『世界史を変えた13の病』

一条真也です。
5日、北陸から九州に戻りました。
史上最大級といわれる台風10号の襲来が心配です。
125万部の発行部数を誇る「サンデー新聞」の最新号が出ました。同紙に連載中の「ハートフル・ブックス」の第148回分が掲載されています。取り上げた本は、『世界史を変えた13の病』 ジェニファー・ライト著、鈴木涼子訳(原書房)です。

f:id:shins2m:20200902220548j:plainサンデー新聞」2020年9月5日号

 

新型コロナウイルスの猛威が衰えません。わたしの本業は冠婚葬祭業ですが、結婚式の予定者は挙式を延期し、家族が新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなられた方にいたっては最後のお別れもできません。まさに、グリーフケアが求められる時代です。

 

コロナ禍の中で、わたしは疫病に関する本を少なからず読んだのですが、その中の1冊が、ニューヨーク在住の作家が書いた本書です。腺ペスト、天然痘結核コレラハンセン病、腸チフス、スペインかぜ、ポリオなどの人類に大きな恐怖を与えてきた病についての興味深いエピソードが紹介されています。

 

特にわたしは、梅毒についてのエピソードが心に残りました。19世紀のロンドンには、梅毒で鼻を失った人々の「鼻なしの会」という互助会が存在したそうです。「鼻なしの会」を作ったのは、ミスター・クランプトンという紳士でした。多くの患者を集め、「人数が増えるにつれて、参加者の驚きは増していき、慣れない気恥ずかしさと奇妙な混乱を感じながら互いに見つめあった。まるで罪人が仲間の顔に自身の罪を見たかのように」と書かれています。

 

悩みを分かちあえる相手とついに出会えた彼らは、社会のほとんどの人が名前を口にすることすら恐れている病気について、他人と語ることができました。メンバーの多くが、鼻がないのをできるだけ隠すことに多くの時間を費やしていたことでしょう。彼らはまたたく間に仲良くなり、冗談を言い始めたそうです。

 

「おれたちが喧嘩を始めたら、どれくらいで鼻血が出るかな?」「いまいましい。この30分、どこを探しても見当たらない鼻の話をするのか」「ありがたいことに、おれたちには鼻はないが口はある。テーブルに並んだごちそうに対しては、いまのところ一番役に立つ器官だ」などと言い合い、大いに笑い合ったというのです。

 

わたしは、グリーフケアを研究・実践しています。グリーフは死別をはじめ、名誉や仕事や財産などを失うこと、そして身体的喪失にも伴います。顔の中心である鼻をなくすというのは、どれほどその人に絶望を与えたことか。しかも、鼻を奪った梅毒が代表的な性病であることは、当人の社会的地位や個人的名誉も大いに傷つけたと思います。その絶望の深さは想像もできません。

 

おそらく、「鼻なしの会」のオリジナルな英語名は“NO NOSE CLUB”ではないかと思いますが、このギリギリのユーモアはグリーフケアにおいて大きな力を発揮したのではないでしょうか。かつて、巨大な悲嘆を与えられた人々を救おうとした試みがあったことに、わたしは非常に感動しました。

 

世界史を変えた13の病

世界史を変えた13の病

 

 



2020年9月5日 一条真也

『神になった日本人』

神になった日本人-私たちの心の奥に潜むもの (中公新書ラクレ (687))

 

一条真也です。
5日、北陸から九州へ戻ります。
史上最大級とされる台風10号が心配です。
『神になった日本人』小松和彦著(中公新書ラクレ)を読みました。「私たちの心の奥に潜むもの」というサブタイトルがついています。著者は1947年東京都生まれ。民俗学文化人類学者、国際日本文化研究センター名誉教授。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程修了。専攻は文化人類学民俗学信州大学助教授、大阪大学教授、国際日本文化研究センター教授、同センター所長を歴任。日本の歴史・文化の周縁に姿をくらます鬼・異人・妖怪などを手がかりに、日本人の心の奥底に潜むものを探る研究を続ける。2013年紫綬褒章受章。2016年文化功労者

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には、歌川国芳画「百人一首 崇徳院」の「讃岐に流され、怨霊化を決意する崇徳院」の絵が使われ、帯には「誰が、なぜ、いつから、かれらを『神』として祀り上げてきたのか?」「空海、将門、崇徳院、家康、西郷――11人の日本史のヒーローたち」と書かれています。

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本書の帯の裏 

 

また、カバー裏表紙には弘法大師空海肖像画が使われ、帯の裏には「古来、日本人は実在した人物を、死後、神として祀り上げることがあった。空海安倍晴明平将門崇徳院後醍醐天皇徳川家康西郷隆盛、そして名もなき庶民たち――。もちろん、誰でも神になれるわけではない。そこには、特別な『理由』が、また残された人びとが伝える『物語』が必要となる。死後の怨霊が祟るかもしれない、生前の偉業を後世に伝えたい――。11人の『神になった日本人』に託された思いを探りながら、日本人の奥底に流れる精神を掴みだすとしよう」と書かれています。なお、本書は『神になった人々』(2001年10月 淡交社)、『NHK知るを楽しむ この人この世界 神になった日本人』(2008年8月 NHK出版)を底本として、大幅に加筆・再編集したものです。新書化に際して、「まえがき」「弘法大師空海」「終章」「あとがき」が書き下ろしで加えられています。

 

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「まえがき――神社には何が祀られているのか」
序章――人はいかにして神になるのか

一部 見えざる「力」を借りるために――顕彰神

1章 藤原鎌足 
談山神社(奈良)
密談の地に鎮まる最初の人神
2章 弘法大師空海 
高野山奥之院(和歌山)
仏に選ばれた天才
3章 安倍晴明 
晴明神社(京都)
呪術に長けた陰陽師への憧憬
4章 楠木正成 
湊川神社(兵庫)
発見された忠臣のシンボル
5章 豊臣秀吉 
豊国神社(京都)
神になることを望んだ天下人
6章 徳川家康 
日光東照宮(栃木)
東国から全国を照らす神
7章 西郷隆盛 
南洲神社(鹿児島)
思慕と敬愛の「記憶装置」

二部 ひょっとしたら祟るかもしれない――祟り神

8章 崇徳上皇 
白峰寺(香川)白峰神社(京都)
黄金に輝く「天狗の棟梁」
9章 後醍醐天皇
天龍寺(京都)吉野神宮(奈良)
北朝を望む、南朝の遺魂
10章 佐倉惣五郎
東勝寺宗吾霊堂(千葉)
怨霊から顕彰神となった義民
11章 平将門
将門塚・神田神社(東京)
日本資本主義の中核に眠る、反権力のシンボル
終章――なぜ人びとは、
    死者の「たましい」を祀るのか
「あとがき」
「主な参考文献」
「図版・写真クレジット」

 

「まえがき――神社には何が祀られているのか」では、著者は「人が神になるためには、残された人びとに生前のその人に対する畏敬や畏怖の念がなくてはならず、また現世の支配原理も大きく関与してくる。そして、何よりも後世にも伝わる事績をめぐる『物語』が必要となる。日本人にとって、死者の『たましい』とは、亡くなった人の『物語』なのである。そしてその物語をしっかり記憶し永続させるための『記憶の依代』(記憶装置)として数多くの神社が建てられたのだ」と述べています。

 

また、著者は以下のようにも述べています。
「『人神』を支える観念は、わたしたちがいだく『神観念』と通底し、かつ重要な一角を成しているということは間違いない。いや、むしろ日本人の神観念がダイナミックに展開するのは、『人神』を生み出すときではないだろうか。わたしはこれらの『人神』を論じるにあたって、『物語』『顕彰』『記念・記憶装置(信仰施設)』『支配』『勝者』『敗者』などをキーワードにしながら探求を進めた。そのなかでもとくに重視したのは、『物語』である」

 

「序章――人はいかにして神になるのか」では、「若宮」という言葉が突然出てきてドキッとしました。というのも、ブログ「若宮紫雲閣・宮田紫雲閣開業清祓祭」で紹介したように、わが社は若宮紫雲閣をオープンしたばかりだからです。神事を執り行っていただいた若宮八幡宮宮司さんは一風変わった印象でしたが、怨霊封じの神社だったのですね。著者は、「『若宮』という呼称は、『御霊』とほぼ同じ意味合いをもった語である。この『若宮』のなかには、例えば、『菅原道真』の霊を祀った『北野天満宮』(京都市)や『山家清兵衛』を祀った『和霊神社』(愛媛県宇和島市)などのように、その後信仰が成長して独自の神名を獲得したものもある」と述べています。

 

また、「人神の誕生――祟らなければ神になれない」として、著者は「わたしたちにとって重要なのは、人を死後になんらかの理由で神格化し、結果として、その人物のための祭祀施設を設けることであって、その『神格』を『神』と呼ぼうと、『仏』と呼ばうと、あるいは『霊』とか『霊神』と呼ぼうと、いっこうにかまわないのだ。神道系の宗教者がその祀り上げに深く関与すれば『神』になるが、仏教系の宗教者の場合には『仏』(つまり大日如来とか毘沙門天の化身)になって『仏堂』に祀られるというわけである」と述べています。

 

さらに、「『人神』と『祖霊』は異なるもの」として、著者は「人を神として祀る習俗の古層にあるのは『祟り』という観念であって、祟ることがないような死者の霊は、『子孫』という枠を超えた多くの人びとから『神』として信仰されることはなかったのである」と説明します。ところが、時の流れ・歴史の歩みとともに、人を神として祀る習俗にもさまざまな変化が生じたとして、「遺念余執を残して死んだとは思われないような人、というより、立派な業績を残し天寿を全うして死んだような人も、やがて『神社』や『堂』をつくって神(仏)として祀られるようになった。為政者や民衆の意識に変化が生じたのである」と述べます。それが後発のタイプの「神になった人びと」です。

 

いま、後発のタイプの「神になった人びと」と言いましたが、「人神には二つのタイプがある」として、著者は「祟り神」系の「人神」、「顕彰神」系の「人神」を区別します。これを歴史的視点から見ると、信仰の古層にあるのは「祟り神」系であって、その派生系として「顕彰神」系の「人神」が生まれてきたことになります。そこには、人々の意識の変化がありました。つまり、「人神」思想には「祟り鎮め」の機能だけでなく、「記念・記憶装置」という機能もあることに気づいたのです。

 

「神になった人びと」もいれば、「神になれない人びと」もいました。神になれない人びとの「たましい」は、おおむね三十三年忌から五十年忌をもって「個体」としての性格を失い、「先祖」という「集合的なたましい」のなかに組み込まれてしまいます。この最終的年忌を「弔い上げ」などと呼びますが、これは死者たち個々人についての記憶が途切れる時期とおおむね重なるとして、著者は「人びとの記憶から特定の死者についての記憶が消え去ったときが、いわばその人の『たましい』の消滅であった。これを乗り越えて100年後、200年後、未来永劫にその『たましい』を存続させようとするならば、その人についての記憶が後世の人びと、にしっかり引き継がれ、保たれ続けなければならない。『社』とそれに付随する諸要素は、そのためのもっとも有効な装置だったわけである」と説明します。



「祀り上げる担い手たち」として、著者は「古くは、祀り上げられた『神』は、『祟り神』系が主流を占めていた。『祟り』とは、天変地異や疫病の流行、凶作など、さまざまな『災厄』を『霊的存在』の怒りや怨念のせいにする思想であった。したがって、『祟り』が生じたと判断されたときには、為政者も民衆もともにその『祟り』を鎮めるために『社』を建立した。為政者にとってはとくに、それが政情を安定させる最良の方策であった」と述べています。ところが「顕彰神」系の「社」は、為政者が自分たちの政治運営に役立つと考えた結果、登場してきたものであるとして、「とりわけ人心を支配するための道具の一部として、明治時代は積極的に『顕彰神』系の神社が国家によって創建された」とも述べます。その先陣を切ったのが「楠木正成」を祀った「湊川神社」(兵庫県神戸市)でした。


これに対して、政争に敗れた側、あるいは民衆の側からも「顕彰神」が積極的に創り出されたとして、著者は「西郷隆盛」を祀った「南洲神社」、「お竹」を祀った「お竹大日堂」(山形県鶴岡市)などを挙げ、「その性格はかなり異なるが、いずれも民衆がその『人神』化に深く関わっていた。もう1つ重要な点を指摘しておきたい。それは、生きている人でも周囲から『神』とみなされることがあった。さまざまな奇跡を起こせる者は、『神』や『仏』の化身とみなされ、生きた状態で信仰されることがあった。いわゆる『生き神様』で、この『生き神』信仰と死後に『神』に祀り上げる信仰とは、表裏一体と言えよう」と述べるのでした。



一部「見えざる『力』を借りるために――顕彰神」の1章「藤原鎌足」では、藤原氏の始祖ゆかりの墓・寺院であった多武峯寺について、「ほんとうの被葬者が誰であれ、多武峯寺の僧侶と信徒たちは、古代から近世にわたる数百年間、藤原鎌足という歴史上の偉人の墓を守り続け、その神像を崇敬し続けたのである。神仏習合とはいえ、あくまでも仏教主導の多武峯寺という場においても、鎌足その人に対するかれらの思いは強固だったのだろう。明治初年の『神仏分離』の際に、ある意味ですっきりと藤原鎌足を祭神とする神社、すなわち『人神神社』に転換しえた理由は、そんなところにあるのかもしれない。明治2年(1869)6月、大祓式をもって『談山神社』が誕生した。天皇に尽くした忠臣・藤原鎌足とその二人の息子を賞賛・顕彰する、明快な『顕彰神』系の人神神社である」と書かれています。



