一番歌が上手い歌手は誰か?

一条真也です。
わたしは、会社近くのコンビニでよく「週刊文春」を買います。今ちょうど『2016年の週刊文春柳澤健著(光文社)を読んでいるのですが、日本最強メディアを追わないと、時代に乗り遅れる気がしますね。

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週刊文春」最新号の表紙

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週刊文春」最新号の目次
 

最新号となる2月18日号も買いました。
トップ記事は「東京五輪を壊す男 森喜朗黒歴史』」で、次が「貴乃花 激白5時間『【優一】新妻への非道と【景子】離婚の真実』」でした。どちらも一応は読みましたが、正直言って、最も興味深かったのは「小川彩佳『離婚も考えてる。でも・・・』」「夫のウソと“白ビキニ愛人”の正体」でした。

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桑田佳祐さんの連載コラム 

 

その他、連載コラムの「ポップス歌手の耐えられない軽さ」の内容が非常に興味深いものでした。サザンオールスターズ桑田佳祐さんが書いているコラムですが、この号のタイトルは「続・一番歌が上手いって何だ!?」。「続」とあるので先週号(2月11日号)に掲載されている「一番歌が上手いって何だ!?」を開いてみると、桑田さんは「誰が一番、歌が上手いのか!?」というよくあるランキング・ネタに言及し、「そもそも歌とは、技術や正確性を競うものなのか? いや、ごく当たり前の答えだが、アタシは違うと思う。歌とはすなわち、その善し悪しや好き嫌いは、あくまでもその歌を楽しみ享受してくれる人、すなわちファンの皆様が決めるものだ」と述べ、次号で「アタシが独断と偏見で『歴代最強の歌い手』を選んでみたらどうなるか??」を大発表すると告知しています。これは楽しみ!!



そして、次号のコラムで、桑田さんは「アタシの経験値、世代感覚、単なる好みから選出すると、日本の歌謡曲史上『最強の男性歌手』は、尾崎紀世彦さんである!!」と書いています。《好きな理由 その①》は、桑田さんと同じ茅ケ崎出身であること。《好きな理由 その②》は、「1970年、遅咲きながらも衝撃的で華麗なるデビューを果たし、『また逢う日まで』では、当時、世の中に漂う沈鬱なムードを、全部、ぜーんぶ持っていってくれた!!」こと。《好きな理由 その③》は、カントリー、ハワイアン・ミュージックを音楽的基盤に持ち、シンガーとして日本語の歌謡曲を『ポピュラー・ミュージック』の領域に押し上げたこと。《好きな理由 その④》は、「ここが一番本題かもしれないが、言わずと知れた『声質』『声量』の豊かさは超一級品!!」なこと。



そして、《好きな理由 その⑤》は、顔が、元「フリー」「バッド・カンパニー」のヴォーカル、ポール・ロジャーズに似ている(笑)こと。尾崎紀世彦について、桑田さんは「洋楽を歌う時、英語の発音がメチャ素晴らしい。これは、歴代の日本の男性歌手の中では圧倒的である!! 尾崎さんの場合、単に『外国人ぽい』というのではなく、『尾崎紀世彦の洋楽』にしてしまうから凄い!! やっぱり、あのモミアゲの太さはダテではない(笑)」と最大級の賛辞を送ります。



桑田さんは、「そして女性歌手だったら、『最強』は、ちあきなおみさんだ!! 」と述べます。1969年に「雨に濡れた慕情」でデビューして以来、「四つのお願い」や「喝采」といったヒット曲を次々と放ちました。まさに(総合格闘技でいう)「『寝てよし、立ってよし』とは彼女の事だ」と桑田さんは評します。また、「クレパスのような二十四色濃淡溢れる歌声。物語性の強い、歌唱難易度がすこぶる高い楽曲も、見事に歌いこなすその実力はまさに天下一品!!」と絶賛するのでした。



ちあきなおみはデビューからしばらく経つと、取り上げる曲の雰囲気が変化しますが、桑田さんは「もっと音楽的なチャレンジがしたい」「‟私の歌”をさらに深堀りしたい」「ちあきなおみを演出するのは、自分自身以外にはいない」という思いを本人が強く持ったのではないかと想像しています。さらに桑田さんは、「とびっきりの才能をお持ちな彼女の事。自負や目指すところがあまりに高く、周囲や日本の芸能界の慣習と、なかなか折り合いのつかない事も多々あったのかもしれない」と想像しています。

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カラオケでよく歌いました♪

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いつも熱唱してしまいます♪
 

桑田さんが、「最強の男性歌手」に尾崎紀世彦、「最強の女性歌手」にちあきなおみの名前を挙げたのは大いに納得しました。かの「ひとり紅白歌合戦」からもわかるように日本の歌謡曲を愛し抜いている桑田さんならではのチョイスだと思います。蛇足ながら、わたしなら男性歌手に前川清沢田研二、女性歌手に美空ひばり、MISHAをエントリーしたいと思いますが・・・・・・。じつは、尾崎紀世彦また逢う日まで」はわがカラオケ・レパートリー曲なのであります。2019年7月3日にメモリード創立50周年記念祝賀会前夜祭として長崎で行われた互助会経営者カラオケ大会で、わたしは「また逢う日まで」を歌ったのですが、なんと優勝しました!(笑)

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喝采」も大好きな名曲です♪

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この歌は心に沁みますね♪

 

そして、ちあきなおみ喝采」もわがカラオケ・レパートリー曲です。もちろん現在はコロナでカラオケ自体に行きませんが、コロナ以前はよく歌いました。この歌は元恋人の葬儀の場面を歌ったナンバーですが、そこには悲しい物語があって、しみじみと心に沁みる名曲ですね。桑田さんは、以下のように述べます。
尾崎紀世彦さんと、ちあきなおみさん。少し『お題』と方向は逸れたが、大好きなお二人の話が出来て本当に良かった。結局、歌の上手さとは何なのだろう!? 1つ言えるのは、その曲に出逢い、上手く寄り添って、その結果として曲の妙味を最大限に引き出せた人こそが、最も上手い歌手なのだと思う」

 

最後に、桑田さんは「アタシにとっての『最強の歌手』とは、人物としても大変魅力的で、色っぽい人の事だったんだね!! 偉大なる大先輩方の事は、決して忘れません。尾崎紀世彦さん、ちあきなおみさん、本当にありがとうございました」と述べるのでした。ちなみに、わたしが一番好きな歌手は桑田佳祐その人です。桑田さんの歌で、どれだけ人生が豊かになったか計り知れません。いつかお会いして、直接、感謝の言葉を述べたいと思っています。



そして、「人物としても大変魅力的で、色っぽい人」といえば、やはり、桑田圭祐さん自身もリスペクトされている前川清さんを置いて他にありません。前川さんがわが社のイメージ・キャラクターになって、社名のサウンドロゴを含んだCMソングを歌って下さったことは、わたしにとって最高の喜びです!

 

2021年2月15日 一条真也

「すばらしき世界」

一条真也です。
2月14日、バレンタインデーの日曜日、小倉は最高気温が21度もあって春のようでした。わたしはパンを買いに行った帰りに、シネプレックス小倉で日本映画「すばらしき世界」を観ました。コロナ禍で生きづらさを感じている自分の心情にフィットして、少しだけ心が軽くなった気がしました。



ヤフー映画の「解説」には、「『ゆれる』『永い言い訳』などの西川美和が脚本と監督を手掛け、佐木隆三の小説『身分帳』を原案に描く人間ドラマ。原案の舞台を約35年後の現代に設定し、13年の刑期を終えた元殺人犯の出所後の日々を描く。『孤狼の血』などの役所広司が主演を務め、テレビディレクターを『静かな雨』などの仲野太賀、テレビプロデューサーを『MOTHER マザー』などの長澤まさみが演じている。橋爪功梶芽衣子、六角精児らも名を連ねる」と書かれています。

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「下町で暮らす短気な性格の三上(役所広司)は、強面の外見とは裏腹に、困っている人を放っておけない優しい一面も持っていた。過去に殺人を犯し、人生のほとんどを刑務所の中で過ごしてきた彼は、何とかまっとうに生きようともがき苦しむ。そんな三上に目をつけた、テレビマンの津乃田(仲野太賀)とプロデューサーの吉澤(長澤まさみ)は、彼に取り入って彼をネタにしようと考えていた」



