『虎の回顧録』

虎の回顧録 昭和プロレス暗黒秘史

 

 一条真也です。
相変わらず、ギックリ腰で動くのが辛いです。
そんな状態ではありますが、『虎の回顧録』タイガー戸口著(徳間書店)をご紹介いたします。「昭和プロレス暗黒秘史」というサブタイトルがついています。著者は1948年、東京都葛飾区出身。韓国出身の力士・龍錦を父に持つ在日韓国人2世のプロレスラーです。修徳高校入学から柔道を始め、将来の大型五輪選手として期待されながら卒業後、67年に日本プロレス入り。72年にシューズとタイツ、片道切符だけを手に渡米。大型ヒール「キム・ドク」として才能を開花させ、トップとなり、週1万ドルを稼ぎアメリカン・ドリームを手にします。ジャイアント馬場の策謀により76年から全日本プロレスに参戦し、馬場・鶴田に次ぐナンバー3として活躍。81年には、当時、日本マット界では掟破りとされた新日本プロレス移籍を果たし、84年に新日離脱。全日再加入を模索するも、馬場の反対によりとん挫。88年、公開の映画「レッドブル」(主演、アーノルド・シュワルツェネッガー)に出演するなど、映画界にも進出。現在まで、現役レスラーとして日米で活躍。

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には著者の顔写真が使われ、帯には「シューズとタイツだけを手に、片道切符で渡米。本場アメリカでトップをとり週1万ドルを稼ぎアメリカン・ドリームを実現したレスラーを、なぜジャイアント馬場アントニオ猪木は干したのか――」「初の自伝で日本マット界の闇が明かされる」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」

第1章 マットに立つ

第2章 アメリカン・ドリーム

第3章 全日本プロレス

第4章 参戦WWF

第5章 虎は死なず

「あとがき」



アメリカでの生活が長い著者ですが、第1章「マットに立つ」では、「レスラーは舐められちゃいけない」として、「海外に出たら、必ず、プロレスについて、ああだ、こうだ言ってくる奴、プロレスラーを舐めてくる奴がいるんですよ。『こいつら、台本通りに、やっているだけだ』とか言って、絡んでくるのが。俺の中では、そういうときに、キチンと対応できるのがプロのレスラーだと思っているから。面倒なことに巻き込まれたくないからと、ヘラヘラしてその場を去るようなことは、すべきでない。証人を立てて、本当に強いのを教えてやればいいんですよ。アメリカで生き残っていくために、マサ斉藤さんなんかも、ずいぶんやっていたみたいですけど、それをやらなかったら、舐められる」と述べています。



続けて、著者は「今は、時代が違うと言うかもしれないけど、そういう気概を持っていなかったら、プロのレスラーではない。こういうこと、あんまり、言うべきではないかもしれないけど、今、『舐められたら、終わり』という気概を持った選手がどれだけいるのか。だから、ゴッチさんが凄いんですよ。あの当時、現地の人が誰も近づかなかった、ニューヨークのハーレムに1人で入っていって、『やれるものなら、やってみろ』って、睨みながら歩いたと言っていましたから。度胸ありすぎ。当時だったら、白人が1人で入ってきたら、普通に、殺されますよ。そういう話を聞きながら、プロレスラーというのは、どういうものなのかを、学びましたよね」とも述べています。



第2章「アメリカン・ドリーム」では、「ヒールになる」として、ベビーフェイスからヒールに転向したことについて、「キム・ドクというリングネームもヒールになったら大成功だった。なぜかって言うと、アヒルのことをダック『Duck』って言うでしょう。俺のドクは、『Duck』だけど、『c』入れなくても、発音がダックになっている。だから、ヒールの俺がリングに上がると、お客さんが、アヒルの鳴き声をやりだすんです。俺を怒らすために。『クワッカ、クワッカ』って。それで、俺が、アホみたいに、『俺はアヒルじゃねえ』って怒ってギャアギャアやれば、それで成立しちゃう。それで、3分や5分は遊べる。怒って、会場を温めて試合に入れば、やりやすいんだから。ヒールになって初めてキム・ドクの名前の恩恵を受けたよ」と述べます。

 

第3章「全日本プロレスへ」では、「望まぬアクシデントが客を呼ぶ」として、
「ケガはさせた方が悪いんです。カラダを預けている相手をケガさせるのは、自分がきちんとテークケアしてあげないから。テークケアできない相手とは『試合できない』ということになる。ニューヨークでキラー・カーンアンドレ・ザ・ジャイアントの足首を折ったとか言われた試合があったけど、あれもリングの床のラワン材が折れて、そこにアンドレが足を突っ込んでしまった事故。プロのレスラーが相手の足首なんか折るわけがない。アクシデント。でも、望まぬアクシデントが起こってしまったら、あとはもう、いかにそれを抗争の材料にするかってことを考える。だからその因縁マッチで、カーンとアンドレはずいぶん稼いだんです」と述べています。



全日本プロレス時代の著者は、ジャイアント馬場ジャンボ鶴田に次ぐ「第3の男」でした。「鶴田の第一印象は『こんなもんか』」として、鶴田の思い出をこう述べています。
「今、鶴田のことを思い出すと、真っ先に浮かぶのは、78年9月、名古屋でのUNヘビー級戦。俺と鶴田、65分も試合をやったんだから。1対1のフルタイムから、5分間延長して。あれは大変だった。65分もの間、お客さんを飽きさせない。そのために鶴田を引っ張るには、どうやって、どう持っていくか、いろりおなことを考えなきゃならなかったから。あのとき、『あと5分か10分か』って考えたけど、さすがに10分は無理だと。俺はあの試合で、始めて『鶴田はたいしたものだな』と思ったんです。鶴田にあんなにセンスがあるのに驚いた。俺が組み立てた通り、ちゃんと反応するんだから。『ここでドロップキックだ』と思ってロープに振ると、その通りに反応してくる。鶴田はレスリングできたから、スリリングな切り返しも上手くやっていた」



その後、著者は全日本から新日本に移籍するわけですが、「新日のプロレスは『1コマ漫画』」として、「プロレスの上手さで言ったら、日本では馬場さんが最高で、それを追っかけられる頭のある選手なんかいない。猪木さんが、プロレス対異種格闘技戦とかやり始めたのも、馬場さんのプロレス頭に対抗して、むりやりひねり出したんじゃないの。ストロングスタイルも。俺に言わせれば、ストロングスタイルなんて、ろくでもないよ。あれでどうやって、次の試合とつなげるの。彼らの試合は、1コマ漫画と一緒で、1コマで笑って、1コマで泣いてで終わり。つながりがなくて、最後まで同じような試合が続く。それは選手の自己満足。猪木さんがそうなんだから。俺だったら言いますよ。『お前ら、何やっているんだ。金をもらって試合を見せているんだから、その日の試合、興行のつなぎをやれ。1コマ、1コマで終わらないで、前座はメーンイベントが熱くなるように持っていかなくてはダメなんだよ。そのためには線なんだ』って。それをわかってない、自分だけ金髪にして目立とうとする選手ばかり」と述べています。



また、新日本と全日本が激しい企業戦争を繰り広げていた頃のことについて、著者は「あの頃の新日本は、本気で全日本を潰す気だったから。プロレスは、居場所、明確なポジションが与えられないと仕事ができないわけ。1つの興行の中で、何をすべきか、存在理由が理解できてなかったら、プロの仕事はできない。キラー・カーンとのタッグで、タッグリーグ戦準優勝したりしたけど、所詮外様だし、何をやっても生え抜きの連中がやっかむから。でも新日本と水が合わなかったことが、ニューヨークに行くきっかけにもなっているからね」と回想しています。



第4章「参戦WWF」では、スーパースターとなったハルク・ホーガンとの思い出を語ります。
「ホーガンの場合、本人がビジネスマンというわけでなく、奥さんのリンダがシャープだった。ホーガンはリンダに頭が上がらない。リンダのお父さんは映画監督組合のヘッドで、絶大な権力を持っていたから。結局、2人はホーガンの浮気で、離婚したわけ。ホーガンの友達がホーガンの浮気現場を盗撮して、ネットに流し、リンダがそれを見て別れた。でも、ホーガンは盗撮した友達を訴えて、裁判所に通い、賠償金110億円手に入れたから、リング童謡、倒れてもただでは起き上がらない男ですよ。俺もWWFにいた頃、エディ・マーフィーとか、シュワルツェネッガーの映画に出演したことがあった。あれは、ニューヨークのWWFに、ハリウッドから、パラマウント・ピクチャーから依頼が来たんです。『オリエンタルの人が欲しい』と。そのときキラー・カーンは、まだニューヨークに来てなかったから。大きい人で、オリエンタルだって、俺しかいなかったの」



また、「アンドレのバックドロップを受ける」として、著者は“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントにバックドロップをやられた選手は自分しかいないと自慢しつつ、「俺、柔道をやっていたから受け身が上手いので、やってくれた。でも、ニューヨークで、アンドレのバックドロップを受けたとき、あまりにも高いので、さすがに死ぬかと思った。もちろん、ケガをしないようにやってくれるんだけど。でも、お客さんは大喜びだったよね。アンドレのそんな技、見たことなかったから。アンドレは凄く人が良いからやりやすいんだけど、長州はアンドレの気分を悪くさせて、コーナーで顔を張られ、鼻血を出したりしていた。新日本の試合は、外国人から見ると善し悪し。自分勝手で小生意気に見える。日本人のファンにはそれがいいんだろうけど、アメリカのレスラーには『何だ、このチビ』ってムカつかれ、技を受けてもらえなくなるよ」と語っています。



第5章「虎は死なず」では、「プロスポーツには絶対フィックスがある」として、著者は「だいたい真剣勝負なんて、そんなもの10分もできないよ。5分で精いっぱい。ああいうのは、それに感化されるお客さんが悪いんだ。自分でやったことのある人間は、すぐわかるでしょう。これは、ハッキリ言うけど、プロって名のつくスポーツは、絶対にフィックス、決まり事がある。お客さんから、お金取ってやるスポーツは全部。フットボールでもボクシングでも」と述べます。

 

また、「やり方がチンドン屋すぎる」として、現在のプロレスについて、「俺は昭和の男だから、古いと言われるかもしれないけど、昔は、ハーリー・レイスの試合なんか、いい大人が熱中していたけど、今のプロレスには、そういうセンスがないよね、周囲を威圧するオーラを持った、エリック、ブルーザーみたいな選手がいない。あの頃は選手のインプレッションが凄くて、その辺のあんちゃんではなく、その存在感を見に来ていた。俺も、リングに上がるときは、目つきが変わっていたから、『うわっ、キム・ドク、怖そう』とか声が聞こえてきた」と述べるのでした。確かに、昭和のプロレスラーは周囲を威圧するオーラを持っていました。歯に衣を着せずに、本音をバンバン言う著者ですが、基本的にプロレスを愛していることがよくわかりますね。

 

虎の回顧録 昭和プロレス暗黒秘史

虎の回顧録 昭和プロレス暗黒秘史

 

 

2020年5月18日 一条真也

『ケンドー・ナガサキ自伝』

ケンドー・ナガサキ自伝 (G SPIRITS BOOK)

 

一条真也です。
ギックリ腰になってしまいました。ベッドから動けません。
そんな情けない状態ではありますが、『ケンドー・ナガサキ自伝』桜田一男著(辰巳出版)をご紹介いたします。今年1月12日に71歳で亡くなった著者の自伝です。昭和のプロレス界が生んだ名ヒールにして、現役時代に「喧嘩をさせたら最強」と噂された”剣道鬼"ケンドー・ナガサキがレスラー人生を総括する初の本格的自叙伝です。



著者は1948年9月26日、北海道網走市出身。身長188cm、体重120kg。中学卒業後、大相撲・立浪部屋に入門。1971年に日本プロレスへ入門。同年6月27日に戸口正徳戦でデビュー。日プロ崩壊後、全日本プロレスに合流。76年から海外遠征に出発し、81年にケンドー・ナガサキに変身。90年にSWS旗揚げに参画し、その後はNOW、大日本プロレスなどを渡り歩きました。

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本書の帯

 

本書の表紙カバーには剣道の面をつけて竹刀を持った著者の写真が使われ、帯には「仕事、金、女・・・世界を渡り歩いた“喧嘩屋”のセメント告白録!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には「プロレスは最高に面白く刺激的なビジネスだった」として、「アントニオ猪木襲撃未遂事件/大城勤をリング上で制裁/『元祖タイガーマスク』に変身/天龍源一郎の「床山」として初渡米/“殺人鬼”キラー・カール・コックスとの出会い/「地下牢」でヒットマンを指導/『ドリーム・マシーン』と『ランボー・サクラダ』/武藤敬司との共同生活/ブルーザー・ブロディ刺殺事件に遭遇/“金権団体”SWSの誕生と崩壊/47歳でのバーリ・トゥード挑戦」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「まえがき――『剣道』と『長崎』」

第1章 子供の頃、俺は網走刑務所で遊んでいた

第2章 俺が日本プロレスの道場で教わったこと

第3章 俺が大城勤をセメントで叩き潰した理由

第4章 韓国で『元祖タイガーマスク』に変身

第5章 天龍源一郎の「床山」としてアマリロ地区に出発

第6章 “最高の手本”キラー・カール・コックス

第7章 「地下牢」で若き日のブレット・ハートを指導

第8章 スネーク奄美に拳銃の弾をプレゼント

第9章 俺が見たアメリカマット界のドラッグ事情

第10章 謎の中国系マスクマン『チャン・チュン』の誕生

第11章 なぜ俺は『ドリーム・マシーン』になったのか?

