『21世紀の民俗学』

21世紀の民俗学

 

一条真也です。
『21世紀の民俗学』畑中章宏著(角川書店)を読みました。「WIRED.jp」の異色の人気連載を最終章「ありえなかったはずの未来」を大幅加筆して単行本化したものです。ブログ『天災と日本人』で紹介した本が面白かったので、同じ著者が書いた本書を読みたくなりました。著者は1962年生まれの作家、民俗学者、編集者です。 

f:id:shins2m:20190908234132j:plain
本書の帯

 

本書の帯には、「未来のようでいて過去、あまりに古くて新しい。現代日本という『妖怪』の正体!」「自撮り棒、事故物件、宇宙葬ホメオパシー、アニメ聖地巡礼、無音盆踊り、河童の選挙権・・・・・・?」と書かれています。 

f:id:shins2m:20190908234158j:plain
本書の帯の裏

 

また帯の裏には、「インターネット、スマホ、最新テクノロジーが神仏・祭り・習俗と絡みあう新世紀のリアルとは?」「新しいと思われていたことが古いものに依存していて、古くさいと思われていたことが新しい流行の中にある――。柳田国男宮本常一以来、不安定で流動的な現象の中にこそ日本人の変わらぬ本質を見出してきた民俗学が、新時代に切り込む」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
序 ―― 21世紀の「感情」
①ザシキワラシと自撮り棒
宇宙葬と星名の民俗学者
薬師如来と「ガルパンの聖地」
④テクノロジーの残酷
⑤景観認知症
文殊菩薩の化身たち
⑦無音盆踊りの「風流」
ポケモンGOのフィールドワーク
⑨祭の「機能美」と戦後建築
⑩複数のアメリカ国歌
⑪UFO学のメランコリー
⑫山伏とホメオパシー
⑬お雑煮の来た道
⑭すべての場所は事故物件である
⑮河童に選挙権を!
⑯大震災の「失せ物」
ありえなかったはずの未来――「感情史」としての民俗学
「おわりに」
「参考文献」

 

「序 ――21世紀の『感情』」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「21世紀の今日に起こった眼の前の事象について、民俗学を切り口にこれから綴っていきたいと思う。現在進行形の出来事、流行や風俗にかんして、ほかの学問ではなく、なぜあえて民俗学という学問とその方法を用いるのか。それはさっき生まれ、いつ終わってしまうかわからない、不安定で流動的な現象を捉えるには、民俗学が最も有効だと思っているからである」

 

また、民俗学について、他の学問と同様に、民俗学にも、細分化した専門や関心領域があるとし、著者は「そのなかでわたしにとっての民俗学とは、まず『感情』を手がかりに、さまざまな社会現象に取り組む姿勢のことである。過去の人びと、現在を生きるわたしたちの感情が反映していると考えているのだ。だからわたしは、河童や天狗、ザシキワラシといった妖怪について、たとえ話や象徴としてではなく、実際に存在するものとして研究している」と述べています。

 

災害と妖怪――柳田国男と歩く日本の天変地異

災害と妖怪――柳田国男と歩く日本の天変地異

 

 

続けて、歴史には記録されていない感情を扱うことで、史料にもとづいた過去に囚われることなく、市井の人間のことを想像し、見つめ直すことができるとして、著者は「だから、全く新しいと思われていることが古いものに依存していたり、古くさいと思われていたことが新しい流行のなかに見つかる。民俗学の方法を用いることで、時代に左右されない本質を探すことができる」と述べます。



さらに、著者は以下のようにも述べています。
「わたしが本格的に文章を書くようになったのは、東日本大震災以降のことである。東日本大震災で日本社会が『取りこぼした』ものがあったような気がしたからだ。震災後、社会学者や土木工学者による数値などのデータをもとにした分析を目にするたび、わたしは違和感を覚えた。数字が伝える情報は貴重だけれども、感情に踏みこんだ論評があまりにも少なすぎると感じた」



続けて、津波の際に生死を分けたのは、「行政」によるものか、「運命」によるものかと著者は問いかけ、「いまあえて、『運命』と『行政』というふつうでは対語として用いられない二字熟語を並べてみたのは、こういった引き裂かれた言葉でしか、だれもが表現していないように思うからである。復興、復旧のなかでの鎮魂や供養のあり方、放射能汚染から避難した人びと、事故後も原発を支持する人びとの感情を、わたしはいまだ捉えきれずにいる」と述べます。

 

さらに、日本の民俗学を創始した柳田国男が、信仰を通じて過去の日本人の感情を理解し、日本人とは何かを明らかにしようとしたとして、著者は「柳田は、『わたしの家は日本一小さい家だ。この家の小ささという運命から、わたしの民俗学への志を発したといってよい』と、学問の出発点を、自らの生家に置いている。柳田とは異質の民俗学をつくりあげたとされる宮本常一も、貧しい農家の長男としての出自と不可分な貧困の問題に取り組み続けた」と述べています。

 

故郷七十年 (講談社学術文庫)

故郷七十年 (講談社学術文庫)

 

 

そして、人類学がフィールドワークにおいて観察対象からある種の距離をとった記録を重視するのとは異なり、民俗学では扱う対象と研究者の距離がほんらいは近いはずである」として、著者は「伝承や風習、流行を、当事者として見つめて考える立場だといえよう。わたしは民俗学のアカデミックな教育を受けたものではないけれど、感情を揺さぶられた経験をもとに、等身大の体と自分の頭で、過去の事象、現在進行形の現象について考えているつもりだ」と述べています。

 

鶴見良行著作集〈1〉出発

鶴見良行著作集〈1〉出発

 

 

「①ザシキワラシと自撮り棒」では、人類学者の鶴見良行が写真に対する日本人の感情の変遷をたどった興味深い論考を書いていることを紹介し、著者は「鶴見によると、日本に写真技術が輸入されてから、日本人を写真館に向かわせた動機には、2つの理由があった。1つは『人口移動による動機』である。明治維新の志士たちが家族や知人にのこすために撮影されたり、都会への遊学や就職、そしてなによりも国内外での戦争への出征にあたって、故郷に残し、故郷に送るため移動先で写真に撮られた。もう1つの動機は、『生活の区切り』をきっかけとしたものだった。出生、七五三、入学と卒業、就職、結婚、出世、還暦、死亡といった人生の『区切り目』ごとに、日本人はカメラの前に立った」と述べています。

 

また、著者は以下のようにも述べます。
「『歴史主義的発想による時代』の家庭アルバムには、ある特定の日を選んで撮られた写真が多く、一年や一生のサイクルといった『ハレの日』を軸とする“螺旋的”な時間認識によるものだった。ところが大正時代に入ると、カメラと感光材料の大量生産が可能になったことから、『区切りの日』以外にも日本人は写真を撮るようになった。こうして大正末年以降の日本人のなかには、『区切りの日』の写真だけで自分の人生を象徴しない新しいタイプの人間が増えていった。さらに『写真を撮って作品を眺めるまでの一連の作業のなかに、参加者個性の充足感を感じ』、『芸術主義的発想』をするようになったのだと鶴見はいう」



「②宇宙葬と星名の民俗学者」では、「心霊学の時代」として、著者は「ヨーロッパを主戦場におこなわれた人類史上最初の世界大戦である第1次世界大戦は、1918年に休戦となった。しかし1600万人以上という膨大な戦死者を出した未曾有の経験から、霊媒者を招いて、戦死した若者の招魂をおこなうことが大流行した。その背景には、中世のオカルティズムからつながる『心霊学』があった」と述べています。



