究極のビーフシチューを求めて

一条真也です。
14日の昼、わたしは松柏園ホテルのレストランを訪れました。「GoToイート」に対応したレイアウトにしていましたが、多くのお客様がお越しになられていました。これから、さらに忙しくなると思います。

f:id:shins2m:20201014133327j:plain松柏園ホテルのレストランで

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大好評の松柏園カレーのレトルト(700円)

さて、ブログ「贅沢カレーできました!」で紹介したように、2010年に発売開始した松柏園ホテルのレトルト・カレーは大変好評で、多くのお客様から愛されています。発売10周年を記念して、今度はビーフシチューのレトルトを発売する予定です。

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これが究極のビーフシチューだ!

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いろんなタイプを試食しました

 

これまでも約1年をかけて試食を重ねてきましたが、今日は最終チェックで試供品を食べてみました。味にインパクトがあって、一口食べたら、「おっ!」という感じです。美味しいです。肉なしでも、シチューだけでパンやライスが進みます。もちろん、肉も最高級のもので、とても柔らかく、豊かな味です。コロナもぶっ飛ぶ旨さです!(笑)

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レストランのビーフシチュー・セット(1800円)

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どうぞ、お楽しみに!
 

今日は、通常のレストランで提供しているビーフシチューも食べてみましたが、こちらも相変わらず美味しいです。テイクアウトでも人気があるようです。もともと、松柏園の洋食は、ビーフシチューとローストビーフが人気メニューとして知られています。ローストビーフは松柏園特製「おせち」にも入っています。もうすぐ、究極のビーフシチューが完成して販売を開始いたしますので、どうぞ、お楽しみに!

 

2020年10月14日 一条真也

『パンデミックの文明論』

パンデミックの文明論 (文春新書)

 

一条真也です。
パンデミックの文明論』ヤマザキマリ中野信子著(文春新書)を読みました。新型コロナウイルスの感染拡大によるパンデミックについての対談本です。
ヤマザキ氏は、1967年、東京都生まれ。漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。2010年、『テルマエ・ロマエ』(エンターブレイン)で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
中野氏は、1975年、東京都生まれ。東日本国際大学特任教授。脳科学者。東京大学工学部応用化学科卒業。東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。2008年から2010年までフランス国立研究所ニューロスピンに博士研究員として勤務。

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本書の帯

 

本書の帯にはヤマザキ氏、中野氏の上半身の写真とともに、「古代ローマのペストからコロナまで」「洋の東西でこんなに違う感染症との付き合い方」と書かれています。帯の裏には、以下の言葉が並んでいます。
「空気」を読む日本では
                  ウイルスも生きづらかった!?

イタリアで大流行したのは、ハンカチで洟をかむから
「自粛警察」は不倫カップルのことも許せない
欧米でマスクをしたら、病気に負けた証拠と思われる
日本の政治家は古代ローマの「お風呂外交」に学べ
パンデミック成金がルネッサンスを生んだ
ずっと前から日本はソーシャル・ディスタンス
オランダ人の50%はトイレの後に手を洗わない

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本書の帯の裏

 

カバー前そでには、こう書かれています。
「新型コロナの話で意気投合した、異色の二人が緊急対談。各国の感染症対策を見れば国民性がわかる。徹底して根絶を目指す欧米に対して、アジアはほどほどに共存しようとする。話題は古代ローマから現代まで時空を超えて、目からウロコの文明論が展開される」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「対談のはじめに」
第1章 コロナでわかった世界各国「パンツの色」
第2章 パンデミックが変えた人類の歴史
第3章 古代ローマの女性と日本の女性
第4章 「新しい日常」への高いハードル
第5章 私たちのルネッサンス計画
「対談を終えて」



第1章「コロナでわかった世界各国『パンツの色』」では、ロックダウンについてのヤマザキ氏の以下の言葉が印象的です。
「ロックダウンなんてことをしたら、観光に大きく依存しているイタリアの経済は死んでしまいます。そういった弊害は考えていないのかと問えば、『経済は生き延びている人間がいればなんとかなる、歴史上でもそうだった。お金と人命、どっちが大事なの?』と返されました。『人命が大事って言うけれど、リーマンショックのとき日本では不景気で3万人以上も自殺したのよ』と反論しても、貧困が苦となって人が自殺することにリアリティが感じられないらしい。自殺を罪とするキリスト教の倫理観とともに生きている人たちと、日本みたいな国とで、対策が同じにならないのは当然なんですよ。イタリアだけではなく危機管理は国によってまったく違う。自分たち日本人の考える対策をスタンダードと捉えて、他国と比較する無意味さを痛感しました」



古代ローマ史に精通したヤマザキ氏はイタリア在住ですが、中野氏と以下のような対話を繰り広げます。
ヤマザキ  イタリアでは、外出禁止令が解除された途端、「ああ、やっと解放された!」とマスクを外した人がニュースのインタビューに出ていました。マスクでパンデミックの意識を強制されるのが本当に嫌だったんでしょう。マスク姿は、感染予防というよりも、病気になったことを認めてしまうアイテムという意識が強いんだと思う。ちょっと鼻水や咳が出る程度なら、「病気なんて気持ちでねじ伏せてやる!」と気構えるのがあの人たちの傾向かもしれない。
中野  アメリカでは、そういったマッチョ思想の人は共和党員に多いと聞きました。トランプ大統領もいっときマスクをしないことを売りにしていましたし、オクラホマ州のトランプ陣営の選挙集会では、支持者のほとんどがマスクなし。相当の飛沫が飛び交ったことでしょう。彼らがマスクをしないのは、やっぱり病気に負けたと認めたくないというメンタリティの表れなんですね。



中野氏は著書『不倫』(文春新書)で、「社会が過剰な不倫バッシングに走りがちになるのはなぜなのか?」という問いの答えについて「フリーライダー」という概念を持ち出して持論を展開しましたが、本書でも、「ヒトは共同体を営む生物ですが、個人は共同体に一定の貢献をして犠牲を払い、その代わり共同体から利益を受け取ることで暮らしています。しかし、中には共同体に貢献をせず、利益だけを得て『ただ乗り』する者(フリーライダー)もいるわけです。フリーライダーとして標的になるわかりやすい例が、給食費を払わないのに給食を食べる人、でしょうか? また、脱税しているのに社会保障などはしっかり受けている人や、多くの人が守っているルールを逸脱して自分だけは楽しもうとする不倫カップルなどです。フリーライダーが増えてしまうと、ルールは死文化し、共同体は成り立たなくなってしまう。そこで人類の脳には、フリーライダーを見つけて、その人を罰することに快感を覚える仕組みが備えつけられているんです」と述べています。



フリーライダーだと認識した対象に「正義の制裁」を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出されるとして、中野氏は「この快楽は強烈です。有名人の不倫スキャンダルが報じられるたびにバッシングが横行するのも、人々の脳内でこのシステムが働いているからです。しかも『正義中毒』は共同体が危機に瀕すれば瀕するほど盛り上がりやすい」と述べます。それに対して、ヤマザキ氏は「他人の不倫にあれこれ批判をするなんて私的には余計なお世話だと思うけど、人類の脳の仕組みである以上、『正義中毒』は誰もが陥ってしまう可能性があるということですね」と語ります。

 

「各国指導者の演説力」では、両氏の対話が以下のように展開されています。
ヤマザキ  人と同じことをするのは想像力の欠落とみなされますから。学校の口頭試問でも人と同じことを言うと良い点はもらえません。個性や独立心を重視する。長いものに巻かれない人が評価される世界です。だから今回パンデミックが始まりかけた時、いちばん違いが顕著に出たのが各国首脳の演説です。ドイツのメルケル首相の演説がそれを示していました。
中野  彼女の演説はしびれましたね。かっこよかったですよね。
ヤマザキ  まず、民主主義とはどういうものであるか、から入るわけですよ。「開かれた民主主義のもとでは、政治において下される決定の透明性を確保し、説明を尽くすことが必要です。私たちの取組について、できるだけ説得力のある形でその根拠を皆さんに説明し、発信し、理解してもらえるようにします」と。そしてカメラをじっと見つめて、「皆さん、頑張っていますか」「レジに座ってるあなた、いかがですか」と二人称で語りかける。あれは見事でした。



また、ヤマザキ氏は、「イタリアのコンテ首相は、自身が首相でもありますが弁護士であることを踏まえ、まずイタリアの法に則って、何があろうと国民の命が何よりも保障されるべきだと断言する。『ロックダウンにより皆さんを守るところから入ります』とズバリ言い切った。そしたらテレビの前の国民は皆、『そうだ、言われる通りだ』と納得するしかない。普段はあれだけ好き勝手に行動し、他者を容易には信用しないイタリア人も、あの演説で一気に団結しちゃった。ああいう演説パフォーマンスは、日本のリーダーにはできないですね」と述べています。



ポピュリズム、そしてファシズム」では、ヤマザキ氏が「コロナ対策の違いはいろんなところに表れましたね。平時には隠れていた世界各国の『本性』が明らかになった気がする。下世話な表現を使うと、コロナが『お前はどんなパンツをはいているのか、脱いで見せてみろ』とそれぞれの国に迫ったような感があった」と語れば、中野氏は「ハハハ、確かに。各国の対応は驚くほど分かれて、普段はマッチョなことを言って格好つけてるけど、実は穴の空いたパンツをはいていたことが分かった、というような国や指導者もありました、どことは言いませんけど。民主主義って、やっぱり指導者を選ぶ側それぞれに、考える力がないと、あっという間にポピュリズムになるんですよね」と返しています。



さらに、ポピュリズム、それに続くファシズムをめぐって、2人は以下のような対話を展開します。
ヤマザキ  ムッソリーニヒトラーの持っている、あの演説力は大したものですよ。生きる気力を失っているところに、あんなに力強い思想と説得力のある言語を使える人が現れれば、皆目を輝かせて「この人についていこう」ってなるでしょう。
中野  ああいうのをいま振り返って考えると、もはやマジックとしか言いようがないほどの魔力なんですけれど、ちゃんとした道筋があるわけですね。
ヤマザキ  第1次世界大戦の最中にスペイン風邪がはやりだし、長い時間をかけて何千万人と言われる犠牲者を出してしまった。人々は疲弊していて、物事を自分たちの力で考えるエネルギーが残っていません。だから、リーダーになってくれる人が現れるのを待っていたわけです。それが政治家であっても宗教家であっても、卑弥呼みたいなシャーマンでもよかったんです。今、まだコロナは収束していないけど、カリスマ的なリーダー待望の空気が現れつつあるのかな。メルケルの演説を見ていて感じました。
中野  民主主義の健全性というものは、大きな物語に対して小さな物語をどれだけ確保できるかにあると思うんです。けれど、パンデミックのような大規模な危機があると、世の中は大きな物語のほうを優先しようという方向に動きます。パンデミックにつけ込むような形でポピュリズムが蔓延し、独裁者がもてはやされるようになるのは、民主主義の持つセキュリティホール――脆弱性のようなものなんでしょう。