第12章 坂口さんの誘いを受けて全日本プロレスと決別

第13章 失敗だった『ランボー・サクラダ』への変身

第14章 俺は遠征に行った先の女とは一通りやった

第15章 ブルーザー・ブロディ刺殺事件に遭遇

第16章 旗揚げ前からSWSが抱えていた最大の問題

第17章 99億円の資金をつぎ込んだ金権団体が崩壊

第18章 一生忘れることのできない悲しい事故

第19章 47歳の誕生日にバーリ・トゥードに挑戦

「あとがき――プロレスは『最高の仕事』だった」



第2章「俺が日本プロレスの道場で教わったこと」では、大相撲を経て日本プロレス入りした著者が、同じ頃に入門した小沢正志(キラー・カーン)や藤波辰巳(辰爾)、さらには元柔道日本一の坂口征二との思い出を語っています。
「プロレスでは基礎中の基礎である腕立て伏せや腹筋、背筋といったトレーニングも相撲ではほとんどやることがなかったので、最初はかなりキツかった。それは相撲出身の小沢選手も同じだったようで、練習でいつも泣きを入れていたし、スクワットなんかはすぐに回数を誤魔化すタイプだった。逆に真面目な藤波選手は身体を大きくしたいという気持ちがあったからか、基礎体力の練習を一生懸命やっていた印象がある。筋力トレーニングの中でも特に大変だったのは、ロープ登りだ。これは足を使わずに腕の力だけで天井から吊るされたロープを登るのだが、俺は体重が重いので、こういうメニューはどうしても苦手だ。ロープ登りが得意だったのは坂口征二さんで、元柔道日本一だけあって引く力がとにかく強かった。あれだけの体重があるにもかかわらず、足を使わずスイスイ登っていく姿を初めて見た時は本当に驚いたものだ」



また、プロレスの基本であるロープワークについて、著者はこう語っています。
「今の試合を見ると、ロープに走って戻ってくるときは威勢がいいが、相手にぶつかる瞬間に減速する選手がいる。怖がって中途半端なタイミングでぶつかると、迫力が出ないし、自分も相手もケガをする恐れがある。ロープワークからのショルダータックルは単純な攻防だが、見様見真似でできることではないのだ。昔は走って相手をショルダータックルで倒し、またロープに走って、立ち上がってきた相手をまた倒すという練習を何度も繰り返しやっていた。これにより、倒される受け身と立ち上がり方を反復練習で覚える。倒されてから立ち上がる時は、右肘を支店にして回り、相手との距離が空くようにして立ち上がるのが基本だ。そうすることによって、次の動きがスムーズになる。このようにプロレスの基本は闘いとして理に適ったものなのに、それを知らない奴がやると、おかしなことになるのだ」



長くアメリカマット界で活躍した著者ですが、第9章「俺が見たアメリカマット界のドラッグ事情」では、以下のように述べています。
「向こうのレスラーの多くは、身体を大きくするためにアナポリックスステロイドを使っていた。日本でステロイドの存在が広く知られるようになったのは90年代になってからだと思うが、アメリカでは70年代から使われていたそうだ。もともとは小児麻痺などに使う薬で、入手するには医師の処方箋が必要である。それをどうやって手に入れるかというと、試合会場にはドクターがいるから、嘘の処方箋を出してもらって、薬局で薬と注射器を買うのだ。後にAWAでロード・ウォリアーズホーク・ウォリアーと一緒にサーキットしたことがあるが、彼は口癖のように『苦しい』と言っていた。心配して『どうしたんだ?』と聞くと、『俺はステロイドを使っている。凄く強い奴だから、心臓が苦しくなることがあるんだ』と顔をしかめていた。これは薬の副作用で、心臓が圧迫されているのだ。薬漬けだったホークは、若くして命を落としてしまった」



第11章「なぜ俺は『ドリーム・マシーン』になったのか?」では、ケンドー・ナガサキとしてアメリカマット界でブレークを果たした著者が凱旋帰国したところ、全日本マットでは良い扱いを受けなかったことが明かされています。これはザ・グレート・カブキこと高千穂明久の場合も同じでしたが、全日本のトップである馬場のジェラシーであるとされています。著者は述べます。
「馬場さんは俺が日本でオーバーすることなんて望んでいなかったのではないだろうか。NWAの黄金テリトリーのフロリダ地区でトップを取っているケンドー・ナガサキのまま帰国させたら、全日本のリングでもそれに見合った扱いをしなければいけない。だが、俺に上を取られるのは面白くなかったはずだ。馬場さんはアメリカで最も成功した日本人レスラーは自分だという思いがあったから、俺や高千穂さんのようにアメリカでオーバーしたレスラーを快く思っていなかったような気がする」

その後、著者は全日本マットを離れて新日本マットに参戦します。そこでは新日正規軍のみならず、前田日明らUWF勢とも試合をしました。著者は述べます。
「ペイントを施して悪徳マネージャーをつけている俺たちとシュートスタイルを押し出すUWF勢は水と油のように映ったかもしれないが、やる側としては違和感はない。彼らもやっていることは、同じプロレスだ。前田日明藤原喜明も試合をしてみて、やりづらいとはまったく思わなかった。試合で俺が前田のアキレス腱固めをしたり、スープレックスを切り返したことで観ていた人は驚いたようだが、別に不通に試合をこなしただけのことだ。相手が足を取ってきたときの切り返しは基本として徹底的に学んだから、それが通常のプロレスのレッグロックだろうが、UWF流のサブミッションだろうが、俺の中で区別はない。一方、新日本の選手たちはUWFの選手と試合をするのを嫌がっているように見えた。だが、俺が前田から受けた印象は、『普通のプロレスラー』というものだった。少なくとも俺と試合をした時は、こっちの技もしっかり受けていた」



その後、著者は1990年にメガネスーパーが設立した新団体SWSに参加します。第16章「旗揚げ前からSWSが抱えていた最大の問題」では、旗揚げ当初からいろいろな問題を抱えていたSWSですが、絶対にクリアしなければならない最重要事項があったとして、以下のように述べています。
「レスラー側が一番気になっていたのは、田中社長がプロレスというビジネスの仕組みを理解していなかったことだ。SWSは旗揚げ当初、トーナメントに賞金が出ていた。田中社長は何も知らないで賞金を出していたわけだから、我々の中には申し訳ないという気持ちがあった。俺は最初に都内のホテルで会った時から、田中社長がプロレスをよく理解していないことはわかっていた。旗揚げ前に伝えるべきだったのではないかという考えもあるかもしれない。しかし、プロレスビジネスの仕組みを知って、旗揚げ前に田中社長が団体から手を引くと言い出したら、それはそれで大問題だ。多くの選手は、所属していた団体と喧嘩別れするような形でSWSに来ている。だから、レスラーサイドで話し合って、団体が動き始めてから田中社長には説明しようということになった」つまり、SWSを興したメガネスーパー田中八郎社長は、プロレスを真剣勝負の純粋な格闘技だと思っていたというのです。驚くべき話ですが、99億円もの巨額の資金を投入して参入する新規事業の内容も把握していなかったというのは、経営者として完全に失格ですね。



SWSはトラブル続きの団体でしたが、トラブルメーカーとして知られる元横綱北尾光司を受け入れてから前代未聞の不祥事が発生します。91年4月1日、神戸ワールド記念ホールで北尾はジョン・テンタと対戦しましたが、試合を一方的に放棄し、反則負けになると、テンタに向かって「この八百長野郎!」と暴言を吐いたのです。著者は述べます。
「この時、北尾を焚きつけたのはドン荒川だと言われているが、こいつも調子のいい奴だった。あっちこっちに自分の都合のいいことばかりを吹き込んで、トラブルを誘発する。田中社長にも『今度、長嶋茂雄を紹介しますよ!』などと調子のいいことを言ってゴマ擦りばかりしていた。この神戸大会の時も、荒川が『カブキが横綱のことを潰そうとしている』と吹き込んだことで北尾の様子がおかしくなったという。要はマッチメーカーの高千穂さんがテンタを使って、北尾を懲らしめようとしているというのだ。それを信じた北尾は仕掛けられるかもしれないと疑心暗鬼になり、目潰しをするような仕草でテンタを挑発したりして、試合中もまったく組み合おうとしなかった」



プロレスラーとしての著者には、つねに「強い」というイメージが付いていました。「喧嘩をさせたら最強」とも言われました。そんな著者は、当時全盛だったバーリ・トゥードに挑むことになります。1995年9月26日、著者の47歳の誕生日のことでした。第19章「47歳の誕生日にバーリ・トゥードに挑戦」では、以下のように述べています。
駒沢オリンピック公園体育館で開催された『バーリ・トゥード・パーセプション』で、俺は第2試合の出場だ。対戦相手は第1回UFCにも出たUSAケンポー・カラテのジーン・フレージャーで、打撃技を得意とする選手だった。とにかく捕まえて倒し、関節技を極める――。俺の狙いは、それだけだった。ところが、勝負はそこまで甘くなかった。フレージャーを捕まえに行ったところで左フックを食らい、俺はいきなりダウンしてしまった。何とか立ち上がって再び捕まえに行ったが、再び一発いいのを食らってKO負けとなる。最大の敗因は、甘く見ていたことだ」



「あとがき――プロレスは『最高の仕事』だった」では、著者は「プロレスは、夢でもロマンでもない。俺にとっては、あくまでも生きていくために必要な仕事だった。プロレスをやって一番良かったのは、金を稼げたことだ」と言います。また、「特別な区切りは必要ない。プロレスは、俺にとっては天職だった。そして、俺はプロとして自分の仕事を全うしたと思っている。それは最高に面白く、刺激的で、人生を満たしてくれた仕事だった」とも語っています。
なんという爽やかな言葉でしょうか!
ここまではっきりと言い切ることのできる著者には感銘を受けました。著者は、本当に満足のゆく人生を歩んだ人だと思います。心からご冥福をお祈りいたします。合掌。

 

ケンドー・ナガサキ自伝 (G SPIRITS BOOK)

ケンドー・ナガサキ自伝 (G SPIRITS BOOK)

  • 作者:桜田 一男
  • 出版社/メーカー: 辰巳出版
  • 発売日: 2018/05/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

2020年5月17日 一条真也

『‟東洋の神秘”ザ・グレート・カブキ自伝』

“東洋の神秘

 

一条真也です。
『“東洋の神秘"ザ・グレート・カブキ自伝』ザ・グレート・カブキ著(辰巳出版)をご紹介します。2014年に刊行された本ですが、その年にデビュー50周年を迎えた往年の人気レスラー"東洋の神秘"ザ・グレート・カブキが自身のキャリアを総括する本格的自叙伝です。日本プロレスでの若手時代に始まり、一大ブームを巻き起こした全日本プロレス時代、メガネスーパーが設立した新団体SWSへの参加、平成維新軍のメンバーとして活躍した新日本プロレス時代まで波乱万丈の人生を歩んできた「プロレス界のご意見番」が今、すべてを語り尽くしています。



著者は、本名・米良明久。1948年9月8日、宮崎県延岡市出身。64年、日本プロレスに入門。同年10月31日、宮城・石巻市での山本小鉄戦でデビューしました。団体が73年4月に活動停止すると、全日本プロレスに合流。81年に遠征先のアメリカでザ・グレート・カブキに変身して大ブレイクし、83年の日本逆上陸は社会的ブームとなった。98年9月7日、IWAジャパンのリングで現役を引退。2002年10月に復帰し、現在は東京・飯田橋で「BIG DADDY酒場かぶき うぃず ふぁみりぃ」を経営しています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「まえがき」

第1章 隠れ里伝承に包まれたミステリアスな俺の家系

第2章 15歳で日本プロレスに入門を直訴

第3章 リキ・パレスにあった「道場」という名の地獄

第4章 突然の人員整理と5万円の退職金

第5章 芳の里さんに授けられた「高千穂明久」の由来

第6章 生意気な後輩は制裁すべし!

