GoTo混乱の中、東京へ!

一条真也です。
GoToキャンペーン見直しで混乱する中、25日、北九州空港からスターフライヤーで東京に向かいました。翌26日に監査役を務める互助会保証株式会社の監査役会および取締役会が開催されるためです。この日も、いろいろと打合せなどが入っています。

f:id:shins2m:20201125105956j:plain
25日の朝、北九州空港の前で

f:id:shins2m:20201125112640j:plain
北九州空港のようす

f:id:shins2m:20201125181933j:plain
スターフライヤーの機内で

f:id:shins2m:20201125143601j:plain
不織布マスクに替えました

 

スターフライヤーは、相変わらず満席に近い状態でした。わたしは黒マスクを不織布マスクに替えました。弟から「布のマスクではウイルスを完全防備できないので、飛行機や新幹線の中では不織布マスクの方をするように」とやかましく言われているからです。いつもは機内で読書をするのですが、この日は翌日の監査役会の資料をずっと読んでいました。

f:id:shins2m:20201125133810j:plain
羽田空港にて 

f:id:shins2m:20201125132652j:plain
昼食は、ほぐし味噌ラーメン

 

羽田空港にも多くの人がおり、とても「第3波」という印象ではありませんでした。前回、羽田に降り立ったのは19日でしたが、気温が25度以上もあって暑かったです。しかし、この日は15度ぐらいで涼しいというか、寒いぐらいでした。オータム・コートを着てきて大正解でした。「腹が減っては戦はできぬ」ということで、まずは昼食を取ることに。空港内の北海道ラーメン店で、ほぐし味噌ラーメンを食べました。


この日の夕方に発表された東京の感染者数は、401人でした。新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかからないことを受け、東京都は酒を提供する飲食店などに対し、営業時間を午後10時までに短縮するよう要請すると明らかにしました。期間は、今週末の28日から12月17日の20日間で、全面的に応じた店には一律40万円の協力金を支給するそうです。忘年会シーズンを前にして、飲食店の悲鳴が聞こえてきそうです。もっとも、今年は企業の90%以上が忘年会を中止するそうで、わが社のホテルや冠婚施設も影響を受けています。ここは辛抱ですね。



羽田空港から日比谷に移動したわたしは、いくつかの打ち合わせをしました。最後に、出版関係者の方に会いました。大量のアクセスを集めたブログ『鬼滅の刃』ブログ「アニメ版『鬼滅の刃』」ブログ「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」を読んだ編集者から連絡があり、帝国ホテルのラウンジでお会いしたのですが、なんと、『なぜ、コロナ禍で「鬼滅の刃」は大ヒットしたのか』という本を書くことになりました!
スケジュールがタイトですが、まあ今年は忘年会ラッシュから解放されるでしょうから、年末に執筆の時間も取れるでしょう。社会現象にまでなった作品を通じて、儀式やグリーフケアの本質と重要性を説いてみたいと思います。どうぞ、お楽しみに!



打ち合わせの後、夕食を取ってから、有楽町の角川シネマで日本映画「泣く子はいねぇが」をレイトショーで観ようと思います。「鬼」に関連した伝統行事なまはげの物語ですので、次回作の執筆のヒントになればいいのですが・・・・・・。

f:id:shins2m:20201125222905j:plain
帝国ホテルのロビーで

f:id:shins2m:20201125203535j:plain
夜の日比谷のようす

2020年11月25日 一条真也拝 

「シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!」

一条真也です。
コロナ禍で映画館はアニメがほとんど、日本映画も少しは新作が公開されていますが、洋画に至ってはほとんど公開されていません。そんな中、少し前に、ヒューマントラストシネマ有楽町で「シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!」を観ました。ちょっと三谷幸喜のドタバタ喜劇みたいで、非常に面白かったです。2018年の製作ですが、映画の魅力を再認識させてくれる素晴らしい作品でした。現在コロナで訪れることができないパリの魅力も満載でした。



ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
エドモン・ロスタンによる戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』誕生秘話に迫るコメディー。19世紀末のパリを舞台に、新作が白紙の状態で舞台上演を決めた劇作家が、3週間の期限の中で仲間たちと舞台を作り上げていく。アレクシス・ミシャリクが監督と原案と脚本を担当し、トマ・ソリヴェレが主人公を演じ、『息子のまなざし』などのオリヴィエ・グルメらが共演。『戦場のブラックボード』などのマティルド・セニエや、『プロヴァンスの休日』などのトム・レーブらが脇を固める」

f:id:shins2m:20201120150120j:plain

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「1897年、パリで暮らす詩人で劇作家のエドモン・ロスタン(トマ・ソリヴェレ)は、ここ数年スランプに陥っていた。2人の子供を抱え、生活に不安を感じた彼は俳優のコンスタン・コクラン(オリヴィエ・グルメ)に、年末に上演する舞台の話を持ちかける。だが、実はエドモンは英雄喜劇となるはずの新作をまだ一行も書いていなかった」



不朽の名作を書き上げたロスタンは、1968年、マルセイユの豪商の家に生まれました。1970年の普仏戦争から翌年のパリ・コミューンに至る騒擾を、家族ぐるみ、ピレネーの山ふところのルションに避けました。1884年、パリに上京し6区の私立スタニスラス高等学校、ついでパリ大学法学部に学び、弁護士・外交官など将来に迷いながら、ルコント・ド・リールジュール・ルナールらの文人と交わりました。1888年に最初の戯曲『赤い手袋』を「クリュニー座」で上演して、不評。1890年に、詩集『手すさび』を私費出版。その年、2歳年長の女流詩人ロズモンド・ジェラールと結婚。1891年長男モーリス、1894年に次男ジャンが生まれます。後に、モーリスは作家、ジャン生物学者になりました。



1894年、ロスタンは、恋の幻滅と再生を描いた三募の韻文喜劇『ロマネスク』を「コメディ・フランセーズ」に持ちこんで上演し、その叙情性が好評を呼びました。ついで、中世吟遊詩人の悲恋物語『遠い国の姫君』をサラ・ベルナールのために書き、これは成功しませんでしたが、1897年さらに彼女のために書いた三幕の聖書劇『サマリアの女』は、「ルネサンス座」で上演して成功しました。サラ・ベルナールは、フランスの「ベル・エポック」と呼ばれた時代を象徴する大女優として知られます。普仏戦争前後に女優としてキャリアを開始し、すぐに名声を確立しました。



サラ・ベルナールは、文豪ヴィクトル・ユゴーに「黄金の声」と評され、「聖なるサラ」や「劇場の女帝」など、数々の異名を持ちましたが、19世紀フランスにおける最も偉大な悲劇女優の1人とされています。詩人で映画監督だったジャン・コクトーは彼女を「聖なる怪物」と呼びました。キャリアの終わり頃は初期の映画が制作された時代とも重なり、数本の無声映画に出演しています。社会史の観点からは、1つの文化圏あるいは消費経済圏を越えて国際的な人気を博した「最初の国際スター」としてしばしば言及されています。また、彼女のために豪華で精緻な舞台衣装や装飾的な図案のポスターが作られており、「アール・ヌーヴォー」という新芸術様式/運動の中心人物でした。この映画では、彼女は非常に情熱的で魅力的な女性として描かれています。