2章「弘法大師空海」には、「空海のように神格化されて信仰の対象になった高僧・宗教者は極めて少ない。わずかにこれに似た人物として、修験道の祖・役行者比叡山中興の祖で横川の四季講堂に祀られている元三大師、陰陽師安倍晴明などが想起されるが、弘法大師ほど広範かつ民衆の生活のなかに浸透してはいない。明治以前の神仏が習合していた時代に、はたしてどのくらい明確に仏教と神道陰陽道などが人びとに区別されて認識されていたかは定かでないが、空海は明らかに仏教風に祀られた『神』であった」と書かれています。


超訳 空海の言葉』を持って金剛峯寺の正門に立つ 

 

空海が開いた高野山には奥之院がありますが、著者は「高野山弘法大師信仰を広めるのに多大な役割を果たした高野聖の活動の1つとして見逃せないのは、奥之院への納骨の習俗である。現在の奥之院を参詣すればわかるが、奥之院の入り口から弘法大師の廟所までの参道の両脇には古今の著名な貴族や武将・大名、大小の企業から庶民に至るまでさまざまな墓碑や慰霊碑がおびただしく立ち並んでいる。奥之院は弘法大師の廟、つまり墓があるだけでなく、全国各地から分骨あるいは改葬された死者たちの集う広大な墓地でもある。奥之院の聖性はこうした還碑・慰霊碑群がつくり出す異様な光景からも醸し出されていると言えるだろう。仏教寺院としては特異な、全国から故人の骨を集めるという納骨の習俗も、弘法大師信仰と無縁ではない」と述べています。


高野山の奥之院にて

 

奥之院は弘法大師兜率天弥勒のもとに赴き、やがて弥勒とともにこの世に現れるという再生を約束された聖地でありでした。そのような場で死者の追善供養や年忌法要などの行事を営むことは、弘法大師とともに再生を願う思惑もあったのだろうと推測する著者は、「高野山弘法大師のありがたさを説き、高野山への納骨を勧め、ときには遺族をそこに案内し、また遺族に代わって納骨をおこなったのも、高野望であったにちがいない。弘法大師を庇護した嵯峨天皇が亡くなったとき、その柩が高野山に飛び去り、そこで荼毘に付されたという伝説が生みだされたのも、葬送・納骨の地としての高野山の名声を高めるためだったと思われる」と述べています。



3章「安倍晴明」では、京都の晴明神社が取り上げられ、「京都の人びとにとって晴明ブームが起こる以前の晴明神社は、子どもが生まれたときの姓名判断を仰ぐ神社と知られる程度で、境内は閑散としていた。その頃は、晴明神社の社号が平安時代に活躍し天文博士となった官人陰陽師安倍晴明にちなむものであり、またその霊を祀る神社であることもほとんど忘れられていた。実際、この神社をわたしが訪問した頃は、京都の観光地に詳しいはずのタクシーの運転手さえ、晴明神社がどこにあるのか知らなかったのである」と書かれています。

 

陰陽師 1 (ジェッツコミックス)

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ところが、1990年代、事態は一変します。晴明を主人公にした夢枕獏の小説『陰陽師』をマンガ化した岡野玲子の『陰陽師』が大評判となり、テレビドラマや映画にもなりました。さらには平昌オリンピックで羽生結弦が金メダルを獲ったときのフリーの楽曲「SEIMEI」が野村萬斎が主演した映画「陰陽師」の劇中曲だったことから、さらに晴明への関心が高まりました。著者は、「その勢いが京都の晴明神社にまで及び、晴明神社は晴明の『聖地』として多くの参拝者が押し寄せることになったのだ」と述べています。

 

 

4章「楠木正成」では、江戸時代の中期になって、正成の墓は知識人たちに発見され、かれらの祭祀の対象となってくる様子が描かれます。その背景は言うまでもなく、中世から広く流布していた『太平記』の影響がありますが、近世になって、その『太平記』から主として2つの事柄が抜き出され、誇張して語られるようになったとして、著者は「1つは、そのゲリラ戦法が中世末期から近世初めの兵法家たちの注目を集め、『楠流兵法』と称する兵法家・軍学者を輩出した、ということである。戦国の世になって、『太平記』は兵法書になったのである。もう1つは、儒学者国学者が忠孝の、さらには勤王の模範として正成一族を再発見したことである。とりわけ国学者たちは、正成を忠臣の大先人として尊崇し、神格化していった。そして、その遺跡としての墓が脚光を浴びることになったのである。火付け役となったのは水戸藩主・徳川光圀であった。光圀は南朝を正統とする大義名分論に立つ『大日本史』を編纂し、湊川にあった正成の遺骸を葬ったという塚を改修し、大きな墓碑を建て、『鳴呼忠臣楠子之墓』と自筆の文字を刻ませたのである。この頃から忠臣・正成のイメージが知識人のあいだに形成され、のちにそのイメージはますます肥大していった」と述べています。



また、「楠公の物語がもたらした尊王攘夷の思想」として、著者は以下のように述べるのでした。
「正成を『楠公』として発見し、崇敬してゆく歴史は、尊王・倒幕の思想と運動の歴史に重なる。さらには尊王の志をもった者がそのための犠牲となったとき、その鎮魂方法の創出の歴史とも重なっている。天皇のために亡くなった忠臣の魂は、天皇が祀り鎮めなければならない。そうした考えが生まれてきたのである。楠木正成らの祭祀も基本は同様の考えに基づいている。ところが、近代の天皇国民国家の成立以後、それまでは尊王・倒幕のための結集のシンボル、言い換えれば主体的なシンボルであった正成が受動的なシンボルへ、さらに言えば新政府をつくるためのシンボルから新政府に奉仕させるためのシンボルへと変質させられてしまうのである。それがアジア・太平洋戦争(1931-1945)時には、最大限に膨らむことになる。忠臣は負けるとわかっているような戦場にも出かけて潔く死んでゆく、それが国(君)に対する忠義だ、というわけである。わたしが幼い頃にさまざまな媒体を通じて刷り込まれた、あの『正成像』である」



5章「豊臣秀吉」では、「『自ら神になる』という思想」として、豊臣秀吉(1537-98)は、「死後ただちに、自分の霊が神として祀られること」を生前に自ら望んだ、日本史上初めての人物であると指摘されています。著者は、「少なくとも、そう望んだ最初の権力者である。しかも秀吉は死の床で、自分の死後の扱いについて具体的な指示まで出していた節がある。そのような発想はそれまでの日本にはなかったし、事実、権力をほしいままにしたまま亡くなった天皇や貴族、武将のなかで、死後ただちに『神』に祀られた例は1つもなかった」と述べています。歴史上「神」として祀り上げられた人物の多くは、例えば早良親王菅原道真平将門など、「怨霊」となった「敗者」たちです。しかもかれらがそう望んでいたわけでも、死後すぐに「神」になったわけでもありません。死後数年か数十年かが経ってから、神に祀り上げなければならないと判断される特別な事情が生じた結果、人びとが祀り上げたのでした。



6章「徳川家康」では、「秀吉から家康へ」として、元和2年(1616)4月初め、臨終の床にあった家康は、側近の本多正純およびブレーンの宗教者2名、すなわち南禅寺金地院の崇伝(臨済宗)と叡山南光坊の天海(天台宗)の3名を枕頭に呼んで、「私が亡くなったときには、遺骸は駿河久能山に埋葬し、葬式は芝の増上寺でおこない、位牌は三河大樹寺に立て、一周忌を過ぎたときに、日光に小さな堂を建てて私を勧請せよ、そうすれば関八州の鎮守となろう」(崇伝の日記『本光国師日記』)と遺言したことが紹介されます。著者は、「家康は、死後は「神」となることをはっきりと表明している。おそらく事前の相談や検討をふまえて、家康自身が最終的に出した結論であろう。その直後の元和2年4月17日、徳川家康駿府城に没した。享年75。当時としては異例の長寿であった」と述べています。



日本人にとっての「英雄」といえば、秀吉・家康の前に信長がいます。その信長の場合も、フロイス『日本史』によれば、本能寺での突然の死のため不明な部分は残るものの、生前、自らが単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望し、その欲望を実現すべく安土城内に掲見寺という寺を建立した、という証言があります。著者は、「とすれば、戦国末期に相次いだ3人の天下人がともに、しかも歴史上かれらだけが、自らを神格化しようとしたことになる。それはなぜなのか。わたしはその理由について、宗教の問題、より正確には対仏教勢力の問題があったと考えている。武将として天下人を目指す過程でも、また統一政権の統治者の立場からも、信長・秀吉・家康がいつもっとも頭を悩ませていたのは仏教勢力、とりわけ、農民や商人層に浸透し、前世紀以来、東海・北陸・近畿を中心とする一大勢力に成長していた一向宗浄土真宗本願寺教団)であった」と述べています。



宗教勢力との戦いは、武士団同士による戦とは違って、徹底的かつ長期間にわたるものになります。教えに殉じて妥協や降伏をせず、死を恐れずに戦うからですが、著者は「地方の小領主なら、一揆勢力を根絶するまで戦う選択肢もあるかもしれない。しかし信長・秀吉・家康の3人の場合は、奥州から九州に至る『天下統一』という未曾有の大事業に挑んでいた。そんなときに、あちこちで一揆が頻発し、泥沼化しているようでは成就しない。つまり弾圧するだけでは何も解決しないのである」と述べます。そこで彼らは、否が応でも、宗教勢力を武力によらずに抑えつつ天下統一を遅滞なく進め、成就の暁にはそれを維持する方法を考え出さざるを得なくなりました。そして、信長あるいは秀吉によって発見されたその方法こそ、権力者自身がすべてを超越する宗教的な存在になること、言い換えれば「神」になることであったとして、著者は「そう考えれば、天下統一が史上初めて現実のものとなった戦国末期の時代にだけ、天下人が『神』に祀られる現象が起きていることも説明できるのではなかろうか」と述べるのでした。


西郷隆盛の巨大銅像

 

7章「西郷隆盛」では、さまざまな西郷伝説を紹介した後で、それらの伝説で大事なことは、人びとの心のなかに噂を受け入れる素地があったこと、言い換えれば、人びとが西郷隆盛という人間の「記憶」をもち続けたということであろうとして、著者は「維新の元勲でありながら賊徒として死ななければならなかった『悲劇の英雄』としての、あるいは、清廉で無欲な『人格者』としての、西郷の記憶である。そして、『西郷伝説』が世間ではさほど語られなくなっても、その記憶をずっともち続けようとする一定の人びとが存在すれば、やがて西郷という偉大な人間を末長く顕彰し、その記憶を定着させるためにふさわしい形式をもった施設をつくろう、という動きが出てくるのは自然な成り行きであろう。西郷隆盛主祭神として祀る『南洲神社』(鹿児島市上竜尾町)は、まさにそのようにして創建された神社である」と述べています。


西郷銅像をバックに・・・

 

二部「ひょっとしたら祟るかもしれない――祟り神」の8章「崇徳上皇」では、崇徳上皇崇徳院〔1119-64〕)を、日本史上最大級の怨霊として後世に名を残した天皇として紹介し、「これに比肩できるのは、早良親王追号崇道天皇)や菅原道真の怨霊くらいであろう」と書かれています。早良親王光仁天皇の第二皇子で、実兄である桓武天皇の皇太弟となりましたが、政敵暗殺事件に関与したとして廃太子となり、淡路への配流の途上、抗議のため自ら飲食を断って絶命しました。また菅原道真は、学才によって頭角を現し、右大臣に取り立てられるという破格の出世を遂げますが、讒言にあって大宰府に左遷され、そこで失意のうちに没しています。



三者はともに、京での政争に敗れ、あるいは陰謀によって追い落とされて、西国に配流されたという共通点があります。しかしながら、怨霊としての性格は崇徳上皇と後二者とでは異なっているとして、著者は「早良親王菅原道真は、確かに悲運に見舞われ悲惨な目にもあったが、だから怨霊になってやろうなどとは思っていなかった。怨霊化したのは、ひとえに、かれらを追い落とした勢力、すなわち勝者の側の『後ろめたさ』に由来するのである。世を騒がせる怨霊のほとんどは、このケースだと言ってよい。これに対して崇徳上皇の場合は、何と生前から、死後は怨霊となって自分を除いた者たちに復讐しようと決意していたのである。すなわち崇徳上皇は、天下滅亡を呪詛した文言を記した、自らの血で書写した五部の大乗経を残していたのである。それまでの歴史をながめても、このような『生前に死後の怨霊化を決意した』人物はいない。その意味で、崇徳上皇はまったく特異な怨霊なのである」と述べています。



崇徳上皇の怨霊が取り沙汰されるようになったのはいつ頃からか。怨霊発生の温床について、著者は「亡くなった者は自分を怨んでいるだろう。その恨みの深さゆえに、なんらかの方法で復讐しようと、怨みをはらそうとしているだろう。あの世から災厄を送りつけてやりたいと思っているだろう」という勝者側の思いの中にあるといいます。つまり怨霊は、勝者=加害者側の「償い」「後ろめたさ」「弱み」の念のなかに、あるいは敗者の非業の死に同情する人びとの心のなかに生まれてくるというのです。著者は、「勝者側やその近辺に生じた災厄や不幸を、非業の死を遂げた者の霊の仕業だと判断したとき、怨霊の『祟り』が発生することになる。崇徳上皇の場合も同様であった」と述べるのでした。