この映画のラストを観て、あまりにも「すばらしき世界」とはかけ離れた悲劇的結末にも関わらず、わたしは「やっぱり、この世界は捨てはもんじゃないな」と思いました。映画監督で作家の森達也氏に『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』(ちくま文庫)という著書があるのですが、そのタイトルそのままの感じでした。原案となった佐木隆三の『身分帳』では、人生の大半を獄中で過ごした受刑10犯の男が極寒の刑務所から満期で出所します。身寄りのない無骨者が、人生を再スタートしようと東京に出て、職探しを始めますが、世間のルールに従うことができず衝突と挫折の連続に戸惑うさまを描いた傑作ノンフィクション・ノベルでした。映画「すばらしき世界」の主人公・三上も娑婆での新生活に戸惑います。



元ヤクザが出所後に迷いながら生きるのは、ブログ「ヤクザと家族 The Family」で紹介した映画も同じですが、あの作品が組=暴力団へのノスタルジーを描いていたのに対して、三上の場合は組には属さない一匹狼でした。そういえば、「ヤクザと家族 The Family」で暴力団の若頭を演じた北村有起哉が「すばらしき世界」では元ヤクザの三上の社会復帰のサポートをする行政のケースワーカーを演じていたのは面白かったです。ヤクザもケースワーカーもほぼ同時に演じ分けることができるなんて、役者というのは凄いですね。



三上は持ち前の短気が禍して、周囲の人間とうまくやっていけません。刑務所でもトラブル続きでしたが、それは彼の正義感の強さのせいでもありました。わたしも短気で喧嘩っ早く、それなりに正義感もある方だと自分では思っていますので、三上の気持ちは痛いほどわかりました。ただ、わたしは短気なことを恥じてもいます。映画鑑賞の前日に「サンドウィッチマン芦田愛菜の博士ちゃん ~三国志を映画・漫画・ゲームで爆笑解説~」というTV番組をたまたま目にしたのですが、『三国志』オタクの10歳の小学生が、「三国志から何を学びましたか」と質問され、「感情を剥き出しにする人間からは人が離れていくことを学びました」と答えたのにはドキッとしました!



そんな三上が更生して、堅気の社会人として生きていこうとするさまをTVプロデューサーの吉澤遥(長澤まさみ)とTVディレクターの津乃田龍太郎(仲野大賀)の2人が番組にしようとします。自分がTVの視聴率のために利用されることもわかっていながら、三上は「TVに出ることによって、生き別れした母親に会えるかもしれない」と思って、引き受けるのでした。焼肉屋でのシーンでは長澤まさみ演じる吉澤プロデューサーが妙に艶めかしく、その帰りにサラリーマンをカツアゲしていた不良2人と喧嘩して撃退した三上の姿を見て逃げ出した仲野大賀演じる津乃田ディレクターはひたすら情けなかったです。しかし、その後、津乃田は仕事抜きで三上と真剣に向き合うようになり、彼の社会復帰も全力で支えていくのでした。



津乃田の他にも、社会復帰するべき必死で藻掻く三上をサポートする人々が少しづつ現れます。弁護士で三上の身元引受人の庄司勉(橋爪功)、その妻の庄司敦子(梶芽衣子)、スーパーの店長である松本良介(六角精児)、そしてケースワーカーの井口久俊(北村有起哉)などです。彼らは、学歴も職歴もなければ戸籍さえないという社会の最底辺に生きる三上に対して温かく接します。その利他の態度を見て、わたしは拙著『隣人の時代』(三五館)に書いた内容をいろいろと思い出して、胸が熱くなりました。



三上を温かく見守る隣人たちは、いわゆる「堅気」の一般人たちです。しかし、「極道」の中にも温かい人間はいました。三上の昔の友人であり、下稲葉組組長の下稲葉明雅(白竜)、その妻の下稲葉マス子(キムラ緑子)がそうで、はるばる訪ねてきた三上を最大限にもてなします。下稲葉組は北九州市にある設定なのでしょうか、三上が下稲葉を訪ねるのに東京からスターフライヤーに搭乗したのには笑いましたね。最後に、下稲葉組に警察が踏み込んできたとき、マス子は金の入った祝儀袋を三上に持たせて逃がします。そのとき、スマ子が「あんたは娑婆で頑張りなさい。我慢することばかりやろうけど、娑婆の空は広いち言いますよ」と語ったのには泣けました。一方、三上が就職した介護施設のスタッフに身障者のスタッフをいじめるようなクズがいたのには、胸が痛みました。



主人公の三上を演じた役所広司はさすがの演技でした。長崎県諫早市で生まれ、大村市長崎県立大村工業高等学校卒業後、上京して千代田区役所土木工事課に勤務。友人に連れられて観劇した仲代達矢主演の舞台公演「どん底」に感銘を受け俳優への道を志します。200倍もの難関である仲代が主宰する俳優養成所「無名塾」の試験に合格。芸名は前職が役所勤めだったことに加え、「役どころが広くなる」ことを祈念して仲代が命名したそうです。その後、数多くのヒット作に主演し、1996年から7年連続で日本アカデミー賞の優秀主演男優賞を受賞するなど、毎年の映画祭でその名前を挙げられないことはないほど名実共に、日本を代表する映画俳優の1人となりました。海外でもその高い演技力に対し賞が贈られていますが、最近では、「ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ」で、「我こそは田中」という名の大阪芸人が役所のモノマネをして話題を呼んでいます。



ところで、刑務所を出所するシーンがあったので、わたしはひそかに三上が何かを旨そうに食べるシーンを期待しました。というのも、わたしは、名作「幸福の黄色いハンカチ」で刑務所を出所した高倉健演じる主人公が大衆食堂に入って、ビールと醤油ラーメンとカツ丼を注文して食べるシーンが大好きなのです。健さんは本当に旨そうにビールを飲み、ラーメンやカツ丼をかっ食らっていました。刑務所で臭い飯を食い続けてきたからこそ、あの食事は最高だったはずで、それこそ「すばらしき世界!」と叫びたくなる気分だったと思います。一方の「すばらしき世界」では、それなりに食事のシーンはいくつかあって、三上はすき焼や焼肉や卵かけ御飯などを食べるのですが、今一つ旨そうではありませんでした。そこが、わたし的には物足りませんでしたね。現在、コロナで緊急事態宣言最中で何も楽しいとがありませんが、せめて食事で心を豊かにしたいものです! がんばれ、町の飲食店!



最後に、「すばらしき世界」のラストでは、ある登場人物が死にます。その死の描き方を見て、死生観についても考えさせられました。ブログ「蜩の記」で紹介した映画も役所広司の主演でしたが、無実の罪で3年後に切腹を控える武士・秋谷を見事に演じました。この映画で最もわたしの心に響いたセリフは「死ぬことを自分のものとしたい」という秋谷の言葉でした。予告編には「日本人の美しき礼節と愛」を描いた映画という説明がなされ、最後は「残された人生、あなたならどう生きますか?」というナレーションが流れます。切腹を控えた日々を送る武士の物語ですが、ある意味でドラマティックな「修活」映画と言えるでしょう。それに比べて、「すばらしき世界」で描かれた登場人物の死はあまりにも平凡です。というか、いわゆる「孤独死」です。切腹孤独死の「あいだ」に、日本人の死生観が漂っているように思えてなりません。最近つくづく思うのですが、どんな映画でも、「いかに生き、いかに死ぬか」を観客に問うていますね。

 

2021年2月15日 一条真也

「青天を衝け」スタート!