さて、ロスタンですが、サラ・ベルナールを介して知った俳優、コンスタン・コクランの依頼で『シラノ・ド・ベルジュラック』を書きます。五幕の韻文戯曲ですが、題名通り、17世紀フランスに実在した剣豪作家で、鼻が大きすぎて愛されないと信じている才人貴族のシラノ・ド・ベルジュラックを主人公にしています。初演は、シラノ没後242年目となる1897年。「ポルト・サン=マルタン座」の12月28日の初日から500日間、400回を打ちつづけ、パリ中を興奮させたといわれます。映画でも紹介されていましたが、初日のカーテンコールは50回以上も繰り返されたとか。以降、今日に至るまで、フランスばかりでなく世界各国で繰り返し上演されています。



その後、ロスタンは、1900年にナポレオン2世の悲運を描いた『鷲の子』をサラ・ベルナールにより、1910年に鳥ばかりが登場する寓意的な『東天紅』を「コメディ・フランセーズ」で上演しますが、世評はシラノに遠く及びませんでした。時代を先取りしすぎたと言われています。1901年、ロスタンは「アカデミー・フランセーズ」の会員に選出されました。1915年、女優マリー・マルケとの関係が原因で、妻ロズモンドと離婚。マリー・マルケは「シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!」にも登場しますが、2人の金持ちの愛人として描かれていました。まさか、彼女とロスタンが恋仲になったとは驚きです。そして、1918年12月2日、スペイン風邪でロスタンはパリにて死去します。享年50歳。故郷マルセイユの「サン・ピエール墓地」に眠っています。100年前のパンデミックで命を落としたのですね。

 

LOVE LETTERS 偉人たちのラブレター

LOVE LETTERS 偉人たちのラブレター

 

 

この映画で重要な役割を果たすのは、恋文です。ロスタンは最初の妻のハートも恋文で射止め、戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を書き上げるために若い女性に恋文を送り続け、彼女を夢中にさせました。メールやLINEが全盛の現代では、恋文など時代錯誤もいいところでしょうが、かつては直筆のラブレターが絶大な力を発揮していたのです。ブログ『LOVE LETTERS』で紹介したウルスラ・ドイルの著書があります。女性に人気の高かった映画「SEX&THE CITY」というドラマに出てくる本です。「偉人たちのラブレター」というサブタイトルの通り、同書には、15世紀の終わりから20世紀の初めまで、さまざまな欧米の有名人が書いた40通余りのラブレターが紹介されています。



作家や詩人の綴ったラブレターは、やはり情熱が読む者にまで伝わってきます。たとえば、ロスタンと同じフランスの文豪バルザックがエヴェリナ・ハンスカ伯爵夫人に宛てた手紙の一部です。
「ああ!あなたの足下にひざまづき頭を膝の上に休ませ、美しい夢を見て、気怠さのうちに私の考えを話し聞かせ、喜びを感じ、時にはひとことも口にせず、しかしこの唇をあなたのガウンに押し当てながら過ごす半日が、どれほど愛おしいことでしょう!・・・・・愛するエヴァ、最愛の1日、最愛の夜、私の希望、敬愛するあなた、永遠に愛するあなた、唯一の恋人、いったいいつ会えるでしょうか?すべては幻なのでしょうか?私はあなたに本当に会ったことがあるのでしょうか?」(田内志文訳)


また、同じくフランスの文豪であるユーゴーが幼なじみのアデーレと恋に落ち、彼女に宛てたラブレターも情熱的です。一部を紹介します。
「愛するアデール、君からすこし言葉をかけてもらっただけで、僕の心模様は変わってしまう。そう、君は僕となんだってできる。明日の朝、もし君のその優しい声と、優しく押しつけられる愛らしい唇の感触が僕の肉体に命を呼び起こしてくれなければ、僕は死んでしまうにちがいない。昨日とは違うこの気持ちのまま、今日は眠りに就くとしよう!アデール、昨日の僕は君の愛をもう信じられないような気持ちになっていた。もういつでも死んでしまっていいような、そんな気分だったんだ」(田内志文訳)



現在はメールやLINEでのやり取りがコミュニケーションの主流になりました。職場でも私生活でも大活躍しています。時間や場所を選ばず、思い立ったときに仕事の内容や自分の気持ちを伝えることができて、とても便利ですね。しかし、注意しなければならないことがあります。それは、人をほめるとき、叱るときなど、相手の心を直撃する言葉はメールやLINEに向かないということです。そんな場合は実際に会って口頭で言うことが1番、どうしても会えないときは電話が2番。特に、怒っているときにメールで怒りを伝えるのは絶対にやめたほうがいいですね。なぜなら、メールやLINEとは記録が残るものだからです。「怒り」というマイナスの感情がいつまでも残されるのは避けたいものです。ほめるときも同じ。メールでは細やかな感情がどうしても表現できません。たとえ、顔文字や絵文字やスタンプを使ったとしても、です。相手が喜んでくれるような言葉は、自分の肉声で伝えたいものです。もちろん、愛の告白も!

 

2020年11月25日 一条真也

魂の義兄弟の交感録

一条真也です。
徳島新聞」11月22日号朝刊に、「バク転神道ソングライター」こと宗教哲学者の鎌田東二氏との共著『満月交心 ムーンサルトレター』(現代書林)の書評が掲載されました。評者は、「京都の美学者」こと秋丸知貴さんです。

f:id:shins2m:20201124174024j:plain
徳島新聞」2020年11月24日朝刊 

 

秋丸さんの書評は、「魂の義兄弟の交感録」のタイトルで、こう書かれています。
「当代随一の博覧強記の哲人2人による、5冊目のWEB文通記録集。鎌田氏は、京都大学名誉教授で、日本を代表する宗教哲学者で、フリーランス神主で、神道ソングライター。一条氏は、冠婚葬祭互助会大手の株式会社サンレー代表取締役社長で、100冊以上の著作を持つ作家。現在、鎌田氏は 上智大学グリーフケア研究所の特任教授で、一条氏は同客員教授を務めている。2人は今年で28年目の師弟関係であり、『魂の義兄弟』でもある。2人は丸15年、風流にも満月を迎える度に欠かさずWEB文通を交わしてきた。前記録集『満月交感』上下巻、『満月交遊』上下巻に続き、本書は第121信から第180信を収める。576頁の大著である。
内容は学問芸術から政治経済まで多岐にわたるが、語られるテーマの中心は儀礼・儀式とグリーフケアの重要性である。両者は共に、現代における宗教的精神文化の衰退を憂い、一貫して現実に即した健全な新しい信仰のかたちを模索している。それは、現世だけではなく来世も含めた人生の意味こそが真に人々の心に安寧と活力を与えることを確信しているからであろう。
時にどちらの文章か分からなくなるほど、両者の真摯な志と圧倒的な知性は共通している。相互に深くリスペクトしつつ、無理せず自然体で知的冒険心に溢れる意見を交わし合うところが、この風雅な様式美的文通が長続きしている秘訣である。その時々の世相を的確に掘り下げた書簡体の文章は、平成から令和へ移り変わる時代の1つの歴史的な証言記録ともなっている。その度ごとの感興を逃さない詩を『機縁詩』と呼んだゲーテに倣い、この稀有な『機縁思想文通』の継続と展開をこれからも末永く見守りたい」

 

素晴らしい書評を書いて下さった秋丸さんには感謝するばかりです。『満月交心 ムーンサルトレター』ですが、アマゾンにも超弩級のレビューが続々と投稿されています。‟れいわのはる”さんの「同時代を生きる天晴(あっぱれ)な二人:満月に語り合うハートフルなShinとTonyはソウル・フレンド。」、“3pac”さんの「 満月の夜、星が衝突するとき」、“アルファ”さんの「満月交信! 稀代の哲人二人によるギネス級の長期持続型超重量級思想文通」など、プロの書評家が書いたとしか思えないようなハイレベルの文章も投稿され、わたしも仰天しています。レビュアーの方々の御厚意を無駄にしないためにも、1人でも多くの方に『満月交心 ムーンサルトレター』を読んでいただきたいと全集中の呼吸で願っています!