第7章 "若獅子"アントニオ猪木と初対面

第8章 東南アジア遠征で暴動が発生

第9章 後輩・マサ斎藤とロサンゼルスで再会

第10章 デトロイトで「ヨシノ・サト」に変身

第11章 ミツ荒川とNWF世界タッグ王座を獲得

第12章 「おまえらに俺の気持ちがわかってたまるか!」

第13章 1973年4月20日、日本プロレスが消滅

第14章 オーストラリア遠征で起きたハイジャック事件

第15章 「馬場さん、アメリカに行かせてください!」

第16章 ミスター・サイト―&ミスター・サト

第17章 「ダラスのオフィスから電話がなかったか?」

第18章 “東洋の神秘"ザ・グレート・カブキの誕生

第19章 俺が各テリトリーで飽きられなかった理由

第20章 佐藤昭雄が仕組んだカブキの凱旋帰国

第21章 新日本プロレス副社長・坂口征二の誘惑

第22章 「受け身」と「ガチンコ」の重要性

第23章 天龍同盟と繰り広げた「アメリカンプロレス」

第24章 ハル薗田ブルーザー・ブロディを襲った悲劇

第25章 「源ちゃん、俺も全日本にはいたくないんだよ」

第26章 俺が戦ってきた外国人トップレスラーたち

第27章 新団体SWSのマッチメーカーに就任

第28章 歪んだ人間関係が生み出した2つの事件

第29章 派閥闘争の末、SWSが2派に分裂

第30章 楽しかった反選手会同盟~平成維震群時代

第31章 “マイ・サン"グレート・ムタとの親子対決

第32章 初めて足を踏み入れたインディーの世界

第33章 49歳最後の日、10カウントを聞きながら

「あとがき」

 

第1章「隠れ里伝承に包まれたミステリアスな俺の家系」では、著者が1948年(昭和23年)、宮崎県延岡市山下町で3人兄弟の末っ子として生を受けたことが紹介され、さらには以下のように述べています。
「親父は、宮崎県椎葉村の出身だ。親父自身が言うのは、先祖は平家の落人だったらしい。実際、この辺は平家の落人の隠れ里だったという伝承が残っている。あの源氏方の武将で、弓の名人として名高い那須与一の弟・大八郎が平家の残党狩りに来た際、この地で平家の娘と恋に落ち、子供を授かったという。のちに俺がザ・グレート・カブキというミステリアスなキャラクターのレスラーになったのも、そんな謎めいた血筋のせいという気がしないでもない」
椎葉村といえば、日本民俗学発祥の地としても知られる秘境です。ブログ「椎葉村」で紹介したように、わたしも昨年10月に訪れました。たしかに、ミステリアスな場所でした。ここがカブキのルーツだったとは驚きです。



第8章「東南アジア遠征で暴動が発生」では、後輩レスラーであるタイガー戸口との出会いが書かれていて、これが面白かったです。日本プロレスの若手レスラーだった著者がネルソン・ロイヤルとの試合を前に後楽園ホールの選手が出入りするエレベーターの前にいると、学生服姿の戸口がやって来て、「おい、大木金太郎さんを呼んでくれよ」と言ったそうです。著者は述べます。
「カチンと来た。まだ学生服を着ているガキが偉そうな口ぶりで話しかけてきたから当然だ。『いや、俺は試合があるから、違う人間に聞いてくれ』怒りを抑えて、俺は大人の対応をした。ところが、戸口は俺の苛立ちを理解できなかったようだ。『いいから、呼んできてくれよ』俺の堪忍袋の緒が切れた。『ふざけんな! てめえ、誰に口効いてんだ!』俺はそう怒鳴ると、思いっきり戸口を殴りつけてやった。戸口は腰から落ちて、エレベーターの前でへたり込んでいた。そんな戸口に向かって『大人をナメんじゃねえぞ!』と再び怒鳴りつけると、細い声で『すいません』と謝ってきた」
その後、2人は仲良くなり、最近では『毒虎シュート対談』という対談本まで出したのですから、人の縁というのは面白いですね。

 

第18章「“東洋の神秘"ザ・グレート・カブキの誕生」では、1981年にペイントレスラーザ・グレート・カブキとなって全米を転戦していたとき、かの毒霧を思いついた瞬間のことが書かれています。
「ある日、面白いことを思いついた。試合後、俺はシャワーを浴びてメークを落としていた。シャワーは高いところにあるから、どうしても水が口に入ってきてしまう。オレはその口に入った水を天井に向かって、フッと噴いてみた。すると、俺の噴いた水をライトが照らして虹のようにキラキラと輝いているではないか。その瞬間、俺は『これだ!』と思った」



 さらに、毒霧について、著者は述べています。
「毒霧は噴くタイミングが重要だ。まずは入場してきたときに一発、緑の毒霧を噴く。そして、試合中に赤い毒霧を噴くのだが、なるべくコーナーに近い場所で相手の技を受けるようにした。そうすると、相手は自然とコーナーに上り、飛び技を放とうとする。その瞬間に下から相手の顔に目掛けて、毒霧を噴き上げるのだ。そうすると、相手とリングを照らすライトが一直線上に並んでいるため、相手を包み込むように見える。これが水平に噴いてしまうと、ライトの光に当たらないので、いまいち観客にわかりづらい。あくまで下から噴き上げてこそ、観客に‟毒霧”として認識されるのだ」



「東洋の神秘」としてアメリカで大ブレークした著者は、その後、帰国して全日本プロレスを主戦場とします。85年頃、新日本で一大ブームを作り上げた長州力維新軍団が離脱して新団体ジャパンプロレスを立ち上げ、全日本に乗り込んできました。当然、著者も彼らと試合をするようになりましたが、まったく噛み合いませんでした。著者は
「なにしろ、長州たちは相手の技を受けようとしないのだ。改めて説明するまでもなく、技を受けて対戦相手を引き立たせてやることもプロレスでは重要なことである。ところが、長州たちは一方的に攻めるだけなのだ。とにかくこの頃の長州たちは自分たちが強く、カッコ良く見えればそれでいいという試合スタイルを貫いていたから、俺は戦いながらイライラしていた」と述べます。

 

著者は、長州力のプロレスは認めていませんでしたが、天龍源一郎のプロレスは認めていました。全日本でジャンボ鶴田に次ぐ存在だった天龍は阿修羅・原、川田利明サムソン冬木冬木弘道)、北原辰巳(光騎)、小川良成らを集めて「天龍同盟」を結成し、鶴田らの全日正規軍と抗争しました。著者は正規軍として天龍同盟に対向する立場でしたが、「俺はこの時期に彼らがやっていたプロレスこそ、本当のアメリカンプロレスだと思っている。みんな勘違いしているかもしれないが、本当のアメリカンスタイルはチョップでもキックでもパンチでもバチバチやり合うものだ。しかも源ちゃんたちは攻めも激しいが、受けも抜群だった。俺は久しくこういう試合をやれていなかったし、ファンも喜んでいたので、戦いながら嬉しかったというのが本心である」と述べています。



第26章「俺が戦ってきた外国人トップレスラーたち」では、プロレス界の最高峰とされたNWA世界ヘビー級王者について、こう述べています。
「NWA世界王者は各テリトリーを回り、現地のベビーフェイスの挑戦を受けるのが仕事だ。大きな選手から小さな選手まで様々なタイプの挑戦者を迎え撃つわけだから、平均的な体格がいい。その方が相手が引き立つから当然だ。言ってみれば、NWAのチャンピオンは“相手の引き立て役”という側面も持っている。だから、どんな試合でもこなせるような選手が好まれる」
著者はNWA世界王者だったジン・キニスキー、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクハーリー・レイスらを高く評価する一方で、ジャック・ブリスコなどは「自分本位の試合をする男だった」と低評価を下しています。


「あとがき」では、日本のプロレス界全体を俯瞰して、以下のように述べています。「プロレスが変わり始めたのは、馬場さんがキッカケだと俺は思っている。大仁田厚渕正信ハル薗田の3バカがまだ全日本の若手だった頃、馬場さんはこんなことを言っていた。『おまえら、できる技があるんだったら何をやってもいいぞ』それまでは若手がメインイベンターの使うような技を使ってはいけないという仕来りがあった。俺や(佐藤)昭雄はそのように若手たちを教えていたし、俺もそう教えられてきた。その仕来りを馬場さんが破ったのだ。規格外の体格を持つ馬場さんの技は、誰も真似できない。だから、何をやってもOKと言えるのだ。これ以後、第1試合から平気でバックドロップのような大技が出るようになった。俺は一度、大仁田と渕が第1試合で大技を使ったので引っ叩いて叱ったことがあったが、この辺は馬場さんとの間でずっとせめぎ合いがあった」



著者は、新日本プロレスについても言及し、「意外にも自己主張の激しいレスラーが多い新日本の前座は、そうでもなかった。俺が平成維震軍として参戦していた頃、若手は若手らしい試合をしていたし、大技が飛び出すのは興行の後半になってからだった。おそらく山本小鉄さんがしっかりと教育していたのだろう。しかし、全日本の若手が大技を使うようになっていたこともあり、新日本も次第に崩れ始めた。技を制限すると、技に頼らない試合の組み立て方を覚える勉強になる」と述べています。



本書は、全米マットで一世を風靡した著者が、日本マット界の未来を憂う形で終わっていますが、このときからすでに6年の歳月が経過しています。71歳になった著者は、現在の日本のプロレス界をどのように見ているのでしょうか?

 

“東洋の神秘"ザ・グレート・カブキ自伝

“東洋の神秘"ザ・グレート・カブキ自伝

 

 

2020年5月16日 一条真也

『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』

永遠の最強王者  ジャンボ鶴田

 

一条真也です。
5月13日は、ジャンボ鶴田の20回目の命日でした。その日に発売され、その日のうちに読了した『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』小佐野景浩著(ワニ・ブックス)をご紹介いたします。ソフトカバーながら592ページの大著ですが、一気に読みました。それにしても、命日に評伝本が出されるのは、故人にとって最高の供養ですね。

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本書の帯

 

カバー表紙には、往年のジャンボ鶴田のリング上の雄姿の写真が使われ、帯には「普通の人でいたかった怪物」と大書され、「今でも根強い〝日本人レスラー最強説〟と、権力に背を向けたその人間像に迫る!没後20年――今こそジャンボ鶴田を解き明かそう!」「元『週刊ゴング』編集長 小佐野景浩」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

また、カバー前そでには「鶴田の何が凄かったのか、その強さはどこにあったのか、最強説にもかかわらず真のエースになれなかったのはなぜなのか、総合的に見てプロレスラーとしてどう評価すべきなのか――などが解き明かされたことはない。もう鶴田本人に話を聞くことはできないが、かつての取材の蓄積、さまざまな資料、関係者への取材、そして試合を改めて検証し、今こそ〝ジャンボ鶴田は何者だったのか?〟を解き明かしていこう――」という、著者よりのメッセージが記されています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「はじめに」

第1章 最強の原点

第2章 ミュンヘン五輪

第3章 エリート・レスラー

第4章 驚異の新人

第5章 馬場の後継者として

第6章 逆風

第7章 真のエースへの階段

第8章 覚醒

第9章 鶴龍対決

第10章 完全無欠の最強王者

第11章 そして伝説へ

「おわりに」 



「はじめに」では、幼少の頃からプロレスファンだったという著者が「怖くて、強いという従来のプロレスラーのイメージとは違い、鶴田は爽やかで明るく、当時の日本の子どもが憧れていたアメリカの自由な空気感をまとっていた。デビュー早々に4種類のスープレックスを華麗に操り、196cmの長身を生かしたダイナミックなドロップキックは驚きだった。アントニオ猪木が好きだった私でも『若くてカッコいいな!』と理屈抜きに鶴田ファンになった」と述べています。



鶴田は豊かなポテンシャルを感じさせながらも、本気で怒らない、必死になる姿を見せないと批判も浴びてきました。しかし、著者は以下のように述べます。
「本人は『いやいや、そんなことはありませんよ』と否定するかもしれないが、天龍と相対した時、三沢光晴らの超世代軍と相対した時には明らかに本気で怒り、時にジェラシーの炎を燃やした。それが怪物的な強さを生んだ。そしていつしかジャンボ鶴田日本最強説が生まれた。だが、鶴田の何が凄かったのか、その強さはどこにあったのか、最強説が根強いにもかかわらず真のエースになれなかったのはなぜなのか、総合的に見てプロレスラーとしてどう評価すべきなのか――などが解き明かされたことはない」
それを解き明かすために、本書は書かれたのです。



本書の冒頭には、鶴田友美(後のジャンボ鶴田)の少年時代が描かれていますが、「朝日山部屋入門事件」というのは初めて知りました。1964年の夏、中学2年生だった鶴田少年は大相撲の朝日山部屋に入門させられたそうです。相撲好きの親戚に連れられて東京見物に行った際に体験入門させられ、自覚のないまま新弟子検査に合格したというのですが、本人の意思ではなかったために夏休みが終わると故郷に戻りました。しかし、地元の人々は「相撲の稽古が辛くて逃げ帰ってきたらしい」「身体は大きくても根性なしだ」と陰口を叩いたとか。それで鶴田少年は「オリンピックに出て、陰口を叩いていた人間を見返してやる!」と思ったとか。それが高校、大学でのバスケットボール、アマレス、最終的にはプロレスに到達することになるのでした。



日川高校に入学したとき、鶴田少年の身長はすでに192cmだったそうです。バスケットボール部に入部し、エースになりました。さぞかし女子にモテたのではないかと思いますが、思春期の少年にとって大きいことはコンプレックスだったようです。鶴田の同級生の池田実氏は「やっぱり大きすぎるという劣等感があったんですよ。ホントに嫌がってましたよ。そりゃあ、目立ちますよね。あれだけ目立てば注目の的ですよ。みんな好奇の目で見ますわ、あの頃は。常に人から見られていたらかなわないですよ。それから、ちょっと吃音があるというのもあったんですよ。なかなか上手くしゃべれなかったんですよね。仲良くなってしまえば大丈夫なんですけど、親しくなるまで、ちょっとナイーブというか」と述懐しています。ルー・テーズ大山倍達などが代表的ですが、格闘技の猛者には吃音がよく見られるようです。鶴田もそうだったとは知りませんでした。



中央大学法学部に入学した鶴田は、バスケットボール部に所属しながら、レスリング部にも出入りするようになります。団体競技であるバスケよりも個人競技の方がオリンピックに出場しやすいと考えたのですが、柔道やボクシングを含む選択肢の中から、最後に残ったのがレスリングでした。中大レスリング部が名門だったことも大きく影響しました。中大レスリング部は多くの五輪メダリストを輩出していますし、鶴田よりも後の世代ですが、桜庭和志や諏訪間もOBです。鶴田はミュンヘン五輪に出場し、グレコローマン100kg以上級に参加しましたが、12選手が参加した中で1勝もできませんでした。当時のレスリング重量級の世界の壁は途方もなく高かったのです。