また、心霊学について、こう述べられています。
「日本心霊現象研究会は『心霊問題叢書』と銘打ち、1922年(大正11年)2月から海外の心霊研究資料の出版を始めた。その第1巻はオリヴァー・ロッジ著、野尻抱影訳の『他界にある愛児よりの消息』だった。サー・オリヴァー・ロッジはイギリス・バーミンガム大学の初代学長を務めた人物で、世界的物理学者であると同時に、その物理学的概念を心霊現象の解釈に適用した人物である」

 

他界にある愛児よりの消息

他界にある愛児よりの消息

 

 

『他界にある愛児よりの消息』は第1次世界大戦で死んだ末子、レイモンド・ロッジとの交霊記録で、ヨーロッパの読者に甚大な驚きと感動を与えました。同書によると、他界では現世と同じく星は見えるそうです。大熊座も、「チュ・チュ・チャリオ」(馬車。カシオペア座か)も見えます。昼と夜とは規則正しくは回ってきません。太陽も見えますが、暑さも寒さも感じないといいます。

 

レイモンド―「死後の生存」はあるか

レイモンド―「死後の生存」はあるか

 

 

抱影自身、翻訳刊行の4年前に最初の妻を亡くしており、著者は「妻の霊との交信をこの本の内容から思い浮かべていたのかもしれない」と述べています。抱影訳の日本語版は刊行当時も反響が大きかったですが、1924年10月に『レイモンド――人間永生の証験記録』と改題され、大ベストセラーになりました。1922年と24年の間に、日本では死者・行方不明10万5000人あまりという大災害、関東大震災が起こっています。

 

日本の星-星の方言集 (中公文庫)

日本の星-星の方言集 (中公文庫)

 

 

野尻抱影のライフ・ワークのひとつが「星名の民俗学」でした。各地からの通信約1000通をカードに整理し、1936年(昭和11年)6月、星名400を含む『日本の星』を刊行しています。「『星名の民俗学者』の遺言」として、1975年(昭和50年)5月、抱影が渋谷駅東口にあった東急文化会館の五島プラネタリウムが主宰する「星の会」で「星に感じる畏怖」と題する講演を行ったことを紹介しています。 


このときの話題は星の光の話からフロイト心理学におよぶものでしたが、「僕はこの秋に90歳になる。死んだら墓所はオリオン座にきめている。あのガンマ星の1インチ半下の所です。そこはベラトリックス、つまりあの美しいアマゾンの女兵士がまもっていてくれるのです」という抱影の締めくくりの言葉は、聴衆を驚かせました。著者は、「青白く輝くオリオン座の恒星『ベラトリックス』はラテン語で『女戦士』を意味し、『アマゾン・スター』という別名もある。いまから40年ほど前、『渋谷ヒカリエ』が立つ場所で、亡き妻が眠る宇宙の霊園に葬られたい、と言い残した天文民俗学者がすでにいたのである」

 

瞽女うた (岩波新書)

瞽女うた (岩波新書)

 

 

「⑥文殊菩薩の化身たち」では、「近世社会福祉の萌芽」として、近世の地域社会でも、瞽女や座頭といった「視覚障害芸能者」に対する扶持が用意されていたことを指摘し、著者は「この事実は、アメリカ合衆国生まれの音楽学者・芸能史研究家ジェラルド・グローマーの『瞽女うた』に詳しい。かつての日本では、眼病を患った女性たちが三味線と唄を習い覚え、米などの農産物と引き換えに村々を流し歩き、芸を披露していった。こうした瞽女が成立した背景には、医療も未発達だったうえに、今日のように社会福祉が確立していなかったことも理由だと考えられてきた。しかしグローマーは、瞽女が各地を移動し、長い期間にわたり芸に裏づけされた職能を維持できたのは、近世に社会的弱者に対する福祉が芽生えていたためだと考える」と述べます。

 

瞽女と瞽女唄の研究

瞽女と瞽女唄の研究

 

 

また、日本では古来子どもや老人は神に近い存在で、難病患者や貧しい人々は菩薩だとみなされたとして、著者は「社会的な弱者ほど、高貴であるというふうに考えられてきた。残忍な王や、負担を強いる為政者は、その半面で『福祉』について配慮せざるをえなかったはずなのに、今日の日本では、こうした説話すら忘れられてしまいかねないのである」と述べます。



「⑭すべての場所は事故物件である」では、「地名に蓄積した過去」として、東日本大震災以降、地震津波、河川の氾濫、火山噴火の記憶を宿した「災害地名」に注目が集まったことがあることが指摘され、「たとえば『蛇崩』『蛇抜』といった地名が土砂災害、土石流被害を刻印する地名であり、2014年(平成26年)に発生した広島市土砂災害のとき、もともと『蛇落地』と呼ばれていた場所が、イメージの悪さから『上楽地』と改名されていたとインターネット上で話題になった」と書かれています。



また一方で、開発地名、新興地名というべきものが新たに生み出されてきたとして、著者は「『希望ヶ丘』『光ヶ丘』『緑ヶ丘』、『青葉台』や『若葉台』といった、歴史や民俗を感じさせない無味乾燥な地名が、新興住宅地やニュータウンの呼称となった。そこが起伏に富む地形であっても、『丘』や『台』と名づけられ、『谷』や『窯(久保)』と呼ぶことはなるべくなら避けられたのだ」と述べています。

 

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

 

 

「⑮河童に選挙権を!」では、「異形の『正義』」として、著者は「わたしのかねてからの主張に、『妖怪は実在する』、あるいは『妖怪は実在した』というものがある。そもそも柳田国男の『遠野物語』に登場する河童や天狗、ザシキワラシ、雪女、山男や山女はその目撃談、経験談から、実在したものであることは疑いえない」と訴え、さらに「天狗にかんしては、先住民族や山林生活者とおぼしき『異人』『山人』を常民の尺度からみた生命体であり、また山岳宗教者である修験山伏の性格や能力を反映した存在であるという解釈が唱えられてきた」と述べています。

 

怪異の民俗学〈6〉幽霊

怪異の民俗学〈6〉幽霊

 

 

また、「『後ろめたさ』の共有」として、著者は「夢枕に立つ幽霊は、その経験を他人に話さなければあくまでも個人に属する。しかし複数の人に経験が共有されたり、あるいは幽霊が辻に立つようになると共同性を帯びる。こうしたことが繰り返されて「伝説」になっていく」と述べています。柳田は、「怨霊」や「御霊」の性格を民俗学の立場から明らかにすることに情熱を傾けましたが、その対象とは「縁者なきものの亡魂、他郷で死去したものの死霊、遭難・事故・自殺・戦死など非業の死をとげたものの亡霊、未婚のまま急死した若者の霊、あるいは愛児の夭折したものの霊魂など、現世に怨恨をのこす迷える怨霊」だったのです。

 

怪異の民俗学〈2〉妖怪

怪異の民俗学〈2〉妖怪

 

 

そうして、こうした「霊」たちが集合性を帯び、個人から離れて公共化され、抽象化されたのが日本の妖怪なのであるとして、著者は「妖怪は特定の個人や家族だけではなく、共同体の枠を越えて、人々を『もやもや』させたい。崇高さと滑稽さのあいだに開いた落とし穴に、人々を連れ込み、名状しがたい感情を抱かせたい。そうしたことが必要な状況に社会があるとき、妖怪は生まれてくるのである」と述べます。

 