日本が流動しない国であるということについては、以下の対話が展開されています。
中野  日本だけに限って見れば、実をいうと地域によって流動性が高いところ、低いところがあるんです。それに伴って気質も違ってくると考えられる。流動性の低さでいちばん顕著なのは北東北の内陸部です。その証拠といえるかどうか、岩手県ではいまだ1人の感染者も出していません(2020年7月14日現在)。
ヤマザキ  あれは不思議ですよねえ。
中野  あの地域は、異質なものを受け入れず、異質な人も出さない、という傾向がやはり強くあるのかな、と感じさせられる現象ですね。それに比べて、北海道はかなり流動的な土地ですね。北東北と地理的にはそう遠くはないのですが、北海道は日本で最初期にクラスター感染が起きた場所でもありました。



「『浮気遺伝子』と感染率の関係」では、以下の対話が展開されています。
中野  日本のような流動性の低い社会においては、適応戦略は「集団の論理に従う」ことです。目立たず、自己主張せず、長いものに巻かれるのが、最もダメージを受けない、いわば「賢い」生き方になるんです。
ヤマザキ  存在していないように生きるわけですね。
中野  興味深いのは、今回の新型コロナはアメリカやブラジルなど、社会の流動性が高くて移民が多い地域で爆発的な感染拡大がみられたことです。一方、日本のような流動性の低い地域は、それほど大きな被害はなかった。この差はいったい何なのか。その謎を解くカギになるかもしれないのが、「新奇探索性」――新しもの好き――という観点かもしれません。これまでに、新奇探索性をつかさどる遺伝子が見つかっており、アメリカ人やブラジル人にその遺伝子を持つ人が多く、東アジアではそうではないことが分かっています。スペキュラティブ(推論的)な話ではありますが、どうもこの遺伝子の持ち主が多い地域は、爆発的な感染拡大地域と重なるように見えますね。なお、このタイプは性的にもアクティブで、一夜限りの性体験が多いという傾向がある。だから「浮気遺伝子」と呼ぶ研究者もいるぐらいです。



また、「普段からソーシャルディスタンス」では、中野氏が「もし本当に日本の感染率や死者数が低いとしたら、その理由のひとつはソーシャルディスタンスかもしれません。普段からベタベタくっつかないですからね。家族内でもハグしない、街中で抱き合ってキスするなんてもってのほか、現代ではもはや高齢者と同居もしない、それに握手の習慣もほぼないという」と言えば、ヤマザキ氏も「イタリア人のように飛沫を飛ばしあって喋る感じではないですからね。それにイタリアだと毎日とにかく誰かしらとは接触があるわけですよ。店に行ってもそこのおじさんと『やあ』なんて握手するし、馴染みのレストランに行けば、そこで働いている人たちと一通りハグするし、知り合いと通りで出会ってもやはりキスにハグだし、そしてその場でお喋りが始まるし」と言います。ブログ「コロナ禍の中で礼を考える」でも紹介したように、コロナ禍の中にあって、わたしは改めて「礼」というものを考え直しています。特に「ソーシャルディスタンス」と「礼」の関係に注目し、相手と接触せずにお辞儀などによって敬意を表すことのできる小笠原流礼法が「礼儀正しさ」におけるグローバル・スタンダードにならないかなどと考えています。ですので、日本の感染率や死者数が低い理由のひとつはソーシャルディスタンスという説は正しいと思っています。

 

礼を求めて

礼を求めて

 

 

「疫病には打ち勝つのか、交渉するのか」では、ヤマザキ氏は「私が思うに、古代の人は感染症を天災と同じように捉えていたのではないでしょうか。日本人にもそれは当てはまりませんかね。一言でいうなら『しょうがないな』と――。一方で、中世からヨーロッパでは感染症を敵だとみなすようになり、これは敵だ戦争だと形容していますけど、ああいう解釈は人間至上主義でなければ発生しないかなと。他の生き物は感染症を敵扱いなんかしませんよ」と述べています。また、以下の対話が展開されるのでした。
ヤマザキ  ヨーロッパに「疫病に打ち勝つ」という概念が生まれたのは、14世紀の黒死病パンデミックのときですかね。あのときキリスト教がペストを逆手に取って、主導権を握ったわけです。キリスト教会は美術界にとってもとても大きなパトロンで、教会に掲げる絵画を媒体にして、「ペストは信仰を持たない者への天罰だ」と大キャンペーンを繰り広げたわけですよ。
中野  ペストを骸骨の姿に描いて、死神のイメージを強調したわけですね。
ヤマザキ  そうやってキリスト教は死神と戦っているんだという意識を植え付け、民衆の信頼と信望を得ようとした。あれが大きかったように思います。

 

世界史を変えた13の病

世界史を変えた13の病

 

 

第2章「パンデミックが変えた人類の歴史」では、「ヨーロッパを変えた黒死病」として、以下の対話が展開されています。
中野  人類史の転換点では、パンデミックが大きなファクターとなってきました。ローマ帝国でも、ペストをはじめ大規模な疫病の流行が何度もあり、それが結果として歴史を動かす源にもなって来ました。疫病などの危機に直面すると、人々の経済的・社会的不安が一気に高まります。この時に最も攻撃の標的となりやすいのは、その共同体にとって「異質」な者――例えば、移民などのマイノリティたちです。現代のアメリカでも「Black Lives Matter」などの運動が起こってくるほど、黒人への差別が過激化しているわけですが、ローマ帝国では、疫病の流行とともに、こうした人たちへ「迫害」や「差別」は起こらなかったのでしょうか?
ヤマザキ  古代ローマ時代のパンデミックで感染者への迫害があったという記録は、私の知る限りありませんね。そもそも、差別による排除が彼らにとっては非合理的だったということもあります。ローマ帝国があそこまで領土を広げることができたのは、属州にした地域の民族の文化や習慣を、積極的に帝国内に取り込んでいったからだという話は先ほどもしました。「すべての道はローマに通ず」と言われるように、属州と都市を道路で結び、流通を活発化させ、人と物の行き来が盛んになっていった。今とは違った形ですが、グローバル社会を築き上げ、繁栄を享受しました。



また、ヤマザキ氏が「14世紀のヨーロッパを中心に猛威を振るった黒死病は、これまでの歴史で最もインパクトが大きいパンデミックだったと言えますね。2500万~5000万人が死んだと言われますが、欧州全体の3分の1~3分の2が亡くなったとされていることから、実際の全死者数は億単位だったとも言われています。死者の数もさることながら、パンデミックのあとに農奴たちの猛反乱が起きて、仕方なく領主たちは農奴を解放するようになり、なんとか人間扱いされるようになった。これは大きな変化でしたね。その影響は、封建社会の崩壊へとつながり、ある種の精神改革の領域にまで及んだのですから」と述べます。また、「けっこう高位にある王侯貴族も黒死病で亡くなっているんです。つまり、死は誰にでも襲いかかる不幸だ、みたいな捉え方が社会に拡がっていった。そこにキリスト教が入り込む余地があったわけです」とも述べています。

 

木版画を読む―占星術・「死の舞踏」そして宗教改革
 

 

黒死病キリスト教の関係については、以下の対話が展開されています。
中野  個々人の行いが悪かったからというよりも、お前たちがキリスト教を信じなかったからこうなったんだぞ、という考え方でしょうか。
ヤマザキ  その通りです。それで教会は「死の舞踏」という一連の絵画を描いて啓蒙を始めました。
中野  骸骨やミイラとなった死者が生きている者たちと手をつないで踊っている絵ですね。行列を成して死へと導かれる絵だったりするのですが、なかなか迫力があり、かなりインパクトのある画面です。
ヤマザキ  あれがまた、ユダヤ人の迫害につながるわけです。ユダヤ人がイエス・キリストを処刑したその仕返しが、今このような黒死病となって襲ってきたのだというユダヤ陰謀説まで飛び交って、ま、一種のスケープゴートなんですけれどね。



古代ローマでは、「アントニヌスのペスト」と言う疫病が流行しましたが、「疫病が帝国瓦解の遠因に」として、ヤマザキ氏は「メソポタミアから兵士たちが持ち帰った疫病によって、総死亡者数は1000万を超えたとも言われ、経済機能が止まってしまいます。生活インフラを担う商人たちが軒並み倒れたので、食料が尽きてしまった。さらに貿易を扱う人も船を漕ぐ人もいなくなってしまったので、物資が港に入ってこない。都市全体が飢餓に直面する中、兵士たちも次々と死んで軍隊が脆弱化する。そうした負の連鎖が続いた結果、ついに広大な帝国を監視・維持できるだけの国家の体力が奪われてしまったのです。ローマの国力が衰亡していったところへ、それまでは奴隷を中心に広まっていた一種のカルト宗教的な存在だったキリスト教の信仰が、一般の人にまで及ぶようになった。こうした疫病の広がりとそれによって引き起こされた社会の変化がローマ帝国瓦解の第1段階となった、と指摘する歴史家は少なくありません」と述べています。



また、「キリスト教を受け入れる心理作用」では、中野氏は「危機に際しては、善なるものであるかどうかを吟味する以前に、理性で判断するのを放棄するようになる、という傾向が強くなりますよね。理性の代わりに、勘だとか、情報の分かりやすさだとかに頼ってしまうようになる。というのも、正しいかどうかの検証には、時間と労力というコストがかかるからです。危機に際しては、それにコストをかける余裕がなくなるため、平時の余裕のある冷静な状態における判断とは異なる、極端に言えばあり得ない選択をしてしまったりすることも十分起こり得ます。実は『真・善・美』という3つの価値は、脳のほぼ同じところで処理されているんです。その領域は進化の過程ではかなり遅い時期にできてきたところなので、あまり効率的には働かない――例えば、酸素や栄養、睡眠の不足、アルコールの摂取などで、容易に働きが落ちてしまう。そういうときは、いつにもまして対象を冷静に吟味することなく、直感でわかりやすいリーダーを選んだり、難しいことを四の五の言わずに手っ取り早く道を示してくれそうな宗教家に頼ったり、ということが起こりやすくなるのではないでしょうか」と述べています。非常に興味深い指摘ですね。



中野氏は、「考えるのって、意外にエネルギーを食うんですよ。脳の重さは全体重の2~3%にすぎないのに、カロリー消費量は全体の5分の1~4分の1にもなる。すごい浪費家ですよね。なので、体の方から予算をカットしろと要求される時があるんです。危機が迫ると特に、逃げたり闘ったりしなくてはなりませんから、体の方にもリソースを分けないとならない。そんな状況下で脳は特に前頭葉の機能がオフにさせられやすいものですから、ゆっくりと時間をかけた理性的な判断をしにくくなります」とも述べています。気鋭の脳科学者の意見だけに、説得力がありますね。