同時代に活躍したレスリングの選手としては、同じ72年ミュンヘン五輪に韓国のフリー90kg級代表(3回戦失格)として出場した吉田光雄(長州力)、76年モントリオール五輪フリー90kg級代表(4回戦失格)、80年モスクワ五輪フリー100kg級代表(日本のボイコットにより不参加)の谷津嘉章がいます。その中で誰が一番強かったのかというテーマは興味深いですが、中大レスリング部主将でアマレス時代の長州に勝ったこともある鎌田誠は「鶴田、長州、谷津の3人を並べたら、谷津が一番強かったんじゃないかな。アマチュアのルールで試合をやったらね」と述べます。



また、ミュンヘン五輪フリー100kg級以上の代表選手だった磯貝頼秀は「時代が違うけど、やっぱり強かったのは谷津ですよね。鶴田は経験が2~3年だから比較したら可哀相だけど。奴はスタミナもあったし、いい片足タックルも持っていたし、凄く強かった。長州に勝った鎌田さんとか、その時代の人にも勝ち抜いていますから、やっぱり谷津が強かったんじゃないですか?」と述べます。後に全日本プロレスで鶴田と五輪コンビを組む谷津ですが、さすがに「日本アマレス史上最強」と呼ばれただけのことはありますね。



鶴田は、五輪出場も就職のための学歴としてとらえていたといいます。大学卒業前の1972年10月31日赤坂プリンスホテル全日本プロレス入団が発表されました。そのとき、鶴田は「プロレスは僕に最も適した就職だと思い、監督と相談の上、尊敬する馬場さんの会社を選びました」と挨拶しましたが、この発言は非常に有名になりました。著者は、「それまでのプロレス入りは『団体への入門』だったが、鶴田は『会社への就職』と言った。徒弟制度だった日本プロレス界に一石を投じる言葉で、当時のプロレス・マスコミを感心させる一方で、これがのちには『鶴田=サラリーマンレスラー』というマイナスイメージを生むことになってしまう」
全日本に入団した鶴田は、下積みを経験せずにアメリカに送られてデビュー。スタン・ハンセンと一緒に修行しながら、ドリー・ファンク・ジュニアのコーチを受けます。入団記者会見から1年後の73年10月には、馬場と組んでドリーとテリー・ファンクのファンクスが保持するインターナショナル・タッグ王座に挑戦しているのですから、いかに破格の黄金ルーキーだったかがわかりますね。



デビュー以来、鶴田はNWA世界王者をはじめとしたアメリカの強豪たちに胸を借りながら、順調にエリート・レスラーとしての道を歩みます。75年暮れ、全日本は一大イベントを開催します。力道山13回忌追悼&アメリカ建国200年&全日本プロレス創立3周年の記念と銘打った「全日本プロレス・オープン選手権」です。これは、前年74年から馬場に執拗に対戦をアピールし、日本選手権の開催を訴えていた新日本プロレスアントニオ猪木に対して「門戸を開放するので、参加すれば、貴殿が望む馬場線実現の可能性もあり」という返答でした。



猪木は「馬場と戦うのは日本選手権であるべき。お祭りには参加できない」と拒絶しましたが、国際プロレスラッシャー木村グレート草津マイティ井上をはじめ、大木金太郎ヒロ・マツダが参加を表明、全日本からは馬場、鶴田、ザ・デストロイヤーアントン・ヘーシンク、外国人勢はドリー・ファンク・ジュニア、アブドーラ・ザ・ブッチャーディック・マードックホースト・ホフマン、ドン・レオ・ジョナサン、パット・オコーナーハーリー・レイスダスティ・ローデス、バロン・フォン・ラシク、ミスター・レスリング、ケン・マンテルといった錚々たるメンバーが参加しました。これは猪木の参加を想定してのものでした。


この大会の発案者は、馬場のブレーンで、鶴田と天龍の全日本入りを手引きしたことでも知られる森岡理右でしたが、「あれが猪木を黙らせようとしてやったこと。『オープン』という名称にしたのは、〝対戦したがっている猪木さんに対してもオープンな姿勢ですよ″という意味だから。それでガチンコの強い連中を集めてね。僕と馬場、原章の3人で〝一番手はホフマン、次にマードック、そしてレイス、よしんば猪木が勝ち上がってきたとしたら、最後はデストロイヤーをあてて・・・・・・″ってカードを全部考えていた。当時でもデストロイヤーは強かったからね。他にオコーナー、レスリング、ジョナサンといった錚々たる連中がいたわけだから、どうやったって猪木は勝てなかったよ」と語っています。この大会には「ファンが最も観たいカード」の応募企画がありましたが、1位は馬場vs鶴田の師弟対決でした。

 

若き日の鶴田にとって大きな収穫だったのは、〝人間風車ビル・ロビンソンと遭遇したことです。鶴田とロビンソンの対決は〝夢のスープレックス対決″として注目されましたが、76年7月17日に北九州市小倉の三萩野体育館(!)で「ジャンボ鶴田・試練の10番勝負」の第4弾として待望の一騎打ちが行われたのです。三萩野体育館には冷房設備がなく、うだるような暑さでしたが、2人は計65分も戦って引き分けでした。著者は「ロビンソンと戦うようになってから、鶴田はダブルアーム・スープレックスをドリー式の『大きく、ゆっくり』から、徐々にロビンソン式の『速く、強く』に変えていった」と述べています。



また、馬場も鶴田に「ロビンソンからいろんな技を学んだらどうだ?」とアドバイスしたといいます。著者は、「実現できなかったが、馬場はのちの『世界最強タッグ決定リーグ戦』でロビンソン&カール・ゴッチの世界最強コンビを考えるなど、確かな技術を持ったレスラーが好きだったのだ。パット・オコーナーダニー・ホッジ、若かりし頃に指導を仰いだビル・ミラーも馬場が認めていた実力者である」と述べているのですが、ということは、じつはアントニオ猪木というプロレスラーは馬場好みだったのかもしれませんね。馬場は、鶴田を猪木のようなレスラーに育てたかったのではないでしょうか。若き日の鶴田について、馬場は「実力は十分にあるのだから、あとは猪木のような表現力を身につけてほしい」などと語っていたといいます。



ロビンソンに続いて、若き鶴田の好敵手となった外人レスラーは、〝仮面貴族″ミル・マスカラスです。77年8月25日、田園コロシアムにおいて、女性ファンを開拓した鶴田と、少年少女ファンを開拓したマスカラスのドリームマッチ3本勝負が実現しました。1本目はマスカラス、2本目は鶴田が取った後、決勝の3本目はコーナー最上段から場外の鶴田にスーパーダイブを敢行したマスカラスが雨で足を滑らせて客席に突っ込んでしまい、リングアウト負けになりました。著者は、「結末こそ残念だったが、内容はハイレベル。そして若いファンの応援合戦というプロレスの新風景を生んだこの一戦は、77年度のプロレス大賞年間最高試合賞を受賞した。鶴田にとっては、『プロレスは強さを追求する〝実力勝負の世界″と、芸術面を追求する〝観客を魅了する世界″のバランスが大切だ』ということを考えるきっかけになった試合だったという」と述べています。



マスカラスとのアイドルレスラー対決に続いて、鶴田のプロレス人生で待っていたのは「最初で最後の異種格闘技戦」でした。78年2月5日に後楽園ホールで行われた〝柔道王″アントン・ヘーシンクとのUNヘビー級防衛戦です。76年2月、アントニオ猪木ミュンヘン五輪の柔道無差別級および重量級の金メダリストであるウィリエム・ルスカと初めての異種格闘技戦を行いましたが、ヘーシンクは東京五輪の無差別級金メダリストです。東京五輪の直後からヘーシンク獲得に動いていた日本テレビの悲願が実って全日本プロレス入りしましたが、プロレスラーとしては大成しませんでした。鶴田との一騎打ちについて、著者は「結末を先に書いてしまえば、ヘーシンクがエプロンからリング内の鶴田に裸絞めを仕掛けて反則負けという不透明決着で『鶴田のUN防衛戦史上の大凡戦』とされているが、それはあくまでもプロレス的な見方からの評価。異種格闘技戦的な目で見ると、かなり興味深い攻防が展開されている」と述べています。結局、これがヘーシンクの全日本ラストマッチになりましたが、鶴田はヘーシンクのナチュラルな強さを認めていたそうです。



鶴田のライバルといえば、なんといっても天龍の名前が思い浮かびますが、天龍の前にキム・ドクことタイガー戸口がいました。入団した日本プロレス崩壊後、独力でアメリカ各地を渡り歩いてきた戸口は、エリート・コースを歩む鶴田に激しい対抗意識を抱き、72歳になった今も、「鶴田は作られた偽りのスターだ!」と激しい言葉を口にするそうです。その戸口と鶴田の試合では、日本のプロレスファンは〝韓国の龍神″ドクの193cmの長身から繰り出されるスケールの大きなアメリカン・プロレスに目を見張りました。ドクは鶴田と同じように、NWAのファンクス、ジャック・ブリスコ、レイス、マードック、AWAのバーン・ガニア、ロビンソンからもプロレスを学んでいたのです。著者は、「お株を奪うダブルアーム・スープレックスで鶴田を叩きつけ、さらにサイド・スープレックス、ショルダーバスター、ガニアとの構想から盗んだと思われるスリーパー・ホールドなど、大技で鶴田と互角に渡り合うドクに、当時のファンは『もうひとりの鶴田がいた!』という驚きの声を上げた」と書いています。



さて、当時の鶴田について、著者は「鶴田の試合は、相手のリードにしっかり対応して、そこからはみ出ることがなかった。よく言えば安心して観ていられるし、アベレージ以上の内容になるが、一手先がわからないハラハラ感や緊張感はなく、巧くこなしている感が出てしまっていた。その一方で垣間見えたのはプライドの高さだ。頭を掻きむしって『オーッ!』と怒りを表すパフォーマンス、頭を抱えながら痛がる姿、身体をヒクヒクと痙攣させてダメージを表現する姿は、『実はこんなに余裕があるんだよ』ということを暗にアピールしているように見えたのである。それではファンの心は掴めない」と述べていますが、まさに若大将時代のジャンボ鶴田の本質を衝いた分析だと思います。



鶴田は「善戦マン」などと呼ばれ、NWAやAWAといった世界タイトルにも何度か挑戦しますが、いつもあと一歩で王座奪取に失敗しました。そんな鶴田がついに日本人初のAWA世界王者に君臨したのが84年2月23日でした。蔵前国技館で行われたAWA世界王者ニック・ボックウィンクルとインターナショナル王者ジャンボ鶴田のダブル・タイトルマッチで、鶴田はニックにバックドロップ・ホールドを決め、特別レフェリーのテリー・ファンクはしっかりと3カウントを数えました。著者は、「鶴田の快挙は世界タイトルマッチは時間切れ、もしくは反則やリングアウト絡みで完全決着がつくことが少ないという全日本の悪しき伝統を断ち切って、ピンフォールでAWA世界王座奪取をやってのけただけではない。世界王者としてベルトを腰にアメリカに逆上陸して全米をサーキットしたことだ」と述べています。確かに、これは前代未聞の快挙でした。



続いて、著者は「馬場はジャック・ブリスコを1回、ハーリー・レイスを2回破り、NWA世界王座に3度も就いたが、いずれもシリーズ中に王座を奪回されているし、79年11月30日に徳島市立体育館でボブ・バックランドを下して日本人初のWWFヘビー級王者になったアントニオ猪木も、1週間後の再戦は無効試合になって王座を返上。同月17日のニューヨークMSGに王者として登場することはできなかった。しかし鶴田は、84年2月26日に大阪府立体育会館でニックのリターンマッチを退けて初防衛に成功し、3月3日にウィスコンシン州ミルウォーキーのメッカ・オーデトリアムに天龍とのコンビで出場して、『新AWA世界ヘビー級王者』と紹介された」と述べています。結果として、5月13日にリック・マーテルに敗れて王座を失うまで、鶴田は81日間に渡って世界王者として全米をサーキットしたのです。



1985年、全日本プロレスに激震が走ります。前年に新日本プロレスを離脱した〝革命戦士″長州力率いるジャパン・プロレス軍団が全日マットに登場したのです。全日本vsジャパンの頂上決戦が、同年11月4日に大阪城ホールで行われた鶴田と長州の一戦でした。伝説の60分の戦いは今も語り継がれていますが、「鶴田と長州の実力差があり過ぎた」とか「いや、長州が鶴田の強さを引き立てたのだ」とか、諸説が入り乱れています。当の長州ですが、2012年10月5日の髙田延彦とのトークショーで、伝説の一戦を振り返り、「鶴田先輩は本当に強い。もう、全然! やっぱり、鶴田さんのほうが凄かったですよ。僕はあの人のペースに合わせちゃうと、絶対駄目なんですよ。僕は常に動くタイプなんだけど、自分のペースには入れさすことができなかったですね。それで、しんどい思いにはなりましたよね。難しいです。あの人のペースでやっちゃうと、僕はもう完全に自分のキャラはないです。僕はもう2度とやりたくないですね。要するに、流れが絶対合わないというか。流れの奪い合いはやってるんだけど、やっぱりそれは崩せなかったですね」と語っています。著者はこの長州発言について「本音だった気がする」と述べていますが、わたしもそう思います。