エルサレム―記憶の戦場 (りぶらりあ選書)

エルサレム―記憶の戦場 (りぶらりあ選書)

 

 

「死に去りし『多数派』」として、ドナルド・トランプアメリカ大統領就任を受けて、松岡正剛が「千夜千冊」の1630夜としてアモス・エロンの『エルサレム――記憶の戦場』(1989年)を取り上げたことを紹介し、著者は「トランプは大統領になる前からアメリカ大使館のエルサレム移転を吹聴していたといい、ユダヤ教キリスト教イスラム教という世界三大宗教の聖地であるエルサレムの、『世界』と『永遠』と『記憶』について振り返る。そのなかで松岡は、イスラエルの現代詩人で、エルサレムで暮らしてきたイェフダ・アミハイが、エルサレムを『何か忘れたと誰もが思っているところ』『地上で唯一、死者にも投票権のある都市』だと書いていることを、『まことに言い得て妙』だと評価している」と述べます。

 

 

「死者の投票権」、あるいは「死者の政治参加」に関していえば、農政官僚時代の柳田国男が、すでに先駆的な認識を示し、提案をしていたことを指摘する著者は、1902年(明治35年)から1903年にかけて中央大学で行った「農業政策学」の講義で、柳田が「国家は現在生活する国民のみを以て構成すとはいいがたし、死し去りたる我々の祖先も国民なり。その希望も容れざるべからず。また国家は永遠のものなれば、将来生れ出ずべき我々の子孫も国民なり。その利益も保護せざるべからず」と述べたことを紹介します。さらにその8年後、1910年(明治43)に刊行された『時代ト農政』では、柳田は「況んや我々はすでに土に帰したる数千億万の同胞を持っておりまして、その精霊もまた国運発展の事業の上に無限の利害の感を抱いているのであります」と述べています。

 

 

「ありえなかったはずの未来――『感情史』としての民俗学」では、「民俗感情の公共化」として、著者は「先にわたしは、知性以前の感情が個人や家族にとどまらず共同のものとなったとき、民俗感情が『公共化』されるといった。たとえば夢枕に立つ幽霊は、その経験を他人に話さないかぎり、あくまでも個人に属する。しかし幽霊が辻に立つようになり、多くの人に経験が共有されると共同性を帯びる。そうしたことが繰り返されることによって、幽霊は『伝説』『伝承』として公共化されていくのである」と述べます。

 

霊魂観の系譜 (ちくま学芸文庫)

霊魂観の系譜 (ちくま学芸文庫)

 

 

続けて、著者は以下のように述べています。
民俗学者の桜井徳太郎は、柳田の霊魂にかんする最初の興味は、死霊一般、人間霊一般に対して常民が抱く観念形態ではなく、特殊なケースに出現する現象や、観念する対象そのものに注がれていたと指摘する。そして柳田は、『縁者なきものの亡魂、他郷で死去したものの死霊、遭難・事故・自殺・戦死など非業の死をとげたものの亡霊、未婚のまま急死した若者の霊、あるいは愛児の天折したものの霊魂など、現世に怨恨をのこす迷える怨霊』を研究対象としたと桜井はいう。こうしたさまよえる『霊魂』が集合性を帯び、公共化されたものが妖怪であるとわたしは考える」

 

死者の民主主義

死者の民主主義

 

 

そして、最後に著者は「妖怪は特定の個人や家族を越えて、人びとを『もやもや』させるために生まれてくるのである。日常と非日常のあいだに開いた落とし穴に人びとを連れ込み、恐怖と滑稽の感情を人びとに抱かせるために現われるのだ。そうした状況が社会に必要になったとき、妖怪は登場するのである」と述べるのでした。現代のさまざまな風俗や現象について書かれたものの中には消化不良のものもありましたが、全体的に興味深く読めました。特に「⑮河童に選挙権を!」に強い印象を受けましたが、このテーマは著者の次回作である『死者の民主主義』(トランスビュー)に受け継がれていきます。

 

21世紀の民俗学

21世紀の民俗学

 

 

2020年9月8日 一条真也

書斎からのオンライン会議参加、失敗!

一条真也です。
今日は台風10号の影響でサンレー社長室のスタッフが出社できないので、自宅の書斎から13時開始の「グリーフケアPT」のZoom会議に参加しました。いつも会社からでしたので、自宅からオンライン会議に参加するのは初めてです。

f:id:shins2m:20200907211300j:plain自宅からZoom会議に参加

f:id:shins2m:20200907215929j:plain
スーパー・カオスの書斎!

初めてわが書斎が画面に映ると、そのスーパー・カオス(たとえば、T-REXvs.新旧ゴジラ)の異様さにギョッとしたメンバーもいたようです(笑)。最初は接続がうまくいっていたのですが、台風の影響か、次第にWiFiの入りが悪くなってきました。それで書斎のPC(カメラなし)のネット回線を引き抜いてモバイルPCに接続したのですが、それでもうまくいきません。電話でスタッフに問い合わせると、台風で回線が混み合っている可能性があるとのこと。たびたび、わたしが画面から消えるので、金森副座長(レクスト社長)に議長を代わっていただきました。

f:id:shins2m:20200907130753j:plain
なかなか、うまく行きません

f:id:shins2m:20200907131855j:plain
ネット回線に繋げてもダメでした

 

業を煮やしたわたしは、急遽、対応できる社員を探して社長室にZoom会議の環境を整えてもらい、車を運転して自宅から会社に移動しました。外に出るとまだ風は強かったですが、そんなことを言っておられません。急いで社長室に飛び込んだわたしは、セットされていたPCに向かって会議に再び参加しました。この日は、グリーフケア資格認定制度に関する重要な案件が多く、PTの座長としてどうしても欠席するわけにはいかなかったのです。

f:id:shins2m:20200907140259j:plain
結局、会社に移動しました

f:id:shins2m:20200907135656j:plainなんとか会議に参加できました

 

なんとか最後まで会議に参加したわたしは、「みなさん、今日は大変失礼しました」とお詫びして事情を説明してから、「上智大学名誉教授でグリーフケアの開拓者であるアルフォンス・デーケン先生がお亡くなりになりました。帰天されたデーケン先生は、高い所からこのグリーフケアPTを見守って下さっている気がいたします」と述べました。
Zoom会議終了後、わたしは本社の1階にある小倉紫雲閣の事務所に向かいました。そこで避難所の仕事を頑張ってくれた社員のみなさんにお礼を言いましたが、みなさんもブログ「コミュニティホールへ!」の記事が励みになったようです。良かったです!