  

満月交心 ムーンサルトレター

満月交心 ムーンサルトレター

 

 

2020年11月24日 一条真也

「ばるぼら」

一条真也です。
最近のブログで「鬼滅の刃」には手塚治虫の強い影響を感じると書いたところ、多大な反響がありました。その手塚の遺した膨大な作品の中でも群を抜いた異色作を原作とする日本映画「ばるぼら」を観ました。独特な世界観から「映画化不可能」と言われた作品ですが、手塚治虫生誕90周年を記念して、ついに初映像化されました。予想していた以上に面白かったです!


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「1973年から1974年に『ビッグコミック』で連載された手塚治虫の異色作を実写化したドラマ。謎めいた少女と暮らす小説家の行く末を描く。メガホンを取るのは、手塚治虫の息子で『星くず兄弟の新たな伝説』などの手塚眞。『半世界』などの稲垣吾郎と『生理ちゃん』などの二階堂ふみが主演を務め、『柴公園』シリーズなどの渋川清彦、『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』などの石橋静河らが共演する。撮影は、ウォン・カーウァイ監督作などで知られるクリストファー・ドイル

f:id:shins2m:20201122225612j:plain

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「作家として活躍する美倉洋介は新宿駅の片隅で、ばるぼらという酩酊状態の少女と遭遇する。洋介は、見た目がホームレスのような彼女を自宅に連れて帰る。だらしなく常に酒を飲んでいるばるぼらにあきれながらも、洋介は彼女の不思議な魅力に惹かれていく。何より、彼女と一緒にいると新しい小説を書く意欲が湧くのだった」



コロナ禍のせいで、ここ最近は日本映画ばかり見ている感じですが、この「ばるぼら」は出色の作品でした。オープニングからエンドロールまで、まったく退屈させることなく一気に観せる極上のエンターテインメントでした。禁断の愛とミステリー、芸術とエロス、スキャンダル、オカルティズムなど、さまざまなタブーに挑戦した問題作が見事に映像化されました。主人公ばるぼらを演じた二階堂ふみも、美倉洋介を演じた稲垣吾郎も、原作のイメージそのもので、素晴らしかったです!



わたしは「催眠」(1999年)以来の俳優・稲垣吾郎のファンなのですが、「催眠」もオカルティズムや幻覚が重要な主題となっており、その世界観は「ばるぼら」に通じます。また、「催眠」に登場する謎の女を演じた菅野美穂のイメージが、二階堂ふみに重なります。「催眠」といい、「ばるぼら」といい、謎の女に翻弄される役を演じさせたら、稲垣吾郎は天下一品です。優柔不断そうな表情がたまりません。なんだか、フランスを代表する俳優だったジェラール・フィリップの雰囲気に似ています。洋介は異常性欲の持ち主で、マネキンや獣にも興奮するのですが、そんな難役も吾郎ちゃんは違和感なく演じ切りました。



ライターの石津文子氏がは、「エロチックな新宿奇譚『ばるぼら稲垣吾郎二階堂ふみは“妖しき手塚ワールド”への完璧な案内人!」というコラムで、「酒瓶を抱えて横たわる二階堂ふみは、原作のばるぼらそのもの。そして黒いサングラスをかけた稲垣吾郎の姿は、手塚治虫ワールドから抜け出てきたかのようだ。原作ではややマッチョだった美倉洋介よりも繊細な印象で、どちらかといえば『ブラック・ジャック』など手塚作品にたびたび登場する悪の貴公子、間久部緑郎(ロック・ホーム)を思わせる。目元が見えないのに、美倉の苛立ちを感じさせるのが、さすがとしか言いようがない」と書いています。まったく同感!



ブログ「凪待ち」で紹介した映画で主演した香取慎吾ブログ「ミッドナイトスワン」で紹介した映画で主演した草彅剛の演技も素晴らしかったですが、稲垣吾郎もそれに続きました。これで「新しい地図」の3人とも、日本映画の傑作を自身の代表作とすることができました。彼らは元SMAPのメンバーですが、キムタクこと木村拓哉も俳優として大活躍しています。SMAPという偉大なアイドルグループは、中居正広以外はみんな一流の役者だったのですね。

 

ばるぼら 手塚治虫文庫全集

ばるぼら 手塚治虫文庫全集

 

 

この映画の原作は、手塚治虫の大人向け漫画『ばるぼら』です。「ビッグコミック」(小学館)で1973年(昭和48年)7月10日号から1974年(昭和49年)5月25日号まで連載されました。同誌での連載としては、『奇子』の後、『シュマリ』の前となります。わたしは『シュマリ』だけは小学館漫画文庫で読みましたが、『奇子』と『ばるぼら』は講談社手塚治虫漫画全集で読みました。「なんとも異様な話だな」と思った記憶があります。
当時は青年漫画がブームの頃で、手塚も「ビッグコミック」に『地球を呑む』『きりひと讃歌』、「プレイコミック」に『空気の底』シリーズなど青年向けの作品を手がけています。この時期の手塚の青年向け作品は暗く陰惨な内容のものが多く、それは安保闘争などの社会的な背景も一因とされています。



手塚作品の暗さは、時代背景だけではありませんでした。この時期、少年誌において手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっていたのです。人気も思うように取れなくなってきていました。さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、1973年に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクションが倒産し、手塚も個人的に推定1億5000万円の借金を背負うことになりました。作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想していますが、まさにそんな時期に『ばるぼら』は世に出たのです。



ばるぼら』は芸術家にとっての創作の女神「ミューズ」の物語ですが、手塚にもミューズが微笑んでくれたのか、この頃から風向きが変わります。1973年に「週刊少年チャンピオン」(秋田書店)で『ブラック・ジャック』の連載が開始されます。これは、少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、壁村耐三編集長の厚意で始まったものでしたが、長期間続く戦いで読み手を惹き付けようとするような作品ばかりだった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の毎回読み切り形式での連載は新鮮で、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになります。さらに1974年、『週刊少年マガジン』(講談社)連載の『三つ目がとおる』も続き、手塚は本格的復活を遂げたのです。このように手塚の復活劇は、『ばるぼら』の連載時期と完全に一致しています。



まるで『ばるぼら』という作品は魔術の書のようですが、物語の中でも黒魔術が登場します。ばるぼらの母親は「ムネーモシュネー」(渡辺えりが原作そのままの怪演を披露!)という名前ですが、これはギリシャ神話の記憶の女神であり、ミューズの母親です。映画での彼女は、薄暗い場所でタロットカードを繰る魔女のような存在です。そして、ばるぼらと洋介の結婚式はなんと黒魔術のミサとして行われます。このシーンを観て、わたしは「現代イギリスのデュマ」と呼ばれたデニス・ホイートリの代表作『黒魔団』を映画化した「悪魔の花嫁」(原題“The Devil Rides Out”)を連想しました。この映画にも黒魔術のミサとしての結婚式が登場するのです。1968年の作品ですが、主演はドラキュラ俳優として有名なクリストファー・リーです。そういえば、「ばるぼら」に出てくるライブハウス風の酒場で歌う黒衣の男は吸血鬼(ドン・ドラキュラ?)みたいでした。