メディチ家の系譜はパンデミック成金」では、以下の対話が展開されます。
ヤマザキ  14世紀のペスト(黒死病)が終息したあと、ヨーロッパにルネッサンスが芽吹き始めます。ヨーロッパ人口の3分の1とか3分の2が死んだといわれる黒死病のあとに、なぜルネッサンスみたいなエネルギッシュな精神と文化の改革が生じ得たのか? 実はルネッサンスの種火というものは、すでに11世紀、12世紀ごろからあったわけです。個々に、散発的に、面白いことをやる人間が現われて、いってみればサブカルチャー的な現象としてあったんですね。そこへ襲ってきたのがペストです。これによって大災害と大凶作が重なり、ヨーロッパ中が混乱しました。農地が広がっても耕作する人間がいない。そんなときフィレンツェに勃興したのがメディチ家です。
中野  ローマ教皇も輩出したフィレンツェの名門貴族ですね。
ヤマザキ  メディチはその名が示すように、もともとは医療関係――医師か薬種問屋をなりわいにしていた家柄だったと言います。銀行業で財を成してローマ教皇庁パトロンとして名を馳せる2世紀ほど前は、村で丸薬を売っていたメディチ家ですが、それが銀行業に進出できたのは、ペストのお蔭でもある。
中野  言葉は悪いですが、いわばパンデミック成金だったんですね。



「ヨーロッパにパンデミックが起きると、そのたびにキリスト教が拡大していることが分かりますね」という中野氏に対して、ヤマザキ氏は「疫病が流行れば、キリスト教会は『さあ俺たちの出番だ』とばかりに、『これらの疫病や凶作は不信心な者どものせいだ』というプロパガンダをくりひろげたので、すごい勢いで信者が増えています。地獄では死者が炎で焼かれる、というイメージを持っていた人々の目に、疫病で死んだ人たちが焼かれている有様は地獄絵図として映っていた。本来は土葬なのに、感染死した者は火葬に付されていましたからね」と答えます。それに対して、中野氏は「視覚イメージが強烈に植え付けられたわけですね」と言うのでした。



イデアギリシャとリアルのローマ」では、ギリシャ文化とローマ文化を対比しつつ、ヤマザキ氏が「ローマの建築技術にしても、もともとはギリシャ人がつくり上げた概念を合理的につくり直したものです。たとえば劇場。ギリシャの場合は、市民が倫理観や道徳観を養うために喜劇や悲劇を見る場として設けられたもの。心を洗って、おのれのあり方を考える機会を提供したわけです。それがローマになると、観衆の前に自分を晒し、承認欲求を満たす場となっていった。ギリシャで遺跡を巡っていると、厳かな神殿の敷地の外側に商業施設の遺構のようなものが残っているんですが、それは全部古代ローマ支配下に置かれてからできたものなんです。お土産の他に、他人様に見せるためのアクセサリーとか素敵なトーガ(1枚布の上着)とか売ってたのかもしれない」と述べます。また、「集団としての成熟」として、ヤマザキ氏は「ギリシャの市民は、劇場で父殺しとか近親相姦とかスキャンダラスな題材の悲劇・喜劇を観て、そこに思い入れを持ったり反感を覚えたりしながら自分たちの生き方・思想を育てていくんですね。それが時代をへて、ローマでは大観衆の盛り上がりの中で剣闘士が殺し合ったり、時にはライオンと闘ったりするのを目にして、なんて野蛮なことを、と思う人が出てくる。これも人類としての成長であって、そこに至るにはそれだけの時間が必要だったのかなと思うんです」とも述べます。



「『排除』の心理的カニズム」では、以下の対話が展開されます。
中野  ローマでは、属州出身の人は嫌な目にあったりしましたか?
ヤマザキ  それがそうでもないんです。初めのうちはそういう排除の動きもあったと思うけれど、でも、ローマは急速にグローバリズムが進んで、次々に属州が増えていく。属州が増えると経済的には裕福になり、奴隷もたくさん入ってくる。異質な人が増えることのデメリットよりは、先ほどの話にあったように、異文化をうまい具合に商業化することも含め、メリットのほうが大きいと捉えている。その果てに、属州出身の皇帝まで出てきますしね。
中野  それがトラヤヌス帝(在位98~117年)ですね。
ヤマザキ  1世紀が終わるころ、トラヤヌス帝が誕生します。彼の治世においてローマの版図が最大になるんですが、私はバラク・オバマが米国大統領になった時、ちょうどシカゴに暮らしていて、アメリカ人の熱狂を見ながら、トラヤヌスが皇帝になった時もこんな感じだったのでは、と思ったんです。



属州はただ拡大させるだけではなく、そこで生まれる利点をしっかりと活用の方向へ持っていくとして、ヤマザキ氏は「版図を拡大したローマ帝国では、属州の出身者や奴隷たちの手を借りないと市民社会が成り立たないことを、本土の人は早くから認識していたわけです」と述べるのですが、それに対して、中野氏が「ああ、やっぱり古代ローマの人々は現実主義的ですね」と言うと、ヤマザキ氏は「ですから、ローマは多種多様な民族や文化を抱えてしまったので、『これこそがスタンダード』という物差しがなくなった。いってみれば混沌の世界――。そのへんが、どこを見ても金太郎飴のような今の日本の社会状況とは違いますよね」と述べます。さらに、「ローマは版図を広げた結果、疫病にかかるリスクも広がったのではないですか?」という中野氏の問いに対して、ヤマザキ氏は「まったくその通りですね。すべての道に通ずるローマの道は疫病も運んできてしまうわけです」とし、最後に「すべての感染症はローマに通ず」と述べるます。



第4章「『新しい日常(ニューノーマル)への高いハードル』では、「日本の若者の『圧』」として、以下の対話が展開されています。
中野  日本の高齢者がいちばん嫌う死に方は、若い人たちと同居している家で孤独死することなんですって。
ヤマザキ  同居してるのに孤独死
中野  ひとつ屋根の下でも別々の部屋にいるから。
ヤマザキ  「ご飯ですよ」とか「お風呂ですよ」とか声かけはしないのですか?
中野  二世帯住宅だと、食事やお風呂も別なんです。東京にはものすごい人口がいて、とっても密な生活をしているようでも、それぞれ異なるレイヤーで生きているんです。
ヤマザキ  だからコロナの感染が拡がらなかったんじゃないですか。子どもが帰宅しても「ただいま」も言わずに部屋に入っちゃうとか、夫婦が別々の部屋で寝ているとか、家庭内ですでにソーシャル・ディスタンスになってるんだもの。イタリアだったらあり得ないですものね。どんなにケンカをしていようと険悪だろうと、食事は家族一緒にするものと、儀式のように決まっていますから。



また、「集団の中で生き延びるためには」として、以下の対話が展開されます。
中野  確かに感染症対策の観点からすれば、排除されているほうがずっと安全ですよね。日本の人々が無意識に行ってきた工夫としては、明文化されない厳しい掟のある集団を形成しはするけれど、やはり、“密”の中で暮らしているのにアクリル板で隔てられているかのように、見えないアクリル板を私たちのマインドセット(思考様式)の中に作った、というところじゃないでしょうか。それはすごいなと思う。
ヤマザキ  満員電車の中でみんなつらい状況にいるのに、誰ひとりストレスを表に出すことなく、目的地まで黙って揺れに身を委ねている様子を、常々すごいなあと感じます。
中野  そう、私もそれを強く感じます。日本って、コロナ以前から通勤電車の中でしゃべってる人がいないですよね、ヨーロッパは電車内での会話の声がすごい。



中野氏は、「もし生活習慣の違いで感染率に差が出るとわかれば、その生活習慣をすべての国でニューノーマルにすればいいわけです。それがとてもシンプルな解決策だと思いますね。アジア人は罹りにくいとわかっただけでは、それが感染防止策に採り入れられるわけでもないですから」と語りますが、その後、「もしも鎖国をしなかったら?」として、以下の対話が展開されます。
ヤマザキ  人類はもともと狩猟で生活の糧を得てきた、移動性の生物です。ところが多くの祖先は農耕の始まりとともに定住生活に落ち着いた。だから農耕民族と遊牧民族とでは、メンタリティがまったく違いますね。日本ではあまり遊牧民族系のメンタルは根付かなかった。
中野  日本の地形が移動を阻むんでしょうね。山あり海ありで。それに、東日本と西日本との通婚率が最近までかなり低くて、他の地域との婚姻が少ない。だから方言がわりと残っているといわれますね。



移動しない日本人について、対話は続きます。
ヤマザキ  この、移動をしないという民俗的傾向が、パンデミックの拡がり具合にかなり関係があるようにも思います。古代ローマ人は、北はスコットランド、東はユーフラテス川まで領地を広げましたが、その分ペストなどの疫病もローマの道を通じてどんどん入ってきてしまった。その後の大航海時代は、コルテスやピサロがヨーロッパの疫病をアステカ王国とかインカ帝国に持ち込んで先住民をほぼ全滅させてしまったし、スペイン風邪は第1次世界大戦の軍隊の遠征によって拡大していった。結局、流動性が高ければパンデミックを招き、低いと疫病は蔓延しない。そう考えると、日本から外へ病原菌が運び出される機会は他より少ない。
中野  本人の意思にかかわらず移動させないというのは、意外と重要なことだったのかもしれません。その意味では、日本が鎖国をせずにキリスト教も入り放題、海外からの移住大歓迎となっていたら、けっこうなパンデミックが発生していたと思います。戦国時代から江戸期にかけて海外から梅毒が持ち込まれて、大流行したわけですから。


第5章「私たちのルネッサンス計画」では、「コロナウイルスが考えていること」として、ヤマザキ氏は「そもそも私には、ウイルス対策を勝ち負けで捉えることに違和感があります。根絶を目指すのではなく、コロナと共存していくという東洋的なあり方のほうが、むしろ合理的なのではないかと感じています。実はウイルスの立場から見ても、共存のほうが本望だったのかも知れませんよ。ネズミにしてもレミングにしても、ものすごい数まで増えると自然に病気に罹って数が減少する――そういう摂理が生き物の世界にはある。だから人間にも同じことが起きないはずはないんであって、人間は素晴らしい万物の霊長だから、他の動物に優越して生きる価値がある、資格がある、だから今回のコロナは不条理なものである――という西洋式の人類至上主義的考えはどうも納得がいかない」と述べています。



14世紀のペストで何千万という単位の人が死んだ後、ルネッサンスがなぜあそこまで盛り上がったのでしょうか。ヤマザキ氏は、「疫病というものは、人間を混乱させもしますが、考える時間というものを与えてくれる、ある意味で貴重な機会です。何せ未曽有の天変地異を経験させられるわけですから、人間とはなにか、ウイルスとはなにか、社会とは、生きるとはと、様々な思いが頭をめぐる。今はテレビだネットだと、誰かの意見に自分の考えを便乗させるという思考の怠惰が顕著ですが、むかしはとにかく自分の想像力をたくましくするしかないわけですよ。想像力の訓練なしにはルネッサンスなんていう精神改革は発生しません」と述べています。