 

2020年9月7日 一条真也

デーケン先生の帰天

一条真也です。
今日は台風10号の影響でサンレー社長室のスタッフが出社できないので、自宅の書斎から13時開始の「グリーフケアPT」のZoom会議に参加します。九州の全県が暴風域に入った深夜に台風情報を得ようと思ってネットを開いたところ、「アルフォンス・デーケンさん死去 日本に死生学を広める」という朝日新聞デジタルの記事を発見し、驚きました。デーケン先生は、日本における死生学&グリーフケアの先駆け的存在で、わたしは深く尊敬しておりました。ご著書もほとんど拝読しています。

f:id:shins2m:20200907120806j:plain
朝日新聞デジタルより

 

記事には、以下のように書かれています。
「日本に死生学を広めた上智大学名誉教授でカトリック司祭のアルフォンス・デーケンさんが6日、肺炎で死去した。88歳だった。葬儀は11日午後4時から東京都千代田区麴町6の5の1のカトリック麴町聖イグナチオ教会イエズス会員のみで行う。喪主はイエズス会司祭・瀬本正之さん。主司式はイエズス会のレンゾ・デ・ルカ日本管区長」


また、記事には以下のようにも書かれています。
「ドイツ生まれ。イエズス会の派遣により1959年に来日し、65年に司祭に。いったん渡米し、ニューヨーク州フォーダム大学大学院で哲学博士の学位を取得。再来日し、70年代から上智大学で『死の哲学』『人間学』などを担当し、その後、死をタブー視する状況に対して『死への準備教育』を提唱した。死との向き合い方を若いうちから学び、最期まで心豊かに生きようと呼びかけた。賛同した市民による『生と死を考える会』は各地に広がり、その全国協議会名誉会長を務めた。ホスピスの普及や終末期医療の充実のための支援活動にもかかわった」

 

新版 死とどう向き合うか

新版 死とどう向き合うか

 
よく生き よく笑い よき死と出会う

よく生き よく笑い よき死と出会う

 

 

さらに、「ユーモアで包んだ一般向けの「キリスト教入門講座」は人気を呼び、40年以上続いた。著書に『死とどう向き合うか』『よく生き よく笑い よき死と出会う』など。91年には、日本に死生学という概念を定着させたとして菊池寛賞を受賞した。ほかの受賞に、全米死生学財団賞、東京都文化賞(99年)など」と書かれています。

愛する人を亡くした人へ』(現代書林)

 

わたしはデーケン先生のご著書から学ばせていただき、2007年7月16日に刊行された拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)で、デーケン先生が提唱されたグリーフ・エデュケーション(悲嘆教育)を紹介させていただきました。愛する人を亡くしたとき、どういう状態に陥ることが多いのか、どんな段階を経て立ち直ってゆくのか、悲嘆のプロセスを十分に商家できなかった場合はどんな状態に陥る危険性があるのかなど、人間として誰もが味わう死別の悲しみについて学ぶのがグリーフ・エデュケーションです。

 

悲嘆のプロセスの途中で、それとは気づかずに健康を損なう人がいかに多いかを考えると、これは予防医学としても大切な課題であると、デーケン先生は述べられています。古来から、愛する人を亡くした悲しみが、「ブロークン・ハート」と呼ばれる失意の死をもたらすことはよく知られています。現代でも、悲しみのプロセスをうまく乗り切れなかったために、がん、脳卒中、心臓病などを発病したケースは決して少なくありません。ブロークン・ハートは「胸がはりさける」悲しみです。この悲しみが、残された人々の生命力を低下させ、死に至る重い病気を引き起こす力をもっているのです。ブロークン・ハートに陥らないためにも、悲嘆のプロセスについて正しく知る必要があります。

 

デーケン先生は、欧米や日本で、たくさんの末期患者とその家族、また患者が亡くなったあとの遺族たちのカウンセリングに携わってきました。1人ひとりの人生がそれぞれかけがえのないものであるように、愛する人を亡くすという体験とそれに伴う悲しみのプロセスも、人それぞれです。デーケン先生によれば、風土、習慣、言語は違っていても、みな同じ人間である以上、そこにはある程度まで共通するパターンが見られるといいます。これから、デーケン先生による「悲嘆のプロセス」の12段階を紹介したいと思います。

 

①精神的打撃と麻痺状態
愛する人を亡くすと、その衝撃によって一時的に現実感覚が麻痺します。頭の中が真空になったようで、何もわからなくなってしまいます。心身のショックを少しでもやわらげようとする、心理学でいう防衛機制です。
②否認
感情だけでなく、理性も愛する人の死という事実を認めません。あの人が死ぬはずはない、きっとどこかで生きている、必ず元気になって帰ってくる、などと思い込みます。
③パニック
身近な人の死に直面した恐怖から、極度の パニック状態になります。悲しみのプロセスの初期にしばしば見られる現象です。
④怒りと不当惑
ショックがやや収まると、悲しみと同時に、自分は不当な苦しみを負わされたという激しい怒りが湧き起こります。がんのように、かなり長期間の看病が必要な場合には、怒りはやや弱められ、穏やかに経過することが多いようです。ある程度、心の準備ができるのでしょう。反対に強い怒りが爆発的に現れるのが、心臓発作などの急病や、災害、事故、暴力、自殺などによる突然の死のあとです。
⑤敵意とルサンチマン(うらみ)
残された人々は、亡くなった人や周囲の人 に対して、敵意やうらみの感情をぶつけます。最もその対象になるのは、最期まで故人のそばにいた医療関係者です。次に、死別の直後に対面する葬儀業者にぶつけることが多いようです。日常的に死を扱う側と、かけがえのない肉親の死に動転している遺族側との感情が行き違うことが原因と思われます。自分を残して亡くなった死者を責める場合も少なくありません。
⑥罪意識
過去の行ないを悔やんで、自分を責めます。
「あの人が生きているうちに、もっとこうしてあげればよかった」「あのとき、あんなことをしなければ、まだまだ元気でいたかもしれない」などと考えて、後悔の念にさいなまれるのです。代表的な悲嘆の反応です。
⑦空想形成、幻想
空想の中で、亡くなった人がまだ生きているかのように思い込みます。また、故人の食事の支度や着替えの準備など、実生活でも空想を信じて行動します。
⑧孤独感と抑うつ
葬儀などの慌しさが一段落すると、訪れる人も途絶えがちになります。独りぼっちになった寂しさが、ひしひしと身に迫ってきます。だんだん人間嫌いになったり、気分が沈んで自分の部屋に引きこもることが増える人もいます。誘われても、外出する気になれません。
⑨精神的混乱とアパシー(無関心)
愛する人を亡くし、日々の生活目標を見失った空虚さから、どうしていいかわからなくなります。全くやる気をなくした状態に陥り、仕事や家事も手につきません。
⑩あきらめ―受容
日本語の「あきらめる」には、「明らかにする」という意味があります。愛する人はもうこの世にはいないという現実を「明らか」に見つめて、それを受け入れようとする努力がはじまります。受容とは、ただ運命に押し流されることではありません。事実を積極的に受け入れていく行為なのです。
⑪新しい希望―ユーモアと笑いの再発見
死別の悲しみの中にあるとき、誰でもこの暗黒の時間が永遠に続くように思います。しかし、いつかは必ず希望の光が射し込んできます。それは、忘れていた微笑が戻り、ユーモアのセンスがよみがえることから始まります。ユーモアと笑いは健康的な生活に欠かせないものであり、次の新しい一歩を踏みだそうとする希望の生まれたしるしでもあります。
⑫立ち直りの段階―新しいアイデンティティの誕生
悲嘆のプロセスを乗り越えるというのは、愛する人を亡くす以前の自分に戻ることではありません。深い悲しみにもだえた人は、苦しい経験を通じて、新しいアイデンティティを獲得したのです。つまり、以前よりも成熟した人格へと成長しているのです。

 

以上が、デーケン先生が唱えられた「悲嘆のプロセス」です。大きな人間愛に支えられた、素晴らしい考え方だと思います。ぜひ、多くの日本人にこのプロセスを知っていただき、いつかは悲しみで満ちた心に希望の光が射してくることを願っています。そして、死生学の偉大なパイオニアであり、グリーフケアの開拓者であったデーケン先生は、大いなるミッションを果たされて天に召されました。デーケン先生の魂の平安を心よりお祈りいたします。

 

2020年9月7日 一条真也

コミュ二ティホールへ!

