『プロレス「監獄固め」血風録』

プロレス「監獄固め」血風録―アメリカを制覇した大和魂

 

 一条真也です。
まだ外出自粛が続きますが、こんなときはプロレスラーの破天荒な生涯から前向きに生きる姿勢を学びたいと思います。まずは、『プロレス「監獄固め」血風録』マサ斎藤著(講談社)をご紹介します。じつは、上田馬之助キラー・カーンザ・グレート・カブキケンドー・ナガサキ、タイガー戸口といったアメリカで活躍したプロレスラーの自伝を読み、すでに書評を書いています。最後に、マサ斎藤の自伝や評伝が出たら、その書評と一緒にブログにUPしようと思っていました。しかし、出版不況のせいか、なかなか出ないので、1999年に刊行された本書の書評を書くことにしました。本書は、プロレスラーの自叙伝というより大和魂を持った快男児の物語として非常に面白かったです。

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カバー裏表紙のレスラー集合写真

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カバー後そでの集合写真解説

 

著者は、本名・斎藤昌典。
1942年東京都生まれ。高校時代はアマチュアレスリングに没頭し、京北高校2年でインターハイ関東大会3位、国士舘高校3年で国体3位。明治大学在学中に全日本選手権の個人、団体などタイトルを総なめにしました。海外遠征3回。64年、東京オリンピック代表に。同大学卒業後プロの道を選び、日本プロレスに入団(65年)。半年後のハワイ合宿でアントニオ猪木と出会いました。68年渡米。「ミスター・サイトー」のリングネームでサンフランシスコ、フロリダ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ミネアポリスを転戦。各地域でNWA、WWFなどの世界タッグ・タイトルを奪取し、トップ・レスラーとして大活躍しました。87年、猪木との〈巌流島の決闘〉は、日本プロレス史上に残る戦いとなりました。以降、橋本真也長州力と組み、IWGPタッグ・チャンピオンに。88年、アメリカから日本に拠点を移しました。90年、東京ドームでラリー・ズビスコと対戦し、AWA世界ヘビー級シングル・タイトルを獲得。得意技は「監獄固め」と「バックドロップ」。第一線を退いてからは新日本プロレスのブッカーおよび「ワールドプロレスリング」のテレビ解説者として活動しました。信条は「Go for broke」(当たって砕けろ)。

 

本書は古書で購入したので帯がないのですが、もともと帯にはハルク・ホーガンの写真とともに、「マサはいちばんタフで怖い相手だった!(He was the most fearsome and toughest competitor!)──ハルク・ホーガン(プロレスラー)」と書かれています。また帯の裏には、「1人で強大なアメリカという相手に噛みついて、大和魂で生き残る。そいつが俺の人生のスタイルだった。誰からも拘束されず、自分の体一つで勝負してきた。そして全米中どこへ行っても、トップレスラーとして扱ってもらえるようになった。そのことに俺は誇りを持っている。プロレスは戦いのエンターテイメントだ。客を満足させることができなければ、勝っても意味はない。勝ち負けだけの戦いがしたければ、アマチュアの世界にいればいい。俺は自分がヒーローになってはいけない国で、アメリカ市民らの罵声を金に換えてきた。リングに上がったら誰よりも憎まれること。それが6000試合を戦った俺の勲章だった。──本文より」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

マサ斎藤(ミスター・サイトー/
   マサ・サイトウ)の主な戦歴」

第一章◎〈巌流島の決闘〉の真実

第二章◎プロレス王国のメジャーリーグ

第三章◎さらば日本のプロレス界

第四章◎ただ「強い」だけでは生きていけない

第五章◎性と麻薬、そしてシュート・ファイティング

第六章◎監獄日記・「極悪レスラー」のレッテル

第七章◎大和魂で世界に噛みつけ



第一章「〈巌流島の決闘〉の真実」は、1987年10月4日、巌流島で行われた猪木との時間無制限ノーレフェリー・ノールール・無観客マッチについて書かれています。この試合は「巌流島の戦い」と呼ばれ、2時間5分14秒の死闘を繰り広げました。最後は夜になって猪木を倒し、リングを降りた著者の背後から息を吹き返した猪木が忍び寄ってスリーパーホールドをかけ、著者を締め落として勝利しています。



それにしても、なぜ著者は「巌流島の戦い」に挑んだのか。「〈巌流島〉の相手は俺以外にはいない」として、著者は以下のように述べています。
新日本プロレスが旗揚げされた頃から、俺は助っ人として会社の要望に合わせて戦ってきた。あるときは日本サイド、あるときは外国人サイド。猪木さんや坂口征二と違って、俺はどんな立場にも立てるし、クリーンにもラフにもやれる。それが俺の強みであり商品価値、その持ち味を存分に発揮して客を呼ぶことが俺の役割だと心得ていた。そんな俺のやり方を、アメリカナイズされた合理的なやり方と見るやつもいた。そいつを俺は否定しない。だけど、仕事でも私生活でもアメリカに居場所を持つ俺が、わざわざ日本のマットに上がった理由はそれだけじゃない。本来理想とするレスリング・スタイルが新日本プロレスにはあり、その頂点に立っているアントニオ猪木を追いかけていたからだ」