100年前のスペイン風邪の後、ナチズムやファシズムが待ち構えていました。そうならないためには、どうすればいいのでしょうか。この問題をめぐって、以下の対話が展開されます。
中野  「合成の誤謬」という行動経済学でよく言及される概念があるでしょう。みんなが少しずつ自分のためにいいと思ってふるまっても、それらが合わさると全体としては間違った方向に行ってしまうというものです。その誤謬に気づいて、1人だけで正そうとすると、正そうとした人が最も損をする。なので、一気にみんなで正さなくてはいけないし、一斉にやり方を変えないと、絶対に誤謬は修正されないんですね。でも、こういうパンデミックの後というのは、「いっせーのー、せ」で変える機会になり得るんです。
ヤマザキ  私は、今回のパンデミックにはスペイン風邪の後とは違う流れになる可能性を感じています。今の時代は、エンターテインメントというものが経済的な生産性を持つようになっているから、経済を元に戻そうとする勢いがエンタメと繋がれば、新たな世界を作り上げることもできるんじゃないかと。それこそ14世紀のルネッサンスが一気に力を帯びたのに似た兆候です。つまり、昔だったらナチズムやファシズムの勢いに囚われた、不安や怒りや鬱憤を抱えた人たちが、奇抜で凶暴な思想に夢中になる代わりに、もっと楽しい方向性を選ぶのかなって。それがエンタメなのか、あるいはグルメなのか、そこはまだ分かっていないんですけど。

 

この合成の誤謬に関連していうと、中野氏は「私、一斉に変えられたものとしては『テレワーク』が典型的な例かなと思うんです。一人だけ『テレワークします』と言い出しても、怠け者のレッテルを貼られてしまうけど、コロナの自粛でみんな一斉にやってみたところ、意外と効率的だったり、メリットがたくさんあると分かったわけです」と述べています。たしかに、そうですね。わたしも同感です。



「土葬が火葬に変わる?」では、新型コロナウイルス感染による死者の遺体について、以下のような対話が展開されています。
中野  死亡者が大量に発生したニューヨークでは、埋葬待ちの棺が山積みでしたが、お葬式のあり方も変わりますかね。ヨーロッパは土葬でしょ?
ヤマザキ  いや、今はイタリアでも、火葬が推奨される傾向になってきています。土葬をする土地がもう足りなくなってきているんですよ。イタリアの場合、20年ほど前までは、「火葬にしてほしい」という遺言を残しておかないと許可してもらえなかったんです。今から30年ほど前ですが、知り合いの日本人の男性がフィレンツェでがんで亡くなった時は、遺言を書いていなかったために、火葬の許可をなかなか出してもらえず、大変でした。
中野  土葬するにもスペースが足りないのですね。
ヤマザキ  そうなんです。壁の棚に棺を収めるという、集合式のシステムもありますが、それすらスペースがなくなってきた。埋葬前の棺を安置する場所っていうのが墓地などにもあるわけですけど、積み重ねられた棺の中でガスが発生して破裂してしまう。40年ほど前のものですが、その埋葬問題を揶揄している映画作品すらあります。
中野  それはそれで大変なんだ。

 

さらに、火葬について対話は続きます。
ヤマザキ  それが、今回のコロナで火葬をためらっている場合ではなくなりました。
中野  それがヨーロッパのニューノーマルになるかも知れないですね。何十年か前までは、「あの人は火葬したらしい」というだけで変人扱いされたものですが。
ヤマザキ  キリスト教は復活が中心概念の宗教ですから、肉体への思い入れが強いわけですよね。焼かれるなんて、ましてや。
中野  しかも煉獄をイメージさせる。
ヤマザキ  早い話が火あぶりですものね。ちなみにイタリアの火葬は、日本と違って完全に灰にしちゃうんです。
中野  骨も残らないんですか。ヤマザキ  完全にパラパラサラサラの灰みたいな感じでしたね。だから、お骨を拾うなんていうこともしないし、できない。
中野  そのニューノーマルは死生観にも影響を与えそうですね。


「対談を終えて」では、ヤマザキ氏が「新型コロナウイルスの感染拡大が始まってからというもの、それまで視野を遮っていた靄がはらわれて、あまり輪郭のはっきりしていなかった、いろんなことが開けて見えてきた気がするんです。普段見えないものが突然視界に入ってきたような感覚ですかね。実際、しばらく中国の経済活動が停止していたおかげで、だいぶ空気がきれいになって、エベレストなんかも何百キロも離れたところから見えるらしいですけど」と述べれば、中野氏は「マリさんがおっしゃってるのは、コロナのお蔭で立ち止まって考えたことで、今までと違ったいろんな風景が見えてきたという意味でしょう。私もそうなんですよ。改めて考えてみると、こんなに世界の全体の動きを身近に意識したことって、初めての経験だったんじゃないかな」と述べます。



そして最後に、ヤマザキ氏が「歴史を振り返ってみても、感染症は人類にそのような思索の機会を導き入れる、時空の節目なのかもしれません。できれば感染による死は避けたいし、感染症で亡くなった方とそのご家族には本当にお気の毒なんですけど、自分の人生でこのようなパンデミックを経験し、普段であれば気がつかない人類という生き物の動向を、綿密に分析することができたというのは、とても貴重なことだと感じています」と述べるのでした。本書は、ヤマザキ氏と中野氏の話のテンポが見事に噛み合って、非常にわかりやすいパンデミック文明論となっています。なにより、2人ともユーモアに溢れており、面白い本でした。パンデミックというのは深刻なテーマですが、楽しみながら読みました。

 

パンデミックの文明論 (文春新書)

パンデミックの文明論 (文春新書)

 

 

2020年10月14日 一条真也

『緊急提言 パンデミック』

緊急提言 パンデミック: 寄稿とインタビュー

 

一条真也です。
発売されたばかりの『緊急提言  パンデミック』ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳(河出書房新社)を読みました。「寄稿とインタビュー」というサブタイトルがついています。ブログ『サピエンス全史』ブログ『ホモ・デウス』ブログ『21Lessons』で紹介した三部作で著作累計が世界2750万部突破した世界的歴史学者・哲学者の著者が、コロナ禍について発信した寄稿・インタビューを日本オリジナル編集の書籍として刊行されたものです。 非常に興味深い内容で、128ページを1時間で一気に読了!

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本書の帯

 

本書の帯には著者ハラリの顔写真とともに「われわれはいま、歴史の転換点に立っている!」「『サピエンス全史』全世界1600万部突破!」「“知の巨人"が世界的危機の中で発した全人類へのメッセージ!」「本当は何が起きているのか、コロナ後をいかに生きるべきか?」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、以下のように書かれています。
「私たちは2020年3月の時点よりも今のほうが、国際協力の必要性や、グローバルなリーダーシップの救い難いまでの欠如、民衆扇動家や独裁者の危険性、監視テクノロジーの脅威を、なおいっそう痛感している。私たちが直面している最大の危険はウイルスではなく、人類が内に抱えた魔物たち、すなわち、憎悪と強欲と無知だ。だが・・・・・・思いやりや気前の良さや叡智を生み出すような対応もとりうる。・・・科学を信じるという選択をすることもできる。・・・みなで協力する道を選ぶこともできる。・・・もしこうした建設的な形で反応すれば、目の前の危機に取り組むことがはるかに易しくなるだろう・・・・・・」(本書「序文」より)

 

さらにカバー前そでには、こう書かれています。
「本書は、新型コロナウイルス感染症パンデミックという一大危機を人類が迎えるなかで、著者が緊急に発表した見解を収録したものだ。日本オリジナル版。前半は『タイム』誌と『フィナンシャル・タイムズ』紙と『ザ・ガーディアン』紙への寄稿である。後半はNHKのETV特集のインタビューだ。『ユヴァル・ノア・ハラリとの60分』として放送された。それぞれ単独でも読みごたえ、見ごたえのある内容だが、みな切り口が異なるので、いずれも評判が高かったこれらの記事やインタビューをすべてまとめて読み、著者の目を通じて今回のコロナ禍をより多面的・多角的に眺め、考える機会を提供するというのが、本書刊行の狙いとなる」(「訳者あとがき」より)

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。
「序 文」
人類は新型コロナウイルスといかに闘うべきか
     ──今こそグローバルな信頼と団結を
歴史に見る厖大な犠牲者
感染症との闘い
新型コロナウイルス感染症の意味
ウイルスの変異という脅威
ウイルスと人間の境界
必要なのは互いの信頼と団結
コロナ後の世界──今行なう選択が今後長く続く
         変化を私たちにもたらす
新しい監視ツール
重大な分岐点──「皮下」監視
緊急事態の一時的な措置は後まで続く
         ──プディング
プライバシーか健康か
「石鹸警察」はなぜ不要か
科学と公共機関とマスメディアへの「信頼」
グローバルな情報共有
医療と経済と移動のグローバルな合意
アメリカという空白
死に対する私たちの態度は変わるか?
               ──私たちは正しく考えるだろう
避けようのない運命──死の意味
死は技術的問題に
延びる寿命は死後の世界への関心を失わせた
死に対する人間の態度
神の罰ではなくワクチンを
人命を守るためにさらに力を
いずれは死すべき存在
生の意義を考えるのは私たち一人ひとり
緊急インタビュー「パンデミックが変える世界」
         インタビュアー 道傳愛子
発展途上国とウイルスの変異
歴史の決定的な瞬間
独裁か民主主義か
民主主義国家による大規模な監視社会
生体情報収集用のブレスレット
治安機関と医療機関
独り歩きをする緊急措置
透明で双方向の情報
どんな情報とどんな科学者を信じるべきか
協力と情報共有
集団的リーダーシップの必要性
パンデミックを生き延びるために
「出 典」
「訳者あとがき」



「序文」では、著者は「これまでの感染症と同じで、COVID-19に関しても、けっして忘れてはならないことがある。それは、ウイルスが歴史の行方を決めることはない、それを決めるのは人間である、ということだ」として、「人間はウイルスより圧倒的に強力であり、この危機にどう対応するかを決めるのは、私たちなのだ。ポストコロナの世界のあり方は、今私たちが下すさまざまな決定にかかっている」と述べています。


また、最大の危険はウイルスではなく、人類が内に抱えた魔物たち、すなわち、憎悪と強欲と無知であると指摘しつつも、著者は「憎悪や強欲や無知を生み出すような反応を見せる必要はない。思いやりや気前の良さや叡智を生み出すような対応もとりうる。他者にこの感染症の責任を負わせて非難する代わりに、みなで協力する道を選ぶこともできる。自分たちがより多く手に入れることばかり考えずに、持てるものを他者と分かち合うという選択も可能だ。もしこうした建設的な形で反応すれば、目の前の危機に取り組むことがはるかに易しくなるだろうし、ポストコロナの世界は、格段に繁栄し、円満なものとなることだろう」と述べるのでした。

