小倉から長崎へ

一条真也です。
24日の午後、わたしは小倉から長崎へ向かいました。ブログ「サンレーグループ新CM」には多くのアクセスが寄せられましたが、新CMで素晴らしい歌声を披露して下さった前川清さんの故郷が長崎です。

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JR小倉駅のホームで

f:id:shins2m:20200807123958j:plain2020年8月9日の各紙朝刊掲載の意見広告

f:id:shins2m:20190806091419j:plain西日本新聞」2019年8月6日朝刊

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JR博多駅のホームで

ブログ「長崎原爆の日」にも書いたように、長崎に投下された原爆は本来は小倉に落とされるはずでした。わが社は「長崎原爆の日」にずっと鎮魂広告を新聞各紙に出稿し続けていますが、そのことを知った前川さんは非常に感銘を受けられたそうで、それが御縁で、わが社のイメージキャラクターになっていただくことになったのです。この日の出張には、黒マスク姿で行きました。サンレー流通事業課の梅林課長から試供品として渡されたものですが、ブログでわが黒マスク姿の写真を掲載したら、意外にも好評でした(笑)。

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博多駅で特急かもめ25号を待つ

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かもめ25号が到着しました

まずは、JR小倉駅から新幹線のぞみ21号でJR博多駅へ向かいました。じつは、この日、建築家の先生ともうすぐ福岡市にオープンする「浦田紫雲閣」と「多々良紫雲閣」のデザインや内装についての最終打合せをしたばかりでした。わたしは、「もうすぐだからな、博多・・・」と黒マスクをしたままつぶやき、武者震いをしました。それから、長崎行きの特急かもめ25号に乗り換えました。

f:id:shins2m:20200924150441j:plainかもめ25号の車内で

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車内で「菅さんのサブレ」を食べました

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渡邊副会長から送られたお菓子セット

かもめ25号の車内では、缶コーヒーを飲みながら、横濱馬車道ガス灯ビスキーの「菅さんのサブレ」を食べました。これは前日に、全互協の渡邊副会長ががたくさん送って下さった「菅新総理誕生祝い菓子セット」の1つです。渡邊副会長は、横浜に本社を置く冠婚葬祭互助会のメモワールの社長さんですが、政界への顔が広く、地元出身の菅総理を長らく応援されてきた方です。サブレはとても美味しくて、わたし好みの味でした。これは、自分でもお取り寄せしたいです。

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車内で読書をしました

人生の1冊の絵本 (岩波新書)

人生の1冊の絵本 (岩波新書)

 

 

サブレを食べ終わると、読書をしました。
この日読んだのは『人生の1冊の絵本』柳田邦男著(岩波新書)という本です。非常に勉強になりました。著者は息子さんを自死で亡くされたノンフィクション作家ですが、グリーフケアにも造詣が深いことで知られています。同書の中の「ファンタジーはグリーフワークの神髄」という章が特に参考になりました。同書を読んで知った絵本たちは、わが社のグリーフケアサロンである「ムーンギャラリー」の絵本コーナーに置きたいです。

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車窓から雨の海を眺めました

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車窓から雨の田畑も眺めました

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長崎は今日も雨だった」を聴きました♪



読書の合間に、車窓から外の景色を眺めました。外は雨が降っており、わたしは雨の海や田畑などをぼんやり眺めました。なんだか心が洗われるような気がしました。長崎が近づくと、わたしはたまらなくクールファイブの永遠の名曲「長崎は今日も雨だった」が聴きたくなって、iPhoneでYouTubeの動画を再生して、繰り返し聴きました。知らないうちに一緒に歌っている自分がいました。

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JR長崎駅に到着しました

f:id:shins2m:20200924170836j:plain長崎は今日は雨でした

f:id:shins2m:20200924170638j:plain長崎駅前の広場で

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本場の長崎チャンポンが美味しかった!

 

JR長崎駅に到着したら、長崎は雨でした。その夜は長崎駅の近くの中華料理店で同業の仲間と会食しました。コースの最後には、ミニ・チャンポンが出ましたが、本場の味はやはり絶品でした。野菜がシャキシャキしてて、スープも濃厚で味が豊かでした。これなら、ミニではなくて、大盛りで食べたかったです。翌25日は、業界の先輩である(株)長崎新生活センターの岩本省三会長の合同葬に参列します。

 

2020年9月24日 一条真也拝 

サンレーグループ新CM

一条真也です。
みなさん、お待たせしました!
前川清さんをイメージキャラクターとした、サンレーグループの新CMが完成しました。ブログ「前川清さんにお会いしました!」に書いたように、わたしは前川さんを日本一の歌手だとリスペクトしていますが、坂本龍一桑田佳祐福山雅治桜井和寿といった方々も、わが国を代表するブルース・シンガーとして最大級の賛辞を送っておられます。

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サンレー・イメージキャラクターの前川清さんと

 

NHK紅白歌合戦に29回も出場した国民的大スターでありながら、日曜日12時から放送の超人気番組「前川清の笑顔まんてんタビ好キ!」(テレビ朝日系)で、地域の住民やその家族と笑顔で触れ合う前川さんは、イメージキャラクターとしてぴったりです。さらに今回特別に、前川さんには、わが社が創立50周年を迎えた際に制作したサンレーグループイメージソング「ありがとう」を歌っていただきました。加えて、「サンレー」と「サンレー紫雲閣サウンドロゴまで歌っていただき、豪華なCMとなっています。



 ◆ サンレーグループTVCM
「一生、笑顔であなたとともに。」篇。

「冠婚葬祭を通じて良い人間関係をつくり、血縁や地縁を大切に思っていただきたい。サンレーグループは、そのお手伝いをしたい。」という思いをイメージして制作しました。今回のCMでは、前川清さんがサンレー本社のある小倉の街並みを背景に歌う中、楽しそうに自転車の練習をする親子、近くの八百屋さんで店主と話す仲睦まじい高齢のご夫婦など日常のシーンを使用しています。ここでは、わが社が大事にしたいと考えている血縁や地縁を表現しています。続いて、婚礼や葬儀をイメージしたシーンが入ります。ここではサンレーのメイン事業である冠婚葬祭のイメージをわかりやすく表現し、最後に「一生、笑顔であなたとともに。」というキャッチコピーで締めくくっています。撮影場所はサンレー本社の屋上です。このCMを通じて、改めて、血縁や地縁の大切さや温かさを感じていただき、冠婚葬祭というセレモニーや隣人祭りなど様々な事業でお手伝いするサンレーがいつでもそばにいることを感じていただければ幸いです!



サンレー紫雲閣TVCM
「あなたに、寄り添う。」篇。

紫雲閣のTVCMは、「あなたに、寄り添う。」という想いをイメージした内容になっています。天上の世界をイメージした純白のステージで前川清さんにイメージソング「ありがとう」を歌っていただきました。松柏園ホテルの新館「VILLA LUCE」のピュア・ホワイト・チャペルで撮影。葬祭のCMを冠婚施設で撮影するという非常にユニークな試みですが、涙の女性、亡き父との思い出、合掌する少女のイメージカットが挿入されています。キャッチコピーの「あなたに、寄り添う。」をナレーションする前川清さんの微笑みは、人柄の良さが溢れ出たような温かみがあり、紫雲閣が大切にしているグリーフケアの心を体現したような表情になっています。このCMを通じて、紫雲閣では、ただ葬儀だけをするのではなく、グリーフケアを含めた「お客様の心に寄り添うサービス」を提供していること伝えることができれば幸いです。

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前川さんと意気投合しました!

 

それにしても、「ありがとう」の一言なのに、余韻がすごいです。まるで魔法のように、聴く者の心に強く「ありがとう」が焼き付けられます。さすがは、坂本龍一桑田佳祐福山雅治桜井和寿らがリスペクトするグレイテスト・シンガーですね。なお、両CMは、わが社の提供番組である「前川清の笑顔まんてんタビ好キ!」をはじめ、全国各地のTV局で流されています。また、各地のシネコンでも流す予定です。
24日から、わたしは長崎に出張します。列車の中では、クールファイブの永遠の名曲「長崎は今日も雨だった」をリピート再生しながら聴きたいです!

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今日は長崎に向かいます!

 

2020年9月24日 一条真也

『コロナ後の世界を語る』

コロナ後の世界を語る 現代の知性たちの視線 (朝日新書)

 

一条真也です。
『コロナ後の世界を語る』養老孟司&ユヴァル・ノア・ハラリ&福岡伸一ブレイディみかこジャレド・ダイアモンド角幡唯介ほか著、朝日新聞社編(朝日新書)を読みました。「現代の知性たちの視線」というサブタイトルがついており、カバー裏には「最強論客によるアフターコロナへの提言! 日本の針路と世界の未来を問う!」と書かれています。

 

カバー前そでには、「新型コロナウイルスは瞬く間に地球上に広まり、多くの生命と日常を奪った。あちこちで分断と対立が生じ、先行きは不透明だ。この危機とどう向き合えばよいのか。各界で活躍する精鋭たちの知見を提示し、アフターコロナの新たな世界を問う論考・インタビュー集」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
「まえがき」
第1章 人間とは 生命とは
      養老孟司   
      私の人生は「不要不急」なのか?
       根源的な問いを考える 
      福岡伸一  
      ウイルスは撲滅できない 
       共に動的平衡を生きよ
      角幡唯介  
      人間界を遠く離れた54日間
       世界は一変していた 
      五味太郎  
      心は乱れて当たり前
       不安や不安定こそ生きるってこと
第2章 歴史と国家
      ユヴァル・ノア・ハラリ  
      脅威に勝つのは独裁か民主主義か
       分岐点に立つ世界
      ジャレド・ダイアモンド  
      コロナを克服する国家の条件とは?
       日本の対応とは?
      イアン・ブレマー  
      国家と経済の役割と関係が変化
       第4次産業革命が加速
      大澤真幸  
      苦境の今こそ国家超えた
       「連帯」を実現させる好機
      藤原辰史  
      パンデミックの激流を生き抜くためには
       人文学の「知」が必要
      中島岳志  
      「声」なき政治に国民の怒りが表出
       政治は大きな変化を
      藻谷浩介 
      「応仁の乱」と共通する転換点
       地方からの逆襲を
      山本太郎  
      病原体の撲滅は「行き過ぎた適応」
       集団免疫の獲得を
      伊藤隆敏  
      「リーマン以上」の打撃 実体経済
       通説を覆し急速に縮小している
第3章 社会を問う
      ブレイディみかこ   
      真の危機はウイルスではなく
       「無知」と「恐れ」
      斎藤 環  
      非常事態で誰もが気づいた
       「会うことは暴力」
      東畑開人  
      猛スピードの強風で
       「心は個別」が吹き飛ばされた
      磯野真穂  
      「正しさ」は強い排除の力を
       生み出してしまう
      荻上チキ 
      「ステイホーム」が世論に火をつけた
       一方ポピュリズムに懸念も
      鎌田 實  
      分断回避のために感染した若者に
       「ご苦労様」と言おう
第4章 暮らしと文化という希望
      横尾忠則 
      作品は時代の証言者
       この苦境を芸術的歓喜
      坂本龍一  
      パンデミックでも音楽は存在してきた
       新しい方法で適応を
      柚木麻子  
      暮らしを救うのは個人の工夫ではなく、
       政治であるべき
「あとがき」

 

「まえがき」では、朝日新聞東京本社デジタル編集部次長の三橋麻子氏が、「今回収録されたものは、世界の第一線に立つ知識人が、同じ困難に向き合いながら、語り綴った論考である。新聞社だからこそ成しえた即時性にも意味があると思う。いまだコロナ禍の収束が見えない中、本書が示す多様な視点が、混迷する世界について考える一助になれば、幸いである」と述べています。

 

半分生きて、半分死んでいる (PHP新書)

半分生きて、半分死んでいる (PHP新書)

 

 

第1章「人間とは 生命とは」の「私の人生は『不要不急』なのか? 根源的な問いを考える」では、解剖学者の養老孟司氏が「ヒトとウイルスは不要不急の関係」として、以下のように述べています。
寄生虫は宿主が死なないように配慮している。寄生虫が宿主にとって致命的になるのは矛盾である。なぜなら宿主の死は自分の死を意味するからである。寄生虫が致命的になるのは、宿主を間違えた場合が多い。寄生虫ほどに『高等な』生きものになると、宿主を生かさず殺さず状態にして、自己と子孫の保全を図る。ウイルスの場合も最終的には似たことになるに違いない。ヒトは適当に感染し、適当に病気になり、適当に治療する。これならウイルスはヒト集団の中で生き続ける。ヒト集団全体を滅ぼしてしまっては、共倒れになってしまう。『新しい』ウイルスとは、新たにヒト集団に登場し、そこに適応していくまでの過程にあるウイルスである。コロナもやがてそうなるはずで、薬剤が開発され、多くの人が免疫を持ち、一種の共生関係が生じて、いわば不要不急の安定状態に入る」

 

 

「ウイルスは撲滅できない ともに動的平衡を生きよ」では、生物学者福岡伸一氏が「ウイルスも生命」として、「生命としての身体は、自分自身の所有物に見えて、決してこれを自らの制御下に置くことはできない。私たちは、いつ生まれ、どこで病を得、どのように死ぬか、知ることも選り好みすることもできない。しかし、普段、都市の中にいる私たちはすっかりそのことを忘れて、計画どおりに、規則正しく、効率よく、予定にしたがって、成果を上げ、どこまでも自らの意志で生きているように思い込んでいる。ここに本来の自然と、脳が作り出した自然の本質的な対立がある。前者をギリシャ語でいうピュシス、後者をロゴスと呼んでみたい。ロゴスとは言葉や論理のこと。生命はピュシスの中にある。人間以外の生物はみな、約束も契約もせず、自由に、気まぐれに、ただ1回のまったき生を生き、ときが来れば去る。ピュシスとしての生命をロゴスで決定することはできない。人間の生命も同じはずである」と述べています。