巌流島の戦い」について、著者はこうも述べています。
「猪木さんが何を考えて〈巌流島〉を思いついたのかは知らない。だけど俺が初めて、会社の方針を無視して『俺と戦え』と呼びかけたあとに、猪木さんはあのプランを発表した。心のどこかで、俺なら乗ってくると思っていたんじゃないだろうか。あれは同時代を生きていたアントニオ猪木と俺が、テレビ番組と興行の枠に縛られているプロレスをぶち壊す行為だったのかもしれない」
「『あれはシュート(戦い)だったのか?』と問われれば、イエスでもありノーでもあると答える。人は簡単にシュートという言葉を口にするけど、シュートといっても1つじゃない。(中略)だけど、こうも言える。戦うことのほかに何もない戦い。そいつをシュートと呼ぶなら、あれは間違いなくシュートだったと。考えてみれば、俺のレスラー人生そのものが1つのシュートだったのかもしれない」



第二章「プロレス王国のメジャーリーグ」の冒頭を、「シュートができなければ生き残れない世界」として、著者は「アメリカのプロレスと日本のプロレスは、今では水と油のように違う。それを見て日本のプロレス・ファンは、『アメリカのプロレスはギミック(まやかし)だ』と馬鹿にするが、俺が20年近く体を張って戦ってきたアメリカのマット界は、そんなに甘い世界じゃない。俺に言わせると、日本よりもはるかに厳しい。何が厳しいかと言えば、そこで生き残ることが、だ」と書きだしています。また、シュート・ファイトで相手の目玉をくり抜いたり、正真正銘のでかい熊と試合をしたこともあるそうですが、「一匹狼として生き残るには、プロモーターやマッチ・メイカーから要請されたことは何でもやるしかなかったからだ」と告白しています。



「もう1つ、俺みたいなイエローが忘れちゃいけないこと」として、著者は以下のように述べます。
「それは、どこに待ち受けているかわからない人種差別の危険な罠だ。もちろんリングの上にも罠がある、日本人の俺を蔑んだり、バカにしたような態度は試合でもわかる。気にしないで済ませたほうがいい場合と放っておけない場合がある。度を越したやつは、リング上でも控え室でも食らわしてやった。抵抗しないで〈弱虫〉だと思われたら、嫌がらせがエスカレートするからだ。だから、ふだんはどんなスタイルで試合をしていようと、シュートのテクニックは絶対に必要なんだ。それを身につけないでアメリカのマットに立つのは、拳銃を持たないでギャングの集団に割って入るようなものだ」



20世紀の終わり、設立当初はNWAに所属していたプロレス団体「WCW」のオーナーにCNNの設立者であるテッド・ターナーが就任し、ペイパービューで一大ブームを巻き起こします。エリック・ビショフによって、WCWは「大男たちの遊び場(Big boy’s play)という愛称を与えられました。「そして、プロレスは市民権を獲得した」として、著者は「ペイパービューにプロレスを乗せるために、WCWがやってきたことは何だろう。答えは簡単だ。子供にも平気で見せられるプロレス、家族全員で楽しめるプロレスにすることだ。これは常識だと思うが、アメリカは日本に比べてはるかに放送コードが厳しい。ポルノや暴力的なものは一般のテレビ番組では厳しく規制されている。だからアルティメットも追いやられたし、ローカルエリアごとに毒s率していた昔のアメリカのプロレスも、ペイパービュー時代には通用しない」と述べています。

 

ペイパービューでは、どれだけ多くの視聴者を獲得できるかが勝負であり、そのためには年齢制限が加わるような内容にはできないのです。明るく華やかで、娯楽性いっぱいのWCWやWWE(前身はWWF)は、そんな事情から生まれてきたのです。それまでのプロレスに比べて、ペイパービューの会場は観客の層がまったく違うとして、著者は「昔は表現は悪いかも知れないが、いわゆるボトム層の溜り場みたいなもんだった。(中略)年がら年中アウトローアルコール中毒覚醒剤中毒たちの祭りみたいなもんだから、銃弾が飛んでこようが、ナイフで刺されようが驚くほどのことじゃない。そんな世界だった」と述べています。それでペイパービュー時代に入った1999年当時はどうだったかというと、「テレビ視聴者がそのまま移行したファミリーの娯楽空間そのものだ。日本でいえば、たぶんプロ野球の観客席で見る顔ぶれに近いんじゃないだろうか。そのくらいプロレスはふつうのアメリカ市民が楽しむスポーツ・エンターテインメントに変貌している」と述べています。



第三章「さらば日本のプロレス界」では、高校時代はアマチュアレスリングに没頭し、明治大学在学中に全日本選手権の個人、団体などタイトルを総なめにしたこと、64年には東京オリンピック代表になったことなどが書かれています。その後、少年時代に力道山に憧れていた著者は、大学卒業後プロの道を選び、65年に日本プロレスに入団します。「幻の最強集団、日本プロレスへの失望」として、著者は「頭に描いていたプロの世界と現実はまったく違うものだった。タコ部屋のような合宿所での生活が始まったのは、昭和40年春のこと。シーツさえもない煎餅布団と黴臭い部屋。入ったとたんに気分が滅入りそうなところだ。同室になったのは平野鬼吉という男で、偶然にもアマレスをかじっていた。それ以外はほとんど相撲出身者。先輩の多くは相撲崩れといったほうがいい連中ばかりだ。俺と入門時期が近い仲間には、木村政雄(のちのラッシャー木村)、高千穂明久(のちのザ・グレート・カブキ)などがいた」と述べています。