一条真也です。
2月14日の20時からNHK大河ドラマの新番組「青天を衝け」がスタートしました。わたしは第1回目の放送を観ましたが、ふだんテレビを観ないわたしにとって、きわめて異例のことです。大河の第1回目を観たのは、2010年1月3日開始の「龍馬伝」以来です。あと、大河ドラマスペシャルの「坂の上の雲」(2009年~2011年)は全話観ましたね。わたしは、幕末・明治の物語が好きなようです。



なぜ、わたしが「青天を衝け」を観ようと思ったかというと、主人公が尊敬してやまない渋沢栄一翁だからです。渋沢栄一は、約500の企業を育て、約600の社会公共事業に関わった「日本資本主義の父」として知られています。晩年は民間外交にも力を注ぎ、ノーベル平和賞の候補に二度も選ばれています。その彼が生涯、座右の書として愛読したのが『論語』でした。渋沢栄一の思想は、有名な「論語と算盤」という一言に集約されます。それは「道徳と経済の合一」であり、「義と利の両全」です。結局、めざすところは「人間尊重」そのものであり、人間のための経済、人間のための社会を求め続けた人生でした。

 

論語と算盤 (角川ソフィア文庫)

論語と算盤 (角川ソフィア文庫)

 

 

NHK公式サイト「青天を衝け」の「番組紹介」の「物語」には、「官尊民卑の世は、承服できん! 百姓からの脱却を決意」として、「天保11年(1840)、武蔵国・血洗島村。藍玉づくりと養蚕を営む百姓の家に、栄一は生まれた。おしゃべりで物おじしないやんちゃ坊主は、父・市郎右衛門の背中に学び、商売のおもしろさに目覚めていく。ある日、事件が起きた。御用金を取り立てる代官に刃向かったことで、理不尽に罵倒されたのだ。栄一は官尊民卑がはびこる身分制度に怒りを覚え、決意する。『虐げられる百姓のままでは終われない。武士になる!』」

f:id:shins2m:20210214200650j:plain「青天を衝け」のタイトルバック(NHKより)

 

また、「目指せ、攘夷の志士! ところが計画中止、追われる身へ・・・・・・」として、「千代と結婚した栄一は、従兄の惇忠や喜作と共に、尊王攘夷に傾倒していく。江戸で仲間を集め、横浜の外国人居留地を焼き討ちする攘夷計画を企てた。しかし、京の情勢に通じた従兄の長七郎の猛反対にあい、あえなく断念。逆に幕府に追われる立場となり、喜作と共に京へ逃げる。彼らに助け船を出したのは、一橋慶喜の側近・平岡円四郎だ。幕府に捕らわれて死ぬか、一橋の家臣となるか。『生き延びればいつか志を貫ける』。この選択が、栄一の運命を変えていく」と書かれています。

f:id:shins2m:20210214200250j:plain吉沢亮演じる渋沢栄一(NHKより)

 

さらに、「心ならずも幕臣に。パリ行きが人生を開く!」として、「栄一は一橋家の財政改革に手腕を発揮し、慶喜の信頼を得る。ところが、慶喜が将軍となり、倒幕を目指すどころか幕臣になってしまった。失意の栄一に、転機が訪れる。パリ万国博覧会の随員に選ばれたのだ。慶喜の弟・昭武とパリに渡った栄一は、株式会社とバンクの仕組みを知り、官と民が平等なだけでなく、民間が力を発揮する社会に衝撃を受けた。そんな折、日本から大政奉還の知らせが届き、無念の帰国へ・・・・・・」と書かれています。

f:id:shins2m:20210214200504j:plain草彅剛演じる徳川慶喜(NHKより)
 

そして、「まさかの新政府入りで、続々改革。33歳でいよいよ民間へ」として、「帰国後、様変わりした日本に衝撃を受けた。静岡で隠棲する慶喜と再会した栄一は、身をやつした姿に涙し、慶喜を支えることを決意する。しかし突然、明治新政府から大蔵省への仕官を命じられて上京。『改正掛』を立ち上げ、租税・鉄道・貨幣制度など次々と改革を推し進めること3年半。栄一はある決意を胸に辞表を提出した。この時、33歳。いよいよ、栄一の目指す民間改革が始まるのだった・・・・・・!」

f:id:shins2m:20210214205759j:plain第一回「栄一、目覚める」(NHKより)

 

15分拡大版の第一回「栄一、目覚める」では、武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市)で養蚕と藍玉作りを営む農家の長男として生まれた栄一(子役・小林優仁)が人一倍おしゃべりの剛情っぱりで、いつも大人を困らせていた様子が描かれました。ある日、罪人が藩の陣屋に送られてきたことを知った栄一は、近くに住むいとこの喜作(子役・石澤柊斗)らと忍び込もうと企みます。一方、江戸では、次期将軍候補とすべく、水戸藩主・徳川斉昭竹中直人)の息子である七郎麻呂(子役・笠松基生)を御三卿の一橋家に迎え入れる話が進んでいました。

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父と子(NHKより)

f:id:shins2m:20210214201746j:plain母と子(NHKより)


第一話では、栄一の幼少期に父や母からどのような影響を受けたかも具体的に描かれており、非常に興味深かったです。幼い栄一に、小林薫演じる父は「上の者は、下の者を守るのがつとめだ」と言い、和久井映見演じる母は「みんなが幸せなのが一番だ」と言います。まさに『論語』に通じる「人の道」と呼ぶべきメッセージですが、成長した栄一は両親の教えを忘れませんでした。

f:id:shins2m:20210214200015j:plain北大路欣也徳川家康登場!(NHKより)

 

また、第一話では冒頭に北大路欣也徳川家康が登場して驚きましたが、家康と栄一には時代は違えど大きな共通点があります。それは、ともに『論語』を愛読したことです。『論語』はわたしの座右の書でもありますが、その真価を最も理解した日本人が3人いると思っています。聖徳太子徳川家康渋沢栄一です。聖徳太子は「十七条憲法」や「冠位十二階」に儒教の価値観を入れることによって、日本国の「かたち」を作りました。徳川家康儒教の「敬老」思想を取り入れることによって、徳川幕府に強固な持続性を与えました。そして、渋沢栄一は日本主義の精神として『論語』を基本としたのです。

 

論語 (岩波文庫)

論語 (岩波文庫)

 

 

聖徳太子といえば日本を作った人、徳川家康といえば日本史上における政治の最大の成功者、そして渋沢栄一は日本史上における経済の最高の成功者と言えます。この偉大な3人がいずれも『論語』を重要視していたということは、『論語』こそは最高最大の成功への指南書であることがわかります。わたしの著書に『孔子とドラッカー新装版』(三五館)という本がありますが、渋沢は孔子をリスペクトし、ドラッカーは渋沢をリスペクトしていました。

 

 

まさに、渋沢栄一こそは、まさに孔子ドラッカーをつなぐ偉大なミッシング・リンクでした。『論語』を座右の書とした渋沢は生涯を通じて「利の元は義」であると訴えましたが、これこそは、わがサンレーの目指す「天下布礼」の志を支える思想であると思っています。東京五輪パラリンピック組織委員会の森会長が辞任し、次期会長選びが迷走していますが、この新ドラマが「真のリーダーとは?」ということを教えてくれそうな予感がします。



2021年2月14日 一条真也

『鬼滅の刃』の新しい解釈書

一条真也です。ハッピーバレンタイン!
大きな地震がありましたね。新たな災害が心配です。
さて、拙著『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)がおかげさまで好評ですが、同書の書評がJ‐CASTニュースをはじめ、LINEニュース、スマートニュース、MSNなど合計15以上のサイトに掲載されました。ヤフー・ニュースにも転載されるようです。執筆者は、コラムニストで、明治大学サービス創新研究所客員研究員の尾藤克之氏です。

f:id:shins2m:20210214100536j:plainJ‐CASTニュース」より

 

記事は、「『鬼滅の刃』を現代人の精神性から検討した新しい解釈書【尾藤克之のオススメ】」のタイトルで、リード文は以下のようになっています。
「社会現象となっている『鬼滅の刃』。筆者は、最初は正義感の強い主人公が成長とともに鬼を対峙するありきたりなストーリーと考えていました。しかし、コロナ禍における自粛ムードにも関わらず作品は空前の大ヒットを記録します。そこには、何か秘密があるに違いないと、誰もが思っていたのではないでしょうか。今回紹介する一冊は、博覧強記の哲人経営者として、ネット界で知られる著者が『鬼滅の刃』ブームに切り込んで、社会現象になった大ブームのメカニズムを完全に解き明かします。『鬼滅の刃』論の決定版といえるでしょう」

 

尾藤氏は、また、「『鬼滅の刃』が描く魂のルールとは」として、「みなさんは『盆踊り』のルーツをご存知でしょうか――。『盆踊り』は祖先などの霊魂や神を迎え、また送り出す様式として用いられていたものです。民俗学柳田國男は長野県下伊那郡阿南町の『新野の盆踊り』がもっとも原形を留めていると評しています」と述べ、わたしの「この例では初盆の切子灯籠を先頭にして堂や祠を回った後、村境で踊り神送りと言われる神の送り出しが行われます。この様な例から、盆踊りが踊りをもって祖先などの神を迎え、そして送り出すことに重点が置かれた行事であったことが理解できましょう」「『阿波おどり』は盆踊りの大衆化した事例ですが、その起源は詳らかではありません。しかし、精霊踊りや念仏踊りが原形である点や、開催される時期を考えれば、盆踊りと同じ観念に基づいて形成されているとみても良いでしょう」という言葉を紹介されています。

 