9章「後醍醐天皇」では、著者はこう述べます。
「怨霊を発生させるのは、怨霊を信じる側に原因がある。また、怨霊は赤の他人の前に出没することもない。怨霊は生前に親しい関係にあって、政争を繰り返した末に勝った者の『後ろめたさ』を媒介として勝者の心のなかにまず発生する。それが多くの人びとに共有されることで社会的事実としての怨霊となる。要するに、尊氏・直義の兄弟や夢窓国師は、後醍醐天皇に後ろめたさを感じていたのである。その『後ろめたさ』が怨霊を呼び出し、天龍寺を建立させ、その後もずっと室町幕府後醍醐天皇追善の法要を続けさせることになったのであった。それが後醍醐天皇の祟りから逃れる最善の方法とみなされたからである」

 

「終章――なぜ人びとは、死者の『たましい』を祀るのか」の冒頭を、著者は「人を神に祀るいわゆる人神祭祀は、とても多様である。国家から地方あるいはムラ、さらにはイエに至るまで、さまざまなレベルで見出される」と書きだしています。また、人神には大きく分けて「怨霊系」と「顕彰神系」の2つのタイプがあり、両者はとても対照的な性格をもっていることを指摘し、「この違いは日本人の『神観念』あるいは『霊魂観』のコペルニクス的とも言うべき変化によって生じたものである。前者は古代から連綿と続く怨霊・祟り信仰を背景に生まれたものなのに対して、後者は近世から顕現してきた、国家や地域が対象者の功績や人生を偉業として評価するために生まれたものであった。留意したいのは、後者のタイプの神社は明治以降、国家神道の影響を受け、全国各地に多数創祀されたということである」と述べています。

 

著書は、顕彰神系の人神神社の延長上に、大日本帝国のために命を落とした多数の兵士を祀る、陸軍・海軍を合同祭祀主体とした「靖国神社」が生まれてきたと考えます。靖国神社の特異さは、祭神が戦争で亡くなった兵士の霊を集めて追加しつつ生み出された「靖国の神」という「集合神」である点に求められますが、著者は「もっとも、このような集合神も、年忌供養を重ねつつやがて『先祖』という『集合神』に溶け込んでいくという、庶民の『霊魂観』を踏襲して作り出されたとも言えるだろう。強調しておかねばならないのは、この集合神『靖国の神』を祀る、あるいは管理する主体は、戦前は陸海軍であって、遺族ではなかったという点である」と述べています。

 

「『記憶』と『忘却』の戦い」として、著者は「卑近な例を出して説明すると、もしわたしが亡くなれば、火葬されたわたしの『骨』は『墓』に埋葬されるだろう。この『墓』は、わたしの遺族にとってはわたしについての『記憶の場所』でもあり、またわたしの『たましい』が眠る場所でもある。この場合、『骨』も『墓』も『たましい』も、遺族によってその管理はなされており、またそうあるべきものである。実際、家族・親族の範囲を超えて評価されるような格別な偉業をなしたわけでもない人物ならば、『記憶の場所』(記憶の依代)は『墓』で十分であろう」と、興味深い話をします。ところが厄介なことに、このうちの「たましい」は、「骨」や「墓」に比べて、その管理者・祭祀者があいまいなのであるとして、「極端な話をすると、わたしの『たましい』は、わたしの遺族の許可がなくとも、わたしの『たましい』を祀りたい者が邸宅内などに社殿を作って勝手に祀ることができるのである」と述べるのでした。

 

なぜ、人々は、特定の人物の「たましい」を祀ろうとするのでしょうか。著者によれば、家族・親族の範囲での「記憶」「追悼」を超えた、政治(権力者)、信仰(信者)、学問(弟子)、生業(ムラ)等さまざまな集団が、その人物の人生や偉業を称賛し末永く記憶し続けたいと思ったからです。その「思い」が強ければ強いほど、またその思いを抱く人が多ければ多いほど、「忘却」を防ぐ強力な「記憶」「追悼」の施設が求められました。ある場合は、それは「墓」の巨大化・強固化として示され、ある場合は「人神祭祀施設」の創建として示され、またある場合は「祭儀」の創造として示されるのです。その過程で、史実とは異なる過剰に肥大・ヒーロー化した人神の「物語」も付随するようになりました。

 

神なき時代の民俗学

神なき時代の民俗学

 

 

著者はかつて、『神なき時代の民俗学』(せりか書房)に収められた「『たましい』という名の記憶装置」と題した慰霊と慰霊祭をめぐる一文において、「『死者のたましい』とは、『死者についての記憶』と置き換え可能なるのではないか。つまり、『死者についての記憶』の限界が『死者のたましい』の限界ではないか」と書きました。人神祭祀は、このことを考える格好の素材であるとして、「すなわちそれは、広い意味での『記憶』と『忘却』との関係・戦いの問題でもある。そしてこれは人神に限らず、例えば、戦争の記憶とその風化のように、いつの時代においても抱えている問題であると言えるだろう」と述べるのでした。本書は、日本人の「こころ」の謎に光を当てるような、知的好奇心を刺激してくれる好著でした。

 

 

2020年9月5日 一条真也

『鬼と日本人』

鬼と日本人 (角川ソフィア文庫)

 

一条真也です。
異界のイメージが漂う街・金沢に来ています。
『鬼と日本人』小松和彦著(角川ソフィア文庫)を再読しました。「鬼とは何者か?」を問い、説話・伝承・芸能、絵画から縦横無尽に読み解いた本です。著者は1947年東京都生まれ。東京都立大学大学院社会人類学博士課程修了。信州大学助教授、大阪大学教授を経て、現在は国際日本文化センター所長です。わたしは、異色の民俗学者である著者の本はほとんど全部読んでいますが、ブログ『神隠しと日本人』ブログ『呪いと日本人』ブログ『異界と日本人』ブログ『妖怪学新考』ブログ『妖怪文化入門』で紹介した本に続いて、本書を再読しました。

 

本書のカバー裏表紙には内容紹介があります。
「雷神、酒呑童子茨木童子、節分の鬼、ナマハゲ・・・・・・古くは『日本書紀』や『風土記』にも登場する鬼。見た目の姿は人間だが、牛のような角を持ち、虎の皮の褌をしめた筋骨逞しい姿が目に浮かぶ。しかし、日本の民間伝承や芸能・絵画などの角度から鬼たちを眺めてみると、多彩で魅力的な姿が見えてくる。いかにして鬼は私たちの精神世界に住み続けてきたのか。鬼とはいったい何者なのか。日本の『闇』の歴史の主人公の正体に迫る」

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
鬼とはなにか
鬼の時代――衰退から復権
百鬼夜行」の図像化をめぐって」
「虎の巻」のアルケオロジ――鬼の兵法書を求めて
打出の小槌と異界――お金と欲のフォークロア
茨木童子渡辺綱
酒呑童子の首
  ――日本中性王権説話にみる「外部」の象徴化
鬼を打つ――節分の鬼をめぐって
雨風吹きしほり、雷鳴りはためき
           ・・・・・・妖怪出現の首
鬼の太鼓――雷神・龍神・翁のイメージから探る
蓑着て笠着て来る者は
 ・・・・・・もう1つの「まれびと」論に向けて
鬼と人間の間に生まれた子どもたち
    ――「片側人間」としての「鬼の子」
神から授かった子どもたち
    ――「片側人間」としての「宝子・福子」
「あとがき」

 

「鬼とはなにか」では、「なによりもまず怖ろしいものの象徴」として、著者は「鬼は長い歴史をもっている。鬼という語は、早くも古代の『日本書紀』や『風土記』などに登場し、中世、近世と生き続け、さらには現代人の生活のなかにもしきりに登場してくる。ということは、長い歴史をくぐり抜けて来る過程で、その言葉の意味や姿かたちも変化し多様化した、ということを想定しなければならない」と述べています。

 

続けて、鬼について、著者は「じっさい、その歴史を眺め渡してみると、姿かたちもかなり変化している。鎌倉時代の鬼の画像をみると、角がない鬼もいれば、牛や馬のかたちをした鬼もいるし、見ただけではとうてい鬼と判定できない異形の鬼もいることがわかる。それがだんだんと画一化され、江戸時代になってようやく、角をもち虎の皮のふんどしをつけた姿が、鬼の典型となったのであった。しかしながら、怪力・無慈悲・残虐という属性はほとんど変化していない。鬼は、なによりもまず怖ろしいものの象徴なのである」と述べます。

 

「日本の妖怪変化史の太い地下水脈」として、もっとも有名な鬼は大江山の「酒呑童子」であると指摘し、著者は「酒呑童子は南北時代製作の絵巻『大江山絵詞』(逸翁美術館蔵)のなかに初めて登場してきた物語・伝説上の鬼である。物語はきわめて単純で、酒呑童子という鬼の大将が多くの鬼を従えて大江山に住み、ときどき都に現れては、貴族の子女や財宝を奪っていった。このため、勅命を受けた源氏の武将・源頼光とその配下の渡辺綱たちが出かけて行って退治する、という話である」と述べています。

 

また、著者は以下のようにも述べています。
「鬼の歴史、さらにいえば妖怪変化の歴史を眺め渡して気がつくもう1つの特徴は、中世までの『化けもの』(妖怪)の多くが、鬼と深い関係を保っていたことである。古代から中世にかけての妖怪種目は、それほど多くはない。鬼以外では、大蛇(龍)、天狗、狐、狸、土蜘蛛、つくも神(古道具の妖怪)などがその主たるものであるが、大蛇にせよ、土蜘蛛にせよ、つくも神にせよ、鬼の性格ももっている」



「鬼の子孫を名乗る人々」として、興味深いのは、鬼が怖ろしい者・否定的なものを表す言葉でありながらも、その子孫と称する人々が散見されることであると指摘し、著者は「大峰山の麓の洞川は、修験道の祖・役の行者に従っていた前鬼・後鬼のうち、後鬼の子孫の集落であるという。また、比叡山の麓の八瀬も、鬼の子孫(八瀬童子)の集落であるといい、彼らは冥宮の従者である鬼の子孫で、天皇天台座主などの葬送の折に、その柩を担ぐ役を務めることを特権としていた。さらにいうと、播磨の国・書写山円教寺の修正会で代々鬼役を務める家も、寺を開いた性空上人に従っていた鬼(護法童子)の子孫であると伝えてきた」と述べます。

 

続けて、著者は以下のように述べます。
「しかも、こうした、鬼の子孫と称する人々の家での節分の豆まきでは、『福は内、福は内、鬼も内』と言って豆を撒くというのである。なぜ鬼の子孫を名乗るようになったのかの理由は一概にいえないのだが、体制の外部に排除された鬼ではなく、体制のなかに組み込まれた鬼、鬼の役を引き受けることで体制内で生きようとした人々の、複雑で屈折した歴史が隠されているようである」

 

「鬼の時代――衰退から復権へ」では、今日では一般的に、鬼とは人間に危害を加える邪悪な超自然的存在で、昔の人々の想像の産物と考えられているとして、著者は「しかしながら、鬼がたどってきた歴史は、それを生み出した人々の歴史と同様に、それほど単純であったわけではない。昔の人々の多くは鬼の存在を信じていた。文献のなかには鬼に関する記述が数多く見出され、伝説や昔話などを通じても語り伝えられた。鬼はまた、絵画のなかにその姿が描かれ、芸能においても重要な役割を演じていた。さらに、かつては鬼とみなされた人々がおり、自ら鬼の子孫と称する人々さえも存在していた」と述べています。

 

「『虎の巻』のアルケオロジー――鬼の兵法書を求めて」では、「鬼とは何か」として、著者は「鬼とはなんなのだろうか。人間は恐怖する動物である。見知らぬ者、異形の者、異文化に属する者を恐怖する。そして、おのれの権力にまつろわぬ者を恐怖し、その結果、葬り去った者の怨念を恐怖する。こうして恐怖の対象になったものが、『鬼』と名づけられたのである。その一方では、恐怖する人間はその恐怖から逃れるために、社会集団をつくり、さらに国家までつくりあげた。したがって、集団や国家は程度の差こそあれ、それが存続しようとする限り、その『外部』に具体的な鬼を、あるいは目に見えない想像上の鬼をつねに必要としているわけである」と述べています。

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「というわけで、日本の鬼は便宜的に、社会的に存在するものと目に見えない想像上のものの2つの系統に区分しうるといえよう。すなわち、一方には、鬼とみなされた人々が存在し、他方には、人々が想像し絵画のなかや文献のなかや演劇のなかに登場する鬼たちが存在しており、しかも双方は互いに深い関係を取り結んでいたのである。つまり、鬼とみなされた人々の諸属性が想像上の鬼のイメージ形成に作用し、それとは逆に、想像上の鬼のイメージが社会的存在としての鬼の諸属性やイメージを形成しているようなことがしばしば見られたのである。こうして、鬼のイメージは画一化しつつもそれなりの多様性をもっているわけなのだ」

 

「打出の小槌と異界――お金と欲のフォークロア」では、「異界からの贈りものとしての『犬』」として、著者は「『小槌』については鬼もしくは鬼とみなされた人々(大工などの職人)の所持品であったこと、『童子』については心身障害児を『福子』とか『鬼子』と呼んだり、かつて生涯にわたって『童子』と呼ばれる身分に置かれていた人々が鬼の子孫と考えられていたことなどから判断して、昔の人々は、『小槌』や『童子』を異界的もしくは現世と異界の媒介的存在とみなしていたらしい、といった程度の指摘にとどめておこうと思う」と述べます。