それにしても、「ばるぼら」の舞台となっている新宿の街が美しいです。70年代の新宿かなとも思いましたが、通行人がスマホをいじっているので現代の新宿のようです。実際はこんなに綺麗な街ではないと思うのですが、この映画では夢のように美しい。BGMで流れるジャズともぴったり合っています。撮影監督はクリストファー・ドイルです。彼は、『恋する惑星』(1994年)などウォン・カーウァイ作品で知られますが、石津文子氏は「ドイルが、新宿の街を異世界のように撮っている。中盤、ばるぼらが雨の街を傘をさしながら歩き回るシーンは、ドイルと二階堂ふみの二重奏に、稲垣のモノローグが重なり美しい。このシーンは手塚眞がドイルに1日、二階堂ふみを預けて、歌舞伎町で好きなように撮ってきて欲しい、と言ったそうで、ジャズの即興のようで、新鮮な魅力がある。そして橋本一子によるフリージャズ調の音楽も、映画の幻惑的な世界を引き立てる」と書いています。

   

ヴェルレーヌ詩集 (新潮文庫)

ヴェルレーヌ詩集 (新潮文庫)

 

 

最後に、この映画の導入部について。新宿駅の通路で洋介はアルコール依存症のフーテン娘・ばるぼらと出会うのですが、そのとき、彼女は「秋の日のヴィオロンのためいきの 身にしみてひたぶるにうら悲し」というポール・ヴェルレーヌの詩「秋の歌」(落葉)を口にしました。その只ならぬ雰囲気に惹かれた洋介は、その詩の続きを口ずさみ、彼女を自宅マンションに連れて帰ります。ここで、ヴェルレーヌが登場したことに驚きました。じつは、最近、わたしはヴェルレーヌの詩を口にしたからです。ブログ「グリーフケア発会式」で紹介したように、今月4日に小倉紫雲閣の大ホールで、「グリーフケア資格研修発会式」(グリーフケア資格研修ファシリテーター養成課程・開会ガイダンス)が行われ、全国の互助会から選び抜かれたファシリテーターのみなさんも参集しました。 

f:id:shins2m:20201104151711j:plainヴェルレーヌの詩を紹介しました 

 

そこで挨拶に立ったわたしは、「『選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり』という言葉があります。フランスの詩人ポール・ヴェルレーヌの言葉ですが、太宰治が『葉』という小説で使い、前田日明も新生UWFの旗揚げの挨拶で使いました。今日ここに全国から選び抜かれて集ったファシリテーターのみなさんも、同じ思いではないでしょうか?」と述べたのです。同じ月に二度もヴェルレーヌと縁があったとは! ヴェルレーヌは退廃の象徴であり、耽美派の作家である洋介のハートを射止めたわけですが、「ばるぼら」というデカダンスの世界にマッチした導入でしたね。

 

2020年11月24日 一条真也

「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」

一条真也です。
コロナ禍にもかかわらず、記録的な大ヒットを続けている映画「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」を観ました。アニメ版の第26話に続くエピソードなのですが、映画鑑賞の直前にアニメ全話を観終わったタイミングだったので、そのまま物語の世界にスムーズに入ることができました。そして、わたしは泣きました。これほど泣けたアニメ映画は ブログ「この世界の片隅に」で紹介した作品以来です。



ヤフー映画の「解説」には、「吾峠呼世晴の人気コミックを原作にアニメ化した『竈門炭治郎 立志編』の最終話の続編となる劇場版。鬼に家族を殺された少年と仲間たちが、鬼との新たな戦いに立ち上がる。アニメーション制作をufotableが手掛け、ボイスキャストを竈門炭治郎役の花江夏樹をはじめ鬼頭明里下野紘平川大輔らが担当するなど、アニメ版のスタッフやキャストが集結した」と書かれています。

f:id:shins2m:20201117104515j:plain

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「蝶屋敷での修業を終えた“鬼殺隊”の竈門炭治郎は、短期間で40人以上が行方不明になった“無限列車”を捜索する任務に就く。妹の竈門禰豆子を連れた炭治郎と我妻善逸、嘴平伊之助は、鬼殺隊最強の剣士“柱”のひとりである炎柱の煉獄杏寿郎と合流し、闇を進む無限列車の中で鬼を相手に戦い始める」



わたしが訪れたシネコンのシアターでは、上映前に「ドラえもん」や「ポケットモンスター」のシリーズ最新作、あるいは「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の予告編が流れました。まさに、日本を代表するアニメ映画のオンパレードです。他にも、日本にはスタジオ・ジブリ宮崎駿監督、アニメ界の最前線を走る新海誠監督らの一連の名作群があります。今や、日本のアニメは世界中から熱い視線を浴びています。しかし、現時点で最も注目されているアニメ映画は間違いなく、「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」です。

 

感想ですが、とにかく素晴らしいアニメ映画でした。
まず、絵が丁寧に描かれており、非常に美しいです。
「映画.com」で、アニメに詳しい五所光太郎氏は、「ufotableがこれまで積み上げてきたアニメーションの細部へのこだわりが、さり気なく施されているところも大きな見どころ。テレビシリーズで目を引いたフレッシュな映像表現『水の呼吸』に続いて、劇場版では煉獄の『炎の呼吸』が登場する。錦絵を参考に作画と3DCGのハイブリッドで絢爛豪華に描かれた大アクションには、とがった映像によくある見辛さはまったくない。エンターテインメントに徹した裾野の広い映像化でありつつも、線を均一にするのが標準のアニメに強弱のある漫画タッチの描線をとりいれ、炭治郎の隊服の市松模様も省略せず手描きで描かれている」と書いています。



とても面白く、感動もしたのですが、この作品を観終わったとき、「なぜ、この作品が大ヒットしたのか?」と不思議に思いました。というのも、この映画はアニメ全26話を観ていないと内容が理解できないからです。コミックでは時系列が違うのでダメです。あくまでもアニメを観ていないとわからないようになっています。「現代ビジネス」が配信した「劇場版『鬼滅の刃』の“異常ヒット”に、どうしても『不気味さ』を感じてしまうワケ」という記事で、コラムニストの堀井憲一郎氏は、「『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』のヒットがすごいとおもうのは、これが完結した作品ではないという点である。テレビアニメの続編である。しかも完結編ではない」と書いています。映画でひとつのエピソードのけりはつくものの、全体の物語でみれば、まったくの途中で終わるわけです。本当に、そんな作品が記録的な数の観客を動員したのが不思議でなりません。



鬼滅の刃」の時代設定は大正時代です。大正時代の夜汽車といえば、誰でも宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を連想するでしょう。わたしも最初は「無限列車編」というのは「銀河鉄道の夜」のような幻想的な物語なのだろうと想像していたのですが(原作コミック第7~8巻のエピソードを映像化していますが、それを読むのは映画鑑賞の翌日でした)、かなり違いました。最強戦士の柱の1人である煉獄杏寿郎がとにかく魅力的に描かれています。わたしは最初、彼を「デビルマン」の主人公である不動明に似ている(「鬼滅の刃」に出てくる鬼たちも「鬼」というより、「デーモン」みたい)と思っていたのですが、煉獄は底抜けに明るかったです。よく食べ、よく笑い、その上、後輩たちには優しい。こういう人物を嫌いな人はいないでしょう。わたしも一発で煉獄ファンになりました。