さらに尾藤氏は、「『精霊流し』という、長崎県熊本県佐賀県でお盆に行われる死者の魂を弔って送る行事があります。初盆を迎えた故人の家族らが、盆提灯や造花などで飾られた精霊船に故人の霊を乗せて、『流し場』と呼ばれる終着点まで運ぶものです。この行事は、爆竹の破裂音、鉦(かね)の音、掛け声が交錯する喧騒の中で進行します」と述べ、わたしの「特に長崎市のものが有名ですが、佐賀や熊本など北部九州でみられる行事です。盆の15日もしくは16日に、盆の供え物を川や海に流して仏を送り出すものです。長崎市のものは鉦や爆竹が伴い、大変な賑わいを見せます。この行事は送り出す方面が主として注目されますが、本来は盆に先祖を迎える行事と対になっていたことが指摘されており、そうした風習が残る地域もあるといいます」という言葉を紹介されています。

 

そして、尾藤氏は「年中行事の意義とはなにか」として、「ほかにも、日本における祭礼はたくさんありますが、新型コロナウイルスはあらゆる祭礼に何らかの影響を与えていると、一条さんは指摘します。さらに、コロナ禍における祭礼のあり方は、日本人の『こころ』を安定させるためにも、今後早急に検討されなければいけない課題だともいいます」と述べ、わたしの「冠婚葬祭、年中行事、そして祭礼は広く『儀式文化』としてとらえることができます。そして、それらは『かたち』の文化です。それが何のために存在するのかというと、人間の『こころ』を安定させるためです」「コロナ禍では、卒業式も入学式も結婚式も自粛を求められ、通夜や葬式さえ危険と認識されました。しかしながら、儀式は人間が人間であるためにあるものです。儀式なくして人生はありえません。人間の『こころ』はいつの時代も不安定ですが、だから安定させるための『かたち』すなわち儀式が必要なのです」という言葉を紹介されるのでした。

 

最後に、尾藤氏は「本書は、現代人の精神性を検討したうえで『鬼滅の刃』のヒットした要因を解説しています。さらに、日本人の性質を踏まえた上で『儀式』に帰結させている点が興味深いといえます。『鬼滅の刃』の新たな解釈を知りたい人には一読の価値があるといえるでしょう。と書いて下さいました。達意の文章で、わたしのメッセージをわかりやすく要約して下さった尾藤氏に心より感謝申し上げます。

 

 

2021年2月14日 一条真也

バレンタインデー

一条真也です。
13日23時08分頃に福島県宮城県で最大震度6強の大きな地震がありました。東京もかなり揺れたようで、いよいよ東京五輪どころではありませんね。
2月14日になりました。バレンタインデーです。

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いただいたチョコレートの一部

 

今年はコロナ禍で「チョコは貰えないだろうな」と思っていたのですが、会社のみなさんや愛読者の方々からたくさんのチョコを頂戴しました。サンレー本社の女子社員のみなさんからは「日頃の感謝を込めて」とか、読者の方からは「執筆の合間にチョコっと召し上がってください」などと直筆で書かれたカードが添えられていました。話題の鬼滅チョコもありました。本当に、ありがたいことです。

f:id:shins2m:20210213164426j:plainありがとうございます!

 

今年は14日が日曜日なので、13日までに届けて下さる方が多かったです。わたしは、ブログ「春を呼ぶ不織布マスク」で紹介したピンクのマスクを着けて、チョコと一緒に記念撮影しました。

f:id:shins2m:20210213162133j:plain春よ来い、早く来い!

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鬼滅チョコもいただきました!

 

クリスマスと同じように、戦後の日本の中で定着した欧米由来の年中行事の1つがバレンタインデーです。バレンタインというのは3世紀に実在した司祭の名前で、彼が殺された日が2月14日でした。なぜ求愛の儀式になったかというと、戦争に出兵する兵士たちの結婚を禁止した当時の皇帝の命令に背いて、結婚を許可したことで司祭が殺されたからです。もともとは求愛の儀式で欧米で定着したものでしたが、日本では女性から告白する、その際にチョコレートをプレゼントすることになっています。

 

決定版 年中行事入門

決定版 年中行事入門

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2018/06/20
  • メディア: 新書
 

 

このようにバレンタインデーが日本独自の儀式に変容したのは、拙著『決定版 年中行事入門』(PHP研究所)にも書きましたが、チョコレートメーカーと百貨店のセールスプロモーションがきっかけになったのは有名な話です。その最初の仕掛け人としては、モロゾフ、メリーチョコレートカムパニー、森永製菓、伊勢丹ソニープラザなど諸説あるようです。今は求愛儀式というより、自分や友人に「ごほうび」を与える、そんな儀式に変わりつつあります。いつまで、この儀式は続くのでしょうか?

 

2021年2月14日 一条真也

春を呼ぶ不織布マスク

一条真也です。
コロナ時代はマスクが不可欠です。
わたしは鬼滅(市松模様)の布マスクと黒のウレタン・マスクを普段は愛用していますが、飛行機や新幹線に乗るときは不織布マスクを使います。感染防止力において不織布マスクが最も優れているからです。

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カラフルな不織布マスクを買いました

 

最近は「不織布警察」なども話題になって物騒な限りですが、不織布マスクは白が基本で、どうも遊び心がありませんね。でも、最近はカラフルな不織布マスクも登場しています。わたしもネットで、6種類のオシャレな不織布マスクを求めました。なんと、7枚セットで440円です。安い!

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ピンクのマスクが気に入りました

 

これからはネクタイやポケットチーフの色に合わせてマスクを選びたいと思いますが、特に気に入ったのはピンクの不織布マスクです。春のイメージがいっぱいで、心がウキウキしてきます。まさに「春を呼ぶマスク」です。これを着けて、お花見などすると楽しいでしょうね。もし将来、復活した「桜を見る会」に招待されたら、このマスクで参加したいです(笑)。

f:id:shins2m:20210213162349j:plain「春を呼ぶマスク」を着けて 

 

13日(土)の小倉は最高気温が19度と暖かかったので、ピンクのマスクを着けて魚町まで行ってきました。何人もの方から「かわいいマスクですね」と言われましたが、ある人から「禰豆子マスクですね」と言われてビックリ! たしかに、禰豆子の着物の柄(麻の葉文様)ではありませんか!

f:id:shins2m:20210213165920j:plainなんと、禰豆子の着物の柄でした! 

 

それに気づいた人もかなりの鬼滅マニアですが、日頃から着物を見慣れている方なのでしょうね。わたしも、普段は市松模様の炭治郎の布マスクで、乗り物に乗るときは麻の葉文様の禰豆子マスクを着けるのもいかもしれません。マスクをしなければならない生活は窮屈で面倒ではありますが、ちょっとした遊び心でマスクもファッションの一部になりますよね。ということで、春よ来い、早く来い!

 

2021年2月13日 一条真也

『日本SF精神史【完全版】』

日本SF精神史【完全版】

 

一条真也です。
『日本SF精神史【完全版】』長山靖生著(河出書房新社)を読みました。1962年生まれの著者は、本業である歯科医の仕事のかたわらに近代日本の文化史・思想史から、文芸評論や現代社会論まで、幅広く執筆活動を行っています。ブログ『『論語』でまともな親になる』で紹介した本をはじめ、わたしは著者の本を数冊読んでいますが、オカルトやSFなど、わたしの関心分野と重なる面も多く、非常に面白い本を書かれています。本書もとても面白く読みました。 

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本書の帯

 

本書のカバー装画には、小杉未覚筆の押川春浪「鉄車王国」(「冒険世界」明治43年4月増刊号)の口絵が使われ、帯には「幕末・明治から戦後、そして現在まで」「〈未来〉はどのように思い描かれ、〈もうひとつの世界〉はいかに空想されてきたか――。日本的想像力200年の系譜をたどる画期的通史。日本SF大賞星雲賞ダブル受賞作の完全版」「宮部みゆきさん推薦!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「長山さんといえば〈偽史研究〉。〈人はなぜ歴史を偽造するのか〉を読んで以来、私はずっとそう思ってきたので、近世にはじまる国産SFの歴史をひもとくと、やっぱり偽史とクロスするのだというくだりに、そうくなくっちゃと快哉を叫びました。人はなぜ過去を偽造し、未来を空想しなければ、現在を生きていけないのか。それは人が物語なしには生きられないからであり、その物語がもっとも純粋で極端な表現型を持つと、〈奇想〉になる。SFの歴史の一面は、この〈奇想〉をどのようにして現実と擦り合わせ、それによって現実を解釈するかという努力と創意の歴史でもあり、だからこそ面白いのだということを、ちょっと胸を張って主張したくなるような読後感でした。――――宮部みゆき(第31回[2010]日本SF大賞 選考の言葉)」と書かれています。なお、本書は著者の『日本SF精神史』『戦後SF事件史』の2冊を合本・再編集の上、加筆・修正を施したものです。