一条真也です。
今日は台風10号の影響でサンレー社長室のスタッフが出社できないので、自宅の書斎からグリーフケアPTのZoom会議に参加します。九州の全県が暴風域に入った夜が明けました。北九州市と災害支援協定を締結しているサンレー小倉紫雲閣小倉北区)、および北九州紫雲閣(八幡西区)には多くの方々が避難されましたが、無事に朝を迎えることができました。

f:id:shins2m:20150202154653j:plain小倉紫雲閣

f:id:shins2m:20200907112702j:plain

 

災害支援協定の締結は2019年6月4日に行ったのですが、その後、何度か大雨は降りましたが、わが社の両施設に避難される方はいませんでした。しかし、最大の警戒を必要とする今回の台風10号はさすがに超弩級で、小倉紫雲閣に29人、北九州紫雲閣に76人の避難者の方々をお迎えしました。わが社の松柏園ホテルをはじめとした北九市内のホテルもすべて満室状態で、避難所に入れなかった方々もおられたようです。もちろん不便な点や至らぬ点は多々あったろうかとは思いますが、わが社が100名以上の北九州市民のみなさんの命を守ることができて安堵するとともに、非常に感動しています。 

f:id:shins2m:20190702092303j:plain
西日本新聞」2019年7月2日朝刊

 

ブログ「北九州市災害時支援協定調印式&記者会見」で紹介したように、2019年6月4日、北九州市とわが社サンレーの間で「災害時における施設の使用に関する協定」の締結をしました。テレビ各局のニュース、新聞各紙でも大きく報道されましたが、避難所となった小倉紫雲閣小倉北区)、北九州紫雲閣(八幡西区)ともに、2020年9月6日の早朝から多くの方々が避難されています。わたしはもともと、北九州市には高齢者が多く、安定した避難所が必要と考えていましたので、避難所開設で市民のみなさんに安心していただけたら幸いです。

f:id:shins2m:20200907113927j:plain北九州紫雲閣

f:id:shins2m:20200907112719j:plain


 両施設はバリアフリーですし、広いのでソーシャルディスタンスの観点からも安心です。乳幼児を抱えるお母さんが、周囲に気兼ねなく利用できるよう授乳などで使える個室も備えています。大きな駐車場もあり、車での避難も可能です。冠婚葬祭サービスの提供に加えて、災害の避難所を提供させていただくことで、わが社は真の意味での「互助会」になれるのではないかと考えています。

f:id:shins2m:20200907113027j:plainサンレー小倉紫雲閣の避難スペース

f:id:shins2m:20200907113346j:plain北九州紫雲閣の避難スペース

 

自分の家も心配だったでしょうに、地域のみなさんの命を全力で守った紫雲閣のスタッフには感謝の気持ちでいっぱいです。わたしは、心から彼らを誇りに思います。あるお客様からは、「紫雲閣の人は『地上の星』やね」との有難い言葉を頂戴しました。それにしても「魂を送る場所」であった紫雲閣が「命を守る場所」となったことは画期的ではないでしょうか。「セレモニーホール」が「コミュニティホール」へと進化できたように思います。最後に、台風10号の全国的な被害が最小限であることを祈っています。


2020年9月7日 一条真也

 

『天災と日本人』

天災と日本人: 地震・洪水・噴火の民俗学 (ちくま新書 1237)

 

一条真也です。
大型で非常に強い台風10号が接近し、九州の全県が暴風域に入りました。記録的な暴風や大雨のおそれがあり、高波や高潮にも最大級の警戒が必要です。わが社の北九州市内の施設にも多くの方々が避難されています。自然の猛威を痛感しながら、『天災と日本人』畑中章宏著(ちくま新書)を再読しました。「地震・洪水・噴火の民俗学」というサブタイトルがついています。著者は1962年生まれの作家、民俗学者、編集者。著者の本を読むのは、ブログ『災害と妖怪』で紹介した本以来です。

f:id:shins2m:20190908233856j:plain
本書の帯

本書のカバー表紙には「・・・・・・防災や減災について、自然や死者とともに考えること。日本人が災害と付き合うなかで持続してきた、慣習や感情を見つめ直すときが、いままたきている。災害を抜きにした、日本人の民俗史や社会史は、過去はもちろん、これからもありえないのだから」と書かれています。また帯には、「古代から現代まで、私たちは災害にどう向き合ってきたのか?」「日本人の『心』に迫る!」とあります。

f:id:shins2m:20190908233926j:plain
本書の帯の裏

 

カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「日本は、災害が多い国である。毎年のように、地震津波、洪水、噴火、土砂崩れ、雪害等が起こっている。古来、日本人はそのような災害と付き合いながら生活を営み、その『復興』と『予防』の知恵を豊富に有していた。そして、それは各地の風習や伝承、記念碑として受け継がれてきたのである。本書では、日本各地の災害の記憶をたずね、掘り起こし、日本人と天災の関係を探っていく。自然に対する感性が鈍ってしまった現在において、必読の一冊!」



ブログ「天気の子」で紹介した新海誠監督の大ヒット・アニメ映画に関連して、「映画『天気の子』、民俗学で読み解いてみると・・・・・・民俗学者・畑中章宏さんに聞く」というネット記事を読んだところ大変面白かったので、本書を読んでみたくなりました。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
 序章    天災と国民性
第一章 水害
――治水をめぐる工夫と信仰
1 平成26年広島豪雨災害
2 止雨を願う古代人
3 洪水と怪異伝承
4 防水害の合理と不合理
5 奔流に翻弄された村と人
第二章 地震津波
――常襲・避難・予知
 
1 平成23年東日本大震災
2 震う神、震える民衆
3 「海嘯」の記憶と教訓
4 大津波と高台移転
第三章 噴火・山体崩壊
――山の神の鎮め方
1 平成26年御嶽山噴火
2 噴火への恐れと信心
3 復興と開墾の険しい道のり
4 「崩れ」の物語
第四章 雪害・風害
――空から襲い来るもの
1 平成26年豪雪
2 「雪国」の不思議と難儀
3 落雷――「クワバラ」の由来
4 風害――神風からヤマセまで
 終章 災害と文化
 ――「悔恨」を継承するために
「あとがき」
「参考文献・引用文献」

 

序章「天災と国民性」では、ギリシャで生まれ、イギリスで育ち、アメリカを経由して、明治23年(1890年)4月に来日したラフカディオ・ハーン小泉八雲)が、英字新聞「神戸クロニクル」紙に「地震と国民性」という論説記事を発表したことが紹介されています。ハーンはそこで、絶えず自然災害に見舞われるという日本の風土が、特徴的な文化を生み出したのではないかという仮説をもとに、独自の日本人論を展開しました。


「天災列島、日本」として、著者は「曲折を経て、ハーンが過ごすことになった日本列島には、約2000の活断層があると推定される。近年でいえば、平成12年(2000)から平成21年にかけて日本付近で発生したマグニチュード5.0の地震は全世界の10パーセント、マグニチュード6.0以上の地震は約20パーセントにのぼる。台風、大雨、洪水、土砂災害、地震津波、火山噴火、豪雪など、さまざまな自然災害が発生しやすい地理的環境にあり、世界でも災害の発生率が非常に高い、そんな環境のもとで日本の歴史は刻まれてきた。つまり日本の社会や文化、日本人の民俗的な生活感情は、災害と切り放して考えることができないのである」と述べています。

 