 

 

福岡氏によれば、そんなピュシスの顕れを、不意打ちに近いかたちで、我々の目前に見せてくれたのが、今回のウイルス禍でした。ウイルスは無から生じたものではなく、もとからずっとあったものでした。絶えず変化しつつ生命体と生命体のあいだをあまねく行き来してきたのです。ウイルスの球形の殻は、宿主の細胞膜を借りて作られますウイルスも生命の環の一員であり、ピュシスを綾なすピースのひとつなのです。福岡氏は「無駄な抵抗はやめよ」として、「私は、ウイルスを、AIやデータサイエンスで、つまりもっとも端的なロゴスによって、アンダー・コントロールに置こうとするすべての試みに反対する。それは自身の動的な生命を、つまりもっとも端的なピュシスを、決定的に損なってしまうことにつながる。かくいう本稿もロゴスで書かれているという限界を自戒しつつ、レジスタンス・イズ・フュータル(無駄な抵抗はやめよ)といおう。私たちはつねにピュシスに完全包囲されているのだ」と述べるのでした。

 

 

第2章「歴史と国家」の「脅威に勝つのは独裁か民主主義か 分岐点に立つ世界」では、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリが、「感染が一気に拡大したのはグローバル化の弊害だという指摘をどうみますか」というインタビュアーの質問に対して、「感染症は、はるか昔から存在していました。中世にはペストが東アジアから欧州に広まった。グローバル化がなければ感染症は流行しないと考えるのは、間違いです。文化も街もない石器時代に戻るわけにはいきません」「むしろ、グローバル化感染症との闘いを助けるでしょう。感染症に対する最大の防御は孤立ではありません。必要なのは、国家間で感染拡大やワクチン開発についての信頼できる情報を共有することです」などと答えています。

 

 

また、「感染の広がりを受け、世界にはどんな変化が起きているのでしょうか」という質問に対して、ハラリは「危機の中で、社会は非常に速いスピードで変わる可能性があります。よい兆候は、世界の人々が専門家の声に耳を傾け始めていることです。科学者たちをエリートだと非難してきたポピュリスト政治家たちも科学的な指導に従いつつあります。危機が去っても、その重要性を記憶することが大切です。気候変動問題でも、専門家の声を聞くようになって欲しいと思います」と答えます。

 

 

さらに、「よい変化だけでしょうか」という質問に対しては、ハラリは「悪い変化も起きます。我々にとって最大の敵はウイルスではない。敵は心の中にある悪魔です。憎しみ、強欲さ、無知。この悪魔に心を乗っ取られると、人々は互いを憎み合い、感染をめぐって外国人や少数者を非難し始める。これを機に金もうけを狙うビジネスがはびこり、無知よってばかげた陰謀論を信じるようになる。これらが最大の危険です」「我々はそれを防ぐことができます。この危機のさなか、憎しみより連帯を示すのです。強欲に金もうけをするのではなく、寛大に人を助ける。陰謀論を信じ込むのではなく、科学や責任あるメディアへの信頼を高める。それが実現できれば、危機を乗り越えられるだけでなく、その後の世界をよりよいものにすることができるでしょう。我々はいま、その分岐点の手前に立っているのです」などと答えるのでした。

 

危機と人類(上)

危機と人類(上)

 

 

 「コロナを克服する国家の条件とは? 日本の対応とは?」では、生物学者ジャレド・ダイアモンドが、「危機に対応する5つの条件」を示しています。「新型コロナはすでに世界中に広がっていますが、国によって感染率や死亡率には大きな差が出ています。何がこうした差をもたらしているのですか」というインタビュアーの質問に対して、「単一の要因では説明ができない。少なくとも5つの理由があると考えています」とし、「第1に、海外からの渡航をどれぐらい制限できたか。第2に、感染者に対する隔離をどの程度行っているか。第3に、感染者の行動をたどり、感染者と接触した人々も強制的に隔離しているか。ベトナムで感染拡大が抑えられているのは、それを行っているからでしょう」「第4に、人口密度が高いかどうか。米国でも、人口密度が高いニューヨーク市では深刻な状況になっていますが、密度が低いモンタナ州ではさほどの感染者は出ていません。第5に社会的な接触の頻度。韓国における最悪の感染拡大は、人々の来訪を許した教会から起こりました。イスラエルでは、『ウルトラオーソドックス』と呼ばれるユダヤ教の戒律を厳格に守っているコミュニティーで大規模な集団感染が起きています」と述べています。

 

 

「2019年の著書『危機と人類』で、国家的危機の結果を左右する12の要因を挙げています。新型コロナ危機にあたって重要なポイントは何ですか」という質問に対しては、ダイアモンドはこう述べます。
「第1は、国家が危機的な状況にあるという事実、それ自体を認めること。危機の認識がなければ、解決へと向かうことはできません。」「第2は、自ら行動する責任を受け入れること。もし政府や人々が祈るだけで行動しなければ、問題は解決できません。」「第3は、他国の成功例を見習うこと。第4は他国からの援助を受けること。そして最も重要な第5のポイントは、このパンデミックを招来の危機に対処するためのモデルとすることです」

 

 

「『銃・病原菌・鉄』では、感染症が人類の歴史に大きな影響を与えてきたと指摘しています。新型コロナも現代文明に変化をもたらしますか」という質問に対しては、ダイアモンドは「気候変動問題で人がすぐに死ぬことはありませんが、新型コロナは違う。誰にとっても明らかな脅威です。私たちがなすべきことは、新型コロナが全世界への脅威だと認識し、このパンデミックを通じて世界レベルのアイデンティティーを作り上げること。それができれば、この悲劇から望ましい結果を引き出せます。気候変動や資源の枯渇、格差、そして核兵器の問題の解決に向けて協力することも可能になるでしょう。それが先にお話しした『新型コロナ問題を将来の危機に対するモデルとする』ことの真意です」と述べます。現時点では、世界レベルのアイデンティティーが実現するかどうかはわからないとして、ダイアモンドは「慎重な楽観主義者として『実現する確率は51%、実現しない確率は49%』と予測しています」と述べるのでした。

 

対立の世紀 グローバリズムの破綻

対立の世紀 グローバリズムの破綻

 

 

「国家と経済の役割と関係が変化 第4次産業革命が加速」では、国際政治学者のイアン・ブレマーが、「パンデミックを克服すれば、世界は元の繁栄に戻れるのでしょうか」というインタビュアーの質問に対して、「ワクチンの完成に1年半かかるとされます。それを世界中に届ける必要があります。接種のための啓発活動も必要です。経済が復興し、人々が安心して旅行できるようになるまで3年はかかるでしょう」「ですが、それでも今までとは全く違う世界になります。物流は在庫を抑える『ジャスト・イン・タイム方式』から、危機に備えて在庫を確保する『ジャスト・イン・ケース方式』に転換する。経済活動は世界に広がるグローバル展開から、消費者に近いローカルなものに移行するでしょう。人の作業がなくても済むオートメーション(自動化)も進み、世界の経済人が将来のものとして予想していた第4次産業革命が一気に到来します」と述べています。

 

コロナ時代の哲学

コロナ時代の哲学

 

 

「苦境の今こそ国家超えた『連帝』を実現させる好機」では、社会学者の大澤真幸氏が、現在ではすでに「封じ込め」では対応しきれない崩壊が世界で進みつつあるとして、医療システムの崩壊、経済システムの崩壊、そして人々のメンタル面での崩壊を挙げています。「メンタル面の崩壊」については、大澤氏は「たとえば、各国の医療現場で人工呼吸器の絶対数が不足し、高齢の重症患者と若い重症患者、どちらに呼吸器を優先的に装着するか、という選択を迫られる事態が多発しています。人工呼吸器を若者に回さざるを得ないとの判断。それは苦渋の決断で、社会を維持していく優先順位では、ある意味で正しいとも言える。しかし、その決断は『最も弱い立場にある人こそ、最優先で救済する』という、人間倫理の根幹をないがしろにしてしまうおそれがあります」説明しています。

 

 

また、「封じ込め」に代わる対策について、大澤氏は「例えば、現在のWHO(世界保健機関)は、総会で条約や協定を作っても、加盟国に対する強制力はありません。WHOよりもはるかに強い感染対策をとれる国際機関を設立することが必要です。新型感染症対策では、その機関による調査・判断・決定が、各国政府の力を上回る力を持つ。各国の医療資源を一元的に管理し、感染拡大が深刻な地域に集中的に投入する。人類が持つ感染症への対抗力を結集し、最も効率的に使えるようにするのです」と述べます。

 

 

「これまでさまざまな分野で『国家を超える連帯』が訴えられてきましたが、ほとんど実現していません。『絵に描いた餅』では?」というインタビュアーの突っ込みに対して、大澤氏は「新型コロナウイルス問題がそうした膠着状態を変える可能性があります」として、3つの理由を述べます。第1に、気候変動は非常に長いスパンで影響が表れるため、対応も進みにくかったが、ウイルスはあっという間に世界中に広がり、1人ひとりの命を直接脅かしていること。第2に、支持的・経済的に恵まれた人々は、格差や貧困、海水面の上昇など従来の社会問題から逃げられたが、新型コロナウイルスには多くの著名人や政治家も感染しており、「民主的で平等な危機」であり、社会の指導層・支配層もわがこととせざるを得ないこと。第3に、今回のパンデミックが終息したとしても、新たな未知の感染症が発生し、広がるリスクは常にあるのであり、日常生活の背後に「人類レベルの危機」がいつ忍び寄るかわからないことを、わたしたちは知ってしまったことです。

 

 

「『応仁の乱』と共通する転換点 地方からの逆襲を」では、地域エコノミストの藻谷浩介氏が「国と地方、どちらにも任せられない」として、「まるで『応仁の乱』後の時代みたいだと思いませんか? 守護大名や公家は京の都にこもって内輪もめや前例踏襲に明け暮れ、地方の守護代や国人がのし上がるまで国家権力には空白が続く――。守護大名を国会議員、公家を官僚に、守護代を知事、国人を市町村長に置き換えてみればどうでしょう。国と地方の関係は、いままさに転換点なのかもしれない」と述べています。非常に面白い視点だと思います。

 

 

また、地方創生の観点から見た今回のコロナ危機は、東京への過度な一極集中を是正し、ライフスタイルを変える好機であるとして、藻谷氏は「意欲的な自治体には、『鶏口となるも牛後となるなかれ』を実践する優秀なスタッフもいます。中央省庁からの若手出向者の中にも、国より制約の少ない役場で力を発揮する人が多い。現場感覚の薄い国会や中央官庁よりも、地方自治に手応えを感じる人材がもっと増えていけばいい。応仁の乱後の戦国時代のように、地方の現場で鍛えられた首長や役人が活躍し、やがて都の公家政治を一掃する――。そんな展開をコロナ後に期待しています」と述べています。まったく同感です。

 

感染症と文明 共生への道 (岩波新書)

感染症と文明 共生への道 (岩波新書)

 

 

「病原体の撲滅は『行き過ぎた適応』 集団免疫の獲得を」では、医学・国際保健学者の山本太郎氏が、「私たちは『感染症は自然からの脅威であり、人類は文明や科学の力で感染症と闘ってきた』というイメージを持っています」というインタビュアーの発言に対して、「巨視的には『文明は感染症のゆりかご』として機能してきたことも確かです。現在知られる感染症の大半は、農耕以前の狩猟採集時代には存在していなかった。人間は100人程度の小集団で移動を繰り返し、お互いの集団は離れていた。集団内で新型コロナウイルスのような感染症が発生しても、外には広がれず途絶えてしまう」「感染症が人間の社会で定着するには、農耕が本格的に始まって人口が増え、数十万人規模の都市が成立することが必要でした。貯蔵された穀物を食べるネズミはペストなどを持ち込んだ。家畜を飼うことで動物由来の感染症が増えた。はしかはイヌ、天然痘はウシ、インフルエンザはアヒルが持っていたウイルスが、人間社会に適応したものです」と述べています。

 

 

また、「文明の成立とともに人類は流行病の苦しみを背負ったわけですか」という質問に対しては、山本氏は「私たちは感染症について『撲滅するべき悪』という見方をしがちです。だけど、多くの感染症を抱えている文明と、そうではない文明を比べると前者の方がずっと強靭だった。16世紀、ピサロ率いる200人足らずのスペイン人によって南米のインカ文明は滅ぼされた。新大陸の人々は、スペイン人が持ち込んだユーラシア大陸感染症への免疫を、まったく持っていなかったからです」「一方でアフリカの植民地化が新大陸ほど一気に進まなかったのは、さまざまな風土病が障壁になったからです。近代西洋医学は植民地の感染症対策として発達した面が強い」と述べています。

 

 

第3章「社会を問う」の「真の危機はウイルスではなく『無知』と『恐れ』」では、保育士・ライターで、ベストセラー『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の著者であるブレイディみかこ氏が、「『キー・ワーカー』を巡る分断」として、「著書『負債論』で有名な人類学者のデヴィッド・グレーバーは、何年も前から『ケア階級』という言葉を使ってきた。医療、教育、介護、保育など、直接的に『他者をケアする』仕事をしている人々のことである。今日の労働者階級の多くは、じつはこれらの業界で働く人だ。製造業が主だった昔とは違う。コロナ禍で明らかになったのは、ケア階級の人々がいなければ地域社会は回らないということだった。私たちの移動を手伝うバスの運転手や、ゴミの面倒を見てくれる収集作業員などもここに含まれている。ケア階級の人々はロックダウン中、『キー・ワーカー』と呼ばれ、英雄視された。毎週木曜日の午後8時に家の外に出て彼らに感謝の拍手を贈る習慣が続いたし、メディアでも『サンキュー、キー・ワーカーズ』のメッセージが繰り返された」と述べています。わたしは、これを読んで、グリーフケアに従事する葬祭業者の人々も「キー・ワーカー」であることを確認しました。