 

続けて、「犬」もまた異界的な存在、媒介的な存在であったのだとして、著者は「というのは、黒田日出男も指摘するように、『一遍上人絵伝』などいくつかの絵巻に、約束ごとのように、墓場の場面には、烏とともに犬が描かれているからである。祇園社などに隷属して死体の処理など“異界”的な仕事に従事していた下級の神人を『犬神人』と賤称したが、これも犬の媒介的イメージと無縁ではないはずである。犬は『死』や『異界』に深く係わった動物なのである。だからこそ、『富』を異界から運んで来ることができるとみなされたのである。こうした犬のイメージをまことによく表現しているのが、私たちのよく知っている『花咲爺』であり、同系統の昔話である『雁取爺』である。そしてまた、この昔話群も『富』と『欲』をめぐる物語なのである」と述べるのでした。

 

 

酒呑童子の首――日本中世王権説話にみる『外部』の象徴化」では、「王権説話としての『珠取り』説話」として、日本文化が「外部」つまり「異界」を「タマ」という概念を設定することで形象化し、そのタマの操作を通じて「外部」を制御しうると考えてきたとして、著者は「タマは『モノ』や『カミ』といった概念とほぼ重なるものであるが、それらよりももっと多義的な概念であるかに見える。タマは不可視の霊的存在である『魂』を指示するが、他方では、形象化された『珠(玉)』と深い結びつきを持っていた。つまり、『魂』の形象化したものが『珠』であったのである。もっとも、この『珠』はむき出しのままの姿で人の前に姿を現わすことは少なく、龍とか鬼とか狐といった、その時代の特定の社会集団が表象する『外部』の形象の衣を身にまとって現われてくる。しかし、日本人はそうした衣の下に、『珠』を見ようとしてきたのである」と述べています。



「鬼を打つ――節分の鬼をめぐって」では、「鬼と福の神と祖霊」として、民俗学者たちは、1年の終わりの日、つまり大晦日の晩には死者の霊(祖霊)が戻ってくるときであったことに注目し、それが鬼へ、あるいは福の神へと変化したと考えたことを指摘し、著者は「たしかに、『つごもりの夜・・・・・・亡き人のくる夜とて、魂まつるわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なおする事にてありしを、あわれなりしか』(『徒然草』第19段)とあるように、中世では大晦日の晩には死者の霊がこの世に来訪してくると考えられていた。しかし、その死者の魂が鬼や福の神の原型であるかはなお疑問であり、むしろ1年の境目、時の裂け目であるがゆえに、神霊たちがその裂け目からこの世にやってくると考えていたのだろう。つまり、祖霊もやってくるが、福の神も鬼もやってくることができたのが大晦日の晩であったのだ。大昔はいざ知らず、中世以降においては鬼と福の神と祖霊とはいちおう区別されていたのである」と述べます。



また、「『鬼の子小綱』と鬼追い」として、著者は「わが家の節分で豆をまく妻と娘は、宮中の追儺儀礼でいえば方相氏にあたり、仏教の追儺儀礼でいえば、毘沙門天と龍天の役を演じているということになるわけである。また、つぶてに関しては、『大黒飛礫の法』などというものがあり、蕎麦を飛礫に用いたりもしたという。こうした飛礫つまりつぶては如意宝珠とみなされ、福をもたらす力をもった珠(玉)であった。すると、私たちの節分の豆も、如意宝珠なのかもしれない。だとすると、まことにありがたいものを口にしていることになるわけだ。こうしてみてくると、どうやら、私たちの節分の行事は、年が変わるその境目から異界の神霊たちが侵入してくるという民俗的信仰をふまえつつ、中国から入った宮中の追儺儀礼、仏教の追儺儀礼などが習合しながら、中世のころにでき上がった習俗、ということになるのではなかろうか」と述べるのでした。



「鬼の太鼓――雷神・龍神・翁のイメージから探る」では、「雷神と雨乞い」として、各地に伝承されている「雨乞い」行事において、太鼓が不可欠な祭具とされていたという事実を指摘しつつ、著者は「雨乞い行事は地方によってさまざまな形態をとっているが、雨を祈願する神格は、雨(水)を司るとみなされた龍神や雷神であり、龍神をかたどった巨大なつくりものを作って村のなかを引き回すという儀礼を行なうことで、龍神の出現を期待したところも各地でみられた。したがって、このような儀礼的コンテキストで叩かれる太鼓の音は、龍神の出現にともなって発せられる雷の音を擬したものだといえるはずである。また、そうした龍型が作られない雨乞いであっても、雨が降ることを期待して蓑や笠をつけたり、水を司る龍神などを刺激するためだろうか、火を焚いたり、雨雲に擬せられた黒煙や雷音を象徴する太鼓の音を出したりすることがなされた。要するに、雨乞いの太鼓とは雷神の太鼓を表わしているわけなのだ」と述べるのでした。

まれびとの歴史

まれびとの歴史

 

 

「蓑着て笠着て来る者は・・・・・・もう1つの『まれびと』論に向けて」では、「『まれびと』としての鬼」として、著者は「鬼とはなにか」と読者に問いかけます。そして、「これにひと言で答えることは難しい」としながらも、「鬼とは人間の分身である、ということになる。鬼は、人間がいだく人間の否定形、つまり反社会的・反道徳的人間として造形されたものなのだ」と述べています。また、「鬼を打つ」として、著者は「鬼は正月に来訪する『まれびと』であった。だが、この『まれびと』は、『まれびと』という概念を創り出した折口信夫が考えていた『まれびと』とはあまりにもかけ離れている。これは折口の『まれびと』を逆立ちさせた『まれびと』、裏返しにされた『まれびと』である」と述べます。



さらに、著者は「折口にとって、『まれびと』とは異界から来訪する善なる神霊である。『まれびと』はこれを迎える人間の側の『あるじ』の饗応を受け、人間を苦しめる『土地の精霊』(悪霊)を鎮撫、制圧する。こうした『まれびと』観念をもっともよく表現しているのが、古代のスサノオ神話である。天から出雲に下ったスサノオ国津神(大山住命)に迎えられ、ヤマタノオロチを退治し、クシナダヒメを妻とする。すなわち、この神話ではスサノオが『まれびと』、国津神が『あるじ』、ヤマタノオロチが『土地の精霊』、そしてクシナダヒメが饗応の品の代表ということになる」と述べるのでした。



「『ナマハゲ』の鬼――その二面性」として、著名な寺院や地方寺院の修正会の鬼は、小正月の頃の晩に出現したと指摘し、著者は「これとほぼ同じ小正月の晩に、民俗社会でもさまざまな『まれびと』に混じって鬼が登場する儀礼を行なうところがあった。民俗社会は江戸や京、大坂などの都市社会と農山村の村落社会に大別できる。このいずれにも鬼が登場する儀礼があるのだが、都市の鬼、それを排除される邪悪なイメージを強調した鬼(これは疫病神に代表される)の儀礼については、高岡弘幸の論文などで紹介されているが、ここでは農村部の、それもやはり小正月の晩の頃に登場する鬼の儀礼に目を向けてみよう。その代表が有名な秋田県男鹿半島の『ナマハゲ』である」と述べています。



また、著者は以下のようにも述べています。
「鬼などの恐ろしい神霊が来訪してくる儀礼と考えられるものは、男鹿半島の『ナマハゲ』のほか、同じ秋田県下では、『ナマメハギ』『ナモミハゲ』『ヤマハゲ』といった行事があり、県外では山形県遊佐町の『アマハゲ』、石川県能登半島の『アマメハギ』、新潟県村上市の『アマメハギ』、岩手県の『スネカ』、岩手県釜石市の『ナナミ』などがある。ここではとりあえず、こうした小正月の晩に行なわれる、鬼もしくはそれに類する恐ろしい仮面・異装の行事をナマハゲ系儀礼と呼ぶことにしよう」

 

また、こういったナマハゲ系来訪神行事の報告からわかってくるのは、この系統の行事に登場する神霊が、人間に危害を加えたり人間社会を破壊したりする可能性をもった邪悪で恐ろしい鬼もしくはそれに類する悪霊・妖怪と考えられていたことであるとして、著者は「こうした悪霊来訪儀礼は、古代から中世に流布した鬼・悪霊の来襲を描いた説話や修正会の追儺式の影響を受けてつくられた儀礼だと推測されるのだが、その経緯を明らかにすることは今日では充分にはできそうにない。しかし、多くの点で共通した特徴を示していることは指摘できるだろう」と述べます。

 

さらに、ナマハゲは村の中に村人として好ましくない人間がいないかと出現してくると指摘し、著者は「この出現のモチーフは、牛頭天王の古端将来への制裁など人間の側に邪悪な者がいるという理由で出現することと似ている。生身剥ぎとは火斑ができるほど火の周りに坐ってばかりいる怠け者の生身=火斑を剝ぐという意であるという。それは怠け者を殺して食べるということを暗に意味している。つまり、恐ろしい鬼は人間が人間としていかに生活するのが好ましいかを教え込ませるために登場するのである。鬼は『村人の風儀の矯正には権威と実効』を挙げたのである」と述べています。

 

続けて、著者は以下のように述べます。
「もっとも、ナマハゲは、修正会や節分の鬼のように、牛玉杖で打たれたり、つぶてや豆をぶつけられて退散するのではなく、家の主人の歓待を受け、餅や金銭を貰って立ち去っていく。饗応された方も、この年の豊作や家人の無病息災などの祝福の言葉を述べる。この点に注目すれば、ナマハゲも異界から人々を祝福するためにやってくる『まれびと』ということになる。ナマハゲはこうした二面性をもっている。この二面性を相手に応じて発揮させるのだ」

 

さらに、ナマハゲの攻撃の標的になるのは、子どもであり、まだ子どもが生まれていない若妻や、他所から来た養子あるいは奉公人たちであったとして、著者は「ナマハゲを演じる青年たちは村落共同体における権威をやがて手にする人々であり、ナマハゲという神秘的存在の力をかりて、充分にそうした権威になじんでいない、いうならば共同体の周縁にとどまっている子どもたちや新参者たち、ときには警官などの外部の者を攻撃し、村落共同体の権威の存在を明示しそれへの服従を強制するのである。それゆえに、そうした共同体の権威を身につけている家の主人は、その来訪を歓迎=歓待するというわけである」と述べています。

 

そして、ナマハゲは、村落の一員として好ましい〈人間〉をつくり出すために呼び招かれた恐ろしい鬼なのであるとして、著者は「子どもや新参者たちに対しては恐ろしくも乱暴な鬼として臨み、社会の中心部を占める人々には善良なる神格として臨むナマハゲは、言いかえれば、村落共同体が飼いならした鬼、コントロール可能になった鬼といえよう。鬼の儀礼に限らず、儀礼とは元来そういうものなのである」と述べるのでした。

 

人類学随想 (岩波現代選書)

人類学随想 (岩波現代選書)

 

 

「神から授かった子どもたち――『片側人間』としての『宝子・福子』」では、著者は
「人間と異類が婚姻した結果生まれてくる子どもは、どんな子どもなのか。昔話にはその子どもはどんな姿をしていて、人間にどのように扱われるのか。その行末は幸福だったのか、それとも悲惨な結果が待っているのか。こうした疑問をいだいて、私は昔話の世界へ入って行った。その直接の道案内人となってくれたのが、イギリス人の社会人類学者R・ニーダムが注意をうながした、世界各地にみられる興味深い文化表象である『片側人間』であった。『片側人間』とは、ニーダムによれば、体の半分が人間であり、もう一方の半分は、別の存在かもしくは欠落しているような形象であって、神話や儀礼などにみられるものである。人間の『片側』というと、体の左右の一方という印象を与えるが、ニーダムの『片側』はもっと広い概念規定がなされていて、体の前の側と後の側という『片側』や上半身と下半身という『片側』も含まれている」と述べます。

 

この「片側人間」は、日本の昔話のなかにも登場していました。その昔話が「鬼の子小綱」と呼ばれる昔話群で、そこに登場する「片側人間」は、“片角子”とか,“片子”とか“片”といった片側性をあらわす名称を与えられており、はっきりと体の右半分が鬼、左半分が人間の姿をしている子どもでした。そして、この「片側人間」である子どもは、異類婚姻によって生まれた子どもだったのです。著者は「『鬼子』『怪物の子』『魔物の子』として捨てられ殺されていった子どもが、実社会になったことはすでに指摘した。しかし、その一方では、『鬼子』の姿かたちとどこまで重なるかは定かでないが、障害をもった子どもが捨てられることなく、『福の神』として大切に育てられる習俗も存在していたのである。その子どもをおろそかに扱うと不幸になる、これまでその子の力で獲得した『富』を一挙に失う、ということが民俗社会で語られていたのである」と述べます。

 

そして、「あとがき」で、著者は「『鬼』は民俗語彙であり民俗概念であるので、その指示するものや意味するものを理解するには、その語が用いられている『現場』に赴き、その意味を調べなくてはならない。古代の『鬼』、中世の『鬼』、近世の『鬼』、さらには近現代の『鬼』の用法を、すなわち『鬼』が登場する文学や芸能、絵画、さらには日常会話における『鬼』の用法等々を、調べ、分析し、その作業を積み重ねることで、民俗語彙としての、民俗概念としての『鬼』の指示範囲や意味内容、その変遷の様子が明瞭になってくるわけである」と述べるのでした。