また、著者は以下のようにも述べています。
「ハーンによると、日本の『物質的な存在』の特殊性は『不安定性』にあり、この特徴は、ほとんどすべての日本の建造物の『かりそめ』の性質で実証されているという。日本で最も神聖な神社とされている伊勢神宮でさえも、伝統にもとづいて、20年ごとに建て替えられる。日本人は、自然の不安定に人工的な不安定を対置させることによって、厳しく荒々しい環境条件に対処してきたようだ。環境の不安定については、『根気、忍耐力、環境への自己順応性といった類まれな国民の能力の形成を予想できるかもしれない。そして、これらの能力こそ、まさしく日本人の中に見出す資質である』というのだ」

 

第一章「水害――治水をめぐる工夫と信仰」の2「止雨を願う古代人」では、「生馬献上の習俗」として、農耕社会を営む日本人には農作物の成育に影響をおよぼす雨の量は大きな関心事だったと指摘し、著者は「旱魃は実りを妨げ、大雨や長雨は氾濫を呼び起こし、いずれの場合も生活を揺るがす問題となった。朝廷や幕府はそこで、神社へ幣を奉り、僧侶に降雨を祈らせて、『雨乞い』や『日乞い』をしてきた。日乞いとは雨乞いとは対照的に、雨が止むこと、空が晴れることを祈る儀礼で、『晴乞い』や『雨止め』ともいう。こうした雨乞い、日乞いを祈願するときには、牛や馬が神に捧げられた」と述べます。

 

また、「河上にいます神」として、水を司り、降雨を統べるため、さまざまな水神が列島の各地に祀られてきたことを指摘し、著者は「京都府京都市左京区の『貴船神社』は、その代表的な神社のひとつで、現在は京都の奥座敷として人気の観光地である。神社の周辺は夏でも涼しく、貴船川にせり出した川床料理屋が軒を連ねて風情を醸し出している。延喜5年(927)にまとめられた『延喜式』の「神名帳」(以下、『延喜式』と記して「神名帳」を指す)には『山城国愛宕郡 貴布禰神社』と記され、『祈雨八十五座』のひとつとされるなど、雨を司る神として信仰されてきた。全国に約450社ある貴船神社の総本社で、『高龗神』を祀る」と述べます。

 

長編童話 龍の子太郎

長編童話 龍の子太郎

 

 

3「洪水と怪異伝承」では、著者は「いまでは多くの人が住み、生活を営んでいる土地がかつては湖で、排水により土地を開いたと語る伝説や民話は少なくない。こうした開拓譚は、遠い過去に起こった災害の反映と想像される。たとえば長野県の安曇野や松本平も、湖が平野になったという」と述べています。また、「『龍の子太郎』の2つの側面」として、「児童文学者の松谷みよ子は、こうした民話をもとに長編童話『龍の子太郎』(1960年)を書いた。しかし『龍の子太郎』には、山を崩し、湖を決壊させることで、稲作が可能な土地ができたという耕地開発伝承の、2つの側面が表わされている」と述べます。



続けて、著者は以下のように述べています。
「龍の子太郎と仲良しの少女あやは、母竜に、山や谷へ一足先に飛んでいき、『水がくるからたかい山へにげるように、といいましょう』と言った。すると母竜も、こう答えた。山の形が変わって、新しい川がしぶきをあげて流れてくる、そして、新しい土地が生まれると、山に住む人たちに知らせてほしい。ひとりでも人が死んだり、けがをするようなことがないようにと願いを語った。このやりとりは、湖水を流出させることで新しい土地が生まれるいっぽうで、周辺の土地が水浸しになることを示唆している。そして、そうした事態を未然に防ごうとする警告が表現されているのである」



「霊獣と妖怪」として、著者は、水辺の妖怪の代表である「河童」には、いくつかの性格があることを指摘します。池や沼に馬を引きずり込んだ、通りすがりのものに相撲を挑んだ、悪戯をした許しを請うため詫び証文を書いて残したといったものです。こうした河童の怪異性のなかには、水への畏れ、水害に対する怖れも反映されていることを指摘し、著者は「水害で行方不明になったものの霊魂は、共同体や家族にとって大きな問題だった。かつての江戸市中では、川の上流から流れてきた水死体を神に祀りあげるという民間信仰もみられた。河童は水を司り、洪水をもたらす水神でもあったが、水にまつわる霊への、民衆の感情を形にしたものだった」と述べます。

 

津浪と村

津浪と村

 

 

第二章「地震津波――常襲・避難・予知」の4「大津波と高台移転」では、「南方熊楠と山口弥一郎」として、著者はこう述べています。
柳田国男の薫陶を受けた民俗学者で、三陸津波にだれよりもこだわったのは山口弥一郎だろう。山口は福島県会津美里町出身で、中学卒業後に小学校の教員となり、その後、磐城高等女学校教諭を務めながら東北の村々を調査した。はじめに地理学者で東北大学教授である田中舘秀三の津波調査の助手として、集落移動の実態聞き取り調査を担当。また柳田国男と出会って指導を受け、昭和18年(1943)には『津浪と村』を発表した。山口による調査と研究は、宮城県牡鹿半島から青森県下北半島におよび、明治と昭和の津波による被害だけでなく、その後の集落移動の問題、集落が再建される過程を明らかにした。彼は、戦争中も戦後の調査を続け、200以上の集落を20年以上にわたって追跡調査したのである」

 

第三章「噴火・山体崩壊――山の神の鎮め方」の2「噴火への恐れと信心」では、「活火山富士」として、著者は「標高3776メートル、年間20万人以上の登山者を誇り、平成25年(2013)にはユネスコ世界遺産「富士山――信仰の対象と芸術の源泉」の中心的構成資産となった富士山は、日本を代表する活火山である。(中略)富士山の古代における大規模な噴火は、平安時代初めの『延暦』と『貞観』に起こった。延暦19年(800)3月14日から4月18日まで、1か月以上にわたった噴火は、有史初めてのことである。昼は噴煙が空を覆ってあたりを暗くし、夜は噴き上げる火が天を明るく照らし出した。噴火音は雷のように大きく、灰は雨のように降り注いだ。溶岩は山下の川に流れ込んで、赤く染めたという」と述べています。



また、著者は富士山について、「古代の富士山の2度目の大噴火は、貞観6年(864)4月初旬頃で、大音響と地震をともなって火を噴き上げた。このときの噴火は10日あまり経っても勢いが衰えず、砂礫は雨のようで、噴煙が立ち籠めたという。溶岩流は西北に向かって本栖湖に流れ込み、その末端は甲斐国との国境にまで達した。焼かれた岩や草木を巻き込んだ土石流(溶岩流)は、本栖湖と『剗の海』を埋めた。剗の海は『万葉集』における「石花の海」で、このときの溶岩流により西湖と精進湖に分断されたといわれる。溶岩流は東側の河口湖にも向かった。この溶岩流の上に形成された森林が『青木ヶ原樹海』である」とも述べています。



さらに、富士山への信仰登山について、富士山への信仰登山は平安時代末期に始まり、室町時代には庶民のあいだでも盛んになり、代表を選んで祈願を託す「講」の仕組みを利用して、近世には江戸を中心に「富士講」が成立したとして、著者は「山頂で『御来迎』や『御来光(日の出)』を拝んだり、内院に鎮座する神仏を拝んで散銭(賽銭)したり、山頂部の宗教施設を巡拝する『お鉢めぐり(八葉めぐり)』をおこなった。道中には宿坊ができ、北口(吉田)には『御師』が出現した。御師は宿舎の提供だけでなく、教義の指導や祈禱、各種取次業務をおこなうなど、富士信仰の全般にわたる世話をした。富士講は、『江戸は広くて八百八町、講は多くて八百八講。江戸に旗本八万騎、江戸に講中八万人』といわれるほどに興隆し、関東・中部から、東北や近畿・中国地方など全国に広がり、各地に浅間神社が祀られ、富士山を模した富士塚が築かれた」と説明します。