長州との一戦で尋常ではないスタミナと強さをプロレスファンに見せつけた鶴田は、次第に「最強」のイメージを濃くしていきます。88年春には、インター王者の鶴田、UN王者の〝風雲昇り龍″こと天龍、PWF王者の〝不沈艦″スタン・ハンセンに、馬場の恩赦によって新日マットから戻ってきた〝超獣″ブルーザー・ブロディを加えた4選手による三冠統一闘争が勃発しました。まずは3月9日、横浜文化体育館でハンセンを首固めで撃破した天龍がUN&PWF二冠王者になりました。次に3月27日、日本武道館で天龍がハンセンを相手に二冠防衛に成功。続いて、鶴田とブロディのインター戦が行われましたが、大方の予想に反して、この大一番をブロディが制しました。キングコング・ニードロップで鶴田を破ったブロディは、号泣しながらリングサイドの観客と抱き合って喜びを爆発させました。こんなブロディの姿を見るのは、誰もが初めてでした。あのブロディが勝利して泣くほど、鶴田は怪物的に強くなっていたのです。



そして、怪物と化した鶴田に戦いを挑んだのが生涯最高のライバルであった天龍です。もともと「週刊ゴング」の天龍番の記者であった著者は「鶴龍対決がプロレスファンの心を掴み、熱狂させたのは、プロレスラーとしての技量、主張をぶつけ合うだけでなく、生き方、価値観、人間性・・・・・・それこそお互いの存在すべてをぶつけ合う戦いだったからだ」と述べ、以下の天龍の発言を紹介しています。
「人生から価値観から、すべてが対極にいる人が反対側のコーナーにいたわけだから、これは面白かったよ。すべてが面白かったね。やってることすべてが・・・・・・変な表現だけど、箸の上げ下げから気に食わないとか、やってることすべてがジャンボにつながるんだからさ。あの頃は毎日すべてがプロレスだったから。それはジャンボの言葉がどうであれ、ジャンボもそうだったと思うよ。余裕を持ちながらやっているっていうのが彼の美学だったからね。あのジャンボが真っ向から来てくれたのは俺の財産。俺はジャンボが〝天龍とやってもいいか″って立ち止まってくれたからこそ、その後の天龍源一郎があると思っているし、みんなにジャンボが怪物だって言わしめたのは〝俺が真っ向から行ったからだ!″っていう自負もあるよ」



さらに天龍は今、「鶴龍対決は俺にプロレスの楽しさを教えてくれたよ。それと〝一生懸命やっていたら、誰かが見ていてくれる″っていう天龍源一郎の存在感を生んでくれたよ。今思うとね、ボロボロにされたっていう印象だね。〝こんなにボロボロにされたのはジャンボ鶴田と真っ向から戦ったからだ″という誇りもあるけどね。長州との闘いとはまた違うんだよ。破壊力と、プロレスのスタイルが違った。長州は一応、テクニックで攻めるプロレスだけど、ジャンボはぶっ壊しにくるプロレスだったからね。本当に俺をぶっ潰そうという気概で攻めてきてくれたよ、そのあとの三沢たちとの試合も凄かったけどね。俺は、あれを堪え切れたから、60すぎになって若いあんちゃんと試合をやっても、〝ジャンボとやった俺がこんなあんちゃんに!″っていうのがやめるまでずっとありましたよ。いいプロレスの基礎と、いい思い出をジャンボによって与えられましたよ」と語ります。著者は、「懐古ではなく、鶴龍対決は今でも最高のプロレスだと私は思っている」と告白しています。



天龍が「三沢たちとの試合も凄かったけどね」と述べたように、三沢光晴をはじめとする超世代軍との戦いも、鶴田の怪物ぶりを強く印象づけました。渕正信によれば、「あの頃は三沢たちが突っ掛かっていって、鶴田さんがムッとした顔をしただけで〝ダメだよ、ジャンボを怒らせちゃ!″っていう空気になった」そうですが、鶴田は後輩である三沢らにナマの感情を引き出されて、かつて馬場に指摘された「技術的に凄いものを持っているのに表現力が駄目なんだ」を克服したのでした。また、和田京平レフェリーは、「三沢の凄さってスタミナなんだけど、そのスタミナを作ったのがジャンボ鶴田。敵わないからジャンボにやるだけやらせて、ジャンボが疲れたのを見極めてやっつけに行く三沢だったよね。ジャンボ鶴田を疲れさせるための受け身によって、あの時代の三沢は出来上がったんじゃないのかな。三沢は受けながら、自分のスタミナをコントロールできた。だから相手の技を全部吸収したよね、逃げることなく」と語っています。



三沢だけでなく、川田利明も鶴田に鍛えられました。著者が川田に「鶴田は怪物だったのか、最強だったのか」を聞いてみたところ、川田は「昔は体力面じゃないところで怪物をアピールするプロレスラーが多かったじゃない。たとえば〝肉をこれだけ食った″みたいな。人とは違った怪物ぶりをアピールして、名前を売っていた時代に比べると、鶴田さんは〝全日本プロレスに就職します″って言ったぐらいだから、入ってきた時からそういう意識はまったくなくて、プロレス界でお堅く生きていこうって思ったんじゃないかなと思うから、それまでの怪物とは全然違うよね。でも、最強かって聞かれれば・・・・・・最強だと思いますよ。プロレスラーとして最強かどうかっていうのは、また別で、お客さんに喜んでもらえるとか、人を惹きつけるとかいう面では違うと思うけど、フィジカル的なものでは最強だと思う。ファンの人たちに共感されにくかったのは、強すぎるがゆえにというのがあったと思うよ。でも超世代軍とやっていた時に指示されたのは、鶴田さんが俺らみんなを余裕を持っていじめたからだよ。もう、みんなが鶴田さんの強さを理解しちゃっていたからね」と語るのでした。



最後に、気になるのは鶴田と馬場との関係です。
77年に起こった全日本プロレスのクーデター未遂事件から両者の間に不信感が芽生えたようにも思えますが、著者は「私は取材をしていて、鶴田は常に馬場と一定の距離を取っていることを感じていた。社長の馬場は、選手たちにとっては近寄りがたい存在だったのはたしかだが、鶴田の場合は、全日本の黎明期からの師弟関係にもかかわらず、何か他人行儀なのだ。馬場にして鶴田に一目置きつつも、明らかに天龍のほうを信頼して、大事なことは天龍に相談していたし、天龍もまた自然体で馬場に接していた」と述べています。また、「馬場は天龍、三沢にはピンフォールを許したが、鶴田にはついに一度も負けなかった」という事実も示しています。プロレス馬鹿に徹することができなかった鶴田に対して、馬場は最後まで物足りなさを感じていたのかもしれません。天龍が全日本プロレスを離脱してSWSへ行くとき、馬場は「お前を社長にするから」と慰留したそうです。



でも、いくら馬場が物足りなさを感じたとしても、それが鶴田の本質だったのでしょう。「おわりに」で、著者は「昔の真のトップレスラーの条件は、力道山に始まり、ジャイアント馬場アントニオ猪木がそうであったように、自分で団体を起こして、なおかつトップレスラーに君臨することだった。しかし、鶴田はそうした権威、天下獲りに背を向けた。望んだのはリング上のトップだけで、リングを降りたらプロレスを忘れて、家族と人生を謳歌する普通の人でいたかったのだ」と述べています。しかし、「計画どおりにはいかないのが人生。図らずも波乱万丈になってしまった鶴田の後半の人生はドラマチックだ。結局、ジャンボ鶴田は『普通の人』にはなれなかった。その生き様は紛れもなくプロレスラーだった」と述べるのでした。

 

1999年1月31日にジャイアント馬場が死去して間もない2月20日、鶴田は引退記者会見を行い、続いて同年3月6日に日本武道館で鶴田の引退セレモニーが行われました。その後、研究交流プロフェッサー制度によりスポーツ生理学の教授待遇として、オレゴン州ポートランド州立大学に赴任することになりました。 この前後より持病のB型肝炎は肝硬変を経て、肝臓癌へ転化かつ重篤な状態へ進行していました。第三者らの進言もあり肝臓移植を受けることを決断した鶴田でしたが、日本での移植が不可能となり、海外での脳死肝移植に望みを賭けました。オーストラリアで臓器提供を待っていたところ、2000年春にフィリピン・マニラでドナー出現の報を聞き、フィリピンに渡航。国立腎臓研究所にて手術が行われましたが、肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック症状に陥り、16時間にも渡る手術の甲斐なく同年5月13日17時(現地時間では16時)に49歳で死去。この日は、奇しくも1984年にリック・マーテルに敗れてAWA世界ヘビー級王座から陥落した日と同じでした。最後までプロレスラーらしかった鶴田の戒名は「空大勝院光岳常照居士」。



かつて、日本プロレス界のトップにいた馬場と猪木が衰えを見せはじめていた頃、ジャンボ鶴田藤波辰爾長州力天龍源一郎の4人がニューリーダーとして注目されました。著者が編集長を務めた「週刊ゴング」では、4人の頭文字を集めた「鶴藤長天」というコピーを考案。「鶴藤長天」は「格闘頂点」を目指す男たちだったのです。現在、時代は令和です。4人がリング上で活躍した昭和は遠くなりました。しかし現在、天龍、藤波、長州らは「日本プロレス殿堂会」を設立して、さまざまな場で思い出を語り合っています。その場に鶴田がいないのは、やはり寂しいことです。鶴田が生きていれば、彼らとどのように語り合ったでしょうか。しかし、本書を読んで、鶴田の往年の雄姿がありありとわたしの脳裏に蘇ってきました。故人の20回目の命日に刊行された本書は、「永遠の最強王者」にとって最高の供養になったのではないでしょうか。ジャンボ鶴田こと鶴田友美氏の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。

 

永遠の最強王者  ジャンボ鶴田

永遠の最強王者 ジャンボ鶴田

  • 作者:小佐野 景浩
  • 発売日: 2020/05/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

2020年5月14日 一条真也

北九州市健康づくり活動表彰で優秀賞を受賞しました

一条真也です。
14日、安倍晋三首相は新型コロナウイルス特別措置法に基づく緊急事態宣言について、39県の解除を決定します。「特定警戒都道府県」の福岡県と石川県も解除の対象です。もちろん、まだまだ油断はできず、気の緩みは禁物ですが、とりあえず未来への光が見えてきましたね!

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優秀賞に選ばれました!

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優秀賞の表彰状

 

ところで、株式会社サンレーは、このたび、北九州市健康づくり活動表彰で優秀賞を受賞しました。北九州市は平成24年から毎年、市内企業や地域の活動団体が行っている健康増進につながる取り組みを募集し、その中から先進的・効果的な取り組みを企業部門と地域団体部門に分けて表彰しています。今年、サンレーが取り組んでいる「ともいき倶楽部」の活動が地域団体部門の優秀賞に選ばれました。

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表彰状を受け取る

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表彰状を持って

 

3月20日に西日本総合展示場で予定されていた表彰式が新型コロナウイルスの汚染拡大で中止となったため、14日に市健康医療部の岩田光正部長がサンレー本社に表彰状を届けてくださいました。「ともいき倶楽部」は65歳以上のシニア世代の方々が支援を受けるだけの立場になるのではなく、お互いが支え合って生きていくことを目的に本社近くにある研修施設「天道館」を舞台に活動しています。ブログ「ともいき倶楽部」で紹介したように、2014年10月9日に発会し、翌月からは毎月第2木曜日を「ともいき倶楽部の日」として、「笑って長寿! 笑って健康!」を合言葉に「笑いの会」を催しています。


毎日新聞」2015年7月24日朝刊

 

福岡市に本拠地を置くNPO法人「博多笑い塾」から月替わりの芸人を招き、歌謡、舞踊、漫談、奇術、落語など多彩な出し物で地域の皆様に楽しんでいただいています。芸人の方々の交通費や謝礼に充てるため、参加者からは1人500円をいただいていますが、毎回50人近くが集まり、これまでの有料入場者総数は約3000人となっています。多くがリピーターで、毎月1回、この会を通じて知り合いの無事を確認して語り合う場にもなっています。

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「笑いの会」のようす

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「笑いの会」のようす

 

この他、無料開放した天道館で曜日ごとに茶道、気功、ヨガ、フラワーアレンジメントなどの趣味の会が開かれ、地域の皆様の生きがいづくりに貢献してきたことも記して昨年10月に応募し、受賞につながりました。

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次は、オスカー像を狙います!(笑)

 

この日は、新型コロナウイルスへの対応で多忙な中に来訪いただいた岩田部長から、額に入った表彰状と記念のクリスタル像を手渡されました。地域活動部門で株式会社が表彰されるのは初めてということです。ともいき倶楽部は3月以降、コロナ対策のために活動を自粛していますが、サンレーではこれらの取り組みを地域貢献の柱ととらえて今後さらに発展させていきたいと思っています。早く新型コロナウイルスの感染が完全終息して、「笑いの会」を再開したいです!