 

日本SF精神史----幕末・明治から戦後まで (河出ブックス)

日本SF精神史----幕末・明治から戦後まで (河出ブックス)

  • 作者:長山 靖生
  • 発売日: 2009/12/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
戦後SF事件史---日本的想像力の70年 (河出ブックス)

戦後SF事件史---日本的想像力の70年 (河出ブックス)

  • 作者:長山 靖生
  • 発売日: 2012/02/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
序章 近代日本SF史
   ――「想像/創造」力再生の試み

第一章 幕末・維新SF事始
    ――日本SFは二百歳を超えている
第二章 広がる世界、異界への回路
第三章 覇権的カタルシスへの願望
    ――国権的小説と架空史小説
第四章 啓蒙と発明のベル・エポック
第五章 新世紀前後――未来戦記と滅亡テーマ
第六章 三大冒険雑誌とその時代
第七章 大正未来予測とロボットたち
第八章 「新青年」時代から戦時下冒険小説へ
    ――海野十三の可能性
第九章 科学小説・空想科学小説からSFへ
第十章 空想科学からSFへ
第十一章 闘う想像の現場
     ――騒乱と創造と裁判沙汰
第十二章 論争と昂揚の日々
第十三章 発展と拡散の日本SF黄金期
     ――あるいはオカルトと
       多様化する創造的想像力

第十四章 八〇年代の輝き
     ――SFとおたくとポストモダン

第十五章 「幻想文学」とその時代
第十六章 変容と克服――本当の二一世紀へ
「あとがき」
「主要参考文献」
「主要人名索引」

 

序章「近代日本SF史――『想像/創造』力再生の試み」の冒頭を、「歴史的な未来を所有するために」として、以下のように書きだしています。
「本書は日本SFを近代意識の目覚めに置き、200年を超える射程でとらえ、ひとつの連続した歴史としてたどろうとする試みだ。江戸後期(1780年代)や幕末期(1850年代)に書かれた架空史から、明治の未来小説・冒険小説、大正・昭和初期の探偵小説・科学小説を経由し、1970年頃の星新一小松左京筒井康隆ら現代SF第1世代の活躍、そして現在に至るまでを、一貫した問題意識を持つ体系として描き出したい。それは同時に、近代日本が内包していた想像力の多様性を明らかにすることであり、文学史・社会史のなかにSF的作品を位置づけしなおす営為ともなるはずだ」

 

 

また、「科学小説・空想科学小説、SSFと『古典SF』」として、著者は「SF史を書く場合、まず問題になるのは、SFの起源をどこに置くかだ」と述べ、さらにSFというジャンルの成立は、新しくて古い。遡ればどこまでも古く、人類の想像力のはじまりの地点までも遡ることができるだろう。実際、『オデュッセイア』や『聖書』、日本なら『古事記』や『竹取物語』をSFとして読むことだって、不可能ではない。一方、このジャンルを厳格に規定する者は、1920年代にその起源を求めるのが通例だ。サイエンス・フィクションというジャンル名は、アメリカの作家ヒューゴー・ガーンズバックが1926年にSF専門誌『アメージング・ストーリーズ』を創刊した際、まずサイエンティフィクションという造語を提示し、続いて1929年に創刊した『サイエンス・ワンダー・ストーリーズ』を通じてサイエンス・フィクションという名称で一般化をはかった。それがやがてSFという略称となって普及した」と述べています。

 

 

一般的に初期のSFという時、わたしたちが思い浮かべるのはジュール・ヴェルヌやH・G・ウエルズの作品だ。あるいはメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818)であり、エドガー・アラン・ポーの作品群であろうとして、著者は「それらはいずれも近代の機械文明が、明るい驚異ばかりでなく、いささかの恐怖をもって社会に浸透しはじめた時代の産物であり、伝統的な古典的教養以上に、最新の科学知識に通暁することが重要だと考えられるようになった時期に発生した文学だった。ヴェルヌが活躍した時代には、まだSFという名称はなく、ウエルズの作品はサイエンス・ロマンスと呼ばれた。しかし名称はなくても、たしかにSFは生まれていたのである。概念に先行して、あたかも存在しない未来そのものを生み出すかのようにして、SF概念以前にSF作品が生まれていたことを、私は深い感動をもって受け止めたいと思う」と述べています。

 

月世界へ行く (新装版) (創元SF文庫)

月世界へ行く (新装版) (創元SF文庫)

 

 

また、用語にこだわるなら、「科学小説」という日本語は明治19(1886)年に造語されていると説明されます。これはフランスでヴェルヌが活躍していた時代と重なるもので、実際、その後長らく、サイエンス・ノベルの訳語として、またSFを意味するジャンル名として使用されました。その後、昭和7(1932)年には「空想科学小説」という名称が、SFとほぼ同義で用いられた例があります。さらに、ガーンズバックの運動とほぼ時期を同じくして、日本でも科学文芸運動が試みられたことがありました。著者は、「日本SFは、たしかに150年以上前から、同時代の世界的な政治情勢や文化事情の影響を受けつつ独自の展開をみせ、時には世界のSF潮流に先駆けて発展してきたのである。日本でSFという語が一般読者にも定着したのは、昭和34年の『SFマガジン』創刊によってだったが、通常は1945年の終戦を境にして、それ以前の作品を『古典SF』と呼ぶのが一般的である」と述べるのでした。



第三章「覇権的カタルシスへの願望――国権的小説と架空史小説」では、いわゆる偽史が取り上げられますが、「捏造される『歴史』」として、著者は「偽史とは何か。明らかに虚構の話を歴史として押し通そうとするのが偽史である」と述べます。「これは事実である」「このような記録が見つかった」という書き方は、近代小説でもしばしば使われました。そもそも近代文学は私的な、内面の真実の告白を描くものという考え方がありますが、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719)が記録文学を装い、ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』(1774)が書簡体で書かれていることからも分かるように、近代文学は本当の私的告白ではなく、当初から「告白らしさ」「真実らしさ」を装った虚構だったと指摘し、著者は「この装いは私小説現代文学どころか、テレビの『アウターリミッツ』や『ウルトラQ』の『これは真実の記録です』といったようなナレーションにまでつながる基本技法となった」と述べます。



だとすれば偽史は、歴史ではなく文学(前近代の左国史漢的「文学」ではなく、真実の記録を装うフィクションとしての近代文学)として論ずべき「作品」となります。読者は偽史を「信じる」ことがあるかもしれませんが、〈偽史〉の作者はそれが事実ではないことを知りながら書いているのです。著者は、「偽史は厳密にいえば歴史ではなく、文学が扱うべき対象だと考えるのは、そうした作者のメンタリティへの認識からだ。私小説が私的真実を装った小説であるように、偽史は史的真実を装い、未来への欲望を過去形で語る倒錯した未来小説なのである」と述べています。

 

第四章「啓蒙と発明のベル・エポック」では、「『造化機論』から『人身体内政事記』へ」として、著者は、科学知識の普及を目指した啓蒙小説を取り上げます。明治初期のベストセラーの1つに『造化機論』という本がありました。江戸後期の蘭学以来、「開化」的知識の先駆であった医学分野の啓蒙書ですが、その実態は解剖図入りの性の通俗解説書という側面を持っており、科学的興味とは別種の関心から広く読まれたようです。

 

また、灘岡駒太郎『衛生鏡 人身体内政事記』という本は、「幕末から明治初期にかけて、日本では何度かコレラの大流行があり、伝染病に対抗するための衛生知識普及も急務とされていた。コレラとの戦いは、文字どおり命がけの戦いであったために、しばしば戦争のイメージで語られた。図説入りの衛生書では、薬は砲弾に譬えられ、予防は『黴菌軍』と『衛生軍』の戦いとして説かれた。こうした擬人化表現を用いた物語仕立ての〈科学小説〉は、啓蒙書であると同時にSFだともいえる。しかもこの手の作品は、啓蒙書としては失敗しているほうが、SF史的には『トンデモ本』的で面白いという、微妙な地点に立っている」本の典型でした。

 

 