 

負債論 貨幣と暴力の5000年

負債論 貨幣と暴力の5000年

 

 

グレーバーは、「わたしたちは、わたしたちをほんとうにケアしているのはどんな人びとなのかに気づいた。ヒトとしてのわたしたちは壊れやすい生物学的存在にすぎず、互いをケアしなければ死んでしまうということに気づいたのです」と述べています。これを受けて、ブレイディみかこ氏は「ケア階級の仕事と対峙する概念として、グレーバーは『ブルシット・ジョブ(どうでもいい仕事)』という言葉を唱えている。この言葉をタイトルにしたエッセーが発表された後、英国の世論調査で、実に37%が『自分の仕事は世の中に意義のある貢献をしていない』と回答した。意味のない会議に出るための書類を作成し、なくてもいい書類作成のための資料を集め、整理するために忙殺される。ホワイトカラーの管理・事務部門で働く人の多くが『内心必要がないと思っている作業に時間を費やし、道徳的、精神的な傷を負っている』とグレーバーは書いた。コロナ禍の最中に『命か、経済か』という奇妙な問いが生まれてしまったのも、現代の経済が大量の『ブルシット・ジョブ』を作り出すことによって回っているからだ」と述べるのでした。

 

コロナ時代を生きるヒント

コロナ時代を生きるヒント

 

 

「分断回避のために感染した若者に『ご苦労様』と言おう」では、医師の鎌田實氏が、「日本のPCR検査の件数は諸外国に比べて低く抑えられてきました」というインタビュアーの発言に対して、「法律で、新型コロナウイルスを指定感染症にしたことが医療機関や医療従事者に負担をもたらしました。指定感染症だと無症状でも軽症でも、原則入院する必要があるからです。検査を増やせば、陽性とされて入院せざるを得ない人があふれる。だから、国は検査数を少なく抑えてきたのです。制度設計の誤りだったと思います」と述べています。また、「コロナ禍は日本社会を変えるのでしょうか」という質問に対しては、「ビヨンド・コロナのより良き社会を見据え、今後のことを見越した取り組みが必要だと思います。人と人との関係であれば、フィジカルディスタンシング、ソーシャルコネクティング(物理的に距離を取り、社会的につながること)が大切になってくる。どうすれば、『離れてつながる』ことが実現できるのかを考えていかなくてはなりません」と述べるのでした。この「ビヨンド・コロナのより良き社会」という言葉はわが「心ゆたかな社会」の同義語であると思います。鎌田氏には『コロナ時代を生きるヒント』(潮出版社)という著書もあるそうなので、早速、アマゾンで注文しました。

 

 

2020年9月23日 一条真也

「事故物件 恐い間取り」

一条真也です。
日本映画「事故物件 恐い間取り」を観ました。
それほど観たくはなかったのですが、まだコロナ禍でろくな映画が上映されていないのと、監督がJホラーの巨匠として知られる中田秀夫だったので、観ました。ネットでも低評価の作品ですが、たしかにひどい内容でした。正直、観る価値はありませんでした。



ヤフー映画の「解説」には、「テレビ番組の企画で『事故物件住みます芸人』として人気が出た松原タニシのノンフィクションを、『PとJK』などの亀梨和也主演で映画化するホラー。テレビ出演のために事故物件に住み始めた若手芸人が複数の事故物件を転々としながら、さまざまな怪奇現象に遭遇していく。メガホンを取るのは、『リング』『スマホを落としただけなのに』シリーズなどの中田秀夫」とあります。

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ヤフー映画の「あらすじ」は、「売れない芸人の山野ヤマメ(亀梨和也)はテレビ番組の企画で、殺人事件が起きた物件で暮らし始める。そこは普通の部屋だったが、撮影した映像には白いものが映ったり、音声が乱れたりしていた。ヤマメはネタのために事故物件を転々とし、芸人としてブレークしていくが、そんななか彼は最恐の事故物件と出合う」となっています。

 

この映画、わたしはこれまでに観たホラー映画の中では最低レベルなのですが、「よく松竹がこんな映画を作ったものだ」と思っていたら、原作者である松原タニシ松竹芸能所属ということに気づきました。なるほどね。1982年生まれの彼は、事故物件に住み続けているお笑い芸人として各種番組・イベントに呼ばれ「事故物件住みます芸人」を名乗っています。恐い話に気を取られて忘れがちですが、よく見ると彼はとんでもない柄のシャツを着ています。「おいおい、そんな服、どこで売ってんねん?」(なぜか関西弁になってしまった!)と突っ込みたくようなファンキーなデザインのシャツです。



Wikipedia「松原タニシ」の「事故物件住みます芸人​」には、以下のように書かれています。
「事故物件に住むようになったきっかけは、松竹芸能の先輩 北野誠の番組『北野誠のおまえら行くな。』(エンタメ〜テレ)のトークイベントに出演した際、知り合いの若手芸人が住んでいたアパートでの怖い話を披露すると、その後のイベント打ち上げで北野からその部屋に住んでみろと言われたことである。しかしこの物件は実際に住もうとしたところ諸事情で借りられなかったため、殺人事件があった別の事故物件に2012年から住むことになった。本来のオーケイ岡山が断り、かみじょうたけしも断ったため、タニシに回ってきた」



続けて、Wikipedia「松原タニシ」の「事故物件住みます芸人」には、「1軒目となる物件では、番組スタッフがビデオカメラを設置して幽霊が映ったらギャラが出るという企画『松原タニシのパラノーマル日記』が始まり、初日からオーブが飛ぶ、1週間後にはマンションから出た所でひき逃げに遭うなど数々の不可思議な現象に遭遇する。その後、番組の企画は終了したが、賃貸契約の更新時期がくると別の事故物件に引っ越しすることを繰り返し、2020年4月時点では10軒目に住んでいる」と書かれています。

 

事故物件怪談 恐い間取り

事故物件怪談 恐い間取り

 

 

2018年6月、松原タニシは、これまでに住んでいた所や物件検討時の内覧、特殊清掃のアルバイトなどで訪れた事故物件を間取り図付きで紹介する『事故物件怪談 恐い間取り』(二見書房)を上梓します。この本が映画「事故物件 恐い間取り」の原作です。その他にも、事故物件に長年住んでいた事でどんな恐い場所にでも行けるのでは?との思いから、個人で全国各地の心霊スポットや廃墟・事件現場などを深夜に1人訪れ、その証拠を残すために動画配信「松原タニシ 異界に泊まろう」を収益化機能を使用せず行い、2019年7月にはこの企画で2016年から2018年にかけて訪れた約200か所を紹介する『異界探訪記 恐い旅』(二見書房)を上梓しています。ちなみに二見書房といえば、『恐怖の心霊写真集』シリーズをはじめとした心霊研究の大家・中岡俊哉の一連の著書を刊行した出版社ですね。

 

異界探訪記 恐い旅

異界探訪記 恐い旅

 

 

松原タニシは、かつての稲川淳二のような存在感で怪談界(そんな界、あるんかい!)で活躍しているようですが、もともとがお笑い芸人なので、観客を怖がらせると同時に笑いも取ろうとしているのが明らかです。ここが怪談の語り部としては中途半端な気がするのですが、この映画も随所にしょーもない笑いを散りばめて、ホラーなのかコメディなのか、ゴチャゴチャになってわからなくなっています。それゆえ、本来は恐いはずのシーンも滑稽に見えてしまいます。ホラー映画としては致命的であると言えるでしょう。

 

松竹といえば、同社が2011年に配給した「恐怖ノ黒電話」というイギリス映画をこの連休中にDVDで鑑賞しました。これが、ものすごく恐い事故物件が登場するホラー映画なのです。離婚し、環境を変えようとマリーが引っ越してきたアパートには、すでに回線の繋がった古い黒電話が据え付けてありました。黒電話からの謎の人物の連絡が続き、怪事件が続発し、マリーの精神状態は次第に追い詰められていきます。単なる幽霊屋敷ものではなく、電話というツールを使ってその部屋の異常性を示していく手法が斬新で、本作「事故物件 恐い間取り」の10倍は恐かった!



さて、「事故物件」とは、その名の通り、何らかの事故が起こった不動産物件です。一般的に忌み嫌われる傾向にあり、実際に物件価格が安くなる傾向にあります。一方で、それらの事実を気にしない人にとってはお値打ちな物件と見られています。
一般に、事故物件は以下のような物件を指します。
1.自殺や殺人事件、死亡事故、
  孤独死などがあった物件

2.過去に火災や水害による被害
3.指定暴力団組織が近隣に存在する
4.宗教的施設の跡地に建てられた
5.過去に井戸が存在し、埋め戻して建てられた
6.火葬場やゴミ処理施設などの嫌悪施設が近在する
7.登記簿謄本に記載された
  権利関係がややこしい物件



1の「自殺や殺人事件、死亡事故、孤独死などがあった物件」ですが、自殺や孤独死は日本中で日々起こっていますので、事故物件も猛烈な勢いで増殖していることになります。これは「死」をケガレと見る考え方から来ていると言えるでしょう。これらの場所は、幽霊話を生みます。ブログ「呪怨―終わりの始まり―」ブログ「呪怨―ザ・ファイナル―」で紹介した一連の「呪怨」シリーズは殺人事件、ブログ「クロユリ団地」で紹介した作品は孤独死が起った場所を舞台としたホラー映画でした。



2の「過去に火災や水害による被害」があった場所というのは違和感があります。というのも、そんなことを言ったら、東日本大震災の被災地はみんな事故物件になってしまうではないですか。6の「火葬場やゴミ処理施設などの嫌悪施設が近在する」というのもエッセンシャルワークに対する偏見が込められていて、まったく納得できませんし、他にも「おかしいな」と思えるものがあります。まあ、わたしが本当に嫌うのは3、7ぐらいです。

 

しかしながら、場所というものに「良い場所」「悪い場所」があるというのは知っています。一般に「イヤシロチ」「ケガレチ」などと呼ばれます。 ブログ「残穢ー住んではいけない部屋ー」で紹介したホラー映画には、最恐のケガレチが登場します。読者の女子大生から「今住んでいる部屋で、奇妙な音がする」という手紙を受け取ったミステリー小説家が、2人で異変を調査するうちに驚くべき真実が浮かび上がってくるさまを描いた作品です。ちなみに、この映画にも「事故物件」という言葉が何度も出てきました。 



イヤシロチの代表は、なんといっても神社です。いま、若い人たちの間で、神社が「パワースポット」として熱い注目を浴びています。いわゆる生命エネルギーを与えてくれる「聖地」とされる場所ですね。「バク転神道ソングライター」こと宗教哲学者の鎌田東二先生によれば、空間とはデカルトがいうような「延長」的均質空間ではありません。世界中の各地に、神界や霊界やさまざまな異界とアクセスし、ワープする空間があるというのです。ということは、世界は聖地というブラックホール、あるいはホワイトホールによって多層的に通じ、穴を開けられた多孔体なのです。



「天国では、儀式も祈りも存在しない」という言葉があります。天国では、そこに神がおわします。天国から遠く離れた地上だからこそ、儀式や祈りが必要であるというのです。人間は、儀式や祈りによって、初めて遠隔地である天国にいる神とコミュニケーションができるというのです。もしかすると、天国というのは大いなる情報源であって、そこにアクセスするために儀式や祈りがあるのかもしれません。いわば、Wi−Fiのような存在です。儀式や祈りとは、神に「接続」するための技術なのではないでしょうか。



そして、この地上には空港やホテルやスターバックスなどのようにWi−Fiが即座につながりやすい場所があります。神社や寺院や教会などが建っている聖地とは、そのような場所ではないでしょうか。イヤシロチも同様です。そこは、すべての情報の「おおもと」である神仏にアクセスしやすい場所なのです。
逆に、まったくWi−Fiがつながらない場所というのもあります。それがケガレチではないでしょうか。神仏どころか、魔とアクセスしやすい場所がケガレチであると思います。



「事故物件 恐い間取り」には、4軒の事故物件が登場し、いずれも心霊現象が起きます。最後の千葉の物件では、野村萬斎主演の映画「陰陽師」に登場するような悪霊のボスキャラみたいな奴が出てきて、「どうして、こんな安アパートにこんな凄い大悪霊が棲みついているのか?!」と思わずにはいられませんでしたが、主人公たちはお守りとか塩とか線香とかオーソドックスなスピリチュアル・グッズを駆使して悪霊を祓おうとするのでした。まったく笑わせてくれます。



そういえば、この映画の主人公たちは霊をカメラに収めようとしたり、出てくれば怖がり、お祓いや除霊のことばかりを考え、まったく「供養」という発想がありませんでした。そもそも事故物件に住んで、心霊現象を撮影して、テレビで放送するという発想そのものが死者に対する礼を欠いた行為です。そんな非礼なことを続けていたら、いつか本当に罰が当たって、良くない目に遭うに違いないと思うのは、わたしだけではありますまい。心霊ホラー映画なら、わたしはアメリカ映画「シックス・センス」(1999年)のような生者が死者に語りかけ、状況をわからせて安心させてあげ、そして本来彼らがいるべき世界へ導いてあげるハートフルな映画が好きです。

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この日も黒マスクでシネコンへ!