さて、「無限列車編」では列車に乗った人々が次々に行方不明となります。これを鬼の仕業と考えた煉獄や炭治郎らがその列車に乗り込み、列車を支配している「下弦の壱」眠り鬼・魘夢(えんむ)と闘います。魘夢は、鬼舞辻無惨配下である“十二鬼月”の1人ですが、他人の不幸や苦しみを見ることを好む、歪んだ嗜好を持っています。下弦の鬼の粛清時、鬼舞辻無惨に気に入られたため、唯一生き残りました。この魘夢が炭治郎たちの夢を操るシーンが非常に興味深かったです。各人の無意識にも入っていくのですが、オーストリア精神科医ジークムンド・フロイトの『夢判断』を思い起こさせました。

 

新訳 夢判断 (新潮モダン・クラシックス)

新訳 夢判断 (新潮モダン・クラシックス)

 

 

フロイトは神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究を行いました。精神分析学の創始者として知られます。彼の『夢判断』は父の死後、W・フリースとの間で行われた自己分析が生み出したものです。 フロイトは夢内容(顕在内容)が夢思想(潜在内容)という原本を翻訳したものとして、その解釈に神経症理論を援用し、夢の内容の自由連想から、「夢は願望充足である」としました。もちろん、「夢は無意識の表現」という有名な考えを示したのはフロイトが最初です。

 

 

フロイトの思想は、わたしが研究するグリーフケアのルーツにもなっています。ブログ『人はなぜ戦争をするのか』で紹介したフロイトの文明論集には、「喪とメランコリー」という論考が収録されています。この論考は第一次世界大戦で大量の死者が生み出された直後に書かれ、「喪の仕事」(モーニングワーク)についての世界初の論考です。愛する者の死が与える衝撃をいかにして「喪の仕事」によって解きほぐしていくかを考察するとともに、誰もが直面するこの打撃が、「うつ」という病へと移行する機構を分析しています。しかしながら、「死者を忘れるべきである」というフロイトの考えには、わたしは大反対です。生者は死者から支えられて生きているのであり、死者を忘れて幸福になることはありません。逆に、死者との絆を強めるべきなのです。

 

 

魘夢の術によって夢を見せられた炭治郎は、その夢の中で鬼から惨殺された家族と再会します。彼らとの生活は、夢とは思えないほどリアルなものであり、炭治郎はその世界が夢とは知りつつ、辛い現実の世界へと戻ることをためらうほどの幸福感を味わいます。しかし、夢とは、もともと死者と会うためのものなのです。そのことを、わたしはブログ『原始文化』 で紹介した文化人類学エドワード・タイラーの名著で知りました。タイラーによれば、古代人は夢、とりわけ夢の中で死んだ親族と会うことに深い意味づけをしたと述べています。古代人の心と現代人の心は、いろんな意味で違うと思いますが、夢をみることは共通していると思います。実際、祖先すなわち死者と会う方法を考えた場合、「夢で会う」というのが、一番わかりやすいのではないでしょうか。



「無限列車編」に登場する鬼は魘夢だけではありません。鬼の中でもトップクラスの「上弦」の鬼である猗窩座(あかざ)が出現します。長年の間、その顔ぶれが変わっていないという上弦の中でも「参」に数えられる鬼ですが、圧倒的な強さを発揮します。鬼狩りのトップクラスの「柱」である煉獄杏寿郎との死闘は、この映画でも最大の見せ場です。猗窩座は練り上げられた武と共に、強者に対しての敬意を持ちます。

 

精神も肉体も強靭な煉獄にリスペクトの念を抱いた猗窩座は「お前も鬼にならないか?」「俺はつらい 耐えられない 死んでくれ杏寿郎 若く強いまま」などと言います。彼にとって、人間とは老いて死すべき不完全な存在であり、不老不死である鬼こそが完全な存在なのです。しかし、煉獄は「老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだ。老いるからこそ、死ぬからこそ、堪らなく愛おしく尊いのだ」と言います。このセリフには100%共感し、感動しました。

 

最後に、ネタバレにならないように書くと、この物語ではある戦士が激闘の末に命を落とします。そのときに、後進の者たちは彼から志を受け継ぎます。このシーンは、先人の業績をつなぐという意味で儒教の「孝」や神道の「生成発展」も表現のように思えました。炭治郎が鬼を供養する「怨親平等」の精神は仏教ですし、「鬼滅の刃」という物語には、日本人の心の三本柱である神道・仏教・儒教のエッセンスが込められています。また、絶命する戦士は家族へのメッセージを言い残すのですが、このシーンには神風特攻隊で若い命を落とした少年や青年たちの遺言状を思い出して、涙が止まりませんでした。

 

思えば、神風特攻隊に限らず、あらゆる戦や戦争で、武士や兵士は絶命する前に近くにいる仲間に家族への遺言を託したことでしょう。その想いの深さに感動をおぼえない者はいないと思います。「鬼滅の刃」という物語も基本的には戦の話です。一方に、鬼舞辻無惨をリーダーとして、「上弦」たちがトップを占める「鬼」のグループ。他方に、「お館様」こと産屋敷耀哉をリーダーとして、「柱」たちがトップを占める「鬼殺隊」のグループ。この両グループが死闘を繰り広げる組織vs組織の戦争物語なのです。これを「好戦イデオロギー」とか言って批判するような馬鹿は無視するしかありません。


組織同士の戦いなので、マネジメントやリーダーシップの観点からも興味深い点が多々あります。恐怖心で鬼たちを支配する鬼舞辻無惨はハートレス・リーダーであり、鬼殺隊の剣士たちを心から信頼し、かつリスペクトする産屋敷耀哉はハートフル・リーダーです。両陣営の闘いは「ブラック企業vsホワイト企業」と言ってもいいでしょう。ホワイト企業には志や使命感があることも確認できました。遅ればせながら、「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」を観て、いろいろ考える機会を与えられましたし、何よりも質の高い物語を堪能することができて、幸せでした。これもコロナ禍のおかげかもしれませんね。

f:id:shins2m:20201116223152j:plain
シネコンで配られた観客へのプレゼント

 

2020年11月23日 一条真也

アニメ版「鬼滅の刃」

一条真也です。
etflixに初めて加入して、アニメ版「鬼滅の刃」全26話を観ました。大正時代を舞台に主人公が鬼と化した妹を人間に戻す方法を探すために戦う姿を描く和風剣戟奇譚ですが、「日本一慈しい鬼退治」とのキャッチコピーがついており、さまざまなケアの姿も見られます。鬼も哀しい存在ですが、わたしはかつて節分祭において、「鬼は外 豆を投げれど 赤鬼の泣いた顔見て 鬼も内へと」という歌を詠みました。

f:id:shins2m:20201119094904j:plainアニメ版「鬼滅の刃

 

吾峠呼世晴の漫画を原作に、アニプレックスプロデューサーの高橋祐馬がアニメーション企画を立ち上げ、2019年にアニメスタジオ・ufotableの制作によりテレビアニメ化、同年4月から9月にかけてTOKYO MAX他で放映されました。



コミック『鬼滅の刃』既刊22巻を読む前にアニメ版を鑑賞したのですが、正直言って、原作よりもアニメの方が格段にレベルアップしている印象を持ちました。アニメとは単なる漫画の動画化ではなく、それ自体が優れたアートのジャンルであることを思い知りました。ヤフー・ニュースの記事に‟maz”という方が「鬼滅のヒットは素晴らしいアニメ化に大きな要因があると思う。原作を改変せず、キャラデザは原作を踏襲しつつアニメ用に安定させ、エピソードも、漫画のコマとコマの間もちゃんと補完して映像化し、もちろん作画崩壊も起こさない。たった数コマの話を数分に膨らませてアニメーションにする。あるべきとも言える王道のアニメ化、これができていたのが、鬼滅だと思う」と書かれていますが、まったく同感です。最強剣士である「柱」たちも魅力的に描かれています。