 

第四章「雪害・風害――空から襲い来るもの」の2「『雪国』の不思議と難儀」では、「大雪は豊年の兆し」として、信州の南端、愛知県に境を接する長野県下伊那郡阿南町新野で、毎年1月14日、「新野の雪祭り」が行われることを指摘し、著者は「集落の南西の高台にある伊豆神社境内で、19種類の面形(仮面)に、作り物の駒、獅子頭、馬形、牛形などが加わり、朝まで繰り広げられる夜田楽である。この祭はもともと、『二善寺の祭り』などと呼ばれていたが、民俗学者折口信夫が『雪祭り』という名称を発案した。『祭りの当日に雪が降ると豊作になる』といい、雪を豊年の吉兆とみて、祭神に供えるため、新野に雪がないときは峠まで取りに行くということから、『雪祭り』と呼ぶのではどうかと提案したことによる」と述べます。

 

3「落雷――『クワバラ』の由来」では、「雷神の信仰と伝承」として、菅原道真を「雷の神」として畏怖し、祈願するのが天神信仰であると指摘し、著者は「天神は本来、土着の神である『国津神』に対して高天原から天降った『天津神』のことで、特定の神を指すものではなかった。しかし、延長8年(930)の清涼殿への落雷が、大宰府に左遷され、そこで死んだ道真の怨霊によるものとみなされ、朝廷はそれまで『火雷神』という地主神が祀られていた北野に天満宮を建立して、道真の祟りを鎮めようとした。また大宰府にも道真の墓所安楽寺天満宮、のちの太宰府天満宮が建立された。永延元年(987)には『北野天満宮大神』の神号が下され、さらに『火雷天神』と呼ばれるようになり、後に火雷神は眷属とされ、新たに『天満大自在天神』などの神号が確立した。こうして火雷神菅原道真に対する信仰が天神信仰として広まっていったのである」と述べています。

 

柳田国男全集〈3〉赤子塚の話
 

 

また、「雷獣の生態」として、怖ろしいことや不吉なことが起こらないようにと口にする「くわばら くわばら」が雷除けの言葉でもあることを指摘し、著者は「柳田国男の『赤子塚の話』のなかに『桑原の欣浄寺』という一節がある。雷が鳴るとき、『クワバラクワバラ』と唱えることは、ほぼ日本全体の風習で、どこでも似通った説明をしている。たとえば、かつて雷神が落ちたとき、鍬または桑の木で怪我をして懲りたからというもので、日向の南部では、桑の木に鎌を掛けてあるところに落ちて切られたという。また『桑原』という村の人と特別の関係があるからという説もある。下総桑原村の伝右衛門は、筑波山に登ったときから『雷様』と懇意になり、それからは雷が、彼の家へたびたびお茶を飲みに来るようになった。あるときには、夕立で茶の支度が間に合わなかったため、雷が怒って、台所へ七輪の湯を撒いたこともあったという」と述べています。

 

4「風害――神風からヤマセまで」では、「風の神の信仰」として、日本には数えきれないほど多くの「風」の名前があることを指摘し、著者は「沿岸部に暮らし漁業を生業とする人々にとって、海を往くために風向きが大きな関心事だったからである。それは川の民にとっても同様であり、田の民も天候の変化や季節の移り変わりを、「風」によって捉えてきたからである。柳田国男は『風位考』で『日本各地の風の名を比較して行くということは、単に国語の歴史を明らかにするためだけでなく、同時にその言葉を携えてあるいた人たちの、以前の生活を知る上にも、かなり大きな暗示であると思う』と述べる。また風は、稲作に欠かせない雨を運んでくれる。またいっぽうで、暴風として恐れられ、各地で『風の神』を祀り、『風祭り』がおこなわれてきた」と述べます。

 

また、「『風の又三郎』と『風祭』」として、日本の各地で、作物を風害から守るために祈願する「風祭」が行われてきたことを指摘し、著者は「太陰暦の8月1日を『八朔』と呼び、現在では月遅れ(相暦・中暦)の9月1日をいう。この時期に台風に襲われると不作になるので、風害が少ないようにと風祭が営まれた。群馬県利根郡片品村では、二百十日の前に風の神を祀り、太陰暦の6月におこなわれることが多い。新暦では7月にあたり、台風襲来の時期に祭を開いた」と述べます。

 

さらに、「三陸地方のヤマセ」として、著者は「形のない風とのつきあいはあらゆる民族が頭を悩ましてきたものである。日本列島に住む人々も風には難儀し、克服しようとしてきたのである。先述したように飢饉は風害だけが原因で起こるものではない。火山の噴火、河川の氾濫、地震といった災害が複合的に重なり合い、また政治的、社会的、経済的背景も影響して、あまりにも多くの人々を飢えと死にいたらしめてきた。そしてこうした複合的要因による飢餓状態は、日本列島ではほぼ克服されたものの、世界的視野で見るとき現在どこかで起こっているのである」と述べるのでした。

 

 

終章「災害と文化――『悔恨』を継承するために」では、「コミュニティと災害文化」として、災害工学研究者の室崎益輝は、共編著『市町村合併による防災力空洞化――東日本大震災で露呈した弊害』で、地域の紐帯の希薄化が災害文化の低下を招くと指摘した(「第6章 防災の原点としての自治と連携」)ことを紹介し、著者は「市町村の合併や広域化によって、それまで続いてきた地域としてのまとまりが、ミクロな関係性からマクロな関係性にとって替わられ、崩壊することが多い。伝統的な『講』(宗教や経済などをもとに集まった人々が結ぶ集団)や『結い』(多大な費用や労力を必要とする作業を共同でおこなう制度)のような、社会構造と経済構造が一体となった地域システムが壊れると、地域の自治や住民の自治が綻び、人のつながりも損なわれてしまう。市町村の合併は人口の流動を引き起こし、周辺部から中心部への流出が起きてコミュニティを弱めることにもなる」と述べています。

 

続けて、東日本大震災の被災地では、震災以前から地域の紐帯が希薄化していたので、コミュニティの分断や崩壊も顕著だったとして、著者は「紐帯が脆いと合意の形成が進みにくく、復興も容易ではない。地域における人と人との絆は、地域に密着したガバナンスから生まれるのだが、地域性を考慮しない合併が、絆を破壊していることを見逃してはならないと室崎は訴える。室崎はさらに、人と人の関係の崩壊は紐帯性の低下をもたらす一方、人と風土の関係の崩壊は文化性の低下をもたらすという。地域に密着して育まれてきた神社の祭礼は、収穫を祝うとともに、防災訓練の性格も持つものだった。日本の多くの地域では祭礼を通して、非常時に必要なチームワークを醸成し、滅災に必要なロープワークなどの技能を磨いてきたという」お述べます。

 

また、著者は以下のようにも述べています。
「こうした災害文化のひとつに『地名』も挙げることができるだろう。地形や歴史に基づき、ある場合には災害の記憶を継承するために名づけられた地名も、平成の市町村の合併や広域化により失われていった。土砂災害そのものを表わし、また地名にもなった『蛇抜』や『蛇崩』、広島の八木地区をずっと見てきた『蛇落地』の観世音菩薩像のことも思い起こさずにいられない。災害が起こるたび地名と地形への関心が高まり、『災害地名本』が発売されて注目を浴びる。しかし一過性のブームにとどまり、ほんとうに心にとめておく人はそれほど多くはないようだ」