 

2020年9月22日 一条真也

『コロナ後の世界を生きる』

コロナ後の世界を生きる――私たちの提言 (岩波新書 (新赤版 1840))

 

一条真也です。
『コロナ後の世界を生きる』村上陽一郎岩波新書)を読みました。「私たちの提言」というサブタイトルがついており、各界の第一人者24名がコロナ後の世界を生き抜くための指針を提言しています。 

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本書の帯

 

帯には「この災厄は人類に何をもたらすのか」と大書され、24名の発言者の名前が並んでいます。また、帯の裏には編者の言葉として、「今私たちは、未経験な状態のなかで、暗中模索している。しかし、ことは、今、この災禍をどう乗り越えるか、というところに留まらない。この災禍をどのように乗り越えたとしても、その次にやってくる社会は、今までとは違ったものにならざるを得ないだろう」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

カバー前そでには、「新型コロナのパンデミックをうけて、私たちはどのような時代に突入するのか。私たちを待ち受けているのは、いかなる世界なのか。コロナ禍によって照らしだされた社会の現実、その深層にある課題など、いま何を考えるべきなのか。コロナ後の世界を生き抜くための指針を、各界の第一人者二四名が提言する緊急出版企画」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
「編者の言葉」
Ⅰ 危機の時代を見据える
藤原辰史 ◆ パンデミックを生きる指針
      ーー歴史研究のアプローチ
北原和夫 ◆ 教育と学術の在り方の再考を
高山義浩 ◆ 新型コロナウイルスとの共存
      ーー感染症に強い社会へ
黒木登志夫 ◆ 日本版CDCに必要なこと
村上陽一郎 ◆COVID-19から学べること
Ⅱ パンデミックに向き合う
飯島 渉 ◆ ロックダウンの下での「小さな歴史」
ヤマザキマリ ◆ 我々を試問するパンデミック
多和田葉子 ◆ ドイツの事情
ロバート キャンベル ◆ 「ウィズ」から捉える世界
根本美作子 ◆ 近さと遠さと新型コロナウイルス
Ⅲ コロナ禍と日本社会
御厨 貴 ◆ コロナが日本政治に投げかけたもの
阿部 彩 ◆ 緊急事態と平時で
     異なる対応するのはやめよ
秋山正子 ◆ 訪問看護と相談の現場から
山口 香 ◆ スポーツ、五輪は、どう変わるのか
隈 研吾 ◆ コロナの後の都市と建築
Ⅳ コロナ禍のその先へ
最上敏樹 ◆ 世界隔離を終えるとき
出口治明 ◆ 人類史から考える
末木文美士 ◆ 終末論と希望
石井美保 ◆ センザンコウの警告
酒井隆史 ◆ 「危機のなかにこそ亀裂をみいだし、
        集団的な生の様式について
                     深く考えてみなければならない」
杉田 敦 ◆ コロナと権力
藻谷浩介 ◆ 新型コロナウイルス
       変わらないもの・変わるもの
内橋克人 ◆ コロナ後の新たな社会像を求めて
マーガレット・アトウッド ◆ 堀を飛び越える

 

「編者の言葉」で、東京大学名誉教授(科学思想史・科学哲学専攻)の村上陽一郎氏は、「今私たちは、未経験な状態のなかで、暗中模索している。しかし、ことは、今、この災禍をどう乗り越えるか、というところに留まらない。この災禍をどのように乗り越えたとしても、その次にやってくる社会は、今までとは違ったものにならざるを得ないだろう。その社会を、少なくともこれまでのそれよりも、少しでも望ましいものにしていくためには、今私たちが実行している乗り越え方が、大きな意味を担っているはずである。その自覚の下で、私たちが、ベストな解決策でなくとも、ベターな解決策を実行するために、何が必要か」と述べています。

 

Ⅰ「危機の時代を見据える」の「パンデミックを生きる指針――歴史研究のアプローチ」では、京都大学人文科学研究所准教授(農業史)の藤原辰史氏が「起こりうる事態を冷静に考える」として、「人間という頭でっかちな動物は、目の前の輪郭のはっきりした危機よりも、遠くの輪郭のぼやけた希望にすがりたくなる癖がある。だから、自分はきっとウイルスに感染しない、自分はそれによって死なない、職場や学校は閉鎖しない、あの国の致死率はこの国ではありえない、と多くの人たちが楽観しがちである。私もまた、その傾向を持つ人間のひとりである」と述べています。

 

また、第一次世界大戦は1914年の夏に始まり1918年の秋まで続きましたが、開戦時にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はクリスマスまでには終わると国民に約束しました。第二次世界大戦では、日本の勝利に終わると大本営は国民に繰り返し語っていました。このような為政者の楽観と空威張りを、マスコミが垂れ流し、政府に反対してきた人たちでさえ、かなりの割合で信じていたことは、歴史の冷酷な事実であるとして、藤原氏は「ペストの猛威、30年戦争、リスボンの大震災、ナポレオン戦争アイルランドのジャガイモ飢饉、コレラやペストや結核の蔓延、第一次世界大戦スペイン風邪ウクライナ飢饉、第二次世界大戦チェルノブイリ原発事故、東京電力原発事故、毎年のように人びとを襲う台風、水害、地震。世界史は生命の危機であふれている。いずれにしても甚大な危機が到来したとき、現実の進行はいつも希望を冷酷に打ち砕いてきた。とりわけ大本営発表にならされてきた日本では、為政者たちが配信する安易な希望論や道徳論や精神論(撤退ではなく転進と表現するようなごまかしなど)が、人を酔わせて判断能力を鈍らせる安酒にすぎないことは、歴史的には常識である。その程度の希望なら抱かない方が安全とさえ言える」と述べています。

 

スペイン風邪の教訓」として、藤原氏はスパニッシュ・インフルエンザの過去は、現在を生きる私たちに対して教訓を提示していると述べます。クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ――忘れられたパンデミック』を参考にして、その教訓を藤原氏は以下のようにまとめます。第1に、感染症の流行は1回では終わらない可能性があること。第2に、体調が悪いと感じたとき、無理をしたり、無理をさせたりすることが、スパニッシュ・インフルエンザの蔓延をより広げ、より病状を悪化させたこと。第3に、医療従事者に対するケアがおろそかになってはならないこと。第4に、政府が戦争遂行のために世界への情報提供を制限し、マスコミもそれにしたがっていたこと。

 

第5に、スパニッシュ・インフルエンザは、第一次世界大戦の死者数よりも多くの死者を出したにもかかわらず、後年の歴史叙述からも、人びとの記憶からも消えてしまったこと。それゆえに、歴史的な検証が十分になされなかったこと。新型コロナウイルスが収束した後の世界でも同じことにならぬよう、きちんとデータを残し、歴史的に検証できるようにしなければならないこと。第6に、政府も民衆も、しばしば感情によって理性が曇らされること。第7に、アメリカでは清掃業者がインフルエンザにかかり、ゴミ収集車が動けなくなり、町中にゴミがたまったこと。もちろん、それは都市の衛生状況を悪化させること。医療崩壊ももちろん避けたいが、清掃崩壊も危険であること。第8に、為政者や官僚にも感染者が増え、行政手続きが滞る可能性があること。藤原氏は、「たとえば、当時のアメリカの大統領ウッドロウ・ウィルソンも感染者の1人である。彼が英仏伊と4ヵ国対談の最中に39.4度の発熱で倒れ、病院に入院している間、会議の流れが大きく変わり、ドイツへの懲罰的なヴェルサイユ条約の方向性が決まってしまった」と述べています。

 

「教育と学術の在り方の再考を」では、東京工業大学名誉教授(理論物理学)の北原和夫氏が、「借り物で動いている経済」として、コロナ禍で見えてきた状況に、日本の経済が賃料と借金という借り物の連鎖で動いていることを指摘し、以下のように述べています。
「感染拡大を防ぐために、多くの飲食店などが休業もしくは短時間営業で苦境に立たされている。なぜ苦境かというと、もちろん客が来なくなって収入ゼロということもあるが、店の賃料が重くのしかかっているというのである。賃料は、営業利益が有る無しにかかわらず負担となってくる。聞くところによると、家主さん自身もまた資産の維持や建設で借金を抱えているという。つまり、事業で得た儲けが利潤なのではなく、事業で得た儲けから賃料や借金を引いたものが利潤となる仕組みなので、儲けがなくなればマイナスの出費となるということなのである」

 

続けて、北原氏は「古典的な考え方からすると、事業を行って儲けが出たらそれを使って事業を拡大するのであれば、儲けがゼロでもそれ以上に負債が増えることはない。ところが現代では、負債の連鎖の中で事業が行われているということなのだ。いわば綱渡りで物事が動いている。そうなると、失われた事業の儲けを補填するというだけでなく、賃料や借金という負債に対しても公的機関が支援しないと経済が破綻するという仕組みになってきているのである」と述べます。

 

また、「コロナ対策は証拠に基づく政策(evidence-based policy)であったのか」として、北原氏は「2000年頃だったと思われるが、狂牛病が世界的に蔓延したとき、多くの国ではサンプリングの調査を行って、そこで感染した牛が見つからなければ安全としていたとき、日本政府は全頭検査を実施したのであった。それは牛肉の安全性を完璧にするという考え方であったと思われる。ところが、今回のコロナ禍においては、まずPCR検査に対してハードルを設けた。かつて牛には全頭検査をしながら、人には全員検査をしないという政策に、私は違和感を覚えた」と述べています。わたしも同感です。そこには、東京五輪開催というバイアスがかかっていたように思えてなりません。

 

新型コロナウイルスとの共存――感染症に強い社会へ」では、沖縄県立中部病院感染症内科の地域ケア科副部長の高山義浩氏が、「利他主義に基づく連帯を築く」として、「2020年は大きな変化の年になるだろう。大切なことは、この流れを止めないことだ。新型コロナウイルスの被害状況は、人種や貧富における格差の問題を浮き彫りにした。健康格差、デジタル格差、アクセス格差・・・・・・アメリカから世界へと抗議デモが連鎖している。世界でも、日本でも、パンデミックは『目覚まし時計』の役割を果たしている。感染症から社会を守るため、私たちは、利他主義に基づく連帯を築いておく必要がある。そうした準備を果たすことなく、ワクチンの優先順位を決定したり、治療薬の奪い合いを始めてしまうと、分断と憎悪の引き金をひくことにもなりかねない。その意味で、残された時間は限られている」と述べています。

 

「COVID-19から学べること」では、村上陽一郎氏が「14世紀半ば近く、全世界に蔓延したペストは、歴史上『黒死病』の名で記録されるが、このとき、病原体のような概念は一切存在しなかった。病因説としては、大気の汚染(瘴気説と呼ばれる)や、星の位置からの影響しかあり得なかった。因みに『影響』という言葉を使ったが、まさしくそれが原因でもあった。というのは、星々から地上に『流入する』(in-fluentia)何ものかが、人間に『影響』(influence)を及ぼすからである。もう1つ付け加えればヨーロッパ語の『インフルエンザ』もまた、この言葉に直接負っている。さて、それはそれとして、しかし、何かが人から人に伝わるという事実は誰の目にも明らかであった。病因説としては、『伝染』という概念はないにもかかわらず、すでにこのとき、ペストが猖獗を極めている地域から入港する船は、『40日間』港外に留め置かれる、という処置が生まれている。40日を表す語が、今ヨーロッパ語では〈quarantine〉として、検疫や隔離の意味で使われている」と述べています。

 

死ねない時代の哲学 (文春新書)

死ねない時代の哲学 (文春新書)

 

 

ブログ『死ねない時代の哲学』で紹介した著書のある村上氏は、COVID-19による未来社会の展望を拓こうと試みます。そして、1つのポイントは、今の社会は死を遠くに置きすぎていないかという点であるとし、「例えば、ある1人の喜劇タレント(と呼んでおくが)がCOVID-19の犠牲になったことが、まるで天変地異、大災害が起きたように、連日大きな時間を割いて報道される。彼の死を悼むことにおいて人後に落ちないとは言え、我々は、類例を見ない超高齢化社会にいる。そして超高齢化社会とは、その成員の相当数が、常に死と隣り合わせに生きている社会である。私たちは、そのことを今度の災厄で学んでもよいのではないか」と述べています。

 

17世紀のイギリス全土で、ペストが流行した際、ケンブリッジの学生だったニュートンは、大学が休校になったために、故郷のウールスソープに戻って蟄居していた間に、彼の、現在でいう物理学的な仕事の基礎をほとんど、完成したという故事があるとか。ニュートンの「強制された休暇」とか、「創造的休暇」などと呼ばれていますが、村上氏は「社会が未曽有の危機に立たされたとき、その中から、次の時代をリードするような新しい芽が生まれてくる事例、と評するには、個人的に過ぎるかもしれないが、1つの教訓にできるかもしれない」と述べます。

 

さらに村上氏は、「今日の社会に必要な理念の1つ、それも重要なそれは『寛容』ではないか。例えば為政者の場合、こうした非常時の事後評価に常に付きまとうディレンマがある。それは『あのときなすべきでなかったことをした』と『あのときなすべきであったことをしなかった』という肢の間に起こるディレンマである。それに対して、私たちは、厳しい批判をぶつけがちである。正当な吟味による批判がなければ、社会は前に進めないが、しかし、そこには『寛容』が求められるのでもある。為政者は上のディレンマに基づくいわれのない非難をも受け入れる寛容さが必要である。評価する側にも、人間は常に『ベスト』の選択肢を選ぶことのできる存在ではないことへの理解が必要とされるだろう」と述べています。