入門から半年後のハワイ合宿で、著者は日本プロレスホープだったアントニオ猪木と出会いました。2人はスパーリングを行いましたが、著者は「いくら猪木さんでも、レスリングだったら負けないぜ」と自信満々でした。猪木が下になって著者は上から攻めに入りますが、入った瞬間、著者は「うまい、強えや」と感じたそうです。レスラーは職業柄、こういうことは肌を合わせた瞬間にわかるというのですが、著者はこう述べています。
「もちろん俺たちがやったのはアマチュアのスパーリングではなく、関節を取り合うプロレスの実戦を想定したシュートのスパーリングだ。当時の猪木さんは体重が115キロくらいあり、逆三角形の体は人並外れた柔軟性があった。手足が長くて懐が深く、これだけ大きいのにスピードもスタミナも凄い。まだアマチュアの技術しか知らなかった俺は、必死で食らいついていくのが精いっぱいだった。先輩のしごきにアマチュアの反則技で応戦していた日本でのスパーリングとはレベルの違う、プロのレスリングの奥深さを初めて肌で味わった。ほんとうに気分が良かった。それにしても、猪木さんが日本にいて、大学でアマレスをやっていなくて良かった。もしそうだったら、俺はオリンピック代表の座を奪われたかもしれない。俺は真剣にそう思ったものだ」



本書で圧倒的に面白いのは、第六章「監獄日記・『極悪レスラー』のレッテル」です。1984年4月にウィスコンシン州ワカシャという田舎町で、オリンピック重量挙げ出身のプロレスラーであるケン・パテラが器物損壊事件を起こしました。パテラがマクドナルドのウインドウに投石するという事件でしたが、その逮捕劇に著者は巻き込まれます。宿泊先で著者と同室だったパテラを逮捕しようと部屋に押し入った警官数人をなぎ倒したのです。結果、陪審員裁判で有罪判決を受けました。人種差別を感じた著者はこれを不服として現地の日本総領事館へ助けを求めましたが、大使館や総領事館では釈放や減刑の要求は出来ないため受け入れられず、1985年6月より現地で1年半の刑務所暮らしを送りました。



著者の刑務所暮らしの様子はどんな小説よりも読ませる興味深い内容なのですが、想定外に長い刑期に当然ながら気分は沈みました。しかし、第七章「大和魂で世界に噛みつけ」で、著者はこう述べています。
「あとから思い返してみると、ワカシャの事件前の俺は新進ともに疲れていた。体のあちこちが長年の激闘でボロボロだった。疲れとストレスを抑え込むように、夜ごとの酒の量も増えていた。裁判での俺に対する判決は今でも納得がいかない。しかし、あれは神様が俺に与えてくれた休息の時間だったんだと、今では思えるようにもなった。実際、あの一年半の酒抜きの規則正しい生活とトレーニングのおかげで、俺のレスラー寿命は5年くらいは延びただろう。体が休みを望んでいても、ああいう事件がなければ絶対に休むことはなかったし、酒を抑えることもできなかったはずだ」



さて、刑務所生活を送っているとき、日本から長州力が面会に来ました。長州の特集番組を撮影するテレビ・クルーと一緒でしたが、お土産が大好物のカルピスだったこともあり、著者はゴキゲンでした。1983年から、著者は長州やキラー・カーンとのユニット「革命軍」を経て、長州が結成した「維新軍」(後のジャパンプロレス)の参謀格となって活躍しました。著者と長州は「師弟コンビ」などと呼ばれましたが、著者は「当時、周囲やマスコミは、アマレスのオリンピックボーイからプロへというキャリアの共通点もあってか、俺が長州の心の師匠だなんて、ケツが痒くなるようなことを言っていた。師匠が助っ人としてアメリカから帰国するとなれば、辻褄は合わせやすい。だけど俺は、そんな奥座敷に納まるオヤジのような存在じゃない。年が離れていようが、アマレスの先輩だるが、ただのグッド・フレンドだ。昔も今も、長州とはそういう関係だと思っている」とクールに言い放つのでした。



著者は刑務所内でトレーニングを欠かかさず、肉体改造に成功しました。のちに監獄固めという技を開発するのですが、「〈監獄固め〉と名づけた足の変型技として、著者は「ムショから出てきた男なら、出てきたなりのアピールの仕方がある。それをうまくやるのがプロってものだ。俺はレッグ・ロック(足固め)の変型技を〈監獄固め〉と名づけて、新日本プロレスに乗り込んだ。長州たちがUターンするより一足早く、俺は年明け早々からリングに上がった。久しぶりの猪木さんとの一騎打ちは〈海賊男〉の乱入でファンが暴動騒ぎを起こして、大変なことになった。こいつには、前年の2月にフロリダに遠征していた武藤敬司をリング上で襲撃するという前ふりがあり、それが日本でのマッチ・メイクにつながっていたんだ」と述べています。