 

2020年3月15日「タイム」誌に掲載された「人類は新型コロナウイルスといかに闘うべきか──今こそグローバルな信頼と団結を」と題する寄稿文の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「多くの人が新型コロナウイルスの大流行をグローバル化のせいにし、この種の感染爆発が再び起こるのを防ぐためには、脱グローバル化するしかないと言う。壁を築き、移動を制限し、貿易を減らせ、と。だが、感染症を封じ込めるのに短期の隔離は不可欠だとはいえ、長期の孤立主義政策は経済の崩壊につながるだけで、真の感染症対策にはならない。むしろ、その正反対だ。感染症の大流行への本当の対抗手段は、分離ではなく協力なのだ」



新型コロナウイルス感染症の意味」として、著者は「この歴史は、現在の新型コロナウイルス感染症について、何を教えてくれるのだろうか?」と問いかけ、「第一に、国境の恒久的な閉鎖によって自分を守るのは不可能であることを、歴史は示している。グローバル化時代のはるか以前の中世においてさえ、感染症は急速に広まったことを思い出してほしい」と述べています。また、「第二に、真の安全確保は、信頼のおける科学的情報の共有と、グローバルな団結によって達成されることを、歴史は語っている。感染症の大流行に見舞われた国は、経済の破滅的崩壊を恐れることなく、感染爆発についての情報を包み隠さず進んで開示するべきだ。一方、他の国々はその情報を信頼できてしかるべきだし、その国を排斥したりせず、自発的に救いの手を差し伸べなくてはいけない」と述べます。


「ウイルスの変異という脅威」として、著者は「こうした感染症について人々が認識するべき最も重要な点は、どこであれ1国における感染症の拡大が、全人類を危険にさらすということだ。それは、ウイルスが変化するからだ。コロナのようなウイルスは、コウモリなどの動物に由来する。それが人間に感染すると、当初は、人間という宿主にはうまく適応していない。だが、人間の体内で増殖しているうちに、ときおり変異を起こす。ほとんどの変異は無害だ」と述べます。



続けて、著者は「だが、たまに変異のせいで感染力が増したり、人間の免疫系への抵抗力が強まったりする。そして、このウイルスの変異株が人間の間で今度は急速に広まる。たった1人の人間でも、何兆ものウイルス粒子を体内に抱えている場合があり、それらが絶えず自己複製するので、感染者の1人ひとりが、人間にもっと適応する何兆回もの新たな機会をウイルスに与えることになる。個々のウイルス保有者は、何兆枚もの宝くじの券をウイルスに提供する発券機のようなもので、ウイルスは繁栄するためには当たりくじを1枚引くだけでいい」と述べるのでした。



「必要なのは互いの信頼と団結」として、今日、人類が深刻な危機に直面しているのは、新型コロナウイルスのせいばかりではなく、人間どうしの信頼の欠如のせいでもあると指摘し、著者は「感染症を打ち負かすためには、人々は科学の専門家を信頼し、国民は公的機関を信頼し、各国は互いを信頼する必要がある。この数年間、無責任な政治家たちが、科学や公的機関や国際協力に対する信頼を、故意に損なってきた。その結果、今や私たちは、協調的でグローバルな対応を奨励し、組織し、資金を出すグローバルな指導者が不在の状態で、今回の危機に直面している」と述べます。

 

2008年の金融危機のときや、2014年にエボラ出血熱が大流行したときには、アメリカはその種の指導者の役をこなしました。しかし近年、アメリカはグローバルなリーダーの役を退いてしまいました。現在のアメリカの政権は、世界保健機関のような国際機関への支援を削減しています。そして、アメリカはもう真の友は持たず、利害関係しか念頭にないことを、「アメリカ・ファースト」として全世界に非常に明確に示したのです。



著者は、「アメリカが残した空白は、まだ他の誰にも埋められていない。むしろ、正反対だ。今や外国人嫌悪と孤立主義と不信が、ほとんどの国際システムの特徴となっている。信頼とグローバルな団結抜きでは、新型コロナウイルスの大流行は止められないし、将来、この種の大流行に繰り返し見舞われる可能性が高い。だが、あらゆる危機は好機でもある。目下の大流行が、グローバルな不和によってもたらされた深刻な危機に人類が気づく助けとなることを願いたい」と述べています。


著者は、顕著な例を挙げます。新型コロナウイルスの大流行は、EU(欧州連合)が近年失った各国民の支持を再び獲得するまたとない機会になりえるとして、「EUのなかでも比較的恵まれている国々が、大きな被害が出ている国々に、資金や機器や医療従事者を迅速かつ惜しみなく送り込めば、どれだけ多くの演説をもってしても望めないほど効果的に、ヨーロッパの理想の価値を立証できるだろう。逆に、もし各国がそれぞれ自力で対処せざるをえなければ、今の大流行はヨーロッパ統合の終焉を告げる弔いの鐘を鳴らすことになりかねない」と述べます。



そして、著者は「今回の危機の現段階では、決定的な戦いは人類そのものの中で起こる。もしこの感染症の大流行が人間の間の不和と不信を募らせるなら、それはこのウイルスにとって最大の勝利となるだろう。人間どうしが争えば、ウイルスは倍増する。対照的に、もしこの大流行からより緊密な国際協力が生じれば、それは新型コロナウイルスに対する勝利だけではなく、将来現れるあらゆる病原体に対しての勝利ともなることだろう」と述べるのでした。


2020年3月20日「フィナンシャル・タイムズ」紙に寄稿した「コロナ後の世界――今行なう選択が今後長く続く変化を渡したちにもたらす」では、著者はまず、「この危機に臨んで、私たちは2つのとりわけ重要な選択を迫られている。第一の選択は、全体主義的監視か、それとも国民の権利拡大(エンパワーメント)か、というものだ。第二の選択は、ナショナリズムに基づく孤立か、それともグローバルな団結か、というものだ」と指摘します。



「新しい監視ツール」として、感染症の流行を食い止めるためには、各国の全国民が特定の指針に従わなくてはいけないと指摘し、これを達成する主な方法を2つ示します。1つは、政府が国民を監視し、規則に違反する者を罰するという方法です。近年は、政府も企業も、なおいっそう高度なテクノロジーを使って、人々の追跡・監視・操作を行なってきたとしながらも、油断していると、今回の感染症の大流行は監視の歴史における重大な分岐点になるかもしれないと、著者は訴えます。

 

「重大な分岐点――『皮下』監視」として、著者は、「一般大衆監視ツールの使用をこれまで拒んできた国々でも、そのようなツールの使用が常態化しかねないからだけではなく、こちらのほうがなお重要だが、それが『対外』監視から『皮下』監視への劇的な移行を意味しているからでもある。これまでは、あなたの指がスマートフォンの画面に触れ、あるリンクをクリックしたとき、政府はあなたの指が何をクリックしているかを正確に知りたがった。ところが、新型コロナウイルスの場合には、関心の対象が変わる。今や政府は、あなたの指の温度や、皮下の血圧を知りたがっているのだ」と述べています。



また、著者は「ぜひとも思い出してもらいたいのだが、怒りや喜び、退屈、愛などは発熱や咳とまったく同じで、生物学的な現象だ。だから、咳を識別するのと同じ技術を使って、笑いも識別できるだろう。企業や政府が揃って生体情報を収集し始めたら、私たちよりもはるかに的確に私たちを知ることができ、そのときには、私たちの感情を予測することだけではなく、その感情を操作し、製品であれ政治家であれ、何でも好きなものを売り込むことも可能になる」と述べ、さらには「全国民がリストバンド型の生体情報センサーの常時着用を義務づけられた2030年の北朝鮮を想像してほしい。もし誰かが、かの偉大なる国家指導者の演説を聞いているときに、センサーが怒りの明確な徴候を検知したら、その人は一巻の終わりだ」と述べるのでした。



「緊急事態の一時的な措置は後まで続く――プディング令」として、著者は以下のように述べています。
「たとえ新型コロナウイルスの感染者数がゼロになっても、データに飢えた政府のなかには、新型コロナウイルスの第二波が懸念されるとか、新種のエボラウイルス中央アフリカで生まれつつあるとか、何かしら理由をつけて、生体情報の監視体制を継続する必要があると主張する者が出てきかねない。わかっていただけただろうか? 近年、私たちのプライバシーをめぐって激しい闘いが繰り広げられている。新型コロナウイルス危機は、この闘いの転機になるかもしれない。人々はプライバシーと健康のどちらを選ぶかと言われたなら、たいてい健康を選ぶからだ」



そして、「グローバルな情報共有」として、著者は「私たちが直面する第二の重要な選択は、ナショナリズムに基づく孤立と、グローバルな団結との間のものだ。感染症の大流行自体も、そこから生じる経済危機も、ともにグローバルな問題だ。そしてそれは、グローバルな協力によってしか、効果的に解決しえない。このウイルスを打ち負かすために、私たちは何をおいても、グローバルな形で情報を共有する必要がある。情報の共有こそ、ウイルスに対する人間の大きな強みだからだ。中国の新型コロナウイルスアメリカの新型コロナウイルスは、人間に感染する方法について情報交換することができない、だが、新型コロナウイルスとその対処方法に関する教訓を、中国はアメリカに数多く伝授できる」と述べるのでした。こうした情報の共有が実現するためには、グローバルな協力と信頼の精神が必要とされるのは言うまでもありません。

 

2020年4月20日「ザ・ガーディアン」紙に寄稿した「死に対する私たちの態度は変わるか?――私たちは正しく考えるだろう」では、「避けようのない運命――死の意味」として、著者は「近代以降の世界を方向づけてきたのは、人間は死を出し抜き、打ち負かせるという信念だ。だが、それは画期的な態度だった。人間は歴史の大半を通じて、おとなしく死を甘受してきた。近代後期まで、ほとんどの宗教とイデオロギーは、死を避けようのない運命としてきたばかりか、人生における意味の主要な源泉として捉えてきた」と述べています。



続けて、著者は「人間の存在にとって最も重要な出来事は、本人が息を引き取った後に起こった。人は死んでから初めて、生にまつわる本当の秘密を知るに至った。そしてようやく永遠の救済を得るか、あるいは果てしない断罪に苦しむことになった。死のない――したがって天国も地獄も生まれ変わりもない――世界では、キリスト教イスラム教やヒンドゥー教のような宗教は、何の意味もなさなかっただろう。歴史の大半を通じて、最高の頭脳の持ち主たちは、死に意味を与えることにせっせと励み、死を打ち負かそうなどとはしなかった」と述べます。