 

そして村上氏は「その意味で、私は、『寛容』の定義の1つとして、人間が判断し行動するとき、『ベター』と思われる選択肢を探すべきであって、『ベスト』のそれを求めるべきではない、というルールを認めることである、と書いておきたい。今回のヴィルス禍によって、社会のなかに少しでも、こうした『寛容』を受け容れる余地が広がるとすれば、不幸中の幸いではなかろうか」と述べるのでした。わたしは、このくだりをブログ「安倍首相の辞任表明に思う」の中で引用しました。じつは、本書はやたらと安倍政権批判の発言が多いのですが、中には新型コロナウイルスよりも完全に安倍政権批判がメインテーマになっている人もいて辟易としました。本書の編者である村上氏はそのような発言者を諫める意図があって、この達意の文章を書いたような気がします。

 

感染症の中国史 - 公衆衛生と東アジア (中公新書)

感染症の中国史 - 公衆衛生と東アジア (中公新書)

  • 作者:飯島 渉
  • 発売日: 2009/12/21
  • メディア: 新書
 

 

Ⅱ「パンデミックに向き合う」の「ロックダウン下の『小さな歴史』」では、青山学院大学文学部教授(医療社会史)の飯島渉氏が、「中国における大規模なロックダウン」として、以下のように述べています。
「今回の状況がやっかいなのは、新型コロナ・ウイルス(SARS-CoV-2)を原因とする感染症(COVID-19)が未知の感染症(新興感染症)だったからである。つまり、症状もわからないことが多いし、治療薬もなければ、ワクチンもない。そのため、各国が共通してとったのは、私たちが行動を変容させ、ウイルスとの接触の機会を減らし感染の拡大を防ぐという公衆衛生的な対策であった。たいへんに古典的、しかし、それしか対策がなかった」

 

この対策は、人間の本源的欲求である、集まって一緒にご飯を食べ、会話を楽しみ、そして、さまざまなモノを生産し、売りさばき、こうした活動を時には国境も越えて行うことを制限するものであるとして、飯島氏は「個人的には、外国も含め旅行ができないのがつらい。インフルエンザが流行すると、学校を休校にするなどの措置はこれまでにも行われてきた。しかしそれを、都市を単位として、また国家を単位として大規模に実施するということはこれまでなかった」と述べています。

 

さらに飯島氏は、「『感染症の揺り籠(Disease Pool)』としての中国」として、「新興感染症の流行は、歴史上、たびたび起きている。20世紀を象徴する感染症であるインフルエンザ(スペイン風邪)やHIV/AIDSもそうである。これを人類史から見れば、1万年前からはじまった農業によって森林を切り拓き、野生動物を家畜化したこと、そして、人々が集住して生活する都市化という基本的なトレンドがパンデミックの背景にある。今後も、別の新興感染症の発生は避けられない」と述べるのでした。

 

「『ウィズ』から捉える世界」では、国文学研究資料館館長で東京大学名誉教授(日本近世・近代文学専攻)のロバート・キャンベル氏が、「コロナ禍は時間の災害」として、「新型コロナウイルスの感染拡大は、他の災害と違って、すぐに体に何か異変が起きたり、傷がついたりするわけではありません。水害や火災のように住空間が破壊されたり、奪われたりすることもない。そうした具体的な恐怖を感じづらいのです。たとえば、地震は、目に見えて色々な物を揺らしたり壊したりするから、被災地にいなくても私たちの感覚に直接訴えるものがある。瓦礫と避難所の映像が流れると、そのつど心を寄せ、あるいは慄然とさせられる。しかし、ウイルス感染で覚える恐怖は、それとはまるで違います。感染した当事者やその家族、接触者などであれば別ですが、それ以外の人には、共有されにくい性質があります」と述べています。

 

また、ウイルス感染が街を覆う日々の中で、自らの命を時間の流れとして実感する瞬間が何度もあったとして、キャンベル氏は「ニュースを見ながらその流れが進んだり、また堰き止められたりするような不安なうねりを覚えたこともあります。何も空間が変わるわけでもないし、すぐに何かが自分に起こるわけでもない。それでも、コロナウイルスの蔓延は、私たちから、確実に少しずつ何かを奪い去っていきます。疫病は、瞬時に流れを堰き止め、壊し、世界を荒涼とした景色に激変させるものではない。その代わりに、ものごと、やがて自分の何かをも元へ戻れない形へと変質させてしまう。新型コロナの感染拡大は、時間の災害なのだと感じています」と述べるのでした。

 

天皇の近代―明治150年・平成30年

天皇の近代―明治150年・平成30年

  • 作者:御厨 貴
  • 発売日: 2018/09/30
  • メディア: 単行本
 

 

Ⅲ「コロナ禍と日本社会」の「コロナが日本政治に投げかけたもの」では、東京大学先端科学技術研究センターフェローで、東京大学東京都立大学名誉教授(日本政治史)の御厨貴氏が、「天皇の存在感」として、「平成の時代から令和に変わったわけです。しかも天皇生前退位という、近代150年の歴史の中で初めての出来事があった。それに若干関係した者として言いますと、非常にうまい時期にバトンタッチできたと思います。ただ、それに対する反動のような形でこれだけのコロナ災害がやってきたわけですから、もっと以前のどこかの段階で、新しい令和の天皇として、これからどうしていったらいいかということに関しての天皇メッセージを出すべきだったという気がします。『いま心を痛めておられます』と宮内庁が代弁していう話ではなく、ご本人が出てきて、国民の前にその姿をあらわして自分の言葉で国民に対して、この未曽有の事態に対してどうしていったらいいのかということを、天皇の言葉、あるいは皇后の言葉で語るべきです」と述べています。

 

 

また、御厨氏は「前の天皇は、まさにそれをしたわけです。東日本大震災のあとにビデオメッセージを流した。ところどころできちんと、自分たちの政治観、『こうあるべき』ということを語っていました。いまの天皇は、非常に真面目な方だというのはわかるし、恐らく、宮内庁の慎重論に抑えられているとは思うけれども、即位の大礼や正殿の儀、パレードなどで、あれだけ多くの国民に関心を持たれたのは、ご自身が出て来て、それを国民が確認するということがあったからです。今回もぜひメッセージを出してもらいたいと思います。やはり、天皇のメッセージというのは、内閣総理大臣のメッセージとは違うのです。イギリスのジョンソン首相が何か言うより、エリザベス女王が言う方がすごく大きいのと同じです。いままで天皇陛下を見てきた私の強い気持ちではあります」と述べます。この御厨氏の意見には全面的に賛成です。「よくぞ言ってくれた」という思いです。

 

訪問看護と相談の現場から」では、白十字訪問看護ステーション統括所長の秋山正子氏が、「新型コロナウイルスとともに生きる」として、「リモート会議で家にいるのが増えたことにより、地域の居場所を早い段階から考え始めた人も出てきました。いまは、まだ介護を受ける世代ではないですが、将来のことを考えるきっかけになったようで、このまま年齢を重ねて、家族と過ごすその先に、老いや死があることをなんとなく考えるようになったと語る壮年期の男性にも出会いました。もっと地域のことを知らなければ、これからは自分が困ると感じてボランティアデビューをするにはどうしたらよいかなど真剣に考えたというのです。これも新しい動きかもしれません」と述べます。

 

 

「スポーツ、五輪はどう変わるのか」では、筑波大学体育系教授で日本オリンピック委員会理事の山口香氏が、「持続可能な五輪への歩み」として、「1896年に第1回アテネ大会が開催されて以来、100年以上の歴史を持つ近代五輪だが、この先の100年を考えると持続可能な大会だろうか。世界平和の実現に貢献するという理念はもっともだが、理念以上に優先されるものが透けて見える。アスリートファーストという言葉も空虚さを増している。『猛暑の7~8月にしか開催できないのはなぜか』、『決勝の時間が開催国のゴールデンタイムではなく朝に設定されるのはなぜか』、『全ての決定権がIOCにあるのはなぜか』など、あげればキリがないほどの疑問がある」と述べています。

 

さらに山口氏は、「いずれの答えもアスリートファーストの観点ではないことは明白である。真の問いは、マネーファーストとも言われる五輪の本質に気がつきながらも続けていく価値があるのかということだろう。各競技は世界選手権やW杯を開催しており、五輪がなければならない価値はなんであるのかを説明できなければならない」と述べるのですが、まったく同感です。84年柔道女子世界選手権優勝、88年ソウル五輪銅メダルという実績のある山口氏の言葉だけに、強い説得力がありますね。

  

自然な建築 (岩波新書)

自然な建築 (岩波新書)

  • 作者:隈 研吾
  • 発売日: 2008/11/20
  • メディア: 新書
 

 

「コロナ後の都市と建築」では、建築家の隈研吾氏が「疫病は、都市や建築を、何度も大きく転換させ、作り変えてきた。歴史を振り返ってみても、ペストによって、中世の密集した街と狭い路地は嫌われ、ルネサンスの整然とした都市と、幾何学が支配する大ぶりな建築が生まれた。では、今、コロナの後に、われわれは、どのような都市を作り、どのような建築を作らなければいけないのだろうか」と述べています。

 

ひとの住処―1964-2020―(新潮新書)

ひとの住処―1964-2020―(新潮新書)

 

 

「ハコからの脱却」として、隈氏は、「ひとつのテーマは、ハコからの脱却である。20世紀に、人々はハコに閉じ込められた。ハコの中で仕事をする方が効率がいいとされて、超高層ビルに代表される大きなオフィスビルや大工場に、一定時間閉じ込められて、働かされた。そのハコに出勤し、帰宅するために、再び鉄のハコに閉じ込められ、密を強要された。大きなハコで働き、通勤する人が、この世紀にはエリートとされた。そして都市はハコに埋め尽くされ、ハコとハコとの隙間も、鉄のハコの移動のための空間でしかなかった。この世紀は『自由の世紀』ともいわれたが、人々暮らしを見る限り、ハコに閉じ込めらた人々は、自由からは遠い存在に見えた」と述べます。

 

ハコの文明はすなわち、空調文明でもありました。それは同時に石油文明でもありました。隈氏は、「安い化石燃料を燃やすことで、ハコが成立していたが、このシステムが長くは続かないことに、人々は気づき始めていた。しかし、ハコを出ようとは誰も思わなかった。ハコは作り続けられていたし、より大きなハコが企業や都市のレベルを示すことだとみなされ、進んでいると考えられていた。そのような時に、コロナがやってきて、政府から、不要不急の時以外はハコに行くなといわれたわけである。ハコからの脱却は、室内からの脱却ということでもある。僕はこれを、もう一回外を歩くことだと理解した。都市計画では、コンパクトシティということが、叫ばれはじめていた」と述べています。

 

かくれた次元

かくれた次元

 

 

「ホールの距離論」として、新型コロナウイルス感染防止のために「最低2メートルの距離をとりなさい」と繰り返し注意が喚起されたことについて、隈氏はエドワード・ホールの『かくれた次元』(1966)という本を取り上げます。人間と人間との距離について書かれた名著ですが、「ホール自身は文化人類学者であるが、この本のおもしろさは、動物同士の距離――敵からの逃走距離、仲間とコミュニケーションを行う際の距離――のスタディから論を始めていることである。生と死の境に立たされて、われわれは自分達が動物であることと向き合わされ、動物として、他の個体との距離に神経をとがらせている」と述べます。

 

動物個体距離から説き起こすホールの論は説得力があるとして、隈氏は「距離をパラメーターにして人間関係論が始まるのであるが、その研究の新しさと重要性を強調するために、ホールはその研究の方法をプロクセミックス(proxemics)と呼んだ。『かくれた次元』というタイトルも意味深であり、空間は通常3次と定義されるが、その空間の中に1つ、ベンチなり、彫刻を置けば、そこに別の次元を加えることができるという指摘は、一次元、二次元、三次元、という、人間が考えだした三分類の貧しさ、粗雑さを暴き出している」と述べるのでした。

 

国境なき平和に

国境なき平和に

  • 作者:最上 敏樹
  • 発売日: 2006/01/11
  • メディア: 単行本
 

 

Ⅳ「コロナ禍のその先へ」の「世界隔離を終えるとき」では、早稲田大学教授、国際基督教大学名誉教授(国際法、国際機構論)の最上敏樹氏が、《境界》というものの不自然さあるいは非機能性を取り上げ、「新型コロナウイルスがこの地球の大部分を襲った。ウイルスは国境とは無縁だが、それに対抗する人間のほうは国境で区切られた主権的国民国家ごとに対処する。つまり、『ボーダーレス』な脅威に対し『ボーダーフル』な対応をしているのだ」と述べています。

 

国外の友人たちと頻繁にテレビ会議を開くが、ことコロナに関しては、各国の友人たちがすべて同じ闘いのさなかにあることを肌で感じるという最上氏は「常日頃、共通の関心事を討議してはいたが、同じ境遇に置かれていると実感したことは一度もなかった。このつながりは、たんにインターネットによる機械的なつながりを超えた、深い精神的連帯である。これを来るべき世界のための資本にしよう」と述べるのでした。

  

「全世界史」講義 I古代・中世編: 教養に効く!人類5000年史

「全世界史」講義 I古代・中世編: 教養に効く!人類5000年史

  • 作者:出口 治明
  • 発売日: 2016/01/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

「人類史から考える」では、立命館アジア太平洋大学(APU)学長で、ライフネット生命保険株式会社創業者の出口治明氏が、「全世界が直面している課題」として、「コロナウイルスの問題は、リチャード・ドーキンスが述べているように、自然現象です。ウイルスは何十億年も前から生きてきた存在です。ホモサピエンスの20数万年とは比較になりません。ですから、パンデミックが人類の歴史のなかでアトランダムに起こることは避けられません」と述べています。