原作では戦闘シーンがくどく、誰と誰が戦っていたのかもわからなくなるのですが、アニメではそれがありません。ものすごいスピードで移動したり、空間そのものが変転するなどの設定も、アニメーションなら忠実に再現できています。わたしが気になってたまらない伊之助が猪突猛進する姿も、漫画だと単なるドタバタの絵だけですが、アニメだと臨場感あふれる猪突猛進が見れます。あと、主人公の炭治郎が吐く数々の名セリフ「失っても、失っても、生きていくしかない」「まっすぐに前を向け! 己を鼓舞しろ! がんばれ炭治郎! がんばれ!」「オレはやれる! 絶対にやれる! 俺はやれる男だ!」「がんばれ! 人は心が原動力だから」などの名言も、原作の活字で読むよりも、アニメで声優のセリフを聴いた方がグッときますね。



主題歌の「紅蓮華」も大ヒットし、2019年に続いて、2020年のNHK紅白歌合戦でも歌手LiSAが熱唱します。この「紅蓮華」には、「ありがとう 悲しみ」という歌詞が登場します。大きな悲しみがあったからこそ強くなれたという前向きな意味ですが、わたしはこの言葉に衝撃を受けました。かつて、安全地帯は「悲しみにさよなら」を歌い、フランソワーズ・サガンは『悲しみよ、こんにちは』を書きましたが、「ありがとう 悲しみ」とは驚きました。グリーフケアの新次元を象徴するような言葉だと思います。

 

さて、アニメでさらに印象深く描かれているのは、「呼吸」と「痛み」です。「鬼滅の刃」の鬼殺隊の剣士たちはみな、それぞれが「呼吸」という流派に属し、技を繰り出します。呼吸には、日・炎・水・雷・岩・風・月・恋・蛇・花・蟲・音・霞・獣などがあります。呼吸の始まりは、日とされています。そこから、炎・水・雷・岩・風の5つの基本呼吸と月が生まれます。さらに、炎から恋、水から蛇・花・蟲、雷から音、風から霞へと派生。獣は伊之助の我流です。
ちなみに、「水の呼吸」の使い手は、竈門炭治郎・冨岡義勇・鱗滝左近次・村田など。「花の呼吸」の使い手は、胡蝶カナエ・栗花落カナヲなど。「蟲の呼吸」の使い手は、胡蝶しのぶなどです。「鬼滅の刃」は「呼吸」の物語ともいえます。



また、「鬼滅の刃」は「痛み」の物語でもあります。剣士たちは鬼からの攻撃を受け、人体の各所を破損します。鬼ならば手足を斬られてもすぐに復元しますが、生身の人間である剣士はそうはいきません。足が折れたり、アバラ骨が折れるのも日常茶飯事です。長期入院することもあります。主人公の炭治郎は持ち前の精神力で「痛み」を克服しようとします。「オレは長男だから我慢できたけど、次男だったら我慢できなかった」という名セリフを吐くのですが、この言葉は長男であるわたしのハートに見事にヒットしました。「きずな(絆)」という言葉の中には「きず(傷)」が入っています。傷を共有している者には本物の絆が生まれるのです。「痛み」による「傷」を共有した炭治郎ら鬼殺隊の面々は強い絆で結ばれるのでした。

命には続きがある』(PHP研究所)

 

ちなみに、東大病院で救急部・集中治療部部長を務められ、現在は東京大学名誉教授の矢作直樹氏は、わたしとの対談本である『命には続きがある』(PHP研究所)の中で、人の亡くなり方においても「呼吸」と「痛み」がポイントであると述べておられます。亡くなり方はさまざまでも、問題は「最期をどう迎えるか」ということ。そう、矢作氏は指摘します。すなわち、緩和ケアをどうするかという問題に焦点が当てられるわけですが、緩和のポイントが「呼吸と痛み」だというのです。矢作氏は、「いかに呼吸をしやすくし、いかに痛みを除くかという点が重要なポイントになります。その2つがクリアできれば、慢性疾患の場合、まるで眠るように亡くなることが可能です。一般に大往生と言われる逝き方はこのケースに相当します」と述べています。ブログ「対談には続きがある」で紹介した矢作氏との再対談では、このことをお話し、他にも「鬼滅の刃」の話題で盛り上がりました。




最後に、ブログ『鬼滅の刃』で、わたしは、『鬼滅の刃』という物語のルーツは『西遊記』であり、そこに手塚治虫のDNAも流れ込んでいるというアイデアを示しましたが、それはアニメ版においてより明確になっています。アニメ版「鬼滅の刃」のホラー的雰囲気はアニメーションと特撮の合作作品であった手塚原作の「バンパイア」、鬼と人間との戦闘は同じく手塚原作の「どろろ」を連想させますが、最も関連性の高い作品が手塚の『ぼくの孫悟空』をアニメ化した「悟空の大冒険」ではないでしょうか。





というのも、「鬼滅の刃」は竈門炭治郎、竈門禰豆子、我妻善逸、嘴平伊之助の4人の道行きの物語でもあり、その途中で遭遇した鬼=妖怪を倒し続けるわけですが、これは「悟空の大冒険」のオリジナルである中国古典の「西遊記」とまったく同じ構造なのです。そう、炭治郎が孫悟空、髪型のユニークな善逸が沙悟浄、獣の顔をした伊之助が猪八戒なのです。そして、炭治郎が箱に入れて大切に運んでいる禰豆子こそは三蔵法師でしょう。そういえば、TVドラマの「西遊記」では、女優の夏目雅子三蔵法師を演じていました。これ以上は立ち入りませんが、この推測にわたしは自信を持っています。そして、アニメの最終話である第26話のラストは、そのまま「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」へと繋がっていくのでした。



2020年11月22日 一条真也

『鬼滅の刃』

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

一条真也です。
世の中、新型コロナウィルスと『鬼滅の刃』の話題で持ちきりです。コロナはさておき、アニメ化・映画化され大ヒットし、もはや社会現象にまでなっている漫画『鬼滅の刃吾峠呼世晴作(集英社)のジャンプコミックス既刊1~22巻を読みました。「週刊少年ジャンプ」にて2016年11号から2020年24号まで連載され、シリーズ累計発行部数は単行本22巻の発売時点で1億部を突破しています。第1刷は2016年6月8日発行ですが、わたしがアマゾンで購入した第1巻の奥付を見ると、は2020年11月16日発行の第42刷となっています。

 

第1巻のカバー裏表紙には、「時は大正時代。炭を売る心優しき少年・炭治郎の日常は、家族を鬼に皆殺しにされたことで一変する。唯一生き残ったものの、鬼に変貌した妹・禰豆子を元に戻すため、また家族を殺した鬼を討つため、炭治郎と禰豆子は旅立つ!! 血風剣戟冒険譚、開幕!!」と書かれています。

 

鬼滅ブームのことはもちろん知っていましたが、その概略を知って、ホラーにはうるさいわたしは、「吸血鬼ハンター物語のヴァンパイアを鬼に置き換えたな!」と思いました。漫画の絵柄もあまり好みではなかったのでスルーしていたのですが、あることがきっかけで『鬼滅の刃』に興味を持ちました。というのは、わが社が提供している九州朝日放送(KBC)の人気番組「前川清の笑顔まんてん旅好キ」を観ようと日曜日の正午にテレビのスイッチを入れたところ、最初にテレビ西日本(TNC)が映りました。

f:id:shins2m:20201116145023j:plain
運命の出会い!(アニメ版より)