その後、科学が発達し、医学が進歩したことによって、人間の寿命は格段に延びました。「延びる寿命は死後の世界への関心を失わせた」として、著者は「人間は命を守って寿命を延ばす試みで大成功を収めてきたので、私たちの世界観は根底から変わった。伝統的な宗教が死後の世界こそ意味の主な源泉であると考えていたのに対して、18世紀以降は、自由主義社会主義フェミニズムのようなイデオロギーは、死後の世界への関心をすべて失った」と述べています。ただし、相変わらず死に対して中心的役割を与えている現代のイデオロギーが1つだけあるとして、著者は「ナショナリズムだ。ナショナリズムは情に訴えるときや切羽詰まってきたときには、国のために命を捧げる者は誰でも国民の集合的記憶の中で永遠に生き続けることを約束する」と述べます。



さらに、「死に対する人間の態度」として、著者は「今回のパンデミックで、死に対する人間の態度は変わるだろうか?」と問いかけ、「おそらく、変わらない。まったくその逆だ。COVID-19のせいで、私たちは人命を守ろうと、なおさら努力するようになる可能性が高い。なぜなら、COVID-19に対して社会が見せる反応として最も目立つのは、諦めではなく、憤慨と期待が入り交じったものだからだ。中世ヨーロッパのような近代以前の社会で感染症が勃発したときには、人々はもちろん命の危険を感じ、愛する人の死に打ちのめされたが、主な反応は諦めだった」と述べています。人々は、これは神の思し召し、あるいは、人類の罪に対する天罰だと自分に言い聞かせたのでした。中世ヨーロッパでは、ペストの流行によって「メメント・モリ(死を想え)」という思想が生まれましたが、今回のCOVID-19の流行は「メメント・モリ」とは無縁なのでしょうか。



そして、「いずれは死すべき存在」として、著者は「人は何世紀にもわたって宗教にすがり、死後も永遠に存在し続けると信じて不安を和らげてきた。今では精神の安定を保つために宗教の代わりに科学を頼り、医師がいつでも救ってくれる、自分のアパートで永遠に生き続けられると信じて不安を軽減しようとすることがある。だが、現在必要とされているのは、バランスの取れたアプローチだ。私たちは、感染症に対処するにあたっては科学を信頼すべきだが、自分は一時的な存在であり、必ず死ぬという事実に取り組む責務も、依然として担わなくてはならない」と述べるのでした。ならば、やはり死生観というものが不可欠であり、「メメント・モリ」と無縁ではいられないと言えるでしょう。



2020年4月25日にNHKのEテレで放送された緊急インタビュー「パンデミックが変える世界」(インタビュアー:道傳愛子)では、著者は「メディアや一般の人々に言いたいのは、感染症そのものだけに注目しないでほしいということです。『今日、何人感染したか』『病院には人工呼吸器が何台あるか』――こういったことは重要ですが、政治情勢にも注意を払ってほしいと思います。なぜなら、政治家たちは今、何十億、何兆ドルものお金を給付金などに注ぎ込むとともに、非常に重要な決定を下しているからです」と語っています。


このパンデミックの終息後、新たな秩序が確立したときには、今下されている決定を変更するのは非常に困難であるとして、著者は「あなたがたとえば2021年に首相に選ばれたとしたら、それはパーティが終わった後に会場にやって来るようなもので、残っていることと言えば、汚れた食器を洗うことぐらいのものです」と日本人がドキッとするようなことを言います。さらに著者は、「ですから政治家たちは今、絶好の機会を迎えています。経済や教育システムや国際関係のルールブックをすっかり書き直すことができるのですから。ただし、この機会は束の間のものです。そして、選択肢はじつにたくさんあります。私たちが正しい選択をすることを願ってやみません」と語ります。

 

「より長い人間の歴史の中、つまりサピエンスの全歴史の中で、このパンデミックはどんな意味を持っているのでしょう?」というインタビュアーの道傳氏の質問に対して、著者は「人類はもちろん、このパンデミックを生き延びます。私たちはこのウイルスとは比べものにならないほど強いし、過去にもこれよりはるかに深刻な感染症を何度も生き延びてきました。今回も生き延びることに疑問の余地はありません。この感染症が最終的にどのようなインパクトを与えるかは、あらかじめ決まっているわけではなく、私たち次第です。この危機がどのような結末を迎えるかは、私たちが選ぶのです。もし選択を誤り、ナショナリズムに基づく孤立主義や独裁者を選び、科学を信用しないで陰謀論を信じることを選べば、歴史に残る大惨事を招くでしょう。何百万もの人が命を落とし、経済は危機に陥り、政治は大混乱になります。」と答えています。



 一方で、「パンデミックを生き延びるために」として、著者は「逆に、もし賢い選択をし、グローバルな連帯や民主的な責任を選び、科学を信頼することを選べば、そのときは、たとえ死者が出たとしても、苦しみが引き起こされたとしても、後から振り返れば、この危機は人類にとって素晴らしい転換点だったことが見て取れるでしょう――ウイルスを克服した節目だけだっただけではなく、私たちが内なる魔物を打ち負かした節目だったように。憎しみを乗り越えた時点、錯覚や妄想を乗り越え、真実を信頼し、以前よりはるかに強く、はるかに統一された種となった時点だったと思えることでしょう」とも述べています。このポジティブな考え方は、拙著『心ゆたかな社会』(現代書林)で、わたしが示した「何事も陽にとらえる」考え方に通じています。

 

心ゆたかな社会 「ハートフル・ソサエティ」とは何か
 

 

同書で、わたしは以下のように述べました。
「考えてみると、こんなに人類が一体感を得たことが過去にあったであろうか。戦争なら戦勝国と敗戦国がある。自然災害なら被災国と支援国がある。しかし、今回のパンデミックは『一蓮托生』ではないか。『人類はみな兄弟』という倫理スローガンが史上初めて具現化したという見方もできないだろうか。今回のパンデミックを大きな学びとして、人類が地球温暖化をはじめとした地球環境問題、そして長年の悲願である戦争根絶と真剣に向き合うことができることを望むばかりである。人類はこれまでペストや天然痘コレラなどの疫病を克服してきたが、それは、その時々の共同体内で人々が互いに助け合い、力を合わせてきたからだ。あわせて、新型コロナはITの普及によって全世界にもたらされている悪い意味での『万能感』を挫き、人類が自然に対しての畏れや謙虚さを取り戻すことが求められる」

 

NHKのインタビューの最後は、道傳氏が「コロナの世界で毎朝目覚めるたびに、あなたはどのようにして恐れを克服しているのでしょうか?」と質問します。それに対して、著者は「コロナへの恐れを克服するために2つのことをしています。第一に、私はこの危機の間も毎日2時間瞑想しています。いや、この危機の間だからこそかもしれません。私はヴィパッサナー瞑想をしています」「第二に、私は科学に頼ることで恐れを克服しています。つまるところは、もし私たちが科学を信頼すれば、この危機を容易に乗り越えることができるでしょう。反対に、もしあらゆる種類の陰謀論に屈してしまえば、私たちの恐れが煽られるだけで、人々は不合理な行動に走るでしょう。つまえい、心を開き、科学的で合理的な目で状況を眺めれば、私たちはこの危機を脱する道を見つけられるのです」と語るのでした。「瞑想の実践」と「科学への信頼」というバランス感覚に、この若き「知の巨人」の凄味を見た思いです。



「訳者あとがき」で、柴田裕之氏は「国民が正しい選択をし、人類が今回のコロナ危機さえ乗り越えられればいいのか? もちろん違う。監視テクノロジーが民主的に活用され、上下双方向に情報が流通するとともに、グローバルな信頼関係が確立された社会が実現すれば素晴らしいが、じつは、著者にしてみれば、それすら私たちにとっての究極の目的ではない。そのような社会が実現した暁には、私たちは何をするのか? それこそが肝心で、核心にあるのは、あるいは核心の入口にあるのは、死や自らの脆弱さ、はかなさと向かい合い、生の意義を考えること、となる。歴史学者であると同時に哲学者でもある著者らしい見識と言える」と述べています。哲学とは「死の学び」とソクラテスは言いました。やはり、著者が言いたいのは「メメント・モリ」ではないでしょうか。わたしには、そう思えます。

 

 

2020年10月13日 一条真也

回天搭乗員の最後の言葉

一条真也です。
ヤフー・ニュースで見つけた「人間魚雷・回天搭乗員、最後に『ありがとう』 母艦乗組員証言、冥福祈り続ける」という記事には泣けました。

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この記事は、「京都新聞」が配信したものですが、「太平洋戦争末期、人間魚雷『回天』搭乗員の最後の言葉に耳を澄ましていた元潜水艦乗組員の男性が、7月に94歳で亡くなった。艦長と特攻兵器との連絡員だった。男性は戦後、未成年もいた搭乗員たちの冥福を祈り続けてきた。生前の今年2月、京都新聞社の取材に応じ、当時の心境や平和へを思いを語り残していた」と書かれています。



記事は「回天」の母艦となった大型潜水艦「伊58」の乗組員だった京都市伏見区の中村松弥さんの証言をまとめた内容ですが、以下のように書かれています。回天の搭乗員が「よーい」という号令でエンジンを掛けたとき、艦長はいつも「最後に言うことはないか」と聞いたそうです。中村さんの記憶は鮮明で、「出撃した(18歳~23歳の)5人のうち4人は『お世話になりました。ありがとうございました』、1人は『天皇陛下万歳、後続の者よろしく』と言った」と語っています。

 

回天が離艦すると電話線がちぎれて通信は途絶えます。中村さんは、「後は回天の人任せ。私は何とか当たれ当たれと願っていた」と述べ、敵艦に命中すると「あー良かったと思ったものです。みんなが一つの棺おけに入っているようなもん。私もいつでも死ねると思っていた」と回想します。わたしは、この「みんなが一つの棺おけに入っているようなもん」という言葉を読んだとき、落涙しました。当時の若者たちの心中を想像すると、たまりませんでした。



それだけの極限体験を共有した者の心の「絆」は強固です。「きずな」という字には「きず」が入っています。痛み、苦しみ、悲しみ、不安、恐怖といった心の傷を共有した者たちの絆は強く結ばれていますが、その意味では戦友の絆は最強だと言えるでしょう。回天をテーマにした横山秀夫の小説を原作とした日本映画の名作「出口のない海」(2006年)を観ても、そのことがよくわかります。


終戦後、中村さんは東山区の実家に帰り、結婚。実家の青果店の商売が落ち着いた1960年代から、基地があった山口県周南市の大津島を毎年訪れ、冥福を祈るようになりました。「出て行ってそれきりですやん。そら忘れられません。これからも戦争がないと良いなと思います」と語られた中村さんは慰霊の旅を亡くなる前年まで続けられたそうです。亡き戦友たちと共に戦後を生きられたのでしょう。故中村松弥さんの御冥福、および、すべての回天搭乗員の方々の御霊が安らかであることを心よりお祈りいたします。