 

2020年5月14日 一条真也

『"蒙古の怪人" キラー・カーン自伝』


 

一条真也です。
『"蒙古の怪人" キラー・カーン自伝』キラー・カーン緒(辰巳出版)をご紹介いたします。2017年4月に刊行されたG SPIRITS BOOKSシリーズの1冊で、昭和のプロレス界を彩った名レスラー、"蒙古の怪人"キラー・カーンが自身のキャリアを総括する初の本格的自叙伝です。

 

著者は、本名・小澤正志。1947年3月6日、新潟県西蒲原郡吉田町出身。身長195cm、体重140kg。63年2月に大相撲の春日野部屋に入門し、70年3月に廃業。71年1月に日本プロレスに入門。73年3月に同団体を離脱し、新日本プロレスに移籍。77年12月にメキシコに渡り、テムヒン・エル・モンゴルに変身。79年3月月から北米に活動の拠点を移し、キラー・カーンとして各テリトリーで活躍した。84年9月に新日本を離脱し、ジャパンプロレス設立に参加。87年に現役を引退し、以降は飲食業を営んでいます。 

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には著者の写真が使われ、帯には「今日から、お前は"人殺しのジンギス・カン"だ」「モンゴル帝国の末裔として全米を震撼させたプロレスラー生涯初の本格的回顧録」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「リングを降りて、30年が経った 俺の正直な気持ちをすべて明かそう」「『落とし前をつけなければ・・・』日に日に怒りは増幅し、もはや他のことは考えられなくなっていた。この時、俺はどんな顔をしていたのだろう。気が付けば、俺の足は築地に向かっていた。そこで新品の包丁を購入した。大好きな料理をするためではない。長州を殺すためだ。(本文より)」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

まえがき 「ガーデン」で浴びたブーイングのシャワー

第1章 雪の日の朝、そこにはお袋の足跡が残っていた

第2章 春日部屋の大広間で観た力道山vsデストロイヤー

第3章 日本プロレスに入門し、
             「モンゴル人」に衝撃を受ける

第4章 なぜ俺のデビュー戦のデータは間違っていたのか?

第5章 吉村道明さんからは、
              プロレスの「戦う姿勢」を教わった

第6章 俺が入門した年に日本プロレスで起きた2つの事件

第7章 大木金太郎さんに誘われて韓国へ行く

第8章 俺の全日本プロレス合流は、
              馬場さんも了承済みだった

第9章  「小沢、お前なら
      ニューヨークに行くのも夢じゃない」

第10章 山本小鉄さんに酒樽で頭を殴られる

第11章 至近距離から見た
                  アントニオ猪木vsモハメド・アリ

第12章 「もしかしたら、
                      今回は猪木さんが負けるんじゃないか・・・」

第13章 メキシコで「テムヒン・エル・モンゴル」に変身

第14章 俺が出世して
                 「人殺しのジンギス・カン」になった日

第15章 妻シンディと師カール・ゴッチの思い出

第16章 ジョージア地区で目撃した
                  マサ斎藤さんのシュートマッチ

第17章 WWFで
                  フレッド・ブラッシーから伝授された極意

第18章 プロレスラーとして成功するには何が必要か?

第19章 藤原喜明との「不穏試合」は、誰が組んだのか?

第20章 俺の人生を変えた
                  アンドレ・ザ・ジャイアント足折り事件

第21章 すべてを出し切れた
                「第5回MSGシリーズ」決勝戦

第22章 『革命軍』は、
                  外国人レスラーのギャラ問題が生み出した

第23章 俺がジャパンプロレス参加を決めた本当の経緯

第24章 85年1月22日、
     無人のトイレでグラン浜田を制裁

第25章 「剛竜馬オイチョカブ騒動」の真相

第26章 俺が「恩知らずのキラー・カーン
     と呼ばれた混迷期

第27章 全米を股にかけてハルク・ホーガンと抗争を展開

第28章 リングを降りた俺は、
     「長州を殺す」と決意した

「あとがき」

f:id:shins2m:20200127202257j:plain大坪飛車角

大相撲からプロレス入りした著者は、日本プロレスの道場で大坪飛車角のコーチを受けます。ブログ『金狼の遺言―完全版―』で紹介した上田馬之助の本では「大坪清隆」として登場しますが、こちらが本名で「飛車角」はリングネームです。本書にはプロレスのロープワークについて言及されているのですが、これが非常に興味深いです。
「プロレス特有のものに、ロープワークがある。これを覚えるための練習も徹底的にやらされた。よくプロレスを白い目で見ている人は、『レスラーはロープに振られると、どうして戻って来るんだ?』と小馬鹿にするが、ロープワークはプロレスをやっていく上で必要な『技術』であり、何度も反復練習をしなければ身に付かない。リングの四方に張ってある3本のロープの中には太いワイヤーが入っており、変な角度で当たるとアバラ骨を痛めてしまうし、骨折する場合もある。だから、実はロープを脇で受け、反動を使って中央に戻る方が安全だという側面もあるのだ」



続けて、著者は以下のようにも述べます。
「このロープワーク、そして相手のショルダータックルを受ける練習も何度もやらされた。自らロープに走り、反動を使ってリングの中央に戻る。そして、相手に左肩から当たっていく。一方が倒れて、受け身を取る。起き上がった頃、ロープに走った選手が戻って来て、再び左肩からぶつかってくる。そういう動きを何度も道場のリングで繰り返した。これはタックルや受け身の練習になるだけでなく、実戦の勘も養えるし、リングの広さも身体で覚えられる。プロレスのロープワークでは、リングの中央で相手をタックルで倒したら、右方向のロープに走るのが基本だ。もし倒れた相手を飛び越えて反対側のロープに走ったりしたら、見た目も不細工だし、理屈的にもおかしい。たまにプロレス中継をテレビで観ると、デタラメに走っている選手を見かけることもあるが、ああいうのは見映えがしないし、怪我の元でもある。こうした練習をした結果、レスラーは受け身を取る時にどちらの方向に倒れればいいのか、ロープに走る時にどちらの方向へ走った方が次の技を出しやすいかなどを瞬時に判断できるようになる。それと同時に、何度もダッシュしたり、受け身を取って起き上がったりしているうちにスタミナも付く」



第9章「小沢、お前ならニューヨークに行くのも夢じゃない」では、日本プロレスが崩壊する直前に、坂口征二らとともにアントニオ猪木が設立した新日本プロレスに移籍した頃のことが、「新日本は猪木さんと坂口さんの二枚看板になったとはいえ、実質的には社長の猪木さんがトップである。俺が日プロの若手だった頃、猪木さんは『雲の上の人』だった。しかし、新日本に移って距離は一気に縮まった。猪木さんは野毛の道場でよく練習していたし、雑談をしながら一緒にちゃんこを食ったりすれば、親近感が増すのは当然だ。俺は新日本に来てから、猪木さんの身の周りの世話をやっていたこともある」と書かれています。

 

続けて、著者はいかのように述べています。
「 俺の他にも付き人は何人かいたが、風呂に入った時に猪木さんの背中を流していたら、こんなことを言われた。
『小沢、お前はもっと身体を大きくすれば、海外でもやって行けるはずだ。俺には夢かもしれんが、お前ならニューヨーク(WWF)に行くのも夢じゃない』
この猪木さんの言葉は、今でも耳に残っている。その時はまさか自分がWWFで活躍できるレスラーになれるとは露ほども考えていなかったが、若手の俺にとっては大きな自信に繋がった一言だった。この頃の猪木さんは『100%プロレスラー』だった。まだおかしなサイドビジネスに手を出しておらず、どうやって観客を入れようか、どうやって視聴率を上げようか、馬場さんの全日本プロレスに勝つにはどうすればいいか――。頭の中は、それだけだったはずである」

 

著者といえば“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントの足を折った試合がきっかけでトップレスラーとなったことで知られますが、それは81年4月のこと。じつは早くも74年の春には、1対2の変則マッチで著者はアンドレと対戦しています。パートナーは山本小鉄柴田勝久でした。74年11月24日には、鹿児島県川内体育館でアンドレとのシングルマッチも組まれました。著者は回想します。
「5分半で負けてしまったが、アンドレはキャリアの浅い俺を巧みにリードしてくれたし、自分なりに試合を成立させることができたから大きな自信に繋がった。『アンドレは頭が良かった』とよく言われるが、まったく異論はない。アンドレはプロレスというものをよく知っていた。当時、日本のファンは彼を怪物レスラーとして見ていたはずだが、実際には相手を引き立てながら、魅せる試合をちゃんと作れるプロレスの達人である。しかも、アスリートとしても優れており、あれだけ大きいのにスピードも早い。リングサイドで小柄な星野さんが全力で逃げても、大股で足も速いアンドレにすぐ捕まってしまうほどだ」



 また著者は、アンドレについて、「アメリカでアンドレはひとつのテリトリーに長期間定着せず、各地を回る。どこへ行っても絶対的なスーパーベビーフェイスで、アンドレが来ると会場が満員になるからプロモーターたちも大喜びだ。当時、プロレスファンに限らず、一般人でもアンドレのことは知っていた。聞いた話だが、アンドレがどこかに引っ越したら、町全体がパニックになったらしい」と述べています。


「ご存知のように、アンドレは公称で身長が2メートル23センチ、体重が236キロという桁外れの肉体を持っている。ただ、あれだけの巨漢でもありながら、本当にプロレスが巧かった。お互いに殴り合う際もアンドレは相手に怪我をさせないようにしながら迫力のある攻めを見せ、その上で相手のいいところも引き出す術を心得ていた。俺と戦う時も、こちらの見せ場をちゃんと作ってくれた。だから、観客はヒートする。アンドレは『自分はもう少しやられていた方がいい。それから反撃した方が客が喜ぶ』ということを戦っている最中に瞬時に頭の中で計算して、それを実行できるレスラーだった。日本で言えば、猪木さんもそうなのだが、プロレスというものを知り尽くしており、試合の組み立て方は素晴らしいものがあった」


日本には猪木の前に、プロレスというものを知り尽くしていたレスラーがいました。猪木の師匠である力道山です。第17章「WWFでフレッド・ブラッシーに伝授された極意」では、キラー・カーンと改名した著者に対してブラッシーが言った次の言葉が紹介されています。
「カーン、相手が攻撃してきても、すぐに受け身を取るな。受け身を取れば、楽かもしれない。でも、耐えることも大事なんだ。攻撃を耐えて耐えて、3回目、4回目で受け身を取れ。俺が日本の観客をヒートアップさせたのは、力道山の唐手チョップは受けても倒れず、5発目で大きく受け身を取ったからだ。観客が"この男はどうして倒れないんだ!?"と思っているところで、受け身を取るんだ。お前には正直に話すが、力道山のチョップは物凄く痛かった。でも、それを敢えて俺は堪えた。そうすると、観客は熱くなる。もちろん、その時に平気な顔をしていたらダメだ。痛みを堪えながら、耐えることが大事なんだ。それによってレスラーの凄味も伝わるし、受け身を取った時に観客の感情も爆発する」



第18章「プロレスラーとして成功するには何が必要か?」では、著者は以下のように述べています。
「プロレスラーとして成功するには際立った個性や誰にも真似のできない必殺技が必要だ。しかし、俺の持論では、最も大切なのは『人間性』である。『そんな馬鹿な! 強さや巧さじゃないのか?』と思う読者もいるかもしれない。もちろん、それらも必要だが、プロレスラーも人間だ。最終的には人間性の良し悪しが仕事に大きく影響する。これはどんな職業でも同じだろう。性格の悪いレスラーは、どのテリトリーに行っても疎まれる。逆に性格が良ければ、レスラー仲間にも好かれるし、プロモーターにも可愛がられる。そうすれば、ポジションも自然と上がっていくということだ」



新日本プロレスで活躍した著者は、その後、長州力らとともに全日本プロレスのリングに上がります。そこで遭遇したジャイアント馬場ジャンボ鶴田についても述べています。馬場については、「ファンはどう思っているか知らないが、馬場さんは試合巧者だ。猪木さんもそうなのだが、相手をちゃんと盛り立てる術を知っている。馬場さん、猪木さんの両巨頭と対戦経験のある俺の率直な感想は、2人のプロレスの巧さは他の日本人レスラーに比べると群を抜いていた」と語っています。鶴田については、「俺に言わせれば、彼は自分を強く見せるということに長けていた。確かにスタミナはあったし、試合の組み立てもそれほど下手ではないが、自分が弱く見えるようなことはしなかった。そこがプロレスファンに『最強』と言われる由縁だろう。少なくとも、俺は鶴田選手を『強い』と感じたことはない」とコメントしています。



では、長州力についてはどうなのか。85年7月31日、両国国技館で著者は長州とシングルで対決します。試合は流血戦となり、最後は長州が著者をリキ・ラリアットで沈めるという展開でした。著者は「人間性を抜きにしても、俺は長州というレスラーをあまり評価していない。この日、俺のトップロープからのダブル・ニードロップを食らっても、長州は『効いていない』と人差し指を振って客席にアピールした。相手のフィニッシュホールドを大事にしないというのは、三流どころか五流のレスラーがやることだ。長州は、藤波選手と名勝負を何度も繰り広げたことになっている。だが、あれは藤波選手が試合を組み立て、長州を引っ張ったから成立しただけの話だ。そういう面では、長州は恵まれていた。長州はフィニッシュホールドも、人の技をそのまま頂戴して使っている。その神経が俺には信じられない。誰がどう考えても、ラリアットはスタン・ハンセンの技だ」と述べます。