 

利己的な遺伝子 40周年記念版

利己的な遺伝子 40周年記念版

 

 

全世界が直面している課題は共通して3つあるという出口氏は、「1つは、ウイルスは人を乗り物にしているわけですから、感染を避けるために、ステイ・ホームを要請する、というのは真っ当な政策だということです。人との接触がなければウイルスは移動できなくなります。ワクチンや治療薬が見つかるまでは、ステイ・ホーム以外の方策はありません。2番目として、そのステイ・ホームが可能になるのはエッセンシャル・ワーカーといわれる人たちが働いてくれているからです。3番目の問題は、ステイ・ホームは、ほとんどの人にとっては収入減になってしまうということです。そういう中で誰が一番ダメージを受けるかといえば、パートやアルバイトなどの社会的弱者であることは明らかです。その弱者に対して所得の再分配政策をどのように短期間で設計、実施できるかということを、いま各国が競っているのです」と述べています。

 

 

「3つの課題から何が示唆されるか」として、出口氏は「この3つの課題は全人類共通の課題です。各国の政府の首脳がいろいろと市民に語りかけ、いろいろな政策をやっている。それがSNSで全世界に報道されるわけです。世界中の指導者が同時に比較され、有事の際にはリーダーの存在がいかに重要かということがみんなにもわかった。だから、市民の政治に対する意識や関心が高まるかもしれません」と述べます。『サピエンス全史』を書いたユヴァル・ノア・ハラリは、3月15日付の『TIME』誌に寄稿した文章(原題:In the Battle Against Coronavirus,Humanity Lacks Leadership)の中で、「ハイレベルのグローバルな信頼と連帯がコロナに勝つ唯一の道だ」と書きました。

 

コロナは全世界共通の敵ですから、共通の敵に対してバラバラに闘って勝てるはずがないとして、出口氏は「瞬間的にはナショナリズムが燃え盛って国内回帰の動きはあるかもしれませんが、冷静に考えれば、やはり世界が連帯してコラボレーションしているからこそ金融市場の崩壊もこの程度で食い止められているわけです。これはハラリがいうように、全人類が同じ課題に直面しているわけですから、お互いを信頼して連帯する。お互いの思いやり以外にコロナに勝てる方法はないのです。だから、短期的にはグローバリゼーションの動きがとまるとしても、中長期的に見たら、むしろこの機会にお互いがグローバルに依存していることが改めてよくわかるようになったので、僕はグローバリゼーションの動きは止まることはないと思っています」と述べます。

 

人類5000年史I: 紀元前の世界 (ちくま新書)

人類5000年史I: 紀元前の世界 (ちくま新書)

 

 

パンデミックが生み出したもの」として、出口氏は今回のパンデミックを過去のそれと比較します。詳細な記憶が残るようになってから現在まで、大きなパンデミックは3回起きています。1つは14世紀のペストです。ペストは結局何を生んだかといえば、ルネサンスを生みました。出口氏は、「『メメント・モリ(me-mento mori 死を忘れるな)』、死のことばかり思っていても、いくら敬虔になっても神様は助けてくれない。それだったら『カルペ・ディエム(Carpe diem その日の花を摘め)』ということで、人間を大事にしよう、と。それがルネサンスを生んだのです。イタリアで生まれたルネサンスは、やがてヨーロッパ中に広がりました。グローバリゼーションが加速されたわけです」と述べます。

 

人類5000年史II (ちくま新書)

人類5000年史II (ちくま新書)

 

 

その次の大きいパンデミックは、15世紀にコロン(コロンブス)が新大陸に到達し、ヨーロッパとアメリカの間で交易が盛んになった、いわゆるコロン交換をきっかけにして起きたパンデミックです。出口氏は、「新大陸にヨーロッパ人を通して感染症がもちこまれました。旧大陸の病原菌に対して全く免疫を持たない新大陸の人々の9割以上がこれで死に絶えたわけです。でも、これも最終的には、コロン交換によって、世界的に見ればものすごく大きな犠牲の上にグローバリゼーションが進展して、ジャガイモとかトウモロコシとかサツマイモとか、いろいろな食料が均霑して世界は豊かになったわけです」と述べます。

 

人類5000年史 III (ちくま新書)

人類5000年史 III (ちくま新書)

 

 

3番目のパンデミックは、1918年のスペイン風邪です。スペイン風邪は何を生んだかといえば、第一次世界大戦を終わらせました。出口氏は、「およそ5000万人がスペイン風邪で死んだといわれていますから、第一次世界大戦の戦死者よりもはるかに多い。これはスペイン風邪と呼んでいますが、そもそもはアメリカがヨーロッパに持ち込んだものです。このスペイン風邪で人がバタバタ死んでいくのを見て、戦争なんかしている場合じゃないということになって、何を生んだかといえば、国際連盟を生み、各国は仲良くやっていこうということになったわけです」と述べます。

 

全世界史 上下巻セット (新潮文庫)

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  • メディア: セット買い
 

 

ただ、出口氏は「これは歴史が示しているように、フランスのクレマンソーが、ドイツ憎しで日本のいまの現状に直したら赤ちゃんまで含めて国民1人あたり1000万円相当の巨額の賠償をドイツに課したために、結果としてヒトラーの台頭を許して第二次世界大戦に至りました」とも述べます。しかし、少なくともスペイン風邪はまず第一次世界大戦を終わらせ、次に国際協調路線を生み出したことは事実であり、出口氏は「過去3度のパンデミックは全てグローバリゼーションを加速し、国際協調を生み出しているのです。当たり前のことですが、人類は結局、パンデミックを乗り越えて次のステージを切り開いてきたのです」と述べるのでした。

 

日本宗教史 (岩波新書)

日本宗教史 (岩波新書)

 

 

「終末論と希望」では、東京大学名誉教授(日本思想史・仏教学専攻)の末木文美士氏が「死者」の問題を取り上げ、「死者の問題は、近代的世界観においてまったく無視されていたが、東日本大震災以後、急速に避けて通れない問題として浮上した。今回は、感染者の急速な悪化死亡や、死亡した際の葬儀の困難が問題となっている。死者をどのように世界観の中に位置づけるかは、すでに他で論じたので(『冥顕の哲学1 死者と菩薩の倫理学ぷねうま舎、2018)、これ以上立ち入らない。1つだけ補足しておきたいのは、過去の死者とともに、未来のいまだ生れざる者との関わりである。近代的世界観は現世だけを問題とするので、過去の死者が切り捨てられると同様に、未来のいまだ生れざる者との関係も議論できない。そうなると、結末論と言っても、私が生きている間に終末に至るのは、かなり可能性が低いから、議論する意味はないことになる。死後に人類に終末が訪れようとも、それはどうでもよいことになってしまう。だが、それで済ませられるであろうか」と述べています。

 

日本思想史 (岩波新書)

日本思想史 (岩波新書)

 

 

死者との関わりが生者にとって不可欠なのと同様に、今度は自らの死後に生まれる者たちとの関係が問われなければならないとして、末木氏は「自らは死しても、その後の世界の人たちの存続や苦難に目をつぶり、放置することは許されない。放射能であれ、ウイルスであれ、地球環境であれ、今日のツケをどんどん先回しして済ませてよいはずがない。だが、実際にはどうだろうか。未来への負債は確実に増える一方ではないのか。こうして今や、死後の責任、あるいは死者としての責任が新たに問われることになる。今、綻びを繕って一時しのぎをして済む問題ではない。自らの死後の世界でも確実に持続できる長期的な展望が不可欠となる。人類が成長期を過ぎたとしても、むしろだからこそ、ひたむきに進んできた成長期には味わえなかった豊かで満ち足りた日々が可能になるのではないのか。それをいまだ生れざる未来の者たちに遺していくことが、今の生者の責任ではないだろうか」と述べるのでした。

 

センザンコウの警告」では、文化人類学者で京都大学人文科学研究所准教授の石井美保氏が「脆弱な境界」として、「たとえば私の調査地である南インドの村で、人びとがやりとりに際してもっとも気を遣っていた相手は、トラやヘビといった野生動物の霊を含む神霊たちであった。神霊のもつ野生の力は人間にとって危険であると同時に、土地や村の再生産を可能にする豊饒性に満ちている。それは人びとを生かしもし、殺しもする。だから村人たちは儀礼の中で、憑坐に憑依した神霊に供物を捧げてその力を慰撫し、力の一部を受け取ったのちに、ふたたび野生の領域に送り返す。同様に、村ではマーリと呼ばれる天然痘の女神もまた、祭祀の対象となっていた。村人たちは女神に供犠を捧げ、その恐るべき力を慰撫し、鎮めようとする」と述べています。

 

「コロナと権力」では、法政大学教授(政治理論)の杉田敦氏が、「感染症対策と権力の技術」として、「ミシェル・フーコーは権力について考える際に、しばしば感染症の歴史に言及した。彼の整理によれば、古代以来、代表的な疫病とされたハンセン病については、感染力が弱いので、発見された感染者を隔離する対策がとられた。ところが中世に大流行したペストはより感染力が強く、感染者を見つけた時にはすでに周囲に感染が広がっているので、発見された感染者を隔離するだけでは済まず、空間を区切って感染状況を把握し、感染地域を封鎖する検疫という技術が用いられることになった」と述べています。

 

その後、天然痘などのウイルスは、さらに感染力が強いので、もはや検疫では対応ができなくなり、統計的なアプローチが採用されました。杉田氏は、「すなわち、人口全体を対象として、その感染状況を数値的に把握し、死亡率を下げるような対策などを行う。しかもその際に実施されるワクチン接種とは、感染を妨げるのではなく、逆に、感染を広げることで免疫を確立するというやり方であり、感染を止めるというそれまでの考え方を根本から覆すものであった。フーコーは、感染力の違いに応じたこの3つの感染症対策が、それぞれ異なる権力のあり方に対応すると考えた。すなわち、何かを禁止する『法』の権力、個人の行動を変える『規律』の権力、そして人口全体にはたらきかける『統治』の権力である」と述べます。

 

中国、韓国、ベトナムシンガポールなどを中心に行われて一定の成果を上げた、感染経路追跡という手法があります。携帯電話の情報や市中にはりめぐらされた監視カメラ網などを駆使して、人の動きを把握し、感染者をあぶり出して隔離するのですが、杉田氏は「これは、現代的な技術を用いているので、一見したところ新しく見えるが、フーコーの整理との関係でとらえ直せば、やり方としては古典的な検疫の一環であることがわかる」と述べます。

 

他方、スウェーデンは独自路線を採用しました。それは集団免疫獲得路線であり、人口の相当部分までの感染拡大をあえて許容することで、免疫獲得者を増やして収束させるという戦略であるとして、杉田氏は「フーコーの整理に照らせば、ワクチン接種と同様に、ウイルスの時代に即した『統治』の技法であると言える。ただ、安全に感染させることができるワクチンの場合と異なり、ウイルスそのものの感染による集団免疫路線には多くの犠牲が伴う。高齢者を中心に数万人から数十万人の死を覚悟して社会全体の利益を図るというのは、現代社会においてはなかなか受け入れにくい決断である。福祉国家スウェーデンでのこうした選択は興味深い(福祉国家「にもかかわらず」なのか、福祉国家「ゆえ」なのか)」と述べるのでした。

 

新型コロナウイルスで変わらないもの・変わるもの」では、(株)日本総合研究所調査部主席研究員の藻谷浩介氏が「コロナ禍は日本を変えるのか?」として、「変革」が、実は「伝統回帰」であったという見方を、日本史上の実例から説明します。藻谷氏は、「たとえば太閤検地版籍奉還廃藩置県華族廃止と農地改革という順番で進んだ土地制度改革。荘園制度の下で形成された、多様な地主層が絡む利権構造が、ゆっくりと解体されたのだが、これは『自作農中心の村落共同体による営農』という、古来の基本への回帰だった。日本国憲法の平和主義や天皇象徴制も、日本伝統の対外緊張回避・絶対権力者忌避への回帰である。帝国主義列強の圧迫に過剰反応して、天武天皇を最後に陣頭に立たなかった天皇に軍服を着せ、身の丈を超えた軍事重視と対外侵略に走った戦前の方が、伝統に大きく背いていた。これらの変革は、日本を変えたのではなく、元に戻す方向に作用したのだ。ということなので、今回のコロナ禍で日本が変わるとすれば、それは伝統を外れて一方向に走り過ぎた部分を、伝統回帰へと是正する動きなのではないかと、筆者は考える」と述べています。

 

「コロナ後の新たな社会像を求めて」では、経済評論家の内橋克人氏が「『生存条件』優位型社会へ」として、「『グローバル化追随』を『改革』という言葉にスリ替え、本来、国家として整備しておくべき強靭な防波堤を自らの手でせっせと内側から切り崩してきた。それが歴代政権の置き土産であり、構造改革を叫び続けた過去の政権の正体であった。そして何よりも安倍政権がその極地を行く。コロナ禍が暴き出した『不均衡国家』の現実を凝視すべき時がきているのだ」として、以下の3つの点を指摘します。第1に「労働の解体」がコロナ禍を機に噴き出したこと。第2に、「均衡ある国土の発展という理念の放棄」。第3に、「所得移転の構造化」。こうしてグローバルズ(日本型多国籍企業)に政策支援は集中し、ローカルズ(地域密着企業)との間に天文学的格差を生む結果がもたらされたといいます。

 