 

2020年10月12日 一条真也

「望み」

一条真也です。
「スポーツの日」の前日、ブログ「星の子」で紹介した映画に続いて、日本映画「望み」を小倉のシネコンで鑑賞しました。1日に2本観るのは久しぶりです。ともに「家族を信じる」がテーマで、子が親を信じることを描いた作品が「星の子」なら、「望み」は親が子を信じる姿を描いていました。ちなみに、父親役の堤真一と刑事役の加藤雅也はわたしと同い年です。2人の同級生へのエールも込めて観ましたが、内容はとても重く、いろいろと考えさせられました。

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『クローズド・ノート』『検察側の罪人』などで知られる雫井脩介の小説を原作にしたサスペンスドラマ。幸せな生活を送っていたはずの夫婦が、息子が同級生の殺人事件への関与が疑われたことで窮地に立たされていく。メガホンを取るのは『十二人の死にたい子どもたち』などの堤幸彦。『孤高のメス』などの堤真一と『マチネの終わりに』などの石田ゆり子が主演を務める。脚本を手掛けるのは、『グッドバイ~嘘からはじまる人生喜劇~』などの奥寺佐渡子」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
一級建築士として活躍する石川一登(堤真一)は、誰もがうらやむような裕福な生活を送っていたが、高校生の息子が無断外泊したまま帰ってこなくなってしまう。その行方を捜すうちに、彼が同級生の殺人事件に関わっていたのではないかという疑いが浮上してくる。たとえ被害者であろうとも息子の無実を信じたい一登、犯人であっても生きていてほしいと願う妻の貴代美(石田ゆり子)。二人の思いが交錯する中、事態は思わぬ方向へと突き進んでいく」



この映画、ネタバレ厳禁なのでストーリーについては書きにくいのですが、テーマは「信じる」ことです。特に、親がわが子を信じられるかというところに焦点が当てられています。わが子が殺人事件の「加害者」か「被害者」か、2つに1つの可能性があるとき、父親は「被害者」であることを望みますが、母親は「加害者であろうと生きていてほしい」と望みます。このたあたりは、わたしには理解できません。わたしなら、映画の父親と同じように「わが子が加害者であるより被害者の方がいい」と思うでしょう。それが、ただひたすら「とにかく生きてさえいてくれればいい」と言い続ける母親の姿には違和感をおぼえました。


映画の最後で、「とにかく生きてさえいてくれればいい」というのは一時の感情で、その後、時間が経過するにつれて考え方が変化していくさまが描かれていました。このシーンを観て、わたしは「やはり強いショックを与えられると、人間は思考停止する。その状態で物事を決定してはいけない。急いで結論を出さず、時間をかけて考える必要がある」ということを痛感しました。自身や家族の余命宣告、配偶者の不貞行為、わが子の犯罪行為・・・・・・人間が「思考停止」するケースは、いくらでもあります。



それとネタバレにならないように注意深く書くと、被害者家族はもちろんですが、加害者家族のグリーフは巨大であると思いました。映画の中で清原果耶演じる妹が「殺人事件の加害者家族は就職も結婚もできない。最後は自殺する人もいる。お兄ちゃんが加害者だと困る。被害者の方がいい」と言い放つ場面は、薄情などというより切実そのもので、共感しました。マスコミの過剰報道も加害者家族をいっそう追い詰めます。この映画を観て、過去のさまざまな事件の当事者の自宅や実家に押し寄せたマスコミの過剰報道を思い出しました。



さて、この映画には2つの葬儀のシーンが登場します。互助会業界の仲間であるアルファクラブ武蔵野さんのセレモニーホールで撮影されていましたが、殺された高校生の葬儀のシーンを観て、考えさせられました。というのも、殺人や自死といった事情のある死因の場合、「密葬」で行われることが多いのですが、この映画ではきちんと普通の葬儀が行われていたからです。殺人の被害者になったり、自ら命を絶つのは悲しいことではありますが、亡くなった故人は確かにこの世に生きたのであり、臭いものに蓋をするように、「密葬」という秘密葬儀で弔われるのは悲しみが増すだけだと思います。「死は最大の平等」であり、死因によって、死者を差別してはならないと思うのです。



しかしながら、ブログ「家族葬の罪と罰」でも書いたように、葬儀の世界で「家族葬」や「直葬」といった言葉が一般的になってきました。「家族葬」の本質は、もともと「密葬」と呼ばれていたものです。身内だけで葬儀を済ませ、友人・知人や仕事の関係者などには案内を出しません。そんな葬儀が次第に「家族葬」と呼ばれるようになりました。しかしながら、本来、1人の人間は家族や親族だけの所有物ではありません。どんな人でも、多くの人々の「縁」によって支えられている社会的存在であることを忘れてはなりません。殺人事件の被害者でもなく、自ら命を絶ったわけでもないのに、近親者のみで葬儀を済ませ、荼毘に付すことには違和感をおぼえます。森山直太朗が歌う映画主題歌の「落日」は、家族葬が横行する日本における「家族の落日」のテーマソングのように思えてなりません。

儀式論』(弘文堂)

 

葬儀だけではなく、あらゆる儀式は家族の絆を深めます。映画「望み」のオープニングおよびエンディングには石川家の子どもたちの七五三、卒業式、入学式の家族写真がスクリーンに映りました。古代中国の思想家である孔子は「社会の中で人間がどう幸せに生きるか」ということを追求した人ですが、その答えとして儀式の重視がありました。人間は儀式を行うことによって不安定な「こころ」を安定させ、幸せになれるように思います。その意味で、儀式とは人間が幸福になるためのテクノロジーなのです。人間の「こころ」は、どこの国でも、いつの時代でも不安定です。だから、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要なのです。そこで大切なことは先に「かたち」があって、そこに後から「こころ」が入るということ。逆ではダメです。「かたち」があるから、そこに「こころ」が収まるのです。 

人生の四季を愛でる』(毎日新聞出版

 

人間の「こころ」が不安に揺れ動く時とはいつかを考えてみると、子供が生まれたとき、子供が成長するとき、子供が大人になるとき、結婚するとき、老いてゆくとき、そして死ぬとき、愛する人を亡くすときなどです。その不安な「こころ」を安定させるために、初宮祝、七五三、成人式、長寿祝い、葬儀といった一連の人生儀礼があるのです。さらに、わたしは、冠婚葬祭は「人生の四季」だと考えています。七五三や成人式、長寿祝いといった儀式は人生の季節であり、人生の駅です。セレモニーも、シーズンも、ステーションも、結局は切れ目のない流れに句読点を打つことにほかなりません。わたしたちは、季語のある俳句という文化のように、儀式によって人生という時間を愛でているのかもしれませんね。それはそのまま、人生を肯定することにつながります。

人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社

 

最後に、この映画のラストシーンでは、「お帰りなさい」「行ってきます」という家族の挨拶のやり取りがありました。この挨拶も、さまざまな儀式と同じように家族の関係を良くする魔法であると思います。『人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)にも書いたのですが、「行ってきます」は、当人にとっては「今日も元気にがんばろう」という決意と「今日も無事でありますように」と祈る気持ちで我が家を出発する言葉です。「行ってらっしゃい」という送り出す側の言葉は「今日も元気で」で応援する気持ちと、「車や事故に気をつけて」と安全を祈る心の表現です。



送り出した人が元気で帰宅することが家で待つ者にとっては一番気がかりなのです。交通事故の他にも、災害、犯罪、学校でのトラブルなど、日常的に心身の危険にさらされている今日では、元気な「ただいま」の一言で、家族は安心するのです。そして、「お帰りなさい」の一言で、帰ってきた者もまたホッとし、外での苦しいこと、辛いことも癒されるのです。「望み」というヘビーな犯罪映画を観て、わたしは「儀式と挨拶が家族の絆を強める」ということを再確認しました。ネタバレ覚悟で書くと、最後の「お帰りなさい」は清原果耶ちゃん演じる女子高校生の声でした。わたしも、こんな可愛い声で「お帰りなさい」と言われてみたいものです!

 

2020年10月11日 一条真也拝 

「星の子」

一条真也です。
10日、新しいわが社のシネアドのチェックを兼ねて、小倉のシネコンで日本映画「星の子」と「望み」を観ました。ともに「家族を信じる」がメインテーマでしたが、「星の子」は「親を信じ切れるか」ということが切に問われていました。



ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『こちらあみ子』『あひる』などで知られ、『むらさきのスカートの女』で第161回芥川賞を受賞した今村夏子の小説を原作にしたヒューマンドラマ。怪しげな宗教を信じる両親のもとで育った少女が、思春期を迎えると同時に自分が身を置いてきた世界に疑問を抱く。メガホンを取るのは『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』『タロウのバカ』などの大森立嗣。『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』などの芦田愛菜が、ヒロインのちひろを演じている」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、こう書かれています。
「父(永瀬正敏)と母(原田知世)から惜しみない愛情を注がれて育ってきた、中学3年生のちひろ芦田愛菜)。両親は病弱だった幼少期の彼女の体を海路(高良健吾)と昇子(黒木華)が幹部を務める怪しげな宗教が治してくれたと信じて、深く信仰するようになっていた。ある日、ちひろは新任の教師・南(岡田将生)に心を奪われてしまう。思いを募らせる中、夜の公園で奇妙な儀式をする両親を南に目撃された上に、その心をさらに揺さぶる事件が起きる」



ちひろの両親は、怪しげな新興宗教にハマっています。「怪しげな」というのは、わたしの見方、また世間一般の見方であって、その宗教を信じている人からすれば、怪しくも何ともありません。ただただ、有難いだけです。その宗教にハマったきっかけは、ちひろの赤ちゃん時代の皮膚病を教団から買った霊水が治してくれたことです。貧困・病気・人間関係の諍いという「貧・病・争」が人々が新興宗教にハマる三大要素であることは有名ですが、単なる水に高いカネを払うのは霊感商法と思われても仕方ありません。


儀式論』(弘文堂)

 

しかし、「鰯の頭も信心から」ではありませんが、「単なる水も信じれば病を治す」ことは事実としてあります。いわゆる「プラセボ効果」です。東京大学医学部付属病院 循環器内科 助教を経て、現在、軽井沢病院総合診療科医長を務める稲葉俊郎氏が拙著『儀式論』(弘文堂)を読んだ感想を書かれたブログ記事「一条真也『儀式論』」には、「医療でもプラセボ効果というものがある。それは、本当の薬ではない偽薬であっても、薬を飲んでいる、と思うだけで身体にいい効果を及ぼす事を言う。このプラセボ効果の重要な点は、やはり『薬を飲む』という行為や動作に意味があるのではないかと言うことだ。それはある種の儀式に近いものだろう。そうした身体的儀式を行うだけで、体には全体性を取り戻す力としての自然治癒力が高められて発動される。頭や観念だけで思うよりも、実際に何か身体を使った象徴的行為として動作を行うことが重要ではないかと思う」と書かれています。