 

本書は「鬼」という日本の闇の主人公についての論考集であり、さまざまな媒体にバラバラに掲載されたものを集めてはいますが、1冊にすると『鬼エンサイクロペディア』といった印象で、雷神、酒呑童子茨木童子、節分の鬼、ナマハゲといった具合に網羅的に言及されています。そして、折口信夫の「まれびと」というキーワードを使って「鬼」の本質に鋭く迫っています。著者が考察する「神隠し」「呪い」「異界」「鬼」などのテーマを並べると、「もう1つの日本」が浮かび上がってくるようです。

 

鬼と日本人 (角川ソフィア文庫)

鬼と日本人 (角川ソフィア文庫)

 

 

2020年9月4日 一条真也

『妖怪文化入門』

妖怪文化入門 (角川ソフィア文庫)

 

一条真也です。
台風9号が九州北部に接近した翌日の3日、福岡空港からANAで小松空港へ。
『妖怪文化入門』小松和彦著(角川ソフィア文庫)を再読しました。2006年、せりか書房から刊行された単行本を文庫化したものです。河童・鬼・天狗・山姥・・・・・妖怪はなぜ絵巻や物語に描かれ、どのように再生産され続けたのか。豊かな妖怪文化を築いてきた日本人の想像力と精神性を明らかにする、妖怪・怪異研究の第一人者初めての入門書です。

 

著者は1947年東京都生まれ。東京都立大学大学院社会人類学博士課程修了。信州大学助教授、大阪大学教授を経て、現在は国際日本文化センター所長です。わたしは、異色の民俗学者である著者の本はほとんど全部読んでいますが、ブログ『神隠しと日本人』ブログ『呪いと日本人』ブログ『異界と日本人』ブログ『妖怪学新考』で紹介した本に続いて、本書を再読しました。

 

本書のカバー裏表紙には、内容紹介があります。
「憑きもの・河童・鬼・天狗・山姥・幽霊・異人――。太古の昔から、日本人は妖怪や迷信とともに生き、不安や恐れ、神秘感といった思いを共有して文化をかたちづくってきた。絵巻や物語に残された異形・異類・異界のものたちは、どのように描かれ、なぜ再生産され続けたのか。その歴史をたんねんにたどり、豊かな妖怪文化を築いてきた日本人の想像力と精神性を明らかにする。妖怪・怪異研究の第一人者によるはじめての入門書」

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。

Ⅰ  妖怪文化への招待
        妖怪文化とはなにか
        時代と文化を超える「妖怪」

Ⅱ  妖怪文化研究の足跡
        憑きもの
        妖怪
        河童
      鬼
        天狗と山姥
        幽霊
        異人・生贄
        境界
「参考文献」
「所蔵先一覧」
「文庫版あとがき」

 

Ⅰ「妖怪文化への招待」の「妖怪文化とはなにか」では、「はじめに」として、著者は
「『妖怪』という言葉は、一般の人びとにとっても、研究者にとってさえも、意味があやふやである。それは、文字通りに理解すれば、神秘的な、奇妙な、不思議な、薄気味悪い、といった形容詞がつくような現象や存在、生き物を意味している。私の考えでは、これが『妖怪』のもっとも広い意味での定義である。しかしながら、こうした定義の妖怪に相当する事柄は、どのような社会にも存在しているのであって、特別なこととはいえない。このレベルでは、妖怪はどこの社会にも存在しているといえよう」と述べています。

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「日本の妖怪が興味深いのは、こうした妖怪の中身を、独自な文化として発展させてきたことにある。そこで、妖怪概念を前述したようにできる限り広く設定しつつ、その中身をさしあたって、(1)出来事としての妖怪(現象-妖怪)、(2)超自然的存在としての妖怪(存在-妖怪)、(3)造形化された妖怪(造形-妖怪)、の3つの意味領域にわけて考えることで、妖怪という語がはらんでいる意味のあいまいさを、少しでも解消させることにしたい」

 

 

「出来事としての妖怪」として、第1の意味領域は、出来事もしくは現象としての妖怪(現象-妖怪)であると明かし、著者は「この意味領域の妖怪は、恐怖や不安、神秘感などから生み出されたものである。こうした怪異体験が人びとの想像力を刺激し、恐怖に根ざしたさまざまなメッセージを託された物語が語り出されることもあった。この種の怪異譚は、たとえば、平安時代中期の『源氏物語』にもエピソードふうに語られており、平安時代末に編纂された説話集『今昔物語集』をはじめとしてその後の各種の説話集にたくさん収録されている。留意したいのは、怪異現象を、土地の者が共通体験として語り伝えていく過程であって、特定の怪異に『小豆洗い』とか『天狗倒し』といった『名づけ』がおこなわれることがあった、ということなのである。私は、さまざまな怪異現象の名づけ=共有化ということのなかに、日本における豊かな妖怪文化が花開く基礎を見出している」と述べます。

 

今昔物語集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

今昔物語集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

 

 

「超自然的存在としての妖怪」として、第2の意味領域は、人間が制御できない超自然的存在としての妖怪(存在-妖怪)であることが明かし、著者は「日本のこうした神秘的存在を考える上での前提として忘れてはならないのが、あらゆる自然物には『霊魂』(カミ、タマ、レイ、モノノケなどという)が宿っているというアニミズム的観念である。この霊魂は人格化されているので、喜怒哀楽の感情を伴っている。別の言い方をすれば、人間に対してプラスの働きをすることもあれば、マイナスの働きをすることもあるわけである。怒りは人間に災いをもたらし、喜べば幸せをもたらす。そこで、人びとはこうした諸々の霊を和ませ鎮めるための祭祀をとりおこなった。つまり、祭祀とは、人間に好ましくない活動をする可能性のある霊や、すでに好ましくない活動をしている霊を制御するためにおこなわれたのである」と述べます。

 

また、著者は以下のようにも述べています。
「制御されていない状態の霊的存在は、古代では『鬼』(おに)と呼ばれることが多かった。鬼は人間にとって好ましくない属性がなんでも託された、いわば人間を裏返しにしたようなイメージで語られた。このほか、僧侶の修行を妨害する『魔』のものとして理解された『天狗』、神秘的な能力を持っていると考えているために、ときには妖怪視された(ときには尊崇・祭祀することもあった)『蛇』や『狐』などが、この時代の代表であった。古代の怪異現象の多くは、これらの限られた妖怪の仕業とみなされていたのであった」

 

妖怪ビジュアル大図鑑 (講談社ポケット百科シリーズ)

妖怪ビジュアル大図鑑 (講談社ポケット百科シリーズ)

 

 

「造形化された妖怪」として、第3の意味領域は、造形化、視覚化された妖怪(造形-妖怪)をめぐる意味領域であることが明かし、著者は「時代をさかのぼればさかのぼるほど、多くの怪異現象が認知され、その怪異現象を引き起こした原因としての存在-妖怪が想起されただろう。また、災厄を予防したり鎮めたりするための祭祀・儀礼もひんぱんにおこなわれたことだろう。それに対応するような、怪異(現象-妖怪)とその原因となった超自然的存在(存在-妖怪)をめぐる物語も数多く語られたことだろう。邪悪な妖怪を追い払う儀礼と邪悪な妖怪を退治する物語は密接に結びついて伝承されてきたのである。それらは、恐怖の喚起とその鎮静の機能を併せ持っているのである」と述べます。

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「しかしながら、古代ではこうした存在-妖怪を造形化することはなかった。なぜかは定かでない。日本では、古来、神社に祀り上げて鎮まっている好ましい神々も、その神像を描く習慣が生まれなかったので、その影響で、邪悪な神々ともいいうる妖怪の造形も、それにならってなされなかったとも考えられる。あるいはまた、妖怪への信仰心や恐怖心が造形化を躊躇させていたといえる」

 

水木しげる 妖怪大百科

水木しげる 妖怪大百科

 

 

また、妖怪の図像・造形化は、日本の妖怪文化にとって、画期的な出来事であったとして、著者は「絵巻の作者やそれを享受する貴族たちは、夜の闇の奥に潜むあるいは異界からやってくる妖怪たちをなお恐れていたはずである。しかし、他方では、妖怪は娯楽の対象にもなり始めていたのである。造形化することそれ自体が、妖怪に対する人間の側の優位性を物語っていたのであろう」とも述べます。

 

妖怪図巻

妖怪図巻

 

 

現代日本人の妖怪イメージ」として、著者は「それにしても、妖怪研究を標榜する学問が長らく停滞し、そのような用語を用いることさえ嫌われてきたにもかかわらず、いま、なぜ、日本で妖怪という語が世間を徘徊しているのだろうか。それは、漫画家の水木しげるや小説家の京極夏彦のように、妖怪研究の成果を利用し、『妖怪』という語を好んで用いて、大衆向けの漫画や小説を描く作家たちが登場してきたことによっている。彼らの仕事を通じて、妖怪はグローバルな現象ともいえる『ファンタジー』ブームと結びつけられ、一般の人びとの間に流通し、彼らの関心の高まりに応えるかたちで、妖怪展が開催されるようになったのであった」と述べます。

 

京極夏彦の妖怪えほん(全5)

京極夏彦の妖怪えほん(全5)

 

 

続けて、現代の日本人の中に形成された「妖怪」の意味は、学術用語としての「妖怪」概念ともずれていて、現代の日本人がイメージする「妖怪」は、水木しげる京極夏彦たちが「妖怪」とみなすものが「妖怪」であるともいえるだろうとして、著者は「京極夏彦は、一般の人びとの間に流通している『妖怪』という語は、研究者が定義する意味とは異なり、『前近代的なもの』『民俗学的もしくは民間伝承的なもの』という意味合いを強く帯びている、と述べている。これも、現代の日本人の多くが思い描いている妖怪観を考えるときには見逃せない指摘である」と述べます。

 

妖怪学新考―妖怪からみる日本人の心―
 

 

「時代と文化を超える『妖怪』では、「『妖怪』の定義」として、本書の刊行に先立つこと20年近く前の1994年に著者が『妖怪学新考』を書いたことを明かし、「その本のなかでは、『妖しい』『怪しい』という2つの言葉を重ねているのだから、人間が遭遇したときに『不思議なもの』『不思議なこと』と思う事柄であって、それをとりあえず『妖怪存在』(京極夏彦風に言えばモノ)と『妖怪・怪異現象』(コト)に分け、その統合的な意味でのカテゴリーとして『妖怪』を定義した。さらに『妖怪』と『神』として把握される存在とを区別するために、『祭祀』の有無という条件をつけたらどうか、と提案した」と述べます。

 

また、「なぜ『妖怪・妖怪現象』が現れるのか」として、著者は、「妖怪」をあれこれ考察していくと、これまでとは違った角度から日本人の精神生活の「見えない世界」を「覗く」ことができるように思えたそうです。そして、「現代では日ごろから、日常生活のなかに生じるさまざまな現象を『霊的存在・力』に結びつけて説明してはいけない、そう考えることは非科学的なことだという、近代の科学・合理主義的な教育を受けてきた。ときには不思議に思うことでも、不思議に思わないように慣らされている。いわば「道具的知識」を身につけている。しかし、昔は相対的に『信仰的知識』で説明しようという傾向が強かったようである。日本の『妖怪』に関する文化も、こうした『信仰的知識』の一角を占める知識であり、それを温床としつつ、さらにその知識が『信仰的知識』という枠を越えた知識、もう少し積極的な言い方をすれば、人びとの想像力(創造力)を刺激して豊かな文化領域を、つまり『エンタテイメントとしての妖怪』を生み出した、と考えられる」と述べています。



そして、「文化の翻訳」として、著者は「日本のさまざまな妖怪種目、たとえば、『天狗』とか『河童』とか『山姥』『見越し入道』などといった個々の妖怪種目は、歴史的・文化的存在なので、容易に『文化』や『歴史』を超えることはできない。そのためには、極端な言い方をすれば、『文化の翻訳』をするしかない。それを当該の社会や時代の人びとがどう受容してくれるかにかかっている。『トトロ』や『ピカチュウ』は国境を越えた。やり方次第では『天狗』『見越し入道』も国境を越えることができるはずである」と述べるのでした。

 

怪異の民俗学〈1〉憑きもの

怪異の民俗学〈1〉憑きもの

 

 

Ⅱ「妖怪文化研究の足跡」の「憑きもの」では、「『妖しい獣』の噂」として、民俗学者が、調査地で、あるいは地方の民俗学者の報告によって、「憑きもの」信仰がまだ強固に伝承されていることを知って驚き、民俗学的研究の重要な素材になると考えて、その情報の収集をしようとしたのは十分に納得できることであるとしたうえで、著者は「とくに柳田國男の場合、こうした資料は古代からの憑霊信仰の零落形態を物語るものとして、あるいは民間神道の実態を伝える資料としてきわめて興味深いものだったはずである」と述べています。しかし、『憑きもの』は、そうした民間信仰史上の問題だけでなく、民俗学に深刻な課題を突きつけた」とも指摘しています。

 

続けて、著者は「というのは、この信仰には、憑霊現象をめぐるさまざまな怪異伝承や民間宗教者の関与といった側面ばかりでなく、ムラ人たちのあいだにみられる特定の家筋に対する婚姻差別や誹謗中傷などといった深刻な問題がみられたからであった。その結果、民俗学は、本来の研究態度からかなり逸脱したかたちで、こうした信仰に苦しめられている人びとを救うことが急務であるということを自覚し、それを克服するための研究に取り組むことになったのであった」と述べています。