 3つの「構造問題」はコロナ禍を経て、なおも日を追って深化し続けているとして、内橋氏は「最後に。気を強く持ち、希望を捨てないこと。堀は飛び越えられる! たしかに私たちは今、恐ろしく、そして不快な時間を過ごしている。多くの人が亡くなり、あるいは仕事を失っている。危なっかしいながらも、何とか自分の人生を支配しているというこれまでの感覚すら失いつつある。けれども、今のあなたが病気にかかっていないのなら――幼い子どもを抱え、家族の心配で頭がいっぱいだとしても――実際のところ、かなり恵まれていると言うべきだろう」と述べるのでした。
本書は24人の発言が玉石混交の感もありますが、専門家が各分野から「新型コロナウイルスで社会がどう変わるか」を考察しており、勉強になりました。

 

 

2020年9月22日 一条真也

「敬老」から「老福」へ

一条真也です。
21日は「敬老の日」です。
ちょうど、お彼岸で娘たちが帰省していたので、一緒に実家の両親に会いに行ってきました。成長した孫娘たちを見て、両親はとても嬉しそうでした。

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ヤフー・ニュースより

 

敬老の日」に合わせて総務省が推計したデータによれば、65歳以上の高齢者の人口は、前年より30万人増えて3617万人と過去最多となりました。人口に占める高齢者の割合(高齢化率)は28.7%で、過去最高を更新しました。70歳以上の割合は22・2%。女性に限ると25.1%となり、史上初めて「4人に1人」に達しました。高齢者の女性は2044万人(女性人口の31・6%)、男性は1573万人(男性人口の25.7%)です。

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ヤフー・ニュースより 

 

また、厚生労働省は15日、全国の100歳以上の高齢者が同日時点で8万450人に上り、初めて8万人を超えたと発表しました。「敬老の日」を控え、住民基本台帳に基づく集計で、昨年より9176人多く、50年連続で過去最多を更新。女性が7万975人(88.2%)を占めました。

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ヤフー・ニュースより 

 

総務省の推計データに戻りますが、第1次ベビーブーム(1947~49年)に生まれた「団塊の世代」が全員70代となり、70歳以上は78万人の大幅増で2791万人となり、高齢化社会に拍車が掛かっています。国立社会保障・人口問題研究所の推計では、第2次ベビーブーム(71~74年)生まれが65歳以上となる2040年には、高齢者の割合が35.3%にまで上昇する見込みです。

 

団塊の世代 〈新版〉 (文春文庫)

団塊の世代 〈新版〉 (文春文庫)

  • 作者:堺屋 太一
  • 発売日: 2005/04/08
  • メディア: 文庫
 

 

団塊の世代」というのは、作家で経済評論家の堺屋太一命名しました。約700万人(広くは1000万人超)と人口も多く、消費文化や、都市化などを経験した戦後を象徴する世代です。この世代の人口は、文字通り大きな塊を形成しています。団塊の世代は、ベビーブーマーともいわれ世界的な現象です。というのも、先の第二次大戦も、太平洋戦争も世界的な規模だったからです。ただ日本においては特殊な側面があります。それは戦前と戦後では社会規範が大きく変化したからです。



こうした「団塊の世代」をわたしは「唯物論の世代」だと思っています。彼らがどのような葬儀やお墓を希望するのか、わたしはずっと注目してきました。なぜなら、団塊の世代の大きな特徴が「宗教嫌い」だからです。言うまでもなく、葬儀とは宗教儀礼にほかなりません。日本国民は海外から無神論者のようにいわれますが、神を信じていないわけではないとわたしは思います。ただ一神教世界宗教に比べ、多神教の日本人がいい加減に映るだけだからです。でも、団塊の世代の多くは、明らかに宗教を嫌っている気がします。これは戦前・戦中の国家神道に対するアレルギーだと思います。親たちが信じすぎた国家神道によって、日本は世界戦争を起こし、敗北してしまった、悪いのは宗教である、という図式です。実際、核家族化が進む中で、団塊の世代は日本的な伝統の継承が薄らぐという環境の中にもいました。

f:id:shins2m:20200919120641j:plain週刊現代」2020年9月26日号 

 

 団塊世代は、古い共同体が生んだ最後の世代です。戦争に負けて帰ってきた男たちによって、彼らは生を受けました。ゆえに彼らの精神には、否が応にも古い日本が刻印されているわけですが、それを否定することで、自分たちの存在理由を高めてきたといえます。だからこそ、彼らは、古い日本を否定し、大都市に集まり、新天地である郊外にマイホームを求めました。郊外には、面倒な人間関係も古くさいしきたりも必要なかったわけです。


団塊世代にとっては、ただ自分たちだけの家族がいて、自分たちだけの幸せがあれば良かったのです。そこに宗教が入り込む隙間はありませんでした。墓参り、村祭り、年忌法要などは、すべて仕事を理由にして参加しない。ある意味で、団塊世代は宗教的な一連の行為を無意味だと思ったわけです。その結果、血縁も地縁も希薄化し、「無縁社会」が到来しました。



国家神道へのアレルギーは、団塊の世代が有する「反抗心」の表れでしょう。団塊世代は戦争を知らない世代ではありますが、その親は青春時代に終戦を迎えています。戦後、占領政策によって価値観の強制的な転換政策があったにせよ、戦地から引き揚げてきた父親や空襲などを体験している母親は「教育勅語」によって教育されてきた世代なのです。「教育勅語」が戦前の学校教育の柱であったことを考えれば、団塊の世代の両親は、一応に「人の道」に外れることを厳に戒める教育をしていたのではと想像できないでしょうか。

 

永遠葬

永遠葬

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2015/07/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

団塊の世代は小中学校で「個人主義」、「平和主義」に基づいた教育を教員から受けていますが、家庭では、「愛国心」や「公」の精神を持った祖父母や両親から躾けられた世代でもあったはずです。戦前と戦後の価値観が大きく転換していくことに悩むことはなかったにしても、総じて貧しかった時代でもあり、子供心に、日本に勝ったアメリカの物質的な豊かさ、民主的な夫婦や家庭などに憧れない方が不自然というものです。身を粉にして働く両親に育てられながらも、新しい時代の理想的な生活とのギャップが時に反抗心となって現れることもあったことでしょう。このような「団塊の世代」について、わたしは『永遠葬』(現代書林)の中で詳しく書きました。


それにしても、超高齢社会となった日本ですが、新型コロナウイルスの感染対策においては、スウェーデンのような集団免疫策を取らず、高齢者の生命を守ったことの背景には敬老思想があるように思います。よく知られているように、新型コロナは若者は無症状あるいは軽症の者が多く、高齢者ほど重症になると言われています。本来、「若者が死にやすい」よりも「高齢者が死にやすい」というのは自然の摂理であり、ある程度の高齢者の死亡増加を見据えた上での集団免疫策というのは、政策としては「あり」でしょう。


しかし、日本社会は集団免疫を選択せず、高齢者を守ったのです。その理由について、政治家たちの票欲しさの「シルバー・デモクラシー」などと揶揄する人々もいます。しかし、わたしはやはり儒教に基づく「敬老」の思想が日本には根づいていたからだと思います。そして、超高齢社会の道を邁進する日本では、高齢者が肩身の狭い思いをして生きる「嫌老」ではなく、老いを肯定する「好老」、さらには老いを幸いとする「老福」の思想が求められます。

 

 

ブログ「老福」でも紹介しましたが、「老福」という言葉は、『老福論』(成甲書房)で初めて提唱しました。わたしたちは何よりもまず、「人は老いるほど豊かになる」ということを知らなければなりません。現代の日本は、工業社会の名残りで「老い」を嫌う「嫌老社会」です。でも、かつての古代エジプトや古代中国や江戸などは「老い」を好む「好老社会」でした。前代未聞の超高齢化社会を迎えるわたしたちに今、もっとも必要なのは「老い」に価値を置く好老社会の思想であることは言うまでもありません。そして、それは具体的な政策として実現されなければなりません。

 

人生の修め方

人生の修め方

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2017/03/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

世界に先駆けて超高齢化社会に突入する現代の日本こそ、世界のどこよりも好老社会であることが求められます。日本が嫌老社会で老人を嫌っていたら、何千万人もいる高齢者がそのまま不幸な人々になってしまい、日本はそのまま世界一不幸な国になります。逆に好老社会になれば、世界一幸福な国になれるのです。まさに「天国か地獄か」であり、私たちは天国の道、すなわち人間が老いるほど幸福になるという思想を待たなければならないのです。そして、その思想を「人生を修める」ことのベースにすることが大切です。わが社では、「ともいき倶楽部」の活動を通じて、老いるほど豊かになる「老福」の提供、人生を修めるための「修活」のサポートに努めています。

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「ともいき倶楽部」の発会式のようす

 

日本の神道は、「老い」というものを神に近づく状態としてとらえています。神への最短距離にいる人間のことを「翁」と呼びます。また七歳以下の子どもは「童」と呼ばれ、神の子とされます。つまり、人生の両端にたる高齢者と子どもが神に近く、それゆえに神に近づく「老い」は価値を持っているのです。だから、高齢者はいつでも尊敬される存在なのです。

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「笑い」で心ゆたかな老後を

 

アイヌの人々は、高齢者の言うことがだんだんとわかりにくくなっても、老人ぼけとか痴呆症などとは決して言いません。高齢者が神の世界に近づいていくので、「神言葉」を話すようになり、そのために一般の人間にはわからなくなるのだと考えるそうです。
これほど、「老い」をめでたい祝いととらえるポジティブな考え方があるでしょうか。人は老いるほど、神に近づいていく、つまり幸福になれるのです!

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2020年9月21日 一条真也拝 

『コロナ後の世界』

コロナ後の世界 (文春新書)

 

一条真也です。
21日は「敬老の日」ですね。ちょうど、お彼岸で娘たちが帰省しているので、一緒に実家の両親に会いに行ってこようと思います。
新型コロナウイルス感染拡大後の世界は「ウィズ・コロナ」「アフター・コロナ」「ポスト・コロナ」「ビヨンド・コロナ」など、さまざまな言い方をされていますが、今年の7月以降に関連書がたくさん出版されました。わたしは、そのほとんどを読みました。
まずは、『コロナ後の世界』ジャレド・ダイアモンドポール・クルーグマン、リンダ・グラットン、マックス・テグマーク、スティーブン・ピンカー、スコット・ギャロウェイ著、大野和基編(文春新書)をご紹介します。新型コロナウイルスが国境を越えて感染を拡大させる中、現代最高峰の知性6人に緊急インタビューを行い、世界と日本の行く末について問うた本です。このパンデミックは人類の歴史にどんな影響を及ぼすのか? これから我々はどんな未来に立ち向かうのか? 世界史的・文明論的な観点から、冷静かつ大胆に2020年代を予測しています。 

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本書の帯

 

本書の帯には、ジャレド・ダイアモンド、リンダ・グラットン、ポール・クルーグマンの写真とともに「このパンデミックで人類の未来はどう変わるのか?」と書かれています。また、帯の裏には、「自由vs.独裁、AI、経済対策、人生100年時代、GAFAの脅威――」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
新型コロナウイルスが国境を超えて蔓延する中、現代最高峰の知性六人に緊急インタビュー。世界と日本の行く末について問うた。このパンデミックは人類の歴史にどんな影響を及ぼすのか。これから我々はどんな未来に立ち向かうのか。世界史的、文明史的観点から大胆に予測する」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第1章 独裁国家パンデミックに強いのか
    ジャレド・ダイアモンド
第2章 AIで人類はレジリエントになれる
    マックス・テグマーク
第3章 ロックダウンで生まれた新しい働き方
    リンダ・グラットン
第4章 認知バイアス感染症対策を遅らせた
    スティーブン・ピンカー
第5章 新型コロナで強力になったGAFA
    スコット・ギャロウェイ
第6章 景気回復はスウッシュ型になる
    ポール・クルーグマン
「あとがき」

 

「はじめに」では、文春新書編集部が「人類の歴史は感染症との闘いと言われるように、黒死病やペストなど、私たちはいくつかのパンデミックを乗り越えて生き延びてきました。前の世紀においても、1918年にアメリカから大流行した“スペイン風邪”がありました。当時の総人口の4分の1ほどに当たる5億人が感染し、4000万人が死亡したとされます。しかしながら100年以上前のことであり、やはり私たちは自分たちの問題ではなく、歴史上の出来事として捉えていたのかもしれません」と述べています。

 

危機と人類(上)

危機と人類(上)

 

 

第1章「独裁国家パンデミックに強いのか」では、カリフォルニア大学ロサンゼルス校地理学教授のジャレド・ダイアモンドが、新型コロナが今までの危機と違うのは、世界中の至るところに拡がったことであるとして、「14世紀の黒死病や、19世紀のペストでも、エピデミック(特定地域での流行)であり、現代のように急速に拡がるパンデミックではありませんでした。その違いは飛行機があるかないかです。飛行機によって世界中にウイルスが一気に拡散したのです。グローバリゼーションが進む中、世界的な危機として気候変動もあげられますが、気候変動は1週間で人の命を奪いません。ところが、このウイルスは1週間もしないうちに命を奪うことがあるのです」と述べます。

 

危機と人類(下)

危機と人類(下)

 

 

また、感染症がこれほどの世界的な脅威になるのは、初めてのことかもしれないとして、ダイアモンドは「これまで国際社会がみな一致して脅威だと認めたクライシスは、実はあまり前例がないのです。天然痘が、国際的に一致して世界的脅威だとされ、ウイルス撲滅に成功した唯一のケースです。1958年にWHO(世界保健機関)で根絶決議が全会一致で可決され、1980年に根絶宣言が出されました。今回のパンデミックは、その時と同じように世界的な脅威という認識を共有して、国際社会で団結できるかもしれません。新型コロナウイルスは自然に消滅することはありません。ですから世界中で撲滅しようとしても、1ヵ国だけ残っていたら、そこからまた再流行する可能性があるのです」と述べています。