 

 

プラセボ効果」は「プラシーヴォ効果」とも呼ばれます。ブログ『ザ・ライト―エクソシストの真実―』で紹介したマット・バグリオの著書には、「治癒をもたらす儀式が有益なのは、プラシーヴォ(偽薬)効果のせいもあるのかもしれない。イギリスのプリマス大学の心理学者マイケル・E・ハイランド博士は偽薬効果の広範な研究を行ってきた。が、プラシーヴォ効果による治療のことを、博士はむしろ“儀式的治療”と呼びたいと言う。『プラシーヴォという言葉が、わたしは好きではないんですね。1つには、“偽”と呼ぶ以上、われわれは真の病因を知っていることを示唆するでしょう。そして2つには、この病気のメカニズムのこともわれわれが知っていることを暗示するからです。本当は知らないのにね』」(高見浩訳)と書かれています。ただ、ちひろの場合は本人が赤ちゃんだったので、本人は水を信じることはできませんから、プラセボ効果(プラシーヴォ効果)の理論は通用しません。おそらく、ひどいアトピー性皮膚炎に苦しむ彼女のために両親が行ってきたさまざまなこと(食事療法とか、ダニ除去とか、衣類の改善とか)の効果が出た時期と水を試してみた時期のタイミングが合ったのでしょう。ちなみに、詐欺が成功するのもタイミングが合ったときです。



ちひろの家族が信仰している宗教は、人間のことを「星の子」と呼びます。わたしたち人間は大宇宙によって生かされており、星々の力によって動かされているというのです。これは、わざわざ教団から言われるまでのことはなく、人間が「星の子」であることは当たり前です。人類の生命が宇宙から来たという仮説は、今や多くの科学者が支持しています。DNAの二重螺旋構造を提唱してノーベル賞受賞者となった分子生物学者のフランシス・クリックが「生命の起源と自然」を発表し、生命が宇宙からやってきた可能性を認めました。その後、イギリスの天文学者フレッド・ホイルと、星間物質を専門とするスリランカ出身の天文学者チャンドラ・ウィックラマシンジは「パンスペルミア説」を提唱しました。生命は宇宙に広く多く存在しており、地球の生命の起源は地球ではなく、他の天体で発生した微生物の芽胞が地球に到達したものであるという説です。

ロマンティック・デス』(幻冬舎文庫

 

拙著『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)や『唯葬論』(サンガ文庫)の「宇宙論」にも書きましたが、ホイルとウィックラマシンジは、生命の種子が彗星によってもたらされたと主張しました。その後、クリックはさらに、高度に進化した宇宙生物が生命の種子を地球に送り込んだとする「意図的パンスペルミア説」を提唱しました。 地球が誕生する以前の知的生命体が、意図的に“種まき”をしたというSFそのもののような仮説です。「パンスペルミア説」が正しいにせよ、SFのような「意図的パンスペルミア説」が正しいにせよ、わたしたち人間の肉体をつくっている物質の材料は、すべて星のかけらからできています。これは間違いありません。

唯葬論』(サンガ文庫)

 

その材料の供給源は地球だけではありません。はるかかなた昔のビッグバンからはじまるこの宇宙で、数え切れないほどの星々が誕生と死を繰り返してきました。その星々の小さな破片が地球に到達し、空気や水や食べ物を通じてわたしたちの肉体に入り込み、わたしたちは「いのち」を営んでいるのです。わたしたちの肉体とは星々のかけらの仮の宿であり、入ってきた物質は役目を終えていずれ外に出てゆく、いや、宇宙に還っていくのです。宇宙から来て宇宙に還るわたしたちは、「星の子」なのです。人間も動植物も、すべて星のかけらからできています。そのように人間が「星の子」であることは当たり前なのに、ことさら「宇宙によって生かされており、星々の力によって動かされている」などと言挙げする教団は、単なる霊感商法団体と思われても仕方ありません。



わたしは、オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉が「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句だったことを思い出しました。死の事実を露骨に突き付けることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、言挙げする必要などありません。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということ。問われるべきは「死」でなく「葬」なのです。映画「星の子」に登場する教団にも、オウム真理教と同じ違和感をおぼえました。教団側の人間を演じる高良健吾黒木華は「それらしく」て、非常に良かったです。



それにしても、主演の芦田愛菜の成長ぶりには目を見張ります。9月3日に東京都内で行われた映画の完成報告イベントでは、映画のテーマである「信じる」について、彼女は「裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められることができる、揺るがない自分がいることが信じることと思いました」と高校生とは思えない回答を披露しました。続けて、「揺るがない軸を持つことは難しい。だからこそ人は『信じる』と口に出して、成功したい自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなと思いました」と言葉の中に潜む人の心理を指摘したのです。この答えにメガホンをとった大森立嗣監督は「難しいよ!」と感嘆し、父親役の永瀬正敏も「これ以上の答えはないですよ!」と絶賛しました。



芦田愛菜の言葉に対する感覚には、わたしも脱帽しました。「天才子役」と言われ続けた彼女ですが、幼い頃から身近に本がある環境で育ち、物心ついた頃から本に触れていたといいます。彼女ににとって、読書はもはや日常の一部だそうです。歯を磨きながら本を読んでいたら内容に夢中になってしまい、20分も磨き続けていたということもあったとか。小学生の時は年間180冊の本をリアルに読んでいたそうで、自らを「活字中毒」と語るほどでした。小学校低学年で年間300冊、多いときで月50冊も読んでいたそうで、中学生になってからも年間180冊、高校生になった現在も年間100冊以上読む「本好き」だそうです。『まなの本棚』(小学館)という自著もあります。



さて、大の本好きで知的な芦田愛菜ちゃんですが、その可愛さは子役時代よりもパワーアップしたような気がします。そして、彼女が持っている透明感はハンパではありません。わたしは、「いつか、こんな透明感を持った少女を見たような気がする・・・」と思いながら「星の子」を観ていたのですが、それが映画で母親役を演じた原田知世であることに気づきました。
そうです、筒井康隆原作で大林宣彦監督作品の角川映画時をかける少女」(1983年)で主人公の芳山和子を演じた原田知世の雰囲気に、今の芦田愛菜はそっくりではありませんか!



そのことに気づいてから「星の子」を観ると、原田知世芦田愛菜は顔の作りまで似ており、特に鼻の形なんてまったく同じではありませんか!(映画のポスターを見て下さい!) この二人を母娘役にした大森監督はきっと気づいていたことと思いますが、ぜひ、芦田愛菜主演で「時をかける少女」のリメイク版を製作していただきたいものです。それにしても、原田知世は52歳だそうですが、若いですね。変わらぬ美貌に永瀬正敏が「びっくりするぐらい美しい」と映画の完成報告イベントで言っていました。最後に、夜の山奥で流れ星を見つめる親子三人の表情は名演技でした!

 

2020年10月11日 一条真也

宗遊

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わたしは、これまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は「宗遊」という言葉を取り上げることにします。『ハートビジネス宣言』(東急エージェンシー)で提唱した言葉です。


「宗遊」を提唱した『ハートビジネス宣言』(東急エージェンシー

 

宗教の「宗」という文字は「もとのもと」という意味で、わたしたち人間が言語で表現できるレベルを超えた世界です。いわば、宇宙の真理のようなものです。その「もとのもと」を具体的な言語とし、慣習として継承して人々に伝えることが「教え」です。だとすれば、明確な言語体系として固まっていない「もとのもと」の表現もありうるはずで、それが「遊び」なのです。音楽やダンスなどの「遊び」は最も原始的な「もとのもと」の表現であり、人間をハートフルにさせる大きな仕掛けとなります。


宇宙における情報システム

 

もはや何かを人間の心に訴えるとき、「教え」だけでプレゼンテーションを行う時代ではありません。幸福、愛、平和といった抽象的なメッセージを伝えようとしても、今までは「教え」だけだったので説教臭くなって人々に受け入れられないという面がありました。そういった抽象的な情報は、言語としての「教え」よりも、非言語としての「遊び」の方が五感を刺激して、効果的に心に届きやすいのです。


宗遊の背景(1990年頃)

 

人間が心の底からメッセージを受け取るのは、肉体というメディアを通過させた「体感」によってでしょう。情報と記号が氾濫する現代においては特にそのことが言えます。また、今後の社会を動かす原動力となる若者や子どもに対しては、直接に「教え」を授けるより、音楽、映画、ミュージカル、スポーツ、それにテレビゲームなどを通じてメッセージを送った方が素直に受け入れられることは確実です。


サンレーグランドホテル内に開設された「宗遊館

 

わたしは「遊び」を通してメッセージを送る、このプレゼンテーション・システムを宗教ならぬ「宗遊」と呼んでいます。もちろん「遊び」だけでは、宗教は単なるレジャー産業になってしまい、宗教ではなくなってしまいます。宗教にとっては決して「遊び」だけがすべてではありません。ハート化社会においては、「教え」と「遊び」のバランスを図って、幸福や愛をプレゼンテーションしていく「教遊一致」が必要とされるのです。この「宗遊」というコンセプトをわかりやすく展示するミュージアムが「宗遊館」です。2004年2月に北九州市にオープンしたサンレーグランドホテル内に開設され、大きな話題を呼びました。


ロマンティック・デス』(国書刊行会

 

「宗遊」には、もう1つの意味もあります。ずばり、「葬儀」の別名です。わたしは『ロマンティック・デス』(国書刊行会幻冬舎文庫)、その流れを受けた『唯葬論』(三五館、サンガ文庫)の中で「葬儀は遊びよりも古い」と記しました。実際、世界的に見ても相撲・競馬・オリンピックなどの来歴の古い「遊び」の起源はいずれも葬儀と深い関係があります。古代の日本では、天皇の葬儀にたずさわる人々を「遊部(あそびべ)」と呼んでいました。葬儀と「遊び」とのつながりをこれほど明らかにする言葉はありません。


唯葬論』(三五館)

 

そもそも、はるか7万年前、ネアンデルタール人が最初に死者に花をたむけた瞬間から、あらゆる精神的営為は始まりました。これからの多死時代において、葬儀のもとに、「死」を見つめ、魂を純化する営みである哲学・芸術・宗教は統合されるのかもしれません。そして、その大いなる精神の営みはもはや葬儀とは呼ばれず、「宗遊」という新しい名を得ると思います。そのことを『ハートフル・ソサエティ』(三五館)、そのアップデート版『心ゆたかな社会』(現代書林)に「哲学・芸術・宗教の時代」という一章を設けて、自説を展開したのであります。

f:id:shins2m:20200516165530j:plain心ゆたかな社会』(現代書林)

 

2020年10月10日 一条真也