 

その後、1987年6月12日、両国国技館でのアントニオ猪木戦の直後に勃発した世代闘争で猪木・坂口らとともにナウリーダー軍を結成し、藤波・長州・前田らのニューリーダー軍と激戦を繰り広げたり、同年10月に猪木と「巌流島の戦い」を行ったり、さらに同年12月にはTPG(たけしプロレス軍団)の刺客としてビッグバン・ベイダーを新日マットに衝撃デビューさせたり、1990年2月10日には、東京ドームでラリー・ズビスコを破ってAWA世界ヘビー級王座を獲得したり、著者の大活躍には目を見張るものがありました。タイトルは2カ月後にアメリカのセントポールにてズビスコに奪還されたものの、47歳での戴冠劇は快挙と称えられました。



「人生はGO FOR BROKE!」として、著者は「少なくとも俺は、猪木さんや馬場さんとは違う生き方をしてきた。日本のプロレス界では異端児だったかもしれないが、偉大な彼らがつくらなかった別の歴史を、俺なりに少しはつくれたんじゃないかな。1人で強大なアメリカという相手に噛みついて、大和魂で生き残る。そいつが俺の人生のスタイルだった。誰からも拘束されず、自分の体1つで勝負してきた。そのことに俺は誇りを持っている。プロレスは戦いのエンターテインメントだ。客を満足させることができなければ、勝っても意味はない。勝ち負けだけの戦いがしたければ、アマチュアの世界にいればいい。俺は自分がヒーローになってはいけない国で、アメリカ市民からの罵声を金に換えて生きてきた。リングに上がったら誰よりも憎まれること。それが6000試合を戦った俺の勲章だった。欲を言えば切りがないけど、プロレス人生に悔いはない。自分なりに、やるだけのことはやったと満足している」と述べます。



ちょうど本書が刊行された1999年2月14日、著者は日本武道館において自らが発掘したスコット・ノートン引退試合を行いました。この引退試合でも巨体のノートンをバックドロップで投げるなど往年のパワーを見せつけました。2003年、 新日本プロレスを離脱し、長州らとWJプロレス旗揚げに参画。しかしながら、WJプロレス時代、記者会見の席に現れた斎藤は体に振戦が見られ、発語にも難がある状態になっていました。それ以降、著者の身体的不調が知られるようになりましたが、WJプロレスはその後1年余りで崩壊することになります。


著者は、2000年よりパーキンソン病の治療を受け、障害者手帳の交付を受けることになります。2005年、著者を慕っている佐々木健介が「ファンにマサさんのことを忘れてもらいたくない」として健介オフィス株式会社化の際、斎藤をアドバイザーとして招聘しました。著者は寮が無かったジャパンプロレスに入門した当時の健介を自宅マンションに居候させ、「身長がない分、横に筋肉をつけろ」とアドバイスするなど、師匠格の存在でした。健介オフィスの記者会見には著者も姿を現しました。



2016年12月2日、大阪市城東区民センターで行われた元新日本プロレス取締役の上井文彦がプロデュースする興行「Strong Style History~Go for Broke!!Forever~」で、著者はじつに4年ぶりにリングに登壇しました。介助なしではリングに上がれないほどでしたが、海賊男(正体は武藤敬司)の強襲に応戦。大いに会場を沸かせました。2017年1月18日付の「日刊スポーツ」の「東京五輪特集」で、栃木県内の病院でリハビリに取り組む著者の姿が記事で紹介されました。記事には、パーキンソン病の症状が末期状態になっていたものの、著者は1時間のトレーニングを1日3回こなし、2020年東京オリンピックの年にカムバックすることに向けてトレーニングを毎日続けていると書かれていました。



2018年7月14日、パーキンソン病のため死去。75歳没。同月21日に通夜、22日に葬儀・告別式が東京・青山の梅窓院で行われました。通夜では、実況席で共にする機会が多かった辻よしなり、告別式では徳光和夫がそれぞれ司会を務めました。米良明久(ザ・グレート・カブキ)と武藤敬司が弔辞を述べ、通夜・告別式には長州力坂口征二天龍源一郎木戸修アニマル浜口、キラー・カン、前田日明蝶野正洋佐々木健介北斗晶夫妻、永田裕志小島聡西村修古舘伊知郎らが参列。戒名は妻の意向によりリングネームと同様に「マサ斎藤」とされました。式後、桐ヶ谷斎場で火葬されました。



こうして、一代の快男児マサ斎藤は仲間たちに見守られながら、堂々と人生を卒業していきました。自叙伝である本書は1999年の時点で終わっていますが、著者の人生はそれから約20年続いたのです。わたしは、古舘伊知郎が「ずんぐりむっくりの美学」と表現した著者の見た目に愛嬌を感じていましたし、大好物のカルピスを原液で飲むというエピソードも、テレビ解説者時代の天然ぶりも好きでした。戒名が「マサ斎藤」だったということを知って、さらに大好きになりました。何より、著者は「本気になったら、誰も、喧嘩では敵わないのではないか」と思わせる凄味を持ったプロレスラーでした。本書には自叙伝にありがちな自慢話は皆無で、代わりに人種差別、セックス、ドラッグ、獄中生活までが赤裸々に書かれています。何よりも、アメリカに住む日系二世の人々への著者の敬意の念が伝わってきて、感銘を受けました。著者のご冥福を心よりお祈りいたします。