 

すると、そこには猪の仮面を被った男の顔がアップで映し出されていたのです。ちょうど、知人が100キロ以上の猪に庭を荒らされ、長年育ててきた芝生を台無しにされた話を直前に聞いていたので、わたしはその日、猪のことを考えていたのです。そこに猪男の映像が目に入ってきたものですから仰天しました。まさに、シンクロニシティです。その番組こそ、アニメ「鬼滅の刃」だったのです。

 

猪男は「伊之助」というキャラでした。そのエピソードは第15話でしたが、どんなに興味を持っていても物語を途中から楽しむことは絶対にしない主義なので、黙ってKBCに画面を替え、「前川清の笑顔まんてん旅好キ」を観ました。しかし、わが社のCMが終わったところで、もう一度、TNCに画面を替えてみたところ、例の伊之助が暴れ回っていて、わたしの脳内にはすっかり彼が棲みついてしまいました。

f:id:shins2m:20201117101701j:plain
鬼滅の刃』の各巻の表紙 

 

その日は、第15話、16話、17話の3話連続放映でしたが、わたしは全26話を鑑賞したいと思いました。それで鑑賞の方法を調べたところ、かの名高いNetflixに加入すれば観れることを知り、その場で加入。その日のうちにほぼ全話を一気に観ました。翌日は、「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」も観ました。そして、さらにその翌日、アマゾンから届いた原作コミックス既刊22巻を一気読みした次第です。つまり、わたしは、アニメ、映画、コミックの順で2日半で制覇したことになります。

f:id:shins2m:20201117101713j:plain既刊22巻を眺める一条人形 (笑)

 

本当は、「鬼滅の刃」のように、あまりにも流行になったものはスルーしたいと思っていました。しかし、プレジデント・オンラインに桶谷功氏(インサイト代表)が寄稿した「『鬼滅の刃にはあるが、ワンピースにはない』敏腕マーケターが見抜く決定的違い」という記事を読んで考えが変わりました。桶谷氏は、「これだけヒットしているのなら、一度は見ておかねばなりません。家族とは都合が合わなかったので、オジサン1人で映画館に行ってきました。ちなみに、このようにブームを巻き起こしているものがあったら、たとえ自分の趣味ではなかろうが、軽薄なはやりもの好きと思われようが、必ず一度は見ておくべきです。社会現象にまでなるものには、どこか優れたものがあるし、『時代の気分』に応えている何かがある。それが何なのかを考えるための練習材料に最適なのです」と述べていますが、「その通りだな」と思えました。

f:id:shins2m:20201116144906j:plain
冒頭から巨大なグリーフが発生!(アニメ版より)

 

それで、実際に体験してみて、「社会現象にまでなるものには、どこか優れたものがあるし、『時代の気分』に応えている何かがある」というのは大当たりでした。まず、この物語のテーマは、わたしが研究・実践している「グリーフケア」ではないですか! 鬼というのは人を殺す存在であり、悲嘆(グリーフ)の源です。そもそも冒頭から、主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)が家族を鬼に惨殺されるという巨大なグリーフから物語が始まります。また、大切な人を鬼によって亡き者にされる「愛する人を亡くした人」が次から次に登場します。それを鬼殺隊に入って鬼狩りをする人々は、復讐という(負の)グリーフケアを行います。しかし、鬼狩りなどできない人々がほとんどであり、彼らに対して炭治郎は「失っても、失っても、生きていくしかない」と言うのでした。強引のようではあっても、これこそグリーフケアの言葉ではないでしょうか。

 

炭治郎は、心根の優しい青年です。鬼狩りになったのも、鬼にされた妹の禰豆子(ねずこ)を人間に戻す方法を鬼から聞き出すためであり、もともと「利他」の精神に溢れています。その優しさゆえに、炭治郎は鬼の犠牲者たちを埋葬し続けます。無教育ゆえに字も知らず、埋葬も知らない伊之助が「生き物の死骸なんか埋めて、なにが楽しいんだ?」と質問しますが、炭治郎は「供養」という行為の大切さを説くのでした。これは教育上にも良い漫画だと思いました。さらに、炭治郎は人間だけでなく、自らが倒した鬼に対しても「成仏してください」と祈ります。まるで、「敵も味方も、死ねば等しく供養すべき」という怨親平等の思想のようです。『鬼滅の刃』には、「日本一慈しい鬼退治」とのキャッチコピーがついており、さまざまなケアの姿も見られます。鬼も哀しい存在なのです。

 

鬼と日本人 (角川ソフィア文庫)

鬼と日本人 (角川ソフィア文庫)

 

 

そもそも、「鬼」とは何でしょうか?
雷神、酒呑童子茨木童子、節分の鬼、ナマハゲなどが思い浮かびますが、古くは『日本書紀』や『風土記』にも鬼は登場しました。鬼は古くから日本人の「こころ」に棲みついているのです。ブログ『鬼と日本人』で紹介した本で、民俗学者小松和彦氏は「鬼とはなにか」というテーマを取り上げ、「なによりもまず怖ろしいものの象徴」として、「鬼は長い歴史をもっている。鬼という語は、早くも古代の『日本書紀』や『風土記』などに登場し、中世、近世と生き続け、さらには現代人の生活のなかにもしきりに登場してくる。ということは、長い歴史をくぐり抜けて来る過程で、その言葉の意味や姿かたちも変化し多様化した、ということを想定しなければならない。じっさい、その歴史を眺め渡してみると、姿かたちもかなり変化している。鎌倉時代の鬼の画像をみると、角がない鬼もいれば、牛や馬のかたちをした鬼もいるし、見ただけではとうてい鬼と判定できない異形の鬼もいることがわかる。それがだんだんと画一化され、江戸時代になってようやく、角をもち虎の皮のふんどしをつけた姿が、鬼の典型となったのであった。しかしながら、怪力・無慈悲・残虐という属性はほとんど変化していない。鬼は、なによりもまず怖ろしいものの象徴なのである」と述べています。

 

日本には、鬼にかかわる全国的な年中行事があります。節分です。娘たちが小さかった頃はよく鬼の仮面をかぶったものですが、「鬼は外」と豆を投げつけられるのは、なんとなく切ないですね。なぜなら、鬼を忌むべき存在として決めつけているからです。そこには「排除」の構図があるからです。かつて、わたしは「鬼は外 豆を投げれど 赤鬼の泣いた顔見て 鬼も内へと」という歌を詠みました。鬼にちなんだ歌といえば、ブログ「虹鬼伝説」で紹介した「バク転神道ソングライター」こと鎌田東二氏の名曲「虹鬼伝説」を思い出します。この曲について、鎌田氏は「子どものころしばしば鬼を見た。天河大弁財天社には2月2日の夜に祖霊でマレビトである『鬼』を迎える『鬼の宿』という神事がある。鬼とはいったい何か。わたしは今も鬼に魅せられ続けている。『虹の祭り』のイメージソングとして生まれた」とコメントされています。わたしは、この「虹鬼伝説」という歌が大好きです。これほど「平和」や「平等」というものを発信したメッセージソングはないと思います。

 

鬼滅の刃 22 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 22 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

