族葬に代表される「薄葬」を話題に葬儀の意義について語り合い、最後は「家族」の本質というものを考察しながら、無縁社会を乗り越える方策などを求めました。加地先生との会話の中から、「儒教と日本人」の全貌を知ることができ、「冠婚葬祭はなぜ必要か」という問いの答えも見つかりました。「これから冠婚葬祭はどうなるか」もわかりました。この日は時間がないので話しませんでしたが、いつか時間を取って、この天道塾で話したいと思います。



ちなみに、加地先生は、めったに対談されないそうです。平成28年1月18日、iPS細胞の発見者でありノーベル生理学・医学賞の受賞者である山中伸弥・京大教授と対談され、その内容はBSフジで放送されました。天下のノーベル賞受賞学者を理系代表として、文系代表として堂々と対談される加地先生に対談相手に選んでいただき、まことに光栄です。わたしは、今後は神道および仏教の第一人者とも対談し、「冠婚葬祭とは何か」を考えたいです。

f:id:shins2m:20210716100237j:plain「君子」とは何か?

 

加地先生は著書『論語 全訳注』(講談社学術文庫)で、孔子のことを「老先生」と訳されています。わたしにとって目の前の加地先生は、「老先生」としての孔子そのもののように見えました。加地先生は「小人」のことを知識人、「君子」のことを教養人ととらえておられますが、加地先生こそは教養人としての君子です。わたしも、加地先生のような君子になりたいと心から思いました。そして、その願いを七夕の星にかけました。

f:id:shins2m:20210716100010j:plainわが社には「志」があります!

 

最後に、わたしは加地先生、そして孔子から学んだ最大の教えは「志」というものの大切さです。自分が幸せになったり、自分の会社が良くなるのは結構なことですが、それだけではいけません。やはり、他人の幸せを願い、社会が良くなることを目指さなければいけない。それが「志」です。そして、わが社には「志」があります。わたしは、「冠婚葬祭を通じて良い人間関係づくりのお手伝いをし、無縁社会を乗り越えて有縁社会を再構築することを目標に進んでいけば、自ずからわが社も発展するでしょう」と述べ、「カンパニーズ・ビー・アンビシャス! わが社は、志のある会社としてのアンビショナリー・カンパニーであり続けましょう!」と言ってから降壇しました。

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最後は、もちろん一同礼! 

 

2021年7月16日 一条真也拝 

ハートフルムーンTシャツ

一条真也です。
15日の13時から、座長を務めている「グリーフケアPT」のZOOM会議が行われます。その日の朝、サンレー本社に出社したら、嬉しいお中元が届いていました。福岡市にあるデザイン会社の「千年市場」さんからの贈り物で、なんと、わたしの似顔絵が描かれたTシャツでした。

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Tシャツをいただきました!

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早速、着てみました!
 

ユナイテッドアローズのベージュ色のTシャツに「HEARTFUL MOON」「Ichijyo shinya」の文字とともに似顔絵がプリントされています。「どこかで見たイラストだな」と思う方も多いでしょうが、千年市場の「youkichi」さんという売れっ子イラストレーターが描いて下さいました。そう、この方は、LINEの「一条真也のハートフル・スタンプ」、「一条真也のハートフル・スタンプ2」、「ハートフル・スタンプ3」の絵を描いて下さった方です。わたしによく似ていると評判になっています!(笑)

f:id:shins2m:20210715122655j:plainこの格好でワクチン接種に行こうかな? 

 

梅雨明けした北九州市は気温35度近い猛暑ですし、東京五輪の強行開催もいよいよ近づいてきました。コロナ感染大爆発の嫌な予感がします。まだ、わたしはワクチンの接種をしていません。接種するときには腕を出す必要があるため、「このTシャツを着て行こうかな?」などと考えています。ということで、千年市場さん、youkichiさん、素敵なプレゼントをありがとうございます!

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2021年7月15日 一条真也

「プロミシング・ヤング・ウーマン」

一条真也です。
4回目の緊急事態宣言が発令された東京で、13日にブログ「東京リベンジャーズ」で紹介した日本映画を観た後、TOHOシネマズ日比谷でアメリカのスリラー映画「プロミシング・ヤング・ウーマン」を観ました。16日公開の作品ですが、この日は先行上映となります。アカデミー賞に作品賞を含む5部門ノミネートされ、脚本賞を受賞した話題作です。社会派の視点があり、大変面白かったです。やはり、脚本が素晴らしい!