 

 

2020年5月12日 一条真也

オンライン会議

一条真也です。
11日の14時からオンライン会議に参加しました。
一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の儀式継創委員会のZoomオンライン会議に担当副会長として参加したのですが、生まれて初めての経験なので、ちょっと戸惑いました。7日にリハーサルは済ませていましたけれども。

f:id:shins2m:20200511173104j:plainこれからオンライン会議です

 

14時になるとモバイルPCの画面に委員のみなさんの顔が続々と写り始めましたが、肝心の浅井委員長がなかなか現れません。ログインするのに手間取られたようですが、それまでの時間、大の大人(それも、社長さんばかり)の顔が画面にずらりと並び、気まずい空気が流れました。そこで、近くにあった一条人形をカメラの方に向けて、場の空気を和ませました。さらには、狐の面、ジェイソン・マスクをかぶって大ボケをかましたところ、そこそこ受けました(微笑)。
こんな時期だからこそ、ユーモアが大切ですね!

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肝心の浅井委員長が現れず・・・・・・

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どうも気まずいなあ・・・・・・

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狐の面をかぶってみました

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ジェイソンに変身してみました

 

そして、ついに浅井委員長が画面に参加してきました。最初は、オートキャンプ場のような場所が背景に写ったのでギョツとしましたが、それはフェイクでした。次に浅井委員長の書斎が写り、会議がスタートしました。冒頭、わたしは副会長として挨拶しました。まず、「新型コロナウイルスの感染拡大で、あらゆる予定が奪われています。私事ですが、昨日はわたしの誕生日でしたが、当然ながら誕生会などは一切開かれず、誰からも祝ってもらえませんでした。1年前の誕生日には、当委員会のみなさまに祝っていただきましたね。あれから、1年。まるで夢のようです」と言いました。すると、みなさんから拍手とともに「おめでとうございます!」の声が相次ぎ、とても感激いたしました。

f:id:shins2m:20200511173056j:plainみなさんから誕生日を祝われました

 

次に、わたしは以下のように述べました。
新型コロナウイルスは、あらゆる儀式を葬っています。卒業式、入学式、入社式もそうですが、その影響は冠婚葬祭にも及んでいます。ほとんどの結婚式は中止あるいは延期され、葬儀においても、新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった方の葬儀が行うことができない状況が続いています。代表的なものでは3月29日、日本を代表するコメディアンであった志村けんさんが70歳で亡くなられましたが、ご遺族がご遺体に一切会えないまま荼毘に付されました」

f:id:shins2m:20200511173117j:plain冒頭に副会長として挨拶しました

 

そして、わたしは「新型コロナウイルスに感染した患者さんは最期に家族にも会えず、亡くなった後も葬儀を開いてもらえないのです。ご遺族は、二重の悲しみを味わうことになります。さらに、肺炎で亡くなった方の中には新型コロナウイルスかと疑われる方もあるので、参列を断ったり、儀式を簡素化するケースも増えてきています。これから、日本人の儀式文化はどうなっていくのでしょうか。わたしは今、このようなケースに合った葬送の「かたち」、そして、グリーフケアの具体的方法を模索しています。ぜひ、今日の会議を実りあるものにしたいと思います」と述べたのでした。

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オンライン会議のようす

 

その後、浅井委員長の「オンライン会議だからこそ、みなさん全員の顔が見えて、意見も聞けるような気がします」との挨拶があり、会議がスタートしました。途中、冠婚葬祭総合研究所の兼松氏、國學院大學の石井副学長も参加され、活発な議論が交わされました。Zoomを使ったのですが、フリーのやつだったので、40分おきにログインし直さねばならず、大変でした。次回は有料のやつでやりたいです。

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便利な時代になりました!


会議は16時15分の制限時間ギリギリまで行われました。次回は6月12日(金)の14時からに決定しましたが、わたしは金沢に出張中です。金沢からでも参加できるので、オンライン会議は便利といえば便利ですね。でも、やはり実物に会うのが一番。新型コロナウイルスの感染拡大が終息して、リアルなみなさんに早くお会いしたいです!