 

憑霊信仰論 妖怪研究への試み (講談社学術文庫)

憑霊信仰論 妖怪研究への試み (講談社学術文庫)

 

 

「『憑きもの信仰』から『憑霊信仰』へ」として、著者は、「憑霊現象」は2つの類型に分けることができると指摘します。それは、憑かれている本人にとって好ましい霊(善霊)の憑依と好ましくない霊(悪霊)の憑依、の2類型だといいます。また、これとは異なるかたちで、2つに分類することもできるとして、著者はこう述べます。
「それは人間に制御された憑依と制御されない憑依の2類型である。私たちがシャーマンと呼ぶ宗教者は、自分の望むときに、自分の体や他人の体に、善霊や悪霊を憑けることができる。ところが、そうした能力がない者の憑依は、本人の意志とは関係なく、善霊や悪霊が憑くという現象が生起する。人びとが予想していない『憑霊現象』が発生するわけである。狭い意味での『憑きもの』信仰は、こうした二重分類の一角、つまり制御されない悪霊の憑霊現象、という部分を構成する信仰要素に属するわけである。『憑霊信仰』はそうした大きな視野のなかで考察されるべき信仰なのであろう」

 

また、「憑霊信仰」の構成要素として次に重要なことは、そうした現象を生起させる「霊的存在」や『霊的力』のレパートリー(種目)であるとして、著者は以下のように述べています。
「もし一種類しかなければ、もはや確定するまでもなく、その霊が憑いたと判断するであろう。もっとも、ほとんどの地域では、発生頻度に違いがあるが複数の種類の神霊を用意しており、また、たとえ『生霊』しか憑かない場合にせよ、その『生霊』は誰それの生霊という具合に個別化されていることが多い。こうした『憑く神霊』の種目の検討から、当該社会がなにに深い関心を寄せているのか、どのような信仰史的足跡、たとえばどのような影響を外部から受けてきたのか、あるいは時代的特徴はなにかなどを推測することができるはずである。信仰的な意味での共同幻想のかなめとなるのは、こうした神霊たちなのである」

 

「狐の『託宣』」として、「憑霊信仰」を考えるときのもっとも重要な要素のひとつが「託宣」であると指摘し、著者は「この『託宣』によってどのような霊が憑いているのかがわかり、またその託宣内容によってどうして憑いたのかが判明するからである。『託宣』はまた『神託』ともいうように、『神のお告げ』である。神が自分の意志を人に告げることが、あるいは人が神に自分たちの問いの答えを求めたその答えが、『託宣』である。前者の場合は、『憑霊』(制御されない)による託宣と『夢』による託宣が圧倒的に多かった。これに対して後者では、『憑霊』(制御された)による託宣と道具を用いての『占い』が多かったといえるであろう」と述べています。

 

さらに、「宗教者の役割」として、彼らは人びとが共有するコスモロジー共同幻想に通暁し、また個々人の歴史や社会状況も十分に調査し理解している者であり、依頼者(病人)と共感共苦することができる者でもあると指摘し、著者は「そうした知識・能力に優れた宗教者が、『託宣』とか『占い』とかいった装置を駆使しながら、個々の事例に即した『憑霊現象』をめぐるそれなりに説得力ある『物語』を創り出すのである。そして、それが当人や周囲に受け入れられたとき、それは当事者たちにとっては『本当の物語』(=歴史)となる。このとき、『なにか』が修復されることになる、いま風にいえば癒されたわけである。いってみれば、彼らはムラの医者であり、心理学者であり、歴史家であり、未来学者であり、物語作者であり、その他もろもろの属性を兼ね備えた『学者』であったのである。その延長上に、現在の学者もいるわけである」と述べます。

 

そして、「憑きもの」の最後に、著者は「現代人の多くは、いまもなお『憑霊現象』を『怪異』とみなすであろう。しかし、その『怪異』の向こう側には、差別を認めるだけではなく、さらにその向こうに、日本人の歴史が横たわっていることを発見するだろう。その歴史を掘り起し再構築することで、現代をいかに照射するか。それが、これからの『憑霊信仰』の課題である」と述べるのでした。

 

怪異の民俗学〈2〉妖怪

怪異の民俗学〈2〉妖怪

 

 

「妖怪」では、「妖怪研究の黎明期」として、著者は井上円了を取り上げ、「妖怪学を打ち立てた井上円了であったが、思うに、彼はきっと撲滅すべき対象であった妖怪を愛していたに違いない。合理主義者であることと妖怪愛好家であることは、少しも矛盾することではないからである。そう思われるほど、彼は妖怪を探し続けた。彼の妖怪学関係の著作は、これまでにも何度か再版されているが、現在では『井上円了・妖怪学全集』(柏書房)によって読むことができる。井上円了の精力的な活動によって、『妖怪』という語が世間にも次第に流通するようになり、『妖怪』は具体的には井上が取り上げた現象や存在を指すようになっていったらしい。つまり学術用語としての『妖怪』は井上円了によって用いられだしたのである」と述べます。

 

新訂 妖怪談義 (角川ソフィア文庫)

新訂 妖怪談義 (角川ソフィア文庫)

 

 

また、「柳田國男の妖怪観」では、柳田国男の目には、井上円了の行動が妖怪退治をする豪傑の姿とオーバーラップしていたのかもしれないと推測し、著者は「妖怪がもはや退治されるのは明らかであった。いやもう退治されてしまったのである。しかし、その妖怪の屍を前にして、柳田は、いったい昔の人は彼らをいかなる目的で必要としていたのだろうか、と問いかけたのであった」と述べます。さらに「妖怪研究の新展開」として、「民俗学的妖怪研究の不毛な時代に、私は人類学・民俗学の立場から妖怪研究に取り組みだした。私の妖怪研究は従来の民俗学的妖怪研究の枠を大幅に変更する視点からのもので、妖怪を俗信とみない、妖怪を神信仰の零落とみない、したがって妖怪を前代の神信仰の復元のための素材としない、妖怪資料を民間伝承に限定しない、妖怪伝承を前近代の遺物とか撲滅すべき対象とみない等々の視点に立って考察することを心がけた」と述べています。

 

 

 

続けて、著者は「その考えや研究成果は『憑霊信仰論』や『異人論』『妖怪学新考』あるいはまた荒俣宏との対談『妖怪草紙』などで披露したが、ようするに、私の妖怪研究の基本的立場は、妖怪研究は人間研究である、というものである。そのあたりのことを比較的よく表現できているのではないかと思われるのが、『妖怪と現代文化』(『妖怪学新考』)である」と述べています。そして、「妖怪研究は、人間研究である。それはまだ胎児の状態にすぎないが、今後は、関連諸分野とも連携しつつ、人間の『心』の救済に深くかかわる学問となっていくはずである。妖怪研究は、これからもっと深められるべき研究領野なのである」と喝破するのでした。

 

怪異の民俗学〈3〉河童

怪異の民俗学〈3〉河童

 

 

「河童」では、著者は「河童伝承の分類」として、日本列島には、地域によって呼称の異なる「水辺に出没する怪しい生き物」が並存しており、カッパもその1つであったと指摘しつつも、「その中から関東地方を中心に流布していた呼称が選び出されて、それらの総称になったのだ。つまり、カッパとは異なる呼称をもつ『水辺に出没する怪しい生き物』にも、カッパの仲間、カッパの同種異名だと判断されて『河童』というラベルが貼られたのであった。その結果、地域的な呼称の上位の用語としての『河童』が誕生したというわけである」と述べています。

 

新版 河童駒引考―比較民族学的研究 (岩波文庫)

新版 河童駒引考―比較民族学的研究 (岩波文庫)

 

 

「『河童』の民俗的研究」として、上古の人々は水の被害を水神によってもたらされたものであり、これを防ぐには水神を祭祀することだと考え、毎年、馬を水の神に捧げるという祭祀を行っていたとしながらも、「1人の英雄によってその水神が退治されるという伝説が物語るように、文化の発展(外来文化の受容)によって、そうした動物供犠の祭祀は廃されることになった。だが、そうした『従前の信仰』の記憶の痕跡が残った。それが『魑魅魍魎の分際に退却した水神』としての『河童』をめぐるさまざまな伝承であった。そして、そのもっとも典型的な伝承が『河童の駒引き』である、と。つまり、『河童の駒引』はかつての『水神への馬の供犠祭祀』の痕跡・残映とみたわけである」と述べます。

 

著者は、「河童」という「水辺に出没する怪しい生き物」を幻想する手助けをした実在の動物や人間について考察し、「『河童』伝承の形成に貢献した動物的要素はカワウソ、カメ類とくにスッポンで、九州地方などでは猿も貢献している。人的要素としては、水辺に頻繁に現れる山人、たとえば山窩、被差別民=非人や河原者、キリシタン、などが検討されている」と述べています。

 

怪異の民俗学〈4〉鬼

怪異の民俗学〈4〉鬼

 

 

「鬼」では、「鬼の使われ方」として、著者は述べます。現代では、鬼が活躍する場所は、主として物語の世界であると指摘し、著者は「鬼の登場する儀礼・芸能も、節分などに限られている。現実の世界に存在する人間や事物に対して用いられることもあるが、鬼の概念を参照にして、比喩的に用いられる場合がほとんどである。たとえば、現実世界では「子殺し」をする親や、人間とは思われぬ残酷な殺人等の犯罪を犯した人間に対して、「殺人鬼」という語が付与される」と述べます。

 

鬼と日本人 (角川ソフィア文庫)

鬼と日本人 (角川ソフィア文庫)

 

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「こうした用法は、鬼という概念が日本人の想像した『反社会的存在、逆立ちした人間』のイメージとして造形したものであるということを知ったうえで、犯罪の内容が人間(道徳的人間)にあるまじきことと判断されたとき、人びとがその犯罪の凄まじさ、犯罪を犯した者に対する厳しい批判の意味を込めて、『鬼』というラベルを犯罪者の上に貼り付けたのである。鬼の代わりに『悪魔』であっても『極悪人』であっても、微妙なニュアンスの違いがあるにせよ、話者の伝えたい意味にそれほど違いがあるわけではない」

 

怪異の民俗学〈5〉天狗と山姥

怪異の民俗学〈5〉天狗と山姥

 

 

「天狗と山姥」では、「『天狗』の民俗学的研究」として、説明装置としての「天狗」は「神隠し」現象にも見いだされると指摘し、著者は「子どもが行方不明になったとき、人びとは『天狗』にさらわれたのではないか、と考えるわけである。私がかつて『神隠し』(後に『神隠しと日本人』と改題)でかなり詳しく論じたように、もちろん、神隠しの原因とされるのは『天狗』だけであったわけではない。しかし、天狗による人さらいの伝承はすでに鎌倉時代からの長い伝統があり、民俗社会の『神隠し』伝承も、そうした伝承の影響を強く受けているようである」と述べます。

 

また、「『山姥』研究の足跡」として、著者は「『山姥』はまた、天狗と同様、民俗社会でも伝承されている妖怪である。民俗社会の『山蜷』は『山女郎』とか『山母』『山姫』などともいわれ、その夫は『鬼』もしくは『山男』『山爺』などと語られている。地方によって多少は異なるものの、山姥は、背が高く、長い髪をもち、眼光鋭く、口は耳まで裂けている、というほぼ共通した特徴をもっている。こうした特徴は、山姥が鬼女系の妖怪であることを物語っているが、また、昔話のなかの山姥は大蛇の妖怪が化けたもの、あるいは蜘蛛の妖怪が化けたものとして描かれることもある。民俗社会の山姥も、室町時代の山姥と性格は変わらず、人を取って食べるといった恐ろしい属性をもつとともに、人間が幸せや富を得るための援助者として働く好ましい属性を合わせ持った両義的存在である。その意味では、山姥の基本的性格は室町時代からあまり変わっていないようである」と述べます。

 

さらに、「山姥のイメージ」として、日本の妖怪の代表ともいえる「天狗」と「山姥」は、山の怪異の説明装置として伝承されてきたものであると指摘し、著者は「きわめて単純化していえば、『天狗』は『父』もしくは『男社会』のシンボルであり、他方の『山姥』は『母』もしくは『女社会』のシンボルであった。これまで述べてきたように、そして性格は異なるが、両義的性格を帯びているところに本質があった。この研究はまだ少なく、未開拓の領域が多いといっていいだろう」と述べるのでした。

 

怪異の民俗学〈6〉幽霊

怪異の民俗学〈6〉幽霊

 

 

「幽霊」では、「幽霊であることの基本条件」として、「どうして『幽霊』は出てくるのだろうか」と問いかけ、著者は「死者の霊は死後、『あの世』に旅立って行くと考えられてきた。いや、むしろ死者の霊は家族や親族、友人などと別れがたいがために、「この世」に留まろうとする。当人が死にたくないと思っているからである。しかし、死者の霊が『この世』に留まったならばさまざまな社会的混乱が生じるので、『あの世』に送り出す。ふつうの死者の霊魂は、こうした「あの世」への送り出し装置=葬送儀礼にしたがって、『この世』に未練があっても、それを断ち切られ、ついに『死』を受け入れて『あの世』に旅立っていく。したがって、多くの死者の霊は『幽霊』になることはない。ふつうはこれによって死者と生者のつながりが切断される。それ以後は、これまた形式化・儀礼化されたやり方によるつきあいに変わるのである」と述べています。

 