 

そして、「『行方不明者』の行方」として、著者は哲学者の内山節の言葉を借りながら、「伝統的に日本の社会は、自然と生者と死者を含む人間の社会だった。しかし現在では自然とともにこの社会をつくっていると感じられる仕事や暮らしをしている人は少なく、多くの人にとって、自然は遠い存在になったにもかかわらず、『自然が支えているからこそこの社会も成立していると感じる』と内山はいう。さらに内山は、長い時間とともに受け継がれてきてこの社会の基層的な精神となっている『自然へのまなざし』や『死者への視点』は、簡単には消え去らないと述べる。こうした『自然』のなかには、『気象』や『天災』も当然含まれるだろう。雨や風、地震津波、火山の噴火、山崩れといった災害も、静まるように呼びかけていたとおり、自然現象を越えた共同体の一員として、日本人は遇してきたのである」と述べるのでした。

 

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

 

 

拙著『唯葬論』(サンガ文庫)の中で展開したように、わたしは生者は死者から支えられて生きていると考えています。伝統的に日本の社会は、自然と生者と死者を含む人間の社会でした。長い時間とともに受け継がれてきてこの社会の基層的な精神となっている「自然へのまなざし」とともに、「死者へのまなざし」も消えはしないのです。本書を読んで、そのことを再確認しました。

f:id:shins2m:20190605102031j:plainNHKニュース(2019年6月4日夕方)より

f:id:shins2m:20190605102848j:plain
NHKニュース(2019年6月4日夕方)より

 

また、ブログ「北九州市災害時支援協定調印式&記者会見」で紹介したように、2019年6月4日、北九州市とわが社サンレーの間で「災害時における施設の使用に関する協定」の締結をしました。テレビ各局のニュース、新聞各紙でも大きく報道されましたが、避難所となった小倉紫雲閣小倉北区)、北九州紫雲閣(八幡西区)ともに、2020年9月6日の早朝から多くの方々が避難されています。わたしはもともと、北九州市には高齢者が多く、安定した避難所が必要と考えていましたので、避難所開設で市民のみなさんに安心していただけたら幸いです。

f:id:shins2m:20190605134142j:plain
毎日新聞」2019年6月5日朝刊

f:id:shins2m:20190605131900j:plain
「読売新聞」2019年6月5日朝刊

 

両施設はバリアフリーですし、広いのでソーシャルディスタンスの観点からも安心です。乳幼児を抱えるお母さんが、周囲に気兼ねなく利用できるよう授乳などで使える個室も備えています。大きな駐車場もあり、車での避難も可能です。冠婚葬祭サービスの提供に加えて、災害の避難所を提供させていただくことで、わが社は真の意味での「互助会」になれると思っています。また、「セレモニーホール」が「コミュニティホール」へと進化できると考えています。その意味でも、本書の内容は非常に興味深かったです。最後に、台風10号の被害が少ないことを祈っています。

 

天災と日本人: 地震・洪水・噴火の民俗学 (ちくま新書 1237)

天災と日本人: 地震・洪水・噴火の民俗学 (ちくま新書 1237)

 

 

2020年9月7日 一条真也

送魂

f:id:shins2m:20200818153148j:plain

 

一条真也です。
わたしは、これまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は、「送魂」という言葉を取り上げることにします。

 

永遠葬

永遠葬

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2015/07/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

わたしは思うのですが、葬祭業とは一種の交通業ではないでしょうか。その本質は「この世」というA地点から「あの世」というB地点にお客様をお送りすることだからです。「あの世」という目的地は、浄土、天国、ニライカナイ、幽世(かくりよ)などなど、さまざまな呼び方をされます。わたしは、まとめて心の理想郷という意味で「ハートピア」と呼んでいますが、ハートピアへ行くには飛行機、新幹線、船、バス、タクシー、それにロケットと数多くの交通手段があるのです。それが、さまざまなお葬式です。

 

「あの人らしかったね」といわれる 自分なりのお別れ<お葬式>

「あの人らしかったね」といわれる 自分なりのお別れ<お葬式>

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2007/05/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

新幹線しか取り扱わない旅行代理店など存在しないように、魂の旅行代理店としての葬祭業も、お客様が望むなら、あらゆる交通機関のチケットを用意するべきなのです。そして、セレモニーホールの本質とは、死者の魂がそこからハートピアへ旅立つ、魂の駅であり、魂の港であり、魂の空港であると言えます。



「葬送」という言葉がありますが、今後は「葬」よりも「送」がクローズアップされます。「葬」という字には草かんむりがあるように、草の下、つまり地中に死者を埋めるという意味があります。「葬」にはいつまでも地獄を連想させる「地下へのまなざし」がまとわりついているのです。一方、「送」は天国に魂を送るという「天上へのまなざし」へと人々を誘います。



わたしが提唱し、実行している「月への送魂」などの新時代セレモニーによって、お葬式は「お送式」、葬儀は「送儀」、そして葬祭は「送祭」となるのではないでしょうか。なお、今年も10月1日の仲秋の名月の夜にサンレーグランドホテルの中庭で「月への送魂」が行われる予定でしたが、新型コロナウイルスの感染予防の観点から中止となり、まことに残念です。

 

 2020年9月6日 一条真也

死を乗り越える空海の言葉

f:id:shins2m:20200818154426j:plain


生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死んで死の終りに冥し(空海

 

一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、空海(774年~835年)の言葉です。空海平安時代初期の僧で、「弘法大師」として知られる真言宗の開祖です。日本天台宗の開祖である最澄と共に知られ、嵯峨天皇橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられています。

 

超訳空海の言葉

超訳空海の言葉

 

 

「生れ生れ生れて生の始めに暗く 死に死に死んで死の終りに冥し」は、空海の『秘蔵宝錀』に出てくることばです。人間は誰しも暗闇の中から生まれてきて、死ぬときはまた暗闇に帰っていく。なぜ、人は生まれて、死ぬのか? それは誰にもわからないという意味です。わが家の宗派は真言宗であり、空海はいつか真正面から取り組んでみたい聖人でした。つねづね、わたしは「空海ほど凄い人はいない」と思っていました。それで、『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)という監訳書を上梓しました。

 

 

また、かつて、わたしは『図解でわかる!ブッダの考え方』(中経の文庫)という本を書きましたが、ブッダが開いた仏教と、わたしたち日本人が信仰している仏教は根本的に異なる宗教であると考えています。インドで生まれ、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わってきた仏教は、聖徳太子を開祖とする「日本仏教」という一つの宗教と見るべきです。


日本一の弘法大師像の下で世界平和を祈念する

 

「太子信仰」という言葉に象徴されるように、聖徳太子を巡る伝説は多いことで知られます。まさに日本の歴史に燦然と輝く存在ですが、その聖徳太子に勝るとも劣らない超大物がもう一人います。「お大師さま」あるいは「お大師さん」として親しまれ、多くの人々の信仰の対象ともなっている弘法大師空海です。なお、この言葉は『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)に掲載されています。

 

死を乗り越える名言ガイド 言葉は人生を変えうる力をもっている

死を乗り越える名言ガイド 言葉は人生を変えうる力をもっている

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2020/05/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

2020年9月6日 一条真也拝