時代はうんと進んで、第八章「『新青年』時代から戦時下冒険小説へ――海野十三の可能性」では、昭和初期に日本の敗戦や空襲の危険性を描いた海野十三が取り上げられます。彼は、戦時体制が強まるにしたがって、来るべき日米戦の戦意高揚ではなく、宇宙や異次元との戦いを描くようになっていきました。蘭郁二郎亡き後、海野十三は自分が夢見てきた空想科学小説を大成させ得る才能として、新進気鋭の漫画家である手塚治虫に大きな期待をかけるようになっていました。海野は「自分が健康だったら、この青年に東京に来てもらって自分が持っているすべてを与えたい」と妻に語っています。

 

鉄腕アトム プロローグ集成 (立東舎)

鉄腕アトム プロローグ集成 (立東舎)

  • 作者:手塚 治虫
  • 発売日: 2019/11/21
  • メディア: 単行本
 

 

海野と手塚について、著者はこう述べています。
「1949年に海野が亡くなったため、海野と手塚は直接の師弟関係を結ぶことはなかった。しかし手塚は海野十三に私淑し、その作品から強い影響を受けていた。伴俊男によれば〈(少年時代の手塚は)火星兵団が連載された時などは、食事も忘れ学校に行くのも忘れて読みふけった〉(『手塚治虫物語』)といい、手塚自身も田河水泡海野十三とは、ボクの一生に大きな方針をあたえてくれた人〉(『わが思い出の記』)と述べている。具体的には、『鉄腕アトム』が備えた7つの能力の多くは海野の『人造人間エフ氏』の設定と重なっており、手塚『火星博士』のピイ子は、海野十三『地球盗難』のアンドロイド・オルガ姫に影響を受けていると、手塚自身が発言している(『手塚治虫対談集3』)」

 

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 

 

第九章「科学小説・空想科学小説からSFへ」では、作家・安部公房が取り上げられ、彼の発想の転換は、当時はアヴァンギャルド芸術の思想と呼ばれたことを指摘し、著者は「だとすれば彼が実践したアヴァンギャルドとはSFにほかならない。政治的革命思想としてのアヴァンギャルドは、ブルジョワ的常識からの転換という意味で唱えられたが、安部公房発想の転換を思想の転換にまで高めた。安部にとってそれは当初からヒューマニズムすら人類のエゴと看破するレベルまで推し進められており、それが人間と物質を等価にみる彼独自の変身テーマに結びついたものと思われる」と述べています。

 

 

なお、日本SF界では、後に「SFマガジン」を創刊する際、福島正実編集長はSFイメージを表す画家としてクレー、シャガール、キリコ、ミロ、ダリ、エルンストを想像しました。ブログ『未踏の時代』で紹介した本で、福島は「彼らを、新らしい現実を捉えようとして幻想的手法をとったシュールレアリストたちと考えたならば、新らしい現実を空想の中に求めるSFに、最もふさわしいはずだ」と考えたのです。著者によれば、これも安部の嗜好と共通しているとか。

 

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)

 

 

また、「アリス・コンプレックスの起源としての『壁』」として、著者は、安部公房の『壁――S・カルマ氏の犯罪』がルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に触発されて40時間ほどで一気に書き上げられたことを紹介し、そこにはシュルレアリスム、特にダリの影響が濃厚に刻印されていると指摘します。さらに著者は、「『壁』への影響にも見られるようにSFからオタク文化に至る想像力のなかで、「アリス」は特権的な位置を占めていた。数学者であったルイス・キャロルの作品は、幻想の背景に数学的論理性を持っており、人間の無意識的な想像力にきわめて明快な輪郭を与えてくれる。ナンセンスな理論こそは、SF者を引き付けてやまないものだ。日本のオタク文化の大きな柱となるロリコンは、元々はSF・幻想ファンの、こうした『アリス』への論理的興味から起きたのではないかと私は考えている」と述べています。安部公房が日本のロリコンの元祖だったとは!

 

 

アリス幻想の根幹にあるのは性的関心よりも、むしろ非性的関心であり、単なる少女愛好ではなく、非日常的なセンスへの指向も同時に必須要素として含んでいたとして、著者は「少女性は侵犯の対象ではなく、柔軟性の象徴であり、侵犯不能(脱日常)の象徴だった。つまり厳密にいって、非実在の二次元存在への関心を前提としたSF的ロリコンは、実在少女への性的関心としてのロリータ・コンプレックスとは異なる、脱現実嗜好の表現だった(性的なアリス・コンプレックスは、後に吾妻ひでお寺山修司によって一般化された)」とも述べています。



シュルレアリスムやアリス的想像力が、もっぱら観念的な想像力を刺激するものだったとすれば、より即物的な騒動もまた、戦後の民衆の想像力を大いに刺激しました。著者は、「戦後世界の宇宙への関心は、一方ではミサイルや人工衛星の開発競争によって掻き立てられたが、大衆レベルでは『空飛ぶ円盤』ブームの影響が、何といっても大きかった」と述べています。また、第十章「空想からSFへ」では、「人工衛星と未来的社会像」として、著者は「UFO騒ぎがまだ続いていた時期である1957年の10月4日、ソ連が世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功した。さらに61年4月12日、やはりソ連によって人類史上初の有人宇宙船ウォストーク1号が打ち上げられた。宇宙飛行士ガガーリンが発した『地球は青かった』という言葉は流行語にもなった。スプートニク打ち上げは、思想的な意味でも事件だった。安部公房人工衛星をめぐる一連の出来事を、大衆にとってもルポルタージュと想像力を接合する好機と捉えた」と述べています。



また、この時代に人工衛星が日本の作家たちの思想に与えた影響について、著者は「埴谷雄高は〈(人工衛星が地球の外に出た直後、ソ連が革命40周年で何かの新しい発表をするというので)遂に人類というひとつの概念に達した。そういう一種の人類の宣言が人工衛星の上に立ってなされるんじゃないか、と考え、またしてほしいと希望をもったのです。そのときにももちろんこれまでの科学的な苦心談を入れて、今後の成り行き、月世界旅行、火星旅行はこうなるだろう、階級社会は地球の3分の2に残っているけれども、ついに止揚をされる段階にある、そういうことをのべると同時に技術の公開と軍事目的からの絶縁を宣言する。ところが、それはぼく一人の考えになってしまった。それどころか、人工衛星の意味を受け取るほうでもソヴィエト側でも軍事的な面を強調している〉との夢想と失望を語っている。武田泰淳も、人工衛星によって〈地球に残った衆生を外側から見られる。だから平等論が一歩進んだから、そういう意味で人工衛星は宗教的な仕事である〉と述べている」と紹介しています。

 

S-Fマガジン 1960年02月号 創刊号 (通巻1号)

S-Fマガジン 1960年02月号 創刊号 (通巻1号)

  • 発売日: 1959/12/25
  • メディア: 雑誌
 

 

1959年12月、日本で初となるSF専門誌「SFマガジン」が創刊されました。ここから多くの若きSF作家たちが誕生し、日本はSFブームを迎えるようになるわけですが、かの澁澤龍彦は「日本読書新聞」60年10月10日号の「推理小説月旦」に「近年、疑似科学主義的合理主義と小市民的首尾一貫性への徹底的な愚弄によって、探偵小説にまったく新しい次元を切り開いてきたのは、ジョン・コリアやサキの系統を引く『奇妙な味』の作者たちと、ある種のSF作家である」と書き、SFへの期待を語っています。

 

ボッコちゃん(新潮文庫)

ボッコちゃん(新潮文庫)

 

 

この時代にデビューし、活躍したSF作家たちを「SF第一世代」と呼びますが、著者は述べています。
「SF第一世代の人々は、『SF』を書こうとしたのではなかったと思う。星新一小松左京筒井康隆豊田有恒眉村卓光瀬龍も、漠然とではあったが『新しい文学』をそれぞれに手探りで捜し求めていた。各人の自分にとっての新しさの追求が、日本SFになっていったのである。星新一は、周知のようにショートショートで一般文芸誌やPR雑誌などから引っ張りだこになっていくが、それは星の『分かりやすさ』への努力の成果だった。SFはそもそも前衛的なジャンルだが、前衛的な内容を前衛的な文体で表現しては、読者が限定されてしまうというのが、星の持論だった。それは60年前後に並んで批評されることもあった安部公房との差異化をはかる戦略でもあったかもしれない。その安部公房は『世界』58年7月号~59年3月号に『第四間氷期』を連載し、59年7月に講談社から単行本化されていた。これは『SF長編』と銘打った日本人初の作品だった」