著者と一緒に新日から全日に戦場を移した長州でしたが、なんと古巣の新日にUターンします。しかも、そこには巨額の金が動いていました。それをアメリカで知った著者は「長州の野郎、ふざけやがって! お前は金をもらえれば、何でもするのか!」と怒り狂います。その怒りを抑えることができず、すぐさま日本に帰って、長州をぶん殴ってやりたいほどでした。第28章「リングを降りた俺は、『長州を殺す』と決意した」で、著者は「俺はすべてに嫌気が差した。プロレスそのものが嫌いになりそうだった。『もうプロレスを辞めよう。あんな奴と同じ商売をしているのは、ウンザリだ』だが、WWFのスケジュールがまだ残っている。それをボイコットして試合に穴を空けたら、長州と同罪だ。WWFに迷惑をかけるわけにはいかない。きちんとスケジュールを消化して、プロレス界からスッパリ身を引こう。この話をすると、『小沢さん、怒るのはわかるけど、そんなことでプロレスを辞めなくても・・・』と不思議がる人がいる。だが、俺は我慢ならなかった。この仕事をしている限り、俺を長州と同じような人間だと誤解する人も出てくるだろう。こんな恥さらしとは、死んでも一緒にされたくない」と述べます。

 

日本に帰っても、著者の頭の中では長州に対する怒りが渦巻いていました。こんなことを述べています。「あいつは、どうして仲間を平気で裏切れるのか。新日本が嫌になって、ジャパンプロレスを創ったんじゃないのか。あいつを信じた俺が悪いのか。プロレスの世界から足を洗ったことは後悔していない。俺は俺なりに第二の人生を歩んでいけばいい。だが、長州のことだけは絶対に許せなかった。『落とし前をつけなければ・・・』日に日に怒りは増幅し、もはや他のことは考えられなくなっていた。この時、俺はどんな顔をしていたのだろう。気が付けば、俺の足は築地に向かっていた。そこで新品の包丁を購入した。大好きな料理をするためではない。長州を殺すためだ」



本書の最後には、「そういえば、あの包丁はどうなったのだろうか」などと書かれていますが、ずいぶん物騒な話です。「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」ならぬ「キラー・カーンはなぜ長州力を殺さなかったのか」ですね。現在、著者はJR新大久保駅の近くで「居酒屋カンちゃん」を経営しているそうで、幸せそうで何よりです。一度、お店に伺ってプロレスの話を聞きたいものです。上田馬之助の『金狼の遺言―完全版―』ではセメント・レスリングに焦点が当てられていましたが、本書では「プロレスとは何か」という本質について見事に述べられています。それでも、著者が弱かったわけではありません。上田馬之助はセメント・レスラーの1人として「キラー・カーン」の名前をしっかりと挙げています。本書でも、ミル・マスカラスをセメントで圧倒したり、グラン浜田無人のトイレで制裁したなどの素敵なエピソードが紹介されています。

 

"蒙古の怪人" キラー・カーン自伝 (G SPIRITS BOOK)

"蒙古の怪人" キラー・カーン自伝 (G SPIRITS BOOK)

 

 

2020年5月14日 一条真也

『金狼の遺言-完全版ー』

金狼の遺言 ―完全版― (G SPIRITS BOOK)

 

一条真也です。
『金狼の遺言―完全版―』上田馬之助・トシ倉森/共著(辰巳出版)をご紹介いたします。2012年に刊行された本で、2011年12月に亡くなった名悪役レスラー、上田馬之助が「真実」を語った自伝です。彼が自身の人生を赤裸々に振り返った東京スポーツ紙の人気連載(2007年1月~5月掲載)「上田馬之助 金狼の遺言」に大幅な加筆・修正を加え、単行本化。1996年3月の交通事故後、壮絶なリハビリ生活を送っていた上田が生前に残した「真実」を、彼が最も信頼を寄せていたプロレス記者、トシ倉森氏が口述筆記。日本プロレス界を代表する名レスラーたちの実像や、現役時代に起こした数々の「事件」の真相を激白し、初めて明かす秘話が多数掲載されています。

 

上田馬之助は1940年6月20日、愛知県海部郡出身。大相撲を経て、60年に日本プロレスに入門。73年3月、大木金太郎とのコンビでインターナショナル・タッグ王座を獲得。日プロ崩壊後は全日本プロレスに合流するも、73年10月に離脱。フリーランスとなり、アメリカで活動する。76年5月、国際プロレスに逆上陸。翌77年1月からは新日本プロレスに参戦し、タイガー・ジェット・シンと合体。日本人ヒールとして確固たる地位を築きました。その後は全日本、NOW、IWAジャパンなどに参戦。96年3月、自動車事故で頸椎を損傷し、胸下不随となりました。以降、リハビリ生活を続けていましたが、2011年12月21日に呼吸不全により逝去。

f:id:shins2m:20190922142801j:plain本書の帯

 

本書の帯には在りし日の上田馬之助の写真とともに、「プロレス専門誌『G SPIRITS』単行本シリーズ第2弾!」「“昭和の名悪役”上田馬之助が残した最後の言葉を聞き逃すな!!」「日本マット界分裂の引き金となったアントニオ猪木クーデター未遂事件の真相も激白」「寛ちゃん、犯人は俺じゃない。裏切ったのは馬場さんなんだ」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には「試合前からやろうと思い、相手の腕を折ったレスラーは私くらいだろう――」「『セメント』をキーワードに上田馬之助がレスラー人生を赤裸々に振り返る」「道場で行われた俺と馬場、猪木のスパーリング/力道山の命令によりガチンコで開催された日本プロレスの若手トーナメント『関西の牙』/アメリカ人柔道家との知られざる果し合い/テネシーでのトージョー・ヤマモト腕折り事件/誰もが怖れる“最強”ダニー・ホッジとの不穏試合/大木金太郎の依頼で遂行したパク・ソンナン潰し/オリンピック・レスラーたちとの道場マッチ/ライバル団体の旗揚げ戦に殴り込み/賭けアームレスリングで一儲け/俺が認める日米のセメント・レスラーたち」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「まえがき」

第一章 5歳の時、私は左耳の聴力を失った

第二章 相撲部屋を抜け出し、力道山門下生になった日

第三章 力道山道場でセメント・レスリングをマスター

第四章 密室で行われた猪木さん、馬場さん、大木さんのスパーリング

第五章 猪木さんと2人で看取った師・力道山の最期

第六章 心の師・吉村道明さんの教え

第七章 オリンピック・レスラーとの道場マッチ

第八章 ビジネスを守るために挑んだ柔道家との他流試合

第九章 酒場での賭けアームレスリングで一儲け

第十章 トージョー・ヤマモト腕折り事件の真実

第十一章 ボブ・ループとライバル団体の旗揚げ会場に殴り込み

第十二章 NWA世界ジュニア王者ダニー・ホッジは最強か?

第十三章 幻に終わったエルヴィス・プレスリーとの対面

第十四章 猪木さんが追放されたクーデター未遂事件の真相

第十五章 日本プロレス崩壊後、馬場さんから受けた屈辱

第十六章 国際プロレス吉原功社長への恩義

第十七章 ‟奥の手”を使って新日本プロレスに参戦

第十八章 憎き馬場さんの全日本プロレスに逆上陸

第十九章 セメントが強かった海外のトップレスラーたち

第二十章 私がセメントの実力を認める日本人レスラーたち

第二十一章 今こそファンの素朴な疑問に答えよう

第二十二章 力道山を破ったアンドレ・アドレーと再会

第二十三章 日本マット界再興のために、本物の強さを取り戻してくれ

第二十四章 96年3月16日、私のレスラー生命は絶たれた

第二十五章 生きる糧を失い、自殺を考えた日々

第二十六章 上田裕司より、最愛の妻・美恵子へ

第二十七章 オヤジの教えは「酒はレスラーらしく豪快に飲め!」

第二十八章 かつての盟友・アントニオ猪木への遺言

あとがきにかえて「上田vsホッジのセメントマッチを目撃したヤス・フジイの証言」


第二章「相撲部屋を抜け出し、力道山門下生になった日」では、プロレス入りする前に入った角界は封建的な事柄があまりにも多すぎましたが、その反面、「後の人生で役に立つ多くのことも学んだ」と書かれています。たとえば、礼儀作法もそのひとつだとして、以下のように述べられています。
「ある武道の達人が『挨拶さえしっかりしていれば、世の中の争いごとが3分の1に減る。それが世界平和にも繋がる』と話していた。まさしく正論だと思う。挨拶は、人間社会においてコミュニケーションの第一歩である。だから、多民族国家アメリカでは、挨拶がなによりも重要視されている。最初に『私はあなたに敵意を持っていませんよ』とお互いに示すわけだ」

f:id:shins2m:20200131205439j:plain吉原功 

 

第三章「力道山道場でセメント・レスリングをマスター」では、上田には2人の偉大なレスリングの師匠がいることが紹介されます。1人が吉原功です。
「吉原さんは、名門・早稲田大学レスリング部で大活躍した人で、アマレス仕込みのテクニックは抜群だった。日本プロレスでも屈指の業師であり、力道山先生にもアマレスのテクニックを教えていた。レスリングのレの字も知らない私に、吉原さんはわかりやすく1から教えてくれた。大学出だけあって、教え方も理に適っていた。私は吉原さんの人柄も尊敬していたから、毎日レスリングを教えてもらうことがとても楽しみだった。お陰でアマレスのタックル、バックの取り方、グレコローマン流の投げ技など大事なレスリングの基礎を叩き込まれた」

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大坪清隆 

 

もう1人の師匠が、大坪清隆です。
「大坪さんは‟鬼の柔道”と謳われた木村政彦さんの団体、国際プロレス団にいた人で柔道五段の猛者だった。その大坪さんからは、スポーツ柔道ではない柔道、つまり柔術に近い関節技を中心に教わった。相手を極める危険な柔道技だ。68年にカール・ゴッチ日本プロレスにコーチに来た時には、アシスタントを務めるぐらい指導者としての腕も最高だった。もちろん実力はピカイチで、大坪さんには徹底的に関節技を仕込んでもらった。それこそ毎日が血ヘドを吐く稽古だった。だが、不思議とそれを苦とは思わなかった。スター候補生の猪木さんも同じ稽古に耐えていた。それを思うと、どんなに厳しくても我慢できたのである。今、私があるのは大坪さんのお蔭と言っても言い過ぎではない。私のバックボーンであるセメント・レスリングの要となるサブミッションは、ほとんどが大坪さんから教えてもらった関節技を自分流にアレンジしたものだ」



第四章「密室で行われた猪木さん、馬場さん、大木さんのスパーリング」の冒頭には、力道山について以下のように書かれています。
力道山先生、ここからは尊敬の念と親しみを込めて『オヤジ』と呼ばせてもらおう。オヤジは、大相撲という実力の世界で関脇まで登りつめた人だから、セメントの重要性を誰よりも知っていた。だから、道場での稽古はセメント重視の内容だったし、マスコミがいない時は若手レスラーにセメントのスパーリングばかりをさせ、セメントによるトーナメントも開催した」



プロレスの覇者・力道山は「強さ」を重要視していたわけですが、61年のある日、力道山は最も信頼していた往年の名レスラーで当時はレフェリーとして活躍していた沖識名だけを道場に残し、他の者を全員外に追い出しました。そして、3人のスター候補生である大木、馬場、猪木にセメントのスパーリングを命じました。上田は述べます。「私が後から聞いた話では、3人の中で、まず最初に馬場さんが脱落した。そして、残った大木さんと猪木さんが勝負した。激しいスパーリングの末、結局この勝負は付かなかった。この時、オヤジは将来を託すレスラーをこの2人に決めたのではないか。おそらくこの日から、猪木さんはライバルの馬場さんに対して絶対の自信を持ったのではないかと思う。だからこそ猪木さんはオヤジ亡き後、日本プロレスでトップとして君臨し続ける馬場さんに対して、挑戦の意志を常に持っていたのだろう。猪木さんの心の奥底では、『セメントができないレスラーがトップに立つのは許せない。セメントの強い者が上に立つのがプロレスの世界だ』というプライドがあったはずだ」



さらに、上田は馬場についてこう述べます。
「私は馬場さんをセメント・レスラーとは思わない。なぜなら、私はスパーリングで馬場さんの実力を知っているからだ。ある時、オヤジに馬場さんとのスパーリングを命じられた。私は馬場さんを首投げでマットに倒すと、得意の腕固めを極めた。すると、オヤジが突然ストップをかけた。オヤジにとっては、予想外の展開だったのだろう。この時、道場にはスポーツニッポンと日刊スポーツの記者もいた。これが結果的に、私にとって不運だった。機転を利かせた吉村道明さんが、中に入ってうまく絵を作った。結局、私は逆に馬場さんの股裂きを食う羽目になったのである。スター候補生の馬場さんだったから仕方がないと思う反面、非常に悔しい思いをした」



上田馬之助が望むレスラーの条件は、次の5つです。

1.基本がしっかりしていること。

2.誰が見ても体がレスラーに見えること。

3.打たれ強いこと。

4.お客さんと勝負できること。

5.いざというとき、セメントで勝負できること。



第五章「猪木さんと2人で看取った師・力道山の最期」では、恩師・力道山の臨終時に猪木と上田が立ち会ったことがリアルな筆致で書かれています。
「オヤジは苦しそうに『水をくれ!』『起してくれ!』と言った。だが、それは看護師さんに止められて叶わなかった。そして、それがオヤジの最後の言葉となった。容態が急変して、息を引き取るまで20分くらいだったと思う。見る見るうちに、オヤジの顔から血の気が引いていくのがわかった。私の頭は真っ白になった。昭和のヒーロー、一番強い私たちの先生が亡くなった。私と猪木さんはお互いに言葉が出なかった。まるで時間が止まったかのようだった。看護師さんが『口に脱脂綿で水を』と私たち2人に促した。最初に猪木さんが、その後に私も震える手でオヤジの口に水を浸した。それからは、看護師さんたちがオヤジに処置をする姿をただ呆然と見ていた」