 

 

世界中で社会の高齢化が叫ばれています。しかし、問題は高齢化ではなく、定年退職というシステムであるとして、ダイアモンドは「定年で高齢者は強制的に労働市場から退場させられてしまいます。日本の定年は少し引き上げられて、65歳ですか? アメリカでも30年前までは定年退職制度がありましたが、今ではパイロットなど一部の職業をのぞいて違法になりました。私は60歳になる直前に『銃・病原菌・鉄』を刊行しました。振り返ってみると最も生産的だったのは70代でした。もし70歳で強制的に退職させられていたら、世界の読者に貢献できる機会を奪われていたでしょう。私にはかつて、エルンスト・マイヤーという進化生物学者の親友がいました。彼は70歳のときにハーバード大学から定年退職させられましたが、101歳になる直前に他界するまでに26冊の本を出しています。その半分は80歳の誕生日を過ぎてから書いたものです」と述べています。

 

 

第2章「AIで人類はレジリエントになれる」では、マサチューセッツ工科大学教授で、『LIFE3.0 人工知能時代に人間であるということ』という著書のあるマックス・テグマークが発言します。「レジリエント」とは、「弾力があるさま。柔軟性があるさま」という意味ですね。世界中のAI研究者の多くは、数10年以内にあらゆるタスクや職業で人間の知能を超える「汎用型AI」(AGI=Artificial General Intelligence)ができるだろうと予測しています。AlphaFoldを作ったのと同じDeepMind社が開発し、プロの囲碁棋士を初めて破ったAIである「アルファ碁」はよく知られていますが、テグマークによれば、あれは「囲碁」のみに用途が限定された「特化型」であり、人間の知性のようにさまざまな場面で応用可能なAIがAGIで、自分で知識を獲得する自律性を持ち、状況を読み解いて推論する能力を持っているそうです。

 

「越えてはならない一線」として、テグマークは「生物学者たちは1960年代後半に『生物兵器』の危険性を広く訴え、生物兵器開発を国際的に禁止することに成功しました。そして70年代には『生物学』の研究において『越えてはならない一線』を引きました。AIも同じ道を歩むべきです。早めに戦略や倫理基準を定め、AIを利用する際に越えてはならない一線を明確にルール化するのです」と述べています。

 

さらに、「SF映画のディストピア」として、テグマークは「今後解決しなければならない問題は、AI研究者に任せておけばいいテクニカルなものではありません。心理学者、社会学者、文化人類学者、経済学者――、あらゆる叡智を結集しなければならない、今、地球上で最もホットな課題なのです。なぜなら我々は現在、人類の未来に対してポジティブなビジョンを持ち合わせていません。映画館で見ることができるSF映画の未来はディストピアばかりです。『ターミネーター』や『ブレードランナー』を思い出してください。機械が人を支配する世界しか描かれませんね。しかし、我々に本当に必要なのは未来に対するポジティブなビジョンです。どういうハイテクな未来に住みたいのか、少し考えてみてください。その具体像を明確に描ければ、実際にその目的地に到着できる確率は高くなります」と述べるのでした。

 

 

第3章「ロックダウンで生まれた新しい働き方」では、ブログ『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』で紹介した本の著書で、ロンドン・ビジネススクール教授のリンダ・グラットンが「新型コロナウイルスによって、私たちの今後の日常生活が変容することは疑う余地がありません。挨拶1つをとっても、握手さえも避けるようになるかもしれません。もし、爆発的な流行が一時的な収束を迎えたとして、そのとき、新型コロナウイルスは、私たちの生き方にどのような影響を及ぼすのでしょうか。感染者の世界的な増大がはじまったころから、それをずっと考えてきました」と述べています。

 

 グラットンは「健康を保ちつつ歳を重ねる重要性」として、「人生100年時代」において、この新型コロナウイルスが人々の寿命にどのような影響を及ぼすのか、『ライフ・シフト』の共著者であるアンドリュー・スコット教授と一緒にいくつかの新聞に寄稿したことを紹介し、「私たちは長期的に見た場合、『人生100年時代』への大きな影響はない、と結論づけています」と述べていますが、短期的な観点にたつと違うとして、「高齢者はウイルスに命を奪われる可能性が極めて高い。これは世界的に共通する傾向です。さらに先進国では、80代以上の高齢者になると糖尿病や高血圧などの基礎疾患をもつ人が多くなり、病状が悪化する確率がさらに高まります」と述べます。

 

グラットンとスコットが強調したいのは、“healthy aging”(健康を保ちつつ歳を重ねること)の重要性です。グラットンは、「健康な70歳と、糖尿病や心臓病などを患っている70歳では、同年齢でも新型コロナによる致死率がまったく違います。すでに高齢化が進行している日本では、“healthy aging”の重要性を社会できちんと認識することが必要なのです」と述べています。

 

また、「‟人間らしい力が必要”」として、ロボットやAIより人間が優れている点は共感力や創造力、理解力、交渉力などであると指摘し、グラットンは「その点では、高齢者には力を発揮するチャンスが多くあります。長い人生で様々な経験を積み、洞察力や英知が優れている人間は、機械よりも高次元な仕事が出来るからです。もちろん誰でも歳をとれば洞察力が高まるわけではなく、常に自分の視野を広く持ち、物事を分析する努力が必要です」と述べます。

 

さらに、日本の現在の初等教育は、計算能力や記憶力などの「認知能力」に重点を置いていることに言及し、グラットンは「学校では何回も暗記テストを出し、子供たちに繰り返し学習させるということをしているそうですね。その暗記こそ機械が得意とする分野で、人間が負けてしまうことは明らかです。なにも『認知能力』を疎かにしろと言っているのではありません。共感力、対人関係構築力、非言語能力などいわゆる『非認知能力』についても、重要性を見直すべきです」と述べます。

 

そして、「ポスト・コロナ時代に必要な四要素」として、グラットンは「パンデミックが起きたとき、生き延びるために重要だったのは、まずは健康という資質でした。そして、家族との絆も実は大切でした。絆が弱い人は感染拡大によって、さらに弱体化します。頼れる誰か、頼ってくる誰かが人には必要なのです。家族との関係だけでなく、コミュニティ強化の重要性も教訓として学ぶべきです。個人の健康、身につけたスキル、家族や周囲の人々との関係性、それらを総合したものが、困難や逆境にあっても心が折れずに柔軟に生き延びる力、つまりはレジリエンスになるのです。パンデミックから多くを学び、私たち全員が変わらなければならない時が、すぐそこに来ています」と述べるのでした。

  

 

第4章「認知バイアス感染症対策を遅らせた」では、『21世紀の啓蒙 理性、科学、ヒューマニズム、進歩』の著書で、ハーバード大学心理学教授のスティーブン・ピンカーが、「『基準的思考』と『指数関数的思考』」として、「長期的なデータを見れば、人類を取り巻く環境が良くなっていることは自明です。18世紀中ごろには29歳だった平均寿命は、今や71.4歳に延び、食糧状態についても、1960年代には1日1人当たり約2200キロカロリーだった摂取熱量が、現在では約2800キロカロリーです。また、世界総生産は200年でほぼ100倍と、富も増えました。天然痘やペストなど、いくつかのパンデミックもありましたが、人類は危機を切り抜けて生き延びてきました」と述べています。

 

 

感染症は戦争を起こさない」として、ピンカーは「感染症が戦争を引き起こすのではありません。因果関係としてはまったく逆で、戦争が感染症を流行させるのです。戦争はインフラを破壊してしまうので、自暴自棄となった人々は1つの場所に集まりがちです。スペイン風邪が流行したのは第一次世界大戦がはじまった1914年ではなく、最終盤の1918年です。塹壕に大量の兵士たちが押し込められて、そこから大流行したのかもしれません。私の知る限り、感染症の拡大によって大規模な戦争がはじまったり、犯罪が増加したりしたことはありません。戦時であっても平時であっても、人類にとって感染症が最大の殺人者なのです」と述べます。

 

また、「我々はデータを理解できない」として、ピンカーは「インターネットやSNSにおいては自分が見たい情報しか、見えなくなりがちです。それを『フィルターバブル』と言います。我々は、自分と異なる意見を持つ人々に対して『彼らはフィルターバブルに入っている』と一蹴してしまいますが、私たち自身もフィルターバブルの中にいることには気が付いていません。自分が正しいと思わせてくれるストーリーや記事を読むのは楽しいものです。反対に、自分の見方に批判的な内容に触れることは不快です。しかし、健康に過ごすため、食べすぎずに運動を心がけるように、自分とは異なる意見も傾聴すべきです」と述べるのでした。

 

 

第5章『新型コロナで強力になったGAFA』では、ブログ『the four GAFA』で紹介した本の著者で、ニューヨーク大学スターン経営大学院教授のスコット・ギャロウェイが「電気・ガス・水道と同じ」として、「この20年ほどでGAFAは、もはやユーティリティ(電気・ガス・水道などの公共サービス)のように、人々の生活に欠かせないものになりました。スマホを持たず、SNSを使わず、GAFA抜きで生活することは、いまや電気や水道がないのと同じです」と述べています。

 

また、ギャロウェイは「GAFAは、脳・心など人間の感覚に直接アプローチします。これは、進化心理学の観点からも、成功するビジネスの共通点です。例えば、グーグルの検索エンジンは、私たちの脳が賢くなったと思わせてくれますし、フェイスブックは、あなたを友人と結びつけ、心に訴えます。さらに、他社との差別化や世界展開、AIによるデータ活用などにより、GAFAは世界の覇権を握りました」とも述べています。

 

さらに、「次の1000億ドル長者は」として、ギャロウェイは「SNSを使用する10代の子供たちの間で鬱が増加していることをご存じでしょうか。ソーシャルメディアが、彼らに不安や劣等感をもたらすことが原因です。スティーブ・ジョブズをはじめ、多くのテック企業の幹部は、自分の子供たちにiPadなどのデジタルデバイスを使わせませんでした。テクノロジーに詳しいからこそ、それが与える害を認識していることを物語っています。GAFAの負の側面から、私たちは目をそらしてはいけません」と述べるのでした。

 

 

第6章「景気回復はスウッシュ型になる」では、『格差はつくられた 保守派がアメリカを支配し続けるための呆れた戦略』の著者で、ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンが、「スペイン風邪の大流行に学べ」として、以下のように述べています。「新規の感染者数がある程度落ち着いたからといって、早まって経済活動を再開してしまうと、裏目に出てしまうようです。すぐに感染者が急増し、再びロックダウン(都市封鎖)しなければならなくなります。普通に考えれば、大きな政府社会保障が充実している国が、新型コロナ対策でも成功しているように思いますが、必ずしもそうではありません。たとえば福祉国家として知られるスウェーデンは都市をロックダウンしない方針を選びました。フィンランドノルウェーなどの近隣諸国と比較すると、明らかに死亡者数が多く、かと言って経済的パフォーマンスが良いわけでもありません。そう考えますと、経済を回すことを優先させるよりも、まずは感染症対策の最前線にいる医療関係者と、経済的シャットダウンで打撃を受けている人たちをサポートするべきなのです。早すぎる経済活動の再開は、かえってダメージを大きくするだけです」

 

また、「インフレ率を下げろ」として、クルーグマンは「歴史的にインフレ率の低迷に苦しむ国が何をしてきたか。それは戦争です。戦争の遂行には莫大な支出が必要となりますから、自然とインフレにつながります。戦争は財政面から見れば公共投資。すなわち、財政支出に当たるのです。もちろん、インフレ目標を達成するために日本が戦争を行うことはありえません。ただ、いまの日本は異次元の金融緩和によって、マイナス金利です。この状況でインフレ率を上げるためには、戦争に匹敵するほどの爆発的財政支出が求められます」と述べています。

 

「あとがき」では、本書の編者であるジャーナリストの大野和基氏が、「この新型コロナウイルスの流行拡大において、あえてポジティブな側面を見出すとしたら何か?」として、「それは、私たちに深く考えるきっかけを与えてくれたこと。6人がすべて、そう答えたことが印象的でした。自分の職業キャリアの価値を見直す、生きる意味を再考する、家族と過ごす時間の大切さを考える――多くの人々にとって、今回のパンデミックが人生をありとあらゆる面から捉え直す機会になったことは間違いありません。感染拡大が収束した後でも、ウイルスが我々の世界に与えた影響は、はかりしれません。それは何10年にも及ぶものかもしれません。それでも、そのようにパンデミックを少しでも前向きに捉えることで、私たちは前進できるのだと思います。それが、クルーグマン氏の言うように『2歩進んで1歩下がる』ものであったとしても」と述べています。

 

心ゆたかな社会 「ハートフル・ソサエティ」とは何か
 

 

この新型コロナウイルスの流行拡大が「私たちに深く考えるきっかけを与えてくれた」という考え方には、まったく同感です。拙著『心ゆたかな社会』(現代書林)にも書いたように、新型コロナウイルスに人類が翻弄される現状が、わたしには新しい世界が生まれる陣痛のような気がしてなりません。こんなに人類が一体感を得たことが過去にあったでしょうか。戦争なら戦勝国と敗戦国があります。自然災害なら被災国と支援国があります。しかし、今回のパンデミックは「一蓮托生」です。その意味で、「パンデミック宣言」は「宇宙人の襲来」と同じかもしれません。新型コロナウイルスも、地球侵略を企むエイリアンも、ともに人類を「ワンチーム」にする存在なのです。

 

 

2020年9月21日 一条真也