2020年5月11日 一条真也

社会を明るくするマスク

一条真也です。
「アベノマスク」をはじめ、マスクの話題が出ない日はない今日この頃ですが、本日、素晴らしいマスクを入手しました。小倉にある北九州文化開発という会社がありますが、「倶楽部大田」というお店を経営されています。わたしも時々、接待などで使わせていただいていますが、照明も明るく、清潔感にあふれた夜の社交場です。オーナーママの大田ゆう子さんは小倉を代表する名物ママであり、かつ詩人としても活躍されています。その大田ママから「社光マスク」というのが送られてきました。

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社光マスク(表)

 

中央に窪みのある不思議な形状の布マスクとともに紙が1枚添えられていました。そこには、以下のように「社光マスク」の説明が書かれています。
「社光マスクとは、世界を脅かしたコロナウイルスの緊急事態宣言によって、人と人とがあえなくなった日々の毎日を取り戻す為に、作られたマスクです。只今、特許申請中ですが、このマスクは社会に光をという意味で、倶楽部大田のホステスさん達が休業中、マスク作りをする日々に考えられた、名前です。(社会の新たなる光)が早く取り戻せますように、祈っております。倶楽部大田 大田ゆう子」

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社光マスク(裏) 

 

わたしは、この文章を読んで、大変感動しました。「社光」とは「社交」の意味もあるのでしょう。現在、新型コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言で日本全国の”社交業”のお店が休業していますが、ただ不安な思いを抱えながら、先の見えない補助金を待つのではなく、従業員のみなさんがマスク作りに励むとは素晴らしいではないですか。これこそ、前向きに生きる道としての「何事も陽にとらえる」ということではないでしょうか。しかも、「社会に光を」という志を込めて、特許申請までするとは感服しました。北九州にも縁の深い安倍総理、麻生副総理をはじめとして国会議員の先生方にも、このような高い志をもって休業に臨んでいる方々がいることをぜひ知っていただきたいと思い、ブログで紹介させていただきました。

f:id:shins2m:20200511125923j:plain社光マスクをつけてみました

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なんと、口の部分が開きます!

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マスクをしたまま、お茶も飲めます!

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マスクをしたまま、笑顔を見せられます!

 

この「社光マスク」を実際につけてみてビックリ!
なんと口の部分の布が二重になっており、開閉が可能です。
これなら飲み物を飲んだりするとき、いちいちマスクを外す不便さがありません。開いたときに笑顔も見せることもできて、まことにハートフル! まさに社会を明るくするマスクです。ただ、マスクが鼻に当たったときに布だと自然に開けてきてしまいますので、マジックテープを利用するなどすればベターかなと思いました。
じつは、「つけたままで飲食ができるマスク」というのは、わたしも考えたことがあるのですが、実際に作ってしまった大田ママのアイデアと行動力には脱帽です。

f:id:shins2m:20200511130031j:plain大田特製の「おしゃれマスク」

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大田特製の「侍マスク」
 

大田のみなさんは、「社光マスク」以前にも、普通の布マスクを作って、販売されていました。それが日本の高級素材を使っていて素晴らしい完成度でしたので、わたしも購入させていただきました。わが社の役員のみなさんに配ったところ、非常に好評でした。それ以外にも、各種の「おしゃれマスク」を製造・販売されています。
そういえば、ブログ「手取紫雲閣竣工式」で紹介した侍マスクも大田の特製品です。ブログに侍マスク姿の写真を掲載したところ、「素敵なマスクですね」といったコメントの他、「どこで買えますか?」などの問い合わせがありました。

f:id:shins2m:20200417153026j:plain近刊『心ゆたかな社会』(現代書林) 

 

この「社光マスク」、何よりも「社会の新たなる光」というコンセプトが素晴らしいですね。これは、100冊目の「一条本」となるわが近刊『心ゆたかな社会』(現代書林)におけるメッセージに通じます。同書では、ポスト・パンデミック時代の社会ビジョンについて書きました。新型コロナが終息すれば、人は人との温もりを求め合います。ホスピタリティ、マインドフルネス、セレモニー、グリーフケアなどのキーワードを駆使して、来るべき「心の社会」を予見し、さらには「心ゆたかな社会」のビジョンを描き出しました。「社光」ならぬ「社交」についても大きくページを割いております。もうすぐ100冊になる「一条本」をいつも愛読して下さる大田ママには、素晴らしい「社光マスク」のお礼として、『心ゆたかな社会』をお送りしたいと思います。


2020年5月11日 一条真也

お客様から尊敬される(稲盛和夫)

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一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、現代日本を代表する経営者である稲盛和夫氏の言葉です。稲盛氏が松下幸之助翁から強い影響を受けておられることは広く知られています。松下翁の「ダム式経営」に稲盛氏が感銘した逸話から分かるとおり、松下哲学の本質を鋭敏に感じ取り、血肉化していった稲盛氏の情熱を凌駕する経営者は存在しないのではないでしょうか。

 

松下幸之助と稲盛和夫―経営の神様の原点

松下幸之助と稲盛和夫―経営の神様の原点

 

「お客様から尊敬される」とは、一見平凡な言葉です。しかし、この言葉にこそ、稲盛氏が松下幸之助の真の継承者であることの所以があると思えます。松下幸之助は「昭和の経営の神様」と呼ばれましたが、稲盛氏は「平成の経営の神様」と呼ばれています。

 

 

商いの極意は、お客様から信用されることが基本であり、「儲ける」という漢字は「信じる者」と読めることから、商いを信じていただける人が増えることによって、利益が上がるということは古から言われていますが、稲盛氏は著書『敬天愛人』(PHP研究所)において、「もちろん、信用は商いの基本であり、お客様に信用されるだけの実績を積み上げていくことがビジネスではまず求められる。だが、信用の上に、さらに『徳』が求められるのではないだろうか」と述べています。