鬼たちには人間だった時代にいずれも辛く悲しい過去がありました。そもそも人間が非人間としての鬼になること自体が最大のグリーフであるという見方もできますが、炭治郎はそのへんもわかった上で「成仏してください」と手を合わすのです。まさに彼は「弔い人」であり、「悼む人」なのです。鬼は「死」のメタファーでもあります。最近で言うなら、「コロナ」も同じです。禰豆子を連れ歩く炭治郎は、「鬼と共生する人間」です。すなわち、これは「ウイズ・コロナ」そのものではないでしょうか。「なぜ、コロナ禍で『鬼滅の刃』が大ヒットしたのか」の最大の秘密がここにあるように思います。


0葬』と『永遠葬

 

鬼が死んだ後は骨は残らず、灰さえも残らず、すべてが消えます。まるで宗教学者島田裕巳氏が唱えた「0(ゼロ)葬」のようです。通夜も告別式も行わずに、遺体を火葬場に直行させ焼却する「直葬」をさらに進め、遺体を焼いた後、遺灰を持ち帰らず捨てるのが「0葬」です。わたしは葬儀という営みは人類にとって必要なものであると信じています。故人の魂を送ることはもちろんですが、葬儀は残された人々の魂にも生きるエネルギーを与えてくれます。また、葬儀によって、有限の存在である「人」は、無限の存在である「仏」となり、永遠の命を得る。これが「成仏」の意味であり、葬儀とは「不死」のセレモニーなのです。まさに「永遠葬」であります。


鬼の骨も灰も残らないのは、人を殺した報いでしょうか。わたしは、「0葬」で遺灰すら残らない故人のことが気の毒でなりません。鬼と同じというのは、あまりにも哀れではありませんか。この世に生まれ、生きた痕跡が何もないではないですか。
あと、忘れてはならないのは、鬼の最大の弱点が太陽だということです。鬼たちは日光を浴びると、崩れて消えてしまう。これは吸血鬼の特性として広く知られていますが、作者の吾峠氏はこれを鬼にも適用しました。西洋の吸血鬼も、東洋の鬼も太陽を恐れるわけです。生きとし生けるものに生命エネルギーを与え、邪悪なものを滅する太陽は最強です。ちなみに、わが社の社名である「サンレー」とは「SUNRAY(太陽光線)」という意味です。



また、「サンレー」には「産霊(むすび)」という意味もあります。「むすび」という語の初出は日本最古の文献『古事記』においてです。冒頭の天地開闢神話には二柱の「むすび」の神々が登場します。八百万の神々の中でも、まず最初に天之御中主神高御産巣日神神産巣日神の三柱の神が登場しますが、そのうちの二柱が「むすび」の神です。『古事記』は「むすび」の神をきわめて重要視しているのです。
大著『古事記伝』を著わした国学者本居宣長は、「むすび」を「物の成出る」さまを言うと考えていました。「産霊」は「物を生成することの霊異なる神霊」を指します。つまるところ、「産霊」とは自然の生成力をいうのです。

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

  • 作者:倉野 憲司
  • 発売日: 1963/01/16
  • メディア: 文庫
 

 

古事記』には、あまりにも有名な「むすび」の場面があります。天の岩屋戸に隠れていた太陽神アマテラスが岩屋戸を開く場面です。アメノウズメのストリップ・ダンスによって、神々の大きな笑いが起こり、洞窟の中に閉じ籠っていたアマテラスは「わたしがいないのに、どうしてみんなはこんなに楽しそうに笑っているのか?」と疑問に思い、ついに岩屋戸を開くのでした。『古事記』は、その神々の「笑い」を「咲ひ」と表記しています。そして、大事なことは、「岩戸開き」の本質とは「グリーフケア」であるということです。弟スサノヲの暴力で大きなグリーフを抱えたアマテラスは笑いにつられて岩戸を開き、そこから太陽光が入って世界は再び明るさを取り戻します。つまり、太陽が闇に光を射すのです。絶望の中に希望を射すのです。これこそ「グリーフケア」ではありませんか!

 

 

冒頭、この漫画の絵柄が苦手だと書きましたが、具体的には主人公の炭治郎をはじめ、登場人物たちの目が大き過ぎることでした。これでは、少年漫画ではなく少女漫画ではないですか。ふと、「いや、待てよ」と思いました。この漫画は「週刊少年ジャンプ」に連載された少年漫画なのだけれども、本質は少女漫画なのかもしれないと思えてきました。なんでも、作者の吾峠呼世晴氏は女性だとか。それに「ジャンプ」連載開始時は、女性読者たちから圧倒的な支持を受けていたそうです。ブログ『サブカル勃興史』で紹介した中川右介氏の著書に詳しく書かれているように、日本の少女漫画のルーツは宝塚歌劇とそれをこよなく愛した手塚治虫にあります。手塚の『リボンの騎士』などは少女漫画そのものでした。その手塚の遺伝子を『鬼滅の刃』の中に感じたのです。

 

 

結論から言うと、手塚漫画の名作である『ぼくの孫悟空』(1952年-1959年)、『バンパイヤ』(1966年―1967年)、『どろろ』(1967年―1968年)。この3作品の要素を『鬼滅の刃』は併せ持っています。『ぼくの孫悟空』は、中国・明代の小説『西遊記』を翻案して漫画化した作品です。『バンパイヤ』は、オオカミに変身してしまうバンパイヤ族の青年トッペイを巡る少数民族とそれを弾圧する人間との戦い、というきわめて社会性の高いテーマが印象深い作品です。そして『どろろと百鬼丸』は、戦国時代の日本を舞台に、妖怪から自分の身体を取り返すべく旅する少年・百鬼丸と、泥棒の子供・どろろの戦いの旅路を描いています。

 

どろろ 手塚治虫文庫全集(1)

どろろ 手塚治虫文庫全集(1)

 

 

鬼滅の刃』のホラー的雰囲気は『バンパイア』、鬼と人間との戦闘は『どろろ』を連想させますが、最も関連性の高い作品が『ぼくの孫悟空』ではないでしょうか。というのも、『鬼滅の刃』は竈門炭治郎、竈門禰豆子、我妻善逸、嘴平伊之助の4人の道行きの物語でもあり、その途中で遭遇した鬼=妖怪を倒し続けるわけですが、これは『ぼくの孫悟空』のオリジナルである『西遊記』とまったく同じ構造なのです。すなわち、炭治郎が孫悟空、髪型のユニークな善逸が沙悟浄、獣の顔をした伊之助が猪八戒なのです。そして、炭治郎が箱に入れて大切に運んでいる禰豆子こそは三蔵法師ではないでしょうか。ここではこれ以上立ち入りませんが、この推測には自信を持っています。

 

 

この『鬼滅の刃』のルーツが『西遊記』であり、そこに手塚治虫のDNAも流れ込んでいるというアイデアは、「『一条真也』流:読書術『DNAリーディング』で思想的源流をさかのぼる。」などの記事で紹介された、わたし流の読み方から発見しました。このアイデアはコミックよりもアニメの方がより強く感じることができます。そして正直に言うならば、『鬼滅の刃』という作品は原作よりもアニメ版の方がずっと優れています。原作はところどころ絵も荒れていて物語の展開も強引なところがあるのですが、それがアニメではすっきりとまとまっています。また、原作では戦闘シーンがくどく、それに助太刀する者もやたらと多くて、そもそも最初は誰と誰が戦っていたのかもわからなくなるのですが、アニメではそれがありません。グリーフケアの物語という本質も、より明確になっています。ということで、次はアニメ版「鬼滅の刃」について書きたいと思います。

 

 

2020年11月21日 一条真也