 

第四間氷期 (新潮文庫)

第四間氷期 (新潮文庫)

 

 

第十二章「論争と昂揚の日々」では、「日本SF作家クラブの蜜月時代、アニメ・特撮の発展」として、著者はSF第一世代の仲の良さを紹介しています。
「筒井が結婚した際には、小松左京が仲人を務めたが、『仲人だから初夜権がある』と主張。筒井は筒井で『仲人なんだから責任を持って、結婚前に遊郭に連れて行ってくれ』と要求した。もちろん両方とも冗談である。半村良が結婚した時は、新婚当夜にふたりが泊まっているホテルに星や小松らSF作家一同が押しかけた。さすがにロビーで半村を交えて歓談しただけで引き上げたそうだが、おそろしく濃厚な付き合いだ。小松と星は、よく夜間に電話をかけ合っては長話をし、これを『愛の深夜便』と呼んでいた。筒井も同様だった。また当時からSFはアニメ製作とも深く結びついていた」

 

定本 荒巻義雄メタSF全集 全7巻+別巻

定本 荒巻義雄メタSF全集 全7巻+別巻

  • 作者:荒巻 義雄
  • 発売日: 2015/09/15
  • メディア: 大型本
 

 

また、日本SFの第一世代作家たちは、濃厚な交流を持ちながらも、ひとり1ジャンルといわれるほど、独自の世界を開拓していきました。それは続く河野典生山野浩一荒巻義雄らも同様だったとして、著者は「もともとの各作家の気質や思考の違いもあるが、他のSF作家の模倣ではない独自の作品を書こうと意識して努めた結果、日本SFには多様なサブジャンルが生み出されたのだった。70年代半ばにいわれるようになる『SFの拡散と浸透』は、そのようにして進められたのだった。日本SFをSFたらしめているのは、定義づけられるような作品の傾向ではなく、『これではない別の何か』を求め続ける精神あればこそである」と述べています。

 

第十三章「発展と拡散の日本SF黄金期――あるいはオカルトと多様化する創造的想像力」では、1970年に大阪で開催された「日本万国博覧会」が取り上げられます。「『万博』と『未来』への批判と昂揚」として、著者は、戦後日本は1964年に東京オリンピックを成功させていましたが、70年の大阪万博は、一部の政治家・官僚にとっては「戦前以来の未来計画達成」でもあり、左派勢力は万博に批判的で、子供たちの参観をめぐっては、文部省と日教組が対立することになったことを紹介します。万博は「人類の進歩と調和」をテーマに掲げましたが、現実の日本は格差拡大や公害問題を抱えていました。しかも70年は安保改正の年であり、若者を中心に安保闘争・反体制の動きが活発でした。国家的イベントである万博も当然ながら批判の対象となり、巷では「反万博芸術」運動も起きていたのです。


大阪万博はSF作家が現実のプロジェクト運営を体験する機会となり、また科学的知見を大衆に受容しやすい形で表現することを実験する場ともなりました。しかし万博は、オリンピック同様、国家間競争の場だったのも事実でした。著者は、「大阪万博ではソヴィエト館とアメリカ館がしのぎを削った。アメリカ館はアポロ11号が持ち帰った「月の石」をはじめ、アポロ計画マーキュリー計画に関わる実物や模型を展示。またカナダ・ケベック館や日本館にも、米国から分与された月の石の破切が展示され、“同盟関係”が強調された。一方、ソ連館はスプートニク1号その他の主要な人工衛星、宇宙ロケットを展示(機密漏洩を恐れて、すべて実物大の木製模型だという噂もあった)。入館者数ではソ連が勝利した。万博はそのような『政治闘争』の場でもあった」と述べています。

 

 

第十四章「八〇年代の輝き――SFとおたくとポストモダン」では、「ニューアカとSF、オカルトの親和性」として、SFと現代思想の結びつきが語られます。それらの結びつきを印象付けたのは、偽史・オカルト的な主題の顕在化ではなく、コンピュータの普及・発展に関連した電脳空間的想像力への思想的アプローチとSF的想像力の接近によってだったとして、著者は「84年に発表されたウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』はひとつの事件だった(邦訳は86年)。ヴァーチャル・リアリティ、人体改造、脳内侵犯という社会的にも個人的にも旧来の自我構造そのものを無効化する主題を展開し、混沌とした未来像を打ち出したサイバーパンクは、SF界に衝撃を与えた。サイバーパンクを読みこなせるかどうかは、ニューウェイブ以上に読者の分かれ目となり、新たな読者を獲得する一方で、オールドファンのSF離れをもたらした」と述べています。

 

構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて

  • 作者:浅田 彰
  • 発売日: 1983/09/10
  • メディア: 単行本
 

 

プラザ合意以降のバブル経済発生という形而下の現象もあり、浅田彰中沢新一四方田犬彦といったニューアカデミズムならびに「新人類」は、大人たちからも肯定的に扱われるようになっていきました。その理由について、著者は「なぜなら前者は頭がよくて日本に利益を含たらしてくれそうだったし(何しろ文系なのにロートルには分からないコンピュータのことが分かるらしいし、フィールドワークをしている者もいるし、思想的に「戦後日本の無思想」というコンプレックスを払拭してくれると思われた)、後者は軽くて、浮かれていて、オシャレで、遊びに恋愛にと邁進して大量消費をしたからである。これに対して『おたく』が旧世代からもオシャレに遊ぶ同世代の若者からも差別的に扱われたのは、彼らの容姿や口のきき方に加えて、消費形態が他人にとって魅力的ではないことが大きかった。みんなが車やスキーやスキューバダイビングやクルージングに熱中し、クリスマス・イブのスイートルームを押さえるために狂奔していた時代、自分の趣味にしか金を使わない『おたく』は、不要の消費を前提とする高度経済成長下の非国民だったのである」と述べています。鋭い分析であると思います。

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2005/09/15
  • メディア: 単行本
 

 

また、現在は国民的作家としての地位を不動のものとしている村上春樹氏について、著者は「当時、村上春樹をライトSFとして読んでいた読者は多かったのではないかと思う。『羊をめぐる冒険』(1982)は夢野久作を彷彿とさせたし、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』(85)は安部公房のポップ化と思われた」と述べ、「村上龍の『だいじょうぶマイ・フレンド』(83)もSFフェアに並ぶというのが、80年代だった。大江健三郎が〈近未来SF〉と銘打って『治療塔』(90)、『治療塔惑星』(91)を書いたのは、SFブーム終焉期の出来事だ。唐十郎はゲームソフトをめぐる小説『電気頭』(90)や戯曲『電気城――背中だけの騎士』(89)のほか、SFブーム以降も『透明人間』(91)、『闇の左手』(2001)など、SFに触発された作品を書いている。後者には『ニューロマンサー』の異名を持つ人間も登場する』と当時の文学に与えたSFの影響について語っています。

 

虚航船団 (新潮文庫)

虚航船団 (新潮文庫)

 

 

さらに「筒井康隆魔術的リアリズム」として、著者は筒井康隆について、以下のように述べています。
「筒井自身は、魔術的リアリズムとSFを切り離して考えているようだが、私は魔術的リアリズムもまた現代先端科学の揺らぎのある世界観という認識と無関係ではないと感じている。ヴェルヌやウェルズが近代科学の進歩をバックボーンとしてSFを生み出したように、1920年代前後のモダニズム文学以来、心理学と関連したシュルレアリスムアヴァンギャルド運動、相対論・量子論、そして『四次元』、『シュレディンガーの猫』的偏在といった諸概念の刺激が、そこには流れ込んでいる。これらは21世紀現在も、多くの現代SFの源泉となっている。少なくとも、そうした科学的認識や思考を参照することが、多くの読者にとっては過去と現在の共立や幻想の物質的顕現などを理解する助けになっているだろう。魔術的リアリズムは1910年代にドイツではじまったノイエ・ザハリヒカイトに起源を持つ。表現主義未来派シュルレアリスムなどとも相互に影響しつつ発展した」

 

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)
 

 