製品やサービスの品質向上、徹底した低価格での商品提供、製品納期の厳守など、数値化できる要素で信用を得ることは可能だが、このレベルでは自社と他社との決定的な差異は生まれないと稲盛氏は喝破し、次のように述べます。
「尊敬にまで達する、お客様との絶対的な関係を築くこと、それこそが真の商いではないだろうか。それには尊敬に値する高い人間性を経営者や社員が備えなければならない。企業とは、経営者をはじめとする社員を映し出す鏡である。だからこそ、特に経営者は自分自身を高めるための努力を続けていかなければならない」



稲盛氏が「フィロソフィ」を掲げ、全員参加経営を実践している背景には「人として何が正しいか」という判断基準が経営に反映していなければ、「徳」のある企業風土は形成されないという強い信念があるからなのです。いま、企業は単に業績がよいというだけでは通用しない時代になってきました。激動する超大国・中国の惨状を見るまでもなく、これからは、こころ豊かな人間性こそが一番大きな経営資源となっていくことでしょう。わたしたちサンレーグループは、稲盛氏が説く「お客様から尊敬される」企業を目指しています。これからも、社業である冠婚葬祭のお手伝いを通じて、「人間尊重」という大ミッションを遂行し続けます。

 

ミッショナリー・カンパニー

ミッショナリー・カンパニー

 

 

2020年5月11日 一条真也

谷に響く鐘の音 

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松の生えている谷に、鐘の音が響き渡る。
桂の生えている峰に、太陽も月も輝く。
朝の雲が目の前に広がり、夕方の霞が頭上に広がる。
竹林を吹き抜ける風は、まるで秋風のようで、
滝の水の流れる音は、まるで雨音のようだ。

(『笠左衛佐造大日禎像願文』)

 

一条真也です。
空海は、日本宗教史上最大の超天才です。
「お大師さま」あるいは「お大師さん」として親しまれ、多くの人々の信仰の対象ともなっています。「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」の異名が示すように、空海は宗教家や能書家にとどまらず、教育・医学・薬学・鉱業・土木・建築・天文学・地質学の知識から書や詩などの文芸に至るまで、実に多才な人物でした。このことも、数多くの伝説を残した一因でしょう。

 
超訳空海の言葉

超訳空海の言葉

 

 

「一言で言いえないくらい非常に豊かな才能を持っており、才能の現れ方が非常に多面的。10人分の一生をまとめて生きた人のような天才である」
これは、ノーベル物理学賞を日本人として初めて受賞した湯川秀樹博士の言葉ですが、空海のマルチ人間ぶりを実に見事に表現しています。わたしは『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)を監訳しました。現代人の心にも響く珠玉の言葉を超訳で紹介します。

 

2020年5月11日 一条真也

母の日 

一条真也です。
5月の第2日曜日は「母の日」です。5月は、わたしにとって特別な月です。5日の「子どもの日」、10日の自分の「誕生日」、そして「母の日」があるからです。幼いときから、いつもこの3つの「日」は3点セットでした。最近は、この3つの本質は同じだと気づきました。それは、自分を産んでくれた母親に感謝する日だということです。今年は、ずいぶん久しぶりに「誕生日」と「母の日」が一致しました。

f:id:shins2m:20200509185301j:plain今年は「誕生日」と「母の日」が一致!

f:id:shins2m:20200510123140j:plain「母の日」に贈ったフラワー・アレンジメント 

 

ヒトの赤ちゃんというのは自然界で最も弱い存在です。すべてを母親がケアしてあげなければ死んでしまう。2年間もの世話を必要とするほどの生命力の弱い生き物は他に見当たりません。わたしは、ずっと不思議に思っていました。「なぜ、こんな弱い生命種が滅亡せずに、残ってきたのだろうか?」と。あるとき、その謎が解けました。それは、ヒトの母親が子どもを死なせないように必死になって育ててきたからです。出産のとき、ほとんどの母親は「自分の命と引きかえにしてでも、この子を無事に産んでやりたい」と思うもの。実際、母親の命と引きかえに多くの新しい命が生まれました。また、産後の肥立ちが悪くて命を落とした母親も数えきれません。まさに、母親とは命がけで自分を産み、無条件の愛で育ててくれた人です。心からの感謝の気持ちとともに、母に花を贈りました。

f:id:shins2m:20200510124719j:plain玄関に飾ったフラワー・アレンジメント

 

 「母の日」のフラワー・アレンジメントを妻と一緒に実家に持っていくと、母はとても嬉しそうにしていました。ちょうど父もいて、わたしに誕生日祝いをプレゼントしてくれました。マスク姿で4人で語り合いましたが、久々に家族に囲まれて深い安心感に包まれました。家族といえば、わたしには2人の娘もいます。わたしの妻は、2人の娘の母親でもあるのです。今年も、東京にいる長女と次女から妻へ「母の日」のフラワー・アレンジメントと花束が届くはずでしたが、今年は新型コロナウイルスの感染拡大でいつもの白金のお花屋さんが休業中で届きませんでした。東京の大学に通っている次女ですが、授業もオンラインとなって、なかなか大変みたいです。お姉ちゃんの力を借りながら。なんとか頑張っているようです。東京で感染拡大が進行しているとき、わたしたち夫婦は毎日、感染者数をチェックして2人の娘を心配していました。