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「ドラマシリーズ『ザ・クラウン』などで知られる女優、エメラルド・フェネルが監督と脚本を務めたサスペンスドラマ。輝かしい未来を歩もうとしていた女性が、ある出来事を契機に思わぬ事態に直面する。『ワイルドライフ』などのキャリー・マリガン、『ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ』などのボー・バーナムのほか、ラヴァーン・コックス、アリソン・ブリーらが出演する」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「明るい未来が約束されていると思われていたものの、理解しがたい事件によってその道を絶たれてしまったキャシー(キャリー・マリガン)。以来、平凡な生活を送っているように思えた彼女だったが、夜になるといつもどこかへと出かけていた。彼女の謎めいた行動の裏側には、外見からは想像のできない別の顔が見え隠れしていた」


この映画が復讐をテーマにしたサスペンスドラマというのは知っていたのですが、いわゆるバイオレンス系かと思ったら、そんな単純なストーリーではありませんでした。男性上位社会、医学部生に代表されるエリート偏重社会などへの問題提起に溢れており、約2時間、まったく飽きることがありませんでした。最後のオチとなるLINEメッセージの予約投稿は、ブログ「ある天文学者の恋文」で紹介した映画で使われたアイデアと同じでしたね。もっとも、「ある天文学者の恋文」では携帯メールでしたが、「プロミシング・ヤング・ウーマン」の場合はLINEでした。


主人公のキャシーの行動は謎に満ちています。冒頭のシーンでバーで酔い潰れている姿はお世辞にも美しいとは言えませんでしたが、彼女がリベンジの想いを胸にさまざまな人物と会って交渉していく場面では、どんどん綺麗になっていくので驚きました。「うーん、女は怖いなあ」と思いましたが、キャシーを怖い女にしたのは男たちのせいなので、複雑な気分になりました。わたしには2人の娘がいるので、基本的に女の味方なのです。はい。

 

主演のキャシー・マリガンの演技は素晴らしかったです。彼女は1985年イングランド・ロンドン市内のウェストミンスター出身の36歳。2004年に舞台でデビュー。翌年公開のキーラ・ナイトレイ主演作「プライドと偏見」で映画デビュー。また、同年放送の「ブリーク・ハウス」に出演し、注目を集めました。2008年にアントン・チェーホフ「かもめ」でブロードウェイデビューを果たし、ドラマ・デスク・アワードにノミネートされました。2009年には第59回ベルリン国際映画祭でシューティング・スター賞を受賞。同年公開の「17歳の肖像」で英国アカデミー賞 主演女優賞を受賞し、アカデミー主演女優賞に初ノミネートた。さらに2020年には「プロミシング・ヤング・ウーマン」で2度目のアカデミー主演女優賞ノミネートを果たしました。

 

「プロミシング・ヤング・ウーマン」の冒頭シーンを観て、1977年のアメリカ映画「ミスター・グッドバーを探して」を連想した人は多いでしょう。美しい女教師が麻薬とセックスに溺れ、やがて身を滅ぼしていく様を描くジュディス・ロスナーの小説の映画化で、幸薄い女教師のテレサ・ダンををダイアン・キートンが体当たりの演技で見せました。バーで男漁りするテレサの身には、ドラッグやポルノフィルム、激しい男関係などで暗雲がたちこめ、彼女が転落していくという物語です。非常にやりきれないというか、観ていて暗澹たる気分になる映画でした。


監督・脚本を「弾丸を噛め」のリチャード・ブルックスが担当した「ミスター・グッドバーを探して」の原作は、1973年に起こったロズアン・クイン殺人事件をもとにして書かれました。これは、ニューヨークで聾唖学校の28歳の女性教師がバーで知り合った男に殺害された事件です。教師が行きずりの男と一夜を共にする生活をしていたことで話題になり、のちに『ミスター・グッドバーを探して』のタイトルで小説化、映画化されたのです。


「プロミシング・ヤング・ウーマン」のテーマは復讐です。復讐といえば、1971年のアメリカ映画「わらの犬」を連想しました。物騒な都会生活から逃れるため、妻の故郷でもあるイギリスの片田舎に引っ越してきた数学者のデイヴィッド・サムナー(ダスティン・ホフマン)が、無法三昧の村の若者たちに復讐する物語です。監督は「ワイルドバンチ」などの西部劇で知られるサム・ペキンパー。日本では1972年4月公開。ペキンパーはイギリスの劇作家ハロルド・ピンター(2005年度ノーベル文学賞受賞者)に脚本執筆を打診しましたが、過激な内容に嫌悪感を覚えたピンターは断ったといいます。



1970年代には、被害者が加害者に対して過激な暴力で復讐する映画が多数製作されました。映画評論家のS・S・ブラウラーはその状況を「わらの犬症候群」と呼んでいます。「プロミシング・ヤング・ウーマン」を観ながら、「ミスター・グッドバーを探して」と「わらの犬」を思い出したわたしは、この2本を久々に観直してみたくなりました。このように旧作を連想するというのも、映画を観る楽しみの1つではないでしょうか?

 

2021年7月15日 一条真也