魔術的リアリズムは主にラテンアメリカ文学において発達し、筒井の魔術的リアリズムラテンアメリカ文学のそれに準拠しているとして、著者は「長年にわたり、文化的精神的にも西欧の支配と搾取の下に置かれていたラテンアメリカは、西欧によって貶められ黙殺されてきた周縁的な土着文化の再発見をとおして、真の独立、自立を目指したが、こうした立場は極東の日本にも当てはまる。ガルシア=マルケスの『百年の孤独』などに見られる、死者と生者の混在や、記憶や空想の現実への漏洩は、辺境の土俗的な伝承が持つ『驚異』や『不思議』による、西欧的な理性的文化体系の根幹に対する拒絶だった。その実、西洋的啓蒙主義による土着的精神文化への侵犯と簒奪を嫌悪し、科学をも不審の目で見ているかに感じられる辺境マコンドの人々の、時空の歪んだ私史的『現実』は、視覚的リアルを超えた量子力学的世界像と照応している。『充分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない』と述べたのはアーサー・C・クラークだったが、魔術の実現を、たとえ想像力のなかでに限ってであれ目指すのならば、科学的認識論と無縁ではありえないのである。そもそも魔術は『隠された叡智(オカルト)』であり、再魔術化は再科学化でもあった」と述べるのでした。

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わが書斎の「幻想文学

 

第十五章「『幻想文学』とその時代」では、「ブームではないものを求めて――ファンタジーから幻想文学へ」として、「幻想文学」のイメージは、70年代の「幻想と怪奇」「牧神」の延長上にあり、「怪奇小説」「異端小説」「耽美主義文学」「変格探偵小説」など、いくつかの異なる(と見做されていた)傾向に分断されていた諸作品を包括するイメージだったとして、著者は「そうした意味での『幻想文学』というジャンル概念は、雑誌『幻想文学』以前には確立していなかった。かつて科学小説が探偵小説界の軒下に間借りして、世間からは変格探偵小説の一派と認識されていたように、70年代には幻想文学はSFに含まれていた感があった。それがSFブームとなり、SFの中心イメージが『スター・ウォーズ』的なものと『ニューロマンサー』的なものを両極として多様化するなかで、独立したジャンルとして分離が明確になってきた――というのがSFファンにとっての『幻想文学』だった」と述べています。


第十六章「変容と克服――本当の二一世紀へ」では、「アニメ中心のはじまり――『ビューティフル・ドリーマー』から宮崎アニメへ」として、アニメがサブカルチャーの中心的話題になった背景が説明されますが、その中でも宮崎アニメについて、著者は「それにしても宮崎アニメには『日本的なもの』――あえて言うなら『天皇神道的なもの』が濃厚に顕れる。『風の谷のナウシカ』は二大強国に挟まれた小国『風の谷』の物語であり、現代日本の神話化のように感じられた。ナウシカが予言された王の姿で帰還するシーンは、何度見ても涙が出る。宗教学者鎌田東二は涙が止まらず、映画館から家まで泣き続けたという噂だが『そうだろう、そうだろう』と思った。『となりのトトロ』(88)のトトロは、神社の神木である楠に住んでおり、植物の成長に関わるのだから、五穀豊穣の神様の眷属であり、『千と千尋の神隠し』(2001)のハクの本名は、コハク川=ニギハヤミコハクヌシというのだから、まったくもって神道そのものである。イデオロギー解釈はさておき、現在ここまで完成度の高い『日本的想像力の物語』が構築できることは感動的だ」と述べています。まったく同感です。


80年代のバブル期には世紀末がブームになりましたが、不況期と重なるようにして本当の世紀末がやって来た時には、ほとんどの日本人は〈世紀末〉の頽廃を楽しむ余裕を失っていたと、著者は指摘します。みんな現実の不景気に耐えかねて、不都合な現実からも、現実に立ち向かうための想像力からも目を背けていたとして、「ポストヒューマニズムは、SFが自然科学から取り入れた基本的な思想のひとつだ。そもそも科学的真実は、たとえ全人類がそれを望まず、満場一致で否決したとしても、変えることができない。『それでも地球は廻っている』のである。時として科学は人々に不都合な真実を突きつけるが、SFはさらに深く、不都合な可能性までも白日の下に晒すだろう。そんなSFは、根拠のない期待を煽ることで生き残りを図ろうとする人々にとっては、忌避すべきものだったのである」と述べています。



また、著者は「SF的想像力から目を背けた日本は、経済的にも政治的にも凋落を深めてゆく。そんなSF的想像力忌避の姿勢が、2011年3月の東京電力福島第一原発の「想定外」の人災事故につながっていると私は思う」と述べます。小松左京は、90年代後半になると、原子力発電所の安全対策が70年代よりも後退し、形式的なものになっていると危惧していたそうです。そうなった背景について著者が訊ねたところ、経営優先で科学的検証を蔑ろにする企業態度、指導官庁との癒着に加えて「東西冷戦構造の解消で核戦争の危機が減ったために、核の脅威に対するリアルな想像力が失われた」ことを挙げたとか。著者は、「さすが小松先生らしい慧眼だった」と述べています。



さて、本書では「エヴァ」も語られます。「『新世紀エヴァンゲリオン』の栄光と衝撃」として、1990年代後半のSF的想像力をリードしたのは、何といっても「新世紀エヴァンゲリオン」(95)だったことを著者は強調しています。ガイナックスが企画・原作・制作をし、庵野秀明が監督を務めた作品ですが、著者は「自己言及的な作品であり、自己愛と自己嫌悪に引き裂かれる人間の頽廃的精神が露骨に描かれていた。しかもそれは、作品として頑廃を描いたというレベルを超えて、作り手の心の傷が露呈したかのような印象を与えた。そのリアルさは、スキャンダラスなほどだった」と述べています。


さらに、著者は「『エヴァ』はセカイ系のはじまりのひとつと目されている。実際、『エヴァ』第弐拾五話のタイトルは『終わる世界』だが、問われていたのは碇シンジ個人のレゾンデートル解体だった。そこには『セカイはみんな自分だけだ』というセリフもあった。ゼロ年代初頭の『最終兵器彼女』(高橋しん)に代表される“セカイ系”は、若いふたりの恋物語が突然、世界大戦や宇宙大戦にリンクし、その状況をも左右する話だが、『エヴァ』は世界のどこまで行っても自分の殻(ATフィールド)から出られない物語だった。それは私小説的凄味すら感じさせる。かつて安部公房は、真のドキュメンタリは社会主義リアリズムを越えて、シュルレアリスム的無意識の把握を徹底した先に現れるとし、SFは自然主義よりも文学の本流だとも主張したが、『エヴァ』はSF的(あるいはオカルト的)設定を借りて私小説的妄想を極限まで推し進めた作品ともいえる」とも述べています。



2010年代以降の日本のSF的思考を考える上で、2011年3月11日に発生した東日本大震災福島第一原発事故の影響はあまりにも大きいと言えます。「『レベル・セブン』以降の想像力」として、著者は「なぜ、われわれの生きる世界はこのようなものになってしまったのかについては、営利のために安全管理コストを蔑ろにしてきた東電の責任だとか、場当たり的な政府の原子力行政の責任、関係機関の地震発生以降の対応の鈍さなどがあげられる。そして、それらすべての根底にあるのが、SF的想像力の欠如だ。震災前から、貞観年間(9世紀中葉)に巨大津波があったとの指摘がなされていた。しかも東電は、2008年には10メートルを超える津波発生を推計しながら「仮説値にすぎない」として無視した。その愚かさを、しかし嗤うことはできない。1000年以上前の出来事を参考にして今現在に備えるような感覚は、われわれの社会になかったからだ」と述べています。

 

さらに、著者は「想像力の欠如は犯罪である――未来を担保することで現在を豊かに消費しているわれわれは、そういう世界に生きている。経験的、常識的想像力では把握しきれないレベルの物質が散在する世界に生きているわれわれにとって、SF的想像力は、好むと好まざるとにかかわらず、今や必須の感覚となったのだ。そんな最中の2011年7月26日、小松左京が亡くなった。日本は今、最も必要な人材を失ったのである」と述べます。そして、「ともあれSFは時代と共振しながら、折々に新たなテーマを見出してきた。あるいはSFが見出した主題系をバネに、次の時代が構築されてきた、というべきかしれない。もし世界に未来があるなら、SFにもまだ未開拓の領域があるのだろう」と述べるのでした。456ページにおよぶ本書は、日本のSF小説というよりもSF的思考のすべてについて考察した途方もない大著であり、日本SF大賞星雲賞をダブル受賞したことが納得できます。現在、人類はコロナ禍の中にありますが、SFがこれまで与えてくれた想像力を駆使して、何とか未来を拓いていきたいものです。

 

日本SF精神史【完全版】

日本SF精神史【完全版】

 

 

2021年2月13日 一条真也