 

決定版 年中行事入門

決定版 年中行事入門

  • 作者:一条 真也
  • 発売日: 2018/06/20
  • メディア: 新書
 

 

一昨年上梓した『決定版 年中行事入門』(PHP研究所)および『人生の四季を愛でる』(毎日新聞出版)でも、わたしは「母の日」を取り上げました。もともと「母の日」とは、1905年の5月9日に亡くなったアメリカの社会運動家アン・ジャービスの功績をたたえたものです。アンは、南北戦争のときにあらゆる人々に愛情をささげた女性です。アンの娘、アンナが母の追悼式に白いカーネーションを参加者に配ったことが母の日の始まりといわれています。

 

 

日本で母の日が普及したのは、キリスト教系の学校・青山学院の働きかけがきっかけでした。「母の日」の導入当初は、当時の香淳皇后の誕生月の3月に催されていましたが、昭和10年頃から5月に行われるようになりました。
昭和10年といえば、わたしの父が生まれた年ですね。
「父の日」は6月の第3日曜日で、今年は21日です。

 

2020年5月10日 一条真也

57回目の誕生日  

一条真也です。
5月10日は「母の日」ですが、わたしの57回目の誕生日でもあります。昨年の誕生日は東京にいました。その夜は業界の仲間たちが盛大にお祝いをしてくれましたが、今年は緊急事態宣言下ですので、自宅で地味に過ごします。

f:id:shins2m:20200502203724j:plain57回目の誕生日を迎えました

 

それにしても、57歳。57歳といえば、ベートーヴェンハンフリー・ボガード北原白秋大松博文といった人々が亡くなった年齢です。書斎にかけてある「庸軒ごよみ2020」の今月の道歌は、「思いやり形にせんと励みつつ さらに進むはわれらが社(やしろ)」ですが、冠婚葬祭業であるわが社も、新型コロナウイルスの感染拡大で厳しい状況にあります。結婚式はほとんどが延期され、葬儀も簡素化されつつあります。でも、「天下布礼」の志をもって、この時代を生き抜いていきます!

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この時代を生き抜きます!(マスクは小倉織)

 

新型コロナのかおかげで、わたしのように、仲間たちから誕生日を祝ってもらえなかった人も多いと思います。誕生日を祝うということは、「あなたがこの世に生まれたことは正しいですよ」と、その人の存在を全面的に肯定すること。人間関係を良くするうえで、これほど大切なことはありません。「人間尊重」をミッションとするわが社では、毎月の社内報に全社員の誕生日情報を掲載(年齢は秘密)し、「おめでとう」の声をかけ合うように呼びかけています。誕生日当日には、社員のみなさんにバースデーカードを添えて、ささやかなプレゼントをお渡しします。今年は、「月の織姫」こと染織家の築城則子先生による小倉織のハンカチセットをお贈りしました。


57回目の『論語』の通読も行いました

ふ 

わたしは、ハートフル・ソサエティとは、「おめでとう」と「ありがとう」が行き交う社会であると考えています。ですから、「誕生日おめでとうございます」と言われたら、素直に「ありがとうございます」と答えたいです。前夜、57回目の『論語』の通読も無事に終えることができました。わたしは、『論語』とは船のような存在であると思っています。人生の荒波を超えて無事に航海していける船だと思うのです。孔子が説いた「志学」や「而立」や「不惑」や「知命」や「耳順」や「従心」といったものは、人生の港ではないでしょうか。『論語』という船に乗れば、安全に次の港に辿りつけるような気がしてなりません。「知命」港を出てから早、7年。3年後には「耳順」港を目指します。一昨年、わたしは、上智大学グリーフケア研究所の客員教授、および、一般社団法人全日本冠婚葬祭互助協会の副会長に就任いたしました。それにより、ますます忙しくなりましたが、わたしに与えられた天命を果たすべく頑張ります。

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一条本」の99冊目と100冊目

 

作家活動のほうですが、最新作『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)が、5月26日に全国の書店およびネット書店で販売されます。小説や映画に登場する言葉も含め、古今東西の聖人、哲人、賢人、偉人、英雄たちの言葉、さらにはネイティブ・アメリカンたちによって語り継がれてきた言葉まで、100の「死を乗り越える」名言を紹介しています。次は、いよいよ100冊目の「一条本」となる『心ゆたかな社会』(現代書林)を6月11日にお届けいたします。同書では、ポスト・パンデミック時代の社会ビジョンについて書きました。新型コロナが終息すれば、人は人との温もりを求め合います。ホスピタリティ、マインドフルネス、セレモニー、グリーフケアなどのキーワードを駆使して、来るべき「心の社会」を予見し、さらには「心ゆたかな社会」のビジョンを描き出しました。『死を乗り越える名言ガイド』、『心ゆたかな社会』ともに、ご一読下さいますよう、どうぞよろしくお願いいたします。

 

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これからも、よろしくお願いします!

 

 

2020年5月10日 一条真也