また、完全な死者にもなれず、また完全な生者にも戻れないでさまよう霊魂が「幽霊」の原質部分なのであると重要な指摘を行ない、著者は「そのような様態の霊魂はまことに不幸な霊魂である。こうした事態が生じないために、生者の側は、死者の魂が『あの世』に赴くようにするための、さまざまな仕掛け、たとえば、死後は仏たちが住む極楽浄土に行くことができるのだという思想や、死者の世界へ赴くことを嫌がって自分の住んでいた家やムラに戻りたがる死者の霊が戻ってこれないようにする儀礼などを用意したのであった。それにもかかわらず、一部の死者の霊は『幽霊』となって出現する。それは何故なのだろう。大別して、2つの理由が考えられる。1つは死んだにもかかわらず、なんらかの事情でしかるべき葬送儀礼を受けることができなかったからである。それでは『あの世』に行くことができない。こうした『幽霊』は『あの世』に送るための儀礼をおこなえば去って行くはずである。しかるべき供養を求めるためだけに出現する幽霊の話は多い。いま1つの理由は、『この世』への深い執着の思いが、葬送(縁切り)の儀礼を受けてもなお『あの世』への往生を拒絶する場合である」と述べます。

 

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

 

 

「幽霊」についてのさまざまな論考の中でも、国文学者の安永寿延の「幽霊 出現の意味と構造」は屈指のものです。わたしも、拙著『唯葬論』(サンガ文庫)の「幽霊論」の中で引用したほどですが、著者はこの安永の論考について、「安永が説いているのは、『幽霊』は自分の意志で出現してくるかのように語られるが、じつはその逆であって、生者の側の心が『幽霊』を生み出し、招き寄せ、そしてそれに恐怖し、それを祀り上げることで、その心を鎮めることができるのだ、ということである。すなわち、死者への生者の『思い』が『幽霊』文化を存続させてきたのである。そしてそこに描き出されるのは、人間世界なのである」と述べています。

 

怪異の民俗学〈7〉異人・生贄

怪異の民俗学〈7〉異人・生贄

 

 

「異人・生贄」では、「『異人』とはなにか」として、「異人」を一言で言えば「境界」の「向こう側の世界」(異界)に属するとみなされた人のことであると定義し、著者は「その異人が「こちら側の世界」に現れたとき、「こちら側」の人々にとって具体的な問題となります。つまり「異人」とは、相対的概念であり、関係概念なのであるとして、折口信夫の説いた「マレビト」に言及し、以下のように述べています。
「折口の『マレビト』概念は彼自身が厳密な定義をおこなっていないこともあって難解であるが、その概念は二重構造になっていると思われる。一次的マレビトは来訪神のことであり、二次的マレビトが共同体の外部から訪れる祝福芸能者のたぐいとして想定されている。共同体の人びとはこれら祝福芸能者を『神』そのものもしくはその代理人とみなすことによって歓迎し、その祝福を受けることで共同体の繁栄が期待されたのであった。すなわち、共同体の来訪神信仰との関係のなかで『異人』を理解すべきであるということを示唆したわけである」と述べます。

 

まれびとの歴史

まれびとの歴史

 

 

また、「異人・生贄・村落共同体」として、「異人」をめぐるテーマを検討していくと、その一角に「生贄」のテーマが現れ、逆に「生贄」のテーマをめぐって考察を進めていくと、その一角に「異人」のテーマが現れてくると指摘し、この2つのテーマを媒介しているテーマが、「人身供儀」(人身御供)もしくは「異人殺害」という説話的・儀礼的モチーフであると指摘して、著者は「別の表現をすれば、『異人』が『村落共同体』を訪れたとき、その共同体は異人を迎え入れてその村落祭祀のための『生贄』に利用したり難工事の橋や築堤を成功させるための『人柱』に利用することがあったのだろうか、あるいはまた共同体の特定の家を『幸せ』にする目的のために殺害されることがあったのだろうか、といった問題群が浮かび上がってくるのである。このテーマは、じつは『異人』の側にとっては『共同体』も両義的なものであることを明らかにするはずである」と述べます。

 

異人論―民俗社会の心性 (ちくま学芸文庫)

異人論―民俗社会の心性 (ちくま学芸文庫)

 

 

「『異人』概念の変化」として、著者は「『異人』に着目することによって、『共同体』や『家』の成り立ちやその性格を理解することが容易となるのである」と述べます。なぜなら、「社会集団」は「異人」あるいは「異界」との関係のなかで成立するからです。「生贄・人柱」や「異人殺し」の伝承は、そのことを如実に物語る伝承なのでしょう。そして、その成果は現代社会をも照射する手がかりを与えるはずであり、「さらなる異人研究が求められている」と、著者は訴えます。

 

怪異の民俗学〈8〉境界

怪異の民俗学〈8〉境界

 

 

「境界」では、「『境界』としての『空間・場所』、『境界』としての『時』」として、生と死の境界は、時間的境界、社会的境界、物質的境界、そして空間的境界の4つの位相を持っていると指摘し、著者は「すべての人間にとって、自分の誕生と自分の死は、生命体としての時間の始まり(誕生)と終わり(死)、つまり時間的境界である。また、誕生の時は非社会的存在(霊的存在)から社会的存在へ、死の時は社会的存在から非社会的存在への移行の境界でもあり、物体から霊的存在への移行の境界でもある。しかも、時間的、社会的かつ物体的境界を越えようとする時には、必然的に空間的境界を越えなければならないのである」と述べています。

 

 

「境界の『時』」として、「境界」の「場所」に対して、「境界」の「時」を想定することができると指摘し、著者は「そのもっとも重要な『時』は『生』から『死』への境界である。そのような『境界』の『時』の典型的な象徴的表現が、『葬送儀礼』であり『賽の河原』であり、それを表象するために、空間のなかに『葬送の場所』や『賽の河原』が設定されたりした。したがって、空間的な『境界』の多くが、『生』と『死』の境界、あるいは『この世』と『あの世』の境界のイメージをも託されていたのである。民俗学では、こうした葬送儀礼や『あの世』観に関する膨大な調査研究成果を蓄積しており、それらのほとんどが境界論として読み替えることができるものである」と述べています。

 

決定版 年中行事入門

決定版 年中行事入門

 

 

また、著者は以下のようにも述べています。
「『人の一生』という尺度で把握された時間の境界とは別に、『自然のリズム』にしたがって創られた『境界』もある。その1つは、1年のサイクルの『境界』、すなわち1年の始まりと終わりの『境界』である。いま1つは1日のリズムに基づく『昼』と『夜』の『境界』である。前者については、いわゆる年の暮れから新年をめぐる一連の儀礼を『正月儀礼』と総称して従来から研究されてきたもののなかで議論されており、葬送儀礼研究を境界研究と置き換えることができるように、この正月儀礼研究もまた、境界研究と言い直すことができるはずである」

 

異界と日本人 (角川ソフィア文庫)
 

 

そして、「怪異と時間の境界性」として、総じて民俗学的境界研究は「生」(この世)と「死」(あの世)との境界研究に終始してきた感があるとし、その理由について、著者は「それが根源的な境界であったからである。念を押すようだが、『境界』は『怪異』の母胎であるがそれに尽きるものではなく、怪異をも含む本源的な意味合いを託された領域であるということを強調しておかねばならない」と述べるのでした。

 

怪異の民俗学【全8巻】

怪異の民俗学【全8巻】

 

 

本書は、ブログ『妖怪学新考』で紹介した本の内容を補完するものであり、『妖怪学新考』とともに妖怪学の基本テキストであると言えるでしょう。特に、本書のⅡ「妖怪文化研究の足跡」は、2000年から2001年にかけて著者が編集責任者として刊行した論集『怪異の民俗学』(全8巻、河出書房新社)の解説を集めたものです。この論集シリーズはわたしも持っていますが、世間での妖怪ブームに刺激され妖怪研究に関心をもつ人々が増えてきたことをふまえ、入手しにくい貴重な文献を集成したものです。この『怪異の民俗学』シリーズによって、それまでの妖怪文化関係の研究状況を俯瞰することができるようになったという点で、まことに画期的でした。わたしも『唯葬論』を執筆したときに参考文献として大いに重宝しました。

 

妖怪文化入門 (角川ソフィア文庫)

妖怪文化入門 (角川ソフィア文庫)

 

 

2020年9月3日 一条真也

若宮紫雲閣・宮田紫雲閣開業清祓祭

一条真也です。
非常に強い台風9号(メイサーク)が九州に接近していますが、福岡県宮若市に2つの紫雲閣がオープンしました。若宮紫雲閣および宮田紫雲閣で、2日の10時半から両施設の開業清祓祭が行われました。

f:id:shins2m:20200902141349j:plain若宮紫雲閣の外観 

f:id:shins2m:20200902141410j:plain宮田紫雲閣の外観

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若宮紫雲閣の前で津田支配人と

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さあ、儀式の場へ!

 

この2施設は、わが社が若宮積善社さんから譲り受けた会館を全面リニューアルしたものです。わたしは、ブログ「6会館の同時オープン」で紹介したように、2012年5月31日に旧・北九積善社から6施設を譲り受けてオープンしたことを思い出しました。ちなみに、若宮紫雲閣サンレーグループで84番目(福岡県で42番目)、宮田紫雲閣はグループで85番目(福岡県で43番目)のセレモニーホール(コミュニティホール)となります。

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本日の神饌

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本日の式次第

f:id:shins2m:20200902104244j:plain神事のようす

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神事のようす

この日の神事は、若宮紫雲閣で行われました。由緒ある若宮八幡宮の齋藤武宮司に執り行っていただきました。司会進行は、サンレー総務部の國行部長です。修祓、祭主一拝、降神之儀、献饌、祝詞奏上、清祓之儀などが行われました。

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神事のようす

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清祓之儀のようす

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宮司より玉串を拝受しました

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柏手を打ちました

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玉中常務と一同が柏手を打つ

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最後は一同礼!

 

それから、玉串奉奠です。まずは斎主玉串奉奠。それから、サンレー社長のわたし、玉中常務の順番で玉串奉奠を行いました。それから、撤饌、昇神之儀、祭主一拝を経て、閉式となりました。

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「主催者挨拶」をしました
 

閉式後は、「主催者挨拶」です。サンレー社長として、わたしが挨拶しました。わたしは、長い伝統を持つ名門企業である若宮積善社の施設をサンレーグループに加えることができて、まことに嬉しく思うと述べました。新たに2つの紫の雲が宮若市の上空にあがったわけですが、もともと「積善」という言葉がわたしは大好きでした。「善を積むこと」は、人として生きる道であり、それは「礼を求める」ことにも通じるのではないかと思います。若宮積善社の高鍋前社長様には新たに当社の顧問に御就任いただき、まことに喜ばしく、また心強く思っております。

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マスクを外しました

f:id:shins2m:20200902110314j:plainこの土地について話しました

この土地の歴史を遡れば、645年(大化元年)大化の改新によって、宗像神郡として宗像大社に寄進されました。1221年(承久3年)周辺一帯が宗像大社神領となり、「神田」と呼ばれるようになります。その後「神田」が「宮田」に転じたとされています。明治時代に石炭の採掘が始まり、旧宮田町にあった筑豊最大の炭鉱、貝島炭砿をはじめとする多くの炭鉱が開発され、炭鉱都市として発展しました。しかし、昭和30年代から始まったエネルギー革命の影響を受け、1976年までにすべての炭鉱が閉山した。炭鉱閉山後は、九州自動車道の若宮インター近くに工業団地が造成され、新たな産業誘致に取り組んでいます。1992年にはトヨタ自動車九州が生産を開始し、自動車関連企業の進出が続いています。

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宮若の亡き人想ひ彼岸花 心に咲かせ善を積むなり

 

この土地は、市の中央を東へ貫流する犬鳴川と八木山川に流れ込む支流があり、その流域に農地や市街地が形成され、水と緑に恵まれた地域となっています。現在の宮若市は、平成18年2月11日に、宮田町と若宮町が合併して発足しました。「市の花」は彼岸花だそうです。どんな天候でも花を咲かせ堅実な歩みを目指す本市にふさわしいことから選ばれたということですが、今は亡き方々を供養する心のシンボルでもあります。ぜひ、この素晴らしい土地で、心の彼岸花を咲かせ、多くの方々の人生の卒業式のお手伝いをしたいものです。それが善を積むことにも通じるでしょう。最後に、以下の道歌を披露し、氏神様に捧げました。

 

宮若の亡き人想ひ彼岸花 
 心に咲かせ善を積むなり(庸軒)

 

f:id:shins2m:20200902110522j:plain津田支配人による決意表明

f:id:shins2m:20200902145355j:plainしっかりと受け取りました

「主催者挨拶」の後は「決意表明」が行われました。
若宮紫雲閣の津田支配人より、「礼業」として礼の実践に努め、この地で多くの方々の人生の卒業式を心をこめてお世話させていただき、地域に愛される会館をめざしますという力強い決意を受け取りました。

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辞令交付式でも一同礼!