第六章「心の師・吉村道明さんの教え」の冒頭には、以下のように書かれています。「私がオヤジ以外で最も尊敬するレスラーは、吉村道明さんだ。吉村さんの歴史は、日本プロレスの歴史と言って良い。スター選手たちのタッグパートナーとしても活躍した最高の功労者である。実際に吉村さんは、日本プロレスの6人のスター選手をリング内外でサポートし続けた。その6人とは、まず日プロを創設したオヤジ、継ぐがオヤジ亡きあとの看板だった豊登さん、オヤジの門下生の3人、ジャイアント馬場アントニオ猪木大木金太郎、そして最後は坂口征二だ。オヤジを除けば、吉村さんがいたからこそ誰もがスターの地位を不動のものにできたといっても過言ではない。それほど吉村さんの縁の下の力は大きかった」



吉村道明は、61年4月に初来日したカール・クラウザー(カール・ゴッチ)とシングルマッチを行いましたが、それについて以下のように書かれています。
「2人のテクニックが文字通り流れるようにリング上で繰り広げられた。ゴッチのヨーロッパスタイルのテクニックに対して、吉村さんは日本人レスラーの意地を見せて一歩も引かなかった。テクニックでがっぷり四つに組み、甲乙付けられなかった。この一戦を見て、プロレスファンになった人も多いと思う。まさに西洋と日本を代表するテクニシャン同士の対決で、私も手に汗を握った一戦だった。これだけの実力がある吉村さんが、タッグマッチでは自分を捨ててパートナーを大いに引き立ててみせた。周りの石がみんなダイヤモンドだったら、どれも輝きは同じに見えて目立たない。だが、吉村さんは自分の放つ光を微調整しながら、試合を進めることができたのである。今のマット界には吉村さんのようにうまく光をコントロールしながら試合を展開できるレスラーは、私の知る限り数えるほどしかいない。これは私が勝手に思うことだが、吉村さんは海軍に志願しただけあって日本人特有の潔さがあった、それが‟火の玉レスラー”と呼ばれるゆえんだろう」

 

最強の系譜 プロレス史 百花繚乱

最強の系譜 プロレス史 百花繚乱

 

  

ブログ『最強の系譜』で紹介した本では、真のセメント・レスラーとして、ルー・テーズカール・ゴッチダニー・ホッジらが紹介されていました。第十二章「NWA世界ジュニア王者ダニー・ホッジは最強か?」では、「ホッジは私が対戦したジュニアヘビー級の選手の中で、最強だったことは間違いない」とした上で、さらには「最高のセメント・レスラー」としてルー・テーズの名を挙げています。タッグマッチながら、テーズと2度対戦した上田は以下のように述べます。
「テーズは、オヤジとやり合った世界のチャンピオンである。私は試合の前から、かなり興奮していた。テーズと対戦することが、レスラーになってからの目標であり、夢だった。この時、嬉しさのあまりか試合で初めて足が震えたのを憶えている」



上田が実際に戦ったテーズの印象はどうだったのか?
「私がファーストコンタクトでまず感じたのは、テーズの体が本当にガチガチだったことだ。よく‟鉄人”というニックネームを付けたものだと感心する。まさに全身が鋼鉄のようであった。試合を通して一番うまいと思った点は、相手が力を抜くタイミングを見逃さないことである。テーズは、相手が息を吐く瞬間に攻撃してくる。息を吐く時は、当然どんなレスラーも力が入らない。そこをレスリングの鉄人はちゃんと心得ている。言わば、闘いの極意だ。サブミッションの技術もアメリカのレスラーの中では最高だった。仕掛け方が私のスタイルに似ていた。相手の力を利用し、自分は無駄な力を出さない。肉体もヘビー級ならではの重量感と圧力があった」


 

 

第十七章「‟奥の手”を使って新日本プロレスに参戦」では、上田にとって最高のタッグ・パートナーであったタイガー・ジェット・シンとの出会いを語っています。
「正直に言えば、最初に会った時は『態度がデカいヤツだなあ』と思った。彼も一匹狼としてアメリカやカナダで苦労してトップを取って来たので、ナメられたくなかったのだろう。驚いたことに、タイガーは私のリング内外のアドバイスに最初から耳を傾けた。彼が日本でビッグチャンスを掴もうと考えていたことは間違いない。さすが一流レスラーの頭は柔軟だと感心した。私も彼となら今までにない凄いチームが組めるかもしれない、と直感的に思った。想像していた通り、タッグを組むにつれて、私たちはリング上でも息がピッタリと合ってきた。初対面の印象とは異なり、タイガーは人間性も悪くない。なによりヒールレスラーとしての度胸と実力があった。まさにヒールをやるために生まれてきた男をパートナーに得て、今までにない不思議な感覚が私に芽生えた。その後は、まさに阿吽の呼吸というやつである。タイガーも私とのコンビを大いに気に入ってくれたし、公私ともに私を信頼してくれた」

 

“東洋の神秘"ザ・グレート・カブキ自伝 (G SPIRITS BOOK)

“東洋の神秘"ザ・グレート・カブキ自伝 (G SPIRITS BOOK)

 

 

第二十章「私がセメントの実力を認める日本人レスラーたち」では、日本人のセメント・レスラーとして、アントニオ猪木坂口征二長州力前田日明藤原喜明山本小鉄ヒロ斉藤天龍源一郎ジャンボ鶴田星野勘太郎、安達勝治(ミスター・人)、北沢幹之木戸修鶴見五郎栗栖正伸鈴木みのるアポロ菅原らとともに、高千穂明久ザ・グレート・カブキ)の名前を挙げ、「高千穂クンは早くから海外で活躍し、後に“東洋の神秘”ザ・グレート・カブキとなって全米に旋風を巻き起こした。これは偶然ではなく、彼の努力の結晶だと思う。基礎がしっかりしていてセメントも強いから、本場アメリカでも常に堂々とメインを張っていた。一時期、私はテングーというリングネームでダラスのリングに上がったことがあるが、この時に高千穂クンには公私ともに大変お世話になった。いつも私のことを先輩として立ててくれた。彼に『ここはアメリカで先輩後輩は関係ないよ。それに君がここの大スターなんだから』と言ったことがある。彼の大成功は、私も本当に嬉しかった」と述べています。

 

ケンドー・ナガサキ自伝 (G SPIRITS BOOK)

ケンドー・ナガサキ自伝 (G SPIRITS BOOK)

  • 作者:桜田 一男
  • 出版社/メーカー: 辰巳出版
  • 発売日: 2018/05/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

また、上田の付き人をしていた桜田一男(ケンドー・ナガサキ)の名前も挙げて、こう述べています。
桜田クンは相撲の世界でも将来を大いに嘱望されていたが、十両入り目前でプロレス界に入ってきた。親方も非常に残念がったようである。だから、誰よりも馬力があり、喧嘩も滅法強かった。桜田クン独特の蹴りは、空手の達人も非常に実戦的だと認めていた。後年、桜田クンは総合格闘技の試合に出て敗れたが、レスラーの宿命である相手との『間』を見過ぎたのではないかと思う。彼はストリートファイトでは無敵だった。安達クンの話では、ピストルを持った男に対しても臆することなく向かっていったそうだ。普段は非常に穏やかだが、怒らせると怖い男である」

 

"蒙古の怪人" キラー・カーン自伝 (G SPIRITS BOOK)

"蒙古の怪人" キラー・カーン自伝 (G SPIRITS BOOK)

 

 

さらには、桜田と71年入門同期のキラー・カーンこと小沢正志の名前も挙がっています。
「彼は桜田クンと同じく相撲の幕下まで務めた。幕下まで上がる力士は相撲力が強く、喧嘩も強い。私は桜田クンと同様に、小沢クンにも日プロの道場で稽古をつけた。若手時代から私より体が大きくて、素質も十分だった。いつかは開花すると思っていたが、ニューヨークに行って大きく花が咲いた。WWFで本当のトップを取った日本人はキラー・カーンだけだと思う」



そして、聞いた話を総合すると髙山善廣もトップ・クラスのセメント・レスラーであるとして、以下のように述べています。
「私は、髙山クンとドン・フライが壮絶な殴り合いを繰り広げた試合をビデオで観て唸った。オヤジが観たら、きっと喜んだと思う。あれこそ、レスラー魂だ。私が日プロに入った頃、オヤジがみんなにああいうど突き合いの稽古もやらせていたのを思い出した。髙山クンも脳梗塞という重度の病を乗り越えてリングに立っていると聞いたが、体を大事にしてほしい。ダニー・ホッジが彼の雰囲気を『日本のハルク・ホーガン』と絶賛していたそうである。セメントはホーガンより髙山クンの方が強いだろう」
その髙山は、現在、「頸髄完全損傷」からのリハビリに懸命に挑んでいます。上田馬之助といい、髙山善廣といい、プロレスラーが重傷を負うと、無性に悲しいです。



第二十三章「日本マット界再興のために、本物の強さを取り戻してくれ」では、セメント・レスラーとしての誇りを持つ者として、以下のように訴えます。
「プロレスの人気回復には、本当にセメントが強いレスラーを育成することが先決である。30歳台の現役時代に総合格闘技の出場オファーが来ていたら、私は間違いなく出ていたと思う、そして、プロレスの威信を賭けて戦った。こう見えても、私は打たれ強い。さらにヘッドバットがOKなら、文句ナシである。人間の大きな武器のひとつであるヘッドバットを禁止するのはナンセンスだ。だから、何でも有りでヘッドバットも許されるプロレスが最強だと思う。私の知る限り、昔から頭での攻撃が許されていたのはプロレスと大相撲だけだ」



上田馬之助は、96年3月、自動車事故で頸椎を損傷し、胸下不随となりました。以降、苦しいリハビリ生活を続けました。第二十五章「生きる糧を失い、自殺を考えた日々」では、耐え切れない痛みと生きる糧が定まらない苦しさから自殺を考え続けた後、やっと自分の力で車イスの車輪を押せるようになったことを告白し、以下のように述べます。
「なぜ『押す』という表現を使うかと言えば、握ることができず、上から車輪を押さえながら前に進むからだ。ここに来るまでも、私は革の手袋をいくつか潰しても誰もが驚くほどリハビリに励んだ。日本プロレス時代の厳しい稽古が、いつも脳裏にあった。私は稽古で弱音を吐いたことはない。車輪を1回押すたびに、ヒンズースクワット1回だと思った。これを100回、200回、300回と無意識で数えるようになった。道場で聞いた吉村道明さんの『努力はウソをつかない』という言葉を思い出していた」



そんな上田を献身的に支えてくれたのが妻の恵美子さんでした。本書には、恵美子さんのひとかたならぬ苦労の様子が紹介されています。そんな彼女に上田も心から感謝の念を抱くのでした。
「恵美子は私が事故に遭って不自由な体になってから、籍を入れてくれた。そして、いつも『2人で頑張りましょう』と言ってくれた。これが、なによりの励みとなった。恵美子の支えがあったからこそ、こうして私は最高の“上田病院”で生きていられるのである。すべて恵美子がいなければ、できないことばかりだ。いつも恵美子に言っていることがある。それは今度生まれ変わったら、私はレスラーよりも大統領になりたい。それも、これからは宇宙の時代だから“宇宙の大統領”になりたい。恵美子をもっともっと幸せにしたい。そして、弱者にも優しく住み良い宇宙にしたい。それが私の願いである」この一文を読んだとき、あまりに切なく、わたしは泣きました。これほど感謝と愛情に溢れた妻へのラブレターを他に知りません。



上田馬之助は師匠であった力道山をこよなく尊敬していましたが、第二十八章「かつての盟友・アントニオ猪木への遺言」で、力道山と似ているのが猪木であり、「オヤジの薫陶を得たからか、同じ感覚・感性を引き継いでいる」として、以下のように述べます。
「第一にレスリングの実力だ。レスラーとしても奥の深い猪木さんは相手の力をうまく引き出せるし、その上でベストの試合を提供できた。ドリー・ファンク・ジュニアを筆頭にクリス・マルコフ、カール・ゴッチタイガー・ジェット・シンアンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガンと数えたら切りがないほどだ。ファンのみなさんにはわからないと思うが、猪木さんのスラィディングしてのキックと延髄斬りは、相手に致命的なダメージを与えることができる。これは嘘ではない。試合で何回か食ったが、そこでこちらの攻撃が止まってしまう。単なる見世物的な技ではない。猪木さんはことプロレスに関しては、天才的なセンスを持っている。やはりプロレスラーになるために生まれて来たのだろう」



上田馬之助が、ここまでアントニオ猪木を高く評価していたとは知りませんでした。本書は貴重な証言にが満載で、セメント・プロレスについての第一級の資料であると思います。上田馬之助選手は、2011年12月21日に呼吸不全により亡くなられました。心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。

 

金狼の遺言 ―完全版― (G SPIRITS BOOK)

金狼の遺言 ―完全版― (G SPIRITS BOOK)

 

 

2020年5月13日 一条真也