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辞令交付式のようす

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心を込めて名前を読み上げました

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心を込めて辞令を交付しました

 

それから、旧・若宮積善社の社員4名が新たにサンレーグループの仲間入りをするための「辞令交付式」を行いました。4人の新入社員はマスクをしていましたが、緊張した表情が読み取れました。きっと不安もあることと思います。わたしは、心を込めて1人1人の名前を読み上げ、辞令を交付しました。

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社長訓示を行いました

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新入社員による決意表明がありました

 

その後、社長訓示を行いました。わたしは「みなさん、ご入社おめでとうございます! みなさんの人生をお預かりすることに大きな責任を感じています。先程の歌にも『積善』を詠み込みましたが、若宮積善社さんは素晴らしい会社であったと心から思っています。そして、わが社の社風に合うと思いました。8年前、わが社の仲間に入って下さった北九積善社のみなさんは全員が今も元気にわが社で頑張ってくれています。社長のわたしが言うのも何ですが、サンレーの社員はみんな優しいし、思いやりがあります。どうか、安心して仲間に加わって下さい。みなさんが人生を卒業されるときに、『サンレーで働いて、良い人生だった』と必ず言っていただけるように、わたしも頑張ります。本日は、まことに、おめでとうございました!」と述べました。その後、辞令受領者を代表して安永社員から心ある決意表明がありました。

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集合写真を撮影しました

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乾杯しました

f:id:shins2m:20200902144020j:plain直会でも少しだけ挨拶しました

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儀式のプロとして誇りを持って下さい!


その後は、集合写真を撮影して、直会に移りました。最初に若宮八幡宮の齋藤宮司による乾杯の音頭があり、直会が開始されましたが、途中でわたしが少しだけ挨拶しました。わたしは、「新しく紫雲閣の仲間になられたみなさんに一言だけ言っておきたいことがあります。それは、葬儀という仕事に心からの誇りを持っていただきたいということです。わたしの口癖ですが、日本人の『こころ』は神道・仏教・儒教の三本柱で支えられています。神道のプロが神主さんで、仏教のプロがお坊さんなら、わたしたち礼業に携わる者は儒教のプロであり、孔子の末裔です。どうか、孔子の末裔として、儀式のプロとしての誇りを持って下さい。旧若宮積善社のみなさんは優秀な方ばかりですから、これから大いに期待しています」と述べました。

f:id:shins2m:20200902143922j:plain直会 withコロナ

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美味しいお弁当でした

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最後は末広がりの五本締めで・・・・・・

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愛される施設になりますように・・・・・・

 

直会では、アクリル板で隔てられた神事参加者10名と新社員4名の計14名がソーシャルディスタンスを保ちながら、わが社特製の豪華な折り詰め弁当を楽しみました。最後は、玉中常務の音頭でサンレー名物「末広がりの五本締め」を行い、中締めとなりました。どうか、若宮紫雲閣宮田紫雲閣が多くの方々から愛されますように!

f:id:shins2m:20200829121223j:plain朝日・毎日・読売・西日本新聞2日朝刊

 

両施設の見学会を令和2年10月23日(金)~24日(土)に行う予定です。「3密」を避けるため予約制で執り行います。なお、この日の「朝日」「毎日」「読売」「西日本」新聞の朝刊に、わが社の新キャラクターである前川清さんを起用した広告が掲載されました。前川さんが笑顔で「皆様のまちに、紫雲閣誕生です!!」と呼びかけています。おそらく大きな反響を呼ぶのではないかと思います。もうすぐ、前川さんが出演するテレビCMも放送開始です。

f:id:shins2m:20200516165530j:plain心ゆたかな社会』(現代書林)

 

今回は、拙著『心ゆたかな社会』(現代書林)のプレゼント告知も行いました。100冊目の「一条本」となる同書は、「新型コロナが終息した社会は、人と人が温もりを感じる世界。アフターコロナ、ポストコロナを見据えた提言の書。ホスピタリティ、マインドフルネス、セレモニー、グリーフケア・・・次なる社会のキーワードは、すべて『心ゆたかな社会』へとつながっている」というメッセージの希望の書です。抽選で30名様に進呈します。ハガキでご応募下さい!

<応募方法>

郵便ハガキに郵便番号・住所・氏名・電話番号・書籍名をご記入の上、下記宛へお送り下さい。当選者の発表は商品の発送をもって代えさせていただきます。
〒802-0022
北九州市小倉北区上富野3-2-8
サンレー「話題の本」進呈NP係
2020年9月15日(火)消印有効

 

2020年9月2日 一条真也

9月度総合朝礼

一条真也です。
9月になりました。先月に続いて、わが社が誇る儀式の殿堂である小倉紫雲閣の大ホールで、サンレー本社の総合朝礼を行いました。

f:id:shins2m:20200901120938j:plain9月度総合朝礼のようす

f:id:shins2m:20200901084439j:plain最初は、もちろん一同礼!

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社歌斉唱のようす

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小倉織のマスク姿で登壇しました

f:id:shins2m:20200901130427j:plain訓示の前にマスクを外しました

 

全員マスク姿で社歌の斉唱および経営理念の唱和は小声で行いました。それから社長訓示の時間となり、わたしが登壇しました。わたしは、まず、「全国的に酷暑が続きますが、どうか新型コロナウイルスの感染に加えて、熱中症に気をつけていただきたいと思います」と挨拶し、それから次のような話をしました。「幸福度ランキング」の最新版が発表されました。幸福度、生活満足度、定住意欲度など、地域の持続性に関する項目を調査。今回の住民の「幸福度」に関する指標では、宮崎県が2年連続の1位。沖縄県が2位、大分県が3位で、4位は福井県。5位は石川県でした。わが社のエリアでは、1位の宮崎県、2位の沖縄県、3位の大分県とベスト3を制覇しており、石川県もベスト5に入っています。

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日本人の幸福度について

 

もともと不安定である「こころ」を安定させるのは儀式という「かたち」であり、冠婚葬祭業という儀式産業は人間の幸福というものの根幹に関わっているのです。世界で最も国民の幸福度が高い国として知られているのは、ブータンです。国民のなんと九割以上が「自分は幸福だ」と感じているというブータンは世界で唯一のチベット仏教を国教とする国です。葬儀を中心とした宗教儀礼が非常に盛んなことで知られます。そう、幸福というものは信仰心の強さに深く関わっているように思えます。考えてみれば、宮崎県は「神々のふるさと」で、神道が盛んです。沖縄県は「守礼之邦」で儒教精神が生きています。石川県は「真宗王国」で、浄土真宗の信徒が多い。さらに、幸福度を考える上で人間関係の良好さというものが重要と言えます。サンレーグループが、信仰心が強く、人間関係を重視する土地で冠婚葬祭業を営むことができるのは、幸せなことですね。

f:id:shins2m:20200901085119j:plain福岡県民の幸福度を上昇させよう!

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熱心に聴く人びと

 

さて、わが社の本社がある福岡県は「持続性」では3位でしたが、「幸福度」では14位でした。福岡県の県庁所在地は言うまでもなく福岡市ですが、わが社は福岡市博多区に「福岡浦田紫雲閣(仮称)」、東区に「福岡多々良紫雲閣(仮称)」の二施設を開業し、本格的に福岡進出します。先月、両施設の起工式を無事に終えました。わが社の福岡市進出によって、「福岡県民の幸福度を上昇させる!」というぐらいの気概を持って頑張りたいと思います。来年は福井県の代わりに福岡県を入れて、ベスト5をわが社のエリアで独占したい! ちなみに、持続性の総合ランキング、すなわち「消滅しない都道府県ランキング」の1位は沖縄県で、2位の北海道を挟んで、3位が福岡県、4位が石川県、5位が宮崎県と、これまたわが社のエリアがベスト5に4つも入りました。

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日本映画「糸」について

 

さて、日本映画「糸」を観ました。結婚式のシーンも、葬儀のシーンも両方あるのですが、どちらも感動的で、素晴らしい冠婚葬祭映画でした。この映画のもとになった中島みゆきさんの名曲「糸」には、「縦の糸はあなた 横の糸はわたし」という歌詞が登場します。結ばれる男女を縦横の糸に例えているわけですが、わたしはよく縦の糸を「先祖」、横の糸を「隣人」に例えます。現代人はさまざまなストレスで不安な心を抱えて生きています。空中に漂う凧のようなものです。凧が安定して空に浮かぶためには糸が必要です。さらに安定して空に浮かぶためには縦糸と横糸が必要です。縦糸とは時間軸で自分を支えてくれるもの、すなわち「先祖」であり、「血縁」です。

f:id:shins2m:20200901085200j:plain血縁と地縁があれば心安らかになれる 

 

縦糸と横糸の二つの糸があれば、つまり血縁と地縁があれば、安定して宙に漂っていられる、すなわち心安らかに生きていられる。これこそ、人間にとっての真の「幸福」の正体ではないかと思います。冠婚葬祭業とは、先祖と隣人を大切にし、血縁と地縁を強化するお手伝いをする仕事です。人間が心安らかに生きていくための縦糸と横糸を張る仕事であり、それは人間の「幸福」そのものに直結しています。
中島みゆきさんの解釈にせよ、わたしの解釈にせよ、「糸」というのは「縁」のメタファーであることは同じです。この世には「縁」というものがあるのです。すべての物事や現象はバラバラであるのではなく、緻密な関わり合いをしています。この緻密な関わり合いを「縁」と言うのです。

f:id:shins2m:20200901130956j:plain縦糸と横糸張りて凧浮かし 血縁地縁ともに支へん

 

冠婚葬祭業というのは、結婚式にしろ、葬儀にしろ、人の縁がなければ成り立たない仕事です。この仕事にもしインフラというものがあるとしたら、それは人の縁にほかなりません。明日は福岡県宮若市若宮紫雲閣宮田紫雲閣の2施設をオープンし、開業清祓祭(きよめはらいのみまつり)を行います。
9月6日(日)の12時からテレビ朝日系で放送の「前川清の笑顔まんてんタビ好キ」では、いよいよわが社の新CMも公開されます。
コロナ禍でも、わが社は「天下布礼」を進めていきます。これからも各地で「縁」を大切にするお手伝いをして、日本人の幸福度を上昇させたいです。最後に、わたしは次の道歌を披露して降壇しました。

 

縦糸と横糸張りて凧浮かし
  血縁地縁ともに支へん(庸軒)

 

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降壇して、新CMについて説明

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新CM(サンレーグループ篇)の発表のようす

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新CM(セレモニー篇)の発表のようす

f:id:shins2m:20200902134153j:plain放送が楽しみです!

f:id:shins2m:20200901090834j:plain「今月の目標」を唱和

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最後は、もちろん一同礼!


わたしが降壇した後、新CMを紹介しました。サンレーグループ篇とセレモニー篇の作品ですが、あの前川清さんがオリジナルソングの「ありがとう」を歌い、最後は「サンレー~♪」とか「紫雲閣~♪」とかのサウンドロゴを歌い上げた事実を前に、みんな感動していました。総合朝礼の終了後は、大会議室で北九州本部会議を開催します。コロナ時代にあっても未来を拓くための有意義な会議にしたいと思います。みんなで力を合わせて、「コロナの夏」を乗り切ろう!

 

2020年9月1日 一条真也

人間を幸せにする2本の糸

一条真也です。
9月1日、産経新聞社の WEB「ソナエ」に連載している「一条真也の供養論」の第26回目がアップされます。タイトルは「人間を幸せにする2本の糸」。 

f:id:shins2m:20200829181621j:plain「人間を幸せにする2本の糸」

 

8月21日に公開された日本映画「糸」を観ました。本来なら本年4月に公開予定でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受け、この日にようやく封切りを迎えた作品です。ありていに言って、ものすごく良い作品でした。全編通して、わたしは4回泣きました。結婚式のシーンも、葬儀のシーンも両方あるのですが、どちらも感動的で、素晴らしい冠婚葬祭映画でした。

 

この映画のもとになった中島みゆきさんの名曲「糸」には、「縦の糸はあなた 横の糸はわたし」という歌詞が登場します。結ばれる男女を縦横の糸に例えているわけですが、わたしはよく縦の糸を「先祖」、横の糸を「隣人」に例えます。現代人はさまざまなストレスで不安な心を抱えて生きています。ちょうど、空中に漂う凧のようなものです。凧が安定して空に浮かぶためには糸が必要です。さらに安定して空に浮かぶためには縦糸と横糸が必要です。

 

縦糸とは時間軸で自分を支えてくれるもの、すなわち「先祖」であり、「血縁」です。映画「糸」では、沖縄の人々が先祖の墓の前で宴会を行い、カチャーシーを舞うシーンがありました。また、横糸とは空間軸から支えてくれる「隣人」であり、「地縁」です。映画に登場する北海道の子ども食堂はまさに隣人愛の場所でした。縦糸と横糸の2本の糸があれば、つまり血縁と地縁があれば、安定して宙に漂っていられる、すなわち心安らかに生きていられる。これこそ、人間にとっての真の「幸福」の正体ではないかと思います。

 

中島みゆきさんの解釈にせよ、わたしの解釈にせよ、「糸」というのは「縁」のメタファーであることは同じ。すべての物事や現象はバラバラであるのではなく、緻密な関わり合いをしています。この緻密な関わり合いを「縁」と言うのです。「縁」の不思議さ、大切さを誰よりも説いたのが、かのブッダです。

 

ブッダは生涯にわたって「苦」について考えました。そして行き着いたのが、「縁起の法」です。縁起とは「すべてのものは依存しあっている。しかもその関係はうつろいゆく」というものです。わたしたちはあらゆるものと関わり合っています。つまり、「縁」によって結ばれているのです。

 

そもそも、社会とは縁ある者どものネットワークであり、すなわち「有縁」です。「無縁社会」という言葉がありますが、これは言葉としておかしいのです。なぜなら、社会とは最初から「有縁」だからです。わたしたちが生きているこの世界では、最初から「無縁社会」などありえないのです。

 

2020年9月1日 一条真也